響子が裕作と再婚し、半年が経過していた。
結婚までかかった期間や、その間のドタバタを考えれば、まずは平穏に過ごせたと言っていいだろう。

とは言え、問題が何もなかったわけではない。
もちろん夫婦喧嘩のひとつやふたつは経験済みだ。
響子は見た目にそぐわず意外と頑固な面もあり、また気が強いところもあるから、それも無理はない。
ただ、一方の裕作はいたって人が良く、気が弱い面があるので、家を出るの出ないのと言った大喧嘩にまでは発展しない。

実は結婚前に、互いの行き違いから裕作がアパートを出て行ったことがあった。
この時も、すぐに誤解と知れたのに響子が要らぬ意地を張ったため、問題が拗れた経緯がある。
響子の妬心は相変わらず強いようだが、その事件に懲りたのか以前ほどに裕作を追い込むようなことはなくなっている。
そもそも最終的には相思相愛で結ばれたのだから、ふたりの間に波風はないのである。

しかし、彼らを取り巻く環境は順風満帆とは言い難かった。

ひとつは子供の問題である。

結婚当初は、互いの両親の要請もあり、また響子の年齢を考えて、出来るだけ早く子供を作るつもりだった。
が、すぐにふたりは現実的な問題に気づかされる。
お金である。
つまり、今の裕作の収入とアパート運営の収入だけではふたりの生活がやっとだ、ということだ。

響子が管理人を勤める古アパート一刻館は閑古鳥が鳴いていた。
元来三号室住人だった裕作は響子の住む管理人室に移り住んでいる。
他は一号室の一の瀬一家と四号室の四谷氏、そして六号室の六本木朱美だけだ。
もともと6部屋しかないが、埋まっているのはその半分の3部屋なのである。

六号室の朱美は、勤務先であるスナックのマスターから求婚され、一時的に同居していた。
しかし、なぜか朱美は求婚は受けず、いわゆる同棲状態で済ませているらしい。
おまけに、いったん六号室を出てからすぐに再契約してくれた。
なぜかと言うと、気まぐれにここへ戻ってきたくなるらしいのだ。
マスターとケンカした時に逃げ込んだり、一刻館のみんなと飲み明かした時など帰るのが面倒ということで、常駐というわけではないが、この部屋を確保しておきたい、とのことだった。
ということで、月に10日くらいは六号室に戻って来ているのである。
自由奔放な女である朱美は、マスターひとりに縛られるのはイヤだったのかも知れない。
マスター自身、それを「やむを得ない」と思っているようで、そのことは了承してくれたらしかった。
それを聞いた響子は少し呆れたものだが、アパート経営としては有り難い限りだった。

それでも半数が空き部屋という状況は変わらない。
満室とは言わぬが、せめて5部屋埋まれば少しは余裕が出来るのだが、このボロアパートではそれも難しいだろう。

もうひとつは、これも最初の問題に関係してくるのだが、一刻館の老朽化だ。

響子も裕作も詳しくは知らないが、どうも築70年くらいになるらしい。
それが事実なら、戦前昭和どころか大正時代の建築物ということになる。
当然、内部も外装もボロボロの状態で、いくら修繕しても雨漏りは発生するし、シロアリのためか床板が抜けたり割れたりすることは珍しくなかった。
直せるところは響子自ら修繕したもののどうにもならず、大工や職人を入れて本格的に直そうとしたこともあった。
しかし、一刻館の現状を調べた彼らは異口同音に立て替えやリフォームを勧めた。
建物としてもはや限界に近く、応急処置では追いつかないと言うのである。

それは響子らにもよくわかっていた。
それが可能なら、とっくにそうしているのだ。
しかし本格的なリフォームとなると、かなりの費用がかかってしまう。
住人たちの経済状況を考えれば、事情を話して資金的に協力してもらうことも難しいだろう。

現実的なのは、リフォーム費用を分割支払いしてもらうことにして、月々の家賃を多少なりとも値上げすることくらいだ。
しかし、それにしたって建て替えなりリフォームなりの費用は、取り敢えず業者に支払わねばならない。
ローンで借りるにしても、今の一刻館の経営状況を鑑みれば、どこの銀行も信用金庫もなかなか首を縦に振らないに違いない。
そもそも最初に収める頭金すらロクにないのである。

以前からこのジレンマは続いていたわけだが、ここになって急速に大きな問題となって浮上してきた。
役所から指導が入ったのである。
昭和56年に改訂された建築基準法だ。
中でも耐震基準に触れる可能性がある──というより、明らかにまずいらしいのだ。
法改正以来、役所は区域内の建物──特に中規模以上の商業施設や集合住宅を調査していて、それがとうとうこの時計坂にまでやってきたのだった。
調査の結果、一刻館は現状での存続は極めて難しく、建て替えもしくはリフォームが不可欠であり、それが出来なければもはやアパートとしては廃業、建物は解体しかない、とのことだった。

そこにもうひとつ事件が発生する。
響子にとって、一刻館にとって最大の理解者であり、擁護者でもある音無老人が死去したのである。
前夫・惣一郎の急死は、新婚でまだ高校を卒業したばかりだった響子にとって大きなショックだった。
落ち込み、哀しみ、そして無気力になりつつあった響子を見かねて一刻館の管理人になるよう勧めたのは、義父の老人だったのである。

ほとんど唯一の後見人だった音無老人の死は、響子や一刻館に様々な影響をもたらした。
響子はその後裕作と結婚し、音無の家から籍を抜いていた。
響子の立場は死んだ息子・惣一郎の元妻というものであり、有り体に言えば「無関係」である。
裕作に関しては響子の現在の夫であることと、老人の持つアパートの住人であるに過ぎず、こちらはさらに関係性が薄い。
とは言え、響子にとっては世話になった義父であることに違いはなく、義理を欠くことも出来なかった。

自分たちの立場を弁えていたふたりは、焼香を済ませ老人の冥福を祈った後、早々に立ち去るつもりだった。
遺族に不義理を詫び、故人へのお悔やみを述べてからそそくさと引き上げようとしたふたりを引き留める者がいた。
高校生になった郁子だった。

惣一郎の姪であり、一刻館へもたびたび顔を出していたし、何より叔母にあたる響子になついていた。
裕作も、音無老人に頼まれ、一時的に郁子の家庭教師を務めたこともある。
大学時代、高校での教育実習の経験があったからだが、その教育実習にしても老人が高校の理事を務めていた関係で潜り込めたのである。
ちなみに息子である惣一郎もこの手で教育実習をさせ、最終的には教師として採用させたらしい。
そんなわけで郁子は裕作を「五代のお兄ちゃん」と呼び、響子同様になついていたのだ。

その郁子に呼ばれて家の座敷に通されると、高価そうなケヤキ製の座卓に座る三人の姿が目に着いた。
ひとりは確か死んだ惣一郎の兄──音無老人の長男だ。
裕作は知らなかったし、響子にしても結婚式と惣一郎の通夜、葬儀以来会っていない。
ひとりだけいた女性は、惣一郎の親族の中で響子が唯一親交のあった義姉──郁子の母──である。
彼女が軽く微笑んで会釈してくれたのを見て少しだけホッとした。

もうひとりの壮年の男性は知らなかった。
響子と裕作が腰を落ち着けると、義兄や義姉ではなく顔も知らない男が話し始めた。

「……音無、いや五代響子さんとその夫である五代裕作さん……、間違いありませんね?」
「は、はい……」
「実は私、こういう者です」

戸惑うふたりを見ながら、男は名刺を差し出した。
裕作が受け取った名刺を覗き込み、意外そうな声で響子が言った。

「……弁護士さん……ですか?」
「はい。亡くなった音無さまから依頼され、遺言状をお預かりしております」
「遺言状?」

初耳の話で、響子も裕作もきょとんとしている。
遺言くらいあるかも知れないが、それが自分たちに関係しているとは思わなかったからだ。
その顔を見て義兄が不満そうに言った。

「きみらが知らないのも無理はない。長男のオレだって通夜の時、初めてこの先生から聞いたんだからな」
「申し訳ありません。しかしご依頼主さまから、お亡くなりになるまでは公にしないようにと仰せつかっておりましたので」

義兄は面白くもなさそうに「ふん」と鼻を鳴らした。
十河と名乗った弁護士はそれに構わず話を進める。

「それで、音無さまのご遺産の方は法律に基づき、相続人たるご親族の方々へ然るべく分配するようにとのことでした。ただ、その中でひとつだけ……」
「一刻館のことだ」

弁護士の言葉を受けるように義兄が口を挟む。

「オヤジが死にかけてる時にも遺産分けの話は当然出ていたんだ。そこであのオンボロアパートのことも話題になった。その時は、あんなもの誰もいらん、さっさと潰して土地を売り払えってことに落ち着いた」

響子たちにはショックな話ではあるが、遺族から見ればそんなものなのだろう。
音無老人以外、ほとんどあのアパートには関わっていないのだし、ただの不動産のひとつだと思うのは当然である。
義兄は苦虫を噛み潰したような表情で吐き捨てた。

「ところが、だ」
「一刻館については別だとご遺言されたのです」

今度は十河が義兄の言葉尻を奪って主導権を握る。
弁護士は軽く咳払いをしてから響子たちに告げた。

「あのアパートはあなた方……、正確には五代響子さんにお譲りする、と遺言されているのです」
「えっ……!」

それまで神妙な顔でふたりの話を聞いていた響子と裕作は、驚いて同時に声を上げた。
この場で裕作がほとんど初めて喋る。

「あ、あの……、それってどういう……」
「だから、あのボロアパートはきみらのものだ、ということだよ。まったく……、オヤジも何を考えてたんだか。あんたが惣一郎の女房だったのは事実だが惣一郎は死に、今のあんたは別に男に娶られてる。言ってみればウチとは無関係のはずだ。なのに……」
「兄さん、今そんなこと言ったってしようがないわよ。別に響子さんのせいじゃないんだし」
「そんなことはわかってる!」

わかってるからこそ面白くないのだ。
義兄の顔はそう言っていた。
十河は軽く咳払いしして兄妹の不毛なやりとりを無言で遮ると、スーツの内懐から白い封筒を取り出し、
中に入っていた折り畳んだ紙片を拡げた。
それを注視する響子たちへ説明するように告げる。

「ご遺言状です」
「……」
「本件に関わりの少ない箇所は省略します。では……」

弁護士はちらりと義兄の顔を盗み見、おもむろに読み始めた。

「……現金及び預金、証券等の動産、並びに不動産はすべて法に基づいて分配し、法的権利を有する相続人へ譲るものとする。但し……」

響子と裕作は、姿勢を固くして身構えるように言葉を待った。
十河弁護士は冷静さを保ったまま続ける。

「但し、氏が所有する時計坂市時計坂町1−3−10の賃貸アパート「一刻館」については、死去した氏の次男・惣一郎氏の妻だった音無響子──現姓・五代響子氏へ譲るものとする」
「な……!」

改めて驚くふたりに弁護士の声が響く。

「この遺言状は法的には完全に有効です。つまり……」
「そういうことだ。言ったろう、だからあのアパートはきみらのものなんだよ」

また口を挟んだ義兄を軽く睨みながら、十河は「まだ話は終わりではない」と言った。

「ご遺言通り、当物件の所有権はあなた──五代響子さんのものとなる可能性があります」
「可能性……と言いますと?」
「あなたが氏の遺言を受け、相続の意思表示をすればあなたのものとなる、という意味です」
「……」

話がよくわからず、響子は夫と顔を見合わせている。
確かに古いアパートではあるが無価値ということはないし、何しろ土地もある。
安いものではないだろうし、少なくとも響子らふたりの稼ぎでは、到底買えるようなものではない。
だから遠慮して断るという選択肢もある、と言いたいのだろう。
しかし弁護士はそうは言わなかった。

「つまり相続を拒否することも出来る、ということです」

これは予想通りの発言だったが、その理由が異なっていた。

「相続拒否というと不思議な気もするでしょうが、世間ではよくあることです。例えば同じ遺産でも「負の遺産」……、つまり借金などは相続する意味がありません。ただ、都合良く金目のものだけ相続して借財はいらない、というわけにはいかないのです。相続する場合も拒否する場合も「すべて」が条件です」
「……」

響子は口を挟むことも出来ず、息を飲んで聞き入っている。

「放棄するケースは何も借財だけではありません。現預金や証券、美術品、土地などの不動産などでもそういうことがあります。なぜかおわかりですか?」
「あ……、相続税、ですか?」
「おっしゃる通りです」

十河弁護士は小さく頷いた。

「最近は法改正もありまして、相続税がかなり高額になってきています。そこで、そんな高い金を納めなければならないくらいなら、最初から相続権を放棄するというケースは珍しくありません。また、相続する意志はあっても、相続人に相続税の支払い能力がない場合も同じです。相続税が相続した物件と釣り合わぬと判断すれば、その旨を申告して放棄することも可能です」

黙り込んでしまったふたりに、弁護士はやや口調柔らかくして告げた。

「……今日の明日でいきなり結論を出すのは難しいと存じます。アパートの住人の方もいらっしゃるわけですし、おふたりでじっくり話し合ってみてください。と言って、時間的な制限もありますから、いつまでも、というわけにはいきませんが。何か疑問があれば、いつでも連絡してください」

十河弁護士はそう言ってふたりに軽く会釈した。

────────────────────────

響子と裕作は、早速あれこれと調べ始めた。
まずは義姉に頼んで一刻館に対する固定資産税の請求書を見せてもらった。
それを見れば土地と建物の評価額が判明する。
次に隣町まで出かけて不動産屋を訪れ、一刻館を査定してもらう。
わざわざ隣町まで行ったのは、時計坂にある不動産屋で相談したら話が漏れるかも知れないと思ったからだ。
今の段階で一の瀬ら住人たちに不安な思いはさせたくないし、不信感を持たれたくもなかった。

その後、十河弁護士にも連絡を取り、現在の一刻館の評価額から推定される相続税を尋ねてみると、これがほぼトントンであることがわかった。
若干の利益が出ると思われるが、それも手続きに掛かる諸経費や住人たちの立ち退き料(!)を支払えば、手元に残るのは恐らく10万円単位であろう、とのことだった。

ついでながら、不動産屋では一刻館の件も相談した。
売りに出した時の価格もそうだが、仮に相続した場合の一刻館の処置についてである。

「……」

一刻館に戻ってきたふたりは、疲れ切った様子で座り込んでいた。
響子たちは、狭い管理人室でテーブルに拡げられた書類に目を落としている。
不動産屋から提示された案件である。

それぞれ三つのケースが示されていた。

ひとつはアパートを既存のままにしていく場合。
これは一見費用が掛からないように思えるが、役所の立ち入りもあり、補修工事は不可欠である。
耐震補強や火災報知器の設置等で、それでも500万以上はかかるらしい。
加えて、古いアパートであるから修繕費は毎年のように発生するだろう、とのことだった。

次に建て替え案だ。
これは一刻館を取りつぶして新たなアパートを新築するということである。
土地は今でも充分にあるから、少し大きくして部屋数も増やし、家賃も上げることになる。
費用的には最も高額で何と8000万以上だ。
これはさすがに無理だと思われる。

最後はリニューアルだ。
第一の案と似ているが、こちらは耐震耐火対策だけでなく、現状の建物を活かしながらの大規模リニューアルである。
だが、これもかなり高い。
完全新築ほどではないものの、それでも3000万から4000万くらいになるようだ。

どちらも、今の響子たちは夢物語に近い。
持ち合わせの現金などあるはずもなく、ほぼ全額借り入れとなるだろうが、今の響子たちに融資してくれる金融機関があるとは思えなかった。
それでもふたりは一件ずつ検討していった。
逃げることは出来ないのだ。

響子も裕作もやはり第三の案、リニューアルに惹かれていた。
費用的に新築よりずっと安いことに加え、ふたりの思い出が詰まった建物が残るのである。
最初は深刻な顔で話し合っていたふたりだったが、だんだん表情が穏やかになっていく。

「綺麗になればみんな喜ぶだろうしね」
「そうね……。どうせならお風呂……、部屋風呂も付けたいわね」
「ああ、そうだね……。五色湯の親爺さんがぼやくだろうけど」
「うふふ、そうね。でも、きっとたまには大きな湯船に入りたいとみんな思うでしょうから、週に一度くらいは通うはずよ、きっと」
「それとやっぱりトイレだよね。これも各部屋にあった方がいいよね」
「ええ……、今の共同じゃみんなも困るでしょうし。部屋にひとつ付けられないとしても、おトイレは少し広くして便器を増やすとかしないとね」

響子の言葉を聞きながら、裕作は両手を後ろに突いて天井を見上げた。

「欲を言えば……、この部屋も広くしたいなあ」

結婚する前は裕作は六畳一間の五号室、響子は管理人室にそれぞれひとり暮らしだった。
ちなみに一刻館の間取りは、二階は六畳一間、一階は六畳と四畳半の二間である。
管理人室は一間ながら八畳と少し広かったが、それにしてもふたり暮らしなのだから手狭には違いない。
二階の四谷氏や朱美は六畳一間でも一向に構わないだろうが、一階の一の瀬夫婦は賢太郎という息子がいる。
もう中学生になるし、さすがに狭いだろう。
響子も、夫の言葉を受けて頷いた。

「そうですよね……。そのうち子供が出来たらひと部屋じゃ足りないわ」
「ああ。リニューアルするなら増築でもして、もうひとつふたつ部屋が欲しいね」

穏やかに話していたふたりだったが、そのうちどちらともなく顔を見合わせた。
ふっと虚しそうに小さく笑う。

「何だか、当たってもいない宝くじの使い道を相談してるみたいだね」
「私もそう思ってたところ」

ふたりはそう言ったものの、実際のところ宝くじ当選以下の確率だ。
宝くじは一枚でも買えば、億万長者になる確率はゼロではなくなるが、こっちはそんなものはない。
響子たちがそんな資金を手に入れる確率は限りなくゼロに近いのだ。
弁護士に言われた通り、相続放棄するのがいちばん現実的に思えてくる。
そうなればあの義兄のことである。
まず間違いなく一刻館を潰して更地にし、その上で売却するだろう。
そうなったところで響子たちに責任はないのだが、それでも住人たちに合わせる顔がない。
そもそも響子と裕作だってここを出て、別に住処を見つけなければならないのである。
いっそのこと、本当に宝くじでも買ってみようかと思い始めたところで意外な人物の訪問があった。



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