『約束』

○第8話○ 孤独な傷痕(その6)







 美久が何者かに攫われたこの日、クラウザーに連れ去られたレイの身にも、三日目にして初めて変化が訪れようとしていた。
 この三日、美久の身に何が起こっていたかはレイには知る由も無い。
 それどころか意識を失ったまま、一度も目覚めることなく昏睡状態に陥っていたのだ。
 にも拘らず、この日の朝になって何の前触れもなくレイの意識が突然覚醒に向かったのである。


「・・・・・・っ、・・・・・・う・・・、・・・っは、・・・はぁっ、・・・・はぁっ、・・はぁっ、・・・・・・?」

 まるで何かに引っ張られるように深く沈んだ意識の淵から舞い戻ったその顔は、今の今まで眠っていたとは思えないほど険しく、若干息まで上がっていた。
 瞳には未だ夢と現実を彷徨っているような朧気な光しか宿っていなかったが、その身に備わった警戒心が無意識に周囲に神経を巡らせる。


「・・・───ッ!!!」

 視界の端の方で金の刺繍を施した金属製のマスクを捉える。
 レイは電流が走ったように飛び起き、部屋の隅に跳んで間合いを空けながら低く構えた。
 しかし目覚めたばかりの身体は思い通りには動いてくれず、目の前がぐらついて昏倒しそうになってしまう。


「・・・・・・ぅ・・・ッ、・・・・・・・ッ」

 目が回って、開けていられない。
 それでも無理にこじ開けるとぐにゃりと視界が歪み、思わず床に手をつく。

 ───コツ、
 目の前の絨毯に軍靴が映り、レイはハッとした。
 間合いをとったはずが、いつの間にか男は目の前に立っていたのだ。

 ・・・この男・・・、さっきの・・・

 既に三日経過しているとは知らないレイには、意識を失う前の記憶はつい先ほどの出来事だ。
 妙な空間を作り出し、クラウザーと共謀していた男。
 確かこの男に掴みかかった時に金属のマスクは半分ほど溶けた筈だが、今は何の損傷も見当たらない。
 恐らく全く同じものがいくつもあるのだろう・・・軍服の胸元に刺繍された黒羽の紋章も噛み千切った筈だが破損した形跡はなく、争いの形跡など残されていなかった。
 レイは其処まで男の姿を分析しているうちに、途中から自分の記憶がぷっつりと途切れている事に気がつく。


「・・・───?」

 どういうことだ・・・?
 あれから、・・・どうなったのか、全く憶えていない・・・

 ふと、先ほどまで自分が横たわっていた場所が目に入った。
 どことなく見覚えのある寝台。
 そんな馬鹿なとぐらつく視界をねじ伏せ、見上げた先で目に飛び込んでくる天蓋の模様、扉の彫刻、壁の模様に愕然とする。


「・・・・・・あ・・・」

 徐々に血の気が引いていく。
 視界に入る全てが今の状況を否応なく突きつけていた。

 此処は・・・オレの・・・・・・

 疑う余地などあるわけがない。
 レイは此処で生まれ、此処で育った。
 毎日毎日、気が狂いそうな日々を此処で過ごしたのをはっきりと憶えている。
 忌まわしくも赦しがたい記憶が今でも昨日のように蘇り、憎悪と慟哭が腹の底から沸き上がってくるようだった。

 少しも変わっていない、何ひとつ変えていない、
 まるで何もなかったかのように・・・

 吐き気がする。
 今までのことを、全て無かったことにしているかのようなこの光景に。
 立ち上がろうとするが身体がぐらつき、あろう事か男に身体を支えられている自分の情けない姿に笑いが込み上げる。
 咄嗟に振り払って拒絶したが、喉と背中に異常な熱を感じて再び視界が霞んだ。


「すぐに傷は消えたが、身体に受けた毒は残っているようだ。まだ動くのは無理だ」

「・・・っ!?」

 レイは耳元で聞こえた声にハッとして、思わず男を見上げた。

 ───今のが・・・この男の声なのか・・・・・・?

 顔が半分以上隠れた表情を読むことは出来ない。
 男は振り払われた事など意にも介さず、再度レイの腕を取り、肩を貸そうとしている。
 その横顔をじっと見ている内に、自分の中に引っ掛かる何かがレイの頭の隅を掠めたような気がした。

 そういえば・・・気を失う寸前、・・・何かを見なかったか?

 しかし、その何かを思い出しかけた瞬間、部屋の外のざわめきを肌で感じ取り、一気に我に返る。
 人が集まっているのだ。
 これ以上誰かに知られるのはまずい。
 身動きがとれなくなる前に何とかしなければならない。
 もはや余計な事に意識を向けている余裕などはなかった。
 レイは再度男の腕を振り払い、己の両の手のひらに意識を一気に集中させた。
 瞬く間に光を帯び始めた手のひらを喉元と背中に押し当て、そうしている時間さえ惜しいとばかりにレイは部屋の中央へと一気に跳んだ。
 男がそれを静観しているのを視界の端で捉えながら、止められる前にこの場から去る事だけを考えて、今度は窓に向かって勢いよく跳躍する。
 なりふりなど構っていられない。
 戻るなんて油断を誘う為に言っただけだ、一秒だってこんな場所に留まっていられるわけがない。

 ───だが、


 「やめろ!」

 窓に飛び込む瞬間、制止する男の低い声に一瞬だけ動きが止まり、その隙を突かれて後ろから羽交い締めにされてしまった。
 思いの外強靱な男の腕力は、レイがはね除けようと力を込めても容易には外れず、一筋縄でいきそうもない。


「離せ・・・っ」

「・・・元気だな、もうそんなに動けるのか」

 僅かに笑みを含んだ声。
 そんな場合じゃないのに、男の声がレイの集中力を削いでいく。

 どういうことだ? この男の声はあまりにも・・・


「君が気を失って今日で三日目だ。その間、頻繁にクラークは此処に訪れている。目が覚めたのを知れば益々君の自由は無くなるだろう。本当に動けるのか? ならば今を利用しないわけにはいかない」

「・・・ッ! 何・・・、言ってるんだ・・・?」

 背中に触れられて、僅かに顔を顰める。
 たった数秒光を当てただけだ。
 まだ毒は消えていない。
 しかし、今の自分には出来るだけ遠くに逃げる方が重要で、時間をかけて身体を気遣っている場合ではないのだ。

 そもそもこの男は何を言ってる?
 何の話をしているんだ?

 レイを捕まえれば男の任務はそこで終わりというわけではないのだろうか?
 そのうえ、他人がクラークを呼び捨てにするのを初めて聞いて、少なからずレイは面食らっていた。


「・・・・・・話は後だ、今は俺に従ってもらう、君にとっても悪い話にはならない」

「どういう事だよ!?」

 そう言った直後の男の行動に、レイは驚愕のあまり目を見開く。
 男は自分のマスクを外し、それを躊躇することなくレイの顔に装着してみせたのだ。
 しかも、露わになった素顔は・・・・・


「・・・───!!」

 だが、今のレイには疑問を口にする余裕すら無い。
 防音に守られて余程の騒ぎでない限り部屋の中に音が届くことはないのに、レイの神経は部屋の外を警戒し続けている。
 クラークがもう其処まできているのかも知れないという直感を肌で感じるのだ。

 ───くそ・・・、本当に悪い話じゃないんだろうな・・・

 レイは僅かに逡巡していたが、やがて男の腕の中で力を抜いた。
 その様子から此処から逃亡する意志がないと察した男は、後ろから拘束していた腕を解く。
 振り返ったレイは真正面から男と対峙し、横目で見るよりも格段に衝撃を受けるその素顔に沈黙する。


「難しく考える必要はない、君は誰に対しても黙って話を聞いているだけでいい」


 ・・・一体なんなんだ。
 こんなことって本当にあるのか・・・?
 だけど・・・そう言う事なら、もしかして、この男がやろうとしてることって・・・

 男が何をしようとしているか、レイには今の段階で一つしか思いつかなかった。
 それは場合によっては多大なリスクを伴う。
 この瞬間すら罠に嵌められようとしている可能性も捨てられなかった。
 だが、このまま静かにクラークを待っているよりも、この得体の知れない男に便乗する方が己の身を軽く出来る可能性がありそうなのもまた事実だった。


「・・・・・・了解。・・・じゃあ、そのむかつく制服をとっとと脱げよ」

「・・・賢明な判断だ」

 男は不敵な笑みを零して頷いてみせたが、心なしかその表情は硬い。
 レイの方はこうなったら腹を括るしかないと心に決め、最悪の事態になった場合は灰になるまで暴れてやると考えながら着ていた寝衣を脱ぎ、男もまた身につけていた軍服を脱いでいく。
 ひとりは軍服に着替え、もうひとりは上質な絹の寝衣を身に纏う・・・
 それは一見、服を交換しているだけにしか過ぎない行為だった。
 こんな状況で互いが互いの服を交換する事に意味があるのは、限られた条件を満たす場合だけだ。
 例えばそれは、見分けられないほど似た双子くらいの、同じ体躯、同じ顔、同じ髪、同じ声を持ち合わせた者同士である場合───


「・・・───レイ?」

 扉が開く音と共に窓際に立つ2人に気づき、足音が近づいてくる。
 それは紛れもないレイの父、クラークの声だった。
 二人は一瞬だけ視線を交わし、男のマスクを着けて軍服を着込んだレイが一歩後ろへ下がる。


「レイ・・・っ、良かった、ようやく目が覚めたね」

 そしてクラークが迷わず『レイ』と呼んで抱き寄せたのは、今はマスクを外してレイが着ていた寝衣を身に纏っている男の方だった。


「まだ横になっていなければいけないよ。さぁ、ベッドに戻りなさい」

 クラークはにっこり笑って男の背中をやんわりと押しながらベッドの方へと誘導していく。
 本物のレイは二人の後ろ姿を静観した後、視線を扉に移してゆっくりと動き出す。
 これ程の好機は二度と訪れないかもしれないと、あわよくば部屋から出てしまうつもりだった。

 ・・・だが、


「・・・・・・君はなぜこの部屋に? 此処は限られた者しか入れない筈だが」

 扉まであと少しという所で、ベッドの傍に置かれた椅子に腰掛けたクラークが見計らったかのように話しかける。
 レイは足を止めて振り返り、マスク越しにクラークの姿を捉える。
 見事な金髪が肩からサラサラと流れ落ち、目の醒めるようなアイスブルーの瞳が真っすぐレイを見ていた。


「・・・どうした、何故答えない?」

 静かだが、その声には相手を威圧する音が含まれている。
 それに答える術を持たないレイは沈黙を貫くしかない。
 声を出せばたちどころに気づかれてしまうだろう。
 しかし、不審者と認識されればそこまでであり、いつまでも沈黙を通せるわけもなかった。

 ・・・やはり、隠し通すのは無理なのか。

 レイは止めた足を一歩、また一歩進めた。
 扉へではなく、二人のいるベッドの方へと。

 このまま気づかれてしまうなら、いっそ・・・───


「ソイツはクラウザーの命令でオレを見張ってたんだろ」

 レイの考えを先回りしていたかのように、男が突然口を開く。
 それは驚くほどレイとそっくりな口調だった。


「クラウザーに・・・? と言うことは、彼がレイを連れ戻したという・・・」

「・・・・・・」

「成る程。・・・では、礼を言わなければいけないということかな」

「なんでだよっ」

「私が入ってきた時、お前は窓際に立って何をしようとしていたの?」

「・・・・・・っ」

「相変わらず困った子だね」

 クラークは意識を男に戻し、本物のレイに向けた疑念を幾分和らげたようだった。
 いつどう状況が転ぶかは分からないが・・・少なくとも今のところは目の前の男を本当にレイだと思っているようだ。
 それも致し方ないように思う。
 男の容姿は恐ろしい程レイそのもので、口調や態度、表情の作り方まで見事にコピーしているのだ。
 唯一違う点と言える光の加減で変化してしまう瞳も、部屋の中ということもあって絶妙なタイミングで顔や目を逸らして不機嫌さを演出している今の状態ならば、無理矢理押さえつけて覗き込まれない限りは気づかれることはないかもしれない。


「では君を見込んでひとつ頼みがあるんだが」

「・・・」

「レイが目覚めた時の為に、ベッドの下に用意していたものがあるんだよ。・・・取ってくれるかな?」

 そう言いながらクラークは男の肩を抱き、横になるよう促している。
 いかにも渋々といった様子でそれに従う男の演技は感心せざるをえない。
 レイは間にベッドを挟むようにクラークが座っている逆に立ち、言われるままにベッドの下に置かれたものに手を伸ばしながら身体を屈めた。

 そして、手に触れたものをたぐり寄せたところで、


「中に入っている物を取り出して」

 クラークは静かに命令する。
 レイは手に取った頑丈そうな木箱を開けたが、それを見た瞬間、彼は頬を僅かにピクリと引きつらせた。


「・・・其処に固定するといい。後はわかるだろうから君にお願いするよ」

 ベッドに一番近い壁を指さしながら、決して笑っていないアイスブルーの瞳が笑みを作る。
 壁には美しい模様が描かれているが、よく見ると中央部分に鋼鉄で出来た不自然な窪みがある。
 一瞬だけそこに目をやったレイは、マスクの向こうのクラークを感情が失せた目で見ながら、箱の中の"それ"を取り出した。
 男はレイが取り出したそれを見て僅かに目を見開いていたが、クラークにしっかりと肩を抱かれ、無理矢理ベッドに身体を沈められてしまう。
 レイは男の片足を掴み取ると箱から取り出した"それ"を迷い無く装着して、足から伸びた太い鎖を手繰り寄せると鈎状になっている先端部分を手に取り、金属同士で擦り合う音を響かせながら、壁の端に飾りのように取り付けられた模様付きの鋼鉄の窪みに勢いよくはめ込んだ。
 鈍重な音が部屋に響き渡り、重い沈黙がひたすら続く。
 やがて、男の片足から伸びた鎖に手を伸ばし、クラークが静かに口を開いた。


「君はもう行っていい」

「・・・・・・」

 レイは一歩下がり、それ以上疑われることなく部屋から退出する。
 その間、男は何も言わずただ天井を見上げているだけで、レイ自身も男の様子など見ようとはしなかった。
 男の足に嵌められたのは、足錠だった。
 じゃら・・・、枷から伸びた鎖が重く響き渡る。
 それはまるで此処に居た頃の自分の姿そのもので、とても直視出来なかった───






その7へつづく


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