広大な大陸から海を隔てたところに小さな国がある。
ヒノモトと呼ばれるその島国は、ほとんど他国との交流がなかったこともあり、大陸とは異なる文化を持っていた。
小国ながらも土壌が豊かで自然に恵まれ、四季もあり、国土の東側に暖かい海流が流れている。
そのため季候が良く、動植物の数、種類ともに実に豊富であり、農林水産の一次産業が著しく発達していた。

しかしこの国の繁栄は決して自然環境が良いから、という原因だけではない。
国民は穏やかで控え目な人が多く、勤勉であった。
真面目な国民性こそがヒノモトの誇りであり、力だったのだ。
そのヒノモトも戦と無縁というわけにはいかず、朝廷の力が衰えたことにつけ込んで、地方武士たちが力尽くで領地を
奪うようになっていった。
戦国時代と呼ばれたその戦乱は実に一世紀にも及び、人々は疲弊し、国力も失われていった。

ここで帝に忠誠を尽くすひとりの大名が頭角を現して、敵対勢力をひとつずつ潰していくことになる。
その田舎大名は、類い希な政戦両略の天才であり、見る見るうちに国内の混乱を治めてしまい、20年ほどでほぼ天下を統一した。
朝廷に出仕した彼は、驚くべき事にそこで支配権の放棄を申し出たのである。
もともと自分が治めていた一国を除き、すべてを朝廷に返還し、朝廷から将軍職を授けられたものの、これも辞退している。
但し、朝廷に弓引く者あらば、いつでも起つことも同時に宣言していた。
彼のお陰で威信を取り戻した朝廷は国土を六十六州に分け、帝の名に於いて国主を指名し、支配させた。
これにより、帝及び朝廷が、国主以下の武士階級よりも上位であることを認識させたのだった。

100年に渡る戦国時代で荒廃した国土を立て直している最中に、ヒノモトは外国からの侵略を受けた。
四囲を海に囲まれていることもあり、ヒノモトは他国に侵攻されたことはほとんどない。過去に二度ほどあったものの、
両方とも上陸される前に撃退していた。
ヒノモトの沖に迫った大艦隊に突如、暴風雨が襲ってきたのである。

熱帯性低気圧──つまり台風であった。
当時、天気予報などというものはなく、占い師や風水による予言がせいぜいであり、自然現象の猛威の前に侵略軍は潰えた。
驚いたことに、この台風が二度目の侵攻の際にも吹き荒れたのだ。
遠征軍を乗せた艦隊は、またも壊滅的被害を受け、這々の体で祖国へ逃げ帰った。

ヒノモトの民達は、これを天佑として神に感謝し、以後、国難ある時には「神風」が吹くと信じるようになっていった。
ヒノモトを二度にわたり侵略しようとした大国は、あまりの損害の大きさにたじろぎ、以来かの国に手を出そうとはしなかった。
それどころか、その遠征戦で受けた甚大な被害のせいで国が傾いてしまい、結局、内乱となって新王朝が立ち上がる有様だった。
このこともあって、このちっぽけな島国は独立を守れていたのだった。

しかし戦国が終わって10年後、ヒノモトへ新たな野望を燃やした国があった。
女王アルドラが統べる大陸である。

この大陸はユニークな統治が行われている。
すなわち「最強の女性が国王となる」という伝統である。
建国以来、すでに100年以上もこのしきたり通りに女王が決められてきた。
その名もクイーンズブレイドという。
四年に一度開催されるこの武闘会は、満年齢12歳以上の女性であれば参加は自由だ。
たとえ大陸以外の国の者であろうと、いや人間以外であっても知的生命体であれば参戦権があった。

一対一で戦うルールは至極単純だ。
得物は何を使っても可で、どちらかが死亡するか戦闘不能となるか、あるいは敗北を認め試合放棄をするケース以外は
決着がつかない。
引き分けなどという生ぬるい制度はない。
時間も無制限である。
このトーナメントの結果、優勝すれば晴れて女王となるのである。
この時点で現女王は引退となるのだが、女王が望んだ場合、優勝者と対戦し、勝利することで任期を延長することも出来る。

アルドラは、基本的には善政を以て民衆に接したため、国民からの評価は低くない。
しかし、己の野望のためには冷酷な所業も躊躇いなく強行するところがある上、敵対者に対しては徹底的に討滅した。
そのため国内にも敵は多く、南方戦役と呼ばれた内戦に発展したこともある。
強靱な意志と強烈な実行力を併せ持ち、見た目は幼い少女ながら、絶対支配者として大陸に君臨している。

南方戦役とは、女王アルドラが大陸全地域の支配を目論み、自治領である大貴族の領地の直轄下を宣言したことから
始まった内乱である。
クイーンズブレイドによる女王選出制度以前は男の国王が大陸を支配し、各地に配下貴族の荘園があった。
しかし地方貴族が力を蓄えてくると、独立を目指して武力抗争を挑んでくるようになったのである。
暗愚であったり、幼帝だったりして、国王側の体制が弱まった時などは、あわや謀反が成功しそうになったこともある。
度重なる戦乱を憂いた天界が、何とか無益な戦争をやめさせようと執った手段がクイーンズブレイドなのであった。
つまりクイーンズブレイドとは、大規模な戦争を個人戦にしてしまった小規模な代理戦争に等しい。
参加者を女性に絞ったのは、男性支配による戦乱の増加に、天界が失望したためだ。
この制度を導入して以来、一世紀以上の長きにわたり戦争は起こらなかった。

ところがアルドラという少女が並み居る強敵を屠り、玉座に就いた途端に、またきな臭くなったのである。
アルドラはただの小娘ではなく、人間と冥界の女王との間に産まれたハーフであった。
それだけでも忌まわしい存在であった上に、始末の悪いことに冥界の悪魔デルモアと契約して更なる力を得ている。
デルモアに憑依されることで精神面まで浸食されつつあって、そうした暴力的な面が表出したと思われるが、出生について
人々から疎まれ、放浪を余儀なくされていたことも大きく影響している。
アルドラの支配欲に加え、それまで女性の風下に立たされ、苛立っていた貴族たちの不満が爆発したのだ。
南方戦役は、開戦こそ女王側ではあるものの、アルドラが仕掛けなくとも、いずれは貴族サイドが暴発しただろうと言われている。

この南方戦役は当初、女王軍の圧倒的兵力と優れた兵站・補給システムの構築により、破竹の勢いでアルドラが進撃を続けていた。
全地区直轄下も間近かと思われた時、ヴァンス伯爵家に嫁いでいた剣聖の異名をとるマリアが、共同戦線を張った四人の伯爵たちと
とも善戦し、女王軍の補給線の寸断に成功する。
加えてアルドラと一騎打ちしたマリアが勝利寸前までいったこともあり、女王は命からがら領土まで逃げ帰ることになった。
そのせいでマリアの容体が悪化し、彼女は死去することとなるのだが、南方戦役は終結させることができた。
今では独立貴族の領地と女王直轄地の間に「長城」と呼ばれる長大な城壁が設けられ、たびたび小競り合いはあるものの、大きな戦争に
至ることなく済んでいる。
そんな中、まだ南方戦役の爪痕がまだ生々しく残る大陸から女王軍がヒノモト目指して進発したのだった。

一応、開戦に及ぶ口上はあった。
しかしそれは、とてもヒノモトが飲めるようなものではなかった。

ひとつ、女王軍の駐留を認めること。
ひとつ、ヒノモトに於ける女王軍の行動の自由を認めること。
ひとつ、女王軍の駐留費はヒノモトが持つこと。
ひとつ、ヒノモト軍は女王軍に組み込まれ、その最高指揮者は女王アルドラであること。

つまり、アルドラはヒノモトの属国化を申し入れてきたのである。
こんな屈辱的な条件を飲むような独立国はあり得ない。

では何のためにアルドラはこんな無茶を言ってきたのか。
彼女の唯一の肉親である妹を探すためだという。
これを伝え聞いたヒノモト首脳は仰天した。
要は行方不明者捜しなのだ。
そのために一国に侵攻し、支配するなど聞いたこともない。
しかし、大陸で起こった南方戦役も、どうやらそのためらしいと知るや、朝廷は青ざめた。
本気なのかも知れない。

重臣たちは協議の結果、アルドラの妹捜しに協力する旨を申し出た。
女王軍を受け入れることは出来ないが、ヒノモト国内での捜索には協力する。
専門の探索チームを設けるだけでなく、各国国主にも事情を話して捜索に尽力させる。
また、全国に布告を出し、懸賞金をつけて一般国民にも探させよう。
ヒノモトとしては、ほぼ全面的な協力を申し出たつもりだった。
アルドラはその有り難い申し出を一蹴した。
彼女にとって、そんな「待ち」の姿勢は迂遠以外の何物でもなかった。
アルドラは、先の要望から一歩も引くつもりはないとヒノモトに言ってのけた。
ヒノモトが対応に苦慮しているうちに、女王軍はほぼ奇襲の形で牙を突き立ててきたのである。

─────────────────────

戦場からやや離れた小高い丘に置かれた本陣から、指揮官が合戦の様子を見守っていた。
床机に腰掛けたまま身じろぎもしない。
朱色を基調とした和風の勇ましい甲冑に身を固めている。
麾下部隊の兵たちも赤い武具を身につけていて、それが彼らミカワ武者のトレードマークでもあった。
彼が国主として治めているミカワは強兵の地として有名で、「ミカワの赤武者」と言えば、カイのタケダ家ご自慢の騎馬軍団と
並び称し精強無比、ヒノモトで知らぬ者とていない剽悍さを誇っている。

彼らの主であるモトヤスは、じっと戦況を見守っている。
顔には頬当てをして表情が隠れていたが、その目には力がなかった。
彼の横には、参謀格の軍師が片膝を立てて控えていた。
軍師が、崩壊しつつある自軍を見つめながら悄然とつぶやいた。

「兵の顔、白きは勝ち……」
「兵の顔、黒きは負け……であるか、ヒコザ」

大将がそう受けると、軍師のヒコザは少し慌てて取り繕った。

「あ、いえ、そういうことでは……申し訳ありませぬ、モトヤスさま」

彼らが言っていたのは、戦場での勝敗の見分け方のひとつだ。
戦っている両軍兵士の顔色で、優勢不利がわかるのである。
兵の顔が白いということは、それだけ兵たちが顔を前向きにさせ、日の光を受けて白く輝いているから、ということなのだろう。
一方、黒く見えるというのは、兵達が俯いて光が当たらないということだ。
つまり上げ潮で攻め掛かる軍勢と、劣勢で腰が引けている部隊の差だ、ということになる。
明らかに彼らの軍勢は押されており、言い伝え通りに兵どもの顔色は陰になっていて暗かった。

モトヤスの軍勢は、兵力を三つに分けて、押し寄せる女王軍に対抗していった。
もともと、野戦では右に出る者がいないと評されるほどのモトヤスであったから、彼に率いられた兵たちも強かった。
今回の合戦でも、多数の敵を相手にする愚を犯すことなく、平原での戦いは避けていた。
巧みに敵を誘い出し、挑発しながら、東を泥濘地、西を崖に挟まれた隘路口に引き込むことに成功している。
その入り口を抑えてしまえば、敵は狭い道沿いで戦うしかなくなる。
であれば、いくら敵の兵力が多かろうとも、一度に戦える兵数は限られてくる。
一対一であれば、同兵力であれば絶対に負けない。
そんな意地と自信が彼らにはあった。

しかし、それも限界があったようである。
モトヤスは全軍を三つに分けて、一陣から順に敵に当たらせていた。
様子を見て一陣を引っ込め、二陣を投入する。
その間、一陣は引いて休養、負傷兵の回収や手当、武具の補修補充を行ない、第三陣は戦闘準備を整えた。
そして二陣が引けば三陣が戦う。
いわゆる「車懸かり」の戦法である。
確かに効果はあったし、ミカワ武士の精強ぶりも噂に違わぬものであったが、いかんせん数が違いすぎた。
モトヤスが率いてきた兵力は8000ほどだ。
総兵力は1万を超えていたが、本城や民が残る城下町が奇襲を受けないとも限らないから、全兵力を出すわけにもいかなかったのだ。

対して女王軍は3万を超えると思われた。
3倍以上の敵を相手に互角以上の展開を続けてきたのだ。
限界点が来るのも当然であった。
今では頼みの隘路口を突破され、広い平原に異国の兵たちが乱入してきている。
第三陣の兵たちこそ、何とか集団戦闘を続けていたものの、疲れ切った一陣、二陣の兵達は指揮官を失っていたらしく、ばらばらに
戦っていた
それでもなお撤退せず戦い続けているのは、ミカワ武者の勇猛さを示すものだ。
そこに女王軍の兵どもが群がり、ミカワの武士たちを討ち取っていった。

「よい。おことほどの智力や眼力がなくとも、それくらいのことはわかろうて。見てみい」
「……」

ヒコザは暗い目で本陣内を見渡した。
本陣には、総大将のモトヤス以下、軍師のヒコザたち側近の幕僚達が控えている。
その周囲をモトヤス直属の親衛隊が取り囲んでおり、さらに本陣を守る守備兵たちが得物を持って周囲を警戒していた。
しかし、本陣守護の兵たちも戦線が危急の時を迎えていることもあり、逐次前線に投入されていた。
代わりに前線から負傷者が後退してきており、さながら野戦病院の様相を呈している。
髷が解け、髪を乱し、額から血を流した凄惨な表情。
袖や草摺に矢が刺さったままの者も珍しくない。
兜の眉庇は割れ、前立ても折れている。
腕や脚には傷口を押さえるためにサラシを巻き、顔も布で覆っている者もいる。
そこからは血が滲んでいた。
幹部達は声もなく戦況を見守り、聞こえるのは負傷者の苦鳴や呻き声だけだ。
むっとするような血と汗の匂いに満ちている。
どの顔もうつむき、黙り込んでいた。
自分たちの運命を覚っているのだ。

「戦況は変わらぬか」
「は。第一陣、第二陣ともに崩壊寸前でござる。部隊は半減し、持ちこたえておるのが不思議なほど」
「……三陣は」
「こちらはまださほどの被害を受けてはおりませぬが、これも時間の問題かと」
「……」
「何分にも、敵の数が……」

大陸軍は、その大きな国力をバックとして兵站をきちんと整え、膨大な補給、補充を前提とした大兵力で攻め込んでくる。
戦術や武器などには、そう変わりはなかった。
いかに異文化同士の激突とはいえ、人間の考えることは似たようなものだ。
国独自の技術や戦法などもあるにはあるが、それぞれが一長一短で、際立った能力差はなかった。
一世紀に及ぶ激しい内乱で戦慣れしていたこともあって、兵の質や戦法などでは、むしろヒノモトの方が優れていたくらいである。

ただ絶対的な兵力差が大きすぎた。
ヒノモトは小国であり、戦乱が収まって後は、常備軍は10万にも満たなかった。
戦国時代、各国が槍つき合わせていた頃は、トータルで100万を超えるほどもいたろうが、彼らはもともと農民である。
戦がなければ農作業に戻る。
戦闘の専門技術者──つまり職業軍人である武士は一握りなのだ。
農民を兵に引っ張るということは、その間の農作業が出来ないということになる。
そのため、戦国時代は農繁期である春や秋はどの国も合戦を控えるしかなかった。
そこをついて敵国を攻撃すれば効果はあるだろうが、その分、自国での生産活動も出来ないのだ。
消費する一方の兵ばかり増え、生産者たる農民を減らしたのでは、とても食っていけないのである。

だが今回の戦争は他国が相手だ。
そうしたことに斟酌はしなかった。
朝廷は大慌てで、国軍とも言うべき常備軍を臨時にいくつも編成したものの、20万かき集めるのが精一杯だった。
あとは各国が独自編成している現地軍だけである。

「……援軍は」
「は、早馬を飛ばしましたが、未だ……」

強気のモトヤスが援軍を乞うなどというのは初めてのことだ。
しかし、このままでは遠からず自軍が崩壊し、国土を蹂躙されてしまう。
彼らサムライはともかく、領民たちにも悲劇が襲ってくる。
恥も外聞もなかった。

熟慮の末、増援を求めたが、通信は使えなかった。
この時代、電波や有線による連絡手段はない。
だが、その代わりはあった。
大陸では魔術師がいて、彼らが自分の見た情景や意志を魔術を使って遠方へ伝送することが出来るのである。
受信には水晶玉を使った。
ここヒノモトでは魔術師の代わりに巫女がその役を行なっている。
彼女たちは霊力で、大陸魔術師と同じように情報を送るのだ。
受信には専用の銅鏡を使っていた。

だが巫女は数も少なく、各国の神社に数名いる程度が普通である。
国によってはいない場合もあった。
村の小さな分社などの場合、村娘が交代で巫女職を代行していることが普通なのだ。

ここミカワは重要拠点ということもあって、朝廷から巫女をひとり送られていたし、モトヤスも独自にミカワで巫女を採用している。
だが、度重なる戦闘で傷つき、最後の巫女が戦死したのは三日前のことだ。
これによってモトヤス軍は、霊的な防御が不可能となっただけでなく、通信も狼煙や馬などに頼るしかなくなっていた。

そんな中、危急存亡の危機に際し、朝廷へ援軍を乞うために、まだ巫女のいる隣国軍へ早馬を送ったのだった。
その伝令兵がまだ帰って来ない。
念のため、ふたりずつ三回に分けて六人を出したのだが、ひとりも戻って来なかった。

モトヤスは、援軍は来ないだろうと踏んでいた。
よしんば来援してくれたとしても多くは期待できない。
ミカワ近辺でまだ戦火の及んでいないのはイセくらいである。
他は自国を守るのに精一杯で、いかにミカワが軍事上の重要拠点とはいえ、それが朝廷命令であっても戦力を派遣する余裕は
ないだろう。
イセはまだ防衛軍があるはずだが、ここはヒノモトでも評価が低い弱兵の国として知られている。
無傷の兵力が来てくれるのは有り難いが、屈強なミカワ軍でさえ敗れ去った敵を前にしたら、戦わずに退却する可能性すらあった。

「これまで……か」
「との……」
「致し方あるまい。多くの家臣どもを無為に殺してきた詫びもしなければならん。旗本衆を集めろ。水盃を交わした後、やつらに最後の……」
「とのーーっっっ!」

本陣の後ろに引かれていた幕を乱暴にめくり上げ、ひとりの武者が転がり込んできた。
「何やつ!」と、護衛兵たちが駆けつけ、槍を突きつける。
ヒコザも駆け寄った。

「何事だ!」
「は、早馬が……!」
「なに!?」
「早馬が、スネエモンが帰って参りました!」
「まことか!」

ヒコザが幕を大きく開けると、もうひとりの武士が転びつまろびつしながらも懸命に走ってきた。
側には馬が倒れている。
腹が大きく喘ぎ、首が持ち上がっているから死んだわけではないようだ。
ロクに休めず、駆けに駆けてきて、ここで力尽きたのだろう。

「と、とのーーーーっっっ! スネエモンにござりますっ!」

乗って来たサムライも砂埃にまみれていた。
兜もなく、草摺がほつれている。
履いた草鞋もボロボロだ。
よく見れば、額のあたりから血が流れていた。

草鞋の鼻緒が切れたのか、足を取られたスネエモンが転んだ。
彼が立ち上がる前に、ヒコザとモトヤスが駆け寄ってきた。
這い起きようとするスネエモンを抱きかかえ、片膝立ちになったモトヤスは脚に寄りかからせた。

「スネエモン! 大事ないか!?」
「え、援軍が……」

スネエモンは、総大将のねぎらいの言葉すら退けて息も絶え絶えに言った。

「来るのか!?」

敵中突破し、命からがら帰還した勇敢な伝令は何度も頷いた。

「ま、参ります! 援軍が参ります、との」
「左様か。で、どこだ? イセか、それとも……」
「む、武者巫女です……!」
「なんと!?」

モトヤスは仰天した。
いや彼ばかりでなく、冷静なヒコザも、周囲を警戒していた護衛兵たちも「おう」と驚嘆の声を上げていた。
スネエモンは涙すら浮かべながら話した。

「武者巫女さまたちが……、そ、それも武者巫女一番隊が来てくれました!」
「一番隊が……!」
「左様にござります! 恐れ多くもトモエさまが陣頭指揮を執られております! ト、トモエさまが……!」

ぼろぼろと落涙しながら報告するスネエモンの声が終わらぬうちに、本陣の方から「おおっ!」と大きな歓声が上がった。
すかさずヒコザの声が響く。

「何事だ!」
「味方です! 味方の援軍が来てくれました! 今、敵に突撃して……」

その声を聞き、モトヤスはスネエモンを旗本衆に預け、本陣に走り戻った。
本陣の兵たちが立ち上がって戦場を見ていた。
そこには、純白の神衣と真っ赤な緋袴を身につけた武者巫女たちが、槍や刀を振るって大陸軍に突入していた。

─────────────────────

戦場では女王軍が大きく動揺していた。
勝利確実と思っていた矢先に新手が現れたのだ。
それだけであれば所詮は多勢に無勢、どうということはない。
新手は100名にも満たない小部隊なのだ。

しかし彼ら──もとい、彼女たちは武者巫女だった。
鬼神を思わせるような武者巫女の戦い振りは、女王軍にも知れ渡っていた。
ヒノモト攻略戦で受けた女王軍の損害の半分以上は、彼女たち武者巫女によるものなのだ。
増援がその武者巫女と知り、大陸軍は怯み、ミカワ軍は喜色を取り戻した。
彼女たちの先頭に立って名刀クチナワを翳しているのは、言うまでもなくトモエであった。

「大陸の野蛮な兵ども! これ以上のヒノモトへの侮辱は許しません! 命を捨てたい者からかかってきなさい!」

どちらかというとか細い、愛らしい声なのに、腹から出したトモエの恫喝に大軍はおののいた。
得も知れぬ迫力と気力に
満ちていたのだ。
おのれの技量に対する自信と、味方を惨殺された憤怒が合わさり、この美しい女性を鬼にしていた。
彼女がトモエだと知ると、取り囲んでいた女王軍の兵士たちが悲鳴を上げて後ずさりしていく。

トモエの側にぴったりと張り付き、刀を構えているのは側近の巫女であるトキワである。
時として無茶をするトモエを命がけで守護することに幸福感を覚えている。
もうひとりの側近であるタマキが、薙刀を構えたままそっとトモエに近づいて聞いた。

「トモエさま、如何なさいますか」
「いつも通りで行きましょう。中央突破です。その上で敵を分割し、各個撃破を図るのです」
「判りました。どちらから行きますか」
「西にしましょう。東のミカワ兵たちはまだ元気のようです。西の兵は疲れ切っています。これを助けて西側の敵兵を駆逐し、それから東にまいります」
「判りました。伝令!」

タマキはふたりの巫女に指示を伝え、それぞれ東西のミカワ軍へ走らせた。
東側にはトモエたちが西を制圧するまで踏ん張ってもらい、西の兵たちには無理をせず引かせる必要がある。

「貴様がトモエか!」

及び腰の大陸軍の中から、巨漢が進み出てきた。
西洋風の鎧兜が鈍く銀色に光っている。
手にした武器は大振りのファルシオンだ。
ほとんどの兵はカトラスだが、この大男は力自慢らしく、幅広の蛮刀を持っていた。
男は野太い声で言い放った。

「我が軍を壟断する猪口才な奴輩めが! 俺が相手をしてくれる」
「望むところ。行きますよ!」
「トモエさま!」
「トキワ! タマキ! 手を出さないで!」
「そんなあ、トモエさまあ……」

不満げなトキワを引っ張って、タマキは少し離れた。
トモエに一騎打ちに専念させるため、他の武者巫女を数名率いてトモエたちに近づく敵兵を掃討していく。

「でぇぇぇいっ!」

男は手にした円形の盾を投げ捨て、両手で蛮刀を構えて打ち込んできた。
トモエがそれをクチナワで受ける。
キィンと美しい金属音が響き、火花が散った。
男が驚いたようだった。
ヒノモトの剣は確かに切れ味鋭く硬いが、折れやすい。
あんな細身の剣では、打ち合いになったらすぐに折れる。
実際、彼と打ち合いになった武者たちは、残らず刀をへし折られ、頭を割られていたのだ。
それが、この華奢な女の持った華奢な刀は、難なく彼のファルシオンを受けたのだった。

「えいっ!」
「くっ……!」

峰で男の剣を受けたトモエは、そのまま押し返して、切っ先を巨漢に突き出していた。
寸でのところでこれを避け、男は少しよろめいた。
気を取り直して、また力づくの攻撃をしかけていく。

「てぇい! このっ! いやあっ!」

男がいくら打ち込んでも、トモエはあっさりと受けていく。
優美なカーブを描いた美しい刀身は些かも傷つくことなく、幅広の蛮刀を躱していた。

「こっ、この女……!」
「それまでですか? では行きますよ」
「貴様ぁっっ!」

巨漢がまた打ち込んできたが、その太刀筋が波打っていた。
今度はクチナワで受けもせずに身を躱し、逆に攻勢に出る。
大振りした男がよろめくと、すかさずトモエが反撃した。
美しい武者巫女が振るった刀身は、男の右肩に食い込んだ。
プレート・アーマーは、ほぼ全身を覆っていて、どこにも素肌が露出している箇所はない。
肘や首などの関節部分にも金属板を何枚も重ねていて蛇腹を作り、そこが可動するようになっていた。
キンっと金蔵同士がぶつかる音がして刀が弾かれる。
男が嘲笑った。

「うははははっ、無駄よ、無駄よ。この国の貧弱な剣では、我が甲冑は傷もつかんわ!」
「……」
「諦めて降伏するがいい。殺さぬばかりか、可愛がってやろう」
「……ゲスめ。そうやって何人のヒノモトの女を辱めたのです!」
「数え切れんな。くく、大陸の女と違って小柄だが、あそこの具合はなかなか良かったぜ」
「許しません!」
「許せなきゃどうするんだよ! やらせねえなら殺してやるさ!」

どうせトモエの刀はこの鎧には通らない。
そう思っているせいか、男の動きが無駄に大きくなっていた。
力任せに打ち込んでくるのは変わらないが、狙いが甘くなっていて、トモエも余裕で避けられる。
男はそうしてトモエを逃げ回らさせて疲れさせようとしていた。
しかし、息が上がってきたのは男の方だった。
トモエは、鉢がねを巻いた綺麗な富士額に汗すら浮かべず、平然と太刀筋を避けている。
今までの敵とは勝手が違っている。
男に焦りの色が見えてきた。

「い、いい加減に観念しろ! 無駄な抵抗は……」
「無駄だと思うのですか、愚か者。我がクチナワは確実におまえを切っている」
「戯れ言を! 俺は傷一つついておらんわ!」

その言葉の直後、またクチナワが男の右肩に打ち込まれた。
これで四度目だが、当然のようにプレートはトモエの刀を弾いている。
手が痺れるのか、時々トモエが軽く手を振っていた。
以後も同じように、トモエは男の剣を躱しつつ、男の右肩へ刀で斬り込んでいく。

「ん?」

ようやく男も変化に気づいた。
右肩を守る甲冑を何気なく見てみると、何とそこに亀裂が生じている。
あの異国の女の剣は、まるで効いていないような感じだったのに、彼の頑丈な鎧に傷を作っていたのだ。
男はあることに気づいて仰天した。
恐らくトモエは、まったく同じ太刀筋で同じ箇所に何度も打ち込んできたのである。
激しく動きながらも、根気よく同じ部位へ正確に斬り込んでいた。
ミリ単位、いやミクロン単位の精密さだった。
動かぬ目標相手でも到底無理なことを、この小娘は動き回る男に、自分も激しく動きながらやってのけたのだった。

男は戦慄した。
自分はとんでもない相手を敵にしているのではないかと、ようやく気づいたのだ。
男の動揺と驚愕は、激しい憤怒に変化していく。

「きっさまあっっ!」
「えいっ!」

またトモエが同じように右肩へ斬り込んだ。
初めて変化が起こった。
とうとうトモエの刀身が、男の甲冑に食い込んだのである。
彼らを取り囲んだ敵兵からも「おう!」と驚嘆の声が上がった。
途端に脅えも最高潮となる。

「いええええいっっ!」

裂帛の気合いとともに、トモエが渾身の一撃を放った。
トモエの愛して止まぬ銘刀が、男の肩を割っていた。
銀色の鎧は見事に割られ、男は肩を付け根から切り取られた。

「ぐああああっっ!」

巨漢が血しぶきを上げて倒れ込むと、大陸兵たちは悲鳴を上げて逃げ散っていく。
数名の、勇敢だが無謀な兵たちは自暴自棄となってトモエに斬りかかる。
トモエ、そしてその周囲を護っていたトキワたちが刀槍を振るい、敵兵たちの首と胴を両断していった。

─────────────────────

ミカワ軍本陣の兵たちは、武者巫女たちの奮戦を見て歓声を上げていた。
その声で我に返ったモトヤスがヒコザを振り返る。
軍師も大きく頷いていた。

「との! これは……、いけます、いけますぞ!」

どの兵たちも、ついさっきまで立ち上がる気力すらなかったのに、今は座り込んでいる者はひとりもいなかった。
どの顔も輝いている。
拳を突き上げ、手にした武器を振り回して大声で叫んでいる。
勝てる。
死なないで済む。
確実だった死が遠のき、あり得なかった勝利が目の前に来ている。
その思いが身体に大きな力を与えていた。

「ヒコザ! 動ける兵を全員引き連れ、本陣も突撃する!」
「えっ!? し、しかしそれは……」
「構わぬ。どうせ一度死を覚悟したのだ、さほど惜しい命ではない。それに、武者巫女どのたちの奮戦に応えねばならぬ」

モトヤスはそう言い放って哄笑した。

「トモエさまの元へ伝令を出せ! 我が本陣はこれから突撃して西を攻撃する。武者巫女どのたちには、そのまま中央突破して
もらい、敵の本陣を突いていただけ! よいな!」

命令を聞いた伝令兵は、弾かれるようにして飛び出していった。
残った兵たちも、折れかかった槍や、刃こぼれだらけになった刀を構えつつ、モトヤスの命令を待っている。
返り血を浴び、砂埃にまみれ、あちこち色の剥がれ掛かった鎧兜が勇ましかった。
もはやこの中に、参戦できぬ者はひとりもいないようだ。
不敵な面構えの戻った彼らの顔を見て、総大将は大きく頷き、軍配を握り直した。

「一度は捨てたこの命、ここまで永らえただけで本望よ。武者巫女どのたちばかりにいい格好させるわけにはいかぬ。今こそ死して
屍を晒し、帝への赤心をお見せする時ぞ! ミカワの赤武者の意地を見せろ! ここが正念場ぞ!」
「おおうっっ!」

ミカワ兵たちの鬨の声が戦場に響き渡る。

「突撃じゃあっ! 吶喊っ!!」

縁の欠けた軍配を思い切り振ったモトヤスの号令がかかると、赤武者たちが喚声を上げつつ、待ちかねたように戦場へ駆け
だしていった。
傷ついた腕を押さえながら、足を引きずりながらも、懸命に敵中へ突撃していく。
打ちのめされた無気力さは消え失せ、彼ら本来の闘争心を取り戻していた。
敗残兵から一転、気力溢れる精鋭に戻ったミカワ軍は東西の真ん中に分け入っていった。
形勢が変わり、戦局が逆転したのはこの時だった。

─────────────────────

ヒノモトの劣勢は火を見るよりも明らかであった。
アルドラ軍の侵攻はもちろんのこと、「物の怪」の存在もある。
大陸で言うところの魔物は、ヒノモトでは「物の怪」と呼ばれていた。
もともとは同じなのか異種なのかはわからないが、人間達に脅威を与えていることに変わりはなかった。
この物の怪退治も武者巫女の重要な職務なのだった。
平和時での彼女たちの仕事は、各地に出没する人間の賊たちおよび物の怪の撃退が主だ。

だが、こうして異国との戦争が始まってしまうと、そうも言ってはいられなかった。
個々の鍛錬は怠らぬものの、集団での軍事訓練などしたこともなかった武者巫女たちも戦場へと駆り立てられていく。
しかし戦争だからと言って、物の怪が遠慮してくれようはずもない。
むしろ、ここを契機にとばかりに暴れ回っていた。
それまで武者巫女たちに押さえ込まれていた鬱憤を晴らすかのように、町や村を蹂躙していったのだ。

何より厄介だったのは鬼たちの行動である。
鬼は物の怪の中でも比較的知能レベルが高く、中には人間並みの者までいた。
その上、集団行動を執る唯一の物の怪でもある。
肉体的には人間を遥かに上回る上、その残忍さは物の怪の中でも有数だった。

その鬼どもは、トモエたちの活躍で次第に追いやられていき、とうとう本土から駆逐され、そのほとんどはサドという島に
押し込められていた。
武者巫女たちは、無人島だったサドにひとまず閉じ込めておいて、然る後、根本的な対策を取る予定だったのである。
そこに大陸からの侵攻があった。
これに呼応するかのようにサドの鬼どもが内地へ渡り、本土へ攻め込んできたのである。
女王軍への対応に精一杯だった武者巫女たちの隙を突き、鬼どもはエチゴ、カガ、エチゼンの三国をその支配下に治めてしまう
までになっていた。
物の怪どもの妖力は武士たちの手に余るため、トモエたちは、そちらの対処も怠るわけにはいかなかったのである。

そんな中、精鋭中の精鋭である武者巫女隊は連戦に継ぐ連戦と移動のため、ろくに身体を休める時間もなかった。
特に武者巫女隊総隊長で一番隊隊長を兼務するトモエの激務は異常なほどである。
トキワなどはただおろおろとトモエを気遣うばかりだが、参謀でもあるタマキは「たまにはお休み下さい。トモエさまが
過労死しては後が困ります」と直言までしていた。
そんなふたりの側近の気遣いに感謝しつつも、トモエは休息を拒否していた。
こうしている間にも、最前線の兵たちは傷つき倒れているのだ。
うかうかと休んでは居られない。
それはそうなのだろうが、だからといってトモエが不眠不休で働いても仕方がない。
タマキなどは口を酸っぱくしてそう叱るのだが、これはトモエの性格であってどうしようもないだろう。
休息するよりも動いている方が気が楽なのだ。
余計なことを考えずに済むということもある。

そんな多忙なトモエでも、月に一度は必ず訪れる場所があった。
マサカド大社の本殿──神殿である。

一般の参詣者が参拝するのは、お馴染みの神鈴がぶら下がっていて、賽銭箱がある拝殿だ。
その奥に幣殿があり、最深部に本殿がある。ここには基本的に神職しか入れない。
つまり神主である宮司と、権宮司、禰宜、そして彼らと神に仕える巫女である。

巫女とは、一般的には神職のサポート役であるが、この世界ではそれ以上の役割も与えられている。
サポートというよりは代行に近い。
また、出世の道もある。
巫女から成り上がって神官になる者までいた。

但し、女であれば誰でもなれるというものではない。
巫女は心身ともに健康であることはもちろん、世間で言われている通り処女性が重要視されている。
恐れ多くも神に仕える身である以上「穢れ」は許されない。
「穢れ」とは、ずばり血のことである。
女人禁制になっている寺社仏閣が多いのは、女性は生理による出血が定期的にあったからだ。
処女を重視しているのも、処女を失った女は性交したことによる出血があったとされるから、という説もある。

普通は、婚姻と同時に巫女職を退くのだが、中にはそのまま巫女を続ける場合もあった。
しかしその場合でも、それまでは上がれた神殿には決して入れないことになる。
いわゆる血服(ちぶく)も問題になる。
女性は、出産後の一ヶ月を「穢」(け)の状態と見なされ、社殿に近づくことも禁じられる。
これを血服と言う。
また、近親者が亡くなって喪に服している期間を「服」(ぶく)と呼び、やはり社殿には入れない。
ちなみに、これは一般の民も同じで、喪中は神社への参詣は控えるべきものという常識が通っている。

こうした条件の他、強い霊力を持つ者のみが巫女に選ばれた。
それだけでも狭き門なのだが、そこに加えて武道を嗜み、人並み外れた武術を持った者が武者巫女になれるのであった。
数が少ないのも当然と言える。
それだけに、ヒノモトの女性にとってマサカド神社の巫女職は憧れの的であり、武者巫女ともなれば憧憬と羨望の眼差しが向けられるのだ。

トモエは神殿奥の間にいた。
室内には武者巫女局長でもあるマサカド大社の大宮司とトモエのふたりだけだ。
大宮司の真後ろには、恐れ多くもマサカド神社のご神体が祀られていた。
老境に入った宮司が言った。

「……もうあれからひと月か。早いものじゃな」
「……はい」

艶々と磨かれた板張りの上で、ともに絹の座布団を敷き正座している。
神主の方は狩衣──いわゆる常衣を着ている。
紫紺の神衣が神秘性と高貴さを醸し出していた。
頭には黒い烏帽子を被っている。

一方のトモエはいつも通りの巫女姿だ。
純白の小袖に緋袴である。
戦闘時に着ているのも同じタイプであるが、そっちは丈夫な綿製で、こうした場では絹製になる。
戦場で浴びた返り血もなく、文字通りの純白だ。
履いた足袋も真っ白で、足の裏にも汚れた部分はなかった。

ただ違うのは髪である。
腰まで伸びたしなやかな黒髪が自慢の彼女だが、今日は頭の後ろで懐紙を使ってひとまとめにしている。
大陸で言うポニーテールだ。
そしていつも額に巻いている鉢がねもしていない。
古来、神は「人を額で見る」とされており、神前で額を隠すのは神に対して礼を欠くことになるのだ。

まだ20歳間近の10代であるとは、とても信じられぬほどに落ち着いた雰囲気を持った娘であった。
馬庭流の奥義を究めた武芸者でもある。
巫女や武者になること自体むずかしいというのに、トモエはその両方を兼ねた武者巫女のひとりであり、その頂点にいる女でもある。
それだけに、巫女はともかく武者巫女はプライドが高く、また堅苦しい面がある。
庶民は武者巫女に対して敬愛してはいるのだが、逆に言えば恐れ多い存在として畏怖してもいる。

そんな中で例外的にトモエは違っていた。
もともと人が良く、優しい心根を持ち、笑顔を絶やさぬ娘だったから、分け隔てなく誰にでも接した。
他の武者巫女にはない「親しみやすさ」を持っていたわけだ。
従って、民からの人気も飛び抜けて高く、一種のアイドル化している。
外見的にも美しく、美人揃いと称される巫女たちの中でもひときわその美貌が輝いていた。
ぱっちりとした大きな瞳からは知性と優しさを感じさせられ、すっと通った鼻筋は意志の強さを思わせ、小振りで清楚な口元は
ほのかなセクシーさを感じさせた。
和服の襟口から僅かに覗く首もとからも、その白い肌も相まって健康的な色気がある。

他の巫女たちと同じく、トモエも艶やかな黒髪を長く伸ばしている。
腰まで届くその髪がなびくたびに、女性からは羨望の声が、男性からは憧憬の声が上がる。
いつも額に巻いている鉢がねもいいアクセントになっていていた。

ゆったりとした巫女服に隠されてはいるが、肉体的にも見事なものだった。
基本的に彼女たちは下着の上は着けていない。
白襦袢だけである。
鍛錬の時などは、ふくよかな胸が邪魔になることも多いのでサラシを巻いているが、それ以外の神事、あるいは戦闘に於いては
何も着けないのが普通である。
だから、トモエに限らず、巫女たちが激しい動きをして、胸が揺れ動く様などを目の当たりにした男の神職たちの中には「これは
目の毒じゃ」と言って淫靡な笑みを浮かべる者もいた。
トモエの場合、そのバストが人並み以上だったから余計にそうした面がある。
緋袴に覆われた腰回り、太腿なども見事なほどに発達していた。

クイーンズブレイドに参戦した時も、大陸の美闘士たちと同様、露出の多い明け透けな服装をしていれば、その肢体美を存分に
拝めたことだろう。
ところが彼女の場合、そうしたことに一切興味がなかった。
むしろ嫌っている。
女性があまりに肌を露出させることははしたないと思っているのだ。
これはトモエだけでなく、ヒノモトの考え方がそういうものであったので仕方がないのであるが、彼女の場合は些かそれが極端だ。
生真面目なのである。

おまけに、トモエは服装だけでなく自分の美貌やスタイルにもほとんど無頓着だった。
美人だと褒められてもあまり嬉しいとは思わない。
社交辞令だと思っていたし、女をそうした面でしか評価しないことに苛立ちも持っていた。
それよりも、己の鍛えた武の技や、愛用している武具を認められた方がよほど嬉しかったのだ。
だから男に言い寄られても気にもならなかったし(そもそもトモエに言い寄る気概のある男などほとんどいなかった)、
同僚の巫女に告白されても困惑するだけだった。

だいたいトモエは、自分がそう美人だとも思っていない。
民や巫女仲間からの人望はあるらしいと判ってはいたものの、それが性格や日頃の態度、行動以外にも、美貌や肉体に対する
ものがあるとは思っていなかった。
だいいち彼女は、自分のスタイルには少々引け目を感じていたのである。
他人──特に男から見れば、胸も腰も脚も美しく、もちろん美顔でもある。
これ以上なにを望むのかと思うところだが、そこは女心である。
トモエは、あまりに熱心に鍛錬した結果、腰回りや太腿の筋肉が発達し、その周りに程よく脂が乗っていた。
他の巫女や女性たちに比べ、少しばかり尻が大き過ぎ、腿は太すぎるのではないかと気にしていたのだった。
側近のタマキがスリムなだけに、余計にそう思うのかも知れない。
そう言われればそうかも知れぬが、それは決して彼女の魅力を損なうものではなかったし、逆にそれもトモエの魅力のひとつだった。

胸も大きすぎて邪魔だと思うことも多かった。
他の巫女たちが、自分の胸のサイズの大小で騒いでいるのが信じられない。
小さければそれだけ楽に動けるのに、と思ってしまうのだ。
その辺りがトモエの生真面目さであり、ある意味融通が利かなさでもあるのだろう。
局長がトモエを見ながらゆっくりと口開けた。

「こたびの戦が始まって早三月か。戦況はあまり芳しくはないようじゃな」
「仰せの通りにございます。個人個人の強さはこちらの方が優っておりましょうが、なにぶんにも数が違いすぎます。それに加え、
口惜しいことに集団戦に於いては、彼らに一日の長がございます」
「であろうのう。かの大陸は、この小国ヒノモトなんぞ一捻りじゃて」
「お言葉ながら大宮司さま。我が国はこのままむざむざと敗れたりは致しませぬ」
「もちろんじゃ。そのためにそなたらがおるのだからな」
「……」

平伏する部下の巫女を愛おしそうに眺めつつ、老人が言った。

「まっこと心強いばかりよ。トモエがおれば、本当に何とかなるやも知れぬ」
「……わたくしの力など幾ばくのものではありません。他の武者巫女や巫女たちも……いいえ、名もなき兵たちもみな頑張って
おります」
「そう謙遜することもない。そなたはな、その力だけでなく心持ちが優れておるのだ」
「……」
「今もそれを確認したところよ。護身用の神札、そなたに使ったものはまだほとんど傷んでおらんかった」

そこでなぜかトモエが顔を赤らめた。

「他の巫女たちは、保ってもひと月がいいところ。だからこそ御札の貼り替えは一ヶ月ごとにしておるわけだが、巫女によっては
半月も保たぬ者とておるでな」
「……」
「その点、そなたは飛び抜けておるわ。貼り替える必要すらなかった。このままでもあとひと月くらいは保つじゃろうな」
「……左様ですか。しかし大宮司さま、先ほど貼り替えて戴いたのでは……」
「うむ。だが、せっかく来たのだからな、念のために新しいものを施しておいた。まあ、さすがに無傷というわけでもなかった
しな。それに「不浄の日」もあるでな」

トモエが少し不安そうになる。

「では、わたくしにも何か不具合なことが……」
「そうではない、そうではない」

老人は笑って手を振った。

「札はな、放っておいても自然に溶解してしまうのだ。これはもう仕方がない。個人差もあろうて。だが、意識して抑えることは
出来るのだ。これが我慢できぬ者もおる。いや、その方が多いくらいなのじゃ」
「はあ……」

またトモエの頬に朱が差す。

「ところがそなたに施した札はほとんど無事。わしも長いこと神職をしとるが、トモエほどに保つ巫女を見たのは初めてじゃ」
「ありがとうございます」
「……そんなことをせずとも済む世の中にしたいものだ」

神主は、ふっと息を抜くようにしてつぶやいた。
その言葉を聞いたトモエが頭を上げるのを待ってから、彼は重大なことを口にした。

「トモエよ、折り入って大事な話がある」
「何でございましょう」
「実はな、わしはこの戦が終わったら身を引こうと思う」
「は!? 今なんと?」
「神主を引退する」
「そんな……」

あまりのことにトモエは小さく開けた口を押さえた。
その若い巫女がさらに驚くようなことを宮司は言った。

「でな、後はそなたに……トモエに任せようかと思う」
「ま、任せるというと……」
「だからそなたにこの神社の神主と武者巫女局長職を譲ろうと、こう思うておる」

大宮司引退の動揺を遙かに上回る衝撃を受け、沈着冷静な武者巫女もさすがに狼狽えた。

「な、何を馬鹿な……あ、失礼しました。しかし大宮司さま、そんなお戯れは……」
「誰も戯れで言うてなどおらぬ。わしは本気じゃ」
「い、いや、でも……あ、あのですね」

普段の彼女からは想像も付かぬ慌て振りだ。
正座していた腰が浮きかかり、腿の上で組んでいた手が宙を踊っている。

「わ、私は女でございます。神職とは男性でなければ……」

狼狽する若い巫女を抑えるように、老いた宮司は両手で宥めた。

「わかっておる。わしは今、神主を継げと申したが、正確には権宮司を任せようと思うとる」
「権宮司を……」
「うむ。トモエの言う通り大宮司は確かに男性職だが、権宮司や禰宜は女でも構わん」

それはそうなのだ。
大宮司──マサカド大社の神主だけは男しかなれないが、その下位である宮司や禰宜は女性でもなれる。
実際、巫女から成り上がった女性が宮司を務める分社がいくつかあるのだ。
禰宜はさらに多い。
トモエはまだ戸惑いを隠せぬままに問い質した。

「そ、それはそうでございましょうが、大社の神主はあくまで大宮司でございます。たとえ私が権宮司を襲名したと
しましても……」
「だから当分の間、大宮司は置かぬつもりである」
「え……」
「故に次席の権宮司であるそなたが、実質的にはマサカド大社の神主になる。そして全国の分社を束ねる者となるのだ」
「い、いや、それは……、しかし私などに……」
「大事ない。そなたの実力なら充分に出来よう。でなければ、いくらわしとてそう簡単に神主を任せようとは思わぬ」

確かに、軽はずみにそんなことをすれば大社はもちろんヒノモトすべてのマサカド神社が混乱してしまう。
つまり大宮司にとっては、トモエを後釜にするということは思いつきでも何でもなく、熟慮の末だということだろう。
トモエが遠慮がちに反論した。

「いかに大宮司さまがそうお決めになったとしても……、帝、いえ朝廷が納得しましょうか……」
「そのようなこと、そなたが気にすることではない」

老人は笑った。

「マサカド神社の人事に関しては、わし……つまり大宮司に一任されておる。神職不可侵じゃ。いかに帝であろうとも、
こればかりは文句をつけられぬ」

ヒノモトの民は、敬虔で信仰心の強い国民である。
庶民たちは、今自分が生かされているのは神──マサカドさまのお陰だと信じているし、自分や一族の子孫繁栄のためにも
マサカド神を崇め敬っている。
朝廷──帝も敬愛はしているが、こちらは政を司っているために、やや生臭くなっていることも事実だ。
それに、いかに帝が万世一系とはいえ、遡れるのはせいぜいが一千年。
マサカド神はその上を行くヒノモト開国以来の神なのである。
朝廷は、国民のマサカド信仰をよく知っていたから、これを侵すことはしなかった。
歴史的には、恐れ多くもマサカドに
嫉妬して各地の神社を取りつぶしたり、果ては分骨された神舎利を集めて自らの神聖を高めようとした帝もいた。
だが彼らは、そのせいで国民の怒りを買って反乱を起こされ、自ら廃立せざるを得ないハメに陥っている。
以来、懲りたのか、それともマサカド神の威信に恐れおののいたのか、ほぼ完全に政教分離が図られていた。
大多数の熱烈な支持と信仰を受けるだけあって、マサカド神社の大宮司職は朝廷の大きな関心ごとではあったが、その人事には
口を挟めないのだ。

「まだ内密にしておいてもらいたいが、実は朝廷にもそれとなく話はしてある」
「……」
「帝は幼帝ではあるが賢明じゃ。将来は開明的な優れた支配者になるじゃろう。こちらの重臣を通じて話を通してみたが、
ご理解あそばされたそうじゃ」
「……」

トモエには、もはや言葉がなかった。
ここまで来ては断れそうにない。
もともと責任感の強い彼女の双肩に、ずっしりとした重みが加わる。
そんなトモエをじっと見つめながら老人はまた彼女を驚かせた。

「時にトモエ。そなた、好いた男などおらんのか?」
「は?」

あまりに場違いな質問に、トモエもきょとんとして神主を見返した。
わざとなのだろうか、大宮司は妙にさばけた口調でたたみ掛ける。

「そなたほど女っぷりの良い者も少ないじゃろうて。男が放ってはおくまい」
「だ、大宮司さまっ、そんなお戯れを……」
「ふざけてなどおらんて。どうじゃ、気になっている男もおらぬか?」
「そ、そんな人……いません!」

どうも今日の神主は、トモエをからかっているようなフシもあった。
真面目すぎる愛弟子の真っ赤な顔を、苦笑を噛み殺しながら見ている。

「そうか。他の巫女どもは、けっこう男衆の話などで盛り上がっておったぞ。そなたは興味ないのか?」
「わ、私は……マサカドさまに身を捧げる巫女でございます! そ、そのような殿方がいるはずもありません」
「ふふ、お堅いことじゃのう。そこがそなたの良いところじゃが」
「神主さまっ」
「怒るな、冗談じゃて。だがな、トモエ。そなた本当に結婚する気はないのか」

そう言われてトモエは我に返った。
そう言えば、あまりそれを考えたこともなかった。
よく考えれば、トモエくらいの年齢の女性であればそういう浮ついた話が出て当然だろう。
呆れたことに、トモエはそうした方面にはほとんど関心を示さなかったのである。
トモエは誰に対しても愛想が良く、笑顔を絶やさない優しい性格だったから、庶民はもちろん巫女仲間でも人気が高い。
巫女の中には、禁忌と知りながらトモエを「お姉さま」扱いして性的な誘いをしてくる者までいたくらいだ。

そんな誰にも慕われる彼女であったが、神主も指摘した通り、なにしろ真面目でお堅いから、そうした話をしにくい面もある。
シモネタや男の話で盛り上がっている場にトモエが来たりすると、邪険にはしないものの、途端に話題が途切れて気まずい
雰囲気になってしまうことあった。
何度かトモエもそうした話に加わったこともあったのだが、どうしてもついていけず、中座してしまうのが常であった。
今ではトキワやタマキがいつも側にいるので、そういう話にならないで済んでいる。
よくよく考えれば、トキワもタマキも美人であり、男に興味がないでもないのだろうから、トモエの前では気を遣っているの
かも知れない。

それにしても「結婚」である。
そこに到達するまでの「交際」はもちろん「見合い」すらしたこともないし、関心もなかったから、まったく考えていなかった。
我ながらいい加減だなとトモエは思う。

「そうか。本当におらんのか」
「申し訳ありません……」
「別に謝ることではない。失礼なことを聞いたのはわしの方じゃてな」
「はあ……」
「もし……」
「はい?」
「もしそなたに好いた男でもおれば、祝言を挙げるという手もあったのだがな」
「結婚を?」
「うむ。その上で、夫を神主にすればいいのだ。そしてそなたが補佐をする」
「ですが……、私の夫となる者が神職にふさわしいかどうかはわかりません。あ、その前に私が結婚できるかどうかという
問題もありますし……」
「それは心配ない。そなたが見初めた男であれば、わしは安心じゃ。それに、真面目なそなたのことじゃ。夫となる者が巫女の妻にふさわしいかどうかくらいは見極めてくれるじゃろう」
「……」

俯いてしまったトモエに、老宮司は笑って声を掛けた。

「まあ、今すぐにどうこうということではないて。いずれにしても、この戦を終わらせてからじゃな」
「はい……」
「トモエ」

大宮司の声が一転し、いつもような堅く厳しい声に変わった。
トモエも自然に、すっと背筋が伸びる。

「はい」
「ひとつだけ命じておく。心して聞くがよい」
「はい」
「よいか、死んではならぬぞ」
「……」
「絶対に死んではならぬ。何があっても生きて、マサカド神社を──この国を守護するのじゃ。他の武者巫女どもは、
状況によっては命を落とすこともあるやも知れぬ。じゃが、おぬしだけはそうなってはいかん」
「……」
「……場合によっては、生きる方が辛いかも知れぬ。だが、そなたは生きて努めを全うして欲しい。酷なようだが、
わしにはこうして頼むことしか出来ぬ。どうか……、どうか」

あろうことか、大宮司はトモエに対して頭を下げていた。
トモエはすっと手を伸ばして言った。

「神主さま、頭をお上げください。神主さまに低頭されては、巫女である私が困ります」
「頼む」
「……わかりました。トモエは死にません」

トモエは老宮司を安心させるように、にっこりとした笑顔を見せて答えた。

「武者巫女たる者、帝や大宮司さまに「死ね」と命ぜられればいつでも死んで見せます。ですが「死ぬな」と言われましたら、
石にかじりついてでも生きましょう」
「すまぬ……」

大宮司はトモエにすり寄り、両手でその手をしっかりと掴んで涙を流していた。
トモエはそんな老人を暖かく見守りながら、何度も頷いていた。



     戻る   作品トップへ  第二話へ