『約束』
○第4話○ 偽り無き真実(後編) 何が起こったのか理解できないまま、ただただ感じる強い圧力に美久は目を瞑ってひたすら堪える。 レイに力強く抱きしめられ、それにしがみつく事が精一杯で息をするのもままならない。 けれどその圧力も長く続くものではなく、ある一定の所までくると急激に弱まり、身体に受ける圧迫感も比例して小さくなる。 同時にガチガチに緊張していた身体からほんの少し力が抜けて、固く閉じた目をゆっくりと開けることができた。 「・・・・・・っ!!」 しかし、目を開けた瞬間、美久はハッと息を呑んだ。 眼前に広がるのは・・・空、空、空。 そして見下ろした先にある・・・・・・自分の通う学校・・・・・・ 「なかなかいい眺めだろう?」 そう言って耳元で囁くレイに目を向けるのは、何故だかとてもこわかった。 何かが変わってしまうような気がして、どうしても彼に目を向けることが出来ない。 「それとも・・・それどころじゃない?」 抱きしめている腕は、何ひとつ変わらないのに・・・ けれど、美久は見てしまった。 あれは何だった? レイの背中から突き破るように出てきた、あれは・・・? ・・・・・・レイの背中には今もあれがついてる。 まるでそれを主張するみたいに一振り毎にうねりをあげる、轟音。 考えるほどに彼に視線を向けるのがこわくて、打ち鳴らす心臓の音が激しくなっていく。 「目を背けるほどオレを見たくない?」 哀しそうな声色に責められ、身を強張らせる。 知りたいと言ったのは自分だ。 それなのに、どうしていいかわからない。 「・・・・・・っ」 美久は唇をふるわせ、恐る恐る彼の方へと顔を向ける。 視線がぶつかった。 「・・・・・・っ、・・・あ、ぁ・・・っ・・・」 それは想像を遙かに超えた現実だった。 黒い、真っ黒い、巨大な翼が力強く脈打っている。 彼の後ろで大きな呻きを上げて羽ばたくそれは、恐ろしいまでの迫力と威圧を与え、気を失いそうになる。 「これでも美久は、まだオレを愛せる?」 「・・・っ・・・・・・」 声を失ってしまったみたいに言葉が出てこない。 完全に思考も停止してしまった。 「・・・・・・美久・・・」 そして、そんな美久を見つめていたレイは静かに瞳を揺らめかせた。 目の前の彼女は、明らかに恐怖で身を固くしていて、それが人外の化け物に怯えているようにしか見えない。 レイは静かに目を閉じる。 自身ですら嫌悪して止まない巨大で凶悪な黒い翼は、羽ばたく度にまるで悲鳴のように絶叫のように強風を巻き起こし続ける。 あぁ、どうしてこうなった。 気持ちが芽生えたばかりの美久には早すぎたのか。 それとも貴人の望み通り、こうなる事は決まっていたのか。 こんな想いをするなら、何も行動を起こさず、真実など隠し通せば良かったのだ。 それならばオレ達は・・・・・・・・・ ・・・・・・・いや。 ・・・・・違う、・・・・・・そうじゃない・・・そんな都合のいい話がどこにある。 隠し通すなど、どうしたら出来るというのか。 この先・・・大人の女へと成長していく美久は、全く変わる事のないオレに気づくはずだ。 そして何年経っても変化のないオレに、益々不審を抱くだろう。 いつか来る日が今日だった、そういう事じゃないのか? 「・・・・・・ッ、・・・・・・」 誰がオレを認める。 誰がオレを理解する。 こんなわかりきった事に、儚い期待を寄せて・・・自分勝手な夢を見ていただけだろう。 レイは暫くの間、遙か遠くにある何かに思いを馳せるように空を見上げていた。 しかし、それも束の間の事で、やがてゆっくりと小さく息を漏らし、震え続ける美久を静かに見つめる。 その眼差しは哀しそうに揺らめいていたが、どことなく柔らかく微笑んでいるようにも見えるのが不思議だった。 「・・・・出会った頃の話をしようか」 「・・・・・・っ」 何も答えられない美久を見て、それでもレイは微笑み、何もかも理解した上で静かに頷き、言葉を続けた。 「あの時のオレは故郷を出たばかりで、当てもなく彷徨っていたんだ・・・・」 「・・・・・・」 「気づくと、オレはある小さな人里の前に立っていた。そこは黒髪に黒い瞳の人間ばかりがいる土地だったけど、彼らに紛れるにはあまりに違和感のある外見のオレを、年若い里の長は全く気にする素振りもなく傍に置くと言いだしたのが事の始まりだった」 「・・・・・・」 「最初、オレはそれを不審な存在を見極める為と考えた。だから、正体を晒して恐怖に怯える男の様子を愉んでから夜のうちに里を出ようと思っていたのに、男は正体を知っても全く動じず、それどころかただ笑って受け流すだけ。全く風変わりな男だった。・・・結局、その日は男の屋敷に泊まり、翌朝になって妹を紹介された。まさかオレが人に・・・人の女に惹かれる事になるとは予想外だった。・・・だけどソレはオレにとって初めて知る感情だったから自分がどうしたのか中々理解出来なくて。・・・それでも、これが恋情だと気づき始めた頃、まるで不幸を呼び込むかのように彼女の大切なものが次々と壊れ始めていったんだ。そんなつもりはなくても、オレ自身を取り巻く環境さえも足枷となって・・・・・気づいたら、オレは彼女を連れて里から逃げ出していた。・・・・・・だけど、あの時のオレは何も分かっていなかった。・・・好きなだけでは一緒に生きられないという事さえ知らなかったんだ。二人の違いなんて些細なものだと、・・・だから、無茶をしてでも彼女を傍に置こうなんて傲慢な考えを持ち続けていたんだ」 レイは遠い昔を思い返して静かに目を閉じる。 ───あぁ、だけど。 あれは一方的なものではなかった。 確かにオレは愛されていた。 真実を知りながら、あの少女はオレを愛していた。 あの日々は何だったんだろう・・・ たった一度だけ夢見る事が出来た、奇跡と呼ぶべきものだったのだろうか。 「けれど彼女はオレに約束したんだ。・・・この先、もしも生まれ変わる事が赦されるなら、その先で出会うことが赦されるなら、それはもう神様に赦されたことだから。・・・だから、今度こそ幸せになろうと」 腕の中で静かに息絶え、肉体から魂がこぼれ落ちて逝くのを感じながら発狂する寸前で踏みとどまったのは、絶望するにはその言葉があまりに輝いて見えたからだ。 たとえ儚い望みでも今日まで生を繋いできたのは、レイにとってはあの言葉が、いつかまた出会える事を誓った約束だったからだ。 ・・・だが、現実はそうではなかった。 人は変わってしまう。 美久だけは違うと、幻想を抱いていたけれど。 現に、美久がレイに向ける眼差しは、残酷な現実しか映し出さなかった。 美久には、オレが何に見える? "レイはレイでしょう?"と言った言葉は何だった・・・? レイは腕の中の温もりを感じながら、遠く広がる空を見上げた。 「・・・・・・・・遠い昔話だよ。・・・・・・地上に、戻ろうか」 ───もう、二人で幸せにはなれない。 知っていたはずだ。 信じて失う事がどれほど苦しいことか。 ・・・・・・オレはちゃんと知っていたはずだ。 ▽ ▽ ▽ ▽ いつのまにか強い雨が降りしきり、雨粒がまるでスコールのように地面を叩き付けていた。 夏だというのに凍えそうなほど冷たい雨が美久の全身を濡らし続けている。 既にレイの姿はどこにもなかった。 レイがあの上空から彼女の家の前に舞い降り、何も言わずに去ってからどれほどの時間が経過したのか、もう美久には分からなかった。 傘もささず、ぼんやりと空を見上げ、彼に降ろされたその場所でただ佇んでいるだけで一歩も動くことが出来ない。 私は・・・・・・ 何という目で彼を見てしまったんだろう・・・ 自分の目が恐怖に染まっていたと知ったのは、あろう事か彼と最後に目があったときだった。 あれ程傷ついた顔を私は見たことがない。 脳裏から離れない。 「美久!? そんなところで何やってるんだ?」 「・・・・・・、・・・・・・お父さん」 貴人の顔を見て、僅かに身じろぎをする。 身体は冷え切っていて、もう何の感覚も無かった。 「どうしたんだ!?」 「・・・・・・」 首を振って俯く。 こんなこと、言えない。 罪悪感が膨れあがって言葉もでない。 「・・・・・・・、・・・・・・レイは・・・・・・あの事を言ったのか」 貴人の言葉に目を見開き顔をあげる。 どういう・・・こと? 「・・・・・・仕方ないんだ、・・・彼を受け入れるには壁が高すぎる・・・」 「・・・っっ!?」 お父さん・・・知ってる・・・? 「・・・・・・美久は平凡に生きていけばいいんだよ、それが一番の幸せなんだ。・・・忘れなさい、その方がきっと幸せだよ・・・・・」 「・・・っ」 それは聞いたことがある言葉だった。 忘れなさい、その方が幸せだよ、幼い頃の断片的に憶えている貴人の言葉。 けれど今はそれさえも霞んでしまうほど、レイの悲しみ酷く傷ついた顔が脳裏に浮かんで消えない。 「・・・お父さんっ、私、レイが好きなのに。・・・なのに、恐いと思ったの、それを顔に出してしまった。昨日の夜からレイが変だったの知ってたのにっ、あんな傷ついた顔をさせちゃった・・・っ!」 「美久」 「知りたいって言ったのは私なんだよ・・・っ」 「美久、美久、落ち着いて」 「大事な約束もなにひとつ憶えてなくて・・・っ!! 全部昔の事だからって置いて来ちゃったのかなぁ・・・ッ、なんで忘れて来ちゃったんだろう・・・ッ!」 「落ち着いて美久!」 肩を掴み、混乱して泣きじゃくる美久を大きく揺さぶった。 美久の眼からは、ぼろぼろと止め処なく溢れてはこぼれ落ちる涙が降り注ぐ雨と同化して、悲痛な嗚咽も雨音に飲み込まれてしまいそうだった。 「・・・・・・美久は悪くないんだよ、仕方のないことなんだ」 言い聞かせるように強く抱きしめる。 だが何を言われようと、美久はとても自分を赦せそうになかった。 「・・・・・・ぜんぶ私が悪いんだよ、・・・レイが行っちゃった・・・・・・・私が彼を傷つけたんだ・・・・・・・」 「違う、美久は悪くない」 声を掛けるも、美久には全く届いていないみたいだった。 きっと、彼の真実を知り、恐怖を抱いただけではなかったのだろう。 「・・・・・・・・・・・・レイ・・・・・・レイ・・・・・・・・・ィ・・・・・ッ・・・・」 貴人は美久の様子に眉を顰めた。 罪悪感を感じるのは自分も同じだった。 しかし、そういう風に仕向けたのは彼自身だ。 こんな結末を、貴人は望んでいたのだ。 だったら望みが叶って満足だろう。 何故後味の悪さに落ち込む必要がある? それとも美久が受け入れ、僕の手の中から去っていく方が幸せだったとでも言うのか? 「・・・・・・・・・っ」 これはたぶん、一時の感情だ・・・ だけど、レイの傷つき絶望する痛ましい姿はあまりに簡単に想像できて、それが心の片隅で後悔にも似た想いを燻らせる。 今さらそんな気持ちを抱く自分はどこまでも愚かだと思うのに・・・・・・。 第5話へつづく Copyright 2006 桜井さくや. All rights reserved. Never reproduce or republicate without written permission. |