『約束』

○第8話○ 孤独な傷痕(その10)







 朝陽が徐々に夜の闇を塗り替え、穏やかに吹く風が宮殿の外壁を流れる。
 昼夜を問わず巡回する兵士達の表情に変化はなく、一見何の変哲もない、いつもの朝が始まろうとしていた。
 レイは、ある部屋へ密かに忍び込んでいた。
 薬品の混ざり合う臭気が鼻につくその部屋は外の光を拒むように暗幕が掛かっていて、自分の手元すらまともに見ることは出来ない。
 にも拘らず、進むレイの足取りに迷いはなく、部屋の中ほどに立ち止まってぐるりと周囲を見渡すと、直ぐに一面にずらりと並ぶ棚へと真っすぐ歩き出した。
 棚には全て二重に鍵が掛けられており、中に仕舞ってあるものの重要性を密かに窺わせる。
 しかし、扉に掛かるひとつ目の南京錠はボキ・・・と指の力だけで折って外してしまうと、もうひとつのシリンダー錠にも指を這わせ、それが棚の扉に直接ついたものと理解した彼は、扉に指をめり込ませて力任せに引っ張ることで物理的に扉をこじ開けてしまった。
 こうなると鍵よりも棚の耐久性に問題がありそうに思えるが、特殊な超合金で出来た棚は金庫のように頑丈で、扉も非常に分厚く作られている。
 レイはそこにある棚全てを同じように破壊して回り、呆気なく丸見えになった内部を一つ一つ吟味するように確認していく。
 獣の牙、光る植物、何かの肉片、皮膚、毒々しい色の液体、数え上げればきりがない。
 何かの実験か薬品の製造の為に採集されたであろうそれらは一つ一つが丁寧に容器の中で保存されていたが、放つ異臭は凄まじく、扉を壊してしまったことで部屋中に漂っていた異様な臭気の濃度が増したようだった。
 しかも、扉の中には傍にいるだけで目がやられてしまいそうな毒気を放つものまである。
 レイはそこから小瓶を数本手に取り、それらを指先でカチカチと弾きながらじっと見ていた。


 ───カタン・・・、

 不意に、部屋の入り口で物音がした。
 同時に扉が静かに開き、部屋に置かれたランプの明かりがいくつか灯されていく。


「・・・何で今朝は外に護衛が誰もいないんだ? ・・・、・・・え? なんだこれは、・・・っうわっ!?」

 何やらぶつぶつと文句を言いながら入ってきた声は驚きの声を上げた。
 そこには兵士の格好をした男たちが転がっていたのだ。
 彼らはこの部屋の前で警備していた者たちだったが、レイが忍び込むときに気絶させられ、そのまま部屋に引きずり込まれたまま放置されていた。
 部屋に入って来た声は男のものだった。
 この状況に動揺しながらもランプを手に取り、部屋の奥に眼を懲らしている。
 一つや二つのランプの灯りでは心許なかったが、ゆらりと部屋の奥で黒い影が揺らいだのを見て、男は大声で助けを呼ぶつもりで慌てて部屋の外へ飛び出ようとした。


「・・・むっ、・・・んーー・・・ッ!!!」

 しかし口を布のようなもので覆われて髪を掴まれると、男はズルズルと部屋の奥へと引きずり込まれてしまう。
 突然の出来事に男は手足をばたつかせて藻掻き、パニックに陥っている様子だった。
 暴れる男の目の前で突然ランプに火が灯され、小さな炎が揺らいで部屋の中がまた少し明るくなる。


「・・・んー、・・・───っ!?」

 男は柔らかな明かりの向こうに見えたものに目を見開く。
 顔の上半分を金属製のマスクで覆った軍服の男が、彼を見下ろしていたからだ。


「お前は誰だ。いつから此処にいる」

「・・・・・・っ」

 マスクの男の声に、拘束された男はビクッと震えた。
 声に反応したというよりも、この状況に萎縮してしまっているようだった。


「こんな物を何の為に作っていた?」

 マスクの男の手が男の目の前に差し出されて、三つの小さな瓶がゆっくりと揺れた。
 不意に口を塞いでいた布が外れ、男は大声で喚こうと息を大きく吸い込む。


「騒ぎ立てるなら、これを混ぜて一滴残らずお前に飲ませてやる」

 形の綺麗な唇が笑みをつくり、並びの美しい白い歯が覗いた。
 男は青ざめて口を閉じ、何度も首を横に振る。
 この部屋にあるもの全ては彼の手で作り出した物なのだ。
 当然目の前の瓶に入ったものが何なのか、誰よりも知っているのはこの男だった。
 ふと・・・マスクの男の肩越しに何気なく見えた光景に目を見開く。
 並んだ棚の全ての扉が破壊されている。
 漸くこの状況を少し理解して男はゴク、と喉を鳴らす。
 しかもマスクの男・・・レイは、通常なら傍に寄るのも憚られるほど臭気を放った小瓶のひとつに顔を近づけ、確かめるように臭いを嗅いでいるのだ。
 更に別の瓶にも顔を近づけながら持っている全ての小瓶の臭いを順番に嗅いでいく様子に、男は顔を引きつらせる。


「これは・・・四肢が痺れて動けなくなる。こっちは全身に激しい痛みを与え、もう一つは・・・媚薬の類か。どれも中々強力だ。・・・棚の中を全て見たがこの部屋は劇薬の宝庫。これを作ったのはお前か?」

「・・・・・・そ、・・・・・・そう・・・だ。随分くわしいじゃないか、なんだ同業者か?」

「黙れ。質問にだけ答えろ」

 ピシャリと言われ、男は慌てて口を噤む。
 不愉快そうな溜め息が聞こえて脂汗が滲んでいた。


「・・・これらが何に使われるか・・・お前は知っているのか?」

「し、知るわけないだろうっ、使い道などに興味はない。私は純粋に研究のためだけに此処にいるんだ」

「研究?」

「そうだっ、陛下に請われてあらゆる薬物・・・と言っても媚薬と毒薬が主流だが、より強い効力を持つよう研究を重ねているだけだ。だからそれを何に使おうが私には」

「質問だけに答えろと言ったはずだ」

「・・・っ」

 またもピシャリと言われて男は慌てて口を噤む。
 明らかにレイの様子は先ほどよりも苛ついていた。


「・・・此処はかつて"バティン"という医師の研究の為に与えられた部屋だった」

「そんな医者は知らないッ!!」

「嘘をつくな」

「本当だ、助けてくれ。・・・私は本当に・・・っ」

 男はレイに懇願し、ぶるぶる震えている。
 その様子を見たレイは片眉をつり上げ、近場のテーブルに置きっぱなしになっていた手のひらサイズの空瓶を指先で引き寄せる。
 そして、持っていた小瓶の蓋を開けては空瓶へと次々注ぎ、ついでに後ろの棚にまで腕を伸ばして別の小瓶を2,3取り出し、それらも一緒に空瓶へと注いでいく。
 激臭が部屋に充満し、男は目が痛いのか苦しそうな顔をしていた。


「流石に凄いニオイだな・・・」

「や、やめてくれ・・・、調合によってはガスが発生して爆発の可能性も・・・っ」

「そう言うなら、知っていることを正直に話してみろ。・・・それとも、これを飲み干してみるか?」

「・・・ひっ、・・・無理だっ、そんなもの一滴でも飲めば死んでしまうッ!!」

「だったらどうすればいいかわかるはずだ」

「・・・・・・、・・・ほ、・・・本当は・・・前にこの部屋を使っていた医者の話なら聞いたことがあるっ、・・・だが、それだって随分昔の話なんだ、名前までは知らなかった・・・っ」

「それで?」

「陛下の命令に背いた罪で暫く自室で軟禁されていたが、まもなく地下牢へ連れて行かれたと聞いた」

「・・・・・・地下牢?」

「そ、そうだっ、南の棟の地下牢だ。その後どうなったかは聞いていない」

「・・・」

「本当だっ、頼むから信じてくれ」

 涙声で懇願しながら愛想を振りまこうとしてか、態とらしく笑みを浮かべて拝む仕草をする男を一瞥し、レイは少しだけ沈黙する。
 レイは男の髪をグッと引っ張り、毒薬を混ぜた瓶を静かに揺らして見せつける。
 青ざめる男の表情は醜悪極まりなく、だらだらとよだれを垂れ流していた。


「その男には"ニーナ"という妻がいた・・・知っているか?」

「しっ、知らないッ! それ以上はなにも知らないんだ・・・っ」

「・・・・・・」

「本当だっ、私は単に研究の為に連れてこられただけで・・・っ」

「・・・それはさっき聞いた。その研究とやらは、・・・こういう毒薬を生成することなんだろう?」

「そうだ、様々な細菌や動植物から抽出した物質であらゆる毒薬を作り出すのが私の研究だ。だとしても、何に使われるかなんて知ったことではない。使い道など私には一切関係ないんだ・・・っ」

「・・・・・・関係ない・・・? 此処にあるものは、どう見ても悪用されるのが目的のように見えるのに・・・・?」

「う、うるさいっ!!! 大体私は陛下にも認められるほどの成果を上げているんだ、この崇高な研究のどこを責められるっていうんだ」

「・・・・・・・・・」

「あぁ、口が過ぎた・・・すまない、怒らないでくれ。どうか命だけは、お願いだお願いだ・・・むぐっ、んーーー」

 レイは五月蠅い口を塞ぐように、もう一度男の口を布で覆う。
 命乞いをして手足をばたつかせて藻掻く様子がどこまでも見苦しく、腹立たしかった。
 説明など不要だった。
 作った毒薬が何の目的を持っていたのか・・・、臭いを嗅いだだけでそれが身体にどんな害を及ぼすのか、レイには手に取るように分かってしまうのだ。
 この部屋で作り出した物がレイの身体を蝕み、痛めつけ、挙げ句の果てには更なる化け物へと誘う役目まで担っていたと、それ以外の答えなど有りはしなかった。


「ぶはっ、・・・はっ、はぁっ、助けてくれ助けてくれ・・・っ、・・・、・・・あぁ、そうだ、良いものをわけてやろう!! それだけ薬物に詳しいなら、あれがとっておきだと分かるはずだ。そう簡単に手に入る代物じゃないぞ」

 ひたすら藻掻いた末に男の口を覆う布が外れ、息を荒げながら尚も懇願する。
 沈黙してじっと見下ろしていると、興味を逸らそうとしてか、やけに男は饒舌になった。


「ほ、ほら、一番右の棚の更に奥だ・・・っ、本当にすごいものなんだ。・・・あれはな、末の王子の血液なんだよっ!! 君も知ってるだろう、つい数日前に戻ったという噂の。その時に彼は怪我をしていたらしい、衣服はぼろぼろだった。私は処分されそうだった血まみれの服をこっそり入手して、粉末状に加工してみたんだよ。・・・すごいぞこれは、前代未聞だ。化け物などと呼ばれる所以がよく分かる。何せ此処にいた頃の昔の彼でさえ私のつくり出した薬物には難なく順応してしまったくらいだ。あの頃は日々化け物に戦いを挑んでいる気分だったが、今度はあの頃以上の興奮を与えてくれそうだ。少し調べただけでも普通じゃ考えられないレベルで・・・・・・あぁああーーーーッッ!!」

 話しの途中でレイは立ち上がり、男の髪を掴んで棚の方へと引きずる。
 横倒しになった男が声を上げて藻掻くので、大人しくさせる為に軽く軍靴で腹を蹴った。


「・・・ぐっ、げえぇ・・・ッ」

「何だ・・・、オレは単なる嘘つきを相手にしていただけか」

「・・・・・っ、うぇ、ぐ、・・・う゛う゛」

「・・・自分が何の為に研究を重ねているのか、お前はちゃんと分かってるんじゃないか」

「・・・ふっ、うぅ・・・」

「怯えなくても、別にこんなものを飲ませたりしない。・・・ただ・・・此処にある不要なゴミはこの世から消さないと、また繰り返されそうだ」

「・・・ッ!? ・・・───ッ」

 不要なゴミという発言で研究を馬鹿にされたと思ったのだろう。
 男は顔を真っ赤にして腹を押さえながら憤慨している。
 レイはそれを蔑むように嗤い、五月蠅い口を塞ぐ為にもう一度男の口を覆う布を結びなおし、先ほどの適当な調合で強烈な異臭を放ち続ける毒薬の瓶を手に持ち、中の液体を男の頭にボタボタとかけていく。


「・・・ッ、・・・!!!! んーー、っ、んー、んーー」

「一滴でも口にしたら死ぬんだろう? なら、身体にかけたらどうなるんだ? それも実験だよな? 崇高な研究というならお前自身の身体を使って試してみたらいい。それに捧げる命なら惜しくはないはずだ」

「んーー、ッ、んー、んーー」

「あぁ、足りないのか。・・・なら、此処の棚にあるもの全てを浴びるといい」

「・・・───ッ!!!!」

 藻掻く男の腹を片足で踏みつけながらレイは棚の中の瓶を無造作に掻き出し、床にたたき落としていく。
 割れた小瓶からは激臭が放たれ、それらは男の神経を狂わせ眼球が激しく回り、ついにはぴくぴくと痙攣を起こしながら白目を剥いて意識を失ってしまった。
 あまりに一瞬で意識を手放してしまう様子に拍子抜けしたレイは、ため息を吐きながら尚も棚から瓶を掻きだし、一つ残らず床にたたき落とす。
 気化した薬品がランプに引火して激しく燃える様子を見て、レイは腹の底から笑いが込み上げてくるのを感じた。

 燃えさかる炎、狂った炎だ。
 こんな物にあの頃のオレは怯えていたのか。

 レイは炎が引火して燃え広がる様子を食い入るように見つめ続けていた。
 自分を苦しめていたというには最後はこんなにも呆気ない。
 そんなものに、何故傷つかねばならなかったのかと。
 いつしかマスクの下から一筋の雫がこぼれ落ち、頬を伝う。
 溢れ出る感情に胸の内が荒れ狂っていた。


「・・・・・・・地下牢って・・・どういうことだよ」

 小さく呟いた言葉は震えていた。
 燃え広がる炎から逃れるように部屋を飛び出したレイは、そのまま南の棟へと駆け出しながら、久々に思い出した己の過去に軽い目眩をおぼえていた。

 ───バティンとニーナ。
 レイが口にしたその二つの名前は、自分の命を犠牲にしてこの地からレイを逃がした、ある夫婦の名だった。
 バティンは王家専属の侍医を任された男で、ニーナは小さなレイとよく遊び身の回りの世話まで任せられていた侍女だった。
 彼らは物心ついた時から化け物などと忌避されたレイの数少ない理解者でもあった。
 あの鎖がどんな意味を持ってレイの心を切り裂き続けたか、息が止まりそうなほどきつく縛り続けたのか・・・レイの脳裏に強烈に過ぎる歪んだ過去にはいつも彼らがいた。





『レイ、よく見なさい』

 笑いながらクラークが数人の兵を引き連れて部屋に入って来たあの日の光景は、やけに鮮明だった。
 ぞろぞろとやってきた大人たちの姿に何事か理解出来ないレイは棒立ちで、何故か上半身裸のバティンがぞんざいに扱われながら床に転がるのを目にした。
 クラークの指示で屈強な兵士がバティンの身体に棘のついた鞭をいきなり打ちつけ、彼の背中の肉が裂けて血飛沫が床に散る。
 目の前の光景にレイは絶句して立ちつくし、その間も鞭のしなる音が部屋に響く。
 いつもはあまり表情のないバティンの顔が苦痛に歪んでいた。


『いいかい? これを外すと、バティンとニーナが死んでしまうよ? だから、言う通りにしなくてはいけないよ』

 そう言われて自分の足下を見ると、いつの間にか鎖が着けられていた。
 これと同じ事がニーナにも起こってしまうよ・・・と、クラークの青い瞳が笑う。
 紛れもない拷問が目の前で起こっていることも、それを父であるクラークの意志で行われていることも信じたくない光景だった。
 そして、これはもしかしたら数日前の自分の行動が原因かもしれないと、漠然とそう思う自分がいた。


 ───その頃のレイには決められた婚約者がいた。
 家柄と血筋、知識に教養、そして美貌、それらを満たす女を見つけることはそう容易いことではない。
 その狭き門から婚約者が選び出されたとき、彼はまだ子供だった。
 最初はその意味をあまり理解出来ないレイだったが、それから数年が経ち、彼女を妻として迎えるというのがどんな意味を持つのか知ることになる。
 彼女と一夜を共にするよう取り計らわれたのだ。
 この地では婚前交渉を結ぶ事は何ら珍しいことではなく、むしろそのような風潮が当たり前にある中で全てのお膳立てが整えられ、その日、彼女はレイと夜を過ごすために此処に来ていた。
 しかし、レイは指一本触れるどころか彼女を一人部屋に残して出て行ってしまったのだ。
 彼女を抱かなかったのは彼なりの理由があってのことだったが、この話は噂としてあっという間に宮殿内に広まった。
 この国に於いてタブーはいくつかあるが、同性同士の恋愛、性交、婚姻などもそれに当たり、それらは重罪に値するものだ。
 王族と言えども例外はなくクラークでさえそれを庇うことだけは赦されない。
 つまり・・・、レイはたった一夜のその行動だけで、女性を抱けない男である可能性を疑われたのだ。
 実際、クラークもそれに疑いを持ったようだった。
 元々、レイは幼い頃より様々な毒をその身体に投じてきたのだが、その一件以降はとても素直に飲み下すことの出来ないものへと劇的に変化したのが何よりの証拠と言えただろう。
 それまでは毒を投じられるとは言え強要されたわけではなく、幼少時に何度か毒殺されそうになった事が前提としてあった。
 そのうえレイは一度毒を受けると同じものはそれ以降ほどんど効かない体質で、また、これまでの歴史の中でも暗殺を免れるために一定の毒で身体をならすような事は慣例としてあるにはあった。
 問題は、この一件でレイの身体に対する配慮が欠片も無くなったことである。
 それらはまるで、試行錯誤の中で繰り返される実験のような日々でもあった。
 大概が中毒性の強い催淫効果のあるものから始まり、幻覚症状を引き起こすもの、身体の自由が効かなくなるものまで多岐に渡って使用され、どれひとつとっても容量を間違えれば死への門が開かれる危険があったが、最終的には全てを適当に混ぜたような全く危険性を考慮しないものまでが使われるに至った。

 そしてある夜、ぐったりしている彼の部屋に突然見知らぬ女達がやってきたことで、またもクラークにとって看過出来ないことが起こってしまう。
 翌朝、レイ自身は毒を受けた状態のまま部屋から逃亡して、宮殿の庭で意識を失うように倒れているところを発見されたが、彼のベッドの上には数名の女が横たわっており、その全員が既に冷たくなって死亡していたのである。
 彼女たちは疑いの晴れないレイと性交渉させるためにクラークの指示でやってきたのだが、レイがまたも拒絶したという事実はクラークをさぞ失望させたことだろう。


 ───そんなレイの行動を責めたてるかのように、クラークの指示によって尚もバティンが鞭を打たれている。
 血飛沫は一層激しく飛び散り、レイの頬にも紅い血液がビシャッと音を立ててかかった。


『レイ・・・、返事が出来ないのかい?』

 レイに拒絶など出来るわけがなかった。
 身体に投じる毒がどんどん酷くなっていくのを見かねて、クラークに止めるよう進言しているバティンの姿を何度も見かけた。
 その度に立場が悪くなっていく彼の様子を感じ取ってもいた。
 なのにバティンは変わらずに接してくれたし、ニーナも今まで通り笑いかけてくれる。
 自分を理解してくれる僅かな存在は、もう彼らしか居なかった。
 ある日突然姿を消したクラウザーはその頃にはもう戻っていたけれど、既にかつての優しい兄はどこにもおらず、レイはとても孤独だった。
 だから縋れるものを手放したくなくて、その時のレイには首を縦に振る以外に選ぶべき道が残されていなかったのだ───


 ・・・今でもよく憶えている。
 逃げることも出来ず、拒絶することも出来ず、ただクラークの思う通りに生きる傀儡のような日々を。
 意識が飛ぶほどの強力な毒を受けながらも強制的に発情させられ、朝になって女達を獣のように犯している自分の姿を断片的に思いだし、激しい嫌悪と憎悪で狂いそうだった日々を。
 しかし、この忌まわしい夜を自分の力を使って逃れられると知ってからは、ほんの少しだけ・・・そう片足くらいは地獄から自力で抜け出せたのかもしれない。
 ただでさえギリギリの精神状態で生きていた感覚しかないのだ。そうでなければとっくに彼の心は完全に壊れていただろう。
 そして・・・、それから数年が経って、漸くこれらの日々に終止符が打たれたのだ。


『・・・もうその鎖は外してしまいましょう』

 何故か憔悴しきったバティンが、突然レイの部屋へやってきてレイの足枷を外し始めたのだ。
 鞭で打たれた時から随分経っていたが、彼の着衣はあの日のままで、破れた服から覗く傷は酷く化膿していた。
 医師であるなら施せる治療も敢えてしていないというのは見ただけでわかるくらい酷いものだったが、バティンが何故傷を癒さなかったのか、その心情を推し量る心の余裕は既にレイから失われていた。
 レイは突然やってきた亡霊のような姿のバティンの言葉を、ただ息を殺して聞いていただけだったのだ。


『いつからか歯車がおかしな方向に狂ってしまいました。もう取り返しがつかないほど壊れてしまったのに、まだ引き返せるなどと考えながら今日まで貴方を一人にしてしまったことを、とても後悔しています』

『・・・・・・っ』

『私もニーナもこんな事は望みません。死を選んだ方がましなこともある。・・・貴方ならわかるのではないですか?』

『・・・、・・・・ッ・・・・・』

『陛下の手の届かない世界へ行きなさい。人の世に紛れて生きるのもまた一興、これからの時間は踏みしめたところから全て貴方のものだ。そして、此処を出たら・・・もう二度と振り返ってはいけません』

 そう言って笑ったバティンは、どこかホッとしたような穏やかな顔をしていた。
 きっと彼も限界だったのだ。
 鎖が外されたあの朝、涙が枯れるほど泣き、解放されたことを心底嬉しいと感じてしまった。
 バティンもニーナもこれを外してしまえばおしまいだと分かっているのに、もうあの場所では息さえ出来ないほど追いつめられて苦しかった。


 片足に着けられた鎖は心の枷だ。
 最悪の方法で縛り付ける為の鎖だった。
 なのに、・・・彼らがまだ生きている可能性があるという。
 何の為か?
 分かりきったこと、また縛り付けるときの為に取っておいたのだ。
 レイは階段を駆け下りながら、憎悪を込めて前方を見据える。

 クラークがオレを溺愛しているだと?
 母親に似ているから?
 誰も、何も知らない癖に、どうしていつも決めつける。
 愛なんてどこにある。
 オレには、苦痛しか思い出せない・・・・・・───









その11へつづく


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