帝撃内で最も忙しい部署はどこか。
実は風組なのだ。

もちろん暇を持て余している人間はいないだろうが、職務によっては時期的に余裕のある部署もある。

対降魔戦に関わる部署──花組に限らず、整備や夢組、局地戦向けの雪組なども含め、戦闘のない時はゆっくりできる時間はある。
一方で舞台関連の関係者──演出、脚本といったソフト面、大道具、小道具といったハード面の人たちは、開演前は火事場騒ぎであろう。
だが、公演が終われば時間が出来る。
そして、双方の主力である花組の面々は、出撃はもちろん訓練もある。
舞台公演やその稽古もあって、時間的余裕などないように思えるが、それでも公演がハネた後などは落ち着いた日を送ることは出来る。

しかし風組の面々にはそれがない。
花組出撃時には輸送任務を請け負い、戦闘中も彼女たちが操る轟雷号や翔鯨丸には司令が座乗することが多く、必然的に野戦司令所となる。
風組はその際の通信員及びオペレータとなるのだ。

そして舞台に於いても風組の多忙さは続く。
無論、彼女たちが舞台に上がるわけではないが、裏方としての前準備、後処理に忙殺される。
帝撃の経理、総務を一手に引き受けているわけで、米田司令の言うように「風組がいなけりゃ、帝撃は部隊も舞台も回らねえ」ということになる。

そしてこの日も、藤井かすみ、榊原由里、高村椿の三人は、帳簿と算盤を相手にてんてこ舞いしている。
さっきまで席を立っていたかすみが、お盆を持って戻ってきた。

「ふたりともご苦労さま」

優しそうで穏やかな笑みを浮かべながら、かすみは後輩たちにコーヒーを配った。
いちばん年少の椿が慌てて立ち上がる。

「すいません! かすみさんにそんなことさせちゃって……」
「いいの、いいの、そのままで。毎日、遅くまで残業させちゃってごめんなさいね」
「いいんですよ、かすみさん。これだけ売れ行きが良いとやり甲斐がありますもん」

由里がニコニコしながらそう答えた。
ここ連日の残業は、次回公演の前売り券の整理である。
昼間は劇場売店の仕事や窓口でのチケット販売、事務所内での問い合わせや取材対応、そして帝撃内での医務室管理と仕事は山積していた。
必然的に、帳簿などの経理関係は、誰の相手もしなくていい夕方から夜にかけて、ということになる。

三人はコーヒーを啜りながら小休止した。
さすがにくたびれたのか、由里が「うん」と組んだ両手を伸ばし、身体を解している。

「それにしても今回は凄いですよ。前売りがここまで伸びたのは初めてじゃないですか?」
「ホントね……。前回、前々回が大好評だったこともあるけど」
「雑誌とか新聞とかにも随分取り上げてもらいましたから、そのせいもありますよ」
「でも、そうなると私たちはともかく、花組の人たちも大変……。期待が大きくなってるから」
「そうですよね。マリアさんなんか、もうお稽古に入ってますよ」

マリアの大ファンを自称する椿が目をキラキラさせながらそう言う。
スタッフでありながら、彼女の瞳はファンのそれと同じだ。

「そうそう。それに引き摺られてさくらさんとかも台本読み込んでるみたいで」
「あ、もう本が上がったの?」
「ええ、昨日。三日後に最初の読み合わせに入るそうです」
「気合い入ってるなあ」

次の舞台の話が盛り上がる中、事務室のドアが鳴る。
来客のようだ。

「あ、はい」

椿がカップを置いてそそくさと立ち上がり、ドアを開けた。
外には冴えない顔をした中年男が立ちすくんでいる。
その顔を見るや椿は息を飲み、少し引いた。

「あ……、溝口さん……」
「……」

溝口と呼ばれた男は、軽く会釈して中に入ってきた。
すかさず、かすみが対応する。

「すみません、溝口さん。これですか?」

そう言って、かすみは長細い紙箱を彼に差し出した。
溝口は小さく頷き、眼を細めて中を検める。

「……ええ、そうです」
「ここまで来ていただいて申し訳ありませんでした。お届けするつもりだったんですが……」

かすみが恐縮してそう言うと、溝口は軽く首を振った。

「……いいえ。こちらこそ、お忙しいのに頼み事などしてしまって申し訳ない」
「いえ、そんな」
「ありがたく頂戴します。では失礼」
「あ……、すみませんでした。また何かありましたら……」

かすみの声を断ち切るようにドアがパタンと閉じられた。
その間、椿も由里もほとんど動かず、じっとかすみのやりとりを眺めているだけだった。
溝口が出ていくと、室内にホッとした雰囲気が流れる。
由里はあからさまに息をついて見せる。

「ふうっ。なーんかあの人が来ると妙な緊張感があるよね」
「そうですよね。あたしもあの人、苦手だなあ……」
「こらこら。だめよ、そんなこと言っちゃ」

若いふたりをかすみが窘める。

「溝口さんたちがいなければ、花組の舞台だって味気ないものになっちゃうんだから」
「それはわかってますけどね……」
「でも、大道具の中嶋親方とか広井さんなんかと比べると、どうしてもお話しにくいというか……」
「お話しにくいっていうより、溝口さんの方があたしたちを相手にしてないって感じよ」
「あーー、そうですよねー。なんか「眼中にない」って言うんですか? そんな気がします」
「いい加減になさい。他人の悪口なんか言っちゃだめでしょ」

かすみがそう言っても、由里はどこ吹く風である。

「かすみさんはそうでしょうけどね。だって、あの人、今もかすみさんの方しか見てませんでしたよ」
「あ、そう言えばそうですね……」

由里に指摘され、椿も気がついたように言った。
少し悪戯っぽい表情を浮かべた由里が、頼れる優しい先輩をからかう。

「でしょ? あの人、きっとかすみさんのことが好きなんですよ。うん、間違いない」
「由里ったら……」
「だって、そうとしか思えませんよ。挨拶だってかすみさんにしかしてなかったし」

そう言われてしまうと、かすみも苦笑するしかなかった。
確かに溝口が自分に対して、何やら関心を持っているらしいことはかすみにもわかる。
しかし、それが即恋愛であるとするところが、いかにも由里らしかった。

「そんなことあるわけないでしょ? 溝口さんはもう確か40歳くらいのはずよ。きっと奥様やご家族だって……」
「そうだとしても、他の女の人を好きになることだってあるじゃないですか。まあ、色恋はともかくとしても、かすみさんが好かれてるのは確かですよ」
「そんなことありません。あの人、少し変わってるところはあるけれど、仕事はちゃんと出来るし、真面目な方だと思うわよ。確かに、あんまり愛想の良い方じゃないから誤解を受けやすいだけじゃないかしら」

それを聞いて、由里は少し呆れたように言った。

「かすみさんは良い人だなあ。性善説って言うんでしたっけ? でもま、それだけ善人なら好かれても不思議はないですね」
「もう……」
「あ、そう言えば」

と、椿が割って入った。

「さっき溝口さんにお渡ししたものって何なんですか?」
「え? ああ、注射器よ」
「注射器?」
「そんなもの、どうするんですか?」

かすみたちは全員看護婦の資格を持っており、医療知識がある。
医務室の管理も彼女たちの仕事なのだ。
別に医務官はいるが、簡単な治療は彼女たちが対応するのである。
それもあって、溝口が注射器をかすみに所望したらしい。

「よくは知らないけど……。注射器に接着剤を入れて使いたいって……」
「接着剤? のりですか?」

溝口は小道具担当である。
大道具が背景に使う絵を描いたり、書き割りやセットを作ったり、大ぶりな各種装置を担当するのに対し、小道具は芝居に必要な雑貨や役者の持ち物などを作る係だ。
小さなものを作ることも多く、細かい作業が要求される。
椿が興味深そうに尋ねた。

「のりを注射器に入れてどうするんですか?」

こういうことこそ溝口に聞いてやればいいのに、と、かすみは思っている。
自分の仕事にそれなりのプライドもあるだろうから、こうした質問には熱心に答えてくれるはずだ。
そうなれば彼の為人もわかるだろうし、会話することでわだかまりや誤解だって解けるかも知れないのだ。

ただ、確かに今の溝口には安易に話しかけられない雰囲気はあった。
まだ若い椿や由里には難しいだろう。
それに、かすみが思っている以上に溝口が偏屈で変わった性格であれば、逆に鬱陶しがる可能性もあった。

「のりってそのまま塗ったりしません? あと、指でとか」
「……じゃないみたいね。指だと汚れるし、細かいところは無理でしょう。そういう時は竹串とか楊枝の先にのりをつけて使うみたいね」

と、かすみは言った。
これは言うまでもなく溝口から得た知識である。

「へえ。じゃあ注射器も……」
「ええ。普通に楊枝なんかで塗るのが難しいくらい、細かったり小さかったりするものをくっつけるのに使いたいんだって」
「へー」
「ああ、なるほど。注射の先からのりを出して、そこにくっつけるんだ。あ、じゃあ注射針もあげたんですか?」
「ええ。私も、そこまで細かいものを作るとは知らなかったから、針は要らないかと思ったんだけど、溝口さん、針も欲しいって」
「ふうん。いったい何を作るんですか?」
「さあ、そこまでは……」

かすみはそう言ってから後ろを振り向いた。
壁時計はもう午後9時を指していた。

「もうこんな時間ね。今日はここまでにしようか」
「あ、すいません、無駄口が多くて。でも……、今やりかかってるのだけは済ませませんか?」
「そう……。椿はどうする?」
「あたしも」
「わかったわ。じゃ、もうちょっと頑張ろっか」
かすみはそう言って優しく微笑んだ。

─────────────────

安治はその日、図書室へ行こうとしていた。
何を調べようと思ったのか、今となっては安治自身も定かでない。
そんなことは頭から追い出されてしまうほどの事態が起こったからだった。

傾向が偏ってはいるものの、帝撃内の図書室はそれなりに充実していた。
霊子力学や蒸気機関、降魔関連の資料などは、さすがに万全である。
とはいえ、規模は小学校の図書室程度であり、蔵書も限られている。
専門以外の書籍に関しては寂しい限りで、安治などはもっぱら東京市立日比谷図書館まで行っていた。
百科事典などは揃っているものの、小道具を作る際の資料としては些かもの足りぬことも多いのだ。
その時は、日比谷まで行くのが面倒だったのか、あるいは帝撃の図書室で事足りる程度のことを調べようとしたのか、そういうことだったろう。

図書室は屋根裏部屋を利用して作られているため、安治は作業室のある地下からだらだらと階段を昇っていった。
自分の先を、コツコツと硬い靴が木製の階段を叩く音が響いている。
時刻は午後8時を過ぎたあたりだ。
ここで寝泊まりしている花組や、残業が常態化している風組を除けば、ほとんどは帰宅しているはずだ。

どちらかというと厭人癖のある安治は小さく舌打ちする。
この先はもう図書室しかなく、前を歩いている者は当然そこに行くのだろう。
顔を合わせるのも挨拶するのも面倒だった。
いっそ明日の早朝にでも出直すかと思った時、階段を昇っていく人の脚がちらっと見えた。
女の脚である。
タイトスカートを腰に巻き、膝から下が露出していた。
ふくらはぎの白さが目に染みるようだ。

「……!」

藤枝かえでだった。

降魔戦で亡くなったとされる姉のあやめの後任として帝撃に赴任し、副司令および米田司令の副官を務めている才女だ。

安治の足が止まり、顔に朱が差した。
彼はかえでに惚れているのである。
もともとは姉のあやめに懸想していたから、彼女が死んだと聞いた時には酷く落ち込んだものだった。

しかし、その後やってきたかえでを見て、心臓が口から飛び出るかと思うほどに驚いた。
よく似た姉妹だったのだ。
姉譲りの美貌はもちろん、仕事もてきぱきとこなす才色兼備の美女であり、安治あたりにも気を遣ってくれる気配りの人だった。

勇を振り絞って、何度か話しかけたこともある。
安治の方から他人に話しかけるなどというのは、仕事を除けばほぼあり得なかった。
だから、花組結成時から帝撃にいるというのに、未だに口を利いたこともない隊員もいるのだ。
しかしあやめとかえでだけは別で、それだけ彼女に対する思いが強かったのだった。
花組の子供とはまるで違う「本物の女」に思えた。

安治は、40歳という年齢のこともあって、若い女にはほとんど興味がなかった。
ガキに見えてしまって、とても感情が動くものではないのだ。
若い女性のぴちぴちした肢体や爽やかな色気も悪くはないが、やはり「おとなの女」としての魅力が欲しい。

マリアあたりは年齢的にも見映えにも悪くはなかったものの、如何せん彼女は色々な意味で強すぎて、とても彼の手に負えそうもない。
身長も180センチ以上もあるから、安治あたりでは不釣り合いなこと甚だしいだろう。
カンナも年齢的にはいいだろうが、マリアとほぼ同じ理由で興味の対象外だった。
そんな中で、安治の審美眼に叶った女性が藤井かすみと藤枝かえでなのだった。

咄嗟に安治は身を隠したが、当のかえでの方はまったく気づいていないらしい。
安治のクセで、そろそろと足音を立てないように歩いてこともあるだろうし、そもそもこんな時間に図書室へ行く人が他にいるとも思っていないらしい。
別に隠れる必要もないのだが、安治はこっそりとその後を追った。

足を前で交叉させるような歩き方が美しかった。
歩くたびに腰が小さく揺れ動くのも扇情的だ。
意図的ではないだろうが、そうした仕草や姿勢までが、安治の男を刺激して止まなかった。
また声が良い。
姉のあやめもそうだったのだが、少し鼻に掛かったような、ややハスキーな声がたまらなくセクシーだった。
耳元にあの声で囁かれたら、安治などはそれだけで昇天してしまいそうな気になる。

では、安治はかえではあやめのスペアと見ていたかといえば、それは違った。
最初はそれに近かったものの、今ではすっかりかえでに執心している。

安治はプライドが高く、自分の頭の良さを自負している。
だから、相手の女にもそれなりの知性が不可欠だと思っていた。
だから、さくらだのすみれだのといった連中は最初から論外なのだ。
知的という意味で、あやめとかえでに優る者はいないだろう。
かすみは知的というよりは聡明といった感じであり、それはそれで良いのだが、どちらか選べと言われれば、やはりかえでになるだろう。

加えて、かえではあやめよりも明朗だと思う。
あやめも別に暗かったわけではないが、かえでは姉よりも活発であり親しみやすかった。
安治でさえ、かえでの方が話しかけやすいと思ったくらいである。

安治はかえでに執着した。
しかし、今で言うストーカーのようになることはなかった。
かえでが帝撃に居住していたこともあって、自宅を調べる必要はなかったということもある。
私室や風呂を覘いたり、ということもなかった。
彼なりにかえでを尊重し、神聖視していたところがあったからだ。
安治にとってかえでとは、出来れば何とかしたいと思う女ではあるが、手をつけるのが罪に感じられるような存在であり、女神であった。
だから、こうして偶然見かけた時にこっそりあとをつけて、その後ろ姿を見て愉しむのが精々だったのだ。

しかし、この日のかえでは少し様子が違っていた。
いつもの落ち着いた雰囲気が薄れ、辺りを気にするような素振りが見える。

気づかれたかと思い、安治は足を止めて警戒した。
しかし安治を気にするような感じはなく、そのまま図書室の扉を開け、中に入っていく。
「何かある」と睨んだ安治は、出来るだけ気配を殺しながらあとをつけ、図書室までやってきた。

そっとドアに耳を当てる。
静音性を保つためか、厚めの木製扉になっていて、よく聞き取れない。
しかし、ごそごそするような籠もった音と、何やら人の気配はしていた。
気になった。
ひとりの気配ではないのだ。だいぶ躊躇したものの、安治はそっとドアを開けてみた。

軋んだ音を少しでも立てるようならすぐに閉じて立ち去ろうと思ったが、蝶番はスムーズでまったく異音をさせなかった。
ごくりと喉を鳴らしてから、僅かに開けたドアの隙間から覗いてみる。
細い隙間から見える範囲は限られてしまい、かえでは視界に入らなかった。
声もしない。
ただ、衣擦れするような微かな音が聞こえる。

どうにも気になって仕方がなく、安治は思い切って中に入ることにした。
音をさせないようドアを開け、身体を横にして辛うじて室内に入り込む。
そして衝撃の光景を目にしてしまった。

かえでは男を抱き合い、口づけを交わしていたのである。

あの注意深いはずのかえでが安治の気配にまるで気づかなかったのも、キスをしていたからだろう。
驚きのあまり、身体が凝固してしまう。口も開けてしまったが、声は出なかった。

(か、かえで……さん……そんな……)

安治はすぐに本棚の陰に隠れると、本と棚の隙間からかえでの様子を覗き見た。
憧れの女神を抱擁している不届き者はいったいどこのどいつだ。
そいつの顔を見ようと安治は動きかけたが、また姿勢を強張らせる。
抱き合った男とかえでの方が位置を変えてくれたのだ。

海軍の白い軍服を着た若い男が、カーキ色の陸軍軍服を着用した女とキスしている。
男は大神一郎だった。
ふたりはひしと抱き合い、唇を重ねていた。
顔を傾け、互いの口を深いところで吸い合っている。
恐らく、舌の交歓もしていることだろう。

そう思うと、安治の頭と胸が白く灼けていく。
恐らく人生で初めての嫉妬を安治は感じていた。
極冷温で燃える青白い炎が、心の奥でちろちろと燃え広がっていくのがわかる。
かえでの声が僅かに洩れ聞こえてくる。
唇の端から呻きとも喘ぎともつかぬ、悩ましい声が発せられていた。

耳を澄ませてその艶っぽい声に聞き入っていると、ズボンの前が痛いほどに突っ張ってきた。
大神とかえでは一度口を離し、互いに見つめ合っている。
かえでは微笑を浮かべると、呼吸を整えてからまた大神に顔を合わせていた。

安治は、まるでふたりが口でセックスしているかのような錯覚を受けていた。
握りしめた拳がぶるぶると震えた。屈辱とも妬心ともつかぬ、暗く冷たい怒りがこみ上げてくる。
恐らく身体の関係も持っていることだろう。
あんなガキのような男に身を任せているのだと思うと、あれほど強かったかえでへの憧憬、神聖さがウソのように薄れていく。

かえでは女神などではない。
ただの女であり、生身の身体に過ぎないのだ。
彼女の操に対しても、気安さすら覚えてしまう。
あんな青二才が、己の肉欲のためにかえでを抱いているのだ。
だったら自分だって、という強い思いが彼の精神を支配していく。

人前で大恥をかかされたような気持ちになった。
このままでは済まさない。
敗北感に打ちのめされ、安治はその場を離れた。
そして、わざと大きな音をさせてドアを閉め、急いで階段を駆け下りていった。

─────────────────

安治が事務室から自分の部屋に戻り、机に落ち着くとすぐにドアがノックされた。
彼が人嫌いであり、部屋を訪問されるのが好かないということは、帝撃の人間なら誰でも知っている。
安治はあからさまに不機嫌な顔をしたが、それでも無視するわけにもいかない。
低い声で返事した。

「……どうぞ」
「失礼します」

女の声である。
振り返ると、入ってきたのはマリア・タチバナだった。
その長身のすぐ後ろに、着物と袴を着込んだ真宮寺さくらがいる。

「すみません、お忙しいところ……」

さくらは少し恐縮したように頭を下げた。

「何でしょう?」

さくらだけならさっさと追い返したところだが、マリアがいたので安治は仕方なく応対した。
マリアは手に持った長いものを安治にすっと差し出した。

「お預かりしたこれ……、ちょうどいいと思います。重さもバランスも……」

ライフル銃だった。
といっても本物ではない。
小道具として安治が作ったものである。
最初に造ったものを手にしたマリアが、持った感触や重量について注文をつけたのだ。
試作で渡されたものは些か軽すぎて、どうも実感がない。
いかに芝居とはいえ、演じている時はその役になりきるのがマリアの主義だ。
見た目はともかく、この軽さでは玩具のようだと思ったようだ。

この美女が完璧主義なのは安治もよく知っていたから、試作品をマリアの預けて使い心地を確認してもらっていたのだ。
安治は知らなかったが、何しろマリアはロシア革命当時、本物の小銃を扱っている。
それだけに拘りもあった。
安治は本物など知らないし、そういう面ではマリアを信頼していたからすぐに手直ししたのである。
そして預かった試作二号は、実銃経験者のマリアから見てもほぼ完璧な出来だった。

次回公演は、プーシキンの「大尉の娘」である。
主役のピョートル・グリニョフを演じるのは男装するマリアだ。
貴族の子息なのだが、父の意向で辺境守備隊に配属されることになる。
下級士官で、小銃を撃つシーンがある。
マリアは確かに貴族然とした気品や気高さがあるから、このキャストはハマリ役だろう。

一方のさくらはヒロインであるマーリヤ・ミローナヴァを担当する。
題名が「大尉の娘」であるように、さくらは司令官であるミローナヴァ大尉の娘役だ。

「そうですか」

安治はマリアの言葉に満足し頷いて見せたが、さくらまで来ている理由がわからない。
安治の咎めるような視線を感じたのか、さくらは恐縮したような表情で頭を下げた。

「あ……、すみません。あたしはあんまり関係なかったんですけど、溝口さんに少し興味があったものですから……」
「さくら」

言い方が失礼だとマリアがさくらを注意した。
さくらもすぐに気づき、慌てて謝り、言い直した。

「あ、興味があったっていうか、あたし、あんまり溝口さんとお話したことありませんでしたし、どんな人かなって……」
「……」
「それに、溝口さんの造る小道具を見てて、いつも「すごいなあ」って思ってたんです。だから、その……、どんな人かな、とか、仕事場ってどんな感じだろうって……、あ、これも失礼ですね、すみません」

さくらはそう言って、また頭を下げた。
普通なら、その愛らしい仕草や反応に好感を持つだろうし、さくらのルックスにも注目するところだが、生憎、安治には興味の対象外である。
だが、若い女の子に頭を下げられてなおぞんざいに扱うつもりはなかったし、何しろマリアもそこにいるのだ。
少しは度量の大きいところも見せておかねばならない。

「……構いませんよ。それに僕の仕事に興味を持ってくれるのは嬉しいことです」
「いいえ。私たち花組はもちろんですが、他の人たちもみんな小道具の溝口さんの仕事ぶりには感心してるんですよ」
「そうですよ! あたしなんかぶきっちょだから、よくこんな細かいものが作れるなあ、すごいなあって思ってたんですから」

マリアとさくらが口々にそう言った。
さくらはともかく、マリアの方は少々外交辞令が入っている。
その腕前は確かだが、安治の人間性の問題があるから、あまり接触したいとは思っていない。
だから、さくらが一緒に行きたいと言った時には遠回しに止めたのだが、さくらは「是非」と言って聞かなかったのである。

そのさくらは、物珍しそうに部屋を見渡している。
部屋の壁はすべて本棚で埋め尽くされている。
本棚には資料本もあったが、あとは各種工具やその材料などが乱雑に押し込まれていた。
大きな机の上も、小刀や彫刻刀、鑿や錐といった道具類、木片やその削りカス、何かの設計図らしきものが所狭しと散らばっていた。
少し異臭がするのは、塗料やシンナー、接着剤の匂いのせいだろう。
さくらは興味津々といった様子でキョロキョロと室内を見回し、あれこれ手に取っては感心している。

「あーー、これ、こないだの舞台で使った小道具ですよね」

さくらはそう言って、棚に置いてあった拳銃の模型を取り上げた。
ずっしりと重く、そして外観も極めてリアルである。

今でこそ溝口は小道具の責任者で、舞台で使うものを一手に引き受けているが、去年までは上司にあたる先輩がいた。
その先輩が造る小道具は、安価ではあるが簡素で、出来もそれなりであった。
マリアやさくらたちも、小道具はそうしたものだと思っていたから、安治の造った品を見て驚愕したものである。
ほとんど本物と見分けがつかなかったのだ。

安治の力量を感じ取り、先輩は退職していったとされている。
しかし実際のところは、自分より能力のない彼を安治が見下し、邪険に扱ったのが遠因らしかった。
以来、本や新聞、家具や日用品など室内にあるちょっとした物はすべて彼が造っていた。
その中には、今回の銃やナイフ、あるいはもっと専門的なものもあったが、凝り性の安治はそれらすべてを独りで作り上げたのだった。
さくらは無邪気に安治へ尋ねる。

「溝口さん、これ凄かったですよ。あたし、びっくりしちゃいました。あんなにおっきな音が出るなんて思いませんでした」
「……大したことはしてません」
「そんなことないですよ。だって溝口さん以前の小道具銃なんて、ホントおもちゃでしたもん」

確かに、安治の前任者が造っていたのは、木切れを削って拳銃らしい形にして、無造作に黒く塗っただけの代物だった。
手を抜いたわけではなく、それまでの舞台小物などというものは、その程度で充分だったのである。

だが、安治はそんなちゃちな造りのものが、どうしても我慢できなかった。
先輩がいなくなってから、「安い早い」だけが取り柄の添え物扱いの小道具から脱却し、一転してリアル志向になったのだ。
前任者に比べ、彼の造った模造銃は本物そっくりで、しかも金属製だった。
さらに銃口には穴が空き、そこから発砲音とともに火花が激しく射出されるというものだ。
これにはさくらだけでなく、マリアら他のメンバーたちも驚いた。
安治も、認められるというのは悪い気はしない。珍しく、少々自慢げに説明した。

「最初は火薬だけでやろうかとも思ったんですが、確実に着火できるかどうかわかりませんでした」
「じゃあ、何を使ったんです?」

マリアも少し興味深そうに聞いた。

「電気ですよ」
「電気?」
「ええ。引き金を引くと通電して、それが微量の火薬を炸裂させる仕組みです。原理は簡単で、思いつけば誰でも出来るものだと思います」
「へえ……」

マリアが珍しく感心したような表情になった。

前回公演は「ラ・トラヴィアータ」──「椿姫」だった。
ヒロインの高級娼婦ヴィオレッタはすみれが演じ、さくらはその友人である同じく娼婦のフローラを担当した。
そしてマリアは、ヴィオレッタに惹かれる若い貴族のアルフレード役である。
劇中、ヴィオレッタの前のパトロンであるドゥフォール男爵──これはカンナが演じた──と決闘となるのだが、カンナとマリアが手にした模造銃から、本物さながらに大音響の発砲音が響き、目にも鮮やかに銃火と硝煙が飛び交った。
その撃ち合いシーンが大評判となったのだ。

あまりにもリアルだったため、「これは本物の拳銃ではないのか」と疑った観客がいたらしく、通報を受けた警察が乗り込んでくる騒動となったくらいだ。
官憲の捜査に帝撃は大騒ぎだったが、担当した安治は慌てず騒がず、警察の命じるままに模造銃を提出した。
そしてその構造を説明し、これはあくまで小道具で銃弾は装填出来ず、当然発砲もできないこと、銃口から出る火花も見た目は派手だが飛び火は引火する可能性はほとんどないことを説明したのだった。
結局、駆けつけてきた警官は安治の説明とその実演を見て感心し、お咎めなしで引き上げたのだった。
このことが雑誌だけでなく新聞にも大きく取り上げられて大きな話題となり、評判が評判を呼んで、さらに観客が増えるという結果になった。

さくらが、さっき机に置かれた小銃に手を伸ばす。

「これもそうなるんですか? まだ大きな音で「ドーン」って……、あっ」

手に取ろうとして引き寄せると、机の上に散らかっていた図面や小刀が床に落ちてしまった。
さくらは慌てて腰を屈め、拾おうとする。

「すみません! あたし、そそっかしくて……」
「……大丈夫です。あ、手をケガするかも知れないから、僕が拾います」
「さくら……、そろそろ失礼しましょう。溝口さんはお忙しいから」

安治の迷惑そうな雰囲気を覚って、マリアはさくらにそう言った。
さくらの方は安治の機嫌には気づかなかったようだが、言われるままに身を引いた。

「すみません、お邪魔しちゃいまして……」
「いいえ……」
「じゃあ溝口さん、私たちは戻ります。次回もよろしくお願いします」

マリアはそう言って軽く会釈すると、さくらの手を引くように部屋から出て行った。

─────────────────

もう安治を押しとどめるものは何もなかった。
藤枝かえでは「穢れのない女神」ではない。
「ただの女」に過ぎないのだ。

となれば、あとは決行あるのみ、だった。
この時の安治に、理性や倫理がなかったわけではない。
劣情のみで行動していたということもなかった。

藤枝かえでを拉致監禁する。
そして自分のものとする。

今の安治には、これを実行することが、己にとっての正しい道だと思えてならなかった。
だからと言って、感情に押し流されて、いきなりかえでに手を出すなどという、愚かで短絡的な行動は執らなかった。
いかにしてバレずにかえでを誘拐し、自分に屈服させるのか。
そうしたことを縷々練っていく。

安治は、それまでもあやめやかえでに惚れてはいたものの、誘いをかけたりつきまとったりするようなことはなかった。
元来気が弱かったこともあるが、それ以上に彼女たちを神聖視しており、恋愛というよりも憧憬に近かったためだ。
無論、彼女たちを思って自慰したことは数えきれぬほどあるが、事後には押し潰されそうな後ろめたさもあったのだ。

しかし、そうした感情は先日目撃した大神との抱擁、キスシーンで一気に消え失せた。
偶像は地に落ち、かえでは女神から淫婦にまで転落したのである。

精神面での障害はなくなった。
あとはロジカルな部分を詰めれば良い。
やろうとしていることは犯罪なのだが、バレさえしなければ社会的に抹殺されることもない。
いかにうまくやるか。
安治はそのことばかり考え、謀を練っていった。

かえでは陸軍士官ではあるが、帝国華撃団に所属し常駐している。
しかも、本拠地である大帝国劇場に居住しているのだ。
つまり、公私ともに帝撃に入り浸りといっていいだろう。

しかし、帝撃内が無人になることはない。
安治は帝撃の人間なのだから劇場内は自由に動けるが、どこにでも行けるわけではない。
機密である霊子甲冑のある地下フロア──隊員たちが集う控え室やトレーニングルーム等には行けない。
かえでがここいる時は問題外なわけだ。
夜になれば人目は少なくなるものの、誰もいなくなるわけではない。
ご苦労なことに、大神は毎晩のように夜回りしているし、こともあろうにそこへかえでがつき合うことだってあるのだ。
サロンや食堂は人の出入りが激しいし、廊下でいきなり拉致も出来ない。
図書室のような場所にかえでとふたりっきりでいる機会があればともかく、そんなことはまずないだろう。
かえでがひとりで図書室へ入るところを見計らって襲うということも考えたが、あの時のように逢い引きのつもりで来るのであれば、直後に大神がやってくるだろう。

直接、かえでの部屋へ行くか。
安治とは顔見知りではあるから、訪ねていけばドアは開けてくれるだろうし、話もしてくれるとは思う。
場合によっては、中に招いて茶の一杯もご馳走してくれるかも知れぬ。
部屋に入った瞬間、当て身を食らわしたり殴り倒したりするなどということは、始めから考えてもいない。
運動不足の安治では、プロの軍人であるかえでに敵うはずもなかった。

うまく油断を誘って隙を突いたとしても、すぐさま反撃されて伸されるのがオチである。
そこで睡眠薬でも飲ませて攫うことも考えはしたが、やはり無理だ。
暴力的に倒した時でも同じだが、失神したかえでをどうやって運び出すかが問題なのだ。
帝撃内にある安治の作業部屋や、あまり使われていない倉庫を使う手もあったが、そこに一定期間かえでを監禁して置くのは難しいだろう。
様子を見る必要はあるし、食事の世話もあるだろう。
それより何より「本来の目的」を果たさねばならないのだ。
かえでの声や不自然な物音が聞こえれば、「何事か」と人が駆けつけるだろう。
第一、かえでが行方不明になれば、真っ先に帝撃内が捜索されるに決まっている。
どうしても外へ連れ出す必要があった

。ではどうするか。
うまく部屋でかえでを人事不省にしたとして、外へ運び出すのは至難の業だ。
足をずるずる引きずっていては時間もかかるし、音でバレてしまうだろう。
女ひとりとはいえ、ぐったりと失神したかえでを担いでいくのは、体力のない安治には無理な注文だ。

しかもかえでの部屋は二階である。
図書室やサロンなど、隊員たちが使う部屋はみな二階に集中しているから、どこで倒しても階下まで降りなければならない。
難しいというより、ほぼ不可能だった。

では、手紙か電話でかえでを呼び出すか。
それがいちばん確実そうだったが、何と言ってかえでを呼べばいいのか、皆目見当がつなかった。
何か脅しのタネでもあればいいが、生憎そんなものはない。
それに、手紙ではいざという時の証拠となってしまうし、電話で呼び出せば、受け継いだ風組の女に知られてしまう。

呼び出して拐かせばそれでおしまい、というわけではない。
かえで失踪の後、安治が疑われては困るのだ。
とすれば、証拠を残す方法は良策とは言えなかった。
あれこれ試行錯誤したものの、結局、こうしたことは出来るだけシンプルな方が成功しやすく、また発覚しにくいと気づいた。

あとは「外」で攫うしかなかった。そう狙いをつけると、安治はかえでの動向を注視した。
かえでは陸軍と帝撃の連絡官の役も果たしている。
他の隊員たちが、プライベート以外ではほとんど外出しないのに対し、かえでは仕事面で出かけることは珍しくないのだ。

自分であとをつけたり、出来ない時はカネを払って人を雇い、かえでをつけさせた。
その結果、かえでにはひとつの行動パターンがあることがわかった。
二週間に一度、三宅坂の陸軍省に出かけるのだ。
調べてみると、どうも帝撃(というより花組の)活動状況を軍へ報告へ行くらしい。
月に一度は司令である米田中将も同行しなければならないらしいのだが、米田が面倒がってかえでひとりに押しつけているらしい。
報告書を提出して簡単に口頭で説明し、軍からの連絡を受けて来るのだそうだ。
省内の滞在時間は極めて短く30分ほどだし、午前中に帝撃を出れば昼過ぎには戻ってくる。

だが、何度かに一度は、出発が午後だったり、午前中に出ても夕方まで戻らぬこともあった。
省内に米田のシンパがいて、希にかえでを捕まえて話し込んでいるらしい。
かえで自身も、参謀本部や省に友人知人はいるから、顔を合わせれば旧交を温めるくらいのこともあるのだろう。
理由はともあれ、一ヶ月に二、三度は外出し、遅くなる可能性がある、ということだ。
やるならその時を狙うしかない。

かえでの寄り道を期待するのだから確実性はない。
気長に待つしかないが、安治は辛抱強くその機会を窺った。

そしてその時は、案外早くやってきた。
この日は陸軍省への定期連絡に赴く予定だったのだが、午前中は米田や大神と何やら打ち合わせがあったらしく、出発は昼食後となった。

好機だと思った安治は、午後三時に早々と仕事を終わらせて退勤した。
もちろん帰宅したわけではなく、大帝国劇場の向かいにあるカフェに入り、じっとその入り口を見据えていた。
一時間、二時間と、安治は辛抱強く待ち続けた。
さすがに女給たちが胡散臭げに視線を走らせてくるので、苦情が出る前にコーヒーやビールを注文し続ける。

そして午後七時。
劇場の正面玄関が閉じられた。
かえでは、まだ帰って来ない。案の定、陸軍省で誰かにつかまっているのだろう。
風組の椿が大扉を閉め、大ホールに入るのを確認してから、安治は席を立った。
玄関が閉められても、関係者なら内部には入れる裏口があるのだ。
かえでもきっと、そこから帰ってくるに違いなかった。
裏口は薄暗く、高い塀の影もあるし、植え込みも多い。
隠れているには絶好の場所だった。
あとは、裏口付近に誰もいないことを祈るのみだ。
お節介な大神あたりが、かえでの帰りをそこで待っている可能性もないではない。

誰もないことを確認すると、安治は脚立を使って裏口についているガス灯の明かりを消した。
そして植え込みの陰に身を潜め、裏口近くやその中に人影のないことを確認した。

それからどれだけ待ったことだろう。ま
だかえでは戻らなかった。腕
時計を見ると、もう9時を回っている。さすがに安治も不安になってきた。

ひょっとしたら、外へ泊まってくるのではないか。
友人の家に限らず、たまには実家へ、ということだってあるだろう。
臍をかんだ安治が諦めて植え込みから出ようと腰を持ち上げると、キィッと裏口の門を開ける音がした。

「!」

咄嗟にまた植え込みに飛び込む。
大きく「がさっ」と音がしたが、入ってきた者は気づかなかったようだ。

(……来た!)

かえでだった。
カーキ色の軍服とタイトスカートに身を固め、コツコツと靴音を立てながら石畳を踏んでくる。
白い顔には少々疲労の色が見える。
会議が長引いたのか、それとも接待だったのか。

安治は靴を脱ぎ、靴下のまま歩いて足音を殺しながら、その後を追う。
かえでは、灯りが消えているのを不審そうに眺めてから、おもむろに胸ポケットに手を入れる。
安治は、かえでが裏口の鍵を取り出したところで、さっと彼女の後ろをとった。
さすがにかえでもその気配に気づいて振り返ろうとする。
安治は無言でかえでの首に右腕を回した。

「……!」

かえでは驚いたが、喉を絞められ声を潰されてしまう。
安治はかえでの首に巻いた腕を締め上げながら、左上腕部を掴む。
その左手で、もがくかえでの後頭部をグッと前に押した。

「ぐ……ぐうっ……」

気道を塞がれることはもとより、頸動脈をしっかりと押さえられ、絞めつけられて、見る見るうちにかえでの抵抗が止んでいく。
十秒もしないうちに、かえでは意識を失い、がっくりと首を垂れた。
足腰から力が抜け、かえでの肢体がくたっと安治にもたれかかった。

柄にもなく安治が焦る。
殺してしまったかも知れない、と思ったのである。
何しろ、こんなことをしたのは生まれて初めてなのだ。
本には、気道ではなく頸動脈を絞めて脳への血流を止めて、失神させる旨が書いてあった。
何度か人形で練習はしたが、見よう見まねであり、ぶっつけ本番だった。

安治はそのままかえでの身体を受け止め、そっと首筋に手を当ててみる。
暖かい。
そして脈はあった。
大丈夫、生きている。

安治は心底ホッとした。
もしこのままかえでが死んでしまったなら、自分も後追いで自殺しようと思っていたくらいなのだ。
もう一度、安治は辺りを見回す。
ただでさえ薄暗いのに、灯りが落ちてしまって、ほとんど暗闇になっている。
誰もいなかった。
安治はかえでの両脇に手を差し込み、そのままズルズルと引き摺ってそこから離れた。


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