フランス。
首都パリは政治、経済の中心であり、同時に文化発祥の地でもある。
「芸術の都」と称される由縁だ。
観光客や移民も多く、まさに人種の坩堝だ。

だが、いかに首都とはいえ「闇」は存在する。パリの華やかなイメージとはかけ離れたスラム街や貧民窟もあり、他とは一線を画している。
そんな街のひとつであるラ・シャペルの片隅で、とある陰謀が練られている。
大通りから一本脇に入った狭い路地には、小さな店がぎっしりと並んでいた。
ひとりの男が東端にある雑居ビルの地下へ入っていく。
古いドアを軋ませながら入っていくと、薄暗い中には既に先客がいた。
ふたり並んで粗末な椅子に座っており、ともにひょろりと背が高い。
長身なので痩せて見えるだけで決して痩せているわけではなく、かなり筋肉質の身体だ。
特に右側の男はがっちりしたイメージがある。

「……待たせたな」
「遅かったじゃないか、旦那」

それには答えず、男は室内に舞う埃を不平そうに眺めている。
座ろうとしたがすぐに動きが止まる。
不機嫌そうにハンカチを取り出すと、椅子の上の埃を払ってから腰を下ろした。
男はテーブルに肘を突いて手を組み、その上に顎を乗せた。

「……で? どうなっている?」
「へえ。今こいつを説得していたところで……」
「まだ納得しとらんのか。おまえ、何が不満だ? もっとカネを上積みして欲しいのか」
「……」

長身の男は黙って答えない。
業を煮やしたように対面の男が言った。

「そいつから聞いたろうが、うまくやればきちんと報酬は出す。おまえらにとっては数年分の給料になるはずだ」
「……」
「頑固だな。そんなにご主人様が大事か? それほどまでに忠誠を誓ってるのか?」

男は「どっちにしろ奴隷に過ぎないだろうに」と言いかけ、その言葉を飲み込む。
すると、隣の男が告げ口するように言った。

「ご主人様ってよりも「御館様」……ってか、お嬢様だよな」
「御館様だと?」

男はじろりと前の男を睨む。

「まさかおまえ……、その女に惚れているとでも言うのか?」
「……!」

長身の男は、いかにも図星だと言うような顔をして、すぐに俯いた。
対面の男は呆れたようにつぶやく。

「何を考えておるんだ」
「まったくだ。おまえ、身分違いもいいとこだぞ」

隣の男もそう言ったが、長身の男は黙したままである。
最初は呆れていた隣の男も、その顔を見て真顔になる。

「……おいおい、本当かよ。嫁にでもしたいと思ってんじゃないだろうな!」
「バ、バカ野郎! 俺は……」

初めて長身の男は反応したものの、すぐに押し黙る。
その様子を見ながら、対面の男は葉巻を取り出した。
先端をカットするとすぐに火を付けて、大きく吸い込んだ。

「……そうか。そういうことなのか」
「いや、俺はそんな……大それたことは……」

男は盛大に煙を噴きながら、わざと大仰に言った。

「確かに「大それた」ことだな。おまえたちの身分で、そのようなことが出来るはずもない。一昔前なら、そんな考えを持っただけでも投獄されるところだぞ」
「まったくだ。それによ、旦那の計画だとおまえひとりで独占は出来なくなるんだぜ。嫁にしたいなんて思ってたら、とてもじゃないが出来っこねえ」
「……」
「いや……、そうでもないぞ」

男はもったいぶるようにそう言った。
隣の男は不審そうに尋ねる。

「旦那……、それはどういうこって?」
「確かに今すぐにそうしたい、というのは無理だ。だが、ある程度期間をおけば可能かも知れんぞ」
「ほ、本当ですか……!」

長身の男は、思わず立ち上がって対面の男を見た。
真意を尋ねるように顔を寄せてくる。
男は、表情を歪めながら顔の前で手を軽く振り、椅子に座るよう指示した。
内心、驚いていた。
まさか本当にそんなことを考えていたとは思わなかったからだ。
とんでもない幻想だし、自分たちに対する侮辱でもある。
しかし男は、そんな思いはおくびにも出さず、宥めるように言った。

「まあ落ち着け。さっきも言ったが「すぐに」というのは無理だ」
「で、では……どれくらい?」
「そうだな……、まあ4〜5年というところか。客が飽きれば2〜3年ということもあり得るぞ」
「3年……」
「ああ、そうだ。だがな、もしその「お嬢さん」をおまえのものとしたとして、それからどうする気なのだ」
「ど、どうするって……」
「まさか、このままパリで……フランスで暮らせると思うのか?」
「それは……」

そこまでは考えていなかったようである。
「お嬢さん」に対する思いが強過ぎて、そこまで頭が回っていないらしい。
男は葉巻を咥え、髭を指で擦りながら言った。

「……どうだ。もしおまえが協力してくれるというなら、私はその面倒も見ようじゃないか」
「面倒……というと?」
「今回の件では、ちゃんと報酬は出す。だが、それ以降はどうするのだ。よもや、またお屋敷に戻れるとは思っていまい」
「……」
「おまえにその気があるのなら、こいつと一緒に私の館で連中の面倒を見る仕事をさせてやってもいい。もちろん給料は出すぞ」
「それはいい!」

隣の男は手を叩いて賛同した。

「そうしろよ、な? そうすりゃおまえ、今後の生活だって心配はねえぞ」
「……」

今一歩で押し切れると思った対面の男は、重々しい口調で言った。

「その通りだ。私の仕事を手伝ってくれればいい。3年もすれば、あの女を下賜してもいいのだぞ」
「……」

長身の男はゴクリと喉を鳴らした。

「その後の生活は、おまえの好きにすればいい。どうせなら、あの女をおまえの国へでも連れ帰ったらどうだ?」
「え……?」
「船の手配くらいならしてやる。私の船は、おまえの国へも頻繁に荷を運んでおる。さすがにおまえたちを客として乗せるのは難しいが、なに問題ない。密航させてやる。船長には話しておくから、船倉にでも潜んでおればいい」

この話で、長身の男は急速に気持ちが固まっていった。
国まで逃げてしまえば追っ手も掛からないだろう。
お嬢さんも最初は戸惑うだろうが、本国へ帰れないと解れば、きっと自分に靡いてくれる。
そうするしか生きていく術がないからだ。
葉巻を押し消す男を見ながら、長身の男はゆっくりと頷いた。

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金髪の美少女がひとり、サン・ルイ島にあるカフェにいた。
パリ発祥の地とされるサン・ルイ島は、大河セーヌの中州にある小さな島であり、ハイソサエティたちが邸宅を構える住宅地として著名である。
これは今だけでなく、古くから多くの貴族たちが住まう高級住宅街であり、伝統的な街並みを誇っていた。

その畔のオープンカフェは今日も賑わっている。
天候の悪い欧州では、晴れている日は誰もが当たり前のように日光浴を楽しむ。
男女の別なく、恥ずかし気もなく肌を露わとして陽の光を全身に浴びるのだ。
故に、広いテラスのあるオープンカフェやレストランは人気で、季候の良い時期、晴天の日は大勢の客がのんびりとした時間を過ごしていた。

その中で、ブロンドの少女──グリシーヌ・ブルーメールはカフェオレを飲んでいる。
美しい金髪は腰に届くほどの長さがあり、それを一本にまとめて右肩から前へ垂らしている。
髪の量はさほど多くないものの、ふわふわの柔らかい髪質のせいか、ボリュームはそれなりにある。
まだ17歳になったばかりの少女だが、その容姿はもうおとなのそれに変化しつつあった。
誰もが振り向くハッとするような美貌に加え、長い脚が印象的なスタイルの良さも抜群だった。
理知的な美人で、ややもするときつく感じるような目つきだが、笑ったり微笑んだりすると、途端に穏やかな表情になる。
そのギャップも男性たちを惹きつけ、虜にしていた。

しかし当の本人であるグリシーヌは、そんなことは歯牙にも掛けてこなかったのだが、最近は若干の変化が見られる。
その原因がやってきたようだ。
グリシーヌはそちらを見ると、小さく手を振って見せた。
彼を見る笑みが柔らかい。
彼──大神一郎も、グリシーヌを見つけると微笑んで、早足で近づいてきた。

「やあ、待たせたね」
「そうでもない。私もさっき来たばかりだ」

そう挨拶を交わしてから、ふたりは顔を寄せ、軽く口づけを交わした。
以前のふたりでは考えられなかったことである。
日本人の男である大神はもちろん、グリシーヌも人前でそんなことをするタイプではない。
もっとも、大神と知り合う以前はそんなことをしたいと思う男もいなかったので、これは当然だろう。
互いに「大切な人」と認め合い、恋人と認識して初めて、そういう関係になったのだった。

周囲の環境もある。
当時の日本ではとても考えられないが、ここフランスでは普通に男女が抱擁し合い、唇を合わせていた。
このカフェの客たちもカップルが多く、ごく当たり前のようにキスしている。
典型的日本人である大神などは、当初大いに戸惑ったものだが、今ではもう馴れてしまっている。
当てられた、というわけでもないだろうが、大神とグリシーヌもいつしか自然にキスをするようになっていた。
もう挨拶とほとんど同じ感覚である。

とはいえ、大神の方は「日本に帰ったら気をつけないとな」と思っている。
相手が恋人とはいえ、公衆の面前でキスなどしたら、たちまち日本では「破廉恥である」と評判になってしまうだろう。
私人ならともかく、大神は海軍士官であり、帝撃花組隊長でもあるのだ。
余計なスキャンダルは避けねばならない。

大神がテーブルにつくと、すかさず若いウェイターがやってきて注文を取った。
大神が何か言う前にグリシーヌが彼の分のコーヒーを注文すると、軽く手を払って給仕の男を追っ払う。
普段はそういうことをする娘ではないのだが、彼が大神を見下したような態度を取ったため、静かに腹を立てたのである。
グリシーヌは、失敬なウェイターに代わって大神に謝った。

「……すまんな。ああいう人種差別主義は、未だに我が国から抜けぬ。私は祖国フランスを誇りに思っているが、あの手の輩を見ると恥ずかしくなってくる」
「いや、かまわないよ。それにきみが謝ることじゃない」

大神がそう言って笑うと、つられるように少女も微笑んだ。

「とはいえ、以前は私も似たようなものだったがな。頭ではいけないことだと解っているのだが、何しろそういうことが普通の環境で育ったものでな。そう言った差別偏見が身に染みついているかも知れぬ」
「いや、きみは……」
「これはこれは」

突如、ふたりに割って入ってきた者がいた。
グリシーヌはその男の顔を見るなり、露骨にイヤな表情をしてみせた。
大神の方は顔を強張らせている。

ふたりのテーブルの前には、見るからに貴族といった出で立ちの若い男が立っていた。
身長は大神とそう変わらないようだ。
特徴的なのは髪型で、栗色の髪をマッシュルーム・カットにしている。
細い口髭を生やし、それを指先で撫で擦るのがクセだ。
グリシーヌは、その仕草が気障に思えて大嫌いだった。
貴族の若い娘は、さも不愉快そうにその男の名を口にした。

「……プショー伯か」
「その呼び名は他人行儀ですな。どうぞフランソワとお呼び下さい、グリシーヌ嬢」
「私はそなたにそう呼ばれるのは愉快でないな。ブルーメール公と呼んで貰おうか」
「これは手厳しいですな。しかし、まだ公はご存命だ。あなたが正式に爵位を継いだわけでは……」
「そんなことを言いに来たのではあるまい。用件は?」

用事があるならさっさと済ませてくれと言わんばかりの態度に、若い貴族は苦笑した。

「用事がなければ挨拶もしてはならぬと仰せか? ……そんな男とは一緒にお茶を飲んでいるというのに」
「……」

フランソワは、さも穢らわしそうに大神を見て言った。

「このような東洋人……日本人のどこが良いのです? 身分の低い、ただの平民だ。我々とは格が違う」
「……」
「あなたは高貴ある名門貴族の一人娘だ。その令嬢が、こんな野蛮人と一緒に居るなど、あなたのお父上が知ったらさぞお嘆きに……」
「無礼者!!」

気取った物言いが終わるや否や、目にも止まらぬ速さでグリシーヌの手が発言主を叩いた。
乾いた音が響き、カフェの客たちも「何事か」とばかりにこっちを見ている。
いきなり頬を張られたフランソワもさすがに驚いたようで、びっくりしたように目の前の美少女を見ている。

「プショー伯、無礼にも程があろう。一郎を……この男を侮辱するのは私を侮辱するのと同じだ」
「それが解らぬ。なぜ日本人にそこまで……」
「日本人だから、フランス人だから、という問題ではない。そなたには一生理解出来ぬだろうが、これはその人間の質の問題だ」
「……」
「この男はそなたなどよりもずっと気高く、礼も心得ている。だからこそ、侮辱されても人前では耐えておるのだ」

最大限の侮辱を受けたと思ったフランソワは、怒りでひくひくと頬を引き攣らせながら言った。

「グリシーヌ嬢は……私よりも、その日本人の方が優れていると申すのか? あなたは私よりもその男の方が……」

グリシーヌはゆっくりと、しかし大きく頷いた。

「ああ、そうだ。プショー伯、そなたよりも一郎の方がずっと優れている。身分など関係ない。そして私は……一郎の方がずっと好きだ」
「……!」

一瞬、顔を真っ赤にしたフランソワは、握りしめた拳をわなわなさせながらも、その場は何とか収めた。
そして、最後にもう一度大神を睨みつけてから、テーブルを離れていく。
去って行く際、飲み物を乗せたトレイを持ったボーイにぶつかり、派手に零させてしまう。
しかし謝るでもなく、逆に激怒して「無礼者!」と叫んでから足蹴にし、靴音も荒々しく立ち去って行った。
その様子を見ていたグリシーヌがため息をついて言った。

「……たびたびすまんな。貴公は私が謝ることではないと言ってくれるが、あれはあれでも私と同じ貴族の一員だ」
「でも、きみがやったことじゃないよ。それより……」

大神は男の去った後を見ながら思い出している。

「あの人は確か……」
「やっぱり憶えているか。そうだ、あの時、私が叩き出した貴族のひとりだ」

今はそうでもないが、あの頃のグリシーヌは過剰なほどに貴族を意識し、その任を果たそうとしていたから、パリで催される貴族のパーティには父の名代として可能な限り参加していた。
その身分とともに、大貴族に恥じぬ高貴さ、美しい容姿で社交界でも一目置かれる存在だったのだ。
大神がパリを訪れた際、パーティに出席したのだが、その時絡んできた貴族のひとりがフランソワだったわけである。

グリシーヌは、誰よりも貴族の誇りを大切にし、そのプライドも高かったものの、反面、その地位や身分を鼻に掛けるようなところはなかった。
根が生真面目で正義感も強かったから、高位の者が下の者を見下したり理不尽な行為をするのを非情に嫌っていた。
もちろんそれは、虐げられる者への思いやりという面もあったろうが、むしろそのようなことをするのは貴族の沽券に関わるという意味合いの方が強かった。

だから、パーティで露骨に大神をバカにしたフランソワたちに怒り、他貴族の面前にも関わらず、無礼な連中をその場で追い出したのである。
グリシーヌもそのことを思い出したのか、美顔に憂いを浮かべて呟いた。

「……あれが私と同じ貴族かと思うと、自分が恥ずかしくなる。誇りも何もあったものではない」
「……」
「あの男はな、貴族とは言え新興らしい」
「まだ歴史が……」
「浅いのだろうな、よくは知らぬが」

グリシーヌはそう言って小さく嗤った。
彼女にしては珍しく、人を嘲るような色がある。

「無論、祖先がどうこうなどということはちっぽけなことだ。問題なのは今の自分だ。その点、やつの家系はここ20〜30年で急速に力を付けてきた。そういう意味では大したものだ。だが、そのやり口が気に食わん」
「というと?」
「爵位を取るため、家名を上げるために、あちこちへカネをばらまいたらしい。そのせいで発言力が高くなっている。本来、大貴族や門閥貴族たちのパーティは、あんな男は招かれざる客なのだが、カネにものをいわせているわけだ。伝統ある貴族たちも内心面白くないらしいがな。それにしても、いったいどこで大金を得ているものやら。プショー家は新興だから大した領地もないのだがな」

グリシーヌはそう呟くと、綺麗に整った眉を寄せる。

「そう思うとな、貴族とは何なのだろうと、つい考えてしまう」

大神が心配そうな顔で覗き込むと、グリシーヌは微笑んだ。
スッとカップを取り上げ、ゆっくりと薫り高い液体を啜る。

「ふふ、そんな顔をするな。別に落ち込んでいるわけではない。一郎、貴公は平民だな?」
「そうだね……、あんまり意識したことはないけど」
「日本には貴族はいないのか?」
「いいや、いるよ。花小路伯爵という人は、東京の帝国華撃団の後ろ盾になってくれている……」
「そうか。私はな、最近思うのだ。身分制度とは、階級とは何だろうとな。実のところ、貴族と平民に差などないのではないか?」
「……」
「貴族だなどと嘯いても、ああいう連中もいる。反面、平民とはいえ、貴公のような男もいる。詰まるところ、人間の資質や能力、矜恃など、身分とはまったく無関係なのではないのか、とな」

グリシーヌは少し顔を傾けて頬杖を突いた。
絵になっている。
顔に垂れた髪をそっと手で払う仕草も愛らしい。

「私の屋敷には大勢の召使いがいて、私に尽くしてくれている。メイドの他に男の執事や庭師もいる。その中には黒人の召使いもいるのだ」
「黒人?」
「そうだ。意外か? ヨーロッパ諸国はアジア、アフリカに幾多の植民地を設けた。フランスも例外ではなく、アフリカのソマリランドに植民地があって、ブルーメール家の別荘もそこにある。そこで奴隷として、多数の黒人を使役していたそうだ。ソマリランドだけでなく、ノルマンディやパリにも連れてきていた。今思えば人権無視の酷い話だが、当時はそれが当たり前だった。奴隷は我々より一段低い……いや、平民よりも下と見ていたから二段、三段下位の者と見下していたのだ。同じ人間なのに、まるで動物扱い……いや、それ以下だったらしい」
「……」
「我がフランスが奴隷制度を廃止したのは1848年のことだ。これは本国だけでなく、全ての植民地を含めてだ。しかしな、やはり長年に渡って染みついた偏見は拭い去れないのだろうな。今でも黒人……というか、偏見から有色人種を差別する者は多い。貴族だけでなく平民もな。未開の地の原住民だというわけだ。私の想い人が日本人だと知れれば、貴族たちは皆いい顔はせんだろうな。いいや、もし日本人ですらなく、黒人とつき合い出したなどということにでもなればパリ中……それどころか国中が大騒ぎになるだろう」

フランソワが大神を侮辱したのも、そのことが一因にあるのは明白だ。
グリシーヌの言う通り、もし大貴族の令嬢である彼女が黒人と愛し合うようなことがあればどうなるか、想像もつかない。

「私も……、そうなのかも知れぬ。屋敷にいる黒人でも、奴隷根性の染みついてしまった気の毒な男もいるが、中には有能、優秀な者もいる。アーメド・マンスールという召使いなど、私に忠実で仕事はテキパキこなす上に語学の天才だ。現地のソマリ語はもちろんフランス語も話せる。それどころか、英語にポルトガル語、ラテン語まで堪能だ。最近は日本語の勉強までしているようだ。これから見ても、黒人もアジア人も白人もない。人間は人間だ」

どうやら本心でそう言っているらしく、グリシーヌは真剣な表情だった。
もともと階級意識に縛られた思考を嫌っていたし、何とか軌道修正しようと努力しているのだろう。
生真面目な彼女らしい。

「だが、頭ではそうわかっているが、どこかで差別したり忌み嫌っているのかも知れんな。生理的な問題なのかも知れん。もしかしたら、それが態度に出てしまっている可能性もある。屋敷の者どもにも侮蔑的な言動をしていないと言い切ることは出来ぬ」
「……」

大神は黙って聞いている。
彼女が相槌や返事を求めているわけではないとわかっているからだ。
少女は柔らかな笑みを浮かべながら言う。

「……こう思うようになったのはな一郎、貴公に出合ってからだ」
「俺に?」
「そうだ。最初は私もあの男のような無礼な振る舞いをしていたろう。貴公のことを名も呼ばず、ただ「日本人」などと言っていたな」
「そうだったね……」
「だが、貴公を知ってから、その考えを改めた。貴族などと威張ってみても、身分を取ってしまえばただの人間だ、平民と変わらぬ。一郎、貴族と平民の違いがわかるか?」
「違い?」
「実は大したことではないのだ。貴族とは、出自がはっきりしていて過去何代にも遡れる系譜がある。血筋の良さを誇っているわけだ。ヨーロッパではな、伝統ある貴族の血筋を「青い血」と言い表すことがある。ただそれだけだ。だがそんなことは、その人間の価値とは何の関わりもないのだな。貴族は……私も含めて、そのことに長いこと気づかず、疑問すら抱かず暮らしてきた」

そこでグリシーヌは一息入れ、カップを受け皿に戻した。
音が殆どせず、実に優雅な所作である。
この辺りが「育ちの良さ」なのだなと、大神は思っている。
グリシーヌは、大神がカップを口にするのを見ながら問うた。

「私の家の名を知っているだろう?」
「ブルーメール家……だったね」
「ああ、そうだ。俗に「青い貴族」と呼ばれている。わかるか? さっき言ったように「青い血」は貴族を意味する。その「青」を名に持つ我が家系は「貴族の中の貴族」と称されているわけだ」

そこで美少女は小さく笑う。

「だがな、一郎。私の祖先は、もともとピラートだそうだ」
「ぴらーと?」
「日本語で言えば、そう……海賊だな」
「海賊だって?」

帝撃及び巴里華撃団隊長を歴任した海軍士官は、驚いたような顔をした。
その表情を見て、グリシーヌはクスクス笑っている。
からかっているつもりらしい。

「我が領地はノルマンディだ。貴族というのはな、広大な土地を治める領主なわけだな。昔は私設軍を持ち、税率も決められた。もちろん今はフランスという国家に属し、国法に従い、私兵も解散しているし、租税も納めているが、小なりとは言え独立国家に近いのだ」
「へえ……」
「おおもとはデーン人と呼ばれる、デンマークからノルマンディに渡ってきたヴァイキングを始祖に持つらしいな。以前はノルマン人と称していたし、今でもそれで通る」

なるほど、グリシーヌの美しい金髪、白い肌、ブルーアイは北欧系であるわけだ。

「偉そうに「貴族」と言ってみても、所詮その程度のものなのだ。もとは海賊風情……荒くれ者のバンディッツ──犯罪者なわけだ。そんな血を誇るのだから、愚かしいと言えば愚かしい」
「そうは言うけど……、祖先はいざ知らず、今のきみは犯罪者どころか、犯罪者から市民を救う立場だよ」

大神は庇うようにそう言った。
グリシーヌもその言葉に小さく頷く。

「そうだな。私はもともと、漠然とではあるが、貴族とは民衆を護る者だと思っていた。それは間違っていないわけだが、なぜそうすべきなのかはよくわからなかった。我らは平民の納める税を糧としているわけだから、彼らを護るのはある意味当然だ。普段は彼らの恩恵を受けている以上、事あらば身体を張って彼らと領地を護るのだ。ま、それがわからぬ輩も多いのだが」
「……」
「だがな、一郎。貴公と知り合って、私はその意味がわかった」
「意味?」
「ああ。私は「愛する者のため」に戦うのだ。それは私を慕ってくれる民もそうだが、一郎、貴公のためだ」
「俺の……」
「そうとも。私はこの街を……パリを護りたい。ここで穏やかに暮らす民たちを護りたい。そして一郎、貴公を護りたいのだ」
「グリシーヌ……」

ふたりは静かに見つめ合う。
いつの間にか日が暮れかかり、辺りはオレンジ色の夕日に包まれている。
周囲の恋人たちも良い雰囲気になっているようで、囁くように愛を語り合い、抱擁し合い、口づけをしている。
思わず大神もグリシーヌを抱きしめようとしたものの、回りを見ているうちに機会を失し、照れくさくなってしまった。
グリシーヌも同じらしく、頬を染めたまま恥じらうように顔を逸らせた。
グリシーヌは照れ隠しのように話題を変えた。

「こんな時間を過ごすものも貴重だな。貴公はそろそろ日本へ帰国するのだろう?」
「……」

その通りだった。
大神が育て上げた巴里華撃団は見事に怪人たちを撃退し、組織として独り立ちした。
大神としては後ろ髪引かれる思いではあるが、命令もあり、帰国して帝撃花組に復帰するのである。

「……私も貴公の国へ一度行ってみたいものだ。貴公の生まれ育った街や、トーキョーの華撃団の様子も見てみたい。それに……」

グリシーヌの目が一瞬鋭く光る。

「貴公の「トーキョーの恋人」とも決着をつけねばな」
「いいっ……!」

大神は仰天した。
東京に残してきた恋人とは、言うまでもなく真宮寺さくらのことだ。
大神としても、さくらとの関係はそれに近かったと思う。
だが、恐らくは互いに「友達以上恋人未満」だったのではないだろうか。
さくらの真意はもちろん知れぬが「決定的な線」を超えなかったのは事実だ。
そのことについて、さくらがもどかしく思っていたのか、それとも何とも思っていなかったのか、その辺はわからない。
しかし今は自信を持って、グリシーヌが恋人である、と言えるだろう。

さくらを思うと、少々の後ろめたさもある。
花組のメンバーにも「浮気者」とか「尻軽」だとか思われるかも知れない。
しかし、グリシーヌを愛してしまったことは事実で、これは理屈で割り切れるものではなかった。
これでもし、東京ではさくらとよろしくやって、渡仏すればグリシーヌとべったり、というのでは非難を買うのも無理はないが、大神はそんな器用な質ではない。
惚れっぽいし、その手の欲望も普通以上にあるが、根が堅物で正直だから、二股を掛けるようなことは出来ないのだ。
だから、彼の中で結論が出た以上、帰国したらさくらにははっきりと告げるつもりだった。
修羅場が予想されるものの、自業自得でこれは致し方なかった。

とはいえ、グリシーヌが来日してさくらと対決するなどという事態になったらシャレにならない。
実際、気性の荒いところがある彼女は、ささいなことから赴任間もない大神と決闘騒ぎを起こしたことがあるくらいだ。
焦る大神を見て、グリシーヌは声を立てて笑った。

「冗談だ、冗談。貴公、本気にしただろう?」

目を白黒させている恋人を見て、グリシーヌはおかしそうに笑った。
この高貴な貴族の娘も、少しは角が取れてきたようだ。
夕陽が差した白皙の頬が美しい。

「だが、日本へ行ってみたいというのは本当だし、いずれ行くつもりだ」
「ああ、是非来てよ。日本で何をしてみたい?」

大神は心底ホッとしたように笑った。
少し考えてから美少女は答える。

「そうだな……、水を飲んでみたいな」
「水? 水って、その、飲み水の水?」
「そうだ。不思議か? ここヨーロッパはな、あまり天候に恵まれておらず、土地柄も悪い。農作物を作るのも大変なのだ。そして水が悪い。アルプスから流れてくる水は綺麗だが、フランスの大河もあまり綺麗ではない。工業化の悪影響だ。その点、日本では普通に生水が飲めるそうだが、ここでは考えられぬことだ」
「そうかい?」
「ああ。フランス人が水代わりにワインを飲むのはそのせいだ。イギリス人が紅茶中毒なのも、ドイツ人が病的なくらいコーヒー好きなのも、そのままでは飲めぬほどに水がまずいからだ。よく我々は「食事の時に水を飲むのはアメリカ人とカエルくらいだ」と言ってバカにするがな、裏を返せば気軽に水が飲めない、ということでもあるのだ。清らかな水を思う存分飲んでみたいものだ」
「日本には、あちこちにそのまま飲める井戸があるよ。帝都では難しいけど、ちょっと地方へ行けば小川の水を直接飲めるしね」
「そうなのか。では野菜もうまかろう、それも楽しみだ。ここの野菜は高価だし、何しろ青い野菜……特に生野菜を食べると言うのが貴族のステータスになっているくらいだからな」

そこまで言うと、グリシーヌは不意に口を閉じた。

「?」
「一郎……」
「な、なんだい?」
「貴公は本当に……本当に私と……」

何を言いたいのか察した大神は、こくりと頷いた。

「本気だよ、グリシーヌ。俺はきみを……愛している」
「……」

その言葉を聞いた途端、グリシーヌは大神に顔を寄せ、唇を求めた。
軽くキスを交わしてから、グリシーヌはホッとしたように言った。

「それを聞いて安心した。貴公はまだ日本に……トーキョーに残した恋人に未練があるのではないかと心配していた」
「グリシーヌ……」
「貴公の気持ちはわかった。あとは私の方だ」

父親の説得だ。
グリシーヌの品位や気高さは父親から遺伝している。
父は一人娘であるグリシーヌにふさわしい婿……ブルーメール家の跡取りを希望している。
「完全無欠の花婿」だ。

ブルーメール伯の望むような「完全無欠な男」など、まず存在しないだろう。
フランス至上主義者である父は、フランス貴族との婚姻以外は認めないはずだ。
百歩譲ってもヨーロッパの他国貴族くらいだ。
それでもロシア貴族や、フランスの宿敵であるドイツやオーストリアなどの旧プロシア貴族系だったら拒否するに違いなかった。
なのに大神は日本人であり、しかも平民なのだ。

しかし大神一郎は、気品はともかく心技体に於いてはそれに近いとグリシーヌは見ている。
今は完璧でなくとも、必ずグリシーヌや父の望むような男に近づけると信じていた。
従って彼女は、父を説き伏せて大神を認めさせねばならぬ。
また大神自身も、己の力を父に示してもらう必要があった。
日本行きはそれからである。
グリシーヌは、身体の奥から力が漲ってくるのを感じていた。

─────────────────

大神と別れた後、グリシーヌは屋敷への帰路に就いていた。
サン・ルイ島からマリー橋を渡って陸地へ戻り、官庁街を抜けた郊外の閑静な森の中に邸宅がある。
首都パリだけあって、殆どは人通りの多い道ばかりだが、帰宅時間が迫っていたグリシーヌは近道をしていった。
大通りから折れて脇道へ入り、そこからまた建物と建物に挟まれた狭い路地へと進んで行く。

夕方で薄暗くなっていたこともあり、もう足下が暗くなってきている。
普通の貴族のお嬢様なら危険を感じるところだろうが、そこは天下の巴里華撃団でも主力を務めるグリシーヌである。
暴漢に出くわそうものなら簡単に伸してしまうだろう。
グリシーヌは、他の貴族と異なり、召使いやお付きの者を引き連れて出かけることはない。
何となく息苦しいし、気ままな時間が過ごせなくなるからだ。
況して、今日のように大神と逢い引きするのであれば余計にそうなる。
ノルマンディにいる父はもちろん、屋敷の者たちもまだ大神との仲は知らないのだ。

「……」

尾行に気づいたのは橋を渡り終えた時である。
その時は何となく気になった程度だったのだが、市街地を抜けてもついてくる。
グリシーヌは舌打ちし、不機嫌そうな表情で立ち止まった。
彼女が急に歩を止めると、尾行者は意表を突かれたようにたたらを踏み、慌てて建物の陰に隠れる。
グリシーヌは、そのまま振り返らずに恫喝した。

「……少々しつこいな。私に何の用だ?」

若い女の鋭い声に気圧されたかのように、物陰からおずおずと男が姿を現した。
グリシーヌは背を向けたまま、首を僅かに曲げてそちらを見る。

「……」

黒人だ。
奴隷解放以降、祖国へ帰るに帰れず、この国に残ったままの黒人は多い。
呼び名を「奴隷」から「召使い」に変えただけで前職に留まった者はまだマシだった。
そのまま移民となったはいいが、職に就けない者も多く、家もない。
彼らの多くは無頼漢となり、スラムに蔓延っている状態である。
この男もそうなのかと思ったが、粗末だが身なりは小綺麗にしていた。
ホームレスの類でもなさそうだ。
男が立ち止まったまま何も言ってこないので、仕方なくグリシーヌの方が切り出す。

「用事があるのではないのか? それとも私を……」

そう言って振り向いた少女には、得も言われぬ殺気が漂っていた。
敏感にそれを察した男は思わず後じさったが、それでも警戒しながら近づいてくる。

「あ、あんた……グリシーヌさまだよな?」
「……」
「そこのお屋敷のグリシーヌさまだろ? ブルーメール公爵家の……」
「ほう、私の素性を知っているか。私に何用だ? おまえは?」
「俺はオマル……オマル・ムハンマドって者だ。さるお方の使いで来ている」
「使い? 誰のだ」
「それはあとでわかる。すまねえが、ちょっとついてきて欲しいんだ」
「なに?」

グリシーヌは虚を突かれた。
人目を避けてこんな場所を選んだのだから、強盗や恐喝目的だと思っていたが違うようだ。
殺気が薄れたのを機に、黒人はさらに近寄ってくる。

「来てもらいたいところがあるんだ。いいか?」
「……断る。意味もわからず、怪しげな場所へなど行かぬ。話があるならここでするがいい」

オマルは困ったように眉間を寄せた。

「そうもいかねえんだ。あんたの男の日本人……オ、オオガミ、か? その男も……」
「……なんだと?」

その言葉を聞いた途端、グリシーヌの目つきがカミソリのように鋭くなる。
そして、ゆっくり背に右手を回して凶器を取り出す。

「わっ……!!」

黒人は度肝を抜かれ、尻餅を突いた。

「あ、あんたそれ、どっから出したんだよ!?」

美しい少女が手にした武器は、猛々しいばかりの戦斧だった。
戦斧にも色々あって、両刃のブージ、頭にツノがついた槍斧と呼ばれるハルバードなどがある。
グリシーヌのものは槍斧のようにスパイクがついているが、刃幅の広いバルディッシュに近いものだ。
ギラリとした刃光は力強く、凄みすら感じさせる。
とても年端のゆかぬ少女の使いこなせるような武器には思えない。

真宮寺さくらの日本刀が切れ味の鋭さで敵を切り裂くのに対し、グリシーヌの戦斧は文字通り敵を「叩き斬る」ものだ。
その、気品すら感じさせる外見に似合わぬ猛々しい戦い振りは、巴里華撃団でも指折りの戦闘力を誇っている。
いかにも気性の激しいグリシーヌらしい武器だ。
グリシーヌが武器を片手にじりじりと近づいて来ると、オマルは尻餅を突いたまま悲鳴を上げて後じさった。

「ま、ま、待ってくれ!」
「きさま……、大神一郎に何をした?」
「だ、だから待ってくれって! な、何もしてねえよ! ただ、そのオーガミって男に関係したことだからあんたも来てくれって……」
「……」

グリシーヌは、男の顔に突きつけた刃を引いた。
ワケがわからぬが、脅しだけで腰を抜かしたこの男を見ていると、とても大神をどうにか出来るとは思えなかった。
それに、グリシーヌに危害を加える様子もなく、ただ「来てくれ」と言うだけだ。
何があるのかわからないが、ただのメッセンジャーなのかも知れなかった。
オマルはどうにか立ち上がって、またグリシーヌに言った。

「来てくれねえか? 時間は取らせねえと言っていたし、あんたを連れていかねえと俺が罰を食うんだよ。なあ頼むよ、この通りだ」
「……」

黒人はペコペコとグリシーヌに頭を下げ、必死に懇願している。
グリシーヌは考えながら聞いた。

「一郎もそこへ来るのか?」
「ああ。よくは知らねえが、来ると言っていたな」
「……」
「お願いだ、グリシーヌさま。一緒に来てくれ」

正直言って困惑したし、迷ったのだが、結局グリシーヌは承諾した。
大神絡みであれば、放って置くわけにもいかない。
もし、このオマルという男の言うことがウソっぱちで、グリシーヌをどこかに監禁でもしようという気なら、その場で反撃すればいい。
この程度の男が何人いようが、戦斧を手にした彼女の敵にはならないだろう。
その上で首謀者を締め上げて、事情を問い質せばいい。
内容によっては司法へ突き出すし、何なら「内々に始末」してしまうことも吝かでなかった。
目には目、歯には歯である。
グリシーヌは、まだおどおどしているオマルに先導させ、目的地に向かった。

─────────────────

そこはグリシーヌの屋敷とは反対側の区画だった。
お陰で思ったより時間がかかり、着いた頃にはすっかり日が暮れていた。
グリシーヌは「屋敷で心配しているだろうな」と思いつつ、その建物に入った。
古い煉瓦造りの雑居ビルだ。
看板を見ると、一階には大衆パブや庶民的なレストランなどが入っているようだ。
三階建てだが、上の方は住居部らしい。
アパートかも知れなかった。

正面にある入り口ではなく、端にある開口部にオマルが入っていく。
どうやら地下になっているようで、下まで降りきると短い通路がある。
突き当たりには掃除用具や荷物が乱雑に積まれており、階段からちょっと進んだところに粗末なドアがついている。
オマルはそこを開けるとグリシーヌを導いた。

「……」

誰もおらず室内は真っ暗だったが、すぐにオマルが室内灯を入れた。
ガス灯ではなく電気のようだ。
それだけではまだ薄暗く、壁についている燭台の蝋燭にも火を灯す。
明るくなった室内を見回すと、地下室だけあって窓はまったくない。
全体的に埃っぽく、グリシーヌは思わずハンカチで口を覆う。
眉間を寄せて周囲を見てみると、壁は煉瓦剥き出しで、何の装飾も施されていない。
なぜか床がタイル張りで、グリシーヌは違和感を持った。
部屋に似つかわしくない大きな洗面台と、そのすぐ側に通気口らしいものも確認できた。
ダクトでも通っているのだろうか。

あとは、粗末だが造作のしっかりした大きな机がひとつと椅子が四脚並んでいる。
机の上には電話機と、ペンや紙が乗っている。
壁に棚がふたつ吊られていて、引き出しのついた戸棚もふたつほどあった。
そして、机からすぐのところに大きなベッドらしきものがある。
マットレスに白いシーツが掛けてあるからベッドだとわかったが、それがなければただのテーブルに見えた。
白い肌の少女は、なぜかそれが少し気になった。

ここまで連れてきたことでホッとしたのか、オマルはややリラックスしたように言った。

「お嬢さん、そこに座ってくれ」
「……」
「警戒するなって。俺は何もしやしない」

グリシーヌは口からハンカチを離し、勧めを無視して立ったままで言った。

「……言われた通り来てやったのだ。用件を言え」
「い、いや俺は……さっきも言ったが詳しいことは何も知らないんだ。それより、もうひとつ頼みがある」
「こっちの要望には何も応えないのに頼みばかりだな」
「そう言うなって。電話して欲しいんだよ」
「電話?」
「ああ。もう遅くなったし、お屋敷で心配してるだろ? 二、三日帰れないと連絡入れておいてくれないかな」
「なんだと?」

帰宅が遅くなるのだから連絡はしたいところだったが、三日も帰れないとはどういう意味だ。
やはりこの男、謀ったのか。
グリシーヌの表情に怒気が走る。
そのオーラに気圧されて、オマルは「ひっ」と悲鳴を上げて逃げかかり、椅子を派手に倒してしまう。
そしてグリシーヌが、また斧を取り出してみせると今度は20センチも飛び上がる。

「わっ……!! だ、だからそれはやめてくれってば!」
「……ならば正直に言うことだ。私をこんなところに連れ込んでどうする気だ?」
「お、俺は何も……、なあ頼むよ、お屋敷に電話してくれって」
「そんなことが出来るわけがない。何なら、このまま帰ってもいいのだぞ……おまえを倒してからな」
「ひぃっ……!」

グリシーヌから湧き起こる殺気をまともに受け止め、それが物理的に作用したかのようにオマルは後じさって壁に背をつけた。

「やめてくれ!! あんたに何かしようなんて思っちゃいねえよ! いいから電話してくれ! じゃないと俺がタダじゃ済まなくなるんだ!」
「そんなことは知らぬ。言わぬなら……」
「ま、待ってくれ!」

グリシーヌが刃を光らせながら迫っていくと、オマルはいよいよ切羽詰まり、壁にめり込まんばかりに背を押しつける。
大きく見開いた目で、目の前に来ている刃先を凝視しながら、震える唇で言った。

「やめろ! た、頼む、電話してくれ……、さもないと俺は……」
「……」

さすがにグリシーヌも不審を抱いた。
ここまで脅しても「電話してくれ」の一点張りだ。
目の前で心底脅えている黒人を見ていると、どう見ても演技とは思えなかった。
グリシーヌの油断を誘って反撃しようと思っているフシはない。
圧倒的な有利な立場に立っていることを知り、グリシーヌは刃を引いた。
これではグリシーヌの方がいたぶっているように見える。
だが、戦斧こそ引いたが威圧的な声でたたみ掛ける。

「……言え」
「……」

オマルは困惑し、苦渋に満ちた表情を見せたものの、やがて諦めたように顔を振った。

「……電話してくれるのか?」
「正直に言えばな。内容次第で考えてやる」
「……ええい、仕方ない。じゃあ言うが、くれぐれも俺が喋ったってことは黙っててくれよ」
「わかっている」
「それと、その物騒なやつは、どっかその辺に置いといてくれ。それじゃびびっちまって落ち着いて話も出来やしねえ」
「いいだろう」

グリシーヌはそう言ってから斧を後ろのベッドに置いた。
必要ならいつでも手が届くところである。
そして、まだ尻餅のままのオマルの手を持って立たせてやる。
黒人はまだグリシーヌを警戒しながらも、尻の埃を払う。

「……実はな、あんたのお父上から頼まれたんだよ」
「なに? きさま、いい加減なことを言うと……」
「ほ、本当だって! ブ、ブルーメール公爵の旦那から言われたことなんだよ!」
「父上が……? ならば普通に私を呼び出せばいい。なぜきさまなどを使わねばならんのだ」
「お、俺は直接ブルーメール公爵じゃなくて、アーメドを通じて頼まれたんだ」
「アーメドが? アーメドはどこにいる?」
「やつは今……オーガミを呼びに行ってる」
「一郎を……? どういうことだ?」
「知らねえよ……」

オマルは、疲れ切ったようにドッと椅子に腰を下ろした。

「ただ、ここにはオーガミだけじゃなく、あんたのお父上も来ることになってんだ」
「なんだと?」
「だから……、あんたをここへ呼び出せと言ったのも、オーガミを呼んだのも、俺やアーメドにそれを命じたのも、みんなあんたのお父上なんだってば」
「バカな……、なぜだ」
「そんなこと俺が知るもんか! 俺とアーメドは、ただあんたとオーガミを……」
「三日ここにいろ、と言ったのも父上か?」
「ああ……、そうだよ。理由までは知らねえよ、知りたいと思ったって俺なんかに教えてくれるもんか」
「……」
「よくは知らねえが、お父上はあんたとオーガミを交えて話があるってことだ」
「話? 一郎もか?」

それでグリシーヌにも大体読めた。
恐らく父は、グリシーヌと大神の交際に気づいたのではなかろうか。
大っぴらにつき合っていたわけではないが、こういうことは周囲の者が何となく気づくものだ。
華撃団から話が洩れたのかも知れないし、ふたりで街を歩いているところを目撃された可能性もある。
いいや今日だってカフェでデートしていたわけだし、ご丁寧にキスまでしていた。
それを見た誰かが伯爵に注進した可能性もある。

グリシーヌは、自分でも認めているがこれでなかなか頑固だ。
こうと決めたら頑として譲らない。
納得すればあっさりと方向変換できる器用さはあるが、彼女を説き伏せるのは並大抵ではないのだ。
それを知っている父が、時間を掛けて説得しようとしているのかも知れない。
大神を呼び寄せたのも、娘が選んだ男を見極めたいという思いがあったのだろう。
その上でふたりに「今後どうするつもりなのか」問い詰めたいのかも知れない。
本気で結婚しようとしているのか、それとも遊びなのか。
後者ならともかく(もっとも、これはグリシーヌが「遊び」と踏んでいる場合であり、娘が本気で大神が「遊び」と思っていたならタダでは済まないだろう)、ブルーメール家の婿に取るのであれば一悶着あるだろう。
それで、取り敢えず三日としたのかも知れなかった。

「わ、わかってくれたかい、じゃ、頼むよ。あ、それとくれぐれもお父上からの呼び出しだ、なんて言わないでくれよ。旦那は秘密にしたいらしいから。友達のところへ行くとでも言っといてくれ」

そう言うと、オマルは電話機をグリシーヌの方へ押しやる。
事情が事情だからやむを得ない。
グリシーヌは受話器を取って屋敷に繋いだ。

「……ああ、私だ。ローラか? ああ、すまんな、遅くなって。タレブーに替わってくれるか?」

グリシーヌは、オマルと斧を相互に見ながら電話を続ける。

「なに、留守? 外出中? そうか……、では仕方ない、伝言してくれ。実はさっき、キャロルに会ってな……そうだ、ベラン家のキャロルだ……ああ、わかっている。舞踏会にはここから直接キャロルと一緒に行く。それでな、二、三日屋敷を空ける。……ん? いや、そうではない。キャロルに誘われてな、しばらく別荘に行くことにした。……違う、うちではなくベラン家の方だ。そう、カレーの方だな。……心配ない、遅くなる時にはまた連絡するから。……ああ……ああ……、だからそのことをタレブーに伝えておいてくれるか? ……ああ、すまぬな。また連絡する」

グリシーヌは小さく息をついて、そっと受話器を置いた。
我ながら、こうもスラスラとウソをつけるのが不思議だった。
電話が終わると、オマルがすっと立ち上がる。

「……アーメドと一郎はまだか?」
「さあ……、わからんね。うまく連れ出してくれるといいんだが」
「……」

その時、ドアが軋んで音を立て、中に男が入ってきた。
入室してきた男を見てグリシーヌは唖然とし、すぐにその顔が不快な色に変わる。

「……プショー伯。なぜ貴公がここに……」
「これはこれは」

フランソワは両手を拡げ、大仰な素振りで笑顔を向ける。
その表情には、わざとらしさと卑屈さが混じっていた。
伯はコツコツと靴音をさせながらグリシーヌに近づくと、今にも抱擁せんばかりに大手を拡げる。
グリシーヌは身を捻ってそこから逃げ、無礼な男を睨みつける。

「私の質問に答えろ、プショー伯。なぜそなたがここにいる? 一郎はどこだ? 父も来ることになっているはずだ」
「いっぺんに色々と聞いてきますな。まあ、いい。私がここにいるのは、私があなたをここへ呼んだからだ」
「何だと?」
「それと……、あの日本人か。呼んで欲しければ呼んでも良いが……、あなた、本当にそれでよろしいのかな?」
「……どういう意味だ」

さもいやらしそうに嗤う若い貴族を、大貴族の末裔たる少女はにらみ返す。
その視線を弾き返すように、蜥蜴のような男は言った。

「お父上には私もご無沙汰している。お呼びするのは構わぬが……、もう少し後になるかな」
「ふざけるな!」

意味深そうな言葉を繰り返すばかりで本質に触れようとしないフランソワに怒り、グリシーヌは憤然と言い放った。
返す貴族は平然としている。

「あなたのようなお美しい方がそのような汚い言葉を吐くべきではありませんな。これもあの野卑な日本人の影響ですかな」
「野卑なのはきさまの方だ! さっさと一郎を連れて来い! 私は一郎と一緒に帰る!」
「……執着しますな、グリシーヌ嬢。それほどまでにあの日本人が……」
「当たり前だ! きさまなどとは比べものにならぬ。貴族とは名ばかりのきさまよりも、平民の一郎のほうがずっと……」
「無礼ですぞ、グリシーヌ嬢! 平民よりも私の方が劣ると申すか!」
「何度もそう言っているだろう! きさまは貴族の名折れだ! きさまと同類かと思うと寒気がするわ!」

侮辱された貴族は怒気で顔を真っ赤にしたものの、何とか怒りを抑えて言った。

「……では仕方ない。あの男を始末して進ぜよう」
「なに?」
「酷く矜恃を傷つけられましたのでな、そうでもせんと私の怒りが収まらぬ」

そう言って受話器を取り上げると、グリシーヌが慌てたように縋った。

「ま、待て! 一郎は……」
「とある場所に監禁……いや、招待してある。私が連絡すれば……」
「きさま……」

グリシーヌはそっと手を伸ばして机の上を探ったものの、戦斧はなかった。
見ると、オマルが斧を手にして、すっとフランソワの後ろに回る。

「けっこう重たいんだな。しっかし、こんなものをよくそんな細腕で振り回せるな」

黒人が刃先に指を這わせながらにやにやすると、グリシーヌはグッと歯を食いしばり、拳を握りしめる。

「おまえたち……グルか」
「グル? 何をおっしゃっているのか。こいつは私に雇われた男だ」
「……」
「グリシーヌ嬢。私が連絡すればあの男は殺される。が、私が明日の朝まで連絡しなくても殺される手筈になっている。私をどうにかしようなどとは考えないことだ」
「……私をどうする気だ」

その言葉を引き摺り出すと、フランソワはにやっと嗤った。

「言わずともおわかりでしょう」

そう言いながら手を軽く振ると、部下の黒人が退出していく。
グリシーヌは少し後じさり、部屋を見回した。
どうしても視線はベッドへ行ってしまう。
それに気づいたのか、フランソワは大きく頷いた。

「私の気持ちはわかっているはずです、グリシーヌ嬢。私はあなたを……」
「言うな!」

こんな男に懸想されているなど虫酸が走る。
仲の良いキャロルや知り合いの貴族からも、フランソワがグリシーヌに邪な愛情を持っていることは聞かされていた。
当然そんなものは無視していたし、フランソワからの「個人的な」誘いはすべて断り、贈り物の類も受け取らなかった。
そうすることで、グリシーヌに「その気はない」ことを伝えたつもりだったが、フランソワの方は一向に気にせず、繰り返しアプローチしてきたのだった。

貴族の一人娘ではあるが、グリシーヌはいわゆる「深窓の令嬢」とはほど遠い。
その気位の高さと気性の激しさは歴代当主を凌ぐと噂されている。
グリシーヌは低い声で聞いた。

「……つまり、私に肌を許せと言っているのか?」

それを聞いた途端、若い貴族は我が意を得たりとばかりに何度も首肯した。

「その通り。私はあなたを愛しているが、この際それは後回しだ。まずは身体の相性を確かめるというのも悪くない」
「断る」

グリシーヌはむべもなく即答した。
こんな男に身体を触れられると思うと鳥肌が立つ。

「そなたに抱かれるくらいなら死んだ方がマシだ」

予想していた回答だったのか、フランソワは怒りもせずに小さく頷く。
きっぱりと言い切ったグリシーヌを押し戻すように脅迫してくる。

「そうですか。では、あの男は死ぬしかありませんな」
「きさま……」
「あの大神とかいう日本人の命運はあなた次第だ。おわかりかな?」
「……卑怯者! どこまでいっても卑劣なやつだ」
「強要はしない。が、あなたが私に抱かれたいというのであれば……」
「くっ……」


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