その日は到着したばかりということもあり、ラチェットとの打ち合わせを終えるとすぐにホテルで休むことになった。
翌朝、ヴォークへ赴こうとして朝食後にロビーへ降りると、マリアとかえでの姿を認めたボーイがすぐに歩み寄ってきた。
「……マリア・タチバナさんですね?」
「そうですが……」
「ヴォークの方がお迎えにいらしております」
「迎え?」
ボーイが拡げた腕の先に、サングラス姿の男がひとり立っていた。
オールバックの金髪で、隙がなく、いかにも裏社会の人間をを思わせる。
思わず警戒し、身を引いたマリアたちだったが、男は意外にも紳士的に振る舞ってきている。
「マリア・タチバナさんですか」
「……そうです」
「そちらは?」
男はサングラス越しにかえでを見つめた。
聞いていない、想定外だと言っているかのようだ。
かえではずいと前に出て、胸を張った。
今日はいつもの軍服を着ている。
劇場へ行くのだから私服でいいだろうと思うのだが、昨日、ラチェットの話を聞いていたから、威嚇の意味も含めて、ことさら軍人であることを強調する気らしい。
「私は藤枝かえでと言います。帝国陸軍中尉です」
「ほう……、日本の軍人ですか」
「はい。今回はマリアのマネージャーとして付き添っております」
「将校さんがマネージャーね」
男は喉の奥でクックッと嗤ったが、マリアとかえでの射るような視線を受けてすぐに表情を正した。
「これは失礼。ボスがお待ちです、クルマの方へどうぞ」
正面玄関の真ん前に、大型のリムジンが駐まっていた。
スチームカーではなく、この時代には珍しいガソリン車のようだ。
蒸気が出ず、大型のボイラーから発せられる熱もないので、高級車として使われている。
運転席からすかさず別の男が飛び出て、後部ドアを開けてマリアとかえでを導いた。
最初に対応した男が助手席に滑り込むと、クルマはすぐに発進していった。
目的地には30分ほどで到着した。
クルマから下車したマリアの表情が引き締まる。
見覚えのある街なのだ。
かえでがそっと近寄ってきた。
「ここ……、どこなの?」
「……コニーアイランドです。紐育のブルックリン……。かつては島だったらしいですが、今は埋め立てて半島になっています」
「へえ……」
「この辺りはブライトンビーチと言って、昔からのロシア人街です」
「ロシア人街? じゃあ、マリア……」
「ええ。私が紐育へ来た時、最初に居着いたのがこの街ですよ、かえでさん」
「ということは……、あの人たちもロシア人てことかしら?」
「わかりません……」
先に立っていた男が振り返る。
「いかがしました? こちらです」
「……」
促してきたので、ふたりは黙って建物に入っていく。
劇場自体はブロードウェイにあり、来る途中で通り過ぎてきた。
劇場で顔合わせするのは明日以降で、今日は取り敢えずオーナーに会って欲しいとのことだ。
一見、平和そうな街並みだが、裏はどうなっているのかわかりはしない。
ラチェットの話では、オーナーはギャング関係者らしいのだ。
ということは、この連中もギャング一派であり、このビルはその事務所ということになる。
ラチェットも言った通り、マリアたちは公式ではないにしろ日本政府の後押しで来ているのだから滅多なことはされないはずだが、こうなってくると
本当に目的がマリアの客演だけなのか怪しく思えてくる。
いずれにせよ、ふたりは油断せずに中へ入っていった。
大きなビルである。
3階建てだが、そうは思えないほどに軒高がある。
DS社が銀座に進出してビルを建てた時もそうだったが、日本人の感覚で言えば無駄なほどに天井が高いのである。
廊下も自動車が楽に通れるほどに広かった。
広い大陸の米国は、狭い島国の日本とは空間に対する認識や発想がまるで違うのだろう。
とにかくスペースを贅沢に使っている。
これなら霊子甲冑でも中に入れそうだな、とマリアは思った。
クルミ材で出来た大きなドアをノックし、男が叫ぶ。
「ボス! お連れしました」
「……入ってくれ」
よほど分厚いドアなのか、中からの返答はごく小さなものだった。
部下はドアを開けるとマリアを導いたが、その後からかえでが入ろうとするのを拒んだ。
「何を……!」
「申し訳ありませんが、マネージャーさんはここまでです」
「どういうことですか? 私は日本の……」
「軍人さんなのでしょう? でもそれは関係ない。我々が招いたのはマリア嬢だけです」
「ですから私はそのマネージャーとして……」
「マネージャーさんとはあちらの部屋で、担当者とこれからの日程の打ち合わせをさせていただきます」
かえでのこめかみにスッと怒気が走る。
「……私はオーナーに会えないのですか?」
「会う必要は特にないと思いますが。ボスが興味をお示しなのはマリア嬢だけですから」
「そういういことではありません。私は女優の管理を任されているのですから、仕事上の話には参加させていただかないと困ります」
「仕事の話? だからそれはあなたとそっちの部屋でやると言っている。マリア嬢は、単にボスと顔を合わせ、挨拶していただくだけですよ」
「……」
「舞台だけじゃなく、映画撮影の件もあります。マリア嬢をロケ地にお連れすることもありますから、その辺りの打ち合わせもさせていただきます」
「しかし……」
「いいですよ、かえでさん」
納得いかず、なおも食ってかかるかえでをマリアがそっと止めた。
「大丈夫です。かえでさんはスケジュールの確認をしておいてください」
「本当に平気?」
かえでが心配そうな顔をするが、マリアは微笑んで頷いた。
「すぐ済みますから。まさか殺されはしないでしょうし、平気です。それよりも……」
そこでマリアがそっとかえでに耳打ちする。
その目は鋭く男を睨め付けていた。
「……かえでさんの方こそ気をつけてください。どうも連中の得体がが知れません。ホテルに戻ったら情報交換といきましょう」
「わかったわ、あなたも気をつけて」
かえでは後ろ髪引かれる思いでマリアを振り返り、指定された部屋に入っていった。
それを見送ってから、マリアは改めて室内に入る。
バカみたいに広い部屋だ。
空間の無駄遣いとしか思えない。
だだっ広い部屋の奥に大きなデスク、その前に応接セットがあるだけだ。
あとは壁に酒やグラスを収めた棚と本棚があるだけだった。
敷き詰められた絨毯は毛足が長く、いかにも高価そうである。
ペルシャ絨毯かも知れないなと思いながら、マリアは歩いて部屋の奥へ進んだ。
そこでパタンと音がしてドアが閉まる。
振り返ると、案内役の男がいない。
出て行ったようだ。
少し躊躇したが、マリアはそのままデスクの前に行った。
高い背もたれの椅子の脇には、ハンガーと帽子掛けのスタンドが立っている。
そこにジャケットとコート、中折れ帽とともに、銃のホルスターが掛けられていた。
その拳銃に見覚えがあった。
ゴールドに輝く大型自動拳銃──モーゼルM712だ。
マリアの脳裏に、思い出したくもない最悪の男の記憶が蘇る。
オーナーはマリアに大きな椅子の背を向け、窓の外を見ているようだ。
思い切ってマリアは声を掛けた。
「……マリア・タチバナです」
「……」
それでも男が黙っているので、マリアはやや大きな声でまた言った。
「日本から来たマリア・タチバナです」
「……お待ちしてましたよ。ようこそニューヨークへ」
そこで回転椅子がキィッと鳴って、主が正面に顔を向けた。
その顔を確認した途端、マリアに衝撃が走った。
予想通り、あの趣味の悪い銃を愛用していた男がそこにいた。
「やっぱりあなただったの、バレンチーノフ」
「ひさしぶりだね、マリア。おっと、そのまま動くなよ。後ろを見たまえ」
「……」
出て行ったと思っていた男が、いつの間にか室内にいる。
その手には大型の自動拳銃が握られ、銃口をぴたりとマリアの背に向けていた。
「……出したまえ」
「何を」
「惚けるのかね、君の銃だよ。ここへ乗り込むのに、君が丸腰とも思えない」
「……まさか、あなたがいるとは思わなかったけどね」
マリアは懐に突っ込んだ右手を引き抜いた。
そこには愛銃のエンフィールドが握られている。
それを一度見つめてから、そっとデスクの上に置いた。
ゴトリと重い音がすると、ボディガードらしい男が近寄ってくる。
すかさずマリアのボディチェックを始めた。
バレンチーノフはマリアの銃を懐かしそうに見ていた。
「そう、これこれ。これが君のガンだよね。イギリス製のエンフィールドを改造して45口径が撃てるようになってる」
「……」
マリアにバレンチーノフと呼ばれた男は、エンフィールドのバレルの根元を折った。
シリンダーが出ると、45口径ロングコルトが6発飛び出て宙に舞った。
用心棒の男はマリアの後ろにぴたりとついている。
男をちらりと見てから、マリアは改めてロシア時代からの仇敵を見つめた。
バレンチーノフ・ウラジミール・アレクサンドロビッチ。
思い起こせば、ロシア革命に参加していた当時、この男が裏切って情報を政府軍に売ったために、マリアたちの部隊は壊滅したのである。
部隊長であり、マリアの兄代わり、そして恋人でもあったユーリも戦死したのだ。
その裏切り者と、後に紐育で再会することとなったのだが、まさかマリアの逃亡先にいたとは思わなかった。
しかもマリアが所属していたレイノルズ家に、である。
ここでかえでの姉であるあやめがマリアと接触し、彼女と協力してレイノルズ家を崩壊させた上で米国を脱出したのだった。
その際、バレンチーノフとも決別し、戦いとなったが、マリアの銃弾が右腕を撃ち抜き、彼の戦闘力を奪っている。
気にはなっていたが、そのままマリアは日本へやってきたのだ。
また紐育へ来るとは思いもしなかったから、どうでもいいと思っていたのである。
生に対して執着が強く、何よりも自分を大事にする男だったから、どうせ社会の片隅でしぶとく生き残っているのだろうと思ってはいたが、
どうもまたギャングの手先になっていたらしい。
バレンチーノフは、いかにも感慨深げに呟いた。
「いやしかし、見違えたよ、マリア。よく育ったもんだな」
「……」
「ロシアにいた頃を思い出すよ。君が革命グループに参加してきた時、まだ9歳だったな。それから頭角を現して、いつの間にか部隊一の射撃の名手に育っていた」
「……」
「アメリカで再会した時は14歳……いや15になっていたのかな? かなり驚いたがね。そこでも銃の腕前でのし上がって、いつしか立派な
殺し屋になっていた」
「……」
「なのに、世話になっていたボスを裏切り、組織を潰して日本へ逃げやがった。それが17歳の時か」
「世話になっていた、ですって!?」
一瞬、マリアは激情に駆られた。
当時、どれだけ苦しい思いをし、死を求めるほどに虚ろだったのか、思い起こすだけで気が狂いそうな寂しさと苦悩が蘇る。
ボスのレイノルズのもとにいたことは確かだが、「世話になっていた」とはとても言えない状況だったのだ。
激発しかけたマリアだったが、後ろの拳銃を意識して何とか気を静めた。
マリアは、総白髪となり、すっかり初老の様相を呈していた男をじっと見つめた。
「……そういうあなたは、結局また犯罪の世界に足を突っ込んでいるわけね。あなたらしいわ」
それを聞くとバレンチーノフは笑った。
「確かにそうだが、俺はあの時とは違うんだよ、マリア」
「どう違うというの。どうせどこかのマフィアの傘下に収まって……」
そこまでマリアはハッとした。
確か案内のボディガードは、この男のことを「ボス」と呼んでいた。
ということは、小なりとはいえファミリーでも築いたのだろうか。
いや、小なりどころではない。
ラチェットの話によると、かなり大規模な興行主で、劇場だけでなく映画製作にまで手を伸ばしているという。
当然それは表の仕事であり、裏ではあくどいことをその何倍も手広くやっているに違いなかった。
マリアが口をつぐんだのを見て、事情を察したと思ったのか、白髪の男は大きく頷いた。
「その通り。あの頃は俺も君と同じくレイノルズ家の一員に過ぎなかったが、今は違う。ファミリーを抱えたロシアン・マフィアというわけだ」
やはりそうか。
レイノルズの部下だった頃から小狡く立ち回り、その地位を築いた男だったが、それだけでは満足できなかったのだろう。
事件がなくとも、いつかボスを失脚させて自分がボスに収まろうとしていたに違いない。
その意味で、マリアたちがレイノルズ家を壊滅されたのは、彼にとって僥倖だったのかも知れなかった。
どんな手段を使ったのかはわからないが、マリアが米国を離れてから組織を作ったらしかった。
では、マリアをわざわざ呼び寄せた理由は何だ。
復讐のつもりなのだろうか。
マリアがそう言うと、バレンチーノフはいかにも楽しそうに笑い、頷いた。
「そんなところだ。いや、風の噂で君が日本にいるらしいことを聞いていたが、まさかあそこで見るとは思わなかったよ」
「じゃあ、あなたがダグラス・スチュワートのブレントと一緒に来ていた芸能関係者ってわけ?」
「ま、そうだ。もっとも俺だけじゃなかったがね。俺はラチェットを見に行ったついでに、日本で良さそうな女優でもいないかと探しに行った
わけだ。どうせ極東の田舎だ、大して期待もしてなかったが、まさか君がいたとはなあ。あのヒットマン・マリアがミュージカルのトップスター
だったとは、ジーザスだって思わなかったろうよ」
くっくっと喉で嗤う男に、マリアがぴしゃりと言ってのけた。
「あの頃のことは言わないで。もう私には過ぎ去ったことよ」
「俺もそうさ……、と言いたいところだが、そうもいかん。この腕が疼くんだよ、君を思い出すたびにな」
「……」
かの男の右腕は義手である。
マリアを裏切った際に撃ち合いとなり、彼女の銃弾がバレンチーノフの腕を貫いたのだ。
弾丸は肘を貫通し、骨を粉砕し、関節を破壊していた。
結果、前腕部が不具となり、そこから切断したのである。
なぜか生身の腕に見せかけるようなことはせず、敢えて金属剥き出しの状態になっていた。
まるで義手であることを強調しているかのようだ。
「それだけじゃない。ほら、今、君の後ろでコルトを構えてるジョン。彼も、かつての我々の同僚だよ。レイノルズ一家の生き残りさ」
「それで……?」
マリアは落ち着き払った声で言った。
後ろで銃を突きつけられているが、そんなものは怖くもない。
降魔と向かい合った時のことを思えば、いかに銃を持っていようとも人間相手などどうということもない。
「私をどうするつもり? 殺そうとでもいうわけかしら?」
「そんなバカな」
また男が笑った。
その笑い声が、いちいちマリアの神経を逆なでする。
「君らは日本政府を通じて招いた賓客だ。それに手を掛けたらどうなるかくらいは理解しているよ。俺たちは非合法組織なんだから余計にそうだろう」
「……」
「だがね」
バレンチーノフはデスクに両肘を突き、組んだ手の上に顎を乗せている。
その姿勢から、舐め上げるようにマリアを見上げた。
「もし君の方から「このままニューヨークに残りたい」というのであれば話は別だがね」
「何をバカな……!」
「そういういことになれば、君の意志を尊重し、そのことを日本にも伝える。彼女はアメリカで舞台女優、映画女優として生きる道を選んだ、とね」
マリアは蔑みの微笑を浮かべながら、かつての仇敵を見下ろした。
「本気で私がそうすると思っているの?」
「……と、俺は信じているがね」
「愚かな……。百歩譲って、他のまともな劇団ならともかく、誰があなたのところでなんか……」
そこでジョンが背中に銃口を突きつけてきた。
ボスに対する侮辱だと思ったのだろう。
マリアは、左肩胛骨の下に冷たい銃の感触を受けながら言葉を続けた。
「話はそれだけ? なら、私は帰るわ」
「……」
「心配しないでも、契約している以上、舞台にも映画にも出るわよ。でも、もうあなたの顔を見るつもりはないわ。あとは劇場や映画の関係者とだけ会えばいい」
マリアは振り向いて、ガバメントを突きつけているジョンに言った。
「……いつまでそんなものを向けているつもり? かえでさんのところまで連れて行って、もう帰るんだから」
「このまま帰れると思うのかね」
ロシア人の男が冷たい声で言った。
「君にはここへずっと残ってもらう」
「……何度も言わせないで。私がいるのは一ヶ月だけよ。終われば日本へ帰るわ」
「いやでも君の口から「残る」と言わせて見せるさ」
「……従うとでも思って?」
「ああ、きっとね」
バレンチーノフが立ち上がった。
「帰りたくとも帰れなくなるさ。なぜかって? 君が言うことを聞かなければ、俺は君の正体をジャップの連中にばらすからさ」
「……」
またか、とマリアは思った。
黒之巣会事件の時、刹那に脅迫されたネタも同じだったのだ。
紐育時代のマリア、あるいは来日した当時のマリアであれば、そんな脅しにまるで効果はなかっただろう。
彼女は「組織」というのものに失望していた。
ロシア時代も紐育時代も、所属した組織は呆気なく崩壊している。
脆いものだと思っていた。
一時的な方便で所属するだけだと思っていたのだ。
日本へ来て、それが激変した。
あやめの勧めで帝撃に入った時も、どことなく醒めていた。
カンナという親友も出来たし、花組に対してそれなりの愛着もあったが、それだけのことである。
もし何か不都合なことがあれば、辞めてしまっても構わないという気持ちがあったのだ。
しかし、隊長として大神が赴任し、新たなメンバーも増え、彼らと暮らし、戦っているうちに別の感情が生まれてきた。
彼らは組織のメンバーではなく「仲間」なのだという思いである。
時に対立し、喧嘩もするが、いざとなれ仲間のために命を賭けることも厭わない。
過去にはない温かさや絆を感じたのだ。
紐育にいた頃であれば、そんな感情は「ぬるい」と斬り捨てていたことだろう。
そうではないとわかったのは、つい2年前のことだったのだ。
だからこそ刹那の脅迫が効いたのだ。
自分の薄汚い過去を知ったら仲間はどう思うだろうか。
せっかく見つけた終の棲家に居づらくなる。
秘密の暴露を仄めかしてきた刹那の罠にあっさりかかったのはそのせいだ。
そうでなければ、マリアが帝撃を去ればいいだけのことだ。
組織や仲間に執着など持っていないと思っていたマリアは、それが出来なかったことにショックを受けたのだ。
いつの間に、こんな弱くなってしまったのか、と。
そうでないことをカンナや大神に諭され、立ち直ったのである。
だが、刹那が脅してきた内容はロシア時代のことである。
それだけならどうということはなかった。
確かに、ロウティーンなのに銃を持ち、幾多の敵を殺してきたなどという過去はあまり知られたくはないだろう。
しかし内戦であり、戦争だったのだ。
殺さなければ殺されるのだ。
でも、手が血に汚れているのは事実で、そんなこととは無縁の仲間たちに知られたくはなかった。
その懸念も刹那に拉致された事件の際になくなった。
事件後、自ら告白したのである。
それでも仲間の扱いはまったく変化なかった。
カンナの言う通りだった。
マリアは以前よりもさらに強く仲間意識を感じるようになったのである。
だから、バレンチーノフがマリアの過去のことで脅しても、何も怖くはないのだ。
ただ、それはロシア時代に限ってのことである。
ロシアから逃げ出し、紐育に来てからのマリアについて知っているのはあやめだけであろう。
カンナにはそれとなく話したし、あやめの妹であるかえでもある程度は知っているだろうが、それでも裏社会で、殺人を始めとする非合法なことに
手を染めていたことは知らないだろう。
言えることではないのだ。
「君の「本当の姿」を知ったなら、君の仲間やどんな反応を示すだろうね。とてもじゃないが、帝撃にいられなくなるんじゃないかね」
「……」
「まだ10代で、腕利きの殺し屋だったマリア・タチバナ。ヒットマンとして殺しを請け負い、報酬を受け取っていた女。バラされたくはなかろう」
「言えばいいでしょう」
マリアの表情は崩れなかった。
「あなたがそれを暴露して、帝撃が……花組のみんながどう反応するか、それはわからないわ。もしかしたら、それでも受け入れてくれるかも知れない。でも、私に対する認識は微妙に変わるでしょうし、私だっていづらくなる」
「その通りさ。だから……」
「そうなら、私が辞めればいいだけのことよ」
長身の美女はきっぱりとそう言い切った。
刹那の時は、初めて仲間の暖かさを知り、いつまでも花組にいたいと思うようになった。
しかし、より花組やその仲間たちに愛着と慈しみを感じるようになっている今では、それ以上になっていた。
仲間になっていたいから秘密を守りたいというよりも、花組のためなら自分が犠牲になってもいい、とまで思うようになっていたのだ。
だから、今回の件で花組に迷惑がかかるようであれば、自分が身を引けばいいだけのことだ。
寂しくはなるが、致し方あるまい。
しかし、その返答は予想していたのか、バレンチーノフは落ち着いて言い返した。
「それだけでは済まないと思うよ、マリア。俺は君の薄汚れた過去を帝撃にだけ漏らすつもりはない」
「何ですって?」
「ジャップの芸能関係者や新聞記者どもに話してやるのさ。名高き帝国華撃団のスタアだったマリア・タチバナは、アメリカにいた頃に犯罪組織に
飼われていて、人殺しまでやった極悪人だ、とな」
「……!」
「それだけじゃない。ボスの「女」であり、娼婦でもあった。それを利用した殺しだって何度も……」
「やめて!!」
マリアは初めて感情を露わにして叫んだ。
身を屈め、耳を押さえ、小さく震えている。
とても、あのマリアとは思えない格好だった。
マリアは、紐育に流れてきた時、最初に行ったのが、人伝に聞いたロシア人街だった。
言葉の問題もあるし、ここなら目立つまいと思ったのである。
しかし、まだ14歳の少女に自活能力などあるはずもない。
身体でも売ればよかったのだろうが、それこそまだ14の処女には、そこまで思い切ることは出来なかった。
コネもなく、知り合いもないこの街で生きるために、偶然というか必然的に犯罪と関わっていくこととなった。
敵対する組織とのトラブルで銃の腕前を発揮したマリアは、その上部組織の幹部に見初められることになる。
それを機にマリアはロシア人街から出て、そのボスのもとで働くこととなったのだ。
そのボス──アイルランド系のマフィアだったレイノルズは、最初マリアの腕を信用せず、胡散臭そうに見ていたが、試しに与えた仕事をすべて
こなしてくるのを見て、信頼するようになっていく。
そしてその類い希な美貌にぞっこんとなり、情婦となるよう働きかけたが、それはマリアが拒否した。
「女」という武器で卑屈に生きたいとは思わなかったし、自暴自棄にもなっていた。
死ぬつもりだったのだ。
殺し屋であれば自分が死ぬ確率も高い。
仕事が失敗して殺されるなら本望だと思っていた。
だが、身体を穢されることには抵抗があった。
最愛の男──ユーリに捧げるつもりだったこの身体は、彼がいなくなった今、綺麗なまま死にたいとすら思っていたのだった。
マリアのクール・ビューティな美貌は、ボス以外の男たちも惹きつけるに充分だったが、レイノルズが「自分の女」にするらしいと知ると、彼らは
歯がみして手を引いた。
マリアはそんな気はなかったが、そのせいで他の男からのうっとうしい誘いや暴力から免れられるならそれもいいと思っていた。
その頃にはマリアの腕前は組織内で一目置かれていたし、他の組織からも注目されるようになっていたから、ボスが無理強いしてくれば「ここを抜ける」
と言えばいいと思っていたのだ。
もともとマリアはレイノルズ家に所属しているというよりはフリーランスの殺し屋であり、依頼がいちばん多かったのがレイノルズからだった、
というだけである。
レイノルズには内緒だったが、裏では他からの仕事も受けていたのだ。
レイノルズもそのことは知っていたが、彼女の殺しの腕を失うことを恐れ、黙認していたのである。
忌まわしい記憶がフラッシュバックのように蘇ってきた。
堅く目をつむった瞼の裏に、自分自身の真っ白い身体が蠢いている。
犯されているマリアだった。
床の上の絨毯に押しつけられたマリアの若い裸身に、数人の男が取り付いている。
白人もいれば黒人もいた。
男どもは、処女だったマリアの身体を貪るように穢していった。
左右からそれぞれひとつずつ乳房を担当し、舐め、揉みしだく。
しっかりと押さえつけられた太腿も、男たちの舌で唾液に汚されていった。
白く弾力のある若い肌を擦り、肉を揉まれる。
腕も脚も押さえつけられ、どうもがいても動けなかった。
「女」担当である男たちが、泣き叫ぶマリアの身体から、じっくりと官能の巣を探り当てていく。
マリアは、腋を、ヘソを、喉を舐められ、その気色悪さに悲鳴を上げた。
それでも、時間を掛けて性感をほじくり出され、発見されてていくうちに、マリアの口からは泣き声ではなく、苦しげに喘ぐ声ばかりが出てくるようになっていく。
勝手に勃起する乳首を舌でねぶられ、舌全体で腿を丹念に舐められ、軽く歯を当てられると、マリアの腰が思わず持ち上がる。
男たちは、少女の股間を気にしながら、乳房や脚、腋、首筋、腹を丹念に責めていった。
それでいて、肝心な媚肉には決して手を出さない。
マリアのそこが濡れてくるのを待っているのだった。
「男に犯される」という初めての事態に、マリアはいつもの気丈さが消え失せ、無力な少女のようにおののき、泣き叫んだ。
その泣き顔が悲哀や屈辱のそれから、思いもかけない性の疼きにすすり泣くそれに変わっている。
それを感じとるとマリアは動揺した。
こんな穢らわしいことをされて感応するわけがない。
なのに今、自分の肉体が崩れかかっていることをマリアは自覚していた。
もう30分以上も、その道のプロが何人もかかって舐め回し、愛撫しているのだ。
マリアの膣は、男たちの希望通りになっている。
腰の奥からちろちろと燃え始めていた官能の火が、全身に燃え広がっていた。
頃合いと見たのか、男のひとりが、マリアの片足を持ち上げ、開脚された股間に粘っこい視線を走らせている。
「いや!」
そう叫ぶマリアの性器に、使い込まれた男根がねじ込まれていった。
想像を絶する激痛が全身を貫き、マリアは背中を反り返らせる。
肉体的な苦痛とともに、こんな男たちに処女を奪われてしまったという精神的なダメージも大きかった。
しかし、そんな苦痛や屈辱も、彼らの技巧が蕩けさせていく。
最後には、男たちに自ら身を捧げ、狂ったようにのたうち回ることになった。
まだ10代の美しい処女が相手とあって、彼らも熱狂的なまでにその身体を堪能した。
交互に犯し、前後から貫いた。
マリアは初めての性交だというのに、膣はもちろん口も、そして肛門で男を相手にすることまで仕込まれた。
少女の口には太すぎる黒いペニスをくわえさせられ、その味を覚えさせられたのだ。
男たちの猛り狂った男根を突きつけられ、丸い尻たぶに射精され、乳房や腹を精液で汚され、整った顔にも精液は遠慮なく浴びせられた。
すらりとしたスリムな長身だったが、出るところは出ていた。
まだ10代でこれでは、熟れたらどれだけの肉体になるのか、想像するだけで勃起するような身体だった。
最後には全員のペニスを同時に相手をさせられ、口と膣、アヌスの他に、両手にも男根を握らされ、男たちを愉しませた。
マリアはこの時に最初の絶頂まで極めさせられていた。
口の中やアヌスの奥、そして膣奥に射精される感覚も覚えてしまった。
その様子を、デスクに座ったボスがじっと冷たい目で見つめていた。
レイノルズは名うての女好きではあるが、処女よりはある程度使い込まれた女を好むという変わり種だった。
また、自分の女が他の男に辱められるのを見て悦ぶという変態でもあった。
だからこそ、お気に入りのマリアでさえ、まず部下に犯させ、練れてから自分のものにしたのである。
マリアは頭を振りたくって、その忌まわしい記憶を追いやろうとする。
すると、レイプされた記憶の代わりに、今度は殺人者としての記憶が蘇ってくる。
輪姦劇から数日は使い物にならなかったものの、マリアはすぐに立ち直っていた。
犯されてしまうと、あれほど純潔を守ることにこだわっていたのがバカバカしくされ思えてきた。
それ以降、マリアは一層に冷酷になり──特に男に対して──躊躇なく殺しが出来るようになっていた。
同時に貞操観念も失せ、殺しの仕事がない時などは、レイノルズから斡旋された売春まで行なうようになっていた。
レイノルズは、そうしょっちゅうというわけではないが、高額な料金を支払う相手にマリアをあてがった。
高級コールガールとして使ったのである。
また、大事な客に、懐柔用としてマリアを与えることもあった。
そして、当然のようにレイノルズにも身を任せることとなり、名実ともに彼の女として組織にも認知されるようになっていった。
何より重宝したのは、マリアをコールガールとして敵に送り込み、ベッドで油断したところで暗殺する手法が殊の外成功していたからだ。
男には油断しない相手でも、女にはガードが緩むことも多い。
レイノルズ自身もそうなのだが、マフィアだのギャングだのは、とにかく格好を付けたがるのが多く、特に女に対してはそうだった。
だからこそ、この手が有効だったのだ。
レイプの記憶を振り払うと、今度はさらに陰鬱でやりきれない別の記憶が脳裏をよぎる。
マリアが目を開けると、隣で太った白人が背中を見せていびきをかいていた。
そっとシーツを剥いで起き上がり、つけていたエクステを剥ぎ取り、軽く頭を振る。
全裸のままベッドから降り、落ち着いてクローゼットのハンガーに掛かったコートから銃を引き抜く。
再びベッドに歩み寄ると、大きな羽毛枕で銃口を抑えた。
そして、まだ眠りこけている男の頭に向かって、二度引き金を引いた。
発砲音は枕に吸い取られ、くぐもったような音が二回響き、そのたびに男の身体が軽くベッドで弾んだ。
頭部を破壊され、どろどろの血液が流れている男の胸に、もう一発とどめを撃ち込んだ。
今度はびくりとも動かなかった。
完全に死んでいる。
マリアは冷たい表情のまま、頬についた返り血を無造作に指で拭き取ると、身支度をして部屋から出て行った。
あのマリアが脅えおののく姿を見て、バレンチーノフは心底満足そうな笑顔となった。
会心の笑みというやつだろう。
彼にとっては、まさに溜飲が下がる思いなのだ。
もとはといえばバレンチーノフのロシアおよび紐育での裏切りが発端なのだが、そんなことは棚に上げている。
何もかも、目の前にいるこの生意気な女のせいなのだ。
右腕が不具になったこともそうなら、ようやく幹部にまでなったギャング一味を壊滅させられたのもそうだ。
いずれレイノルズを出し抜き、始末して自分がボスに収まるつもりだったのに、それを台無しにしてくれたのだ。
加えて、バレンチーノフがマリアに対して淫らで邪な思いを抱えていたことも影響してい
る。マリアは、まだ10歳にも満たぬ頃から、少女を飛び越して「女」を意識させるような美しさがあった。
年齢を重ねるにつれその傾向はさらに強まり、バレンチーノフの劣情を刺激して止まなかったが、彼女と部隊長ユーリの仲は隊内で知らぬ者は
なかったし、迂闊に手出しはできなかった。
ロシアでのこの男の裏切りは、マリアに対する複雑な思いも多分に影響している。
ユーリを殺し、その上でマリアを助ければ彼女の心もこちらに向くのではないか、という浅はかな希望だった。
当然マリアはバレンチーノフなど眼中になく、自分のミス(だとマリア自身は思っていた)でユーリを死なせてしまったというショックと自責の念で行方知れずとなってしまった。
まさか紐育で再会するとは思わなかった。
ボスのレイノルズを始末して権力を握ってから、ゆっくりとマリアを料理するつもりだったのだが、すべてが灰燼に帰したのだった。
マリアは気丈にもバレンチーノフを睨みつけていた。
ここまで追い詰められてなお、こうした態度が取れるところがマリアの気の強さを象徴している。
「どうする気なの」
「……どうする、とは?」
「何か目的があるんでしょう。わざわざ私を日本から呼び出して、脅迫して……」
「……」
マリアはわざとふて腐れたように言った。
「……また私に殺し屋家業でもさせようというのかしら?」
「それも悪くはないがね。君がここでやっていた、もうひとつの仕事をしてもらう」
「……!」
思わずマリアは自分の身体を抱きしめるようにして後じさった。
「まさか、あなた……」
「そう。俺の目的は君への復讐だが、そのためにも君のその身体を……」
奪おうということらしい。
マリアはきっぱりと言い放った。
「お断りよ」
「……」
「いくら過去に穢された身体でも、あなたに抱かれるなんて真っ平よ。それなら死んだ方がマシだわ」
本当に虫酸が走った。
この男がロシア時代から、自分の肉体に並々ならぬ関心を持っていたことは知っていた。
あのいやらしい視線で見られれば、そんなことは処女でも理解出来るだろう。
バレンチーノフは少しも慌てず、落ち着き払って言い返した。
「君にそんなことが言えるのかね? 例え帝撃を辞めても、そこに所属していた女優が、実はアメリカで殺し屋をやっていて、おまけに売春婦でも
あったと判れば、劇場の評判はがた落ちになると思うがね」
「……」
この手のスキャンダルが致命的なのは、洋の東西を問わない。
人気女優に「男」がいた、というだけでも大きな影響があるくらいだ。
マリアの場合、それどころか犯罪者──人殺しであり、娼婦でもあった。
そんなことが表沙汰になれば、確かに歌劇団としての帝撃は大打撃だろう。
マリアを退団させて済むような問題ではない。
人の噂も七十五日、マリアが消えればそのうち盛り返すだろうが、それまでの被害が大きすぎる。当然、華撃団としても致命的だ。
半軍事組織でもある花組の構成員が「反社会的」人物だったとなれば、帝撃の活躍を疎ましく思っている一部軍関係者は、ここぞとばかりに糾弾し、
帝撃潰しに走るに違いなかった。
そこで突然、ノックの音がした。
マリアは心臓が止まったかと思うほどに驚いた。
バレンチーノフにとっても予想外だったらしく、不機嫌そうな声で叫んだ。
「誰だ! まだ俺は……」
全部言い終わる前にドアが開け放たれた。
かえでだった。
その後ろには数人の男たちが慌てたように止めようとしている。
その中にひとりが言った。
「ボス! すいません、この女、勝手に……」
「放しなさい!」
かえでは鋭くそう叫んで、腕を掴んだ男を一喝した。
その迫力に押され、男はビクッと手を離した。
かえではすっと室内に入り込んできた。
バレンチーノフは顎をしゃくって、部下たちを追い出す。
「……なんですかな、マネージャーさん」
「これはどういうことです? マリアは女優としてお貸ししますが、一ヶ月間完全にあなたたちに引き渡す、なんて聞いてませんよ」
「かえでさん……」
かえではマリアの隣に来て、バレンチーノフの顔を見据えた。
「マリアがここに来たのは、他にもやることがあるからです。すべてあなたたちが占有するなんていうのは……」
「……契約は、一ヶ月間こちらの舞台と映画に参加する、ということだったと思いますが」
「そうですが、だからと言ってホテルにも戻れないなどとは……」
「舞台はともかく、映画はロケにも行かねばならない。しかも期間は一ヶ月に限定されている。マリア嬢には申し訳ないが、スケジュールはかなり
過密になるんですよ」
確かに契約書はそうなっている。
しかし、まさか本当に貸し切りになるとは思わなかった。
だからこそ米田は、合間を見て紐育華撃団の面倒も見てやれ、と言ったのである。
これでは拘束どころか、ほとんど拉致に近い。
かえでは怒りをぐっと飲み込んで言った。
「では、私がマリアと一緒に行動しても構わないのですね?」
「かえでさん!」
驚くマリアを止めるようにかえでが言った。
「でなければマネージャーとして責務が果たせません」
「……我々の世話では不満だとおっしゃるのですかな?」
「そうは言いませんが、女優の管理は私の仕事です」
そこでバレンチーノフはようやく立ち上がった。
じっとかえでを見ている。
野暮ったい軍服だが、かえでが着用しているとスマートに見える。
タイトスカートのせいかも知れない。
そのスカートの裾から覗く脚が美しかった。
ルックスもいい。
少々気が強そうだが、美しい貌と言えるだろう。
バレンチーノフの好色な顔に、マリアを見ていた同じ色が宿ってくる。
マリアはハッとした。
この男、もしやかえでまで毒牙に掛けるつもりになったのではないのか。
それだけは是が非でも避けねばならない。
恩人であるあやめの妹であるかえでをそんな目に遭わせるわけにはいかなかった。
マリアは、場を繕うように言った。
「か、かえでさん、大丈夫ですよ」
「マリア?」
かえでは意外そうにマリアを見た。
当然、マリアもこんな条件なら拒否すると思っていたのだ。
「平気です。そういう契約みたいですし、仕方ありませんよ」
「でもマリア、それじゃあんまり……」
かえでの心配そうな顔を見ていると、ますますマリアはかえでを関わらせてはならないと誓った。
「本当に大丈夫です。一ヶ月……、一ヶ月の辛抱ですよ。そうなんでしょう、バレンチーノフ……さん」
「ああ……、そうだ」
「でも……」
「いやいや、仕事熱心なマネージャーさんだ。感服しましたよ、ええと……藤枝かえでさん、でしたか」
「……」
バレンチーノフはにやにやしながら言った。
「わかりました、あなたには負けましたよ」
「それでは……」
「いえ、舞台の練習も映画撮影もお見せは出来ません」
かえでは冷徹な視線で、じっと興行主を見つめた。
「……では、演目を教えていただけますか?」
「……なぜそのようなことを?」
「いいえ。マリアを呼んだのは……芝居に出させるためではなくて、何か「他の目的」でもあるんじゃないかと、そんな気がしたもので」
その言葉を聞いてマリアはハッとしてかえでを見た。
バレンチーノフも「ほう」と感心したような表情になっている。
なかなか洞察力が鋭い女だと思ったらしい。
しかし男はすぐに表情を取り繕い、笑みを浮かべてみせる。
「何をお疑いかわかりませんが、そんなことはありません。マリア嬢には、舞台に上がってもらいますし、キネマにも出ていただく」
「ですから、演じるのは何です?」
「芝居の方は……、完全新作でしてね。内容はお教え出来ない。台本はなく、あらすじのようなものしかない」
「台本がない?」
「そう。だからセリフはほとんどマリア嬢のアドリブでやっていただくことになる。逆に言えば、本を覚える必要はありません。貸し出しが短期間
なので好都合だと思いますが」
そういう芝居があるということは知っていたが、当然、花組ではやっていないし、演じる女優への難易度もかなり高いだろう。
マリアならいずれこなせるだろうが、まだ一度もやったことはないのだ。
そんな無茶はさせたくないと思うのだが、向こうの言い分としては「一ヶ月しかマリアを提供しようとしないおまえらにも責任がある」ということらしい。
しかしそれを言うなら、その短い期間に舞台と映画の両方に出させてこき使おうという方がよほど問題ではないか。
そんな思いを飲み込んで、かえでがさらに尋ねる。
「……映画は?」
「ギルガメッシュ叙事詩。ご存じですかな?」
「……」
黙り込んだかえでを見て、バレンチーノフはいかにも「日本人がそんな古典を知るはずもない」と蔑んだ表情を見せた。
「今までのキネマは、ショートストーリーが多かった。フィルムが高価ですから長時間の作品は難しいのですな。いいところ4巻で50分てところだ。
だが今回は破格ですよ、10巻くらい使って二時間以上の作品を目指している」
「……」
「マリア嬢には、ヒロインを演じてもらう。ギルガメッシュをベースにアレンジした新作で、原作に出てくるシャムハトと女神イシュタルを一緒に
したキャラクターですよ」
そちら方面にはほとんど知識のないかえでにはさっぱりわからなかったが、それでも主演格であることだけはわかった。
マリアの方はギルガメッシュについての基本的な知識はあったが、イシュタルはともかくシャムハトという登場人物については知らなかった。
「まあ、そう言った刺激的で斬新な内容にするつもりですから、情報漏洩は困る」
スパイなどしないと反論しようとするかえでを止めるように、男は続けた。
「もちろん、あなたが漏らすとは思ってませんが、念のためです」
「……」
「その代わり、何度かマリアとお会いできる時間は作りましょう。それで納得していただきたい」
「……」
「その時になったらご連絡しますから、来て戴ければお会いできるようにしておきます」
「しかし……」
「そうしましょう、かえでさん」
マリアが結論づけるように言った。
バレンチーノフが何を考えているのか判らないが、とにかくかえでに手を出させてはならなかった。
「マリアもこう言っていることですし、よろしいですね?」
「……わかりました」
その返事を聞くと、バレンチーノフが表の男を呼び入れた。
「マネージャーさんがお帰りだ、丁重にお送りしろ。それではまた。……藤枝かえでさん。くく……」
「……」
嘲笑されたような気がして一気に不快度が増したかえでだったが、マリアが追い返すようにその背を押したので、素直に従った。
かえではちらりとボスを見ながら、そっとマリアの耳元に囁く。
「武器は持ってきてるわね?」
「え……、はい」
持ってきたが、取り上げられている。
「油断しないで。この人たち、少し……」
「行きますよ、マネージャーさん」
男たちに取り囲まれ、やむを得ずかえではマリアから引き離され、外に連れて行かれた。
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