『手の中の幸せ』

○第4話○ 逃亡の果て(後編)








 ビオラがグリフォンに乗って山荘に戻ると、ニーナは顔をくしゃくしゃにして、「ばかだ、ばかだ」と何度も呟いては泣きじゃくった。
 それに対してビオラは彼女を抱きしめることでしか、彼女を宥める方法を見つける事が出来なかった。

 ニーナがそんなものを感じる必要なんてないというのに、罪悪感で胸を痛めているということが手に取るように分かったから・・・


 そして、ここに戻ってきてひとつ気づいたことがある。
 山荘から逃げたときは分からなかったが、驚いたことにクラークは誰一人として護衛を連れていなかったのだ。
 つまりそれは、クラーク唯一人でここまでビオラを追ってきたという事を意味していた。



「流石にあの滝を抜けるのは並の馬では不可能だ。出来るとしたら・・・私の馬くらいだったからね」

 驚いて問いかけると、彼は何でも無い事のように頷いてそう答えた。

 ビオラは外で休んでいる彼の愛馬を窓越しに見て思わず納得する。
 グリフォンと見比べても、全く引けを取らない立派で美しい馬だったのだ。


「彼はランス。森で獣に襲われそうになった君を見つけたのも彼だった」

「・・・え?」


 クラークはやわらかく微笑み、ビオラの手を取った。


「ランスが私たちを二度も引き合わせてくれたんだ」


 その手に口づけ、彼女の身体を引き寄せる。
 ビオラは呆然として抵抗する事も出来なかった。

 何故なら・・・・・・彼が運命的なものを感じると言うのも無理はないように思えてしまったのだ。
 クラークの手をすり抜けて絶対に追いつけない所まで来たはずなのに、これではまるで彼の愛馬が全てを飛び越えて二人を結びつけようとしているみたいではないかと・・・。

 だが選りに選ってそれが何故自分なのだろう・・・・・・

 誰よりも兄を愛し、その子供まで身ごもった女が・・・どうしたらクラークと寄り添えると・・・・・・?




「何度逃げても同じだよ・・・ランスが見つけて、君は私の胸に戻ってくる・・・」

「・・・・・・・・・ッ・・・」

「もう・・・諦めて・・・・・・私の側に・・・・・・いれば、いい・・・・・・・・」


「・・・・・・・・・、・・・・・・クラーク?」


 ビオラはクラークの胸の中で、途切れがちな声に妙な違和感を抱いて彼を見上げた。


 何というか・・・
 あまりに彼の腕が頼りなく、弱々しい・・・?

 そんなはずはないと思うのだけれど。




「・・・・・・クラーク?」

「・・・・・・うん?」


 けれど、やわらかく微笑みを返すその瞳を見ても、やはり何かがおかしいような気がしてならないのだ。


 ・・・・・・冷たい?

 そう、クラークの身体がとても冷たいような気がした。



「ねぇ・・・何か・・・」


 彼の顔を覗き込むと、元々白い肌がもっと白く・・・・・・蒼白に見えた。
 何事もないように笑っているが・・・これは・・・・・・

 ・・・そう言えば彼は何故上着を脱がないのだろう・・・と不意に思う。
 暖かい部屋で厚手のコートをボタン一つ外すことなく着込んだままというのは、不自然といえば不自然じゃないだろうか・・・・・・・・。


「・・・・・・」


 ビオラは少し考えを巡らせていたが、意を決して彼の黒いコートに手をかけた。
 クラークは少し驚いたように目を見開いたが、特に何の抵抗もせずビオラの好きにさせている。

 そして、三枚目の服に彼女が手をかけたとき、真っ白なシャツが鮮血に染まっていることに漸く気が付いた。
 丁度脇腹の辺り・・・いや、背中から脇腹にかけて。
 これまで脱がした上着をよく見れば、同じ部分がざっくりと裂けていた。
 ゆったりとした作りの服だった事と、どれも強めの黒系色だった事から少し見ただけでは分からなかったのだ。



「・・・何・・・これ・・・?」

「・・・・・・かすり傷だよ」


 そんなはずはない。
 そんな風に笑っていられるほど軽い怪我では・・・


「ちゃんと見せてっ!」


 ビオラは最後の一枚を脱がせ、彼の上半身に身につけていたものを全て取り去った。



「・・・・・・っ、ひ・・・っ!?」



 これは一体どういうことなのか・・・・・・


 目を覆いたくなるような・・・・彼の背中から脇腹を剔るように・・・まるで内臓から全てをもぎ取ろうとしたかのような惨い傷・・・。


 ただの傷ではない・・・まして、かすり傷などでは・・・・・・





「・・・何に・・・噛まれたの・・・?」



 これは・・・噛み傷だ。
 それも大型の肉食獣であろう事は容易く想像出来るほど、巨大で獰猛な・・・・・・・・・。


「・・・・・・」

「ねぇ、どうして!? どうしてこんな・・・っ」


 クラークは激しく動揺するビオラを見つめ、微笑んだ。
 そして、やわらかく彼女の頬を撫でると、疲れたように静かに目を閉じる。


「アカシアの滝を抜けるとき・・・・・・着いてくると言って聞かなかった者が数名いた。彼らは私より先にアカシアの滝に挑んだが・・・彼らの馬であの巨大な滝を制するなど端から無謀な挑戦だったのだ」

「・・・・・・っ」

「・・・・だが、次々に滝壺に転落していく彼らを待ち受けていたのは地獄だった。・・・・・・巨大な滝に潜む主・・・その存在は噂には聞いていたが想像以上の大きさと獰猛さを持って凶暴に襲いかかり、・・・・・・・・・私の目の前で・・・ッ、彼らは一人残らず餌となって消えた。・・・彼らは私の為に命を張った同士だ・・・何故あのような獣に喰われなければならない・・・? 私が彼らの主であるなら敵を討つのは当然の事・・・・・・だから自ら滝壺へと飛び込んだのだ」

「・・・・・・それで・・・」

「奴の口を裂いてやった。残念ながら無傷で・・・というわけにはいかず、危うく喰われかけたけれどね」

「・・・ひどい・・・っ」

「大丈夫、・・・少し眠れば治る」



 ───嘘だ。

 ここまで酷い傷は見た事がない。
 恐らく臓器を傷つけて・・・・・・どんなに回復力があったって治るものではない。

 最早致命傷と言っても過言では・・・




「ビオラ・・・様」


 後ろで全てを見ていたニーナが声を絞り出す。
 振り向くと、青い顔で唇をふるわせていた。


「ニーナさん?」

「・・・王さま・・・助からないよ。・・・・・・猛毒なんだ」

「えっ?」

「アカシアの滝の主・・・アイツの牙は猛毒なんだ、どんな解毒剤も効かないんだッ! 生きてる方が・・・立ってる方が不思議なんだよ、もう全身に毒が回ってる!」

「・・・・・・っ!?」


 猛毒・・・、
 身体が冷たいのは毒の所為だったの・・・ッ!?

 背筋に冷たいものが走った。

 なら・・・このままでは・・・


「・・・大丈夫だと言ったろう? 眠れば治る。そんな顔をする必要はないよ・・・・・・」


 違う・・・寝たらもう二度と起きない。
 心配させまいと無理をしているだけだ、強靱な精神力だけで。

 頭の中にラティエルの顔が浮かんだ・・・・・・
 クラークも彼のように動かなくなるというのか・・・?


「・・・どうして?」


 クラークの手を取る。
 冷たい、まるで生き物ではないみたいな感触に、身体の底から震えが走った。


「私・・・・・・あなたに想われるような事・・・何一つしていないのに・・・・・・っ」


 知らずのうちに涙が頬を伝う。
 クラークは愛おしそうにそれらを唇で吸い取り、弱々しい腕の力で彼女を守ろうとするかのように抱きしめた。


「・・・どうしてかな。・・・出会った瞬間から君に惹かれたんだ。・・・・だけど、城に連れて帰って目覚めた時の・・・頼りなげで寂しそうで・・・真っ直ぐな瞳を見たら、もう手放せないほど愛しくて堪らない気持ちになってた・・・・・・」

「・・・・・・っ」

「こんなに不安そうな目をしているのに・・・どうしてか、君と居ると心が満たされる。とても・・・幸せなんだよ。だから・・・何をしても君を手に入れたかった・・・」


 そこまで言うと、クラークは青ざめた顔を更に蒼白にして膝をついた。
 そして彼は小刻みに呼吸を荒くして膝を震わせ、遂にその場に倒れ込んでしまった。


「クラークっ!!」

「ビオラ様・・・っ、・・・・・・王さま・・・・・・死んじゃう・・・・・・っ、バアルの王さまが・・・・・・こんな所で・・・」


 ニーナの声が先程より酷く震えている。
 逃げることは考えていたけれど、王の死など考えていなかった。



 ───事実、彼の死は直ぐ其処まできているのだろう。



 そして・・・・・・彼が死んでしまえば、もう私を追ってくる人はいない・・・

 思い描いたような場所で赤ちゃんと静かに過ごす事だって・・・



 ・・・・・・・・・、・・・だけど・・・っ


 ラティエルの時のように異変に気づきながら放っておくというのか?
 このまま死んでいくのをただ黙って・・・・・・?



 それで良いわけがない・・・ッ


 ・・・・・・・・目の前で誰かが死ぬのはもうたくさんだ・・・・・!





「ビオラ様、・・・どうして・・・そんな落ち着いてるの・・・っ、王さま、死んじゃうよぉ」


 ビオラは振り返り、可哀想なほど震えるニーナを抱きしめた。


「・・・死なないわ」


 きゅっと唇を噛みしめ、何かを決意したかのように・・・

 だがこの状況で死なないなんてどうしたら断言できるのか、ニーナには一切理解できなかった。



「・・・クラークは死なせない」

「・・・なん・・・っで」


「ずっと・・・役立たずだと思っていた力だったけど・・・・・」


 ビオラは自分の手のひらを見つめ・・・悲しそうに笑った・・・。


 この力は、今までレイドックだけが誉めてくれたものだった。
 何よりも素晴らしい力だと彼だけは言ってくれたけれど、争いのないベルフェゴールでは何の価値も見いだせず、レイドックの言葉を素直に受け止めるなんて出来なかった・・・。


 この手は・・・レイドックの元へ置いてきたフィーシャのような命を創り出すだけでなく・・・・・・命さえ繋いでいれば、どんなものでも癒してしまう力を持っている。


 誰の役にも立った事のない、・・・私が持つ唯一の───







「・・・ビオラ様・・・それ・・・・・・なに・・・・・・」



 ビオラの両手が淡い光を放っていた。
 その穏やかな光に目を奪われたニーナは、震えていた事すら忘れて食い入るようにそれを凝視した。

 ビオラは両の手を倒れ込むクラークの傷元へ伸ばし、一層大きく強い光を放つその手で静かに触れる。
 信じられない事に傷口は光に反応を示し、みるみるうちに裂けた肉が自ら元の状態へ戻ろうと動き出したのだ。


「・・・・・・・・・ぅ・・・・・・う・・・・・・」


 クラークは失いかける意識の底で、我が身に起こった異変に眉を顰めていた。

 その動きは決して気持ちの良いものではなく、活発に動く傷口が新たな細胞を作る事で足りない部分を補い始め、そうする事で目を背けたくなるような傷口が瞬く間にどんどん小さくなっていく。


 まるで夢か幻のような奇跡の現象は、傷を完全に消し去るに至り、苦しげなクラークの表情はいつしか穏やかなものへと変化していた。
 そして、光りを放つ手はそのままに、苦しそうに顔を顰めるクラークの頬を幾度も撫で、ビオラはサラサラと流れる金糸のような彼の髪を梳いていく。

 その光景を見たニーナは、彼女を『花の精』と例えた言葉を撤回したくなった。


 花の精・・・どころか・・・



「・・・・・・・・・女神・・・さま・・・・・・みたいだ・・・・・・・・・っ」




 クラークの頬に赤みがさす・・・
 閉じた瞼が僅かにふるえ、彼はほんの少し目を開けた。

 だが、髪を梳かれる感触があまりに優しくて、それはまるで母の胎内のような安心感を与え、彼はうっとりともう一度目を閉じる。



「・・・・・・安心して寝ても良いのよ」

「・・・・・・ビオ・・・ラ・・・」



「もう、どこへも行かないから」



 耳元で囁き、穏やかに眠りに落ちたクラークに微笑みかける。



「・・・ビオラ・・・様・・・・・・っ」

「ニーナさん、ありがとう。バティンは必ずあなたの元へ帰すわ」

「違うよっ・・・そうじゃなくて・・・っ」

「私は平気よ」

「そんなわけ・・・っ」

「だいじょうぶ」

「ビオラ様・・・っ」




 私は・・・今でもレイドックを愛してる。
 彼が側にいることが幸せでならなかった。



 だから、クラークが私に向けてくれた気持ちもそう言うものだというのなら・・・・・・

 瀕死の傷を負ってまでこんな私を欲しいと言って、共に生きることが幸せだというのなら・・・・・・



 それは決して不幸なことではないのかもしれない───






「クラークが動けるようになったら・・・戻りましょうね」






 その時、お腹があたたかくなって・・・無性に涙が出て止まらなかった。



 ───赤ちゃん、あなたの答えも一緒なのね




 そう思えて仕方なかったから・・・









第5話へつづく


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