薄暗い教室の中で蘭は思う。
なぜビデオ教材を見る時は部屋を暗くするのだろうか。
OHPでもあるまいし、別に明るい中で見てもいいと思う。
視聴覚室の大型プロジェクターは去年導入されたばかりの製品で、昼間に屋外で見ても視聴に耐えるらしいのに、室内で照明を落とすことはない。
しかし、さっきまで上映されていたビデオの内容を考えれば無理もないかも知れない。
女生徒だけ集められて見せられていたのは思春期保健関係の映像教材──平たく言えば性教育のビデオなのであった。
通常これは高校2年で見るらしいが、帝丹高校ではなぜか3年生になってから見ることになっていた。

室内は意外なほどに静かだった。
もっときゃいきゃい騒ぐ子もいるのではないかと思ったが、教師がふたりもいてはそうも行くまい。
だからなのか、隣の子とこそこそ内緒話をしていたり、クスクス笑いながら見ている子もいた。
それでも、半分くらいはどこか落ち着かない感じできょろきょろしていたり、意識的に目を伏せている子もいたようだ。
蘭もそのひとりで、気恥ずかしくなって目を逸らしたり、かと思うと妙に真剣に見入っていたりで、まことに落ち着かなかった。
ちらっと隣の園子を見てみると、やはり少し落ち着かないようだ。
最初のうちは、あれこれ蘭に話しかけてきたが、だんだんと口数が減ってきたのを見ると、彼女も割と真剣に見ていたのだろう。

蘭は、ビデオの内容に今の自分を当てはめて色々と考えていた。
もう少し前の彼女なら、また違ったかも知れない。
やはり新一が帰ってきたことが影響しているのだろう。
そう言えば新一も、男子向けのこの手のビデオを授業で見たようなことを言っていたなとぼんやり考えていると、パッと室内の照明が入った。
蘭がぼんやりと余計なことを考えているうちに終わったらしい。
中年の女性教師がカーテンを開けていく。
男性教師がプロジェクターを切って、デッキからDVDを取り出していた。

途端に生徒がざわざわと私語を交わしだした。
今見たものについて友人と話しているのだ。
教師がふたり教壇に上り「静かに」と注意してざわめきを鎮めていく。
おしゃべりがなくなったところで、中年の男性教師が思わせぶりに咳払いしてから言った。

「あー、今、見てもらった通りだ。かなり具体的な内容だったから、俺の余計な説明など要らんだろう。それに、もうあれくらいのことは経験済み
だってやつもいるだろうな」

そう言うと嵯峨島は喉の奥で「くっくっ」と笑った。
女生徒の側がムッとしたのが雰囲気でわかった。
蘭もそのひとりだが、隣の園子はさらに腹を立てたらしい。

「……どういう意味よ、まったく。あたしたちを何だと思ってんのかしら」

確かにそういう生徒もいるだろうが、言い方が悪すぎる。
仮にも今は正規の授業なのだから、そうした下世話な話はすべきでない。
しかも性教育の場でそんなことを女生徒に言ったら、反発されるのは当然である。
セクハラだと問題視されても仕方がない。

しかし生徒からの悪口や陰口などどこ吹く風の嵯峨島は、「鉄面皮」のあだ名通り、女生徒たちの反応など意に介さなかった。
もう40代後半と思われる男の体育教師で、生活指導も担当している。
若い頃はけっこう鳴らした水泳選手だったらしいが、今では見る影もない。
頭髪は薄くなり、腹は出っ張り、いつも反っくり返っている。
履いているのもサンダルで、ぺったんぺったんとだらしない音を響かせて廊下を歩いている。
女生徒から見れば、見ただけで嫌になるタイプであり、男子生徒にとっては、中年になってもああはなりたくないと思わせるような存在だった。

加えて生活指導教師ということもあり、生徒達の評判は甚だしく悪かった。
しかも、噂ではあるが、生徒くらいの子を買春しているらしい、という話まであった。
根も葉もない噂かも知れないが、この男にはそう思われても仕方がない言動が山ほどあった。
水泳部顧問なのをいいことに、女生徒たちの水着姿をじろじろ見ていたりする。
覘き見されるのだってイヤなのに、この男は堂々といやらしい目で見物するのだ。
覘きの方がまだ可愛いと言えよう。

あまり人に対する好悪のないのが蘭の良いところだったが、この教師だけは別だった。
普段の行動からして毛嫌いするに充分なものだったが、どうも蘭を気に入っているらしいのだ。
園子にその話を聞いた時には寒気がして鳥肌が立ったものだ。
園子によると、水泳はもちろん体育の授業の際にも、物陰から、あるいは堂々と蘭の肢体を舐めるように見ていることが何度かあったらしい。
あまりに露骨なので、見かねた園子が詰問したらしいが、「ふん」と鼻であしらって立ち去ったのだと言う。
見られた蘭よりも園子の方が立腹していて、「あのエロ教師め!」と酷く憤慨していたのだ。

そんないやらしい中年男に興味を持たれていると知り、蘭はうんざりとするとともに寒気がした。
幸い、嵯峨島は現在二年生の担当で三年である蘭たちとは表向き関わりがないのが救いである。
その嵯峨島は教壇に両手を拡げて突きながら言った。

「まあ、あれだ。この手の情報は、今の世の中、インターネットでも気軽に取れる。中学の時にも保体ん時にやってるだろう。それにしても最近のは、
教材ビデオとはいえけっこう過激なもんだな」

また嵯峨島がいやらしく笑っている。
蘭は本当に嫌になった。
顔も見たくないと思う。

確かにビデオの内容はそれなりに「先進的」だった。
一応、真面目な内容ではあるし、何しろ都の教育委員会の推薦もあった。
だから、これを見ていやらしい気持ちになるのは見る側に問題があるのだろうが、そうしたことに興味を持ち始め、関心が強くなるはずの蘭たちの
世代なら、それも無理はないだろう。

確か蘭が中学三年の時に見せられたのは、もっとソフトな表現だった。
それでもコンドームの付け方とか、性病の画像を(しかもモザイク無しで!)見せられた時は本当に驚き、気分が悪くなったものだ。
挙げ句「子供の作り方」の説明まであった。
イラストの止め絵で紙芝居のようだったが、それでも要するにセックスの仕方を解説していたから、中学生の蘭はけっこうショックだったのだ。
あれを見せられてトラウマになった子がいるというのも判る気がした。

そして今日見せられた(まさに「見せられた」のだが)のは、よりにもよってセックス入門のようなビデオだったのだ。
もちろん、安易なセックスを禁じ、エイズを始めとする性病感染への注意、避妊についての知識の解説はあったものの、まさか「フェラチオ」だの
「オナニー」だののことまで映像に出てくるとは思いもしなかった。
しかも今回は動画、それも実写である。
さすがに挿入しているカットやあまりに過激な愛撫のシーンなどはなかったが、男性が女性のバストを軽く揉んでいたり、キスを交わしたりする場面は、
ちゃんと役者さんが演じていたのだ。
もちろんアダルトビデオなどとは一線を画してはいるが、それでもけっこう衝撃的だった。
イラスト断面図で女性器に男性器が挿入され、しかもそれがアニメーションして律動し、最後には胎内に射精されるシーンまであった。
よくわからないが、これは行き過ぎではないかと蘭などは思うのだった。

それでも、何だか表現し難いような、ふわふわとした感じになる。
頬は火照り、もじもじと腿を擦り合わせたいような気になってくる。
もしかしたら、あそこが少し濡れているのではないかとすら思う。
自慰経験は少ないものの、ないわけではない。
蘭は、何だか自分がひどくいやらしい女の子になってしまったような罪悪感に囚われていた。
でも、園子や周囲の子たちも蘭と同じような反応を見せているから、みんなそう思っているのだろう。
そんな女生徒の様子を見るのが楽しいのか、嵯峨島はいやらしくにやけたまま言った。

「くくっ、さっきのビデオを見て変な気分になったのもいるだろうな。だが心配するな、それで正常なんだからな」

それはそうなのだろうが、嵯峨島に言われると何だか「このスケベな女め」と蔑まれたような気がしてむかついてくる。
大体、保体の授業なのになぜ嵯峨島が出しゃばっているのだ。
いつもは保体の授業などには出たこともないし、そもそも今回は女生徒限定の性教育なのだから、こんな男は不要──というより邪魔なだけなのだ。

女性の朝戸南子教諭もそう思っているらしく、眉間に皺を寄せて嵯峨島を睨みつけている。
自分の授業なのに余計な邪魔が入ったということもあるだろうが、それ以上に女生徒に対して無神経な発言が多すぎる。
この授業についても、本来は朝戸先生だけでやる予定だったのに、そのことを聞きつけたらしい嵯峨島が「自分は生活指導だから一緒にやらせてくれ」
と強引に割り込んできたのである。

だが、今回は純粋に保健体育としての性教育なのだ。
性教育だから、風紀だの生活指導だのも無関係なわけではないが、この授業はそういう道徳的、倫理的な意味合いではなく、女性への性医学という
意味合いなのだ。
そこに風紀や道徳的なものが入ってきては目的が薄れてしまう。

確かに性教育という面に於いては、そこに触れずにはいられないから、朝戸先生もそのことについては話すつもりではいた。
でも嵯峨島が入ってしまっては、そっちがメインになってしまう。
そうなら、あんなビデオを見せる必要はないのだ。
しかしキャリアの点では嵯峨島の方が長く、どうも嵯峨島は教頭や学年主任へも話を通したらしく、そっちから彼の参加を要請されてしまうと、
さすがに朝戸も断れなかったのだ。
しかし、今の嵯峨島の言動を見るにつけ、つくづく失敗だったと思う。

「念のために言っとくが、まさかおまえらの中に性行為……平たく言えばセックスだな、経験者はいないだろうな」
「……」

シーンと静まり返って、生徒達は何も発言しなかった。
小声での雑談すらない。
ムッとした怒りのオーラが教室内に漂っている。
今時の高校生、それも三年である。
経験者がいたっておかしくはないし、むしろひとりもいなかったら、そっちの方が不気味だ。
もちろん「ない」子だって普通にいるはずだ。
そんなことをこんな場で聞く方がどうかしている。

処女喪失の年齢は、データによって様々であるが、平均で16歳という結果もあるらしい。
男女ともに調べたものだと、日本人は処女童貞を喪失する年齢は平均19.4歳となっている。世界平均は19.25歳だそうで、総じてアジア諸国は欧米より遅いようだ。
中でもマレーシアなどは23歳と出ている。

だが、これはあくまで平均であり、データをまとめた媒体によってもかなり違った結果になるというのが本当のところだ。
例えば、中高生が読むような雑誌によるアンケートだと15,6歳くらいになるようだが、もう少し年齢が上向けの女性誌などでは19歳くらい
になっている。
要するに「当てにはならぬ」ということであり、12歳でセックス初体験する子もいれば、20歳すぎてもまだヴァージンという子も決して珍しくは
ない、ということだろう。
つまり、そんなことはいちいち口に出すことではないし、嵯峨島が問い質すようなことではないということだ。
嫌われ者の教師はなおも続ける。

「第一、18歳以下の青少年の性行為は都条例違反だからな。しかも不純異性交遊は校則でも禁じてる。もちろんウリなんかいかんぞ。援助交際なんぞ
以ての外だ。つまりおまえらは在学中セックスしただけで罪になるってわけだ」

この、相手の心を傷つけ、抉り込むような意地の悪い言い方はなんだ。
雰囲気で「してしまった」子もいれば、愛し合って抱かれた子もいるだろう。
もちろん年齢的にまだ早すぎるという理屈もわからないではないが、まるでそれが罪悪であるかのような言い方が許せない。
そもそも援助交際などというものは、買う男がいるから売るのである。
男の誰もが法を遵守し、確固とした道徳観と倫理観を持っていたなら成立しない犯罪なのだ。
それを一方的に女が悪いような言い方をすれば、特に女生徒などはバカにされたように感じ、反発するのは当たり前であろう。

「……先生、もうけっこうです。ありがとうございました」

さすがに見かねたのか、朝戸先生が割って入った。
ブラウンに染めた髪をひっつめて、ポニーテールにしている。
別に保健体育を教えているからということもないだろうが、いつも長い白衣を引っかけていた。
その下はきちんとブラウスを着込んでおり、常にだらしないジャージの嵯峨島とはまるで違う。
脚も細くて綺麗そうなのだが、スカートはいつも眺めでふくらはぎがようやく半分見えるかどうかくらいだったし、どちらかというとスパッツの方が
多かった。
身体にぴったりしているからヒップのラインなどは綺麗に出そうだが、それを隠すかのように白衣を着ているのだ。

もう30代後半くらいだろうが、若かった頃はさぞや美人だったのではないかと思わせる風貌だ。
メタルフレームの眼鏡を掛けていて、それが少し「きつい」印象を与えるらしい。
実際に、厳しい先生ではあるのだが、決して理不尽に叱ったり罵ったりすることはない。
保体の教師ということもあって、特に女生徒からは信頼を寄せられている。
だからこそ、嵯峨島の不躾な言葉でも蘭たちは暴発しないで黙って我慢していたのである。

注意されるように言われた嵯峨島は、別に腹を立てるでもなく、素直に教壇を譲った。
そして朝戸が「もう帰れ」とでも言うように、手のひらで戸口を指し示すと、苦笑してから教室から退場した。
すぐに、ホッとしたような雰囲気が教室に溢れ、いつもの明るい空気が戻ってきた。

「はいはい、静かに」

朝戸先生が、軽く手を鳴らして注意すると、生徒たちはぴたりとお喋りを止めた。
叱った先生の方も怒っているという感じではなく、顔には笑みすら浮かんでいた。
教師、生徒ともに厄介な邪魔者が去って安堵したというところらしい。
朝戸は、DVDを片付けながら言った。

「で、今のビデオを見て、何か質問はありますか? ビデオの内容だけでなく、今回の問題について疑問があったり、聞きたいことがあれば言って下さい」

蘭と園子は顔を見合わせた。
他の子たちも近くの生徒と何か話している。
これは雑談ではなく、授業に関係あることの会話だから朝戸も咎めなかった。
すぐに数人の生徒がすっと手を挙げた。

「はい……、じゃあ富永さん。座ったままでいいわ」

朝戸が指名すると、生徒は起立せずに質問した。

「はい、あのーー、さっきのビデオだと、その、あの、愛のない……セックスはダメって言ってましたけど、愛さえあれば、その、いいんですか?」

予想された質問だったのか、朝戸は小さく頷いて答えた。

「愛し合った男女であれば、そういう関係にいずれは発展してもおかしくないと思うわ。でも、闇雲にセックスというのも感心できません。ビデオにも
あったように、しっかりとした避妊の知識を持ち、何かあった時はそのことを相談出来る相手がいたりとか、そういうことは必要でしょう。もちろん、
男性側が女性の身体や心のことをちゃんと心配し、労ってくれる相手でなければ困ります。場の雰囲気に流されての安易な行為は禁物です」

質問した少女を含め、生徒たちはみな頷いている。
納得がいったのだろう。

「特に最近は、エイズなどの性感染症の危険も大きくなっています。この手の病気は、みんな恥ずかしがってしまって……気持ちはわかるけど……
なかなか医療機関にかかろうとしません。セックスするということは、こういうことと背中合わせです。そういうリスクを負っていると認識してくだ
さいね。だから、もし「万が一」ということが疑われたら、即座に医療機関へ行って下さい。その勇気がないのなら、しない方が無難ですから」

生徒たちは顔を見合わせている。
それぞれに思うところがあるのだ。
すぐに発言が続いた。
今度は挙手もなく、山中という少女が言った。

「でも先生……、私が……というか、女の子の側がセックスを拒んだら、男の子の方が「俺を愛してないのか」とか言うんです。でも、そんな
ことない。だけど私は……」

女教師は「わかった」というように手を翳し、それ以上の発言を抑えた。
恐らく今の質問はあの少女の実体験なのだろう。
それがあからさまになる前に、朝戸は止めたのだ。

「よくありそうな話よね。テレビや映画、漫画なんかでもそういうのってあるし」

生徒は失笑したり、身振り手振りを交えて周囲と話し合っている。

「でもね、山中さん」

朝戸教諭の表情が緩む。

「セックスを拒んだら、そんなことを言うような恋人だったら、あなたも少し考えた方がいいわ。それって歴とした脅迫なんだから」
「……」
「いいこと? そんなことで脅しを掛けるような男性だったら、絶対に他のことでも脅迫してきます。つき合っていて、いいことなんかないわ」
「でも先生……」
「あなたの言いたいことはわかる……つもりよ。だったら一度、彼氏とそのことについてよくお話しなさい。それすら嫌がるような無誠実な男なら
別れた方がいい。真面目に聞いてくれるような人の方が信用できるでしょ?」

また座ったまま、挙手もなく他の子が発言した。
この手の話題の場合、そうした方が発言はしやすいだろう。

「避妊についてなんですけど……、あたしたちでもピルとか飲んで平気なんですか?」
「平気なはずですけど、必ず産婦人科の先生に相談してからにして下さい。薬には違いないし、副作用がまったくないわけではありませんから。
それよりは……」
「コンドーム……ですか」
「ええ、そうね。でも、これも過信は禁物です。何しろ薄いものですから、簡単に破れたり穴が開いたりしますよ。あなたたちも見たことはあるでしょ?」

そう言うと、生徒たちがドッと笑った。
嵯峨島の時とはえらい違いである。
質問した子が続けて尋ねる。

「コンドームしないでも、その、男の人がいく前に外に出せばいいんじゃ……」
「それはだめよ、絶対に」

朝戸先生は思いの外、厳しい声で言った。

「男性は性的に興奮すると、女性の分泌液に近いもの……カウパー液という透明な液体を性器から出します。これは精液ではありませんけども、
精子が混じっているのが普通です。ですから、射精する前であっても、直に膣に男性器を挿入していれば妊娠の可能性はゼロではないんです」

生徒達がざわつく。

「それに、寸前で外に出せばいい、なんていうのは言い訳よ。そんなアダルトビデオの男優みたいなことは、誰にでも出来ることじゃないわ。
気持ち良くて抜くことが出来ず、あるいは抜こうとはしたけどもタイミングがずれたなんて当たり前にあるの。そうしたらどうなると思う?」
「……」
「はっきり言うけど、避妊性はゼロです。いいですか、在学中……というよりも、結婚前で避妊具なしの性交はだめよ、絶対に。あなたたちの身体の
問題なんだから」

その質問に関連したわけでもないだろうが、精液絡みでびっくりするような質問が飛び出てきた。
お下げで眼鏡の子が小さな声で言った。

「先生、その、聞きにくいんですけど、男の人の、その……あ、あれから出る、その……」
「精液?」
「そ、そうです」

女の子の顔が真っ赤になった。
周囲はドッと笑い転げている。
質問した少女は少しばつが悪そうに質問を続けた。

「それって……人が飲んでも平気なものなんですか?」

一転して、生徒たちはびっくりしたような顔で少女を見ている。
嵯峨島がいたらどんな反応をしただろうか。
きっと「おまえ、男のものをくわえたことがあるのか」と、露骨に言ったに違いない。
いなくなったからこそ出来た問いかけだろう。
朝戸先生も一瞬きょとんとした表情をした。
が、すぐに戻り、極めて冷静に返答する。

「ぶっちゃけて言えば、別に害はありません。何しろ人間の体液なわけですから。でも、そもそも飲むものではありませんし、おいしいわけでも
ないので、無理に飲む必要はありません」
「ということは、先生、飲んだことあるんですね?」
「そういうことは疑問に思わなくてよろしい」

また弾けるような笑い声で教室が満たされる。
はしゃぎすぎは問題だが、生徒と教師の問答がこれだけ受けるということは、みんながこの授業に集中している証拠でもある。
それでも、いつ他の教師から苦情が来るかと少し気にしながら朝戸が続けた。

「でも、もし性感染症を持っていれば感染の危険性はあるわ」
「え、それって彼……じゃなくて、男の人が何か病気を持ってればってことですか」
「そう。それであなたの口の中に小さな傷があったりすれば、もう……」

少女は黙って俯き、そしてまた顔を上げた。

「性感染症って……そんなに多いものなんですか」
「実はね、女性の性感染症の原因って、その95%はパートナー……つまり旦那さんや彼氏から感染したものだってデータもあるの」

それを聞いた女生徒たちがざわつく。
たちまちいくつもの声が上がった。

「そんなに!?」
「でも、だって……そういうのってレイプされたりとかそういうのから移るんじゃないんですか?」
「まあ待って」

朝戸が宥めるように手を挙げる。

「そういうこともあるけども、残念ながらほとんどはパートナーなのよ。旦那さんや恋人は、あなたにとっては唯一の異性かも知れないけど、彼らは
そうでないかも知れないの」
「……」
「風俗で遊んだり、不特定多数の女性を相手にしていれば、当然そういう危険は増大するわよね。それでいて彼が自分が感染していることに気づかな
ければどうなるか」
「……信用しちゃだめってことですか」
「そうは言わないわ。でも、いざそういう時が来たら、相手に尋ねてみるのもいいわね。それで誤魔化したり、怒り出したりするようだと怪しい……と」

また教室がざわついた。
その時、園子がすっと手を挙げたので、蘭は少し驚いた。
園子は立ち上がって朝戸に質問する。

「先生、さっき嵯峨島先生が言ってましたけど、女の子は18歳以下で、その、したりすると罪になるんですか?」
「うーん……」

園子は身振り手振りで熱弁している。
蘭はその様子を見上げながら、きっと園子は京極真とのことを思っているんだろうなと考えていた。

「そりゃあ援助交際とかは論外だと思います。強姦とかもです。でも、そうじゃなくて、お互いに愛し合っていて、将来を約束するような相手であって
も、17歳で関係したら罪なんでしょうか」

また教室が騒然としてきた。
今度はみんな声高に話し合っている。
しかし、朝戸が回答し始めると、ピタリとお喋りを止めた。
信頼されている先生は、少し生真面目な表情になって言った。

「……私たちの住んでいるここ東京のお話をしましょう。嵯峨島先生のおっしゃった通り「東京都青少年の健全な育成に関する条例」というのがあり
ます。そこには青少年……これはあなたたちのような女の子も含まれるんだけど……、そういう人たちと「淫らな性交、または性交類似行為を行うこと」
を禁ずる、とあります」

緊張して聞いていた生徒たちが笑い転げた。

「何それー」
「性交類似行為って何なのよ」

要はセックスではないが、それに近い行為ということだ。
端的に言えばフェラチオだのクンニリングスだのといったものである。
ペッティングもそうだろうし、愛撫行為すべてがそうなるだろう。
キスがどうなのかは判断の難しいところだ。

「先生、それなら高校生の男の子とおとなの女の人がするのもいけないんですね?」

また生徒たちが爆笑した。
確かにそういう理屈になる。
先生も苦笑しながら答えた。

「もちろん、そうよ。例が悪くて申し訳ないけど、例えば私が男子生徒を誘惑してそういうことしたら条例違反になっちゃうってことです」

気の利いたきわどい回答だったこともあって、一層にみんな大声で笑った。
朝戸が少し窘める。

「はいはい、ちょっと静かになさい。一応、授業中なんだから。でもね、警察は少し違うのよ」
「?」
「警視庁はね、100%だめだとは言ってないの。補導の対象にはならないかも知れない」
「どういうことですか」
「つまりね、都条例で定めている「淫らな性行為、または性行為類似行為」には「婚約中の青少年またはこれに準じる真摯な交際関係にある場合
は含まれない」という見解を出してるのよ」
「ええっ!? それじゃあ恋人同士はいいってことじゃないんですか?」
「警察の方が話わかるじゃん」
「待って待って、早まらないで。これは「逃げ」かも知れないわよ、どうにでも解釈できるんだから。お役人らしい答え方だわ」

そこで蘭が初めて発言した。

「でも先生、確か日本の法律だと、女の子は16歳以上で結婚出来るんじゃありませんか? そうだとすると、もし高校に行かないで……あ、行って
てもいいんですけど、その年齢で結婚したとしても、夫と、その、あの、そういうことをしてはいけないってことになりませんか」

意表を突かれた問いだったらしく、騒いでいた女の子たちは一瞬静まり返り、前よりもさらに声高に意見を言い合っている。
朝戸も「そう来たか」と何度か頷いてから、慎重に答えた。

「今の毛利さんの質問は核心を突いているのよ。実はね、この手の青少年健全育成条例ってのは問題もあるの。東京だけでなく、今では全国47
都道府県すべてにある条例なんだけどね。でも、毛利さんの言う通り、女性は16歳、男性は18歳で結婚できる。実はこれは本人同士で決めら
れるのね。つまり親とかが反対しても結婚は出来ちゃう」
「え……、そうなんですか」
「そうなのよ。まあ実際には経済的な問題もあるから、親の反対を押し切って結婚するのは難しいでしょうけどね。でも、法的には可能なの。でも
これっておかしいと思わない? 結婚するってことは、夫婦はセックスをするのが前提でしょ、基本的には。なのに都条例では、それを規制してるって
わけ。18歳以下はダメだと年齢でひとくくりにしているから起こった問題なんだけどね」

朝戸はそこまで言ってから教壇を下り、生徒たちの前に出てきた。

「民法で女子は16歳以上であれば婚姻が認められているのに、それを法的に規制するというのは、両者の自由意志に基づく性の自由に対して不当な
干渉を加えるものだ、という指摘もあるの。つまり婚姻可能年齢と条例の「みだらな性行為」の年齢制限の間には矛盾があるというわけ。これは見解が
分かれていて、まだおとなたちでもきっちりとした結論が出せてないわ。だからこそ、あなたたちが考えて欲しいの。どうあるべきかってことをね」

朝戸先生はそう言うと、また手を軽く叩いた。

「じゃ、そのことを踏まえてみんなで少し話し合ってみて下さい。時間制限は特に設けません。時間いっぱいまで……」
「先生、質問!」

元気の良い、それでいてクスクス笑ったような声が上がる。

「はい、大野さん。なに?」

指名されると、女生徒は立ち上がって言った。

「さっきの先生のお話を踏まえてみると、要するに「淫らな性行為」がまずいのであって、淫らでない性行為ならいいんじゃありませんか?」

女生徒がそう言うや否や、教室内は大爆笑に包まれた。
蘭も園子と顔を見合わせて声を上げて笑いながら、今度のデートのことを考えていた。

─────────────────────

工藤新一は、隣に並んで楽しそうに歩いている毛利蘭を見て思った。
これで何度目のデートになるだろう。

あのロンドンでの出来事以来、ふたりの間にあった見えない障壁は一気に低くなった。
さらに大きかったのは、新一がコナンから「復帰」したことであろう。
灰原哀と阿笠博士の地道な研究により、とうとうAPTX4869の対抗薬が開発されたのである。
人体実験するわけにもいかないから、ぶっつけ本番であった。
何しろAPTX4869そのものは哀も持っていない。
だからコナンの体液を採取し、そこから分離摘出して実験を繰り返していたのである。
従って量も少ないし、動物実験することすら出来なかったのだ。
無毒であることだけは確かだったから、例え失敗だったとしても人体に影響はないはずだった。

それでも哀はコナンに使うことをためらった。
しかし、話を聞いたコナンは躊躇なく使用を望んだのである。
無毒なら問題はない。
第一、この毒に侵されている人間はコナンしかいないわけだから、人体実験するにしてもコナン本人でするしかないのだ。
怖がって逃げていたら一生もとには戻れないかも知れない。
だからこそコナンは薬の投与を求めたのだ。

一方の哀は複雑である。
作り出した対抗薬に解毒作用があるらしいことがわかった時は嬉しかったが、それが成功するということは、コナンが新一に戻るということなのである。
そうなれば、新一と蘭の仲は急速に発展するだろう。
哀の女心が微妙に揺れ動いたのも無理はなかった。
だが、蘭個人に恨みがあるわけではなく、むしろ好感を抱いている。
そして投与を願うコナンを見るにつけ、哀はとうとう使用に踏み切ったのだった。
「どうなっても責任は持てない」と言いながらも、哀には成功するだろうという確信はあった。
結果として、コナンは見事に新一に戻ったのだ。
コナン化する以前と寸分変わらぬ状態だった。
これから長期的に見なければまだ何とも言えないが、身体の変調も特にはないらしい。
新一本人はもちろん、蘭の喜びようと言ったら周囲が苦笑するほどだった。
ついこないだまで新一のことを「あんなやつ」と言っていたのがウソのようだ。

新一は蘭を連れ立って改めて哀と阿笠博士のもとを訪れて礼を述べた。
蘭が料理を振る舞い、ふたりを歓待して心からの感謝を伝えたつもりだった。
そこに至って、工藤新一が現実社会に復帰し、同時に江戸川コナンという少年が消滅した。
蘭は、それとなく新一はコナンなのではないかという疑惑を持っていたから、そのことには納得していた。
ただ、新一が戻って嬉しかったものの、コナンにも母性的な親愛を感じていただけに、少し寂しかったようだ。
新一の両親はコナン=新一だと知っていたから良かったが、蘭の両親──小五郎と英理は真実を知るとかなり驚いたようだった。

新一は帝探高校に復学し、蘭とともに三年生に進級した。
そして改めて新一が告白し、蘭はそれを受け入れて、ふたりは晴れて「恋人」関係に発展したのだった。
ただ、だからといって蘭と新一がベタベタするようなことはなかった。
同じ高校に通っているから、ほぼ毎日そこで顔を合わせるのだが、周囲の目の問題もあって、学校であまり親しげにするわけにもいかない。
といって、日曜でも蘭は家事があり、そう毎週誘い出すわけにもいかなかった。
新一もそれがわかっているから、誘いそびれることも多かった。
新一自身、内密に警視庁捜査一課から協力要請が来ることもあり、忙しかったのだ。
そして、それをもどかしく思う蘭という構図が成り立っていたのである。
それでも、牛歩の歩みながらふたりの関係は少しずつ発展し、とうとうこの日「一線を越える」つもりで出かけたのだった。

ふたりは大きなファッションビルを訪れていた。
蘭は、米花市の隣の市に新しいファッションビルが出来たと園子に聞いて以来、来たがっていたのである。
当然のように蘭は園子を誘ったのだが、その辺は園子の方が気を遣い、「せっかくだからデートして来い」と言ったわけだ。
その時「あんたたち、「まだ」なんでしょ? 蘭の方から押し倒しちゃえ」と唆すことも忘れなかった(園子と京極の方とて「まだ」だったのだが)。

それがあったからというわけでもないが、蘭もそのことを意識していた。
新一は新一で、つきあい始めて以降、キス以上の関係に進まないことに若干の焦りも感じていたらしかった。
彼なりに「今度こそ」という思いはあったようだ。
無論、蘭に拒否されれば諦めるが、新一にその意志があるということは示しておきたかったのだ。

なかなか「それ」を口に出すことが出来ず、諾々と蘭のショッピングにつき合ったが、さすがにくたびれてきた。
蘭の方は行きたかった店に行けたし、ひさびさのデートということもあってはしゃいでいる。
その嬉しそうな顔を見ていると、やはり切り出しにくかったのだ。

「着いたー!」

蘭は新一の手を引いて、ウキウキしながら目的のビルにやってきた。
その洒落たファッションビルは、壁面に大きく「Zoom」と飾り文字が入っていた。
「ズーム」という名前らしい。
この手のビルは、パルコとかOPAとかの全国展開の大型店が多いのだが、どうもここは違うようだ。
ビルの大きなエントランスには大きな店舗案内が掲示してある。
地下一階、八階建てのようだ。
地下は雑貨、小物と化粧品。
一階は靴、バッグなどの皮革製品とハンバーガーなどの軽食コーナー。
二階は雑貨とアクセサリー。
三階はカジュアル系ファッション。
四階はフォーマル系と展示スペース。
五階は子供服とマタニティなど親の関心がありそうな服飾。
六階は女性ランジェリーとカフェ。
七階はミリタリーなどのラフなユニセックス系ファッション。
八階はレストラン街とブックセンター、CDショップ。
そして屋上にはフットサルコートまであった。
隣接した大型の立体駐車場には220台の駐車スペースがあるらしい。
敷地面積6,000u、店舗面積13,000uと、かなり広さを誇っている。
店舗内や掲示板を見ながら、蘭が楽しそうに言う。

「すっごいよねー、綺麗だし、おっきいし。ちょっと米花にはないよね、こういうの」
「あ、ああ」

新一のぎこちない返事を気に留めることもなく、蘭はその手を引っ張ってエスカレータに向かっていく。
いつもは、この手の買い物につき合うのは気が引ける新一だったが、今日はそれほどでもなかった。
この後に大きな目的があるということもあったが、このビルの店舗編成が巧みだったのだ。
どの階も基本的に男女のファッションがある、ということだ。
一緒に来た男性にも楽しんで欲しいというコンセプトらしかった。
さすがにランジェリーコーナーだけは女性専用だったが、それ以外はどこも男性服があり、退屈になったらそっちを眺めて時間を潰せるようになっているのだ。

今は四階の女性服売り場にいた。
下着売り場よりはマシだが、やはり新一には少し居心地が悪い。
それでも、蘭の明るい笑顔を見ているだけで癒されるような気がして、不快ではなかった。
鼻歌を歌いながら、嬉しそうにあれこれ手に取って眺め、似合うかどうか確認してくる。
蘭にとっては夢のような現実なのだろう。
新一がいなくなって以降、こんな日が来るのを夢見ていたのだ。
せっかくここまで来たのだから、少し気取った服を買おうかなと思っている。

今日も普段着ではなかった。
高価なものではないが、あまり普段の蘭では見られないファッションだ。
少なくとも新一は初めて見る服装だった。
上は丸襟のインナーシャツを着ている。
コットン製でホワイト、清楚かつベーシックなもので、これは彼女らしいと言えるだろう。
その上には、横畦織りになった薄手のニットプルオーバーだ。
ゆったりとした見た目で、健康的なイメージである。
カラーはキャメルだが、蘭の顔立ちが愛らしく華やかなので、少しも地味な感じはなかった。
胸元に、ワンポイントでヒマワリをデザインした大きなペンダントを着けているのが彼女にしては珍しい。

下はネイビーカラーのスパッツだった。
ふくらはぎの下半分ほどまでの長さで、キュッと脚を引き締めている。
すっきりとしたデザインだが、脚にぴったりしているため、蘭の脚線美がよく映えた。
蘭はスカートの方が多いし、あまりこうした身体のラインが出るものは好まなかったようだが、今日は特別なのだろう。
とはいえ、水着などでは意外なほどに露出の多いものを選ぶこともあるから、蘭のやはり女の子だということなのだろう。
足下はキャメルのパンプスで固めていた。

「あ、これがいいかなー」

と言って、蘭は黒いスカートを取り上げた。
少し大人っぽいデザインだが、こういうのもひとつくらい持っていてもいいと思う。
蘭は、知り合いの佐藤刑事がよくこういうスカートを履いていたのを思い出していた。
蘭から見ても綺麗な人で、スタイルもとても良い素敵なおとなの女性だと思う。
行動的な佐藤刑事は、こうしたタイトスカートがよく似合っていた。
膝が引き締まり、ただでさえ綺麗な足腰のラインがより美しく見える。
その姿を見るたびに「素敵だなあ」と思っていたのだ。
まだ自分はあそこまではいかないだろうが、ちょっと背伸びしてみたい気がした。

「ね、これどう思う? 似合うかなあ?」
「どうだろうな……。少し大人っぽくないか?」
「だから選んだんだもん。ちょっと試着するから来てよ」
「は?」

そう言われて新一は驚いた。
まさか試着室までつき合えということだろうか。
新一がそう言うと蘭は呆れて言った。

「バカね、試着室に一緒に入ってなんて言わないわよ。でも試着した状態で見てもらいたいから、試着室の前で待っててって言ってんの」
「あ……、そう……」

新一は安心すると同時に、少し拍子抜けもした。
もしかして、着替えているところが見られるかと小さく期待もしたのだ。
しかし、さすがにそんなことはなく、大きな試着室の前で立ちん坊となる。

「……」

それにしても大きな試着室だと思う。
何しろ着替えるだけなのだし、着ていた服は壁のハンガーに引っかければいいのだから、ここまで広い必要はないと思う。
気の利いたところでも、せいぜい手荷物を置いておくスペースがあるくらいだろう。
普通、こういう小部屋は畳半畳くらいじゃないだろうか。
広くても一畳あるところは珍しいと思う。
なのにここは三畳分くらいはありそうだ。
冗談ではなく、これならふたりで入ってもそう狭くはないだろう。
もしかすると、他の人に着替えを手伝って貰えるようになっているのかも知れない。
しかも出入り口はカーテンなどではなく、ご丁寧にドアになっている。
至れり尽くせりだ。

10分待たされると、ドアが薄く開き、そこから蘭が顔を覗かせた。新一を確認すると、悪戯っぽい顔で

「お・待・た・せ」

と言って笑った。

ドアが開くと、さっきまでとは一変した蘭が立っていた。
新一は気づかなかったが、上着も選んで持ち込んでいたようである。
ワインレッドのカットソーを着ていた。
お腹周りの大きなフリルが印象的なエレガンスなものだ。
ジッパーはバックで、着替えも楽そうである。
先ほどのブラックのタイトスカートも履いている。
上のワインレッドとのコントラストも、おとなの落ち着いたイメージを演出していた。

「……」

新一は見違えてしまった。
そして見とれた。なるほど、女というのは着ているものでイメージが格段に変わるらしい。
若々しく健康的な蘭とは打って変わって、彼女の3年後を見ているかのような印象を受けた。
それくらい大人っぽかったのだ。
蘭はそんな新一を見ながら、はにかんで聞いた。

「ねえ……。どう? 似合ってる?」
「あ、ああ……。蘭じゃないみたいだ」

素直に褒め言葉と受け取ったらしく、蘭は少し恥ずかしそうな笑顔を浮かべて頷いた。

「えへへ、そうだよね。ちょっとアダルトな感じ?」
「……」
「こういうのもたまにはいいかなって。新一が似合うって言うなら、これにしよ」

蘭はそう言って、嬉しそうにドアを閉じた。

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そのビルを出たのは午後三時を少し回ったあたりだった。
一人暮らしの新一には門限らしい門限はなかったし、蘭の方も「今日はデートだから」と、同居の小五郎に断ってきている。
もしコナンもいたならば、無理をしてでも速めに帰宅したろうが、もうその心配はないのだ。

予め食事の用意をしておこうかとも思ったのが、一計を案じてそれはやめた。
「たまにはお母さんと食べればいいじゃない」と、澄ました顔で言ったのである。
この健気な少女は、意地を張り合っている両親を何とか和解させようと普段からあれこれ画策しているのだが、今ひとつうまくいっていない。
ここまで来たら焦らず、とにかく接触させる機会を作ることが必要なのだろう。
今回もその機会のひとつにすればいいのだ。
小五郎は不満そうに抗議したものの、何とかやり込めた。
この父親のことだから、もしかすると英理には会わず、知り合いを誘って飲みに行ってしまう可能性もあったから、蘭は英理にも連絡しておいた。
英理の方から誘うように勧めたのである。
小五郎の方から動くことはないだろうから、そこまでお膳立てしないとうまく行くものも行かなくなる。
そこまでやってから蘭は出かけたのだ。

それでも「あまり遅くならないうちに帰れよ」と言っていた小五郎の言葉を無視することも出来ない。
不器用ではあるが、彼なりに娘を心配しているのだ。
蘭自身、そんなに遅くなるつもりはなかったから、午後八時には帰宅しようと思っていた。
だが、まだ日は高い。
夕食を摂るにはだいぶ早い時間だろう。
もう少しショッピングしてもいいかなとも思うのだが、新一の方はだいぶくたびれているらしい。
まあ、男の子なのだから女の子の買い物につき合うのは色々疲れるのだろう。
夕食の前に、お茶でも飲んで時間を潰そうか。
隣を歩く新一を見ながら、蘭はそんなことを考えていた。

右手で新一の左手を握っている。
恋人関係になってから、蘭がいちばん嬉しかったのは、堂々と手を繋げるようになったことだ。
キスも嬉しかったが、恥ずかしい思いも強く、手を繋ぐ方が「暖かい」感じがして好きだったのだ。
エントランスの自動ドアが開き、「さて、どうしようかな」とふたりが思った時、すすっとビルの脇から若い女の子が寄ってきた。

「どうぞ」

すっと新一に差し出されたのはポケットティッシュである。
不況が長引くにつれ、昔はうんざりするほどいたティッシュ配りは激減した。
あまりにも多いので、差し出されても受け取らずに逃げる人も多かったほどだ。
一部繁華街を除けば最近は珍しいので、自分から寄っていって貰っている通行人がいるほどだ。
目の前に突き出された新一は、否応もなくそれを受け取っていた。
新一にそれを渡すと、女の子はそそくさとビルの前から去って行った。
蘭が新一の手許を覗き込む。

「なに?」
「あ……」

ティッシュに入っていたのは、ピンクなどのパステルカラーをふんだんに使ったデザインの広告だ。
「Shamrock」と大きくロゴが入っている。
シャムロックと言えば、確か英語でクローバーのことだったような気がする。
女性向けというか、若者向けなのか、けばけばしくないデザインで、ロゴも可愛らしかった。
建物の写真と住所、料金などが印刷されている。
裏を見てみると、ご丁寧にコンドームまで入っていた。

それがラブホテルの広告だと気づき、新一は慌ててジーンズのポケットに押し込んだ。
ファッションホテルとあったが、要はラブホテルである。
最近ではブティックホテルなどとも言うらしい。
蘭も同時に気づいたらしく、真っ赤にした顔でそっぽを向いている。
新一はモロにそのことを考えていたし、蘭の方も「そろそろかも」と内心思っていた(期待していたのかも知れない)こともあって、それを見た時
何となく図星を指されたような気がしたのだ。
ふたりは、どちらともなく向き合い、ぎこちなく笑った。
新一にティッシュを押しつけた女の子が、ビルの脇からその様子を眺めていることには気づきもしなかった。
女の子は、ティッシュ配りだと気づいた他の通行人が、自分も貰おうとして寄ってくるのを邪険に追い返しながら、携帯を取りだして、いずこかへ電話していた。

新一と蘭は、それから大した会話もなく、手を繋いだまま当てもなく歩いていた。
明るくはしゃいでいた蘭も口をつぐんでいる。
口数が減ったのは、やはりさっきのホテルの広告を見たことが影響しているのだろう。
新一は何事か考えるように少し俯いていたし、蘭の方は何だか足下がふわふわするようで、地に足が着いていなかった。

新一は、隣の蘭をちらりと見てみる。
まだ少し頬が赤かった。
少し微笑ましくなる。
同級生なのに何かとお姉さんぶり、新一をリードしようとする蘭だが、やはり女の子なのだ。
可愛いな、と思う。
そして余計に愛おしく感じてくる。

蘭を見ているうちに、新一の中で決意が固まった。
今こそ勇気を振り絞る時かも知れない。
捜査となると無茶とも言える勇敢な行為も平然とやってきた新一だったが、こと自分のこととなると途端にだらしなくなってしまう。
別に急ぐこともないのだろうし、焦る必要もないかも知れない。
こうしたものはタイミングなのだと思う。
そして、今がそのタイミングなのかも知れないと新一は思い始めている。

もちろんホテルでしなければならない、などということはない。
そもそも新一は一人暮らしなのだから、自分の部屋に蘭を招いて結ばれてもいいのだ。
むしろその方が良いような気もしていた。
だが、それだと何かきっかけでもないと、なかなかそうした雰囲気にはならないし、踏ん切りもつかない。
蘭の方に「まだその気はない」と言われてしまうかも知れない。

しかし、蘭がラブホテルに行くことを同意したならばその懸念はないのだ。
ラブホテルとはそういう場所だからである。
まさか「それ」をする場所へ行って何もしないということないだろう。
そう考えると、選択肢はこれしかないような気もする。
これは「きっかけ」なのかも知れないと思った。

新一はぴたりと足を止めた。
ぎゅっと蘭の手を握りしめる。
蘭も申し合わせたように止まった。
新一の考えていることがわかっているかのように俯いている。

「蘭」
「なに……?」

新一が呼びかけても蘭は俯いたままだ。
ただ、手はしっかりと新一の手を握っている。

「行って……みようか」
「……」

蘭はどきりとして、きゅっと新一の手を握りしめる。

「そこで……休んでいくの……?」
「……蘭さえ、よかったら……」

そこで蘭は新一に顔を向けた。まだ赤みは残っているが、表情は柔らかかった。
一瞬、今日の性教育の授業のことが心をよぎったが、蘭は軽く顔を振って新一を見る。

「新一が行きたいなら……、いいよ」



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