『手の中の幸せ』

○最終話○ 描いた未来(その3)











 ビオラ妃、男子出産。
 それは宮殿の中にいた重臣達でさえも寝耳に水となった、まさに前代未聞の出来事であった。


 この一報は、出産の翌日にはバアル全土に知れ渡る程大々的に駆けめぐり、まさに国中を驚愕させる事態となったのである。



 ───にもかかわらず、この件は男子出産の一報のみ伝えられた事が情報の全てだった。

 そのうえ、その後数年間に渡り、この赤子の情報については一切漏れ伝わることは無い程、少しでも情報を得ようと不審な動きを見せた者は二度と地上の土が踏めないと噂が流れたほどの徹底した情報管理により、赤子の存在そのものが表に出ることは無かったのである。



 それはたったの2ヶ月で出産に至った事だけが理由ではない。
 現時点ではとても公表出来ない事態がその赤子の身に起こった事が最たる理由であった。





 全ては出産直後・・・

 もしかしたら、ビオラが赤子を抱く以前から、それは始まっていたのかもしれなかった。





 そしてそんな折り、鬱屈し続けたひとりの女の憎悪が遂に臨界点を迎えた。
 誰ひとりとしてその兆候に気づけないまま、この後長きに渡って深い哀しみで狂わされることになるひとつの悲劇が、起こるべくして起こってしまったのである。











 ───二ヶ月後───



「いらっしゃい、どうぞ入って」


 ビオラは小さな訪問者を自ら出迎え、嬉しそうに部屋の中へと招き入れた。
 小さな訪問者とは、最近では度々顔を見せるようになったクラウザーである。


「ビオラ様、もうベッドからあがれるんですか?」

「えぇ、昨日からね」

 彼女はあまりにも過酷だった出産に暫く起き上がることが出来ず、約2ヶ月経った昨日になって漸くベッドから離れることが出来たばかりだった。
 ホッと安心したように息をついたクラウザーは、頬を紅潮させながら嬉しそうに笑顔を見せた。

「よかった! ほんとうによかった!!」

「ありがとう。・・・ところで、そのお花はなぁに?」

「・・・あ、これは、ぼくが育てたお花で・・・ビオラ様に・・・」


 クラウザーが右手に抱えていた花束をビオラに手渡すと、色とりどりの美しい花にビオラは目を丸くして喜んだ。


「素敵! これもあなたが育てたのねっ! 早く飾りたいわ・・・っ、ニーナ、ニーナ! ・・・・・・あら? そう言えばニーナが戻ってないわ。・・・今日はニーナは迎えに行かなかったの?」

「はい。今日はニーナさんじゃなくて、衛兵にここまで送られて・・・」

「・・・・・・変ね・・・、クラウザーを迎える為に出て行ったのに・・・・・・じゃあニーナはどこへ行っちゃったのかしら? ・・・あ、このお花、このままで枯れたりしないかしら・・・」

「だいじょうぶです、このままでも少しの間は充分もつから」

「そう、よかった」

「それと・・・もうひとつ、これを・・・」


 そう言って彼は左手を背中に回して隠し持っていた真っ白な花で出来た冠を見せると、背伸びをしつつ彼女の頭にちょこんと乗せる。


「まぁ・・・っ!」

「やっぱりビオラ様によく似合ってる」

「これ、クラウザーが作ったの?」

「はいっ」


 クラウザーはプレゼントした花の冠を頭に乗せたビオラを見て、頬を染める。
 花の精のように可愛いと思ったのだ。
 それに、自分のあげたもので、こんなとびきりの笑顔を向けてくれるとは考えもしなかったから。


 一昨日、彼は北の森に出かけ、滅多にお目にかかることの出来ない珍しいその白い花を摘んで彼女の為に冠を作った。
 手にした者は幸福になれると伝わるとても稀少な花で、クラウザーは迷わずビオラへの贈り物とすることを決めたのだ。


 赤子が生まれてから、彼は既に何度か此処へ来ている。
 父であるクラークとは執務中で会えない事も多かったが、クラウザーは寂しがる様子も無くビオラと赤子に接し、ほんの少しの時間を楽しげに会話して帰って行く。
 それはビオラの出産前にクラークと交わした言葉で、彼なりの強い使命感のようなものを感じたからかもしれなかった。


「レイにも、同じお花で作ってきたの」

「まぁっ、ありがとう」

「・・・・レイ、今日も元気? お兄ちゃんだよ! ほら、ビオラ様とお揃いだからねっ」

「・・・あーうっ」

「あははっ、よろこんでるっ。レイ、うれしいの? ぼくが作ったんだよ」

「あー、あーぅ」


 クラウザーは赤子がいるベッドを笑顔で覗き込み、楽しそうに会話を弾ませている。


 赤子はそのままレイと名づけられた。

 レイはクラウザーの事を初めて見たその瞬間からとても気に入ったようで、彼が来るととても活発な動きを見せた。
 そして、彼が近づくとまるで『側にいて』とせがんでるように手を伸ばして、クラウザーの服を小さな手で懸命に握りしめる。

 クラウザーもレイをとても可愛がった。
 会えば必ず顔中にキスの雨を降らせ、大事そうにレイを抱きしめて話しかける。


 ビオラは最初その光景が不思議でならなかったが、心の底からそうしてくれているのは見ているだけで充分伝わってきたので、弟を可愛がっている兄の姿として段々とそれを自然に捉えるようになっていった。



「ビオラ様、・・・レイの目、とてもきれい」

「そうね」


 クラウザーはレイの瞳をうっとりと見つめながらビオラに話しかける。
 彼と同じようにクラークもそうやってレイの目を見てはうっとりしている姿を毎日のように見ているものだから、親子というのはそう言うところまで似るのか・・・と微笑みを浮かべつつ彼女は頷いた。


「ぼくね、わかった事があるんだけど・・・」

「なあに?」

「この目はね、光の角度っていうのだけで色が変わるんじゃなくて・・・、レイの気持ちでも変わるんだよ」

「え?」

「うれしいとね、ぼくの目みたいにエメラルドになるし、寂しいとね、深い青色になるの」

「そう。・・・今は?」

「エメラルドに見える」

「きっと、クラウザーにもらったお花がうれしいのね」

「えへへ・・・っ、よかった」


 ビオラはクラウザーの無邪気さを微笑ましく思いながら、彼の腕に抱きしめられているレイに視線を向けた。
 頭に乗せられた花の冠を、その小さな手で確認するように触りながら、完全に心を預けた様子でクラウザーの腕におさまっている。

 どこまでも愛しい存在に胸の中が温かくなった。




 ───しかし、そんな時だった。

 突然何の前触れもなく、温かな雰囲気を一瞬で壊してしまうような、やけに騒がしい声が部屋の外から聞こえてきたのである。


『・・・て、くださ・・・・・・ッ、・・・・・・様・・・ッ』

『・・・・・・わっ、・・・中に、・・・・・・ーが、・・・ッ、・・・・・・なさいっ!!!』



 何か揉めているような・・・、
 叫びに似た声も混じっているような・・・

 ビオラとクラウザーは顔を見合わせ、一体何事かと扉に顔を向ける。



「・・・・・・何か・・・」


 だが、ビオラが不審に思って扉に近づこうとした時だった。




「私に許可無く触れることは赦しませんッ!! 衛兵ならそれらしく大人しく立っていなさいッッ!!!」


 部屋の扉が唐突に大きな音を立てて開いたのである。

 ・・・・・・女の怒声と共に。




「クラウザーッッ!!! あなた何をしているのっ!!!!」

「・・・・・・ッ、・・・・・・は、・・・母上・・・・・・、どうして・・・」

「どうしてですってっ!? 頻繁に姿を消しているのを心配しない母はいませんっ」

「・・・でもここは」

「ここが何だというのですっ! ・・・よりによって、この女に会いに行くなど・・・っ、他の誰が赦しても私は絶対に赦しませんッ!!!」


 見たことも無い母の怒りに満ちた表情に、クラウザーは言葉を失って固まった。
 それもそのはず、怒声と共に部屋に入ってきたのは、北の棟から宮殿中央部へ足を踏み入れることを禁じられ、厚い警備で近づくことすら出来ない筈のナディアだったのだ。

 一体どうやってここまで・・・

 呆然とする間もなく、ナディアは激しく興奮しながら、ビオラの横で怯えた様子で立ちつくすクラウザーの手を強く引っ張り、自分の方へと強く引き寄せる。
 誰よりも憎むべき女の側に可愛い愛息がいるのが我慢ならないといった様子だ。


「何故こんな事を・・・ッ、あなただけは私の期待を裏切らないと信じていたのにっ!!」

「・・・は、母上・・・」


 ナディアは怒りに打ち震えながらクラウザーをきつく抱きしめる。


 実を言うと、彼女がここ最近のクラウザーの様子に不審を抱き始めたのは、数週間前の事だった。
 毎日のように弟達の遊び相手をして、母に接する優しさもいつも通りなのに、一見いつもと変わりがないように見えるクラウザーに対して、ナディアの不安は日々燻り続けていたのだ。

 いつもと同じようでいて、どこか上の空のような・・・
 何か別の事に夢中になっているような気がして。


 そして供も連れずに森へ出かけては、その数日後には必ず少しだけ姿を消す時間が訪れるという法則があることに、彼女は次第に疑問を憶えていったのだ。


 クラウザーの行動を探る為、ナディアは自身の密偵を使って徹底的に調べさせた。
 我が子の行動を探るなど今まで考えた事もなかったが、嫌な不安は増すばかりで、なりふりなど構っていられなかったのだ。
 しかし当初、上手く撒かれてしまっているのか途中で見失ってしまい、彼がどこで何をしているのかを掴むことは、子供と侮れないほどの困難を極めた。

 だが、それこそが彼女の不安感を一層募らせる結果を生んでしまったのだ。

 結果的に執拗で執念深い追跡となったことは言うまでもなく、遂にクラウザーの足取りを掴み、行き先が判明するに至ったのである。

 分かってみれば、中々掴めなかったのも納得出来る話だった。
 いつもクラウザーを北の棟まで迎えに来ていたのは、クラーク直属の精鋭部隊のひとりと噂される男だったのだ。
 北の棟の者には一切姿を見られないように、誰にもこの事を知られることの無いように、極秘での行動ということはそれだけで窺い知れるというものだ。

 しかし何よりナディアを激昂させたのは、城の中央へ繋がる入り口付近まで男が付き添うと、そこで待つビオラの侍女にクラウザーを引き渡していたという事実だ。


 この5年以上に渡る惨めな生活に堪えたうえ、こんな所に行き着かなければならないとは・・・
 誰よりも憎いこの女に、愛する子供までも奪われようとしているのかと・・・



 ───クラウザー・・・、今日は北の森に行っていたんでしょう? 珍しい花は見つかった?

 ───今日は何も・・・。見つけたら、母上に差し上げます


 ナディアはビオラを激しく睨みつけ、彼女の頭の上に乗った白い花の冠を目に留めて、血が滲むほど唇を噛み締めた。


「・・・・・・珍しい花は母ではなく、この女に捧げたのね・・・。あなたも私を捨てようというの?」

「・・・は、・・・母上・・・」


「クラークに誰よりも似た顔で、あなたまで私を・・・・・・っ!」



 ナディアは泣き叫び、憎悪の籠もった眼差しでビオラを更に睨みつける。
 黙っていれば着飾ったドレスや宝飾品がそれなりに似合う容姿を持っている筈なのに、感情を包み隠すことの無いその恐ろしい形相にビオラの身体は簡単にすくんでしまう。
 数年前と同じような・・・いや、それ以上の恐ろしい顔でナディアが近づいてきても、ただじりじりと後ろへ下がる事しか出来なかった。



「赦さない赦さない赦さない、この女だけは絶対に赦さない! 私の一生をかけてでも呪い尽くしてやる・・・っ! ・・・あぁ、どれだけ切望したことか。血の涙を流しながら、この手であの日、息の根を止めることが出来なかったのをどれ程悔やんだことか・・・・っ!!」


 そう言って、ナディアは『あの日』のように、ビオラの白く細い首に両手をかける。
 彼女の目は狂気に満ち溢れ、狂ったように笑い声を上げ、そこから逃れようと思った時には既に後ろは壁・・・それ以上、どうにも出来ない場所にまで追いつめられてしまった。


「だから言ったでしょう。死んでしまいなさいと、どうしてあの時死んでおかなかったの? あの人の子を身ごもるなんて、売女の分際で何という大罪! どこまで厚顔無恥でいられれば気が済むのッ!??」

「・・・・・・うぅっっ!」



 ナディアの両手がビオラの首を締めあげ、恐ろしいほどの笑みを讃える。
 クラウザーは驚き、咄嗟に母の腰にしがみついて懸命に訴えた。


「母上、やめてくださいっ!! ぼく、戻りますからっ!!! 誰かッ、誰か早く来てッ、母上やめてっ、そんなことしないでっ!!!」

「あなたの子も直ぐに同じ場所へ送ってあげるわ。母子共々仲良く暮らしていけるように」

「・・・はっ、・・・ぅうっっ」

「これ以上、私達と同じ世界にいる事は絶対に赦さないっ!!!」


 ナディアの爪が喉に食い込む。
 しかもそれだけではない衝撃も同時に襲い始めて・・・



 ・・・これは・・・・・・、何・・・?


 首が熱い。
 火傷したみたいに。

 一気に全身に駆け回るこの熱は・・・・・・───




「・・・っ・・・か、・・・・・・・・・は、・・・・・・・・・・・・ぅ・・・・・・ッ」






 やはり彼女に殺される運命だったのだろうか。




 クラークから逃げようとして、失敗して・・・、

 彼と共に生きることを決めた瞬間には、こういう最期を迎える事が決まっていたのだろうか。



 彼とは一生を添うことが出来ないと・・・・・・?







「・・・ッ、何をしているっ!!!!!」



「きゃあっ!!」



 だが、ナディアの叫びと共にビオラへの首の締め付けが突然消えた。
 それは衛兵達に呼ばれて走ってきたクラークによるものだった。
 衛兵達は北の棟に追いやられたとは言え、相変わらず気性が激しいナディアの報復が恐ろしく、また彼女の後ろ盾になっている権力に恐怖するあまり直接どうこうすることも出来ずに、クラークを呼ぶくらいの事しか出来なかったのだ。

 彼はナディアを突き飛ばすと、あの時以上に悲痛な眼差しでビオラを抱き上げ、何度も唇を合わせて空気を送り込む。



 これは何だろう・・・?

 あの時と同じだわ・・・全く同じ事を繰り返しているみたい・・・



 頭の中でぼんやりとそんな事を考えながら、送り込まれた空気にビオラは激しく咽せた。




「げほっ、ごほごほごほっ、ごほっ」


 だが、何かを言おうとしてもまともな言葉にならない。
 以前のような強い首の締め付けでは無かったのに、声がうまく出せなかった。


 それに・・・この熱さはなに・・・。
 喉も・・・・・・全身も・・・・・・、これは何なの・・・っ


 クラークは喉を押さえて咽せるビオラを抱きしめ、怒気を孕んだ瞳でナディアを振り返った。


「・・・何と言うことを・・・ッ、禁じた場所にも踏み入れ、揚げ句このような愚行に及ぶとは・・・っ」

「・・・・・・あぁ、クラーク、クラーク」

「君を心から軽蔑する・・・っ」

「いやよ、違うわ。・・・私、あなたを愛してるの、昔に戻りたいだけなの、あの頃のように愛していると言ってほしくて、私だけを愛してると言ってほしくてッ!! だからお願い、そんな顔で見ないで・・・っっ!」



 ナディアは涙を流しながら懇願した。


 立ち上がり、愛しいクラークに向かって、ただ手を伸ばそうと・・・・・・





「・・・・・・・・・あーー、・・・あう」


 だが、赤子の声に、一瞬だけナディアの意識がそれる。




「・・・・・・・・・っ」



 赤子・・・、

 クラークとビオラ・・・、二人の・・・、


 赦されぬ子、
 望まぬ子、

 生まれてはいけない・・・


 彼女は己の身が引き裂かれそうな憎悪と嫉妬に激しく感情が揺さぶられ、クラークに向けようとした手を赤子に向けたのだ。



「この子も殺して、それで何もかも全てあの頃に戻るのよっ!!!」


「ナディア、やめろっ!!!!」


 しかし、叫びながらベッドの中の赤子に手を伸ばそうとした瞬間、ナディアの顔色が変わった。




「・・・・・・・・・ッ!!?」


「あー、あーぅ」


「ナディア、・・・その子にまで手を出したら私はお前を一生牢に閉じこめる!!」



 クラークの恐ろしいまでの冷酷な言葉。
 何て恐ろしいことを言うの。

 牢、地下のあの罪人を閉じこめるあの場所に、私を一生閉じこめるというの?



 だけど、手を出すなんて・・・・・・、・・・そんな事が出来るはずがない。



 これは・・・・・・なんなの。



 これは赤子のはずでしょう?

 まだ生まれてふた月程度と聞いた、こんな事があるわけがない。



 目の前で私を見ているこれは・・・・・・なに・・・?





 ───金色の瞳、・・・・・・黒い羽根・・・。




 こんな生きものは見たことがない。








その4へつづく


<<BACK  HOME  NEXT>>



Copyright 2011 桜井さくや. All rights reserved. Never reproduce or republicate without written permission.