重い鋼鉄製のドアが開き、女が入ってきた。
年齢は20台半ばから後半といったところだろうか。
長い髪をポニーテールにしている。
近視なのか、フレームのない眼鏡をかけていた。

「どうだった?」

すかさず、中で待っていた男が尋ねた。
こちらは50歳に手が届こうか、というくらいに見える。
白髪混じりの頭が少し薄くなっている。

「……ダメでした」
「……そうか」

女の報告を聞き、男は「やはり」という表情で頷いた。
椅子に座った初老の男も、不動の姿勢で報告した女も白衣を着ている。
医者か学者といった雰囲気だ。
男は、同じように座っている若い男に聞いた。

「中尉、これで何体目だったかね?」
「……失敗は6体目になります。冷凍保存している幼生は10体ですから、残り4体になって
しまいました」

「中尉」と呼ばれた若い男は、カーキ色の陸軍の軍服を着ている。
女もその上司も、よく見ると白衣の下には同じ色の服を着ているようだ。
ただし、女は軍袴ではなくタイトスカート姿である。
女は一度若い中尉を見たあと、上官の方を向いて言った。

「それで失敗した検体はいかがしますか?」
「状態は?」
「精神に異常を来しております。もう……」
「そうか」

男はさして興味もなさそうに言った。

「またマルタにするしかあるまい。唐沢班か久保島班に送ってやれ。実験体を欲しがっておった
からな。精神異常でも健康体なら問題ない」
「それにしても……」

中尉は、上官のふたりを見ながら言った。

「こうなると「蛹」を紛失したのは大きいですね」
「……」
「まあ、そのことは今さら言っても始まらん」

男は立ち上がって、取りなすように女の肩を叩きながら言った。

「なにも君がそんな顔をすることはない、大尉。「蛹」が消えたのは、別に君の責任というわけ
ではないのだからな」
「……はい」

女は小さく頷いた。
隣に立った上官よりも身長がある。

若い中尉は、机の引き出しから資料を取り出し、それを拡げながら言った。

「しかし、何が悪いのかさっぱりわかりません」
「検体の方はどうなのだ? 問題はなかったのかね?」

上官は、白髪の混じったカイゼル髭を撫でながら憮然とした顔で言った。
咎めるような口調である。
中尉はその顔を見返すように答える。

「問題があるとは思えません。健康状態は極めて良好でしたし、内臓──胃腸などの消化器官
にも何ら疾病障害の類は見あたりませんでした」
「私もそう思います」

女大尉が言った。

「今回も含め、過去6体の検体は、いずれもこちらの厳重かつ厳密なチェックをクリアしたもの
のみを使っています」
「ということは、エサかね? エサが悪いのか」
「それも違うと思われます」

中尉はデータを指し示しながら説明した。

「栄養面はもちろんですが、衛生面でも最高のものです。少なくとも、我が国ではこれ以上の
ものを作るのは不可能でしょう」
「では輸入でもするか? 欧州にはもっといい流動食があるだろう」
「無駄です。当たり前ですが、外国──というか、普通、流動食は病人食として作られます。
ですが、我々は使用目的が違うわけですから」
「それではどうするのだ!」

イライラした上官はドンと机を叩いた。

「検体に問題はない、エサでもない。いったい何が原因なのだ! それとも我々では、やはり
作ることは不可能なのか!?」
「……」

上官の怒鳴り声で、室内が静まりかえった。
男は少し気まずげに口を切った。

「……君が言った通り、残りは4体しかない。これまでの6体では、成功の兆しすら見えん。
といって、このまま原因を探るまでずるずると引き延ばしても、幼生がそこまで保つのかわか
らんのだ」

男の目がギラリと光った。

「今やるしかないのだ、大尉、中尉。……何か妙案はないのかね? 君らの若い優秀な頭脳には
……」
「閣下」

中尉が意を決したように言った。

「自分らは、今までフィジカルな面ばかり重視してきました」
「……」
「それで失敗を繰り返している以上、他の部分に目を向けるべきではないでしょうか?」
「他の部分だと?」

もったいぶってないで早く言え、と、その目が言っている。

「精神面です」
「精神?」

上官は面白くもなさそうに鼻を鳴らした。

「君も若いくせに、我が陸軍の悪癖が染みついているのかね? 頭の古い上層部は、この太正の
御世になっても、まだ吶喊だ、突撃精神だと吹聴しておる。精神力が不要だとは言わんが、結局
そんなものに頼るようでは……」
「お待ち下さい、閣下」
「まさか中尉、貴官は精神力の強い者を検体にすべきだと主張するのではないだろうね?
そんなものは……」
「閣下」

徹底した合理主義で、目に見えるもの、自分で確かめられるものしか信用しない上官の演説を
中尉は止めた。

「小官が言っているのはそういうことではありません。……いや、一部そうした面もあるのか
も知れませんが」
「……」

中尉は窓辺へ歩き、上官に背を向けたまま言った。

「閣下は霊力というものを聞いたことがおありですか?」
「霊力?」

軍医らしい将官は鼻白んだ。

「……聞いたことはある。なんでも精神エネルギーの一種だとか何とか……」
「大雑把ではありますが、そんなところです」
「それが何だ。そんなものが必要だと言うのかね? 関係ないだろう、検体はただのエサ……」
「私も彼に賛成です、閣下」

今度は女性士官が上官の発言を止めた。

「まだ研究途上ですから、はっきりとしたデータがあるわけではありませんが、霊力という力
が存在するらしいことは確かです。軍部でも注目している能力です」
「……」
「今の検体やエサに特に問題がない以上、そうした面から当たるのも悪い案だとは思いません。
閣下の仰る通り、無関係かも知れません。しかし影響があるのかどうかも、やってみなければ
わかりませんから」
「ふん」

将官はどすんと椅子に腰を下ろした。

「では、どうするというのだ。霊力を持った者を連れてきて検体にするのかね? どうやって
そんなものを探し出すのだ。軍だって探しているらしいが、滅多に見つからんという話だぞ」
「それについては小官にアテがあります」

中尉はニヤッと笑って上官を見つめた。

────────────────

帝都・東京。
その中心である皇居を、半蔵門からぐるっと巡るように陸軍の主要施設が並んでいる。
ちょうどお堀の対面である。
現在は国会議事堂前の通りとなっており、当時の面影はまったくない。
ちなみに、日比谷公園の向かいにある農水省の建物は、旧海軍省である。
その三宅坂には、陸軍省と陸軍大臣官邸、そして参謀本部があった。

陸軍省直轄の帝国華撃団に属する藤枝かえで中尉は、参謀本部に訪れていた。
かえでは、ここへ来るといつも余計に気を使う。
帝撃は参謀本部ではなく、陸軍省の直轄という形態をとっているため、ここでは異端視される
ことが多い。
軍政は陸軍省、軍令は参謀本部というのが建前だから、部隊である帝撃を省が管轄するという
のは面白く思わないのだろう。
そうでなくとも、第二次降魔戦争での帝撃の大活躍を快く思わない軍人も多い。
陸軍の精鋭たちを敵にしなかった降魔どもを、女子供の部隊が蹴散らしたのであるから、本職
の軍人たちが面白くないのは当然かも知れない。
かえでも、そして司令の米田も、そこは心得ているから、あまり目立った言動はとらないよう
心がけている。なるべく華撃団の隊員たちに、余計な気苦労を味わわせたくはないからである。

かえでは、米田中将の使いで人事局を訪れていた。
息が詰まりそうな施設の中で、ここだけは唯一ホッとできる場所だ。
なぜなら、ここの主──人事局長の吉積穣治少将が米田の盟友だったからである。
局長室に呼ばれたかえでは、てきぱきと用件を済ませるとデスクの前で敬礼した。

「では閣下、これで失礼します」
「うむ。ご苦労だった藤枝中尉」

吉積は、しかつめらしい表情で重々しくうなずいた。
では、と、踵を返す女性士官を少将は引き留めた。

「まあ、そう慌てて帰るなよ、中尉」
「はあ……」
「ま、掛けろや。急いで帰る用事があるわけじゃあるまい」

かえではクスリと笑って椅子を引いた。
ここへ来るといつもそうなのだ。

吉積自身が不器用そうな手つきで紅茶を煎れてくれている。
米田と並んで「帝国軍人らしからぬ」この男は、日本茶よりも紅茶やコーヒーが好みなのだ。
角砂糖を添えて出され、かえでは恐縮して受け取った。
女性である自分が男性に──しかも、将官どのに中尉風情が茶を煎れさせるなど、とんでも
ないことなのだが、米田にしても吉積にしても、そうした遠慮を感じさせない雰囲気を持って
いる。
日露戦役に於いて、米田とコンビを組んで幕僚チームを引っ張っていた知将とはとても思えない。

「参謀本部にも省にも、おまえさんほどの美人はそうそういないからな。少しはお花見させて
くれや」
「まあ。それじゃ私は桜ですか?」
「もっと華やかだがな。それに桜みたいにさっさと散ってもらっちゃ困る」

そう言って紅茶を啜ると、「熱ちち」と言って舌を出した。
猫舌なのだ。

「例の降魔どもも片づいたことだし、そっちは最近どうだい?」
「表面上、平穏無事ではありますね。もっとも、降魔はいつどこに出現するのかわからないの
で油断はできませんけど」
「まったくだな。こいつばっかりは外国の軍隊と違って諜報もできないしな」
「そうですね……」
「それに、華撃団の活躍で、軍でも君ら……というより、霊子甲冑に対する関心が高まっている」
「では……帝撃の他にも部隊を?」
「いや、まだそこまではいかんようだな」

吉積はスプーンを振り振り答えた。

「よくわからんから調べてみたいって感じかな。なにしろ、自分たちには手も足も出なかった
降魔を撃退してのけたわけだからな、まあ気持ちはわからんでもない」
「……」
「連中、君らが降魔どもを退治できたのは霊子甲冑のお陰だと思ってるんだな。装備だけでは
戦には勝てんのだが、その辺がわからんのだろうよ。しかも自分たちはそいつに乗れない。
だから余計にそれに興味があるんだろう」
「はあ……」
「でまあ、上層部の一部や兵器局の連中だけでなく、他の有象無象どもまでもな……」
「と、言いますと?」
「まあ、そっちはまだ君らが気にするこっちゃない。米田には、それとなく言っておいたがな」

角砂糖をひとつ落としてスプーンをかき混ぜるかえでをじっと見る。
陸軍の軍服など野暮ったいものだと思っていたが、こうして見ると悪くない。
これで下も兵隊ズボンだったら幻滅したろうが、どうしたことか、軍は女性士官に対しては
スカート着用を認めている。
きっちりとしたタイトスカートが、細身のかえでによく似合っていた。

戦死した藤枝あやめ中尉も吉積はよく知っていたが、かえでは姉によく似ている。
性格的には、控えめだったあやめに対し、かえでは能動的だったが、弁えるところは弁えている。
自分を殺し、主を立てる。
副官としては理想的な存在だろう。
かえでが悪戯っぽい目で、非難するように言った。

「……なにをじろじろ見ているんですの、閣下」
「いや、これはすまんな。しかし、米田のやつが羨ましいな。かえで君を始め、若い娘たちに
囲まれて、さぞや満足してるだろうて」
「米田司令はそんなお方じゃありませんわ。……かえって、身近に男性がいなくてお寂しそう
ですけど」
「そうかもな。あいつは昔っから男に人望はあったが、女にはからっきしもてなかったからな」
「言いつけますわよ、司令に」
「冗談だ、冗談。それにしても米田のツラもしばらく拝んでないな。かえで君、帰ったら米田
に言っといてくれ。女子供の相手ばかりしとらんで、少しは同期の桜も大切にしろってな」
「わかりました。吉積閣下が寂しがっていたとお伝えしますわ」

20分ほど談笑し、かえでは局長室を後にした。
正面玄関に向かっていくと、何人もの軍人たちと擦れ違う。
かえでは背中に違和感を感じ取った。

「……なにかご用ですか?」

振り返ると、若い青年将校が立っていた。
人事局長室を出たあとから、ずっと後をつけていたらしい。
士官は軽く敬礼した。

「……藤枝中尉ですね? 帝国華撃団の」
「そうですが」

かえでは相手を観察した。
年齢は20歳前後だろうか。
士官学校を出てまださほど経っていないだろう。
ちょうど大神くらいの年格好である。
中肉中背で、どことなく特徴のないタイプだ。
見たことのない男だった。
階級章を見ると、自分と同じ中尉のようである。
若い軍人は、小声でかえでに告げた。

「実は折り入ってご協力いただきたいことがありまして」
「協力……ですか? 帝撃のことでしたら、私より司令にお願いする方が……」
「いえ。あなたにご協力いただきたいのですよ、藤枝かえで中尉」
「私?」

────────────────

赤坂の「つくも」。
米田がプライベートで使う料亭である。
普段は、高級料亭などは性に合わぬと公言している男だが、時と場合によって小料理屋と使い
分けている。
料亭は公的な賓客を迎えた時などに使うのだが、この日は違った。
陸軍士官学校および陸軍大学の同期生である吉積穣治と飲んでいた。

「そうか、俺も嬉しいよ。おまえが派遣団の副団長とはな」

吉積は上機嫌だったが、米田はそう嬉しそうでもない。
米田一基陸軍中将は、先日辞令を受けた。
それは、このたび陸海軍が協同で欧州に派遣する軍事視察団の一員に選出する、という旨だった。
しかも副団長格で、陸軍を代表する立場として参加を命令されたのである。
むすっとしている米田に吉積が言った。

「なんだ、あまり嬉しそうじゃないな」
「俺はそういうのは苦手だって、おめえだって知ってるだろうが」
「わかってるさ」
「しかも、期間は一ヶ月の長期だ。そんなに長く日本を……帝都を空けっぱなしにしておける
と思うか?」
「だからわかってると言ってるだろうよ」

吉積は宥めるように言った。

「俺だってそのことを気にしてないわけじゃない。だがな……」
「俺だってわかってるさ、吉積。おめえが俺たち帝撃のことを気に掛けてくれてることくらい
はわかる。今回の人事も、そのことに絡んでるんだろう?」

国内──というより軍部内にも敵の多い組織である帝撃は、常に周囲に目を配る必要がある。
同時に、帝撃そのものも力を持つことが肝要なのだ。
日露戦役の英雄である米田の名声、そして降魔戦争時の活躍で保ってきた帝撃だが、それだけ
では風当たりは強い。
うるさい軍上層部でも迂闊には口出しできない実績を作らせる必要もあるのだ。
軍事面だけでなく軍政面でも、である。
それには、司令である米田の昇格などが相応しいわけだが、生憎彼はそうしたことにまるで
無頓着である。
米田の味方である海軍の山口海相も政府内の一部勢力も、そのことを懸念していた。
その中で持ち上がったのが今回の欧州派遣団なのである。

もともとは、先進的な欧州軍隊を研修するという目的ではあるのだが、一部例外があった。
招待してくれた国のうち、独逸陸軍と仏蘭西陸軍が日本に「あること」を要請してきたのである。
霊子甲冑開発と運用のノウハウについての教授であった。
兵器はもちろん戦術面でも列強各国に遅れをとる日本陸軍であったが、こと霊子甲冑については
世界トップクラスなのである。

欧州大戦時、独逸陸軍が一部で実験部隊を運用したことを除けば、ほとんど世界で唯一、実戦
投入に成功した軍隊なのだ。
その実験部隊にしたところで、米田が極秘に星組を試験運用したに過ぎないのである。

戦車開発でライバルの英国の後塵に甘んじていた独逸は特に関心を示していた。
同時に、長年に渡って独逸とはライバル関係だった仏蘭西も大きな興味を持っていた。
そのことを知った吉積は、これこそ天の与えたもうた好機とばかりに、軍首脳に帝撃──引いて
は米田を売り込んだのである。
陸軍省としても、教えを乞うばかりでは肩身が狭いと思っていただけに、吉積の提案に飛びついた。
少しでも日本陸軍の優秀さを知らしめたいと思っていたのだろう。

こうした経緯があり、渋る米田を吉積が説得し、派遣団随員に推薦したのであった。
吉積にも米田の気持ちは痛いほどわかるだけに、痛し痒しなのだろう。
やや憮然とした顔になってきた同期生を見て、米田も少し表情を緩めた。

「まあ、華撃団……ていうか花組に関しては、マリアがしっかりしてるから、まず心配はいら
ねえとは思うがな」

そう言って、酒豪の司令はコップ酒を空けた。米田と吉積が飲み出したら、お猪口で差しつ差さ
れつなどと上品なことをやるのは、最初の30分だけだ。
すぐに面倒くさくなり、銚子からコップに注いで飲み始めるのが常である。
吉積は、そのグラスに新たな酒を注いでやった。

「そうか……。花組の隊長……なんと言ったかな、海軍の若いやつ……」
「大神だ」
「そう、その大神だ。花小路さんからの紹介の……。そいつも今はいないんだったな」
「一時、海軍に復帰して、今は研修航海でパラオだ。その上で昇進となって、こっちに戻って
くることになってる。もうそろそろ帰ってくるはずだがな」
「代理が、そのマリア・タチバナか」
「そうだ。魔操機兵だのザコ降魔が少々現れた程度なら、問題なく始末をつけてくれるだろうさ。
だがな、軍絡みの面倒が起こったら、ちょいとやつでも手に負えねえだろう。だいいち軍人じゃ
ねえしな」

これも一口で半分ほど空けると、米田は吉積に銚子を振った。
見ればまだグラスに酒が残っている。
さっさと飲まないと注げないだろう、と言っているらしい。
吉積は苦笑して半分ほど飲んだ。

「返す返すも、かえで君の件は痛いな」
「こっちでも極秘に捜してはいる。だが、大っぴらには動けないからな。まさか憲兵隊を使うわけ
にゃいかねえし」
「わかってる。おめえにも苦労を掛けるな」
「かまわん。彼女がいないとそっちとの連絡にも困るのはこっちも同じだからな。それはそうと、
代わりの副官はどうだ?」

人事局長は帝撃司令の顔を覗き込んだ。
案の定、渋い顔をしている。

「……どうもこうもねえや。また怪しげなやつを送り込みやがって。まさかおめえの差し金じゃ
ねえだろうな?」
「バカ言え」

そう言われるのは不本意である。
吉積は吉積で気を使っているのだ。
米田がかえでの失踪をひた隠しにしているのを知っていて、本省に報告しないのは吉積の厚意で
ある。

「だいいち副官人事は司令の俺にあるはずじゃねえか。なのに……」
「確かにおまえ個人の副官に関する人事ならおまえにあるけどな。今回の人事は米田の専属副官
じゃなくって、帝撃としての部隊副官だからな。こいつは陸軍省の管轄だぜ」

副官というのは、現代の民間企業で言えば、重役や社長などに付く秘書のようなものである。
つまり、社長のスケジュールを管理したり、目を通す文書をチェックし、まとめたりといった
散文的な仕事を一手に引き受けるわけだ。

副官には二種類あって、ひとつはその将校の個人的な副官──つまり専属副官と、部隊固有の
副官である。
違いは、専属副官は、仕える将校がどこの部隊に配属されようと一緒についていく職務であり、
部隊固有副官は、その部隊の長になった将校に仕える副官である。
つまり、その士官が部隊を離れれば、また次の新しい指揮官の副官職を行うわけだ。

このうち専属副官については、その将校に選ぶ権利があるが、部隊副官の方はそうはいかない
わけだ。
それまで帝国華撃団には部隊固有の副官はいなかった。
米田は当たり前のように藤枝姉妹を専属副官として任用していたが、もともと副官が大勢いる
のもわずらわしいと思うタイプだったから、帝撃として部隊副官はずっと空席にしていたの
である。

あやめもかえでも優秀な軍人で、部隊副官がいなくとも不自由は感じさせなかったし、実績も
残していたから省も文句は言えなかったわけだ。
ところが、今回の藤枝かえで失踪につき、さすがの米田も困った。
かえでの無事を祈り、復帰を信じている彼としては、新たな専属副官を任用する気はなかった。
といって、ひとりの副官もなしでは軍務に多大の影響が出る。
そうでなくとも、米田は書類の関係は一切あやめやかえでに任せっきりだったから、何が何やら
わからないのが実態である。
劇場関連の事務に関しては風組の藤井かすみたちに任せておけば良いが、軍人でない彼女たちに
軍事書類に関わらせるわけにもいかなかった。
困った米田が吉積に相談し、結果として、空席だった帝撃としての部隊副官を臨時に置くことと
したのだった。
ところが、そこに配属されてきた新任副官が問題だったのである。

「何つったかな、あの女……」
「黒神大尉だ」
「それだ。ちっ、名前を覚える気にもならねえ。その黒神杏花か? 何者なんだ、あいつは」

得体の知れない女だった。
しかし軍務だけは完璧にこなしている。
米田が小姑的な目線で見ても、文句のつけようのない仕事ぶりだった。
それだけに「気に入らないから」という理由で更迭するわけにもいかない。
新任副官が、純粋に米田のため、あるいは帝撃のために働いているのではないのは明白だった。
何かを探るために帝撃へ来たに違いない。
それでいてこの女性士官は、そのことを隠そうともしない。
まことに可愛げがない。
といって、まともに聞いても喋るはずもなかった。
何かを探っているらしいことはわかるが、それが何かは不明である。
米田は、どうせまた反対派勢力の連中が、こっちの粗探しでもしてるんだろうと、まともに相手
にはしていなかったのだ。

「すまんな、米田。俺もあんなやつを送るつもりはなかったんだがな、俺の力じゃどうにもなら
なかった」
「そいつは聞き捨てならねえな。天下の人事局長どのの思惑通りにならねえ人事があるってのか?」
「……おまえ、あの女の軍歴書も読んでないな? やつはな、例の石野中将の子飼いなんだよ」
「なに?」

米田が目を剥いた。
石野幸四郎中将といえば、それまで経理部管轄だった軍医部門を、新たに軍医部として独立させ
たやり手軍医である。
軍人や医学者というよりは、軍政家の匂いが濃く、米田も吉積も好きになれない男だった。

「やつが、頭の古い上層部に派手な演出をして見せて取り入ったのは、おまえも知ってるだろう」
「まあな。てめえの小便から精製した飲料水を飲んでみせたりしたそうだな」

米田はまずいものを吐き出すような表情で言った。
吉積も顔をしかめてうなずいた。

「ああ。まあ、そうすれば井戸や川のない戦場で戦っても、飲料水の心配がなくなるのは確か
だがな。他にもな、戦死した敵兵の死骸を加工して練成肉を作って、そいつを糧食にしようと
言い出してるようだ」
「……下衆が」

米田ら生粋の軍人からすると、とても理解しがたい発想だった。
意表を突かれるというよりは、どうしても嫌悪を感じてしまうのはやむを得ないだろう。

「ま、そうしたことでやつが統制派に取り入ったのはおまえだって知ってるだろうよ。石野も
相応の発言力を持ってきてるってことだよ」
「それはわかるが、そのことと帝撃人事とどんな関係があるってんだ?」

米田はそう言うと、眼鏡を外しておしぼりで顔を拭った。

「それがな」

吉積は米田に顔を近づけて言った。

「どうもあの野郎、おまえたちに興味を持ってるようだぞ」
「俺たち? 帝撃にか?」
「よくはわからんが、どうも霊子甲冑に、らしいな。つまりは花組ってことか」
「わからんな。どういうこった?」
「何でもな、やつは「不死身の兵隊」を作るって参謀本部に言ってるらしいぞ」
「不死身だあ?」

さすがの帝撃司令も呆れかえった、という表情をした。
不死の人間などあり得ない。
そんなことは、米田や吉積──いや、戦場に出ていた軍人たちなら、いやというほど知っている。
どんなに頑健に鍛えた体でも、卓越した技量を持った兵士でも、頭や心臓を一発撃ち抜かれれば、
それで絶命してしまうのだ。
それが人間、引いては生物というものだろう。

「……バッカバカしい」
「俺もそう思うがな。どうもその件で石野はおまえたちに興味持ってるみたいなんだよ」
「そりゃ変だろうよ。いくら霊子甲冑を使ってるったって、乗ってる娘たちは不死身なんかじゃ
ねえぞ。あ……」
「そうだよ」

吉積がうなずいた。

「やつが不死身云々言い出してるのも、霊子甲冑のことじゃないのか?」
「はぁん……」

米田は顎を撫でた。

「そういうことかい。だが、さっきも言ったが、霊子甲冑着込んだって中の兵隊は不死身って
わけじゃねえぜ」
「もしかすると、操縦する兵士を廃して自動化しようとしてるのかも知れんな」
「なるほど、そりゃあり得るな」

実際、そうした動きは出ている。
霊子甲冑は、それを操れる人間の少なさが致命的なウィークポイントになっているのだ。
いかに大量の霊子甲冑を装備しても、操縦できる兵士がいなければ意味がない。
帝撃司令の中将は、考え考え言葉を続けた。

「でもなあ、霊子甲冑は兵器って扱いなんだから「不死身の兵隊」ってことにゃならんだろうよ」
「そうだな……」
「そもそも、なんで石野が霊子甲冑になんか関心を持つんだ? あいつは軍医だろうが。霊子
甲冑の開発はお門違いもいいとこだぜ」
「俺もそう思うよ。だがな、腹心の黒神が来たってことは間違いなく石野が関わってる。やつが
あの女を使って、何か探りを入れてきてると見た方がいいだろうぜ」

ふたりは三時間ほど飲んだが、ちっとも酔えなかった。
米田は一抹の不安を覚えながらも軍令に刃向かうことは出来なかった。
吉積に「俺がいない間の帝撃をくれぐれも頼む」と言い残し、後ろ髪を引かれながら欧州へと
旅立っていった。




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