○第9話○ それぞれの闇(その2)
「お前は知っているかい? ナディアはあの日の出来事をすっかり忘れてしまったんだよ」
「・・・・・・え?」
不意に聞かされたその台詞に、思わずクラウザーの目を見開かれる。
それはまだクラウザーが幼かった頃の出来事だったが、とても忘れられるような思い出ではなかったのだ。
しかも、その原因を作った母が憶えていないというのは、一体どういうことなのか。
「信じられないと思うのも無理はない。だが、よく考えてご覧。ナディアが今も昔もただひたすらビオラやレイを罵るばかりなのは何故だろう。自分が犯した一切の罪を忘れた、それ以外に何がある? これは冗談などではない、本当にあの日のことを聞いても彼女には分からないんだよ。一切合切、彼女は忘れた。忘れてしまえたんだ。ああ言うのを何て言うんだろうね・・・、もしかして自己防衛の一種なんだろうか、そうしないと自己を保てないんだろうか? ・・・・・あぁ、だけど、今さら彼女を八つ裂きにしてもきっと足りない、死を以て償わせるなんて生易し過ぎる」
クラークは喉を震わせ、その言葉はどんどん過激さを増していく。
にも拘らず、その声は乱暴に荒げられているというわけでもなく、あくまで物言いは淡々として声も低く押しとどめられている。
彼の抑圧し続けた感情がどれだけ根が深いものなのかを如実に表しているようだった。
「・・・・心の中で憎しみを抱えながらも私が自分を抑えたのはレイの存在があったからだ。幼いあの子がこの腕の中で笑ってくれたからだ。これ以上波風を立てれば今度はレイに危害が及ぶかもしれない・・・だから、せめてあの子の為に穏やかであろうとした。・・・・・・それを、またナディアに踏みにじられる。彼女は幼いレイにまで、何度も、何度も、執拗なほど憎しみすら込めてあの子を標的にして毒牙に掛けようとした。・・・私は、このままではレイまで奪われてしまうと恐怖した。あの子を失ったら私は今度こそ生きていけないだろう。対抗するにはどうすればいいのか。レイを守るにはどうすれば。・・・答えは一つだ。レイを本物の化け物にしてしまう以外の道は残されていなかった」
「・・・・・・───ッ」
「・・・だが、そんな想い全てを踏みにじるような事がまたしても起こる。それはレイが大罪を犯す可能性があると喧伝される行為そのものだった。・・・・・・何て事だろう、レイには一分の隙も赦されない、あの子の周りにはいつまで経っても敵ばかりだ。・・・・・・あぁ、だけど、犯罪分子ではないと示す為にどこまですればよかったんだろう。・・・どこまでもどこまでも強くなり続けてしまうあの子を、私は一体どこまで傷つければよかったんだろう。・・・もはや加減など分からない。本当は愛しいあの子を優しく抱きしめていたかっただけなのに、いつも思うようには出来なかった」
それは平時のクラークでは考えられない感情の吐露だった。
やはり、いつもとは明らかに何かが違う。
こんなにも感情を露わにする父をクラウザーは見たことがなかった。
だが・・・レイを傷つける・・・・・・?
あれほど溺愛するレイを父上が傷つける?
全く想像出来ない話だった。
「・・・過去に戻れるものなら、ビオラが倒れたあの日の朝を私は望むだろう。私はあの日だけは何があっても彼女とレイの傍を離れるべきではなかった、・・・そんな莫迦な夢を、数え切れないほど見てしまう」
「・・・っ」
「私がどんな地位で権力を持つ者であろうと、これまで己の私怨のためにそれを利用したことはないつもりだ。だが・・・・・・どうしても感情的に赦しておけないものはある。目を瞑ったままではいられない事がどうしてもある。・・・クラウザー、・・・それだけお前には言っておきたかった」
低い声音は抑圧した感情を尚も押し殺すかのようだった。
「・・・父上」
「時間を取らせてすまなかった。もう行っていい」
これ以上は声を掛ける事が出来ない雰囲気に、クラウザーはこのまま部屋を退出するしかなかった。
それでも尚、父の様子を窺うように堅く閉まった扉を無言で見上げてしまう。
心臓がうるさい。
まるで感情の箍が外れてしまったかのような父の姿だった。
場合によっては宮殿に蔓延る母の勢力が一掃される可能性の孕んだ話だ。
これほど重大な事をこのタイミングで話したのには、一体どんな意味があるのだろう。
あの日、誰よりも近くであの光景を目撃した私だけは、あの瞬間を決して忘れるなと・・・
父上はそう訴えたかったのだろうか───
───そのお花はなぁに?
───・・・あ、これは、ぼくが育てたお花で・・・ビオラ様に・・・。レイにも、同じお花で作ってきたの
───まぁっ、ありがとう
───・・・・レイ、今日も元気? お兄ちゃんだよ! ほら、ビオラ様とお揃いだからねっ
───・・・あーうっ
───あははっ、よろこんでるっ。レイ、うれしいの? ぼくが作ったんだよ
それはとても幸せな記憶だった。
生まれて間もないレイ、穏やかに笑うビオラ、腹違いの弟を心から愛おしむ自分の姿。
レイが殊更懐いているという理由で父に請われ、何度も足を運んだあの部屋は宮殿の中枢に存在し、父の執務室からも程近い場所に用意されていた。
誰が見てもその特別な扱いは疑いようが無く、彼らこそが父が心血を注いで愛情を傾けた家族の姿そのものであり、それはクラウザーが憧れた幸福そのものだった。
しかし、出入りが禁じられているその宮殿の中核と言えるあの場所へ母が乗り込んでからの出来事はあっという間だった。
長年の鬱屈した感情は、何もかもを奪い返すために遂に爆発し、内に閉じこめ渦巻き続けた憎悪という牙を剥いたのだ。
───クラウザーッッ!!! あなた何をしているのっ!!!!
───・・・・・・ッ、・・・・・・は、・・・母上・・・・・・、どうして・・・
───どうしてですってっ!? 頻繁に姿を消しているのを心配しない母はいませんっ
───・・・でもここは
───ここが何だというのですっ! ・・・よりによって、この女に会いに行くなど・・・っ、他の誰が赦しても私は絶対に赦しませんッ!!!
───・・・・・・珍しい花は母ではなく、この女に捧げたのね・・・。あなたも私を捨てようというの?
───・・・は、・・・母上・・・
───クラークに誰よりも似た顔で、あなたまで私を・・・・・・っ! 赦さない赦さない赦さない、この女だけは絶対に赦さない! 私の一生をかけてでも呪い尽くしてやる・・・っ! ・・・あぁ、どれだけ切望したことか。血の涙を流しながら、この手であの日、息の根を止めることが出来なかったのをどれ程悔やんだことか・・・・っ!! だから言ったでしょう。死んでしまいなさいと、どうしてあの時死んでおかなかったの? あの人の子を身ごもるなんて、売女の分際で何という大罪! どこまで厚顔無恥でいられれば気が済むのッ!??
───母上、やめてくださいっ!! ぼく、戻りますからっ!!! 誰かッ、誰か早く来てッ、母上やめてっ、そんなことしないでっ!!!
───あなたの子もすぐに同じ場所へ送ってあげるわ。母子共々仲良く暮らしていけるように。これ以上、私達と同じ世界にいる事は絶対に赦さないっ!!!
母の暴言も荒れ狂う感情も、全て憶えている。
あの時、解毒方法すら分かっていない最悪の毒を使ったことも・・・
あれはナディアがビオラに向けて放った心の刃を現実のものとした瞬間だ。
恐ろしいまでの嫉妬と憎悪渦巻く殺意はあまりにも常軌を逸して、子供心に母が恐ろしかった。
先ほどの父の言葉が胸に刺さる。
八つ裂きにしても足りないと・・・彼はそう言ったのだ。
感情的に赦しておけないというのは、間違いなくナディアを指しているのだろう。
だが、母上は端から見ていて痛々しいほど、今も父上を愛し続けている・・・
それは今も昔も同じだ。
ナディアは自分以外を愛する夫に怒りの矛先を向けることは決してしない。
憎悪の対象は常に夫が愛でる存在に向かう。
彼女はビオラとレイを殺意を抱くほど憎み、鬱屈した感情は日々蓄積を続けた。
今思えばあれは、起こるべくして起こったものだったのだろう。
しかし、それで父の想いは一層遠くなり、それどころか憎悪さえ抱かれてしまったのだ。
忘れたのが事実だとすれば、母上がそれを理解する日は一生来ないのかもしれない・・・・・・
「クラウザー様」
不意に声を掛けられ、クラウザーは我に返って振り返る。
どれだけ此処で棒立ちになったまま考え込んでいたのだろうか。
スレイトが此方に向かって歩いてくる姿を見て唇を引き締め、山積している問題を一つ一つ片付けるため頭を切り替えた。
「・・・唐突だが明朝に出立することとなった。おまえとバーンを連れて行くつもりだ。少々長旅になるだろうから、準備は怠らぬようにして欲しい」
「畏まりました」
「それから・・・今回は父上も同行する。父の愛馬を使用しても良いとのことだ、少しは旅も楽になろう」
「・・・ッ、陛下が同行されるのですか・・・?」
「そうだ」
クラウザーは持っていた地図をスレイトに渡しながら少しだけ広げ、一点をトンと指さす。
ベリアルの文字にスレイトの瞳は極限まで開かれた。
「目的地だ」
「・・・っ」
「他言は禁ずる」
「・・・はっ」
「それから、今回の件は既に多くの者に知れ渡り、宮殿内は噂と憶測でさぞ溢れかえっているだろう。しかし、本件に関しての発言・宮殿外への情報漏出に関しては父上からの正式な発表があるまでは箝口令を敷くことにする。禁を犯した者には重罰、この件の情報が遮断される事で不平を漏らす者にも罰則を与える。既に敷地より外に出た者がいた場合は追跡の後拘留、噂が周囲に広まっているようであれば町ごと封鎖しても構わぬ。噂の出所となるものを根本から断つことを目的とせよ。人手はいくらでも使うといい、おまえ達のことは私から直接軍部に通達しておく」
「承知しました」
「私はこれから少々寄るところがある。・・・戻るまでに問題が起こったなら、全てはおまえ達の判断で動いて構わない、責任は全て私に押しつけておけ」
「はっ。それでは失礼致します」
一礼して身を翻したスレイトは足早に廊下の向こうへ立ち去る。
流石の彼も父の同行と目的地には驚いていたようだが、己の動揺に振り回されるような愚かさは持っていない。
きっと出立は問題なく進むだろう。
宮殿に多くの軍人を配備しているのは指令系統が速やかに働くという利点があるからだ。
もしいたずらに噂を外に広めようと騒ぎ立てるような輩がいるとするなら、それは軍人以外に限られる。
機密保持など軍人にとっては鉄則中の鉄則、今回の事を機密と判断出来ない無能が宮殿に配備されるような者にいる筈がない。
クラウザーは自らを律するかのように背筋を伸ばし、スレイトが立ち去った方向とは逆に歩き出す。
胸の中では再び先ほどの父の言葉が去来しそうになったが、それを封じ込めるかのように唇をかたく引き結んだ。
彼にも今は何を置いても優先すべき事があるのだ。
レイが目が醒めるまでの3日間、クラウザーは自分の持つ別邸にいた。
そこには、もうずっとレイと会うことを待ちこがれている者がいるのだ。
落ち着いた頃に、その人物をレイに会わせるつもりでいたが、それが目前でかなわなくなった今、理由も説明せずに旅立つわけにはいかない。
だから彼は、その人物が待つ宮殿から程近い、己の別邸へと向かわねばならなかったのだ。
「・・・・・・また・・・泣かれてしまうな」
その声音はどこかもの悲しく、それでいて安堵しているようでもあり、珍しく彼の感情が垣間見えるようなものだったのだが、己だけにしか聞こえないような囁きは誰の胸にも届くことはなかった。