管理人室のドアを遠慮がちにノックする音を聞き、響子と裕作は顔を見合わせた。
管理人室……というよりアパート内は土足禁止だから、部屋へ来るには玄関から入って廊下を渡ってこなければならない。
響子が聞いた。

「……鍵、掛けませんでしたっけ?」
「あ……、そうかも知れない。うっかりしてたな」

そう言って裕作は頭を掻いたが、すぐにまたノックがした。

「こんな時間に……、誰かしら?」
「いい、オレが出るから」

立ち上がりかけた響子を止め、裕作が応対した。

「……どなたです?」
「夜分遅く申し訳ない。三鷹です」
「え……? 三鷹さん?」

ドア越しに聞き覚えのある声を耳にして、裕作は驚いて内鍵を開けた。
そこには見慣れた長身の男……三鷹瞬が微笑んで立っていた。
三つ揃えのスーツをビシッと着込んだその姿はエリート・ビジネスマンそのものだ。
ここへ来るのにわざわざそんな格好をするわけはないから、仕事帰りなのかも知れない。
いつの間にか裕作の後ろに来ていた響子が、夫の肩越しに告げた。

「あ……、どうぞお入り下さい」
「……失礼します」

瞬は、若い夫婦に小さく会釈して入室した。
響子が茶の支度をしている間、瞬も裕作も間が持たず、互いの顔をまともに見ることも出来なかった。
とはいえ、裕作にも瞬にも相手に対して遺恨めいたものはもうない。
響子を奪い合った関係ではあるものの、そのあたりの清算はお互いもう済んでいるのだ。
ふと視線が合った時、ふたりはどちらからともなく苦笑し合っていた。
ポットと急須を用意した響子が裕作の脇に座り、瞬に茶碗を差し出し、茶を注いで勧めた。

「……どうぞ」
「ありがとう」

瞬はそう礼を言ってまた頭を下げた。
ここで「すいません」などど言わず「ありがとう」と言ったのが、いかにも瞬らしかった。
熱い茶に息を吹きかけながら裕作が言った。

「おひさしぶりですね。あ、足を崩して下さい」
「ああ、そうさせてもらうよ」

瞬が正座を崩して胡座をかくのを待って、

「奥さまの……、告別式以来ですね」

と、響子が言った。

瞬の妻だった明日菜が病を得て亡くなったのは半年ほど前のことである。
おとなしい女性ではあったが、身体が悪いようには思えなかったので、響子も裕作も大層驚き、気の毒に思ったものだ。
特に響子は、前夫の惣一郎を同じように新婚で亡くしているので、瞬の気持ちが痛いほどにわかる気がしている。

「あの時はお悔やみ戴いてありがとう。ふたりとも来てくれるとは思わなかったから嬉しかったよ」
「そんなこと……。でも、もう半年くらいになるんですね」

響子が裕作と結婚することとなり、そこで瞬もさすがに彼女を諦めた。
ただこれは、響子が裕作に靡き始めていることを意識したから、というよりも、亡き妻である明日菜が原因である。

明日菜が、自分の愛犬が瞬にすぐ懐いたことから彼に強い関心を持ち、惚れるようになったのだが、瞬の方はそうでもなかった。
もともと父が、もと公家だった九条家の一人娘である明日菜と政略結婚させる策略で見合いをセッティングしたのがきっかけだ。
明日菜に対して悪いイメージはなかったものの、何しろ響子の存在が大きかった。
当時の彼の本音は、例え響子が裕作とつき合っていても、結婚前なら強引にでもものにしたい、というものだった。

なぜそうならなかったのかと言えば、瞬は明日菜と関係してしまい、その結果として妊娠させてしまったと誤解したからである。
その事実を明日菜自ら瞬に告げたのだが、これは大きな勘違いだった。
明日菜が言ったのは、明日菜の愛犬が妊娠し、その相手が瞬の飼い犬だ、ということだ。
だが明日菜はもともと大変におとなしく口数が少ない……というより無口で声も聞き取りづらいほどに小さい。
故に言葉足らずとなり、瞬の方が誤解した、というのが真相だ。

ただ、瞬の方にも思い当たるフシがあったからこその誤解であった。
その日、酔い潰れた瞬を明日菜がクルマでマンションに送り届け、運転手を待たせたまま彼の部屋で一晩過ごしたのである。
その後、明日菜を心配した運転手から明日菜の母へ話が伝わって事態は大きくなり、誤解が誤解を重ねていく。
後日、明日菜は瞬に「妊娠」を告白したのだった。

聞いた瞬はショックだった。
が、自分であればあり得ないことではないと思ってしまう。
瞬は泥酔状態だったからその晩の記憶はほとんどなかったものの、勢いでキスしてしまったことだけは憶えていた。
自分なら、そのまま押し倒して明日菜と関係してしまっていたとしても不思議はない。
当然、避妊などしなかったろうから、結果として妊娠してもおかしくないのだ。
実際には、一緒に連れていた犬同士が意気投合して主人たちより前に結ばれ、子を為しただけなのだが、当時の瞬には思いも寄らなかった。

義理と策略の見合いだったとは言え、その見合い相手を孕ませてしまったという事実は非常に重かった。
「事実」ではなかったのだが、今さらどうにもならなかった。
こうして瞬は響子を諦めた。
その後、事情がすべて判明したものの、もう瞬は響子を追うこともなく、従容として明日菜との結婚を受け入れたのだった。

その辺の事情は響子たちも後になって知ったのだが、何とも感想の持ちようもなかった。
ただ、瞬による熱心且つ真剣なアプローチはすっかり消え失せたから、その点だけはホッとしたものだった。
瞬は席に着くと、もう一度深々と頭を下げて見せた。

「何の前触れもなく、こんな夜分遅く訪ねてしまって本当に申し訳ない」
「あ、いえ、そのことは……。それより三鷹さん、改まってどうしたんです?」
「……」

裕作の言葉を聞いてから、瞬はさり気なくドアの外──廊下を気にする素振りを見せた。察した響子がすかさず聞いた。

「あの、三鷹さん……。住人の方たちなら大丈夫ですよ。四谷さんと朱美さんはいませんし、一の瀬さんご一家はもうお休みのようですから」
「そうですか」

不審人物である四谷はいつ帰ってきていつ出かけるのかわからないから、この時刻でいなくても不思議ではない。
朱美はここ三日ほどおらず、多分勤め先である「茶々丸」に泊まっているものと思われる(マスターとは内縁関係なのだから「泊まっている」という表現もおかしいのだが)。
一の瀬一家はもう寝静まったのか、部屋の灯りは消えていた。

「で、何ですか? みんなに知れては困るようなことなんでしょうか?」

珍しく裕作の方が切り出した。
こうした場合、優柔不断な彼が口火を切ることは滅多になく、大抵は瞬なり響子なりがきっかけを作ったものだ。
「自分が主である」という自覚が出てきたのだろう。
そして瞬の前だからこそ、余計にそうしたのかも知れない。

「……」

瞬はしばらく天井から下がる電灯を見つめていたが、思い切るように言った。

「実はお願いがあってまいりました」

今まで通りタメ口で行くかとも思ったのだが、瞬は敬語を使うようにした。
これから口にしなければならないとんでもないことを思えば、こちらが下手に出るのは当たり前だ。
さらに改まった口調になった瞬に、響子も裕作も若干警戒しながら先を促した。

「お願いというのは……」
「あ、その前に事情をご説明します」

瞬はまだ言いにくいのか、経緯から話し始めた。
単刀直入が芸風でもあるこの伊達男にしては珍しいことだ。

「実は僕、病気でして」
「は……?」
「妻も病気で亡くしましたが、まさか僕までとはね……」

瞬は苦笑したが、響子たち夫婦は意味がわからず呆気にとられている。
瞬が自分たちに頼み事があるということ自体めずらしいのに、今度は「自分は病気だ」と言い出す。
それらがどう結びつくのかさっぱりだ。
彼の為人は知っているはずの裕作たちもきょとんとするしかない。

「あの、病気と言いますと……」
「急性骨髄性白血病……だ、そうです」
「白血病……!」

響子はギクリとした。
漠然とした知識しかないが、確か「血液の癌」と呼ばれるかなり重い病気ではなかったか。
もちろん完治する患者もいるのだが、全体として「死病」というイメージが湧いてしまう。
裕作も同じだったようで、ゴクリと生唾を呑み込んでいた。
響子は少し慌てたように聞いた。

「で、でも三鷹さん……、そんな風には見えませんけど。ご入院されてるわけでもないのでしょう?」
「いやあ、僕も33歳になる今の今まで全然気づきませんでした。響子さんも五代くんもご存じの通り、今の仕事をやる前はテニスコーチをやっていたわけだし」

からりと明るい声でそういう三鷹を見ながら、響子は彼と知り合った頃を思い出している。
響子も高校時代に硬式をやっていた。
一の瀬夫人に誘われて一緒にテニスをやることになったのだが、そこでコーチをしていたのが三鷹だったのだ。
今もだが、あの時も実に健康そうで、裕作などと比べてもずっと体力もあり頑健だったと思っていた。
絶句する響子に代わって、今度は裕作が尋ねる。

「じゃ、じゃあ……、オレはよく知らないんですけど、急性白血病とか、そういう……」
「僕もそんなに詳しくないんだがね。少し前から……、そうだな、女房がまだ生きてる頃だったから……、7,8ヶ月くらい前なのかな。その辺りから、たまに目眩がするようになってね」
「目眩……ですか」
「ああ。貧血のようだった。若い頃は滅多になかったけど、まあさっきも言ったがもう33だからね、体力も落ちてるだろうし、仕事が忙しかったから疲れが溜まってるんだくらいに思っていたんだ」

と、瞬はタメ口になった。
他人行儀で敬語にしていたわけではなく、どうも響子相手の時は敬語で、裕作の時はタメ口になるようだ。
そのことについて裕作は何とも思っていない。
別に裕作を蔑んでいるわけではなく、年少の知人扱いということなのだろう。

響子の方は、以前に惚れていた女ということもあるが、徹底的なフェミニストである瞬は、一定以上の親密さがなければ女性相手にはこうなる、ということらしい。
実際、瞬が響子を諦めて明日菜と結婚することになった折りには、裕作を応援し、響子と結ばれるよう応援してくれていたと感じているのだ。

「でもね、だんだんと貧血だけでなく息切れが起こるようになったり、そう……なんて言うのかな、倦怠感かな? 全身が何だか怠いというか疲れたようになってきて、それが抜けないんだ」

瞬はいつものように明るく振る舞っている。
しかし彼の語る内容は重く、そのアンバランスさ故に響子も裕作も少し居心地が悪くなっていた。

「で、主治医の先生によく調べてもらったら数値異常があった。健康診断自体は毎年やっていて、その時に血液検査もしていたはずなんだがね。先生が言うには、去年の診断までは大きな異常はなかったんだそうだ。で、おかしいと気づいてから調べてみたら案の定……ってわけだ。響子さんも五代くんも気をつけた方がいい。毎年診断していてもこうなる場合もあるんだから」
「そうだったんですか……。でも、その……、何て言ったらいいのかわかりませんけど、三鷹さん、あの……ショック……だったでしょうね……」

他に言いようもなく響子がそう言うと、瞬は小さく微笑んで軽く首を振った。

「いや、それがそうでもないんですよ。いよいよ僕にも来たのか、って、そんな感じですね」
「どういうことですか?」
「これはきみたちにも……、というか、他の人たちには言ってないから当然誰も知らないと思うんだけど、ウチの家系……、三鷹の家はどうもそうらしいんだ」
「そうって……」
「ああ、だからね、遺伝なのか何なのか知らないけど、三鷹の家の男は短命なんだよ」

裕作の言葉を受けて瞬が説明を続ける。

「短命……、ですか」
「そう。うちの祖父も高祖父も曾祖父もみんな早死にだった。例外的に僕の父はまだ存命で、そうだな、今年で58歳くらいになるのかな。これは三鷹家からすれば珍しいことらしいんだ。祖父は父が大学生の時に死んでいるから僕は会ったこともないし、高祖父も40代で亡くなっている。いずれも白血病だそうだ。この病気が遺伝するものなのかどうかまでは知らないんだがね」
「そうだったんですか……」
「この件は三鷹家にとって門外不出の秘密だから、実は九条さんとこにも言ってなかったんだ。三鷹の男は短命だと知れれば縁談が壊れてしまうから、父も僕も口をつぐんでいた。まあ明日菜には申し訳ないことをしてしまったが……、でも、父はまだピンピンしてるし、まさか僕までそうなるとは思わないからね。精密検査後はさすがに黙ってもおけないから打ち明けたら、一悶着あってね。遺伝的にこの病気になるとまでは言わなかったけど、結婚前のメディカルチェックは適切だったのかってだいぶ責められたよ。でも、僕よりも前に女房の方がね……」
「ああ……」
「明日菜がああなって以降は、九条の家もおとなしくなったよ」

裕作も響子も深刻そうな表情になったのを見て、瞬は笑った。

「なんだなんだ、きみらがそんな顔をすることはない。病気なのは僕であってきみたちじゃないだろう」
「そりゃそうなんですが……」

この辺の気遣いはさすがに瞬だ。
響子は少しリラックスして、気になっていることを聞いてみる。

「あの……、じゃあ三鷹さんはまだ、その……大丈夫なんでしょうか?」
「ん? 大丈夫、とは?」
「あ、だから……、入院とか、そういう……」
「ああ、そういうことか。病名が判明して精密検査をしてから、しばらく入院してたんだよ。でも余命幾ばくもないとわかってからは、強引に退院したんだ」
「えっ……!」

裕作はびっくりして大きな声を上げた。
響子も少し慌てて腰を浮かす。

「よ、余命って……」
「んーー……、まあ医者の言うことを信じるなら、僕の命はあと半年……くらいだそうだ」
「そんな……」
「長くてそれくらい。短ければ三月も保たないと……」
「そんなこと言わないでください!」

響子はドンとテーブルに手を着いて身を起こした。

「響子……」
「響子さん……」

驚く男ふたりが見つめる中、響子の膝が折れ、座り込んでしまう。
すかさず、裕作は俯く響子の震えている肩を抱いた。
響子は夫の胸に顔を当て、すすり泣くように言った。

「三鷹さん……、それ本当に……本当なんですか?」
「……」
「誤診てことは……、ないんですよね?」

瞬は驚きを隠せないまま呆然と言った。

「響子さん……、泣いてるんですか?」
「当たり前ですっ」

響子は強い口調でそう言った。

「だって……、身近な人がそんな目に遭えば……、もうすぐ死んでしまうかもって思ったら誰だって……」
「……済まない。申し訳なかった。そうですね、響子さんならそう思ってくれるかも知れないな。ありがとう、響子さん。五代くん」
「はい……」
「良い人を娶ったね。今さらだが、僕も諦めなければ良かったと思うよ」
「……」

瞬は少しため息をついてから話を続ける。

「まあ、そんなわけでね、余命半年と知れたら、生きているうちにやっておかねばならないことが山ほどある。そう思うといてもたってもいられなくてね、医者が止めるのも聞かずに退院してしまったんだ」
「それで……、平気なんですか?」
「今のところね。まあ貧血とか倦怠感はあるし、少しずつ悪くなってる気もするけど、それらの症状はもともとあったものだから。それに、いくら僕でも立っていられないような状態になったら、さすがにおとなしく病院のベッドへ戻るよ」
「しかしですね、三鷹さん。入院して治療しないとどんどん病状が悪化するんじゃありませんか?」
「もちろんそうだ。だから入院は拒否したけど治療を受けてるんだよ。それにね、胃癌とか肝臓癌なんかと違って白血病は外科的な手術で治るようなものじゃないんだそうだ。だから治療は主に化学療法になる。抗がん剤だ。かなり強い薬なんだけどね」

そこで少し瞬の表情が曇った。

「だから一日の仕事や用事を終えると病院へ直行、検査と治療を受けてそのまま病室に泊まる。そして翌朝、病室から出勤する、と、そんな生活になってるんだ」
「でも、それじゃあ……」
「それじゃ治療の効果は保証できないって医者は激怒してるけどね。でも、医者の言うことを聞いておとなしく入院治療を受けていれば完治するのかと言えば、それもない。もう手遅れの状態らしいからね。だったら残りの人生をベッドの上で過ごすか、それともやり残したことを済ませるか──例えそれが成就しなかったとしてもね──、それを決めるのは僕自身だ。父も母も黙って許してくれた。もう長くないとわかっていたから、好きなようにさせようと思ってくれたんだろうな」
「そうなんですか……。で、わざわざそのことを告げにいらしてくれたんですか?」

響子は細い指で涙を払いながらそう聞いた。
その言葉を聞いて、瞬は正座に座り直し、姿勢を正した。

「前置きが長くなってしまったけど、知っておいてもらわないと話にならないのでね。ここからが本題なんだ」
「本題?」

そう言えば瞬はここに来た時「お願いがある」と言っていた。
しかし、裕作と響子に何を頼もうと言うのだろうか。
この状況下でふたりに出来そうなことは何もなかった。
だが、そう口にすることも出来ず、困ったような表情を浮かべている若い夫婦を見ながら、瞬ははっきりと告げた。

「跡継ぎが欲しいんだ」
「跡継ぎ?」
「そう、端的に言えば三鷹家を継ぐ子供だ。僕は三鷹家の一人息子なんだ。だから余計に父は僕の結婚を急かしたんだな。僕が早死にしてしまうかも知れないから、早く孫の顔を見て安心したかったんだろう。女しか出来なかったらどうするのかと思うんだがね」

瞬はそう言って笑ったが、響子たちには笑えない。
とても瞬のようには振る舞えないと裕作は感じていた。

「だけど、妻の明日菜は亡くなってしまったし、すぐに後妻をもらって……、という無責任な真似もできない。何しろ僕自身の寿命が尽きかけてるんだから、そんな男のところに娘を差し出す酔狂な家はないだろう。それを黙って結婚したら、今度こそ詐欺扱いされるだろうな」
「……」
「だから、どうしても今のうちに男の子を作っておきたいんだ。僕が生きているうちにね」

それを聞いて、裕作はハッとなった。
響子は気づかないようだが、裕作は瞬の「頼み事」の内容がわかった気がした。
やけに低い声で裕作が言った。

「それで三鷹さんのお願いというのは……、まさか響子を……」

その言葉を聞いて鏡子は驚いたように夫の顔を見たが、彼女もまた気づいたらしい。
今度は手で口を押さえて瞬の顔を見つめた。
瞬は半ば観念したかのように──このことを言うために来ているのだから「観念」も何もないのだが──、ぎこちなく頷いて正直に答えた。

「五代くんが何を思いついたか知らないが、恐らくその通りだ」
「っ……!」
「……響子さんを貸して欲しい。いや、この言い方は失礼だな、やはりはっきり言ってしまおう。響子さんに僕の子を産んで欲しい」
「そんな……」
「何を言ってるんですか!」

あまりにことに妻の響子は身を引いて後ろに手を突き、夫の裕作は激昂してテーブルに両手を突いて身を起こす。
そのまま瞬に顔を近づけ、睨みつけるように言った。

「……そんなこと許すとでも思ってるんですか」
「……」
「響子だって嫌がるに決まってます。そうだね、響子」
「も、もちろんです……。裕作さんの子もまだ産んでないのに、そんな……いえ、そんな問題じゃありません、他の男性の子を、なんて……」

裕作の怒りと響子の動揺を共に受け止め、彼らの言葉が収まるのを待ってから、瞬はおもむろに言った。

「……いや、男として夫としての五代くんの気持ちはよくわかるつもりだ。響子さんに対しても……本当に申し訳ないと思う」
「……」

そう言って瞬は、裕作と響子に深々と頭を下げた。
だが、そうされても納得出来るような問題ではない。

「無理難題だと自分でもわかっている。バカげた頼みだ、とね。まともなご夫婦なら、とても受け入れられるような内容ではない」
「そ、それだけわかってるなら、どうして……」
「僕自身の問題というより、三鷹家として、どうしても世継ぎが欲しい。それだけだ」

瞬はふたりから視線を外してそう言った。
そして今度はテーブルから身体を外し、正座のまま頭を下げた。
土下座である。

「無理な頼みだと言うのは百も承知だ。が、そこを曲げて頼みたい。この通りだ」
「そんなこと言われても……」
「と、取り敢えず頭を上げてください、三鷹さん」

響子と裕作にそう言われ、額を畳に擦りつけていた瞬はようやく顔を上げた。
裕作は言うべき言葉を思いつかなかったようだが、響子は口ごもりながら何とか言った。

「三鷹さんのお気持ちと家の事情はわかります。わかりますけど……、でも、私としてはお受けすることは出来ません」
「響子……」
「裕作さんだって……、夫だって同じです」
「も、もちろんだ。絶対にダメです」

響子は、普段は穏やかな性格だが、いざという時にはピシッと言う女だ。
基本的に人が良く優しいのだが、頑固で強情な面もあり、自分に落ち度があればともかく、これと決めたらまず引かない。
こういう時は、ある意味で夫の裕作よりも頼りになる。

瞬が言葉を無くしている様子を見て、響子は少しだけ罪悪感が湧いた。
別に響子たちが悪いのではなく、瞬が無茶なことを言ってくるのが悪いのだ。
とは言え、これではまるで響子たちが瞬を責めているような感じがして、あまり良い気分はしない。
響子は少し戸惑い、そして口調を緩めて尋ねてみた。

「……お子さんがどうしても欲しいのなら、別の手段だってあるんじゃないですか?」
「別の、と言いますと?」
「ですから……」

響子は少し言いにくそうに言う。

「ですから、その、他のお子さんを養子に引き取るとか、そういう方法もあるじゃないですか。世の中には、どうしても子供に恵まれないご夫婦だっておられます。そういう人たちは養子をもらってお育てになってますよ。それだって立派な親子じゃないですか。「生みの親より育ての親」という言葉だって……」
「それがダメなんです」

その提案がなされるであろうことは予想していたのか、瞬は落ち着いた様子で答えた。

「だめ?」
「はい。父は……、というより三鷹の家は血筋をことさら重視するんです」
「血筋……」
「ええ。つまり三鷹の遺伝子を持った子……、僕の血が入った子じゃないとだめだ、と……」
「そんなこと……、だってそれじゃあ……」
「おっしゃりたいことはわかってます、響子さん。血が繋がっていようがいまいが、小さな頃から愛情込めて育てていれば親子です。でも、僕には残念ながら育てていく時間がない」
「あ……」

彼の寿命は半年だった。

「それに……」

そこで瞬はフッと息を継いだ。

「響子さんも五代くんもわかってくれないかとも思うんだが、僕の家や九条さんの家みたいなところは、それはそれは血統を大事にしてるんです」
「……」
「僕自身、そうした考えはもう古いだろうと思うし、バカバカしいと思わないこともない。むしろ、血統を一度絶った方が病気の遺伝が断ち切れるかも知れない。濁った血が少しでも薄まるかも知れないじゃないですか。そう考えれば、逆に外の血を入れた方がいいはずなんです」
「……」
「でもね、もう死ぬ身になってみると、少し寂しくなってきたんです」
「……寂しい?」
「ええ。自分が確かに「生きた」という証が欲しくなってきたんです。自分の血を後世にに残したい、と。そう思うようになってきた。自分の分身が欲しい、とね」
「……」

瞬が「響子の子が欲しい」と言った時に、憤慨して「何を言ってるんですか!」と叫んで以来、ずっと黙っていた裕作が口を開いた。

「……それについてはわかりました」
「五代くん……」
「わかったと言っても、三鷹さんの言いたいことや考えていることがわかっただけです。あなたの言う通り……、自分たちの血筋というのをとても大切にしてるんでしょう。オレや響子みたいな一般人にはよく理解できませんけど」
「……」

裕作の言葉には、彼にしては珍しく皮肉の成分が微量に含まれていた。
聞いていた瞬にもそれがわかったらしく、ピクリと少し表情を動いた。
裕作は目の前で正座している瞬を睨みつけるように言葉を続ける。

「三鷹さんが不幸にも重病を患ってしまわれたことは気の毒に思います。それに、自分のお子さんを残したいと思われる気持ちもわからないではないです」

そこで裕作はいったん言葉を切り、少しだけ茶を啜って唇と舌を湿してから言った。

「でも、それが本当に三鷹さんの本音ですか?」
「……どういうことかな」
「だから、子を作るのに響子に協力を求めていますけど、ホントにそれだけですか、ってことです。ただ自分の遺伝子を継ぐ子供を得たいと思うだけなら……、その相手は別に響子じゃなくてもいいはずじゃないですか」
「……」
「本当は……、本当は子供なんかどうでもよくて……、あ、いや、すいません、そんなことはないですよね……」

言い過ぎたと思ったのか、裕作は少し目を伏せて声を小さくして謝罪した。
瞬も「いや……」とつぶやくように答え、目を伏せる。
その後、裕作はすぐに顔を上げ、また挑み掛かるように瞬へ言葉をぶつけた。

「三鷹さん……、子供が欲しいのは本当かも知れませんけど……、あなた、また響子に対して……」
「あなた……!」

先走る夫を、貞淑な妻が引き留めた。
夫が心配していることは、妻である響子にも痛いほどにわかる。
結婚前は、瞬に強引なほどのアプローチを受け続けていたのだ。
もしそこで裕作が諦めて身を引いてしまったら、今ごろ響子は瞬の妻として収まっていたことは間違いないのだ。

それでも響子は裕作の方に惹かれ、結果的に瞬の申し入れを断った。
が、本音を言えば響子の方だって、瞬に対して悪印象はほとんどないのだ。
「強引な人だ」とは何度も思ったが、暴力的なところはなかったし、失礼な行為もない。
逆に洗練されたセンスとマナーを持った男で、少々気障なところはあったものの女性にとっては──響子にとっても──毛嫌いする要素はなかった。
だから、裕作との仲がぎくしゃくしている時などは、ついふらふらと瞬に惹かれていくところもなかったとは言えない。

だが、そんな瞬も響子が裕作に靡き、自分も明日菜との間に子が出来たことをきっかけに、ふたりの仲を応援するまでになってくれた。
もう自分への未練はないものだと思っていたのだ。
しかし、男女はそんな簡単なものではないらしい。
結局、明日菜の懐妊が誤解だったこともあり、もしかしたら瞬は響子をものに出来なかったことを悔いたのかも知れない。

夫は、遮るように掛けた妻の手を振り切るようにして、決定的なことを言った。

「三鷹さん、もしかして……、子供にかこつけて響子を……オレの妻を弄ぼうと……」
「あなた、やめて……!」

響子が少し大きな声で夫の暴走を止めようとしたが、意外にも瞬の方が響子を宥める。

「……いや、いいんです、響子さん。その通りだ、五代くん」
「えっ……!」

瞬が漏らした言葉に衝撃を受け、新婚夫婦は異口同音に驚きの声を上げた。
裕作の方は、まさか認めるとは思わなかったし、響子は本当にまだ瞬が自分に未練を持っているとは思わなかったからだ。
開き直ったのか、瞬はいつもの堂々とした調子で言った。

「正直言って僕はまだ響子さん……、きみの奥さんのことを思っている」
「っ……」
「だが、勘違いしないで欲しいのは、僕の子供を残したいというのが第一義だ。だが、五代くんが指摘したように、それだけなら他の女性相手でもいいということになる。実際……、イヤな言い方だが、それでもいいと言ってくれた女性がいないこともない」
「だったら……」
「だが、きみに言われたように、僕はまだ響子さんが好きだ」
「三鷹さん……」

絶句する響子に、瞬は優しく微笑んだ。

「だから……、先行きのない自分の子を残すのに、どうしてもあなた……、響子さんが欲しい」
「お断りします」

響子が何か言う前に裕作がぴしゃりと叩きつけるように言った。
怒りのためか、温厚でのんびり屋のはずの裕作の唇が細かく震えている。

「三鷹さん、あなた何を言ってるのか理解してるんですか!? 本人やその夫の前で「妻を抱かせて欲しい」と言ってるんですよ!」
「そうです、三鷹さん……。いくら何でもそんなこと出来るわけ、ありません」

夫婦は口を揃えて否定した。
裕作などは、今すぐ出て行けと言いかねないほどの勢いだ。
当の瞬は、両者の憤りを正面から受け止めてから、ゆっくりと口を開いた。

「わかってる。わかってるんだ、五代くん、そして響子さん。僕は、自分がどれだけ酷いことを言っているのか。そしてそれが、きみたち夫婦に何の関係もないことだってこともね」
「……」

激昂し、動揺した裕作と響子だったが、落ち着いた様子の瞬を見て、少しだけ気を落ち着けた。
彼は恥知らずなことを言っているのだ。
今までの瞬を思えば、例えそう考えていたとしても、間違ってもその手のことは口にしないはずである。
ある意味「良い格好しい」だった彼が敢えてそれを口にしたということのは、生半可なことではないのかも知れない。

ふたりが少し落ち着いたのを見計らって、また瞬が言った。

「今言ったように、これは僕からの一方的で自分勝手なお願いだ。当然、きみたちにはそれを拒絶する権利はある。だが……、出来れば断らないで欲しい」
「イヤです!」
「まあ、待ってくれ。僕は何も無条件でそうさせろと言ってるわけじゃない」
「……どういうことですか」
「こんなことを言うのは心苦しいし、口にもしにくいことなんだが……」

珍しく瞬は言いづらそうな素振りをしていたが、小さくため息をついてそのことを告げた。

「……それ相応の謝礼を差し上げる用意がある」
「謝礼……、ですって?」
「ああ……。僕自身、こんなことを言う自分がイヤになってくるんだが……、金銭的なものを……」
「ふざけるな!」

今度こそ裕作が激怒して大声を上げた。
そんな場合ではないと思いつつも、響子はドアの方を振り返って一の瀬さんが起きて来ないか心配した。
夫は握り拳を痙攣させながら相手を非難している。

「三鷹さん、あなたは……、カネで響子の身体を買おうと言うんですかっ!? 本気でそう言っているのなら、オレはあなたを軽蔑しますよ! 見損なった!」
「いや、五代くん、その通りだ。僕は最低の人間なのかも知れない。ただ、これだけはわかってくれ。僕の響子さんに対する思いはウソではない」
「関係ありませんよ! あなたは、オレの妻をカネで……」
「その通りだよ、五代くん。僕や僕の家の事情なんかきみらには関係ない。それに、単に子供が欲しいだけなら、他の女性という方法もないわけじゃないんだ。だからこれは僕の我が侭だ。死ぬ前にどうしても、という思いだけだ」
「だ、だからと言って……」

言い争いになりかけていた男たちを止めるかのように響子が言った。

「でも……、三鷹さん。こんなこと言うのはどうかと思いますが……」
「……」
「ご自分の死を大義名分にして要求を通そうとするのは……、少し卑怯だと思います……」

さすがに瞬も、痛いところを突かれたように矛先を緩めた。
静かだが痛烈な物言いに、夫の裕作でさえも呆気にとられている。
瞬は少し考えてから、小さく頷いて言った。

「……そうですね、響子さん。あなたの言う通りだ。ちょっと卑怯だったかな。でも、本音でもあるんです」
「ええ……、それはわかります……」
「で……、お礼の話を続けさせてもらっていいですか?」
「それは……」

戸惑う裕作を目で押さえ、響子が許した。

「どうぞ……。お受けすることはないと思いますが、それでよろしいなら……」
「ありがとう。お礼というのは、今も言ったようにお金ということになる。浅ましいとは思うが、僕には他に思いつかなかった。金額は……」

瞬は短くインターバルを取ってから歯切れ良く言った。

「……5000万円です」
「は?」
「5000万円。少ないとは思うんですが、これが今の僕に動かせる精一杯の金額なんです。僕は三鷹グループ内の会社で社長をやってますが、小さな会社ですし、いかに社長とは言え会社のカネを私的に流用なんか出来ません。5000万円というのは、僕の預金や株式とかの有価証券、その他の金融商品から算出される金額から、今後半年くらいの治療費やいざという時の葬儀代を差し引いたお金です。言ってみれば、僕が自由に出来るお金のほぼ総額です。死んだ後に退職金も出ますが、それは両親に譲るつもりですので……」
「……」

これを最後に瞬も、そして響子たちも黙り込んでしまった。
5分ほどもそうしていただろうか。おもむろに瞬は立ち上がった。

「三鷹さん……」
「今日は本当に申し訳なかった。いきなり訪ねてきた上、イヤな話を聞かされ、勝手なお願いをしてしまって……」
「いえ……」
「きみたちがお金で……、金額で動くとは思ってない。思ってないが……」

一瞬言い淀んでから、瞬が言った。

「もし……、もし気が変わるようなことがあったり、考え直してもいいと思ってくれたら連絡をください。僕にはもう待つことしか出来ないから」
「……」

部屋を出た瞬は、黙って見送る裕作と響子に、ドアの外からもう一度頭を下げてから帰路に就いた。



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