緋勇龍斗と蓬莱寺京梧は、富坂町まで美里藍を迎えに行っていた。
小石川診療所での手伝いを終えるのを待って、三人は龍泉寺へ向かう。
「うん? ありゃ何の人だかりだ?」
町中をぶらぶらしながら歩いていると、往来の真ん中あたりに人垣が出来ていた。
その中心あたりで声を張り上げている女がいる。
「はいはい、綺傳讀賣本日発売よ!」
「……あら、杏花ちゃんだわ」
「あの女かよ。相変わらず騒々しいな」
「仕事だもの、仕方ないわ」
藍の言葉に京梧は露骨に顔をしかめた。
どうもあの女とは相性が悪いのである。
瓦版売りの遠野杏花は、切れ長の目がやや勝ち気そうだが、黙っていればそれなりの美人だ。
しかしこの女、黙っているということをしない。
およそべらべらとよく喋るのである。
「それにしてもよく売れているようだな」
龍斗がぽつりと言った。
綺傳讀賣は、杏花の書く記事が他の瓦版とはひと味もふた味も違っていて、かなり
人気があるのだ。
綺傳という名の通り、不可思議な出来事を追った記事が多いが、それでいてその手の
書き物にありがちないい加減さがない。
きちんと取材し、裏を取った上で記事にしているのである。
従って説得力もあり、しかも時期を逃さないから、当然中身は面白い。
売れるのも道理なのだ。
杏花が、さらに売らんとして喚き続けている。
「さあさあ、このお江戸を騒がせる謎の火の玉! その正体は鬼か魔物か!?
続きは綺傳讀賣で読んでねっ」
「ねえさん、買った!」
「こっちもだよ」
「あたいにも一枚おくれっ」
杏花の煽り文句や、既に買った人のを盗み見したりして、途端に売れ始める。
杏花が配る前に、どんどんと直接瓦版を手にし、反対側の手に銭を置いていく。
「はい慌てないで、まだあるから!」
「早くしてくんな、さっきから待ってんだい!」
「おいらもだ、銭はここにあるぜ!」
杏花の周囲に群がった客たちは、たちまち瓦版を奪い合うようにして求めていく。
あっというまに売り切ってしまったようだ。
「あーー、ごめんねー、今日はもう売り切れだわ」
「なんだい、またかい。こないだも買いそびれたんだぜ」
「ごめんね、今度はもうちょっと多く刷るからさ」
買い損ねた客たちがぶつぶつ愚痴を言いながら渋々と帰っていく。
その真ん中には、さすがに少しくたびれたような顔の杏花がいた。
藍がにっこり笑って近づいて行く。
「こんにちわ杏花ちゃん。相変わらずよく売れてるのね」
あら、という顔で杏花が寄ってくる。
「あんたたち、来てたんだ。でも残念、今回も売り切れよ」
「……誰が買うって言ったんだよ」
京梧が小声で毒づいた。
耳敏くそれを聞きつけた杏花が言い返す。
「あら、京梧に言ったんじゃないわ。藍と龍斗に言ったんじゃないよ」
「そうかよ」
「それで今回はどんな記事なの?」
藍の問いに杏花はちょっと難しい顔をする。
「なんだ言えないのか?」
「そうじゃないけどさ」
人気瓦版の主筆は迷ったように言う。
「なんだか、よくわからないのよね」
「火の玉がどうとか言ってたよね」
「うん……、龍斗、あんた『空舟(うつろぶね)』って知ってる?」
「空舟? いや、初耳だけど……」
「そう。ま、知らないのも無理ないわね」
杏花は中空を見つめながら、考え考え説明し始めた。
「『兎園小説』って本にね、この空舟のことが乗ってんのよ」
兎園小説とは文政八年(一八二五年)に書かれたもので、有名な滝沢馬琴のものとされている。
これは、当時、各地で見聞された不可思議な話を十二名の作者が記事として書いたものらしい。
ここに「うつろ舟の蛮女」というタイトルの話が、着色された挿し絵付きで掲載されている。
「どんな話なんだ?」
「うん。享保三年(一八〇三年)の春、常陸の国、小笠原某の領地だった「はらやどり」と
いう浜の沖合に舟らしいのが漂流しているのが見えたのね」
漁師たちが舟を出してそれを捕まえ、浜辺まで引っ張り上げて見ると、そいつは球形をしており、
差し渡し三間ほどの大きさだったという。
人々が集まり、中を開けてみると、そこからは露西亜国の女性のような格好をした美しい女が
出てきた。
日本語はまったく通じなかったせいでコミュニケーションはまるで取れず、彼女がどこから来て
どこへ行くつもりだったのかを聞くことは出来なかった。
何だかよくわからないが、二尺ほどの大きさの箱を大事そうに抱え持っており、見せることも
近づけることもしなかったという。
その村の古老の話によると、過去にも同じような舟が流れ着いたことがあるそうだ。
船内には、見たこともない食料や菓子、見慣れぬ文字によって書かれた書物もあった。
この件を領主に知らせてもカネがかかるし、ここは「見ざる言わざる聞かざる」という
ことにしようと決まり、みんなでまた海へ押し流してしまった。
「へえ……」
「不思議なお話ね」
「この記事の作者は滝沢琴嶺になってるわ」
「琴嶺といえば興継……、馬琴の子供ね」
龍斗と藍が感想を述べた。
興味ないと言われると思っていたから、真面目に聞いてくれて嬉しかったのか、
杏花が話を続けた。
「もうひとつ、『梅の塵』という随筆の中にも同じような話が書かれているわ」
こちらは天保一五年(一八四四年)、長橋亦次郎という人物が書いた随筆集である。
やはり挿し絵付きではあるが、こちらはモノクロになっている。
話の内容はほとんど同じで、領主や土地の名前が少々違っている程度である。
「ふうん」
「でもよ」
興味なさそうにしていた京梧が言葉を挟んだ。
「それなら、ただ単にどっかの異人の乗った船が難破したってだけのことじゃないのか」
「ただ話を聞いてるだけならそうも思えるんだけど」
杏花はそう言うと、しゃがみ込んで地面に指で絵を描き始めた。
問題の舟らしい。
楕円形をしたそれは、現代の薬の錠剤ような形状を為していた。
上半分と下半分で色が違う。
杏花が指差して説明した。
「これは『兎園小説』の方に出てるものなんだけど。上の部分にはびいどろが張って
あって、中から外が見えるみたいね。で、下の方は鉄板張りだそうよ」
続けて瓦版屋の女はもうひとつ舟を描いた。
こっちはほぼ完全な球形である。
ほぼ真ん中あたりに、釜の竈置きのようなものがついている。
土星のリングにようなに見える。
やはり同じように、上半分と下半分のデザインが異なり、びいどろと鉄板張りになっている。
「どう思う?」
「どうもこうも……。さっきも言ったが、単に異人の船が難破したってだけのこっちゃ
ねえのか?」
「そう、京梧の言う通りよ。でもあんた、こういう舟、見たことある?」
「……」
丸い舟など聞いたこともない。
いかに外国船とはいえ、そんな珍妙な舟はないだろう。
舟の形など、日本もよそも大抵は同じである。
杏花は砂に汚れた手をはたきながら立ち上がった。
「このうつろ舟ってのは、全国に割とある話なのよ。うつぼ舟とも言われてるけど。
中には山で見つかったっていうのもあるくらい」
「山だあ?」
京梧がバカにしたように言った。
「舟が山にあるかよ。それともでっかい川でもあるところか?」
「それがそうじゃないのよ。なんとその舟は空を飛んでいたっていうの」
「は!!」
放浪の剣士は、やれやれと頭上で手を組んだ。
「もうそれだけで与太じゃねえか。空飛ぶ舟なんてあるかよ、烏や鳶じゃねえんだぜ」
「そうね」
意外にも杏花はあっさりと認めた。
「私も調べてみたんだけど、事実、『兎園小説』や『梅の塵』に出ている話の地名なんかは
でたらめなのよ。ま、領主の小笠原越中守ってのは、江戸の旗本で実在するらしいんだけどね」
「ふうん。とすると、実話を装った創作ってことなのかしら」
藍の発言に、杏花はうんうんとうなずいて言った。
「あたしも最初はそう思ったのよ。伝説や伝承なんだから史実じゃないわ。それに『兎園小説』
なんかは珍談奇談集なんだから、事実を元にしてるわけでもないの」
「見ろ、与太じゃねえか」
「早とちりしないで。だけどね、全国各地にある伝説っていうのは、まるっきりの嘘って
ことじゃないわ。少なくとも、それに類似した事実がいくつも発生したがために伝説、伝承と
して残った、ということもあるわけよ。かぐや姫や桃太郎の話はひとつしかないでしょ。
あれは創作だから当然そうよね。だけど、あちこちで本当に起こった事件ていうのは、起こった
場所や時期、経験した人によって受け取り方も違うから、いろいろ形や表現法を変えて、言い伝え
として残っているんじゃないかしら」
瓦版を売るお転婆娘は、聡明そうな瞳を輝かせながら言っている。
「だから、こうあちこちにうつろ舟伝説があるっていうのは、似たような事実があった
からじゃないかって思ってるのよ。創作紛いの『兎園小説』はともかく、随筆集にまで
似た話があるんですもの」
「じゃあ、何で嘘の地名になったりしてるんだ?」
「はっきりしたことは言えないんだけど」
と断った上で杏花は言った。
「多分、それを読んで不思議に思った人が、あとあと調べたり検証したり出来ないように
するためなんじゃないかなあ」
「……」
「記録に残しておきたいんだけど、何か事情があってそれが事実だとはっきりわかるような、
具体的な人名は地名は伏せておきたかった、と」
「なんでそんなことする必要があんだよ」
「だからよくわからないって言ってんでしょ」
また喧嘩腰になってくる京梧と杏花に割って入るように藍と龍斗が言った。
「で、杏花ちゃんの書いた瓦版も、その空舟なわけね?」
「空舟が江戸に出てきた、とでも言うのかい?」
京梧を睨んでいた杏花の目がパッと輝き、龍斗を見た。
「さすが察しがいいわね、その通りよ」
「え、ホントなの?」
「どうも最初は江戸郊外だったらしいんだけど、ここんとこ江戸の上空でもちらほら
見られてるみたいで、目撃談がけっこうあるのよ」
「どこなの、それ?」
「それがね」
杏花は思わせぶりに言った。
「なんと吉原なの」
* - * - * - * - * - * - *
江戸の町から少し外れた一角に、古びれた寺があった。
どこぞの本寺にも負けないくらい大きな造りで寺庭も広かったが、如何せん古かった。
ひと頃は幽霊寺とまで呼ばれるほどに荒みきっていたが、周囲の者が気づかぬうちに手が
入れられ、いつのまにか人が居住していた。
出入りしているのは、古寺に似つかわしくない若者ばかりだということで不思議がられて
いたが、主と称する女は近在住民には愛想よく、若い衆たちも問題らしい問題は起こさない
ので、次第に地域に認められていった。
この寺−龍泉寺に出入りする若者たちは龍閃組と名乗った。
幕府内でも知る者はごく限られ、公儀隠密の中でも特に秘匿性の高い組織であった。
朝四ツ(午前一〇時前後)。
醍醐雄慶と桜井小鈴は龍泉寺内の広い本堂にいた。
雄慶は密教系の僧侶で、ガタイが大きく筋肉質のがっしりとした身体をしていた。
剃髪しているわけではないが、五分刈りにしており、法衣を纏って数珠も持っている。
言うことも常識的、仏の言葉が多いが、それでも坊主には見えないタイプだった。
もともとは風来坊で、町の暴れ者だったところを高野山の高僧・円空に諭され、僧に
なった男である。
着るものを代えれば渡世人に見えるし、左目の脇にケンカ傷まである。
声も太くて大きいから、経を読むところなど想像がつかない。
が、いたって真面目で修行もよくこなした。
ただ、蓬莱寺京梧とはウマが合うのか合わぬのか、常にじゃれ合っているようである。
その正面に座っている女の子は桜井小鈴という。
小柄で活発な少女で、髪も短くまとめている。
弓道で有名な桜井道場の一人娘であり、師範代でもある。
少女らしい愛らしさを持っている娘だが、なにしろ行動的だし、言葉遣いも男っぽいため、
あまり女性として扱われないことに不満を持っているようだ。
いつも一緒にいる藍がグラマーなだけに、小作りな小鈴は少々コンプレックスを抱いている感もある。
「あ、来た来た」
耳ざとく廊下を歩く音を聞きつけて小鈴が言った。
すっと襖が開いて、龍斗、京梧と藍が入ってくる。
「遅かったな。また蓬莱寺がどこか寄り道でもしたか」
「なんで俺って決めつけるんだよ」
早速、雄慶がツッコミを入れる。
言うことはきついし厳しいものが多いが、言葉に刺はないので本気で腹を立てるような
ことはない。
互いに了承済みの挨拶のようなものなのだろう。
「藍どのや龍斗は、集合時間に遅れるような寄り道をするような者ではない。とすれば
おまえしかおらんだろうが」
「勝手なことを言うな!」
「ではなぜ遅れた」
「だっ、だからそれは……、そう、来る途中で杏花がいたんだよ。町中でひとだかりがしてた
から何だろうなと思ってよ」
「ほう。それで顔を突っ込んだわけか。誰がだ?」
「そりゃ京梧だな」
「……」
ボソリと龍斗が言うと、小鈴と藍がくすくすと笑った。
がやがやと騒ぎながら全員が腰を下ろすと、小鈴が藍に訊いた。
「なんかあったの?」
「あたしも訊きたいね」
「あ、先生……」
その時、ちょうど時諏佐百合が入ってきた。
彼女こそ、この寺の主であり、江戸市民を護る任に当たる彼ら龍閃組の長である。
今年三十路を迎えたおとなの女性であり、暴走しがちの若い彼らを抑える姉であり母でも
ある存在だ。
女性的な魅力も十分で、溢れんばかりの色香をその着物の下に押さえ込んでいる。
「……なるほどね、空舟かい」
龍斗たちの話を聞き終えた百合は、ふんふんと頷いた。
そして龍閃組の面々をぐるりと見回しておもむろに口を開いた。
「じゃあ、あたしの方の話をしようか」
百合がそれまでの話の腰を折るように言い出したため、みんなは少々不思議そうな顔をする。
それとも何か関連があるのだろうか。
「ここんとこ、江戸市内で妙な流れ星を見たって人が多いんだそうだ」
「流れ星?」
「ああ。明るい橙色に光ってて、天に昇ったり下へ降りてきたりと、忙しく動いたかと思うと、
ピタッと止まったり」
「なんだい、そりゃ? そんな流れ星があんのかい?」
「だから『妙な』と言ったろう」
百合は、京梧あたりが入れる茶々などは、軽くぴしゃりとあしらってしまう。
小鈴が首を捻って言う。
「確かに不思議な話ではあるけど、それがどうかしたんですか先生」
「まあね。話がこれで終わりなら、別にあたしらが関わることはないんだけどね」
この年、三十路を迎えた時諏佐百合は、額にかかったほつれ髪を小指で払った。
ぞくりとするほど色気のある仕草だが、若者たちは微動だにしない。
百合が続けた。
「幕府から命令が来たんだよ、ここへね」
「……」
「つまり、俺たちがその空舟を調べろってことですか?」
龍斗の問いに百合が小さく頷くと、京梧が途端に姿勢を崩した。
「……なあ、俺たちって一応、幕府隠密なんだろ?」
「……」
「隠密ってのはそんなことまでやんのか?」
「京梧」
京梧の発言を窘めるように小鈴が言った。
しかし、思わぬ人物から蓬莱寺擁護の意見が出た。
雄慶である。
「俺も蓬莱寺に賛成です。幕府の命とあれば従うのが筋でしょうが、たかが流れ星で……」
「まあ、お待ち。あんたたちの言うこともわからないじゃないさ。でもね、そいつのせいで
いろいろ問題も起こってんのさ」
百合の話はこうである。
いくら幕府がヒマでも、そんな話をいちいち取り合うほどバカではない。
第一、ヒマどころか、外には異国人との交渉、内には薩長を始めとする反幕連合の不穏な動き、
朝廷の権威を復活させようとする公家たちの暗躍。
そんな中で庶民たちの間にも不安が広がりつつある。
さらに鬼道衆の件もある。
ヒマどころではないのだ。
「なら、なんでそんなもんにまで手を出そうとしてるんです?」
「この話はね、けっこう市民の間でも噂になってるのさ。瓦版にまで出てるくらいなんだろ?」
「そりゃ、まあ……」
「で、この話がね、七不思議話みたいになってんのさ。市民たちも不安になってる。そこで……」
「なるほど、俺たちが調べて確認しろってことですか。何もなければよし、さもなければ……」
「龍斗くんは物わかりがよくて助かるよ」
百合の龍斗のやりとりを聞いて、他のメンバーも大方納得いったようである。
一名を除いて。
その一名が言った。
「でもよ、あんまり気が進まねえよな。百合ちゃんさ、七不思議みたいになってるって
言ったけど、それこそ七不思議みたいに単なる怪談話ってことなんじゃねえの?」
京梧がやる気のなさそうな顔でそう言うと、百合は小さく笑って言った。
「京梧、七不思議って言われて何か思い出さないかい?」
「何かって……。七不思議ってのあれだろ? 『置いてけ堀』だの『送り提灯』だの」
「だからさ」
「……鬼道衆か!!」
江戸に七不思議関連の事件が過去にも起こったことはある。
それらを調べていくと、裏で糸を引いていたのは鬼どもだったのだ。
百合は軽くうなずいて言った。
「幕府のお偉方の一部もそう考えてる。なに、まだ何か確証があってのことじゃない。
だけど……」
「わかった、わかった。そういうことなら話は別だぜ。やつらが関わってんなら、やって
やろうじゃねえか」
それを聞いた百合は微笑み、雄慶や小鈴たちは苦笑する。
取り敢えず、この無鉄砲な剣士のやる気を引き出すには「鬼道衆」というキーワードがいちばん
のようである。
百合が言った。
「そういうことだから、まだ何もわかってない状態さ。だから調べて欲しいんだ。しかし、
あたしも聞いたばかりで何も情報をつかんじゃいない。けど、藍たちがその瓦版売りから
仕入れた情報だと、吉原と大森のようだね」
確か杏花はそう言った。
「しかし吉原となるとねえ……」
あそこに入れるのは、基本的に客となる男のみである。
吉原は外界と隔離された異空間なのだ。
中にいる者は勝手に外へ出ることは出来ない。
特に女はそうである。
遊女たちは、借金で縛られて見世のものになっている。
逃げることなど出来ない。
もし外から女が入ってくれば、当然帰る時には出ていく。
遊女をそれに紛れ込ませない意味もあって、女は入れないのである。
以前のお葉の事件の時、藍も小鈴も入ったが、あの時は百合が奉行所で許可を受けてきている。
ならば今度も、と思うだろうが、そうもいかない理由があった。
「なんです、理由って」
雄慶が聞くと、百合も困ったような顔をした。
「……奉行所がね、あんまりいい顔しないのさ」
そもそも公儀隠密と、それ以外の治安機関というのは仲が悪い。
それも当然で、直接、江戸市内の警察権を握っているのは町奉行や同心なのだが、公儀隠密は
それ以上の権限を持っている。
いざ隠密が動けば、彼らは手出し出来ないのである。
言ってみれば、アメリカに於けるFBIと州警察のような間柄であり、縄張り争いや主導権の
問題でぶつかり合うのが常なのだ。
それでも、隠密の方が上位組織だから、幕府から指示があれば従わざるを得ない。
逆に言えば、そうでなければ命令違反にならない範囲で消極的非服従、つまり嫌がらせを
するのである。
前回、無理に女切手を取ったから、今度は無理だろう、との判断だ。
もちろん幕府から命令をもらえばその限りではないだろうが、正式な手続きには時間がかかる。
まして、硬直化官僚化していたこの頃の幕府ではいつまでかかるか知れたものではない。
「……となると、吉原へは俺とひーちゃんてことになるな」
京梧がにやにやしながら言った。
調査にかこつけて遊んでこようとの意図が見え見えである。
鬼道衆との直接対決ならいざ知らず、まだ海の物とも山の物とも知れぬ相手である。
敵がはっきりするまでは物見遊山、しかも相棒が龍斗なら言うことなしである。
百合が「やれやれ」と言いたげにため息をついた。
雄慶も渋い顔をする。
「赦免状がなければ、藍どのや小鈴どのだけでなく、俺も吉原へは入れませんし……」
坊さんは当然ダメである。
小鈴も言った。
「だよね。でもさ、ひーちゃんはともかく京梧がいるんじゃお目付役がいるよね、やっぱ」
「なんだよ、それ。俺が信用できねえのか?」
「出来ないからみんな苦労してるんだろ」
「……」
藍が遠慮がちに百合に言った。
「あの、私、アテがあるんですが……」
「アテ? アテってなんだい?」
「ええ、実は……」
萩原屋の事件の時、吉原で知り合った遊女がいた。
お凛という売れっ子の花魁で、気っ風も良ければ気もよかった。
お葉事件の際、協力してもらったし、それ以来、藍とは仲が良かった。
年齢が近いこともあってか、気が合うようだった。
そのお凛に頼めば何とかしてくれるのではあるまいか。
「なるほどね、あんた吉原の遊女に知り合いがいるのかい」
「そうか、お凛ちゃんなら信用できるな」
京梧も手を叩いた。
「そうだな、では藍どのにお守りを頼むことにするか」
「お守りってのは何だよ」
「京梧のお守りに決まってるだろ。じゃあ藍は吉原だね」
小鈴が言うと、雄慶もうなずく。
「それがいいだろう。では大森へは俺と小鈴どのだな」
なぜか巨漢の坊主は、やや顔を赤らめている。
もっとも、その原因である小鈴も、他のみんなもそれには気づかなかったようだが。
百合は若者たちの様子を好ましげに眺めながら言った。
「よし。じゃ、それで行こうかね。だが焦るんじゃないよ。まだ奴らの仕業だと決まった
わけじゃないし、そうだとしても何を企んでるかわからない。くれぐれも慎重にね」
* - * - * - * - * - * - *
昼九ツ刻。
四人の男女が吉原を歩いていた。
龍閃組の龍斗と京梧、さらに藍だ。
そして彼らを先導するが如く、先に立って歩いているのがお凛である。
「それにしてもあんたたちも……、変わってるねえ」
「はい、すみません」
「なに、責めてるわけじゃない。謝るこたないさ」
謝ったのは藍である。
しかし、一見していつもの藍とは違う。
普段のように髪を下ろさず、きちんと島田に結い、簪を差している。
来ている着物も、これまた艶やかなものである。
前を行くお凛ほどではないが、それでも充分に遊女として通用しそうな姿だ。
そう、藍はお凛に頼み込んで、彼女の振袖新造−つまり、お付きの遊女見習いとしてここに
来たのである。
お凛をどう口説き落とすか、京梧や龍斗とも話し合ったのだが、ヘタに騙すような形にする
よりも、ある程度本当のことを言って協力を乞うた方がいいのではないかとい結論になった。
結局、それが功を奏してお凛の心証を良くしたようである。
賢いお凛は、彼女なりに察して、あまり詳しい事情をほじくり聞くようなことなく、手助け
することにしたのだ。
胡散臭い相手なら別だが、お葉の時以来、彼らを信用しているし、お凛にはお凛で彼らに頼もうと
思っていたこともあったからだ。
「しかし美里、おまえ満更でもないなあ」
「蓬莱寺さん、やめてください……」
「いや似合ってるぜ、なあひーちゃん?」
「お……、おお……」
返事がぼうっとしてたのは、龍斗も藍に見とれていたのである。
普段は化粧っ気のない女で、それがまた藍の魅力だったわけだが、なかなかどうして、
こうして化粧した顔も美しいものだ。
京梧がにやにやして言った。
「へっへっへ、ひーちゃん、惚れ直したかい」
「ばっ、馬鹿野郎、何言ってんだよ」
「……」
真っ赤になる藍と龍斗を見て、京梧はますます面白がった。
お凛も楽しそうに言った。
「なんだ、そうかい。あんたらデキてたのかい?」
「そっ、そんなことありません!」
「なんだい、藍がムキになることないじゃないか」
白粉の下から赤らめた頬が浮き出るような藍をお凛は微笑ましく思っている。
京梧が、藍と龍斗をひょいと追い越してお凛と並んだ。
「そうからかうなって、お凛ちゃん。こいつら、てんで奥手でダメなんだからよ」
「おや、そうかい。たーさんならあたしがお相手してあげようかね」
「おいおい、聞いてなかったのかよ、ひーちゃんは美里で売約済みさ」
もうふたりは何も言わずに京梧のおもちゃになっている。
こうなると無敵を誇る徒手空拳も形無しである。
「ま、そういうこったから、お凛ちゃんはこの俺とだな……」
「いいともさ。あたしは一晩いくらか知ってて言ってるんだよね?」
「……」
「あんたにも世話になったからね、馴染金はいらないさ。こりゃ破格だよ?」
「……勘弁してくれよ、お凛ちゃん」
ぼやく京梧に、お凛は声を立てて笑った。
京梧は、役者が違うなと思いながら頭を掻きいた。
こういう気の利いたやりとりが出来ることも、高級遊女の条件なのである。
その売れっ子に京梧が訊いた。
「そういやお凛ちゃんよ、何か俺たちに頼みたいことがあるって言ってたよな」
「……」
「何ですか? 遠慮なく言ってください」
後ろから藍も言った。
「ああ……。実はね……」
と、お凛は言いかけたところで立ち止まった。
すぐ後ろを歩いていた龍斗と京梧が踏鞴を踏んだ。
「どうした……」
という言葉が途中で止まった。
黒山の人だかりである。
ただ、ちょっと様子が変だ。
見世の入り口付近を近所の見世の男衆や遊女たちが取り巻いているのだが、少し距離を
置いている。
野次馬な江戸の人間なら、他人を押しのけてでも入り口に顔を突っ込んで中を覗くの
だろうが、恐々と周辺を囲んでいるという風だ。
京梧が看板を見上げてつぶやいた。
「萩原屋……」
集まった連中が騒がしくなってきた。
見世の中から誰か出てくるようだ。
「ちょっとすまねえな、どいてくんな」
京梧が先頭に立って割り込んで行くと、三人も後に続いた。
すると、出てきたのは顔見知りだった。
「なっ、なんでい、おめえらっ」
十手をぴしっと構えたその若い男は、京梧たちを見やるとギョッとして言った。
「なんだ、何しに来やがったい!」
「なんだ八丁堀のおまけじゃねえか。弥助、なんかあったのか?」
「弥助じゃねえ、与助だっ。それより何だ、おまえら!」
「おや、あんたかい」
「あっ、あっ、お凛ちゃんっ」
喧嘩腰だった岡っ引きの態度が一変した。
惚れっぽいこの男は、お凛にも弱い。
「萩原屋さんに何かあったのかい?」
「あっ、ええ、それが、ここの遊女がですねい……」
「与助」
後ろから錆を含んだような男の声がした。
こっちも若いが、与助よりはよほど落ち着きがある。
「ぺらぺらと何でも喋るんじゃない……、ん?」
与助を注意した同心−火附盗賊改の御厨惣洲は、そこにいた遊女に気づいた。
「お凛か……」
「八丁堀の旦那、いったいどうしたんで?」
「いや、それはおまえと言えど……」
今度はお凛の廻りにいた連中を見て呆れた。
「なんだ、龍の字じゃないか。おまえらどうしたんだ? また何か……」
と言って、龍斗と京梧の間にいた見慣れぬ遊女を訝しそうに見た。
「……! おまえ確か、龍泉寺の……」
「……」
御厨が言いかけると、男ふたりは慌てて唇に人差し指を当て、その遊女も顔を逸らした。
「……どうも訳ありのようだな。話を聞かせてもらおうか。……与助」
「へ、へいっ」
「何をぼんやりしている。野次馬を追い払って来い」
「へいっ」
与助は、遊女に化けた藍に見とれていたのである。
同心に活を入れられて、慌てて見物人を追い払っていく。
お調子者の岡っ引きが、遠巻きにこっちを見ている吉原の町民を追い散らしているのを
眺めながら御厨が言った。
「おまえ、美里藍だろう。なぜ遊女の格好などしている?」
「ええ、それがですね……」
経緯を掻い摘んでお凛が説明すると、若い同心は納得したようにうなずいた。
「なるほど、じゃあおまえの妹分てことにしているわけか」
「そんなところです。大目に見てくださいよ、旦那」
「いろいろあってな、八丁堀。百合ちゃんの方も、女切手を都合出来なかったらしくてな」
女切手というのは、一般の女が吉原に出入りするために必要な許可証のようなものだ。
これがないと女性は中に入れないし、うまく入れたとしても出してもらえなくなる。
「その『いろいろ』だ。そいつを訊かせてもらいたいもんだな」
「……」
三人はちょっと考えたが、この御厨という同心は信頼が出来る。
この際、情報交換するのもいいだろうということで打ち明けることにした。
話を聞いた御厨は、顔をしかめて首を捻った。
「龍の字たちも妙なことを調べてるもんだな」
「そう言うなよ。俺たちだってそう思ってんだから」
京梧がぼやくように言った。
「で、そっちは何なんですか? 萩原屋に何かあったんで?」
「ああ。ここの遊女についてちょっとな」
龍斗が訊くと、御厨は情けないような顔を見せた。
この男にしては珍しい表情である。
御厨の話によると、吉原に娘を預けていた親が奉行所に訴え出たのだそうだ。
遊女というのは、女衒に買われて見世に転売されてくる。
その際、親元にカネが支払われている。
彼女らは、その借財を返済するということで遊女になっているのである。
中には人さらい同然の行為で女を攫って売り飛ばす悪質な者もいたが、普通はこうした
金銭売買である。
ただ、規則で幕府から人身売買は禁じられているため、形としては借金返済のための年季奉公
ということになっている。
しかし売られた娘の方は吉原を出ることは出来ない。
だから娘に会うために、親の方が訪ねてくることがあるのだ。
こういう場合、見世の方は最大限都合をつけるのが習わしのようだ。
奉行所に訴えてきた親の話によると、娘の年季奉公が明けたはずなのに帰ってこない、
祝言を挙げたわけでもない。
見世から帰って来ないのだ、という。
そこで会いに行ってみると面会を拒否された。
主人の話によると、娘は自分の意志で見世に残ると言っているらしい。
会わせてももらえず、一方的にそんなことを言われても、当然納得がいかない。
そこで訴えたものらしい。
「まあ、双方の行き違いでそういうこともないわけじゃないんだがな。今回の場合、似た
ような訴状が続けて四件もあったものでな」
「そんなに……」
「奉行所としても放っておくわけにもいかなくなったらしい。そこでこうして来てみたん
だが……」
「どうだったんですか?」
藍が訊いた。
いつもは清純なイメージだった彼女が、遊女に化けて濃い化粧をしているため、御厨は
ちょっと気圧されたように答えた。
「それが見世側の言う通りなんだよ」
「は?」
「その遊女たちを呼び出したもらって、俺が直接話を聞いたんだがな、みんな口を揃えて
「残りたいから残ってる」と言うんだな」
「……」
「逆に言われたよ、「私のことは心配するなと、お父っつあん、お母っつあんに伝えてくれ」と」
いかにも困ったという顔で、同心は腕組みした。
そしてお凛に訊く。
「お凛、こういうことはよくあることなのか? 年季が明けても帰らないってのは」
「そうですねえ」
お凛が小首を傾げて言った。
「大抵は年季が明ける前に、男を見つけて一緒になっちまうもんですがねえ。そうで
なければ番頭新造として見世に残るか、あるいは里へ帰るか……。まあ、祝言挙げるにせよ、
見世に残るにせよ、普通はその前に実家へ帰るもんですがねえ」
「うむ、俺もそう思うのだがな」
黙って話を聞いていた龍斗が言った。
「旦那、何かおかしなことはありませんでしたか?」
「おかしなこと?」
「はい。何でもいいんです。この萩原屋で何か気になったことは……」
「ふむ、そう言えば……」
御厨は考え考え言った。
「……なんとなく変ではあったな」
「具体的には?」
「ああ。見世の主も、その遊女たちも、なんというか、こう生気がない、というかな……。
まるで気を抜かれちまってるように見えたな。そう言えば顔色も良くなかったな、青白かった。
……まあ、どうでもいいことかも知れんがな」
「そりゃ何だい、幽霊みてえじゃねえか」
混ぜっ返すように京梧が言うと、案外と真に受けたような顔で御厨が言った。
「俺もそう思ったんでな、ちょっと手に触れてみたが暖かかったぞ。幽霊の類なら冷たいだろう」
「そうか……」
龍斗たちが考え込むと、御厨は表情を崩して言った。
「まあ、そう深刻になるな。まだ何が何だかわからん状態だ。俺も調べてみよう、何か
わかったら知らせてやる」
「助かるぜ。こっちもわかったら連絡するよ」
「そうしてくれ。……与助っ!」
同心は、道行く若い遊女をからかっていた不肖の部下を叱りとばすと、その場を去っていった。
お凛が京梧たちに言った。
「どう思う、今の話。あんたたちが追っていることと何か関係ありそうかい?」
「……どうですかね。表面上は無関係に見えるけど」
「そうね。でも同じ吉原の中での出来事だし、気にはなりますけど」
藍がそう言うと、京梧が思い出したように言った。
「そういやお凛ちゃん、何か頼み事があるって言ってなかったかい?」
「ああ……」
「……萩原屋絡みかい?」
「!」
お凛はびくりとして龍斗を見た。
「たーさん、あんた鋭いね。その通りさ。実は……」
お凛は、先日の桔梗の一件を話した。
話を聞いた三人はきょとんとしていた。
「それじゃお凛さんも、萩原屋さんの様子がおかしいことはわかってたんですね」
「そうさ。それが気になってね、相談したらさ……」
「へえ、同心の真似事か? また酔狂な女がいたもんだな。誰だい、そいつは?」
「あんたらに言っても知らないだろうよ。桔梗って姐さんなんだけどね」
「桔梗だあ!?」
「なんだ、あんたたち姐さんを知ってるのかい?」
「……」
知ってるも何も、桔梗と言えば鬼道衆のあの女ではないか。
もちろん同名の他人という可能性もないではないが、お凛から聞いた人相風体は、
どう考えてもあの桔梗に違いない。
京梧が低い声で言った。
「で……。その桔梗がいなくなったってのかい」
「ああ。あれからぷっつりね」
「お凛ちゃんに断らないで、そのまま帰ったってことはないのか?」
ひと仕事終えて、あるいは仕掛けを施していったん隠れ家に戻ったかも知れない。
しかしお燐は言下に否定した。
「あり得ないね。姐さんはそんな人じゃないさ」
「そうか……」
鬼道衆の女と吉原の遊女にどんな関係があるのかわからないが、お凛はウソをついて
いるようには見えない。
京梧は訳がわからんという顔でぼやいた。
「どうなってんだ? 今回はきど……やつらは絡んでないってことか」
「逆に、被害者ってことなのかしら……」
「わからんな」
「わからんと言えば、これが例の空舟の件と関係してるかどうかだってわからんぜ」
「なんのことだかわかんないけどさ」
お凛が言う。
「とにかく、よろしく頼むよ。あたしが姐さんをそそのかしたようなもんだから、
気になってさ」
「わかったよ」
「姐さん助け出してくれたら、ロハでいいよ」
「本当か? じゃ頑張るぜ」
お凛の言葉を軽口で受けた京梧だったが、目は笑っていなかった。
立ち去る遊女を見送りながら、三人は顔を見合わせていた。
その姿を、見世の奥から冷たい目で見つめている萩原屋の若主人に気づく者はいなかった。
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