休暇を取って上京していた若月香織は、直接に文科省を訪れることはなかった。
文科省は自分たちけっこう仮面の派遣もとでもあるのだが、同時に敵地でもあるのだ。
学園が本陣なら、ここは砦といったところだ。
学園OBや学園長の息が掛かった役人といったスパルタ学園一派も、かなり羽振りが
良いらしい。
まだ香織がけっこう仮面だとバレているとは思わないが、スパルタ学園関係者が学園
長の連絡もなしに迂闊に文科省へ近づけば不審に思われるに決まっている。

かつてけい子から、もし自分のいない時に重大時が発生し、その判断が難しい事態に
なった場合の連絡先として、文科省の永井剛審議官の携帯電話番号を教えられていた。
けっこう仮面専用の携帯であり、そこに連絡が入るということは彼女たちを含む、
全国に散ったけっこう仮面からの緊急連絡に違いないのである。
もちろん香織は自分の携帯のアドレスに登録するなどという愚かなことはせず、自分
の頭で記憶するだけだった。
連絡を入れると、電話に出た永井は詳細の報告は求めず、会う時間と場所だけ指定
してすぐに電話を切った。

香織と永井が秘密裏に会ったのはその翌日、場所は審議官の自宅に近い白金の小料
理屋だった。
なじみの店のようで、永井が頼めば、香織と会っていたことはもちろん、今日ここ
へ永井が来たことも黙っていてくれるらしい。
奥まった広い座敷に席を取り、そこでふたりは会った。

永井は局長級の審議官で、正式には大臣官房総括審議官というらしい。
教育畑一筋で、切れ者だが、同時に一徹者として省内に知れ渡っていた。
学力問題と生徒の人権問題に関するエキスパートで、教育施設内問題処理センター
の局長に就任したのも前文科大臣の肝いりだったらしい。
与党の大物だった前文科大臣は、スパルタ学園問題を中心に、学園内犯罪を憂慮
していた。
文科相時代、スパルタ学園派や学園長から直接あるいは間接的に接触があったが、
そういった誘いはすべて拒否し、逆にセンターを立ち上げたのである。
その彼が次代の後任として期待しているのが永井ということらしい。

「ひさしぶりだね、若月くん。もう一年くらいになるかな」
「はい、審議官。私が面接に合格して、阿乃世島に派遣が決まった時以来です」

仲居が料理と酒を配膳し、一礼して下がると、ふたりは顔をつきあわせた。

「で、どういうことかね」
「ええ……」

香織は包み隠さず現状を報告した。
感情的にならず、冷静に事態を把握し、それを過不足なく言い伝えている香織に、
永井は自分の審議眼が正しかったことを痛感する。

「そうか、夏綿くんが……」

永井の表情が曇る。
40代半ばといったところだろうか。
切れ者と名高いだけに鋭い目だが、山積する業務や責任のせいか、幾分疲れたところ
も見える。

「きみの考えでは、学園側に捕らえられているということだね?」
「ええ、そうです。というより、それしか考えようがないと思います」
「こんなことは言いたくないが、最悪の事態ということは……」
「それはないと思います」

審議官の言う「最悪の事態」とは、けい子が殺害されているということだ。
最初は香織や恵たちもそれをいちばん心配していた。
しかし、よくよく考えるとそれはないように思える。
自分が捕らえられた時のことを思い返せばいいのだ。
学園長たちもバカではない。
けっこう仮面が複数いて、しかもグループで活動しているらしいことはうすうす感づ
いていたようだった。
だからこそ、香織も恵も、捕まった時は厳しく責め立てられて、仲間の情報を吐く
よう強要されたのだ。

ということは、けい子がけっこう仮面として捕まったとしたら、きっと同じ目に遭う
に決まっている。
香織たちは、捕まっている時も意外なほどに「殺される」という恐怖はなかった。
それは自分たちの秘密を敵が探ろうとしている限り、殺されることはないだろうと
いう、ある種の余裕はあったからだ。
また、学園長たちの性行からして、けっこう仮面を捕らえたら、まず間違いなく
凌辱するだろう。
実際、香織や恵だけでなく、けい子もそうだったのだ。
捕まえた余裕で、白状するまでは責め、そして犯す。
これの繰り返しに違いない。

従って、けい子が口を割らなければ、殺されることはまずないだろうと踏んでいた。
そして彼女は、香織や恵よりも遙かにしっかりしていたし、任務の重さ、口の堅さ
も自分たち以上だ。
そう考えると、けい子は簡単に口を割るとは思えなかったし、そうなら簡単に殺され
ることもないと思ったのだ。
永井は香織の考えを頷きながら聞き入っていた。

「なるほど、それはそうだろう。だが問題は、夏綿くんが本当にけっこう仮面として
捕まったのかどうか、という点だな」
「と言いますと?」
「彼女がけっこう仮面で捕まったのなら、きみの推理は正しかろう。しかしそうで
ない別の理由で捕らえられたのならどうだ?」
「お言葉ですが、それはないと思います。理由はふたつです。ひとつは学園側が夏綿
先生を監禁する理由がないことです。確かに夏綿先生は表立って学園長に反論する
ただひとりの教師でしたが、だからといって直接的に行動を起こして先生を拘束する
というのはいかにも短絡的です。夏綿先生はA級ライセンス教師なんですから、そう
でなくとも学園は気を遣ってますし。そんな先生を、いくら対立しているからといっ
て即拘禁するというのはおかしいと思います」
「うむ」
「もうひとつの理由は、学園側が夏綿先生の「退職」と発表していることです。これ
は学園サイドが夏綿先生の消息を掴んでいるという証拠です。さっきも言いましたが、
夏綿先生はA級ライセンス教師なんですから、仮に結婚退職を申し出てもかなり強引
に慰留するはずです。それがないこと、そして学園が先生を拘束しているらしいと
いうことは、先生がけっこう仮面だという確かな証拠を掴んだか、けっこう仮面の
状態で捕らえたかのいずれかだと思います」
「なるほど、その通りだ」

永井は頷きながらタバコを取り出した。
香織に断ってから火をつける。

「けっこう仮面を表沙汰にするわけにはいかん。それはスパルタ側も同じだろう」
「では捜索願を出すことは出来ませんか? 警察を介入させるのは問題があるとは
思いますけど……」
「いや、それはいかん。捜索願を出すとなれば、夏綿くんのご家族にも知らせねば
ならんだろう」
「!」

その通りだった。
香織はそのことを失念していた。
自分たちが文科省の特殊部門にいること、そしてけっこう仮面であることは、家族と
言えども告げることは出来ない。
守秘義務もあったが、けっこう仮面だということ知人に言える女性はいないだろう。

「彼女が行方不明になっていること、そしてけっこう仮面であることを告げるわけ
にもいかない」
「しかし……しかし、ではどうするのです! このままでは夏綿先生は……」
「わかっておる」

次第に興奮して前のめりになってきた香織を宥めるように男は言った。

「このままにするわけいかないのは重々承知している。夏綿くんの命がかかっている
のであれば、けっこう仮面の秘密がどうのこうの言っている場合ではなかろう」
「……」
「だから、本当に彼女に生命に危機が迫っているのであれば、私は躊躇なく警察を
入れるつもりだ」

審議官はそこまで言うと、ゆっくりと猪口を上げ、酒を飲んだ。
香織はそこにまた酒を注ぐ。

「君がするべきことは、学園の……特に学園長の動向を探ることだ」
「学園長の……」
「そうだ。何でも良い。夏綿くんを監禁している証拠でも他のことでもいい。何か
犯罪を立証出来そうな証拠を掴んで欲しい。そうすれば、そっちから突っついて警察
を送ることも出来る」
「……」
「捜索願ではなく、犯罪容疑として警察が介入できるようにするのだ。きみだけ
じゃない。他のメンバーにも協力してもらってくれ」

香織は、正座した腿の上でぎゅっと握りしめた拳に力を入れながら聞いた。

「通常のけっこう仮面としての活動もしていいのですね?」
「いや。けっこう仮面にはならずに動いてくれ。警察の捜査の際に、まさか裸の女が
活劇したというわけにもいくまい」
「はあ……」
「学園とて、けっこう仮面のことを訴えるわけにもいかんだろう。痛し痒しのはず
だ」
「……」
「大事なのは、ほとんど治外法権になっているあの島に外部の者……、特に警察を
送ることだ。そして徹底的に捜索するのだ。その上で夏綿くんの身柄が確保できれば
拉致監禁罪だ。怪我でもしていれば傷害罪だ。一気に学園と学園長を潰すことが出来る」
「……」
「その口実を作るのだ。横領、収賄、生徒への暴行傷害、何でもいい」

今度は手酌で徳利から酒を注ぎながら永井は続けた。
いくらも吸わぬうちに、灰皿の上のタバコは灰の棒になっている。

「夏綿くんのご家族へは、それとなく聞いてみる。学園長が夏綿くんが結婚退職した
と言った以上、もしかしたら何か家族にも連絡しているかも知れんしな」
「……わかりました。では、島へ戻ったら早速仲間にその旨を伝えます」
「そうしてくれ。だがいいか、充分に気をつけてくれよ。相手は夏綿くんを捕らえて
油断しているかも知れないが、逆に意気が上がっているかも知れん。怪しいと睨んだ
者への監視の目も強くなるだろう。もしかしたら、一気に我々を潰しにかかってくる
可能性もある。それと……」

永井は視線を落としながら言った。

「……要請があれば、けっこう仮面の補充も考えている。スパルタ学園の取り潰し
には、まだ抵抗勢力が強くて思うようにはいかんが、彼らとて確固たる証拠を突き
出してやればぐうの音も出まい。手が足りないようならいつでも言ってくれ。すぐ
に動けるけっこう仮面はおらんが、出来るだけ何とかする」
「……わかりました」

若月香織の消息は、永井審議官と極秘裏に会い、一時間ほどで別れたところまでしか
知れていない。
その翌日、審議官が香織の携帯電話に連絡を入れても応答がなかった。
不審に思って学園にそれとなく尋ねたが、まだ帰島していないと言われた。
慌てた永井が、なりふり構わず警察の知人を通して香織の携帯を調べてもらうと、
先日会った小料理屋の側に落ちていたことがGPSによって発見された。
以後、香織の行方は杳として知れなかった。

─────────────────────

紅恵が行動を開始したのは、ある噂を入手したからだ。
行方不明になっていた夏綿けい子を見たという証言が、学園内でいくつかあったの
である。
恵は配下のスケバンたちを使って生徒の側から、そして香織は職員、教員の側から
調査に乗り出していたが、恵のレーダーの方に引っかかってきたのだ。

恵はすぐに行動に出ようとする積極性と能動性がウリで、それが長所でもあったの
だが、逆に言うと独断専行しがちなところがある。
そこをけい子に戒められていたから、この情報も仲間に知らせようとは思ったのだ。
しかしけい子失踪について香織と最初に相談した際、あまり光一や結花たちに心配
かけぬよう、出来るだけふたりで行動することにしたのだった。

だから少なくとも香織だけには連絡し、今後の行動を相談しようとしたのだが、あい
にく香織は休暇をとって本土へ行っている。
言うまでもなく、今後の方針を文科省の上司と話し合うためである。
携帯電話は学園が完全に盗聴しているから、うっかりしたことは言えない。
メールも同じである。
といって、香織が戻ってくるまで待っていては、せっかくの情報の鮮度が落ち、
けい子を見失うことになりかねない。

恵が張っていたのは生徒会長の真田である。
けい子らしき女性を伴っていたのが彼だったことは、複数の生徒が目撃している。
恵は配下の岡たちを使って彼の動向を探らせ、一定のパターンがあることを掴んだ。
夕方、学園の門扉が閉じられ、生徒たちは寮へ帰ることを強要される時間になると、
生徒会長たる真田が正面門と裏門、通用門を施錠する。
彼が最終確認者となるのである。
それはいいのだが、最近その仕事を終えると、真田が寮を抜け出しているというのだ。
その際、女連れだというのが評判になっていた。
それがけい子らしいというのである。
普段の恵なら、こんなバカげた戯れ言は信じないし、相手にもしない。
だが、けい子がいなくなった今となっては話は別である。

そう言えば最近、真田が学園長と一緒にいるところを見たという証言も多い。
学園長は生徒にとって雲の上の存在であり、直接コンタクトを取れることはまずない。
どうしてもとなれば担任を通してお伺いを立てることとなるのだが、そもそも学園長
に会いたいと言ってくる生徒は皆無に近い。
あとは学園長の方が呼び出すくらいだ。
なのに真田は、教師をすっ飛ばしていきなり学園長に面会することが多い。

何かある。
恵はそう判断し、行動を起こすこととしたのだった。

「……あれか」

恵は裏門の柱の陰に隠れて、前の道を窺っていた。
二人連れの男女が辺りを気にするようにして歩いている。
ひとりは真田に間違いない。
もうひとりの女性がけい子だとはどうしても思えなかった。
女性の方はポンチョのようなものを纏わされ、頭にもフードが掛けられていて顔が
見えない。

ふたりが道の奥に消えていくと、恵は躊躇うことなく壁をよじ登った。
門は3メートルほどの高さがある上、その先端が槍の穂先のように尖っている。
そんな槍が何本も植えてある。
門の横軸を踏み台にしてそれを跨いでいくには、脚下が1メートル以上は必要だろう。
恵の長い脚や敏捷さからすれば不可能ではなかろうが、万が一失敗すれば大けがでは
済まない。

それよりは壁を乗り越える方が楽そうだった。
壁も2メートルほどあるし、その上には蛇腹状にした鉄条網が配置してある。
恵は、用意してきた薄い体育用マットを放り投げ、鉄条網の上に敷いた。
軽くジャンプして壁の上に手を掛けると、腕力と腹筋をめいっぱい使って身体を持ち
上げ、マットを掴んだ。
そのままよじ登ってマットの上を通過し、辺りを改めて見回してから微かな着地音を
立てて地面に降りた。

追いかけるとすぐにふたりの姿が目に入った。
その時、女性が不安そうに後ろを振り向いた。
恵は慌てて立木の陰に隠れる。

「……けい子先生!」

恵は声を殺して叫んだ。
間違いなかった。
幾分やつれたような表情になっているが、その美貌を見間違えようもない。
真田とけい子は、丘の麓になる学園長の私邸へと歩を進めていた。

─────────────────────

けっこう仮面──紅恵は慎重に先を急いだ。
辺りは真っ暗でシンとしている。
足音を忍ばせているが、それでもブーツが廊下を踏む音が微かに響く。
住居部は無人のようで、やはり灯りは落ちていた。
地下室にいるかと思っていたのだが、ここも同じく漆黒の闇に包まれている。
とはいえ油断は禁物だ。
低脳の仕置き教師どもなら、待ちきれずに一斉に襲いかかってくるかも知れないが、
またぞろ学園長がカネで雇った刺客がいるかも知れない。
悪徳探偵や傭兵崩れ、果てはヤクザまで使った学園長だ。
どんな敵が隠れているか知れたものではない。
彼らは曲がりなりにもプロだから、そうそう簡単に姿は現さないだろう。
すでに恵の侵入は覚られている可能性もあるが、もう後には引けなかった。
けい子の行方不明に続き、香織とも連絡が取れなくなっているのだ。
明らかに彼らはけっこう仮面に対し、ある程度の確証を持って仕掛けてきている。
恵の行動も、そして彼女がけっこう仮面のひとりであることも知れているのかも知れ
ない。
けい子の捜索をすると同時に、どこまで学園長一派がこちらの情報を掴んでいるのか
も調べる必要があった。

ずいぶんと迷ったが、恵はこのことを結花や光一たちに知らせず、独断でやってきた。
先走ってしまう彼女の欠点が出てしまった形だが、裏返せばその行動力こそ恵の長所
でもあったのだから、それを責めても仕方があるまい。
それに、このことを結花たちに打ち明けて、いたずらに彼女たちの動揺を誘うのも
愚策に思えた。
考えあぐねた恵は手紙を残すことにした。
事の事情を詳細に書いた手紙を配下の岡みどりに預け、翌日恵が学校を休んだ場合、
それを結花へ届けるよう指示したのである。
恵は今晩中に片付けるか、始末をつけられないにしても脱出するつもりだったから、
もし明日、彼女が登校できなかった場合は非常事態だと知らせたかったのだ。

地下部は、階段を下りるとまっすぐ廊下が続いており、その左右には扉がなかった。
部屋はないようだ。
廊下の突き当たりには、大きく開け放った観音開きのドアがある。
いかにも「ここへ来い」と誘っているかのようだが、ここは行くしかあるまい。
ここで引き下がってしまっては、何のために来たのかわからないし、躊躇している
時間的余裕はあまりない。
フットライトも非常灯もなく、真っ暗で足下もよくわからない状態である。
こういう場合のために、一応ペンライトは常備している。
が、ここでそれを使っては、自らの居場所を敵に教えるようなものだ。
侵入は察しているかも知れないが、だからといって現在地まで性格に教えてやること
はないのだ。

目の方も、ようやく暗闇に馴れてきたのか、ぼんやりとではあるが周囲が見えるよう
になってきていた。
けっこう仮面はヌンチャクを油断無く構えながら、開け放った扉の中で入っていく。

「……」

ことりとも物音がしない。
しかしけっこう仮面は、そこはかとない気配を感じ取っていた。
こうした勘の良さは、けっこう仮面の中でも随一だったのが恵なのだ。
間違いなく敵は近くにいる。
足音を忍ばせるように、だが確実に歩を進めていく。

「……誰かいるの? いるなら返事なさい。けっこう仮面のお出ましよ」

意を決して恵は呼びかけた。
返事はなかった。
しかし、この中にいるのは確実に思われる。
けっこう仮面は目を凝らして周囲を見渡した。
その時だった。

「あっ!?」

けっこう仮面の視界が白く飛んだ。
一瞬、何も見えなくなった。
思わずけっこう仮面はヌンチャクを持った右手を翳し、光を遮った。
目を閉じたが、瞼の裏が真っ赤だ。
いきなり強烈な光の照射を浴びて、視力を一時的に失っている。
「まずい」と思った時には、右手に衝撃が走っていた。

「あぐっ!」

何かで右腕を殴られ、手にしたヌンチャクが宙を舞った。

「し、しまった!」

慌てて拾おうとしたヌンチャクは、からからと音を立てて遠くへ飛んで行った。
誰かが蹴飛ばしたのだ。
ハッとしてその方向を見ると、ようやく戻った視力が宿敵の姿を映し出していた。

「学園長……」

そこには悪魔のコスチュームを身につけた学園の独裁者が笑って立っていた。
仮面の下から得意そうな笑みが浮かび上がっているかのようだ。
学園長の脇には大きなサーチライトが立っている。
それをいきなり浴びせられたのだからたまるまい。
けっこう仮面も、どんな罠が待っているかと警戒はしていたが、こういう攻撃は想定
していなかった。
そのライトもいつのまにか消され、代わりに部屋の照明がついていた。

「……まんまと引っかかってくれおったな、けっこう仮面」
「……」

恵は自分の迂闊さを呪ったが、すぐに思い直した。
過去にもこうしたことはあったのだ。
確かにこういうケースでは、リーダーのけい子が指揮を執り、充分な注意を与えた
上で送り出したことだろう。
いや、それ以前に罠の恐れがある場合は、けい子自身が乗り出したはずだ。
恵は能動的で、それが長所でもあるが、年齢や経験的なこともあって、先輩のけい子
に比べれば、やや思慮が足りないところがあるのは否めなかった。
しかしそれでも、持ち前の闘争心や臨機応変さで幾多の危機を乗り越えてきたので
ある。

「若さが徒となったか、けっこう仮面。いいや、紅恵くん」
「……!」

やはりバレている。
ということは、学園長サイドはかなりこちらの情報を握っているということになろう。
それまでは寸分漏らさぬ守秘ぶりだったが、ここにきて一気に漏洩している。
内部にスパイがいる可能性はまずない。
もともと少数精鋭のけっこう仮面隊は、それぞれが互いをよく知っている。
けい子を筆頭に、香織、結花、千草、光一、そして恵。
誰もが裏切るとはとても思えなかった。
いったいどこから秘密が漏れたのだろう。
恵はそのことを考えていた。

「よくわかったね、学園長」
「まあな、君らにはいろいろ苦労させられたが、組織の全容は知れた。もうおしま
いだ」
「……」

全容を知ったというのは無論ハッタリである。
しかし恵には効いたようだ。
いささか動揺して尋ね返した。

「ど、どこまで知ってるっていうんだよ!」
「さあな、それを言う必要はない。ま、夏綿くんと若月くんを捕らえたことは教えて
おこう」
「か、香織先生まで!? どこだ! 香織先生はどこだよ!」
「そんなことはどうでもよい。それより、きさまも我々の捕虜となってもらう」
「だ、誰がおまえなんかに!」

ふらりと近寄ってくる学園長を恵は見据えた。
同時に、周囲に目を走らせて警戒を怠らない。
この卑劣な男が、正面からけっこう仮面に戦いを挑むわけがないのだ。
どこかにまた卑怯な罠があるか、あるいは無頼な伏兵を仕込んでいるに違いない。
そんなけっこう仮面を見て、学園長は不敵に笑った。

「心配するな、何もないわい。ここにはきみとわししかおらん」
「……そんな言葉が信用できると思ってるの?」
「しなくともいいが、わしはただきみと……けっこう仮面とサシの勝負がしたかった
のでな」
「……」

そんなことがあるはずもない。
今まで数々の卑劣な手段でけっこう仮面を陥れようとしてきたこの男は、一度として
まともに戦ったことがない。
常に雇った悪漢どもの影に隠れていたのだ。

しかし学園長の言葉を聞いて、恵はにやっと笑った。
けっこう仮面グループの中でもっとも好戦的なのが彼女だ。
それはいいことばかりではない。
頭に血が上って冷静さを失うこともある。
今の恵は、冷静さを欠いてはいなかったが、ピンチの中で活路を見たのだ。
不意を突かれたとはいえ、またヌンチャクを落としたとはいえ、一対一ならチャンス
がある。
まして相手は学園長だけだ。
取り敢えず周辺に敵はいない。
銃でも持ち出されたらどうにもならなかったろうが、学園長は丸腰のようだ。
けっこう仮面なら誰でもそうだが、格闘技には自信がある。
大きなチャンスだった。
ここで学園長を叩きのめして、逆に人質にする。
けい子や香織を救出する材料にするのだ。

学園長はおもむろにマントを脱ぎ、そしてコスチュームを脱ぎだした。
隠している武器でも出すのかと思ったが、ただ脱ぎ捨てた。

「……!」

けっこう仮面は少し驚いた。
いつもはマントと奇怪な服で隠されていたわからなかったが、学園長は意外なほどに
筋肉質だったのだ。
いわゆる逆三角形体型で、がっしりとした体つきだった。
ジムで鍛えていただけかも知れないが、もしかすると何か格闘技をやっていたのかも
知れない。
それでけっこう仮面とタイマン勝負を挑む気になったのだろうか。
恵は少し気を張って、警戒心を蘇らせた。学園長がじりじりと近づくのに合わせる
ように、けっこう仮面もブーツの先を滑らせるようにして少しずつ歩を詰めていく。
その時だった。

「きゃあっ!」

けっこう仮面は、ガクンと足下が消えたような感じがした。
しかし落下感はない。
右足の下だけ、突然床が抜けたのだ。
穴に落ちたというよりも、窪みに嵌ったという感覚だ。
絨毯に隠されて、その30センチ四方の一角だけ落とし穴があったらしい。
深さは大したことはなく、10センチほどだ。
下に杭や刃などが隠されているわけでもない。けっこう仮面は転ぶこともなく、ただ
ガクンと体勢を崩しただけなのだが、学園長にはそれで充分だったようだ。

「そらっ!」
「あっ!」

けっこう仮面が「しまった」と思った時には、学園長は襲いかかってきていた。

「くっ……!」

両腕を頭上に掲げ、覆い被さるように襲ってくる学園長を、恵は下から受け止めた。
ふたりの両手はがっしりと組み合って、そのまま停止した。

「ひ、卑怯ものっ……!」
「これくらいはいいじゃろう。そっちは歳も若いし喧嘩っ早い。この程度のハンディ
はないとな」
「何がハンディよ!」

けっこう仮面はそう罵ったが、確かにこれくらいならどうと言うことはないと思った。
いきなり撃たれたり斬られたりするよりはずっとマシだ。
今は若干不利だが、すぐに挽回できる。
けっこう仮面はそう思っていたのだが、少し表情を変えた。

「ん……」

今まで学園長をこんなに近くで見たことはなかったのだが、思っていた以上に大きか
った。
恵は身長170センチあり、女性としては大きい方だったのでそれなりにコンプレッ
クスも持っていたのだが、学園長はその恵を上から押さえつけるほどに大きかった。
優に180センチはあるだろう。そして力もあった。見た目が筋肉質だったが、それ
に違わぬ筋力も持っているようだ。
両手を組み合わせた力比べとなった。
右足が10センチほどの窪みに嵌っていることもあって、学園長が上からけっこう
仮面を押さえ込むような格好になっている。
けっこう仮面の中でも、恵はパワーのある方だ。
というより、握力や腕相撲をやらせれば、けっこう仮面隊の中では随一なのだ。
なのに力比べで学園長に押されていた。

「くっ……」

いかに力があるとはいえ、恵も女だ。
鍛えているし場数も踏んでいるから、なまじっかな男には負けないが、どうも相手も
かなり鍛えているらしい。
ぎりぎりと腕に圧力が加えられていく。

「んんっ……」

腕が、そして脚が震える。
全身に力が込められ、肩の筋肉が盛り上がる。
腰を、そして両脚を踏ん張った。
この状態ではキックを繰り出すこともできそうにない。
二の腕と太腿がぶるぶると細かく痙攣している。
指の根元が伸びきってしまい、握力がなくなってきた。
今にも手のひらが握りつぶされ、腕がへし折られそうな力に、けっこう仮面は思わず
左膝を床についてしまった。

「くうっ」
「どうした、けっこう仮面。きさまの力はこんなものか」
「だ、黙れ、この……。うあっ!!」

悪態をつこうとしたけっこう仮面の声が裏返った。
上から押さえつけ、手首を逆間接で折りそうなくらいに攻めていた学園長が、今度は
腕を裏返したのだ。
両手が上を向き、腕が捻られるように反り返った。

「ぐうう……」

けっこう仮面は呻いてその苦痛に耐えた。
思った以上の握力に戸惑いすら覚える。
そして、いかにけっこう仮面が強いといっても「女性」であることに変わりはなく、
敵の学園長は男なのだと思い知らされた。

いくら鍛えても、女性の筋力には限界もある。
並みの男には勝てるだろうが、格闘技などで鍛え抜いた敵が相手では、まともに組み
合っては不利だったのだ。
無論そのことはけっこう仮面たちも充分に承知の上だ。
だからこそ、あまり取っ組み合うことはせず、基本戦術は離れて戦い、その敏捷性や
跳躍力、瞬発力で敵を翻弄してきたのだ。
いざ近接戦闘になればヌンチャクの出番だった。

しかしそのヌンチャクは今、遠く床に転がっている。
この相手に組み合っては不利とようやく気づかされたけっこう仮面だったが、時すで
に遅かった。

「うっ、く……」

ギリギリと間接や骨が軋む音がする。
筋肉も悲鳴を上げていた。
裏側に反り返らせた腕が今にも折れそうだ。

学園長はそのまま、ぐぐっと組んだ両腕を持ち上げていく。
けっこう仮面もそのまま立ち上がらざるを得ない。
ついていた左膝が上がり、わなわなと痙攣しながら脚が伸びていく。
そこに学園長のキックが飛んできた。

「おぐっ!」

伸び上がった腹部に、学園長のケリが決まった。
ブーツの底がけっこう仮面の震える腹筋にめり込んだ。
爪先だったら、皮膚が破れ、筋肉が損傷していたに違いない。
蹴ったところで両手を離したものだから、けっこう仮面は吹っ飛ばされるように壁に
激突した。

「ぐあ!」

したたかに背中を打って尻餅をついたが、すぐに立ち上がろうとした。
このままでは本当に叩きのめされる。
鈍痛がする腹を押さえつつ、よろよろと立ち上がると、今度は左腕だけ掴まれ、
ぐいっと持ち上げられた。
そしてそのまま身体を引き延ばされたところに、強烈な左ストレートが叩き込まれる。

「ぐお!」

学園長の拳が若い腹筋に食い込み、けっこう仮面はよろめいた。
なおも学園長は容赦なくけっこう仮面にパンチを食らわせていく。
腹を抱えるように屈んだけっこう仮面の肩を掴み、両腕を払うと、そこに右腕で重い
パンチを叩き込んだ。
今度は鳩尾に決まり、けっこう仮面は一瞬、呼吸が止まった。

「ぐはっ……」

けっこう仮面は身体を「く」の字に折ったまま、がくりと片膝をついた。
それを学園長がひきずり起こした。

「これくらいで済むと思うなよ、けっこう仮面めが。そうれ!」

そう言うとけっこう仮面の右腕を掴み、そのまま腰車にかけて投げ飛ばした。

「あうっ!」

ふあっとけっこう仮面の肢体が宙に飛んだかと思うと、思い切り背中から床に叩き
つけられた。受け身もろくに出来なかったため、また呼吸が一瞬止まってしまう。

「ぐう……」
「そらそら、どうした。立たんか!」

両手を掴まれて無理矢理に立ち上がらされると、学園長の左足がけっこう仮面の右足
の外へ踏み出す。
そして腕を引かれて学園長との間合いが詰まると、今度は右足が大きく上がる。
けっこう仮面がどうすることも出来ないうちに、上がった右足がいきなり振り下ろ
され、脚を払われる。
声も出せず投げられ、見事に大外刈りが決まった。
再びいやというほど背中が床に激突し、けっこう仮面は仰向けになったまま、しば
らく動けないほどだった。

「ふん、もう伸びたのか?」
「く……」
「ほう、まだ意識があるか。さすがじゃな」

受け身も取れないまま、大技連発で続けざまに投げ飛ばされて失神しないとは、さす
がにけっこう仮面である。
学園長は余裕の笑みを浮かべた。
まるで猫が手負いの鼠をいたぶって半殺しにしているかのようだ。
学園長は倒れているけっこう仮面の腕を引っ張り、無理に起こした。
けっこう仮面がまだ元気であれば、そのまま座り込むようにすれば技はかけられない
のだが、もはや体力を消耗し、それも叶わなかった。
恵は右腕を抱え込まれて立ち上がらされると、身体を学園長の背中に預ける形で腕を
思い切り引かれた。
身体は相手の腰に乗せられ、その腰が跳ね上がる。
掴まれた腕を基点に、けっこう仮面の身体が大きく円を描いて宙に舞った。
一本背負いであった。

「やーーっ!」

学園長が一声吠えると、けっこう仮面の脚が二本突っ立ったまま宙に飛び、そのまま
壁にまで飛んで行った。
もう悲鳴も出せず部屋の隅に激突し、したたかに全身を叩きつけられたけっこう仮面
は息も絶え絶えで、均整の取れた肢体を長々と伸ばして横たわっている。

「……気を失いおったか」

けっこう仮面の顔を覗き込むと、学園長は鼻を鳴らした。
そして倒れた女体を引き起こすと、壁際にあった磔台にくくっていく。
十字架ではなく「大」の字だ。
ただ角度は狭いので、さほど股間は開かないようになっている。
手枷と足枷を施され、けっこう仮面は意識を失ったまま磔にされた。



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