「太平洋の女王」の異名を取る日本の大型貨客船「妙義丸」は、北西航路を取り一路米国を目指して海上を滑るように進んでいた。
横浜港を出港してはや一ヶ月余り。
14,000kmを越える長旅も、そろそろ終着点が近い。
豪華客船だけあって、設備もサービスも当時としては極上ではあったものの、やはり長旅は疲れるのか、乗客たちにも疲労の色が見える。

そんな中、船室の上の最上部に佇む者がいた。
空は抜けるような青空だが風が強く、そこに立っているのはひとりだけだ。
すらっとした長身で、ピンストライプの入ったブルーブラックのスーツを着ている。
海風にたなびく髪は見事なプラチナブロンドだった。
その凛々しい後ろ姿から察して、さぞかし偉丈夫な男性のように見えるが、前に回って顔を見てみると、これが妙齢の女性だ。
しかも美女である。
ショートボブの前髪を垂らし、左目を隠すようなヘアスタイル。
きりっとした美貌で、男役のトップスタアとして女性ファンに絶大な人気を誇っている。
名をマリア・タチバナと言った。
マリアは眼を細め、海の彼方にぼんやりと見えてきた陸地に見つめる。

「マリア、ここにいたの」

不意に後ろから声が掛かりマリアが振り向くと、これまた妙齢の女性が笑顔を見せている。
吹きすさぶ潮風に乱れる髪を抑えながら、レモンイエローのワンピース姿の女性が近づいてくる。

「すごい風ね」
「ええ……、そうですね」

マリアの隣に立った彼女は藤枝かえでと言う。
マリアと同じく帝撃に所属し、副司令を務める日本帝国陸軍中尉であった。
普段はカーキ色の軍服という野暮ったい格好でいるのだが、今回は私服のようだ。
こうして男装のマリアと美人のかえでが並んで立っていると、傍目からは恋人同士が新婚カップルのように見える。
元が美人だから、軍服のジャケットやタイトスカートを身に着けても魅力的ではあるが、こうして女性らしい服装をすると一層に華やかさが増す。
もっとも、この装いも船の中だけのことだろう。
向こうに着けばまたいつもの軍服を着ることになるのだ。

「何考えてたの、こんなところで」
「いえ、別に……」

そっと顔を覗き込んでくるかえでに、マリアは笑顔を作って手を振った。

「平気ですよ、本当にもう抵抗ありませんから」
「そう……」

それでもまだかえでは心配そうにマリアを見上げている。
マリア自身が決断したことだとはいえ、押しつける結果になってしまったのでないかと気にしているのだ。
気を遣い過ぎるとかえって負担を掛けると思い直し、かえでも笑顔になった。

「あと二時間で入港するそうよ。そろそろ上陸の準備をしましょう」
「はい」

先を歩くかえでの華奢な背中を見ながら、マリアはひと月前の情景を思い起こしていた。

──────────────────

帝国歌劇団花組の太正16年の新春公演は、いつも以上の大盛況で大帝国劇場を訪れた観客たちを魅了した。
演目は、再演になる泉鏡花の「海神別荘」だったが、キャスティングに変動があった。
初演ではマリア・タチバナが公子を、美女を真宮寺さくらが演じたが、再演となった今回は客演を招いてのものだった。
しかも大物である。
劇場の多さ、その質の高さで世界的に有名な亜米利加・紐育のブロードウェイから、大人気女優のラチェット・アルタイルがやってきたのだった。

もちろん、歌劇、ミュージカルではまだまだ発展途上の日本へ、わざわざ本場のブロードウェイのトップ女優が客演のためにやってくるはずも
なく、裏の理由があったからだ。
亜米利加も、仏蘭西の巴里、日本の東京に続いて華撃団構想が現実化したのである。
紐育を本拠に置き、初めての対降魔部隊──華撃団が設立されることになったのだ。
その隊長就任が決まっていたラチェットが、帝撃の貴重な経験を学ぶべく、表向き花組舞台への客演という形で来日することなったわけだ。
実際にはさらにもう一枚裏があり、ラチェットは「ヤフキエル事件」首謀者のブレント・ファーロングに取り込まれていたのだが、花組の活躍で
異国の降魔の野望は潰えた。
ラチェットの行為も帝撃は咎めることはせず、紐育華撃団という新たな仲間として迎え入れた。
そんな事情は観客の知るところではなく、大物スタアの客演による生まれ変わった「海神別荘」に酔い痴れ、今まで以上の絶賛を花組に送ったのだった。

こうして再演「海神別荘」は連日の満員御礼、大評判で幕を閉じた。
そして今、花組の面々は舞台の緊張と重圧から解放され、つかの間の休日を楽しんでいた。
ラチェット帰国の日に送別会を兼ねた公演慰労会が催され、その宴は深夜にまで及んだ。
翌日は完全休養日だったが、ラチェットがその日の朝、横浜から船便で帰国するということもあり、眠い目を擦って送り出した。
そんな中、花組隊長の大神海軍中尉とマリア・タチバナに米田支配人から呼び出しがかったのだった。

「……司令、大神隊長とマリアがまいりました」
「ん」

デスクの脇で副司令──実際には秘書役のようなものである──の藤枝かえで陸軍中尉が告げると、米田は椅子に深く沈み込んでいた身体を起こした。
デスクの上には、相変わらず日本酒の一升瓶と、それを飲むための湯飲みが置いてある。
が、酒の匂いはほとんどせず、米田の顔にも微醺の色はない。
素面のようだ。
老齢を迎えたこの陸軍中将は、おもむろに指で頬を掻いてから口を開いた。

「……ご苦労だったな。例の事件もだが、今回の舞台もだ。いい芝居だったぜ」
「ありがとうございます」

大神とマリアが礼を述べた。
その表情が少し怪訝である。
この初老の支配人が、こうしたことを面と向かって言うことは希だったからだ。
言いにくそうな支配人を見て、気を利かせた大神が先に聞いた。

「……支配人、何か?」
「ああ……」

それでもまだ米田は言いづらそうだったが、ふたりから視線を外しながら揉み上げの辺りを指で掻いて言った。

「実はな、マリアにオファーが来ている」
「は?」
「オファー?」

あまりに唐突なので、金髪の女優ともぎりの青年は顔を見合わせた。
あまりに舌足らずだと思ったのか、米田はようやく目の前に並んで姿勢を正している部下たちに告げた。

「米国のブロードウェイから、おめえに出演依頼が来たんだ」
「え……」

驚くふたりに、米田はさらに驚くようなことを続ける。

「こないだ、紐育のラチェットがうちに来ただろう? あれみたいなもんらしい。客演てことだな」
「ブロードウェイと言えばミュージカル……日本で言う歌劇の本場みたいなところよ。世界的にも有名だわ。そこからの出演要請だから、とっても
名誉なことなんだけど……」

捕捉するようにかえでも言った。
そんな凄いことであれば、もっと嬉しそうな表情をしても良さそうなものだが、彼女の貌もやや陰があった。

「ちょっと……ちょっと待って下さい」

あまりのことにマリアは戸惑い、そして問い返した。
話が急すぎる。
何がどうしてこうなったのかさっぱりわからない。
米田はギシッと音をさせて椅子に深々と身を沈めた。
そして、腹の上で手を組んで言った。

「これも前回の事件絡みではあるんだ」
「ヤフキエル事件ですか」
「そうだ。あの時、ダグラス・スチュワートの社長だったブレント・ファーロングってのがいただろう? 事件の元凶だった男だ。まあヤツ自身、
降魔みてえなもんだったが……」

その経緯はマリアも大神もよく知っている。

「でな、そん時に来日したのはあいつだけじゃなかったんだよ。ダグラス・スチュワート社の単独じゃなく、一応、米国政府筋からの視察団では
あったんだ。ま、それが原因であれだけの大事件を帝都で巻き起こしたもんだから、米国政府は大慌てだったらしいな。花小路さんから聞いたが、
ブレントが降魔だったことを認めるわけにはいかんから公式には謝罪しなかったらしいが、裏では平身低頭だったそうだよ」

米田の温顔に苦笑が浮かんだ。

「話を戻すとな、その時の視察団の中には若干の政治家とダグラス・スチュワート以外の企業の連中もいた。まあそっちの方は帝都……というか
日本の経済状況や発展ぶりを直に確認したいということだったんだろうな。で、こっちの政府と何度か話し合いを持って、今後の貿易のこととか
経済支援や協力体制について議論をやった。民間企業の方は日本側の企業との技術提携や帝都への進出するにあたって様子を見に来たってところかな」
「はあ……」

まだ話がよくわからない。
大神が遠慮がちに尋ねる。

「それがマリアと何か関係あるんですか?」
「……あるんだ。こっからが本題だ」
「……」
「来日したメンバーにな、芸能関係者も含まれてたんだそうだ」
「芸能関係者?」
「日本語で言うと、だ。向こうの言葉だと……、ああん、ショービジネスだかエンターテインメントだか、まあよくは知らねえが、そういう連中だ」
「本来は、花組に客演するラチェットを見るのが目的だったらしいの。それと同時に日本の舞台を見物するって感じかしらね」

かえでの言葉に、マリアも小さく頷く。
それなら話はわかる。
ブロードウェイでもとりわけ人気女優だった彼女が異国──それも東洋の日本で舞台を踏むとなれば話題になるだろう。
まだまだ文化的には未発達と思われている日本の劇団へ、なぜラチェットほどの大物がわざわざ客演するのか、という興味もあったのだろう。
裏にはラチェットの花組研修という目的があったわけだが、当然そんなことは彼らは知らない。

「連中はラチェット目当てでうちの公演を見たわけだが、その中でマリアに目を着けたのがいたんだな」
「……」
「日本にもこんな女優がいたのか、是非本国──米国で使ってみたい、と、こうだ」
「なるほど……、そういうわけですか」

ようやく合点がいった大神が頷いた。
恐らく、花組メンバーの中でもっとも西洋人受けするのがマリアなのだろう。
瞳も碧く髪は見事なブロンドだし、日本人の中では例外的に大柄な女性だ。
とはいってもごつい感じはまったくなく、すらりとした長身で舞台では見栄えがする。
向こうの俳優たちと競演しても、決して見劣りはしなはずだ。
もちろん演技力は花組でも指折りである。
恐らくはマリアが英語を話すことも調べはついているだろうから、うってつけだと思ったに違いなかった。
まさか東洋の辺境に、こんな逸材がいようとは思いもしなかったのだろう。
大神が何かに気づいたように言った。

「待って下さい、支配人。マリアが招聘されてるブロードウェイというのは紐育なんですか?」
「ああ……、そうだ」

なるほど、それで米田もかえでも表情が暗かったのだ。
マリアの過去のことである。
黒之巣会事件の時、マリアが敵幹部の刹那に拉致監禁されてしまったことがあった。
彼女を呼び出す脅迫材料として使われたのが、花組入隊以前のマリアの過去の件だったのだ。
大神は、横で俯いているマリアの顔を見ながら思い起こしていた。

マリアは若干9歳でロシア革命に参加している。
革命に参加と言っても市民のデモ行進などいうものではなく、革命軍の兵士として政府軍と戦闘しているのである。
その頃から類い希な射撃能力を発揮し、部隊の中でも名手として活躍したらしい。
そこで色々あってロシアから脱出、米国──紐育に渡って荒んだ生活を送っていた。
そこをかえでの姉であるあやめに見い出され、懸命の説得の上、日本での花組入隊となったのである。
大神が聞かされているのはその程度のことだ。

ロシア革命時代は、クワッサリー……火喰い鳥の二つ名を持ち、政府軍を恐れさせたそうだ。
ということは、恐らくは多くの人命をその白い手で奪ってきたのだろう。
内戦つまり戦争なのだし、幼いとはいえマリアは兵士だったのだから致し方ないが、それでも大きなトラウマとなったはずである。
どう言い繕っても人殺しには違いないのだ。
だからこそ、そのことを仲間たちに知られたくなくて、マリアは罠と知りつつも刹那の呼び出しに応じ、その上で捕らえられたのだ。

紐育時代のことはほとんど知らなかった。
犯罪組織と関係していたらしいことはカンナやあやめからも聞いているが、それだけである。
今はもう紐育で悪事を働いていたマリアではなく、帝都の人気スタアであり、花組の大事な仲間であるマリアなのだ。
過去など知る必要はないし、知りたいとも思わなかった。
大神以外の隊員たちもみな同じであろう。
だからそのことを詮索するような人間はいなかった。
あやめからも、その頃の罪はもう充分に償っていると聞かされていた。
詳しい事情を知っているのは、マリア本人と故人となったあやめだけであろう。
ならば、もうそれでいいではないか。
そこに、彼女の古傷に触れるような話が降って湧いた。
事情を知る米田やかえでが戸惑うのは当然だった。

「ブロードウェイで芝居の客演をするってのともうひとつ、他のオファーも来てるんだが……」
「もうひとつですか」
「ああ。こっちはな……キネマなんだよ」
「キネマ? 映画ですか」
「そうだ。どうもおめえを見初めたのはでかい興行主だったらしくてな、そいつは劇場の他にも映画会社を持ってるようだ。そこに出したいって話なんだよ。しかもな、キネマの方は……」

そこで米田は見上げるようにマリアを見た。

「おめえを主演で使いてえと、こうなんだよ」
「そりゃすごいな」

マリアが反応する前に大神が呟いた。
映画は、日本では米国から入ってきて、ここのところ人気が急上昇している。
米国や欧州の映画を上映するだけでなく、日本でもキネマが作られるようになっていた。
その人気振りに、従来の演劇関係者が不安視するほどになっている。
花組から見ても強力なライバルではあるのだが、当の隊員たちはあまり気にした様子はなく、すみれなどは喜んでキネマ見物をしているくらいだ。
そんな中で、まだ若い産業で映画俳優自体も少ない中、帝都でも評判の花組にもキネマ出演要請が来るというのは、考えてみれば当然だったろう。
ただ、それが日本ではなく外国だとは思わなかった。

「米国で映画というと……、ええとよく知らないんですが、確かハリウッド……でしたっけ? それもその紐育なんですか?」
「違うわ、大神くん。確かにハリウッドは米国映画の本場だけども、今回マリアに要請が来てるのは……やっぱり紐育なのよ。その興行主は
ブロードウェイに拠点があるから」
「はあ、そっちも紐育ですか……」

マリアは少し俯いて考え込んでいる。
部屋にいる3人は、気遣わしげにその様子を見守っていた。
しばらく沈黙していた室内で米田が言った。

「……実はまだある」
「何でしょう」
「もし……、こりゃおめえが紐育へ行くことを承諾したらの話なんだが……」

米田はデスクの上の茶碗を手に取ると、しばらくそれを見つめていたが、ぐっと中身を飲み干した。
大神たちがこの部屋に来て初めて米田は酒を口にした。
普段の米田なら、もう五合くらいは空けているはずだ。

「紐育に新たな華撃団が出来ることは聞いてるな?」
「はい……、ラチェットが隊長になるとか、ならないとか……」
「そうだ。でな、まだあっちの隊員たちは経験不足……というか、正直言ってラチェット以外は実戦経験はほとんどねえんだよ。そこでだな、
マリアがあっちに行ってくれるなら、紐育歌劇団の面倒も見てもらいてえんだ」
「待って下さい、支配人」

何だか大神は、今日はこのセリフばかり言っている気がする。
それだけ米田の言葉が予想外で、俄には従いづらいものばかりだったということである。

「まさか……、まさかマリアに帝撃を抜けて紐育へ行けと、そうおっしゃってるんですか!? 困りますよ、絶対に!」
「大神隊長……」

これまた予想外に食ってかかる大神を見て、マリアは驚いたような表情になったが、すぐに緩んだ。
この人は……いや、仲間たちはマリアがいなくなることを本気で心配しているのだ。
氷結しかかったマリアの心に暖かみが差していく。
すかさず米田が拡げた手を突き出した。

「待て、慌てるな大神。マリアを寄越せなんて言ったら、俺だって断るさ。確かにマリアを貸してくれと要請はあったが、完全移籍なんてことじゃねえんだよ」
「期間限定……ですか。で、どれくらい?」
「一ヶ月……だそうだ」

本当は、向こうはマリアを譲って欲しいと言ってきたらしい。
まだ一度しかマリアの舞台を見ていないのに、大した惚れ込みようだ。
しかも、民間の劇場相手くらいであれば、米田も賢人機関も突っぱねたのだが、そうではなかったのだ。
どうもその興行主は政府か、あるいは紐育の実力者に影響力があるらしく、驚いたことに来日した米国政府関係者からも直々に要請があったのだそうだ。

こうなってくると賢人機関──引いては日本政府としても無下には出来なかった。
さすがに移籍については断ったものの、期間を決めての客演については承服せざるを得なかったらしい。
それでも、米田とかえでは最後まで頑張り、「マリア個人の意志を確認するまで決められない」として確答はしなかったのである。
米田は、そのことまで包み隠さずすべてマリアに告げた。

「連中は、譲ってくれないならせめて一年、いや半年と言ってきたんだがな、それだけは突っぱねた。長くてもひと月だとな……」
「マリア……」

かえでが心配そうに言った。

「断ってもいいのよ。別にあなたが強制されるようなことではないわ。司令や私は軍人だけど、あなたたちはそうではないのだから……。いくら政府
からの要請とはいえ、無理強いはしません。ましてマリア、あなたは……あの場所には……」
「いいんです、かえでさん」

顔を上げたマリアは少しだけ微笑んで見せた。

「支配人やかえでさんたちが、私なんかのためにどれだけ頑張ってくれたのかはよくわかってます。それに……」

マリアは大神を見ている。

「隊長や花組のみんなの気遣いも知ってます。でも、だからこそ、私はそれに甘えっぱなしじゃいけないんと思うんです」
「マリア……」
「私、行きます」

マリアはきっぱりとそう言った。
その瞳には、すでに意志の強さが戻ってきている。
悩み、俯いていた時の弱々しさは、もはや欠片もなかった。
それを聞くと、米田も些かホッとしたようだった。

「そうか……、行ってくれるか」

口には出さなかったものの、やはり政府筋や陸軍からのプレッシャーはあったのだろう。
マリアは、この老齢の支配人は今年で何歳になるのだろうと思った。
もうそろそろ軍務からも引退させてあげて、ゆっくり老後を過ごして欲しかった。
もうそれだけのことはやってきたのだ。

「一ヶ月……で、いいんですね?」
「ああ、一ヶ月だ。やつら、最後の最後で「三ヶ月にしてくれ」と粘ってきたが、一ヶ月でダメならこの話はご破算だと言ってやったら、渋々諦めたようだ」

大神も少々息をついたような顔になっている。
そんな土地にマリアをやりたくないという思いもあったし、同時に米田やかえでの苦悩もわかったからである。
その妥協点として一ヶ月というのは妥当かも知れなかった。
米田は一升瓶から湯飲みに酒を注ぐと、うまそうに煽ってから言った。

「うちにだって次の公演があるんだからな。それまでには戻ってくれないと困っちまう」
「次は四月ですね」
「いやこの次は五月にやることになった」

今までの花組公演スケジュールは通常年四回である。
他にクリスマスの特別公演などが入るが、基本的には二週間の公演を三ヶ月おきに四度行なう。
ただ、降魔の襲撃等で予定は変わる可能性はある。
太正維新事件の時は、帝都は公演どころではなかったということもあって一回休演となっている。
ただ黒之巣会の時は、なんだかんだで休まず公演しているから、状況次第でどうなるかは不明だ。
流動的なのである。

「何せおめえが出向くのは米国の紐育だ。浅草や荒川へ行くのとはワケが違わあ。船便で片道一ヶ月はかかる。てことは往復だけでふた月だぜ。
で、向こうで一ヶ月やってもらうってことは、もうこの時点で次の公演になっちまうわけだ。だから一ヶ月延ばした。その次の公演は飛ばすか、
あるいはレビューだけの軽いものにするか、それは次に就任する支配人に任せるとして……」
「次の支配人?」

マリアと大神の疑問には答えず、米田は続けた。

「まだ新春公演が終わったばかりだし、脚本も上がってねえから、おめえたちは少し英気を養ってくれてればいい。ま、マリアはその期間、
米国へ貸し出しになっちまうから負担ばかり掛けることになるがな」
「それはもういいです、支配人。納得してお引き受けしたんですから。ところで四月……いえ五月の出し物は決まってるんですか?」
「ん? ああ……、まあな」

ここでまた米田はマリアたちから視線を外し、横に立った有能な副官の方をちらりと見た。
かえでが小さく頷くと、米田は改めて大神たちを見据える。

「演目は「ああ、無情」だ」
「レ・ミゼラブル……、ユーゴーですね」
「ああ。今回は俺の好みでな、決めさせてもらった」
「支配人の? どういういことです?」
「……俺は、次の公演が終わったら……」

そこまで言ってから、米田は眼鏡の位置を直し、ふたりを見つめた。

「支配人を辞めるつもりだ」
「は?」
「歌劇団の支配人を辞めると同時に、華撃団の司令官からも身を引く」
「……!」
「何を言ってるんですか、支配人!」

マリアは絶句し、大神は大声を出した。
両手をデスクに突いて、米田を睨み据えている。
米田はわざと顔を顰めた。

「でけえ声出すなよ、大神。他の連中にはまだ知られたくねえんだ。おめえとマリアだけに内密にな……」
「だ、だからなぜです!? なんで米田支配人が辞めなきゃならないんですか! け、賢人機関は何と……」
「これは俺の意志なんだよ」
「支配人の?」

米田はそこでまだドッと椅子に身を任せた。

「……俺もな、今年で67になる。正直言って、少々くたびれてきた」
「……」

さっきのマリアの疑問は思いがけず解消した。
もうそんな年になるのか。
改めて支配人の皺深い顔を見て、マリアは感慨に浸った。

若い頃から軍務に精励し、陸軍きっての智将、猛将とされながらも、その反骨ぶりと官僚化した軍上層部を厭い、ひたすら実戦部隊に身を置いた。
そんなところから本省に疎んじられ、終いには降魔相手を押しつけられてしまう。
その結果、新たな対降魔部隊編成を任され、今日まで華撃団を育て上げてきた功労者だ。
年の離れた若い連中──娘どころか孫くらいの年齢であるマリアたちを率いてきたのだ。
口に出せぬ苦労も多かったことだろう。
その米田が身を引くと言ってきたら、誰も引き留めることは出来ない。
大神もそう思ったのか、うつむき、唇を噛みしめて身を引いた。
米田は、明るい声で言った。

「おめえらがそんなツラをすることはねえよ」
「ですが……」
「ま、そういうことだから、今度の舞台は俺の支配人としての最後の公演になるんだよ。だから絶対に成功させてえんだ」

だから、最後の我が儘で米田の好きな演目を選んだということなのだろう。
マリアはふと思いついて尋ねた。

「では……、支配人がお辞めになった後、華撃団や帝撃はいったい誰が……」
「おめえだよ」

米田はそう言って顎をしゃくった。
大神のことらしい。

「お、俺ですか!?」
「当たりめえだ。他に誰がいるってんだ」
「で、ですが……」
「もう充分に経験は積んだろ? いつまでも実戦部隊隊長なんてやってねえで、そろそろ後ろから花組の戦いを指揮する立場になってみろ」
「い、いや、しかし、俺はまだ……」
「心配するな、かえでくんはそのまま残ってくれる。ばっちりおめえを補佐するさ。まごまごしてやがると、かえでくんに叱り飛ばされるぞ」
「その時になったら、よろしくお願いね、新司令官どの」

かえでがニコニコしてそう言った。

「かえでさん……。でも、俺は海軍ですし、その……」
「階級が心配か? おめえもかえでくんも中尉だからか? そっちも大丈夫だ。海軍大臣の山口さんにも話は通してある。ここ半年もしねえうちに、
おめえさんは大尉どのに昇進だよ」
「昇進……」
「むしろ遅かったくらいだ。年齢を考えれば異例ではあるが、それだけの実績を残してきてるんだ。誰にも文句は言わせねえよ」
「しかしですね、支配人は中将閣下でした。その司令官職に尉官が就くなんて……」
「平気だよ。今までがおかしかったんだ。確かに帝撃は特殊部隊ではあるが、小所帯だろ? それを将官が直率する方がどうかしてる。大尉や少佐
くらいでちょうどいいんだ。まあ、陸軍の官僚どもがおめえの上に総司令を持ってくるかも知れねえが、それも名目だけのもんだ。事実上、おめえの
好きにしていいんだよ」

そこで米田はマリアを見た。

「で、今まで大神がやってた実戦部隊長は当然マリアが就任する。マリアは大神が来る以前は隊長やってたんだから、こっちは何の問題もないだろ?」
「はあ……、まあ……」

何しろ急な話なので、マリアも呆気にとられてはきはきと答えられていない。
まったく、今日はどれだけ驚かされるのだろうか。

「そういうこともあるからな、華撃団の隊長が何ヶ月も留守にするわけにはいかねえ。だから最長でも一ヶ月だと期限を切ったのよ」
「そういうことでしたか……」

けっこう込み入った事情になっているらしい。
そうであれば、マリアも要請を断る理由はなかった。
紐育という土地に対して、それなりの感慨やトラウマはあるが、もう過去のことなのだ。
今の紐育に抵抗があるわけではなかった。
すべて言ってしまったからなのか、米田はリラックスしてきている。

「まあ、あっちに渡ったら、芝居にキネマ出演、合間を縫って新設華撃団の面倒を見たりと大忙しだとは思うが、よろしくやってくれ」
「わかりました」
「私もご一緒するから、頑張りましょうね、マリア」
「あ、かえでさんも行かれるんですか。それは心強いです」
「お世辞でもそう言ってくれると嬉しいわ。舞台や映画に対してはマリアのマネージャーということにしてあるの。華撃団についてはアドバイザーってところかしらね」

かえではそう言ってウィンクして見せた。
最後に米田が締める。

「そういうわけだから、大神、マリア、よろしく頼む。ああ、そうそう、マリアとかえでくんの紐育行きは、明日にでも他の連中に発表する。
マリアが受けてくれる前には言えなかったんでな。それと、俺の引退の件は当面伏せておいてくれ。まだ若い娘たちだからな、どんな影響が出るか
わからねえ。次回公演がハネたら、俺の口から直接言うことにする

米田はそう言うと、また一升瓶を傾けた。

──────────────────

マリアとかえでは、船が紐育に入港すると、大して休みもせず、マンハッタン島に渡った。
新設される紐育華撃団は、マンハッタンのブロードウェイにあるリトルリップ・シアターを本拠地としていた。
ルネッサンス建築だった銀座の大帝国劇場とは異なり、近代的かつ合理的な大劇場だった。
いかにも米国らしいとマリアは思う。
スーツケースを携えてエントランスに入ると、もう話は通っているのか、すぐに支配人室に通された。
待っていたのはラチェット・アルタイルである。

「おひさしぶり! マリア……、それにかえで」

ブルーとホワイトのストライプが入ったワンピースを着た美女が駆け寄ってきた。
マリアとは違い、こちらは美しいロングの髪をなびかせている。
同じようにブロンドなのだが、マリアのプラチナに対し、こちらは完全にゴールドだ。
ブルーアイに真っ白な肌、気高いほどの美しい顔立ちと、西洋人が理想とする美人像を具現化したような女性だった。
まだこの今年で22歳であり、かえでやマリアよりも年少なのだが、普通に相手を呼び捨てにしている。
意識してのことではなく、彼女にとってはそれが自然だからだ。
自分がそうされても何とも思わない。

ラチェットは、身軽な身体を弾ませるようにしてふたりに近づき、マリアとかえでの手を両手で握った。
以前はこんなに親しみやすい娘ではなかったのだが、やはり帝都での事件と花組との交流が影響しているのだ。
冷酷なまでに合理的で冷徹とさえ言われ、隊員同士の交流も最低限だった彼女も、ヤフキエル事件をきっかけに、少しだが角が取れてきたのかも知れない。

「ラチェットも元気そうね」
「おかげさまで」
「隊長職はどう?」
「うーん……、まだまだね。隊員たちもまだ養成中だし」

マリアとラチェットの間に入るように、かえでが言った。

「ラチェット、こちらの支配人は? ご挨拶しておきたいのだけど」
「支配人?」

ラチェットはマリアの手を握ったまま答えた。

「今、陸軍省よ。帝撃も同じでしょうけど、こっちもね、けっこう大変なのよ、軍との関係が」
「そう……」
「昨日はフェニックス社。SSPA(Spiritual & Steam engine Powred Armorの略)……霊子甲冑のメーカーなんだけど、そこでの打ち合わせ。最近はもう、ほとんどここにはいないわ」

そう言うと、かえでの方を見てウィンクして見せた。

「だから今回の件はすべて私に丸投げしてきたわけ。サニーも、日本美人に会いたがっていたけどね。華撃団の面倒も、しばらくは私ひとり見ないといけないの」

ラチェットはそう言いながら、ふたりを応接セットに招いた。
ソファに身を落ち着けたマリアたちに背中を向けながらラチェットが語る。

「……だから、今は隊員たちの訓練──主に霊子甲冑への適応ね。「スタア」はまだ完成して間もないし、六機あるすべての機体がほとんど手作り
に近いのよ。量産にはほど遠いわ。私自身、正直言ってまだアイゼンクライトの方が扱いやすいし」
「じゃあ……、まだ実戦経験はないの?」
「いいえ」

マリアの問いに、ラチェットは振り返って答えた。

「本当は、あと半年くらいは訓練したいところだけど、状況がそれを許してくれないの」

ラチェットは、マリアたちの対面に腰掛け、ティーセットをガラステーブルに置いた。
ティーポットからカップに紅茶を注いでいるが、どことなくぎこちない。
今にもカップから茶が飛び出しそうで、はらはらしたかえでが「自分がやる」と言いそうになったが、マリアがそれを表情で止めた。
ラチェットのプライドの高さは、来日当時の彼女の様子でよくわかっている。

ラチェットは、芝居も戦闘も一種天才的な閃きを持った娘だが、その反面、実生活面に於いてははなだな不器用で要領が悪かった。
「天は二物を与えず」と周囲は笑うが、それは誤りだろう。
容姿端麗なことも含め、それ以外のラチェットはほぼ完璧なのだ。
ひとつくらい苦手なことがあって当然だし、そうでなければ近寄りがたい存在になってしまうだろう。
このくらいの方が可愛げがあって良いと、マリアなどは思っている。

何とか無事に3つのカップに紅茶を注ぎ終わると、さすがにラチェットもホッとした表情になる。
確かに以前よりも人間臭くなってきているようだ。
マリアたちにミルクと角砂糖を薦めてから、自分のカップに角砂糖をふたつほど入れ、傍らに添えたカットレモンを絞り入れた。
薫り高い茶の風味を楽しみながら、かえでが聞いた。

「もう何度か出撃したのね?」
「ええ、三度ほど。とても帝撃ほど手際よくってわけにはいかなかったけれど」

そう言うとラチェットが苦笑した。
彼女には珍しいバリエーションの表情である。

「まだ数が少なかったし、組織的でもなかったから、私たちでも何とかなってるけど……、どうもそれも怪しくなってるのよ」
「どういうこと?」
「今、合衆国で妙な事件が頻発してるの」

ラチェットはかえでの疑問には直接答えず、話題を切り替えたように見えた。
マリアはそれを素直に受けてやる。

「妙な事件て?」
「……表向きはただの性犯罪、かな」

金髪の美しい娘の表情が少し陰る。

「女性に対するレイプ事件が、全米各地で一斉に起こっているの」
「でも、それは……」

婦女暴行事件は日本でも起こっている。
もちろん米国での頻度に比べれば随分とマシだろうが、それでも全国各地で発生しているのだ。

「発生数は前年比の2倍以上……」
「それは……」
「警察も連邦捜査局ももちろん捜査してるわ。特にFBIは「何かおかしい」と思って、念入りに調べていった」
「……」
「州を跨いだ連邦犯罪を裁けるのは彼らだけだしね。で、その調査結果がこれ。極秘にサニーが入手したもの」

ラチェットが書類を手にしている。
ぱらぱらとそれをめくりながら言葉を続ける。

「このうち1/3は通常のレイプ事件。つまり人間の男が犯人と思われてる。だけど残りは……」
「『Unkown』……。不明?」
「ええ。わかっているのは、恐らく人間ではない、ということだけ」
「人間でない? でもレイプってさっき……」
「降魔……なの?」

黙ってかえでとラチェットのやりとりを聞いていたマリアがぽつりと言った。
かえでがハッとしてマリアを振り返り、再びラチェットを見た。
紐育華撃団隊長は、ややためらいながら小さく頷いた。

「どうも、そうではないかと思われてるわ。まだアメリカでは日本ほどに降魔の被害がなかったものだから、最初はそんな説は笑い飛ばされていたんだけど……」

説明しながら、ラチェット自身困惑した表情を浮かべている。
かえでも動揺は隠せなかった。

「でも……、何か証拠は? 降魔がやったという……」
「被害者の証言よ」

やけにきっぱりとした口調でラチェットが答えた。

「襲われた女性は、異口同音に「怪物」に犯されたと証言している。人によって、それが「化け物」だとか「大きな蜥蜴」だとかね……。いちばん多い証言が「悪魔」ね。悪魔にレイプされた、と……」
「……」
「これはアメリカ……というか西洋ならでは、でしょうね。これが日本なら、差し詰め「鬼」に襲われた、というところなんでしょうけど」
「つまり、被害者には相手がそういう異形の者に見えたということなのね?」
「ええ、そう。そう考えるとね……」

ラチェットはそう言いながら、デスクから別の資料を取り出し、それをテーブルに拡げて見せた。
ティカップを脇にずらし、テーブルいっぱいに様々なイラストが描かれた資料がばらまかれる。

「これは……」
「目撃証言から描いた推測図……。どう? 降魔に見えなくて?」

確かにそう見える。
まるで蜥蜴から進化したかのような化け物。
熊に翼を着け、人に近い外骨格を与えたような魔物。
牛に似たもの、猿の異種に見えるもの、鳥が恐竜に先祖返りしたかのようなモンスターまでいた。
色は一様に黒い。
褐色である。
人型で背中に醜い翼を生やし、頭に角、尖った耳を持ったもの──いかにも「悪魔」という風体の怪物もいた。
かえでが手にしたそのイラストを覗き込みながら、マリアが言った。

「こんなものが……。私にも降魔に見えるけど……、でも、これが一斉に? 米国中に出現したというの?」
「そう。ここ半年ほどのことよ」

マリアもかえでも唖然とした。
これほど大量の降魔が一斉に出現したことは日本でもなかった。
よくよく思い起こしてみれば、かの黒之巣会でも、降魔が事件の中心ではあったものの、敵の多くは彼らが開発した霊子甲冑──魔操機兵だったのだ。
島国の日本と異なり、広大な大陸である米国であれば、それだけ降魔の発生率は当然高いだろうが、こう全国に発生しては対処しようがあるまい。
支配人のマイケルが東奔西走しているのも、このことと無関係ではないのだろう。

「……考えてみれば」

ラチェットはフッと息をついてソファに身を沈めた。
その顔色には、やや疲労の色も見える。

「全米各地に伝わっている怪物伝説……。あれって降魔のことだったのかも知れないわね」
「……」
「私は……、私たちは、そんな貴重な目撃例を「胡散臭い迷信」として歯牙にも掛けていなかった。その報い、かな」

その考えにはマリアも同調できる。
世界各地に伝わっている怪物や妖怪──いわゆるUMA──の目撃群例、そのすべてがそうだとは言わないが、かなりの部分は降魔のことなのでは
ないか、というのはマリアも常々思っていたことなのだ。
ラチェットは背中をソファに預け、軽く瞼の上をマッサージしながら言った。

「……チュッパカブラ、ジャージー・デビルにモス・マン。みんな降魔のことだったのかなあ……。そう言えば、今回のレイプ事件でも目撃例が
あった蜥蜴の化け物なんか、ファンタジーなんかによく出てくるリザードマンそのものだものね……」
「でも……」

かえでが暗い表情で言った。

「そのレイプ事件の真相も大事だけれど、こんなに多くの降魔たちが同時多発で現れたら……」
「帝撃でも対処不能ですよ、かえでさん」
「そう悲観することはないわ。いいことだって、ないではないもの」

力づけるようにラチェットが言う。
今までの彼女にはなかった心遣いだろう。

「まだ内密なんだけどね、実は第二第三の華撃団構想が持ち上がってるの」
「え? 紐育以外にも米国で?」
「そうよ。降魔事件の数が少なければともかく、こう多くなってくると私たちだけじゃどうにもならないわ。アメリカは日本と違って大陸なのよ。
例えば、新潟で降魔事件が起こっても、帝都の華撃団で何とかなるかも知れないけれど、アメリカの東海岸に降魔が出たら、西海岸の紐育華撃団じゃ
とても間に合わないもの」
「それじゃあ……」
「だから東海岸──ロサンゼルスにアメリカ第二の華撃団を設置する、という話はかなり具体的なところまで進んでいるわ。他にも、中央部のテキサス
──ヒューストンにもひとつ作る、という動きもある」
「……」

マリアとかえでは息を飲んだ。
かなり事態は進行しているようである。
なるほど、この情報の件もあったからこそ、米田も苦しい中でマリアとかえでの両名を派遣したのだ。
この重大情報は、ヘタに電報や無線で送るわけにもいかなかったのであろう。

その深刻さに考え込む日本のふたりに、ラチェットが状況説明を続けた。
どうも、降魔が急激に増えた要因には、降魔による人間女性への暴行──それによる妊娠、そして出産があったのではないかという説が出ているらしい。
降魔に襲われた女性の中には、そのショックで精神に異常を来したり、自ら命を絶ってしまう者も少なくなかった。
しかし、恥を忍んで隠れて出産した女たちも、その殆どが亡くなっている。
産まれてきたのが人型の降魔だったからだ。
多くは母胎である女性の腹を食い破って産まれ、まともに産道を通って来た者でも、そこを突き破って出てくるため、どっちみち女性の命はなかった。

さらに驚いたことに、この降魔たちは人間ばかりを襲うのではなく、受胎可能な動物の牝であれば何でもいいらしいのだ。
降魔が人の女をレイプし、出産させた場合は人型の降魔となった。
犯した動物が牛なら牛、ワニならワニに似た降魔が生まれ出たのである。
ただ、他の生物との相性の善し悪しもあるらしく、死産のことも多かったし、産まれてもすぐに死んでしまう個体もまた少なくなかった。

それでも全米各地で一斉に起これば、かなりの数の降魔が出現することとなる。
それだけのことを言いにくそうに、かつ静かに怒りの表情を浮かべながらラチェットが解説した。
マリアもかえでも黙って聞いているしかなかった。

「特に多いのがここ紐育なのよ。あまり大きな話題になってないけど、これは市警とFBIが必死になって噂を封じ込めてるから。じゃなければ
この大都市はパニックになってるわ」
「……」
「ただ、ここの被害者は殆ど亡くなってるの。だから目撃例はかなり少ないわ。死ぬ間際に被害者が残した証言でも「見たこともないような怪物」
としかわからない。私たちも臨戦態勢ではあるんだけど、大抵は事後に出撃するから間に合わない……」

現状は、市警と州兵が共同して警備に当たっているらしい。
対降魔は華撃団の本職ではあるが、少数精鋭のため警備するような余裕はなく、軍や警察の要請があって初めて出撃するしかなかった。

しかし状況はそんな悠長な対応を許してはくれなかった。
降魔に対し、何ら有効な手立てを持たぬ軍や警察へ不満を強めたアメリカ政府と州政府は、紐育華撃団に時限特例を与えた。
紐育華撃団に対し、今後一年間──但し一年以内に軍並びに警察の対応が可能になるか、降魔そのものの数が激減した場合はこの限りではない──、
降魔事件に限って捜査及び調査、そして対処の第一優先権が与えられたのである。
同時に、FBIを始めとする警察機構は、降魔事件に対しては全面的に華撃団へ協力し、支援すること、となっていた。

場の空気が澱んでいる。
話題が話題だから仕方がないのだが、かえではともかくマリアの方は華撃団の仕事だけで来たわけではない。
本場のブロードウェイから出演要請があり、わざわざ訪れたのである。
これで認められれば、マリアは日本だけでなく世界から注目されるような女優になる可能性もあるのだ。

そしてラチェットが見るところ、その可能性はかなりある。
そもそも女性が男装する芝居自体が少ないのだ。
マリアはそれをほぼ完璧に演じている。
演技力もあるし、見栄えも良い。
美しいプラチナブロンドやすらっとした長身、そして碧い瞳と、どれをとっても米国で受けそうだ。
マリアがいなくなっては帝撃が困るだろうが、少なくともマリアは「いい夢」を見ることが出来るだろう。

「まあ、それはそれとして」

ラチェットはことさら明るく言った。

「すごいじゃないの、マリア。ブロードウェイから招聘がかかるなんて。日本じゃ多分、初めてなんでしょう?」
「え? ああ、まあ、そうみたいね」
「何よ、もっと喜んだら? アメリカの女優なら天にも昇るような気持ちになってるわよ」
「私はあくまで客演だし、移籍するつもりもないから」

マリアはそう言って苦笑した。
対して、ラチェットは少し悪戯っぽい微笑を浮かべて言った。

「今はそうかも知れないけど、ここの華やかさを知ってしまったらわからないわよ。ギャラはもちろん、ファンの熱狂度や世間の注目度もケタが
違うんだから。公演が終わった頃には「このままアメリカに残る」って言い出すんじゃない?」
「こらこらラチェット、けしかけないでよ。マリアがいなくなったら私たちが困るんだから」

かえでもそう言って割って入った。
降魔の暗い話題から離れ、ひとしきり明るい笑い声がしていたが、ふと思いついたようにラチェットが尋ねた。

「そう言えば……、どの劇場に招聘されたの? 少なくともうちじゃないわよね」
「何よそれ、嫌み? あなたは帝撃に来てくれたけど、私はリトルリップには来ないのかって」
「そうじゃないわ。で、どこ?」
「『ヴォーク』って聞いたけど……」
「『ヴォーク』? ……あ、あそこか……」

心なしかラチェットの表情が変わる。

「どうかした?」
「あ、うん、大したことじゃないんだけど……」
「どういう劇団なの? 私たち、詳しいこと何も知らないんだけど」

ひとつ息をついてラチェットが言った。

「……大きな資本を持った劇団よ、ここほどじゃないけど。ただ、バックがね……」
「なに?」
「ここじゃ珍しいことじゃないんだけど、そこの興行主が少々きな臭い男なの」
「どういうこと?」

つい小声となり、3人は顔を寄せ合う。

「マフィア……、ギャングの関係者だって噂……」
「え!?」
「それホントなの、ラチェット!」

ラチェットは、驚いたように勢い込むふたりを手で制した。

「待って。今も言ったけど、そんなのここでは珍しくないのよ」
「だって……、だって裏に犯罪組織がいるってことでしょ? 日本で言ったらヤクザが……」
「そうなんだけど……、アメリカじゃあね、マフィアは今やビッグ・エンタープライズなのよ。国税局曰く、今、合衆国で最も効率的かつ最大の
利益を上げている企業はマフィアだって」
「……」
「少々大きな街ならどこにでもマフィアはいる。小さなところなら、まるごとやつらが抱え持ってる場合もあるわ。ここも例外じゃない。
しかもショー・ビジネスなんて、昔っからそういう連中と臭い仲だったわけだから。用心棒代、みかじめ料、所場代の要求なんて当たり前で、
それを断ったら日に陰に嫌がらせされる。それでも屈しないと強硬手段で来るわ。俳優や関係者を害する、酷い時は劇場を爆破する。逆に劇場側でも、
チケットを押しつけて捌かせるところもあるしね、持ちつ持たれつってとこ」
「そんな……、じゃあ、ここも?」
「ううん、リトルリップは大丈夫。何しろサニーはアメリカでも指折りの大富豪だから、やつらも手が出ないわ。それに、私は知らされてないけど、
裏でどっかの組織と接触してここの安全を守って貰ってる可能性もあるわ」

日本も似たようなものだろう。
興行にはどうしたってその土地のヤクザが絡んでくる。
帝撃は、何しろ親方日の丸だからさすがにそんなことはないが、他の民間劇場、劇団は多かれ少なかれ、否応なく彼らの「世話」になっているのだ。

「だから、ことさらそこだけが心配だってこともないんだけどね。ただ、あそこはオーナーがギャングだって話だしね……。でも、誤解しないで
欲しいのは、出し物は健全だし、好評なのよ。劇場にも胡散臭いところはないし、歌劇だけでなく映画にも出資してる……、あ、そう言えばマリア、
映画の方にも出るのよね」
「そう聞いてるわ……」
「ふうん、じゃあよっぽどオーナーに気に入られたのかな」
「やめてよ、私は移る気なんか……」
「わかってるわよ。今回の件は、連中がコネを使って日本政府の一部や財界を動かしてあなたを無理に招聘したんでしょうけど、逆に言えば、日本政府
公認……ってこともないけど、了承してここに来てるわけだから。マリアが断ってるのに、無理強いして残らせるようなことをすれば国際問題になるわ」
「……」
「もしかしたら、そっち方面の関係者が見物に来て不快なこともあるかも知れないけど、我慢することね。嫌な客だと思って、営業スマイルを見せてれば
いい。命まで取られはしないわ。アメリカ、ブロードウェイってそういうものだって思ってよ」

ラチェットはそう言って笑った。

「ただね、マフィアのボスなんかが女優に色目使ってくることはあるから、それだけは気をつけてね。ともすれば情婦にしようなんて虎視眈々と狙ってくる、
なんてことも珍しくないから」




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