『約束』

○第5話○ 銀髪の男(その2)







 夏には珍しい冷たい雨で、美久の身体は氷のように冷えきっていた。
 何時間外に立っていたのかは知らないが、体温を感じさせない青ざめた唇も冷え切った身体も危険を感じさせるには充分で、なにより興奮して泣きじゃくる彼女を少しでも落ち着かせることが先決だった。
 貴人はそんな状態の美久を何とか風呂に入るところまで促すと、漸く一息吐いてリビングのソファに腰掛け、疲れたように瞼を閉じた。


「・・・・・・はぁ・・・」

 無意識のうちに溜息ばかりが出てくる。
 娘をあんな風にしたのが、元を正せば自分自身の行動に因るものだと思うと・・・
 ソファに深く凭れ、目頭を押さえる。
 認めたくはないが、後悔にも似た気持ちに苛まれているのは事実だ。

 僕は本当に正しいことをしたのか・・・?
 正しいと言えるなら、どうしてこれほど後味が悪いんだろう。
 ・・・今ごろレイは・・・、彼はどうしているだろう。

 レイが何よりも美久を必要としていると言うことは知っていた。
 誰より愛してくれるだろうという事も。
 しかし、彼の側にいることで、美久の身が危険に晒されるのが何よりも恐ろしいのだ。
 大事だからこそ、そんな危険に関わる事無く、平穏無事に生きてくれることだけを望んだ。
 貴人はもう一度溜息を吐きだし、天井を見上げて暫しの間考えを巡らせていたが、丁度その時鳴ったインターフォンの音で思考は中断された。

 ───ピンポーン
 もう一度、インターフォンが鳴る。
 時計を見ると午後8時をまわったばかりだった。
 そう言えばあれ程降っていた雨も嘘のように止んで、今は異常な程の静けさに包まれている。
 貴人はソファから立ち上がると、リビングに設置してあるインターフォンの親機を取りあげた。


「はい・・・」

『レイの事で、話しがある』

「・・・っ!?」

 それは低い男の声だった。
 静かなのに有無を言わせないような、そんな声だ。
 しかも、どういうわけかモニターにはなにも映っていない・・・貴人はゾクリと身を震わせ、ザワザワと鳥肌が立つのを感じた。
 受話器を通した声ではどんな相手なのか判断することは出来ない。
 だが、レイを知っているということは・・・彼と何らかの関係を持つ者なのだろう。
 そもそも貴人はレイ以外の存在を深くは知らない。

 『彼ら』がどんな考えの元で僕たちを見ているのかすら・・・


「・・・・・・」

 沈黙して考え込む貴人は顔を強ばらせ迷っていた。
 しかし、出なければそれで済むという問題でもないのだろう。
 貴人は顔を強張らせながら玄関に向かい、ゆっくりと鍵を外した。
 そして男が何者かを見定めるため、恐る恐るドアを開く。


「・・・・・・・・・っ!!! お前はっ!!!」

 瞬間、貴人の目が驚愕で見開かれた。
 絶叫にも似た声をあげ、身震いするほどの嫌悪感に猛烈な吐き気を催す。


「入らせてもらおう」

 言うなり、男はすっと身体を家の中へ滑り込ませた。


「それ以上この家に入るな!!」

 この男・・・知ってる、僕はこの男を知っている。
 まさか、そんな・・・っ


「・・・ささやかな結界など、有っても無くても同じようなものだな」

 長身の銀髪。
 輝くようなエメラルドの瞳で皮肉に笑うこの男には憶えがあった。
 貴人は恐怖で頬をひきつらせる。


「恐いのか? ならば邪魔をするのはやめておけ」

「・・・っっ、待てっ!!」

 男は平然と家に上がる。
 貴人は男が向かおうとしているその先に気づくと恐怖も吹き飛び、それを阻止しようと男の腕を掴んだ。


「そっちへ行くんじゃないっ!」

 男は掴まれた腕を流し見て、片眉を吊り上げて不快感を顕わにし、ピタリと動きを止めた。


「汚らわしい手で私に触れるな・・・」

 呻くように低く言い放ち、男は流れるような動作で腕を振り上げる。
 その滑らかな動きとは裏腹に、男の力は想像以上の強さをもって貴人の身体を宙に放り投げた。


「っ、・・・っうあぁっ!」

 全身を壁に叩き付けられ、突然の衝撃に何が起きたのか理解出来ないまま彼は床に落下し、二重に身体中を叩き付けられる。
 身体が痺れてしまったのか、それとも痛みでおかしくなってしまったのか・・・自分の意志とは無関係に倒れ込んだ貴人の身体は断続的に痙攣をしていた。


「・・・ぐっ、・・・げほっ、げほっ」

 男は激しく咽せる貴人を一瞥すると、既に興味を失ったのか、彼の横を通り抜けて廊下の奥へと進んでいく。

 ───だめだ、そっちへ行かせるわけには・・・


「・・・っげほっ、み・・・くっ、みく・・・みく、っ美久っ!! 逃げろーーーっ!!!!!」


 貴人の絶叫が家中に響き渡った。

 しかし、その声が美久に届くことは無くかった。
 彼女はシャワーを出しっぱなしであることにも気づけないほど、不安定な精神状態の中をひたすら徨い続けていたのだ。
 どれだけ責めても足りない程に自身を責めたて、流れ出る涙は呵責に苛まれて止まらない。
 思い出すのは最後に見た酷く傷ついたレイの顔・・・彼の哀しみと諦めに満ちた瞳だった。


「・・・う、ぅ・・・っ、っ」

 どこか心に傷を負ったような彼が気になっていた。
 そんな彼の傷を少しでも癒してあげたいだなんて・・・レイの気持ちをズタズタに踏みにじっておいて。

 私はどんな顔をした?
 どんな目をして彼を見た?

 思い出すだけで自分の取った行動に背筋が凍る。


「・・・・・・最低だ・・・ッ」

 バチャン、バスタブに張られたお湯に拳を叩き付けて憤ったところで、彼に対する裏切りが許されるわけでもない。
 それでも苦しいばかりの激しい後悔と自責の念が、無意味としか思えない行為を延々と繰り返させる。


「うっ、・・・っ、低っ、・・・さい・・・ていっ、最低っ!!」

 口では何とでも言い訳できる。
 人ではなかった、自分とは違った、何もかもが想像を超えていた。

 だけど私がそれを理由にするのは絶対に赦されない。
 彼が何をしたの、どうして怖がるの、身体が震えるほどの事を彼はしたというの?

『美久は、まだオレを愛せる?』

 何故答えなかったの、何を戸惑っていたの。
 彼を知りたいと言ったのは自分自身だったのに。

 美久は何度も湯に両手を叩き付けて自分を責め続けた。


「・・・・・・あぁ、美久。こんな所にいたのか」

 背後に音もなく長身の影が立っていた。
 気配も足音も、そして風呂の戸が開いた音もしなかった。
 だが低い声が彼女の後ろで響いても、美久は何の反応も示さない。
 後ろから手が伸びて美久の両腕が掴まれ、肢体ごと持ち上げられても、無意識にそれを厭がって身を捩るだけだった。
 その手は己の腕の中へといとも簡単に彼女をおさめると、耳元に唇を寄せてゆっくりと囁きかける。


「泣いていたのか?」

 美久は訳も分からず、聞き覚えのない声の主を見上げる。
 女性のように繊細な面立ちに美しく映えるエメラルドの瞳・・・見たこともない顔だった。

 ───だ・・・れ?

 バラバラになった意識が少しだけ元に戻り、僅かに首を傾げて反応すると、その人物は小さく笑った。


「私のところへおいで。可愛がってあげるよ」

 濡れた身体を気にすることもなく、彼は美久を抱きしめる。
 自分の置かれた状況を何一つ理解できず、抵抗を見せない美久に男は笑みを浮かべた。


「可愛いものだ、そのまま従順でいるといい」

 なんだろう・・・このひとは・・・・・・

 自分を抱きしめるこの人物に対して僅かな疑問を持つが、深く考える事が出来ない。
 頭の中はレイへの想いで占められて、それ以外を受け入れる余地もなくなっていた。


「・・・っ、美久っ!!!」

 遠くから声が聞こえる。
 男の腕の中で美久が僅かに反応し身じろぎをした。

 ・・・・・・お父さん・・・

 思うと同時に美久を抱き上げた男は立ち上がった。
 風呂を出て脱衣所を抜け、廊下に出たところで、美久はぼんやりしながら廊下で倒れている男を目にする。
 その男は苦しそうに呻いていたが、近づく気配を感じ取ったのか肩をビクリと強張らせ、荒い息を吐き出しながら上体を起こして此方を見上げる。


「・・・・・・おとー・・・・・・さん」

 それは紛れもない貴人だった。
 何故彼が倒れているのか、苦しそうなのか。


「・・・・・・っ、・・・美久・・・っ、を・・・置いていけ・・・っ!」

「おまえも馬鹿な男だ。もしこの場にレイが居たならば私が近寄る事はなかった。・・・レイを追い込んだおまえが悪い」

 レイ・・・という名前に美久がビク、と反応する。
 男はその反応を楽しそうに笑った。


「・・・ま・・・待てっ!」

「善人のような顔をして、なかなか酷な事をするものだ」

「お前・・・っ、レイに・・・会ったのか・・・っ!?」

 美久の瞳に光が戻り始める。
 レイ、レイと彼の名前ばかりが飛び交って・・・


「・・・・・・レイ?」

 クッと男が笑う。

「美久。レイはどうなったと思う?」

「・・・え」

「私に"殺してくれ"と懇願したのだ。もう生きていたくなかったんだろう」

 美久と貴人の目が見開かれる。
 男はその反応に目を細めて、美久に向けて微笑みを浮かべ、頬にやわらかくキスを落として貴人の横を通り過ぎていく。


「・・・・・・み・・・く・・・・・・っ・・・!!」

 貴人は懸命に男に手を伸ばしたが、その手は虚しく空を掴んだだけで足音はどんどん遠ざかっていく。


「あなた・・・だれ・・・」

「クラウザー」

「・・・・・・レイは・・・・・・どうしたの」

「望み通り、死んだかもしれない」

 そんな会話が聞こえたのを最後に、二人の気配は完全に途絶えてしまったのだった。

 

「・・・・・・はぁ、はぁ、・・・美久、・・・美、・・・久・・・・・・」


 待って・・・くれよ・・・・・・っ、美久をどこへ・・・・・・っ
 レイを・・・どうしたって・・・?

 なんだこの現実は。

 一体、・・・なんなんだ・・・・・・っ









その3へつづく


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