『手の中の幸せ』
○第2話○ 自由と檻(後編) 気が付けば、ひと月が経過していた─── 数日後には出ていくつもりだったビオラの思いとは裏腹に、もう身体に心配は無いと告げたバティンの言葉がクラークにあっさりと流されてしまったのである。 だとしても、一介の医師でしかないバティンをどうして責めることが出来ただろう。 彼は約束を守ってくれた。 一度だけではなく何度もクラークに進言した・・・これ以上はバティンの立場を悪くしてしまうかもしれないと思い、ビオラ自身が止めさせた程に。 ビオラはいつになってもここから出られない現状に、酷く焦り苛立つばかりで・・・ 当のクラークは相変わらずやわらかい物腰で、ビオラの為すこと全てに意識を傾け、一時たりとも目を離したくないかのように側にいる。 同時に彼の視線に熱が籠もっていると言うことは、流石のビオラにも理解できるようになっていた。 途方に暮れた彼女は、俯き小さな溜息を漏らした。 それすら見逃さないクラークは側に寄り、ビオラのやわらかな白い手を自分のそれで包み込み、愛しそうに手の甲にキスを落とす。 「・・・やめて。どうしてそんな事するの?」 「元気がないみたいだ。やはりまだ体調がすぐれないんだね」 「ちがうわ、もう何ともないもの。ねぇ、私早くここを出たいの」 「だめ」 「どうして!?」 思わず声が大きくなる。 こんな問答をもう幾度と無く繰り返した。 いつもいつも堂々巡りで会話が進展しない・・・限界だった。 「ねぇどうして? 私出ていくって最初に言ったでしょう?」 「そうだね、でも、 行かせたくない。君に側にいて欲しい」 「何を言っているの? 知ってるのよ、あなたは結婚もしているし子供もいるわ。それに国を治める立場なんでしょう!? 責務をおろそかにしてまで素性の知れない女に付きっきりなんて許されない事だわ」 クラークを見ているとどうしてもレイドックを思いだしてしまう。 だって、どんな時でもレイドックは自分に課せられた役割に対して手を抜く事はなかった。 常に多忙を極め、あまり会う事ができない事は寂しかったが、誇らしくもあった。 皆に尊敬され崇拝される彼は何よりも輝く存在だったから・・・ 「君の素性について、失礼ながら手を尽くして調べさせたけれど、何も出てこなかった。けれど、そんなことはどうでもいいと私は思ってる」 クラークはビオラの口から初めて切り出された内容に幾分驚いたが、彼自身も既にビオラを眺めるだけでは物足りず、もっと深い心の内を彼女に打ち明けたいと思っていた。 微笑みながらビオラの手首を掴んで自分に引き寄せる。 反動で彼女の身体がクラークの胸の中に倒れ込んだ。 「やっ」 逃れようとするが、巧く封じられ簡単に抱きしめられた。 「私は今までこんな気持ちを知らなかった。妻も子もいるけれど、彼らは確かに大事な存在だった筈なのに、今では遠い過去を見ている気分だ。あれはまやかしだったのか? 君ならわかる?」 「・・・っ」 「ずっとずっと・・・決められた枠の中にしかいることが出来なかった。自由なんて許されなかった。妻は嫉妬深くて彼女以外の女性が私の側にいることを許さない、日に何度も愛の言葉を囁かなければ機嫌を損ねる。だが、そんなものは苦じゃなかった。確かに時折面倒に感じることはあったけれど、それが当たり前だと言われればそう言うものだと信じるしかなかった。・・・そして子供達は天真爛漫に育ち、将来を嘱望され・・・万事が良くできたシナリオ。それが今までの私の人生だ・・・ッ!」 クラークは気持ちの高ぶりを抑えきれず、ビオラを強く掻き抱く。 そうするほどに今まで感じなかった憤りと彼女への愛しさが募って想いが加速した。 「・・・君だけだ。そのシナリオを飛び越えてこんなに愛しい気持ちを教えてくれた」 「・・・やめてっ」 「どうしたらいい? 抑え方を知らないんだ。君に触れることばかり考えてる。この立場や環境に不満があるなら全て捨てても構わない。国も妻も子もいらない。その代わり君と生きたい」 「どうしてそんな事言うの!? 絶対に捨てられるわけがないのにっ」 レイドックにだって無理だったのに。 どれだけがんばっても敵わないくらい大きなものを相手にしているのに、捨てようと思ったって、そんなのは希望であって決して現実にはならないものだ。 「あなたは皆のものなのよ」 だれか一人のものにはなれない。 辛くても苦しくても、渦の中心にいつづけなければいけないのだ。 ビオラはクラークの胸を押し、静かに身体を離した。 彼の顔は眩しいものを見るかのようにビオラを見つめ、押し黙っている。 「・・・・・・あなたは今、物珍しい存在に興味があるだけ。その気持ちは一時だけのものなの」 犠牲の上に成り立つ幸せなど、幻となって儚く消え失せるのだ。 物珍しいだけなら直ぐに飽きて要らなくなる・・・それでいい。 「君は不思議な人だね」 ポツリ、とクラークが呟く。 「どうして、私の立場をそこまで理解できるんだろう」 「・・・・・・それは・・・」 「・・・知ってる、逃げる事は出来ない。でも、私が全ての権力を手中に収めてるのは事実なんだよ、それがどういう事か理解出来る?」 「・・・わからないわ。でも、だからと言ってそれを自由に出来るわけじゃないもの」 ビオラの答えにクラークは堪らなくなり、再び胸の中に彼女を閉じ込めた。 「何をするのっ」 「私もそう思ってた。でも、思いどおりにして何が悪いんだろう」 「・・・?」 クラークは力を緩め、腕の中の彼女を愛しそうに見つめた。 彼の中の気持ちは最早誰にも止めようのない所まで駆け抜けてしまったのだ。 「君を私の妻に迎えるよ。きっと毎日が幸せに違いない」 「なっ」 「もう二度とビオラ以外の女性には触れない。君だけを愛したいんだ」 「・・・っ」 ・・・・・・なんという事だろう。 同じような事をレイドックも言ったのだ・・・ 彼はそう言ってビオラと生きる事を選び、全てを捨てようとしたのだ。 だが、クラークは別の事をやろうとしている。 全ては手中に収めたまま、ビオラを手に入れようとしている。 そんな事ができるのか? なぜ、どうしてそこまでして・・・ 「・・・私、・・・そんなのしらない。出て行くもの、今すぐ出て行くわ」 逃れようと身を捩るが、彼は力強く抱きしめて離さない。 今出て行かなければ、大変な事になる。 クラークは薄く笑い、ビオラの顎を掴むと顔を上に向かせ、自分の唇を彼女の唇に重ねた。 「・・・っ、・・・んっ、っっ、・・・っ!!」 驚きの直後小さく開いたままの口の中に彼の舌が差し込まれ、縦横無尽に口内を味わい、逃げ惑う舌を捕まえ執拗に絡めた。 ビオラは抵抗する事も逃げる事も出来ず、涙が止まらなかった。 「泣き顔もいいね。・・・でも、出て行くなんて言うからいけないんだよ。私の決めた事は誰にも変えられない」 「いやっ、・・・っ」 「狂う程君を愛してみたいね」 「・・・・・・っっ・・・っ」 クラークの熱い吐息を耳に感じ、ビオラは身を縮ませることしかできなかった。 レイドック以外に対しては、あのラティエルでさえも受け入れられなかったというのに、どうして目の前にいるクラークを受け入れられるというのか。 それでも、情熱的な口づけから逃れる術などビオラに持ち合わせておらず、呆然と涙を流しながら受け止めるしかなかった。 ───ただ、・・・静かに暮らしたいだけ。 誰にも干渉されず、この子と生きたいと思っているだけなのに。 どうしてそれさえ・・・ 第3話へつづく Copyright 2006 桜井さくや. All rights reserved. Never reproduce or republicate without written permission. |