○第7話○ 捕獲命令(その1)
奥田家の朝が平穏を取り戻して2週間が経とうとしていた。
怒濤のように押し寄せた出来事を頭の中で消化するにはそれなりに時間がかかるとしても、こうして平穏無事な今があるならそれでいいと、美久も貴人もひっそりと胸の中にしまうつもりでいる。
レイが穏やかに笑っている事が彼らには何よりも嬉しかったのだ。
「美久、これから少し出かけるけど・・・一緒に行く?」
「・・・ッ! 行く!」
美久はパッと顔を輝かせ、大きく頷いた。
それを見てソファから立ち上がったレイには、この2週間で少し学習した事がある。
何も言わずにふらりと出かけるのではなく、一言声を掛けるだけで彼女を安心させられるということ。
そのうえ出かけるときに彼女を誘うと、満面の笑みを返してくれるということ。
たったこれだけの事すらレイにとっては驚くべき発見だった。
こんな簡単なことで笑顔を見せてくれるとは思いもよらず、誰かと向き合うとはこういう事なのだろうか、と胸の奥がくすぐったくなる。
「どこに行くの?」
家を出て並んで歩いていると、彼女は嬉しそうにレイの腕にしがみつく。
「・・・・・・美久って携帯持ってなかったよね?」
「え? うん」
「周りはみんな持ってるんじゃない?」
「そうだね」
「どうして今まで持たなかったの?」
「・・・う〜ん・・・電話を持ち歩いてまで重要な連絡って・・・・・・第一お金かかるでしょ?」
美久の答えにレイは苦笑する。
確かに持っていればその分金がかかるのは当たり前のことだ。
それに持ち歩いてまで連絡を取り合うほどの重要性があるのかと問われても、実際彼にもよく分からない事ではあった。
「なに? 携帯がどうかしたの?」
「・・・あぁ、いや、なんでも。まず一つそこの店で用を済ませて、それからマンションに寄るつもり。あまり大した用じゃないけど」
そう言われて、美久はレイが住んでいたあのマンションを思い出した。
たった一度だけ訪れたあの場所は自分にはあまりに場違いで、とても落ち着かなかった。
それに、あの時はレイの事をよく知らなかったからビクビクするばかりで、とても今の自分たちの姿など想像出来なかった。
ほんの少し前までの自分達に想いを馳せていると、レイは『ココ、入るよ』と言って、目の前の店へと足を踏み入れる。
「えっ、携帯ショップ?」
「ここで待ってて」
レイは店の中に入ったところで美久を待たせると、カウンターの店員に声をかけて行ってしまった。
そう言えばさっき携帯の話をしてたけど、買いに来る為だったのか・・・と納得する。
言ってくれれば良かったのに。
全然興味ないような言い方をしてしまった・・・
美久はレイの後ろ姿を見ながら、小さく笑う。
誘ってくれたのは彼なりに気を遣っての事なのだろう。
レイが自分にあわせてくれてるというのは最近の彼の様子を見ればわかることだった。
酷い怪我で死にかけた彼を見てからは必要以上に不安になってしまって、少し姿が見えないだけでも探してしまうのは神経過敏だと分かっている。
なのに、不安を感じるとどうしても止まらなくなってしまう。
近くに置いてある携帯のサンプルを手に取りながら、契約を交わしているレイの姿を改めてじっと見つめる。
周囲を見れば皆、レイの姿をチラチラと見て彼の事をしきりにウワサしている。
そこにいるというだけなのに、何という存在感だろう。
だが、彼が人ではないと誰が気づくだろう。
目に映る姿は普通の人間と何ら変わりないというのに・・・それでもあの背中からはいつでも巨大で激しく唸る黒羽を出すことができるのだ。
───私はきっと・・・レイの生きてきた一端ほども彼を知らないんだろう・・・
近づけたと思っても、それは爪の先ほどなのだ。
想像すら及ばない、恐らくは今の生活とかけ離れた場所で生まれた彼とは、出会えたことが何かの間違いとも言うべき奇跡なのかもしれない。
だからこそ、もっともっと・・・レイと色んな事を共有したいよ。
もっと多くのことを話したい。
デートだってしたい、ワガママだって言われても、もっとたくさんレイと一緒にいたいよ。
恋人だと認めてくれるなら、それらしいことをもっともっと・・・
「ごめん、待たせた」
ぽん、と頭を撫でられ、我に返る。
美久は今までの考えを慌てて振り払って笑顔を作った。
「ううん。早かったね」
「・・・何かあった?」
「え? 何にもないよ」
きっとうまく笑えてなかったんだ・・・そう思って一生懸命笑顔をつくる。
素直に気持ちを伝えられないでいる自分が悪い事は分かっている。
けれど、言うのが怖い。
オレを信じられないのかと、そんな程度かと彼に言われるのは恐ろしかった。
「・・・・・・そう」
レイはそれ以上追求しなかった。
代わりに美久の手を取り、繋いだまま店をでる。
「行こうか」
「・・・うん」
握り締めた手は大きくて、とても温かかった。
▽ ▽ ▽ ▽
レイのマンションに美久が来るのはこれで二度目だ。
前と同じようにリビングに通されるが、やはり桁違いの広さや彼女にとって訳の分からない部屋の飾りにとにかく緊張するらしく、自分はどうしようもないことのようだった。
けれど、そこは前回来たときとは明らかに違う異様な光景が広がっていて、別の意味での緊張を感じて美久の頬が引きつる。
絨毯には黒い染みが広がり、その染みは窓の方まで続いてテーブルも不自然に傾いている。
見ればレースのカーテンまでもが赤黒く染まっていて、窓は・・・二人が来た時、既に開いたままだったのだ。
真っ青になった美久はレイの腕にしがみつく。
「警察・・・呼ぼう・・・っ」
美久は震える声をやっとの事で絞り出した。
それに対してレイは『なんで?』と不思議そうに聞き返すだけで、美久の腕をやんわりと外すと、そのまま開いていた窓を何事もなかったかのように閉めている。
「すぐ終わるからちょっと待ってて」
そう言って彼はソファに座り、買ってきた携帯電話を箱から出している。
どうしてそんなに平気でいられるのか、美久は彼の考えが全く理解出来なかった。
「・・・レイ、きっと泥棒が入ったんだよ。何か盗られたんじゃないのかな、他の部屋もこんな風に荒らされてるのかもしれないよ」
「え? ・・・そんな形跡なんてあった?」
「それ・・・本気で言ってるの?」
「どうして?」
レイは苦笑しながら携帯を手に取り何か操作していて、美久の言うことに全く耳を貸す気配がない。
「ねぇ、レイ。何でそんなに普通なの? この部屋・・・前と全然違うよ・・・っ!?」
「美久は心配性だね」
「だって・・・・っ」
「この部屋を汚したのも窓を開けっ放しで出ていったのもオレだからこれでいいんだよ。それにもし泥棒が入ったって、この家にあるものはオレにとっては何の価値も無いんだからどうでもいいじゃない」
「・・・どういうこと?」
この部屋を汚したのも、窓を開けて出ていったのもレイ・・・?
「・・・・・・これ以上は言いたくない」
「・・・っ」
レイの突き放すような言葉でハッとした。
不意に今、頭の中を掠めた考え・・・それが正解なのだと思った。
『私に"殺してくれ"と懇願したのだ。もう生きていたくなかったんだろう』
クラウザーの言葉が蘇る。
あの時・・・レイはこの場所に戻っていたのだ。
どこにも帰る場所が無くて・・・たった一人でこの場所に戻ってきたのだ。
レイは・・・この場所で・・・傷を負ったんだろうか。
これは、この赤黒い染みは・・・
はらはらと涙が頬を伝う。
何の言葉も見つからなかった。
「・・・泣くのは、もう無しにして。・・・・・・オレ、美久が泣いてると身動きが取れなくなる」
「・・・・・・っ」
「オレが今日美久をここに連れてきたのはそんな事の為じゃなかったのに。・・・・・・よし、これでいい。・・・はい、美久」
今まで彼が手にしていたピンクの携帯が美久に手渡される。
彼のイメージとは合わない色だと密かに思っていたけれど、これは・・・。
意味が分からなくて呆然としていると、彼の手で涙を拭われて頬にキスを落とされた。
「それは美久にあげる」
「・・・えっ」
「オレはもう持ってる、同じ機種の色違い」
そう言ってポケットの中からブルーの携帯を取り出す。
「これでオレがどこにいても不安じゃないだろ? どんな些細なことでも電話しておいで、番号は登録しておいたから」
「・・・・・・」
「最近、よく泣きそうな顔してるのはオレの所為なんだろう? オレはそんなに美久を不安にさせてるのか?」
「・・・・・・っ」
「正直なところ、これから先、何も起こらない筈はないと思ってるよ。こんなものを渡したって本当に何かが起こったときは、何の意味も為さないかもしれない。・・・だから、コレは美久を護るためのおまじないみたいなもの」
「・・・・・・おまじない?」
「そう、おまじない。・・・で、そのおまじないはもうひとつ。一番奥の部屋に用意してあるんだけど・・・それは何かがあった時、行ってみると良いよ」
「・・・今は・・・見せてくれないの?」
「まだ必要がないからね。この家の合い鍵を渡しておくから、その時になったらここにおいで」
言っている意味が良く分からなかった。
まるで何かがあった時、レイは傍にいないみたいな・・・それって凄く悪いことなんじゃないだろうか。
レイは家の合い鍵を美久の手に握らせると、不安で青くなっている彼女の身体を抱きしめた。
「大丈夫・・・ちゃんと守るよ・・・・・」
それは・・・何から?
またレイが傷ついたりするの?
言葉が喉に張り付いて出てこない。
聞きたいのに、ちゃんと知りたいのに。
「・・・っ、・・・・・・・・っ、レイは? レイは・・・誰が守ってくれるの?」
「なんでオレ? オレはそんなの必要ないよ。美久は変なこと言うね」
レイは可笑しそうに笑っているが、美久にとっては笑い事ではなかった。
もう傷ついて欲しくないのだ。
ましてや自分を守る為に彼が傷つくなんて絶対に嫌だった。
「何かが起こるとか・・・そういうの、私にはわからないけど。私を守ろうとしてレイが傷つくなら、おまじないなんて要らない」
「・・・美久」
「どうしてこのままの生活が壊れるって怯えなきゃいけないの? それを避ける事だって出来るかもしれないのに」
このまま平穏な日がずっと続けばそれでいい。
人生なんてそうそう色んな事が起こるわけがない。
これまでそうだったように・・・だから・・・
「・・・美久が怯える必要はないよ。だけど、・・・オレは追われてるから・・・クラウザーに見つかった以上、この先何も無いとは言い切れないんだ」
そう言うと、レイは困ったように笑った。
「だって・・・お兄さんなのに? 何でレイを追いかけて傷つけようとするの?」
美久の疑問にレイは僅かに目を伏せる。
しかしそこには、逃げる者と負う者との間に生まれる、実に簡単な理由が存在していた。
「・・・意見の相違だよ。オレは戻りたくない、あいつらは戻れと言う、それだけの事。単純だろ?」
「戻れって・・・なに?」
「父親のところにだよ。言っただろう? オレは二度と戻る気がないって」
「でもね、レイっ、私あの人に、クラウザーに聞いたの。レイのお父さんって思ってるような人じゃないかもしれないよ。溺愛してるって言ってたもの、周りからそう言う風に見えるくらい、レイを気にかけてるって事じゃないの?」
美久の言葉にレイは目を丸くして、しかしすぐにそれは否定を含む苦笑へと変わってしまう。
「あいつはオレをコレクションのようにしか思っていない。母親に似ているという意味では価値のあるレプリカかもしれないけど・・・」
「・・・・・・っ」
その言葉に絶句している美久を見て、レイはこれ以上を語っても意味がないと悟り、彼女の頬にそっと触れた。
「ごめん。でも、これはオレの中では既に断ち切ってしまったものだから・・・」
「・・・レイ」
「もう帰ろう」
そう言って美久の肩を抱き、ここを出ようとする彼の横顔は、それ以上を語る事を拒んでいるかのように美久には見えた。
・・・コレクション・・・?
嘘でしょう? 自分の子供をそんな風に思う父親なんているの?
レイの父親とは一体どのような人物なのだろうか。
子供にそう思われてしまうなんて不幸だ・・・。
考えるほどに美久には理解し難く、もし本当にレイが思っている通りの人物であるなら、これ程哀しい事は無いように思えた。