きっかけは些細なことだった。
何事も、そういうものなのかも知れなかった。

「八神さん……?」
「そう。憶えてる?」

響子は、裕作の言葉にきょとんとした。

「もちろん憶えてるわ。いろいろあったもんね」

響子は少し悪戯っぽい目で夫を見た。

八神とは、八神いぶきのことである。
何とか大学を卒業したものの、就職浪人していた裕作が、響子の元・義父のコネで女子高の
教育実習生をしていた時、受け持ったクラスにいた女生徒のひとりだ。
当時17歳、高校二年生。
なかなかの美人で家柄も良いのに、どうしたわけか裕作に関心を持ってしまう。
美形でこしゃまっくれたところのある彼女はそこそこもてていたから、よほど好みのタイプ
でもない限り、いわゆるイケメンには興味なかったようだ。
男に言い寄られるのにも慣れていた。

裕作は二枚目とはほど遠い(とまでは言わぬが)タイプで、だらしなく情けなく、頼りなさ
そうな男だった。
そこがいぶきに感応したのだろう。
「こんな男は私がちゃんとしてやらないとダメだ」から始まり、「私くらいしかこんな男に
惚れる女はいないだろう」となり、「この男には私が必要なのだ」という三段論法で勝手に
盛り上がり、裕作に迫ってきたのである。

もちろんその当時、すでに裕作は妻(当時はアパートの管理人に過ぎなかったが)の響子に
惚れていたから、正直言っていぶきのアプローチは迷惑だった。
実習生仲間からは、可愛い女子高生にモーションをかけられ、うらやましがられていたが、
実際は辟易としていたわけである。
響子が裕作と結婚する前の話だ。

いぶきの行動力は、その若さのせいもあって並外れたものがあった。
性格も、あらゆる意味で前向きかつ積極的だった。
裕作と響子のアパートに乗り込み、籠城するわ、泊まり込むわ、家庭教師を強要するわ、
周囲は呆気にとられるばかりだった。
挙げ句の果てに、悪友たちの手を借りて、体育準備室に裕作を連れ込み、ブルマとブラという
きわどいスタイルで迫るという空恐ろしいことまでやっている。
バイタリティ溢れるというか、パワー全開というか、周囲を巻き込みながらも、自分の思い
通りに事を運んでしまう行動力の持ち主だった。

その時、響子は裕作の気持ちには気づいていたが、自分としてはまだはっきりしていなかった。
裕作のことが気にはなるが、それが恋愛感情なのかどうかは、まだ自分でもよくわかって
いなかったのだ。
まだはっきりとした恋ではなかったのかも知れない。
ただ、いぶきの行動を苦笑と余裕を持って見ていられることもあったが、内心、面白くない
と思っていたことも否定は出来ない。
裕作に迫るいぶきを疎ましく思うというよりは、きっぱりとした態度に出ない優柔不断な
裕作をもどかしく思っていたのだ。
「響子を好きだと言っておきながら、いぶきへの対応が手ぬるい」というわけである。
察するに、この頃からようやく裕作に対する気持ちが、朧気ながら浮かび上がってきたの
だろう。
それでもいぶきとの8歳という年齢差は、響子に自分をおとなを意識させ、心に余裕を
生ませていた。
だからこそ、いがみ合うところまではいかなかったし、ケンカにもならなかったのだ。

そのうち、教育実習期間も終わり、それでもいぶきはアプローチを持ってきたが、その関係
は自然消滅した。
そういうものだったのだろう。
誰にでもある一過性の疑似恋愛。
だが、振り返ってみると、自分にはなかったなと響子は思うのだ。
彼女も、いぶきと同様に高校在学中に教育実習生の男性に惚れたことがある。
ただ、いぶきと異なるのは、響子は卒業後にその相手と本当に結婚したことである。
それが響子の前夫の故・惣一郎であった。

それだけに、いぶきのこともほんの少しだが気に掛かってはいた。
それが、案外あっさりと諦めたようなので、やや拍子抜けしていたことも事実である。
もちろん面倒事に発展しないでよかった、という安堵の気持ちの方が大きかったのであるが。
響子は、そんなことに思いを巡らしながら夫に聞いた。

「それで、八神さんがどうかしたの?」
「うん。今日、帰り道で偶然出くわしてね」
「へえ。元気だった?」
「相変わらず」

裕作はそう言って微笑むと、ベビーベッドでむずがっていた娘の春香を抱き上げた。

「けっこうおとなっぽくなってたな。もう大学の三回生だそうだ」
「あの八神さんがねー。もうそんなに経つのね」
「それでさ、誘われちゃったんだよ」
「誘われたって?」

裕作は春香をあやしながら、部屋の真ん中のテーブルの前に座り込んだ。

「パーティだって」
「パーティ? パーティって何の?」
「さあ。俺もよくは知らない」

響子も夫の前に腰を下ろし、お茶の用意をしながら聞いた。

「まあ社交パーティのようなものだって言ってたけど」
「ふうん。で、あなた行きたいの?」

もともと裕作は、結婚前からその手のものは苦手だったはずである。
案の定、彼女の夫は首を振って言った。

「俺もあんまり気は進まないんだけどね。せっかく八神が誘ってくれたから……」
「あら、八神さんが誘ったから行きたいの?」

響子は、少しからかうような調子で夫に聞いた。
裕作が、いぶきに対して特別な感情を持ち合わせていないことなど百も承知である。
それは響子が結婚前からそうだったのだ。

「そうじゃないよ」

裕作も、響子の質問の意味を完全に理解しているから、笑って答えられる。

「だいたい、そのパーティへ響子も連れて来いって言うんだから」
「あら、私も?」
「そう。なんか知らないけど、同伴が参加条件なんだってさ」
「じゃあ、八神さんと裕作さんが行くわけじゃないの?」
「いや、八神も行くんだけど、やつはやつでボーイフレンドと行くんだよ。それで、俺の方
は響子を……」
「へえ……」
「で、響子も行けば気分展開になるかなと思ってさ」
「気分転換?」
「そう。響子もさ、アパートの仕事と、春香の世話、あとは家事ばかりだろ。たまには外に
出るのもいいんじゃないかと思って」

確かにその通りだが、響子はここの管理人なのだからアパートの仕事をするのは当然だ。
また、育児や家事をこなすのも、主婦なのだから、これも当たり前である。
当たり前というより、響子はそうした家事や世話ごとがもともと好きなのである。

「うーん……、そうねえ……」

響子にとっても、やれパーティだの社交界だのはあまり現実的ではない。
堅苦しいのが苦手なのは夫と同じなのだ。
どうせ息抜きするのなら、春香も連れて裕作と食事にでも行く方がいい。
あるいは春香を両親の元に預け、デート気分で裕作と出かけるくらいの方が気楽だ。

裕作の方も、いぶきに誘われたときは、「どういうつもりなのだろう」と思った。
響子を連れ出せと言ってくるとは思わなかった。
八神のことだから、恐らく響子に内緒で裕作にひとりで来い、というつもりなのかと思った
のだ。
響子と同伴で、しかも自分も男を連れて来るらしい。

響子の不得要領の顔を見て、裕作が笑った。

「心配ないよ。いくら八神でも、もうそんな無茶なことはしないさ。あいつももう21歳
だし」

それもそうである。
もう4年も経つし、こうして響子と結婚して子供までいるのだから、未だに裕作を追い掛
けているというのは考えにくいだろう。
となると、本当にたまたま会って、懐かしくて誘ったということなのかも知れない。
考えあぐむ響子に、裕作が言った。

「まあ、俺もあんまり気は進まないけど、せっかく誘ってくれたしな。仮面舞踏会なんて
滅多に……」
「仮面舞踏会?」

そんなもの、フィクションの世界だと思っていた。
仮面舞踏会は、中世ヨーロッパで生まれ、日本にも文明開化とともにやってきた。
明治や大正期には、そこそこ開催されたこともあったらしい。
だが、さすがに20世紀の日本で、まだそんなことが行われていたとは思わなかった。

「そう。何でも、そこでは顔や身分を隠して、酒や会話を楽しむんだそうだ。なんだか、
ヨーロッパかどこかのお城の貴族みたいな話だね。場違いというか……」

裕作が苦笑する。
彼らにとって、あまりにも現実離れし過ぎていて想像がつかない。
苦笑しか表情がないのだろう。

「だから、そこへ行っても俺や響子だということは誰にもわからないんだそうだ。まあ、
誘った八神だけはわかってるけど」

何だか面白そうである。
少なくとも、普通に生活している一般庶民には、絶対に経験できない催しなのは間違いなさ
そうだ。
裕作がだめ押しのように言った。

「行くだけいってみてさ、つまらなかったらすぐに帰ればいいんだよ。もちろん周囲は知ら
ない人ばかりだけど、それは相手だって同じだしね。少なくとも八神だけは知ってるし、
どうしてもダメだと思ったら、さっきも言ったけど帰ればいい」

やはり、それほど興味は湧かなかったが、せっかく夫がここまで誘ってくれるのだ。
響子は、行ってみてもいいか、と思い始めていた。

─────────

八神いぶきは、男とふたりで響子たちを待っていた。
場所は新宿のヒルトンホテル地階のバーである。
薄暗い店内は、低くBGMが流れている。
生演奏だった。
客層は、日本人より外国人の方が多かった。
舞踏会などという場違いなパーティに出席するだけでも緊張するだろうに、待ち合わせが
一流ホテルのバーでは、典型的な庶民である響子と裕作は、さらに舞い上がってしまうだろう。
それも狙いなのだ。

男が、あまり気乗りしない様子でいぶきに聞いた。

「……で、その野郎と女房ってのは本当に来るのかい」
「来るわよ」

いぶきは細身のタバコに火をつけながら言った。

「昨日、電話でちゃんと確認したわ。……もっとも、本当に来るとは思わなかったけど」

いぶき自身、これで裕作──響子を呼び出せるとは思っていなかった。
裕作の性格から考えて、この手のイベントに出たがるとは思えなかったのだ。
響子も同様である。
それが、思ったよりすんなりと誘い出せて、いちばん驚いているのがいぶき本人なのだ。
もし、これでダメなら、他にどんな口実で呼び出そうか考えあぐねていたくらいだ。
そんないぶきを見ながら男が言った。

「それにしても、おまえも執念深いな」
「……そうかしら」
「ああ。そういう女だとは思わなかったぜ。そんなに、その五代って野郎に……」
「余計なことは聞かないで」

いぶきはぴしゃりと言った。

「それより、百瀬の方こそやる気あるんでしょうね?」
「どうかな」

百瀬と呼ばれた男はそっぽを向いた。
さほど長身ではないが、がっしりした体格。
ソファからだらしなく伸ばした脚は長かった。
年齢は30歳前後だろうか。
その身体を真っ白いスーツで包んでいる。
その下に紫のワイシャツを着込んでいた。
ネクタイはしていなかった。
靴も白いエナメルである。

目鼻立ちは整っており、まあ二枚目と呼んでも差し支えない風貌であろう。
しかし、その鋭い目つきや、右眉の下に隠れている傷跡、そして着ている服装からして一般
市民には見えなかった。
その彼を、さらに威容に見せていたのが頭髪である。
ツルツルに剃り上げていた。
剃髪した頭は、百瀬に異様な迫力を与えていた。

「あんまし気は進まねえな。やれと言われりゃやったっていいけどよ、一、二度やってそれで
……」
「違うわ」
「あん?」
「今度はいいわよ、なんべんやっても。なんなら、あんたの組で売り出したらどう?」
「へっ」

百瀬は鼻を鳴らした。
どうやら暴力団関係者らしいその男は、小馬鹿にするような表情を浮かべた。

「なめんなよ。うちで使うなら、相当の上玉じゃなきゃ話にならんぜ」
「その点は大丈夫だと思うけど」
「ほう」
「結構な美人よ。……あたしが言うのも何だけど」

百瀬は少し驚いた。
プライドの高いいぶきが、他の女を褒めることなど滅多になかったからだ。
決して高飛車なタイプではないのだが、自分に自信がある分、相手への評価は辛いのだ。
興味が湧いた。

「どんな女だい?」
「そうね、一見おしとやかに見えるけど、けっこう芯は強いわ。顔立ちは……」

そこまで言っていぶきは口をつぐんだ。

「どうしたい?」
「なんでもないわ。会えばわかるわよ」

男は苦笑した。
百瀬が響子に関心を持ったように見えたので、嫉妬したのだろう。
いつものことだった。

いぶきと百瀬が付き合い出して、まだ半年ほどである。
身体の関係もあるが、恋人同士というわけではなかった。
少なくともふたりにその感覚はない。
名門女子大学の女子大生と暴力団幹部というアンバランスな組み合わせだったが、互いに
思惑があったのである。

百瀬にとっては、いぶきは「いいとこのお嬢さん」たちとの接点だ。
彼女の友人知人たちから、めぼしいカモを見つけ出すのだ。
一方いぶきから見れば、百瀬は用心棒であり、トラブルシューターである。
「知り合いに弁護士とヤクザがいれば、世の中怖くない」ということだ。
つまり、互いに利用しあっているのであり、それ以上のものを求めてはいなかった。

百瀬は、少しずつやる気になってきていた。
いぶきが認める美人とはどの程度の女なのかというのも確認したかったし、彼女がそこまで
こだわりを見せる五代裕作という男も見てみたくなったのだ。
百瀬がそんなことを考えていると、いぶきの眉がピクリと動いた。
お目当てのふたりが来たようである。

「行くわよ。あんたはさっさと着替えて来なさい」

何事かを企んでいる女子大生は、薄笑いを浮かべて立ち上がった。

─────────

響子と裕作は、クルマに乗せられるとアイマスクを掛けさせられた。
当然、ふたりとも大いに戸惑ったが、いぶきと連れの男──百瀬と名乗った──が、何度も
頭を下げて頼み込んできたので、渋々従った。
何しろ、あらゆる意味で秘密の会合らしく、部外者には場所を知られては困るらしい。
響子たちが正式に会員になれば、その時はきちんと連れて行くといぶきは申し訳なさそう
に言った。

30分ほども乗せられただろうか、クルマは閑静な──というより、ほとんど人通りの
ない場所に止まった。
ようやくアイマスクを外した響子は周囲を見回した。
遠くに街の灯りが見える。
それに比べ、この周辺は建物こそたくさんあるが、どれも灯っていなかった。
街灯だけはあるが、その光量すら落とされているように思えた。

いぶきたちに先導されて、三階建ての小さめのビルに着いた。
僅かに非常灯が点いただけの扉を開けると、迷いもなく中へ入る。
そしてエレベータに乗ると、百瀬が胸のポケットから小さな鍵を取り出し、操作パネルの
キーを回した。
するとパネルがパクンと開き、その中から別の操作パネルが出てきた。
表のパネルには地下2階までしかなかったのに、中の方には地下5階まであった。
男はその地下5階のボタンを押した。
そこまでの成り行きにビックリしたような表情を見せていた響子たちに、いぶきが笑いかけた。

「本当にごめんなさいね、五代先生」

いぶきはまだ裕作のことを五代「先生」と呼ぶ。

「けっこう会則が厳しくって、それを破ったら退会させられちゃうから」
「そんなところに僕たちが行っていいのかな」
「いいのよ。会員の紹介があれば、基本的には誰だって行っていいの。会員になるには、
それはそれは厳正な審査があるんだけど、なってしまえばフリーパスよ。会員の紹介で、
身元がしっかりしていれば、誰を連れて行っても不問だから。もちろん変な人を連れ込み
でもしたらペナルティの対象になるけど」

そう言って、ソバージュの女子大生は悪戯っぽくウィンクした。

「でも、そういうところって、私たちなんかじゃ場違いみたいで……」

響子がそう言うと、これもいぶきが答えた。

「いえ、そんなことないんですよ。私だって、最初はそう思ったし。どうせ仮面をつける
んですから、自分の身元のことなんか気にしないでいいんです、先輩……奥さん」

いぶきにとって、響子は同じ高校の先輩である。
もっとも、それは裕作が教育実習生として赴任したことによって知ったのであるが。
その後輩が「奥さん」と発音した時に、白く冷たく燃える燐のような視線が走ったことに、
響子は気づかなかった。

やけにゆっくりと下降したエレベータの自動ドアが開くと、暗い室内灯ひとつの廊下に出た。
アールデコ風の装飾をされた大きな扉の前に、タキシード姿の男が立っている。
すかさず百瀬といぶきが金属製の小さなエンブレムを取り出し、提示する。
門番の男は軽くうなずくと、響子たちに咎めるような視線を投げた。
いぶきが説明する。

「ああ、この方たちは私たちの連れです。体験入会していただこうと思いまして」
「左様ですか。それは失礼しました、さあどうぞ」

男は礼儀正しく腰を45度に曲げ、礼をした。
中に入ると、今度は一転してまばゆいばかりの照明がなされていた。
正面が大きく開口されていて、その中には大勢の男女がおり、さわめいていた。
そこへ入る前に、ふたりはその隣の部屋に連れて行かれた。
着替えるのだそうだ。
響子も裕作も、自分の持っている服の中でも一張羅を着てきたのではあるが、それでもやはり
ダメなのだろう。
裕作が百瀬に連れられ男性用の部屋に入ったのを見届けてから、響子もいぶきと一緒に女性用
着替え室に入った。

「こんばんわ、佳寿子さま」

中には長身の女性がいた。
イヴニングドレスを纏った、まるで貴族か何かのような雰囲気を持っている。
響子が強い違和感を持ったのは、彼女がマスクをしていたことである。
メガネのようなものではなく、鼻から上の顔半分を覆っている。
羽毛や鳥の羽根で、けばけばしいほどの装飾が施されている。
目の周囲には、小さな宝石が散りばめられていた。
なるほど、この辺が仮面舞踏会ということなのだろう。
後で聞いたところによると、この会合の主催者らしい。

「あら、いらっしゃい、いぶきさん。そちらが例の、お連れの方?」

佳寿子と呼ばれた女性が、響子を見ながら聞いた。

「はい、そうです。何しろ初めてですので……」
「聞いております。説明がてら、私が着替えをお手伝いしますので、いぶきさんはいいわ」
「わかりました。ではお願いします」

いぶきはそう言うと、衣装を選ぶとさっさと着替え、佳寿子と響子に会釈すると、先に会場
へ出ていった。
どうしていいかわからない響子に、佳寿子が言った。

「五代……響子さんでしたね」
「あ、はい」
「そんなに緊張しなくていいですよ。最初はみなさんそうですから」

マスクの下の顔が微笑んでいるように見える。
ドレスを選びましょう、という佳寿子に引かれていくと、そこは衣装の山だった。
壁全体がクローゼットになっているかのような場所に、所狭しとドレスが掛けられている。
何百着あるのか想像もつかない。
響子が感嘆して言った。

「すごいですね」
「ええ。みなさんここでお着替えになるものですから」
「あら、ではみなさんここで衣装を借りるんですか?」
「そうですね、全体の半数くらいはそうかしら。自分で購入したものを、ここに預けている
方も多いですけどね。何しろ、こういうドレスで町中を歩くわけにもいきませんでしょう?」

それはそうだ。
響子は、自分たちだけが貸衣装を借りるのではないかと思って恐縮していたのだが、そう
でもないのだろう。
佳寿子が付け加えるように言った。

「お勤めの方たちは、仕事帰りにここへいらっしゃる方も多いのですよ。そういう時など
には重宝すると思います。まさか、ドレスやタキシードを着て会社へ行くわけにもいきま
せんしね」

佳寿子はそう言いながら、響子の上着を脱がせていく。
何を着てくればいいかわからなかった響子は、スーツで来たのである。
ドレスもないではないが、礼服のようなものしかないからだ。

「フォーマルなドレスをお召しになったことはありますか?」
「はあ、何度か……」
「そうですか」

いつの間にか、上着とブラウスが脱がされていた。
誰が見ているわけではないが、何となく恥ずかしかった。
佳寿子がスリップのストラップをつまみながら響子に言った。

「申し訳ありません、スリップとスカートも外してください」
「はあ……」
「恥ずかしがることはありません。ここにはあなたと私しかおりませんわ」

佳寿子はそう言って笑った。
それでも他人の視線がほのかに羞恥を感じさせたのだが、響子は素直に言われた通りにした。
響子が脱いだものを、佳寿子が丁寧に畳んでくれていたので、信用する気になったのである。
その佳寿子は下着姿の響子をまじまじと見ながら、感心したようにつぶやいた。

「素晴らしいスタイルですわ」
「いえ、そんな……」
「失礼ですが、お年は29歳と聞きましたが、とてもそうは思えませんわ。お肌も綺麗で
いらっしゃるし……」

そう言って褒める佳寿子も、なかなかスタイルはいいのである。
その佳寿子に認められたようなことを言われ、響子の頬が染まった。

「これなら、どんなドレスでも似合いそうですわね」

そう言いながら、佳寿子は何着かドレスを手にとって響子に見せた。

「これはスレンダーラインと言うデザインです」

スカートラインがさっと広がっていない。
シンプルなデザインだった。
すらっとした縦のラインが強調されるようで、スリムな人によく似合うだろう。

「これはAラインですね。アルファベットのAの文字のように、ウェストラインから裾まで
が広がったタイプです。華美ですので、こうした会にはよく合います」
「はあ……」
「こっちはフレアライン。フレアの柔らかく優しいカーブを描いたラインです。女性っぽさ
を強調していますね。素材はバイヤスです。
これはマーメイドライン。人魚の下半身のようなラインを意識したものです。フレアライン
よりも、さらにボディラインを綺麗に見せてくれますわ。これなんか、響子さんにはお似合
いかも知れません」

と言われても、響子にはよくわからない。
しかし、何となく上気してきていた。
綺麗なドレスを着るというのは、女性にとって永遠の夢みたいなところがあるのだろう。
始めは戸惑っていた響子の瞳が輝き出していた。

「そしてこれはプリンセスラインですね。ドレスの上下をそのまま切り替えないで、裁断
しない一枚ものの布で身体に沿わせます」
「……」
「よくわからないってお顔ですね」

その通りだった。
笑う佳寿子に、響子は恥ずかしそうな表情を見せた。

「気になさることはありませんわ。こんなもの、自分が着たいと思ったものを着ればよろ
しいんですから」
「はあ」
「でも……」

佳寿子は響子の肩のラインを指でなぞりながら言った。

「せっかくこんな綺麗なお肌なんですから、少し大胆にしましょうか」

そう言って佳寿子が選んだのは、割とノーマルなタイプだった。
大胆とは言っても、初心者なのだからこうしたものを選んだのだろう。

「下着も専用のものがありますの」
「え、下着も代えるのですか?」
「ええ、少なくともブラだけは。ストラップのあるブラでは、このドレスは恥ずかしくて
着られませんわ」

肩が剥き出しになるのだから、それは当然だろう。
戸惑ったが、ドレスを着るならブラも代えざるを得まい。
佳寿子から渡されたのは、バックレスタイプのブラだった。
肩ストラップもつけられるらしいが、なくてもウェスト部分でしっかり固定されるようだ。
安物のバックレスだと、肌にテープでくっつけて固定するらしいが、響子に手渡されたのは
別物である。

実際に着用して驚いたのは、サイズがぴったりだったことだ。
響子は自分のバストサイズは佳寿子に言っていない。
それでいて、渡されたのは70のC。
ずばり響子のサイズだったのだ。
この女性は、響子の胸をブラの上から見ただけで正確なサイズを見抜いていたのである。

肌触りがものすごく良い。
普段、彼女が装着しているものとは雲泥の差だ。
それでいてびっくりするくらい薄くて軽いレースの生地だった。
高価なものだろうと思って訊いてみた。

「Aubadeですわ。ご存じありません? フランスのブランドです」
「高いものなんでしょうね」
「いえ、これはそうでもありません。まあ日本円なら3万円くらいですか」
「……」

充分に高価である。
響子の持っているブラでいちばん高いのは、確か7000円だったか。
普段は3枚5000円とか、そういうものしか着けていない。
このブラを着けてしまうと、なんだか度胸が据わってきた。

薦められるままにドレスを身につけた。
肩が剥き出し……というより、トップレスだった。
バストラインでドレスを止めているように見える。
響子くらいのサイズがないと着られない──というか、似合わないだろう。
胸の上の方がすっかり見えてしまっており、その谷間もはっきりと見えた。
背中も大きく開いており、肩胛骨の真下あたりまで丸見えだ。

大きく開いた胸元と首筋を飾っているのはパールのネックレスである。
これは響子の自前だ。
彼女が持っているネックレスの中で、いちばん高価なものをしてきただけなのだが、これが
当たった。
実によくこのドレスに似合っている。
濃い色のドレス生地に、淡い真珠の光沢が映えていた。

ロングドレスではあるが、チャイナのようにぱっくりと裾が割れているため、響子の長くて
美しい脚のラインがちらちらと見える。
高貴なダークバイオレットのこのドレスも相当に高価なのだろう。
サテンを使用した布地は高級感があった。
珍しいプリンセスラインのベアトップで、裾はマーメイドラインになっている。
いったいいくらくらいなのか聞こうとも思ったがやめた。
恐らく、裕作の月収くらいはするのだろう。

「とてもお似合いですわ。ご主人が見たら、きっとびっくりしますわよ」

大きな鏡に全身を映してうっとりしていた響子に、佳寿子が嘆声を上げた。
響子は、自分にはナルシストの気はないと思っていたが、綺麗にドレスを纏った自分に見と
れていたらしい。
普段見慣れていない、それでいて心の底では憧れていた格好なのだ。
響子は、まるで少女時代に戻ってきたような気すらしていた。
無意識のうちに、横を向いたり、後ろ姿を鏡に映してみたりする。
どこから見ても、普段の響子に見えなかった。
佳寿子の言う通り、裕作がこの姿を見たら、どんな顔をすることだろうか。
響子はクスッと笑った。正面に向き直り、身体を横に捻ってあることに気が付いた。

「あの……」
「なにか?」
「その、ブラが……」
「そのブラに不都合でも?」
「いえ、そうではなくて、その……」

もじもじしている響子を不審そうに見ていた佳寿子は、そのことに気づいた。
そして可笑しそうに聞く。

「気になりますか?」
「はあ、その……」

この会話では何のことだかわからないだろうが、響子は乳首が気になったのである。
ブラだけでなくドレスも薄い布地である。
透けて見えたりしないだろうかと思ったわけだ。
透けると言っても、乳首の色が透けて見えるのではないかという心配ではない。
確かに薄い生地だが、そんな安っぽい品質ではないのだ。

そうではなく、形が見えてしまうかも、ということだ。
響子の乳首は、普段は乳房にめり込んでいるような感じだが、ダンスでもして身体を動か
したら、胸がブラで擦れることもあるだろう。
そうなれば心ならずも立ってしまうこともあり得る。
恥ずかしい肉体の変化を覚られたくはなかった。

佳寿子は少しも慌てず、響子にちいさな丸い湿布のようなものを2枚渡した。
直径3センチくらいだろうか。
色はベージュで肌の色に合わせている。

「ニップレスです。これを上から貼っておいてください」

響子はそれを乳首に貼り、ブラとドレスを着直した。
それから仕上げとしてマスクを渡されたが、それは断った。
スパンコールや羽根飾りをつけた派手な仰々しいマスクまでつける気にはならなかった。
会員たちは、今で言うセレブたちであり、著名人、有名人たちも多いので、顔を隠すために
マスクは必要だが、響子たちにはあまり関係がない。
もともと今回一度だけの参加と決めていたので、顔を隠す必要もなかった。
大体、響子たちのことを知っている会員などいないだろう。
響子は、佳寿子に連れられて会場へ行った。

「……響子?」

いぶきに連れられていた裕作が、佳寿子と一緒に来た響子を見て呆然とした。
見違えた。
圧倒されてしまう。
いつものカジュアルというか、庶民的な服装の響子も魅力的だが、こうしてフォーマルな
ドレスを着せても、なかなかに映えるではないか。
普段着の響子にはなかった、高貴な色気すら感じさせられる。
欧州貴族の貴婦人だと言われても納得してしまいそうだ。
その様子を面白そうに見ていたいぶきが、裕作にまとわりつきながら言った。

「惚れ直しちゃった? 先生」
「ば、バカ」

と言ったものの、事実、惚れ直した気がした。
あまり興味がなかった舞踏会だが、響子のこんな姿を見られただけでも連れて来た価値が
あったというものだ。
ドレスアップした響子を見て、裕作は改めて「馬子にも衣装」と思ったのだが、彼女は
もともと素材は抜群である。
環境によって、いくらでも美しくなれる女なのだ。

一方、裕作もタキシードに着替えていた。
だが、こっちはあまり似合っているとはいえない。
どこから見ても庶民である。
どんな衣装を着せても馬子は馬子、といったところだ。

「ペンギンみたい」と、いぶきに笑われ、そのまま部屋の中央へ引っ張られていく。
響子も後を追おうとしたのだが、百瀬に止められた。

「百瀬さん……」
「たまにはご主人にもハメを外させてあげてくださいよ」

人の良さそうな顔でニコニコしながら男はそう言った。
改めて響子は、いぶきの恋人らしいこの男を観察した。
眉に傷があるのが気になったが、人なつこそうな笑顔に誤魔化されている。
物腰が柔らかいし、万事に如才がない。
接待慣れしている感じだ。
着ている濃紺のスーツは高価そうで、袖口から覗くワイシャツのカフスボタンにも、大きな
ルビーが入っていた。
髪はやや長かったが、きちんと分けられており乱れがない。
そういう方面にはまったく無頓着な裕作とはえらい違いである。
よくはわからないが、どこか大きな企業の社長か何か御曹司という雰囲気である。
そういえば、いぶきの父親も有名商事会社の重役だったはずだ。
その関係で知り合ったのかも知れない。
百瀬は裕作といぶきの方を見ながら言った。

「いぶきのやつも、ご主人……五代先生に会うのを楽しみにしていたようですしね」
「はあ。その、百瀬さんは八神さんが主人のことを……」
「ええ、聞いていますよ。何でも、いぶきが高校時代かなり熱を上げて、相当無理に五代さん
に迫ったらしいですね」

苦笑している。

「今回の件も、いぶきがどうしてもって言うもんでこうなった次第で。奥さんにはご迷惑かけ
て申し訳ありません」
「いえ……」
「それでもいぶきにも後ろめたさはあるみたいで、ふたりっきりで会うのは気が引けたみたい
です。こういう場なら奥さんも連れ出すしかないですからね」
「はあ……」

響子の顔を覗き込んで、百瀬が可笑しそうに笑った。

「そう心配そうな顔しないでくださいよ、奥さん。いぶきは何もご主人をどうこうしようと
思ってるわけじゃありませんから。もしそうなら、わざわざ奥さんまでご招待しませんよ。
単に、高校時代を思い出して懐かしがってるんです。それだけですよ」

もしそれが本当なら、いぶきも変わったということなのだろう。
あの頃の彼女なら、何をどうしてでも裕作とふたりになる機会を作るに違いない。
おとなになったということなのか。
感慨深そうな表情になった響子の美貌に意味深な視線を投げかけながら、百瀬が言った。

「ですから奥さんもせいぜい楽しんでくださいよ。私でよろしければ、踊りましょうか?」
「いえ、私、踊れませんので……すみません」

恐縮して響子が謝ると、百瀬は手を軽く振って笑顔を見せた。

「なに、気にすることはありませんよ。大体、ここに来る連中でも、実際に踊ってるのは全体
の3割いるかいないか、ですから」
「そうなんですか。でも、それならみなさん、何をなさるんですか?」
「ええ、ほとんどは他愛もない会話を楽しむって趣向です。政治家だのタレントだの、そう
いう有名人たちは、表の顔でいることにウンザリしてるんですよ。どうしたって外面や世間体
を意識したことしか話せません。息が詰まりますよ。だからこういう場に来てマスクで顔を
隠し、そうした肩書きから解放されて一個人として参加することに意味があるんでしょうね」

そう言われてみれば、あちこちで談笑の輪がある。
確かに著名人たちには、自宅内を除けば、事実上プライベートはないに等しいだろう。
まったく自分の利害とは無関係な人たちと、肩の凝らない話をする機会は少ないに違いない。

「もちろん、出ているお酒は飲み放題、料理も食べ放題ですよ。もっとも、こういう人たち
は高い酒や料理なんか珍しくもないのでしょうから、がっついているような連中はいません
がね。その辺はそこらの立食パーティとは違いますね」

百瀬が屈託のない笑顔で言った。
響子もつられて笑顔になった。
これだけの催しなのだから、入会金だの会費だのは相当するのだろうなと思ったが、聞い
ても詮無いことなので聞かなかった。
どっちみち、会に入るつもりもないのだ。
そんな響子を気遣わしそうに見ながら百瀬が言った。

「もし奥さんが、あまり雰囲気に馴染めないようでしたら、個室もありますが行ってみま
すか?」
「個室ですか?」
「ええ。疲れた人が休憩したり、不慣れな方たちが避難する場所ですがね」
「そうですか」
「何なら、ご主人もお呼びになればいい。中でも飲食は出来ますよ」

そうしようかと思った。
裕作とふたり……になれるかどうかはともかく、そっちにいた方が落ち着けると思った。

小部屋に案内されると、そこには先客はいなかった。
中のテーブルにも、料理や酒が乗っている。
百瀬は如才なくグラスに酒を満たしながら、響子に薦めた。

「どうぞ、お飲みになって待っていてください。今、ご主人を呼んできますので」
「すみません」

響子はそう言って頭を下げると、グラスを手に取った。

─────────

「……ん……」

響子は少し窮屈さを感じて目が覚めた。
腕が、というより肘が痛い。
いったいどうしたのだろう。
百瀬に薦められたカクテルを飲みながら、裕作が来るのを待っていたはずだ。
それが、カクテルグラス一杯の酒を空けただけで朦朧となってしまい、テーブルに突っ伏し
てしまったのだ。

ちなみに響子はそれなりにイケる口である。
独身時代は、友達に誘われでもしない限りはアルコールを口にしなかったし、結婚後も裕作
があまり強い方ではないので、飲む機会は少なかった。
だが、アルコールそのものには割と強くて、少なくとも裕作よりは飲めるタイプである。
たった一杯の酒で意識をなくすことなどあり得なかった。
どうしたのだろうとぼんやりした頭で考えているうちに、意識がはっきりしてきた。

「あっ……」

縛られていた。
両腕を手首でひとまとめにされ、革製のベルトで止められている。
その付け根から伸びたロープが天井に届いていた。
天井には滑車があり、響子を縛ったロープが巻き付いている。
ピンと引き延ばされた感じではなく、肘が軽く曲がる程度の位置で縛られていた。
響子にあまり負担を掛けないためだろう。

動こうとしてつまずいた。
いや、つまずいたのではない。
動けなかったのだ。
足首もベルトで縛られ、やや足を開いた状態で床に固定されていた。

響子はハッとして自分の身体を見やった。
幸い、着衣に乱れはなかった。
もしかすると気を失っていた時に乱暴されたのではないかと思ったのだ。
少し安堵はしたが、危険な状態に変わりはない。
何とか逃げだそうと身体をもぞつかせたが、手首や足首が締まるだけで拘束は解けなかった。

といって、大声を出して助けを求めるというのも愚かな気がした。
どう考えても百瀬かいぶきが仕掛けたことは間違いない。
鈍い頭痛がするところを見ても、あの酒に一服盛られてあったことは疑いようがない。
もしかしたら、あの佳寿子という女性もグルかも知れない。
ヘタに騒いでも彼らを呼び寄せるだけになる。

八方手詰まりの状況で響子がもがいていると、案の定、百瀬が部屋に戻ってきた。

「よ、気がついたかね、響子さん。いや、奥さん」
「もっ、百瀬さんっ!」

響子はキッとした目で男を睨みつけた。

「これは、これはどういうことなんですっ! 悪ふざけが過ぎますよっ、早く解いてください!」
「悪ふざけとは恐れ入ったな。あんた、この期に及んで、まだわかってねえのかい?」
「……」

響子は、百瀬の顔つきと言葉遣いが変化しているのに気づいた。
柔和な人好きのする笑顔の下に、こんな表情が隠れていたとは思わなかった。
その鋭い目つきや物腰は、普通の市民とは思えなかった。
暴力団関係者かも知れない。
その時、百瀬がおもむろに頭へ手をやった。

「いや、暑い暑い。こんなもんつけてると蒸れてしようがない」
「!!」

男は右手で自分の頭髪を掴むと、無造作に引っ張った。
ずるりと髪が動き、その下からは汗の浮いたスキンヘッドが現れたのだ。
かつらだったらしい。
百瀬は椅子に掛けてあったスポーツタオルで、ゴシゴシと頭の汗を拭いていた。

響子は、最悪の状況に陥っていることを自覚する。
どうしていぶきはこんな男とつき合っているだろう。
もしかすると、自分を陥れるために誘い込んだのだろうか。
いずれにせよ、相手がヤクザ者である以上、自分の身体が無事に済むとは思えなかった。

映画やドラマ、小説などでよくあるように、この男は自分の肉体が目的なのではないだろうか。
身体を弄ばされ、汚される。
平凡な主婦だった響子は、次の展開を想像しただけで喉から絶叫を絞り出すのだった。

─────────

「響子はどうしたのかな?」

裕作は、パーティルームで水割りのグラスを持ちながらつぶやいた。
隣ではドレスアップしたいぶきがライトカクテルを口にしている。

「あら、奥さんが気になる?」
「そりゃまあ……」

メラッと嫉妬の炎が女子大生の心の底に燃え上がる。

「なによ、響子響子って。五代先生、もう結婚して何年?」
「何年ってほどでもないよ。まだ2年目だ」
「てことは、もう1年も経ってるわけでしょ? いつまで新婚気分でいるのよ」

そう言って、くいっとグラスを一息で飲み干した。

「奥さんなら、さっき百瀬と個室に入ったわよ」
「個室?」
「そ、個室。中で何やってるか、気になる?」
「……そんなこと、ないけど」

そう言いつつも、裕作の目は響子たちが消えた部屋に向いていた。




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