黒之巣会との死闘を終え、帝国華撃団の面々にも休暇が与えられた。
無論、舞台興行との兼ね合いもあるのだが、戦士にも休息は必要だ。

さくら、すみれ、カンナはそれぞれ一時帰郷し、アイリスは紅蘭に連れられて神戸に行っている。
司令の米田は、かすみたち風組の面々までに休暇を与えたから、大帝国劇場は閑散としていた。
そのため、万が一にも降魔事件が発生しないよう、加山ら月組たちは神経を張り巡らせていた。
仮に降魔が出現した場合は、取り敢えず軍や警察に対処させ、その間に花組を呼び戻すとしていた。

この状況を不安視する向きもあったものの、月組の調査結果によると、近年の降魔事件の9割以上は黒之巣会絡みだったこと、それ以外の単発的降魔事件はほとんどが単体だったこともあって、米田は休暇の許可を出したのだった。
賢人機関や花小路伯爵もその旨を了承した。
大きな戦いの後だけに、心身の休息と息抜きは必要であるとの英断だった。

そして、先の戦いを通じて愛を育み、結ばれた大神一郎とマリア・タチバナは日本を離れ、彼女の故国であるロシアに旅立っていた。

「……」

だだっ広い平原で、雪がほぼ真横に吹きつけてくる。
関東出身である大神は、これほどの吹雪に遭遇したことはない。
陸軍に志願して、東北や北海道の部隊にでも配属されていれば、雪中行軍でこれくらいの悪天候は経験したかも知れない。
だが海軍軍人であり、士官学校卒業後すぐに華撃団に配属された彼にとっては未知の経験だった。

隣にいるマリアは平然としている。
聞いた話ではロゥティーンまではここで育ったそうだから慣れっこなのかも知れない。
あるいは彼女特有の意志の強さが、そうさせているのかも知れなかった。

すらりとした長身を紺の防寒服で纏っている。
分厚い毛皮のコートだが、それが頼りなくなるような極寒だった。
頭には同じ色の毛皮の帽子を被っていた。
ウシャンカと呼ぶのだそうで、いわゆるロシア帽である。
頭にすっぽりと被る厚い造りでツバはない。
大神も同じものを被っているが、耳当ての部分をしっかりと巻いて顔を防護している。
一方のマリアは耳当ては帽子の上でまとめたままで、ボブのブロンドが吹雪に舞っていた。

ふたりが訪れているのは広大な墓地であった。
マリアが長いこと跪き、祈っていたのは、ユーリ=ミハイル・ニコラーエビッチの墓だ。
大神もその間ずっと黙祷していたが、マリアが立ち上がったのを感じて目を開けた。
珍しくマリアが涙ぐんでいる。
そして「終わりました」と言うように、小さく頷いた。

「……すみませんでした、隊長。こんなところまで引っ張って来てしまって……」
「いや、これできみの気が済むのならいいんだ。それに……」

大神はマリアから視線を外すと、十字架を静かに見やった。

「……僕も彼に言いたいことがあったんだ」
「え……?」

大神はマリアに身を寄せて言った。

「……マリアは僕が責任を持って幸せにするってね。だから安らかに眠って下さい、と」
「隊長……」

マリアはそのまましばらく大神を抱きしめてからおもむろに言った。

「以前にもお話したと思いますが、この人……ユーリは私の恩人です」

「……そうだったね」
「これも話したかも知れませんが……、彼は私の兄のような存在でもあり……」
「恋人……でもあったんだね」
「はい……」

マリアは大神を見つめていた目を、再びユーリの墓標にやった。
そして大神を振り返った時には優しそうな微笑みを浮かべていた。

「……正式に交わしたわけではありませんけど、婚約もしていたんです」
「そうか……」
「でも、その時私はまだ14歳でしたし、ママゴトみたいなものだったと思います」

そう言うと、マリアは一瞬、懐かしそうな表情を浮かべた。

「多分、ユーリも困ったんじゃないかと思います。でも私が、どうしても結婚したいと……」
「……」
「だから、婚約したといっても、その後も関係は特に変わりませんでした。部隊の中でも、恋人同士というよりも兄妹のように思われていたんじゃないでしょうか。キスもしたことありませんでしたから……」

抱擁する身体の体温が伝わる。
ふたりとも、分厚いファーを通して互いのぬくもりを体感し合っていた。

「……これでケジメも踏ん切りもつきました。本当にありがとうございました、隊長」
「マリア……」

ふたりのシルエットが近づき、顔が重なっていく。

────────────────

風は止み、雪も小降りになってきていた。
マリアと大神は、墓地からそう遠くない小さな街を歩いていた。
あたりはすっかり夜の帷が降りている。
まばらにあるガス灯はところどころ消えていて、街路は薄暗い。
寂れた街だった。
今晩はこの街で一泊する予定だ。

ふたりは寄り添って歩いていたものの、腕を組むとか肩を抱くとか、そういうことはしていない。
そんなことをするには大神はシャイ過ぎたし、マリアも人前でベタベタする趣味はなかった。
そうしたいのなら、ふたりっきりの時にすればいいと思っているのだ。

マリアのブーツと大神の革靴が、石畳をコツコツと響かせている。
厚い靴下と手袋をしているが、爪先も指の先も麻痺するほどに凍えていた。
早くホテルに戻って、ゆっくりと暖かい食事をしたかった。
その時だった。

「あっ……」

マリアと大神の間をすり抜けていく男がいた。
大神は、その大柄な男に突き飛ばされる格好となり、無様なほどにひっくり返ってしまう。
マリアが慌てて駆け寄った。

「隊長!」

すぐに大神を抱え起こすと同時に、早足で去って行く無礼な男に言葉を投げつける。

「あなた……、待ちなさい!」

ふたりは、くっつきそうなほどの距離で並んで歩いていたのだから、わざわざその隙間を通り抜けていく必要はない。
おまけに行き交う人はまばらで、何もそんな狭いところを通る意味はないのだ。

「……!」

そう考えてハッとした。
マリアは慌てた表情で大神に確認する。

「隊長、大丈夫ですか!?」
「あ、ああ、平気だよ。ケガはない」

大神はようやく立ち上がり、コートに付着した雪を払い落とし、腰をさすった。
転んだ拍子に、歩道へ尻でも打ち付けたらしい。

「何か……、盗られてませんか!? 財布とか……」
「え……?」

スリだったのか。
そう考えれば、あの男の行動にも納得がいく。
小柄で身なりの良い大神に目を着けたのだろう。
マリアに言われて大神も気づき、すぐにポケットを擦った。

「……ない!」

大神の顔が青くなったのは寒さのためだけではあるまい。
コートの内ポケットに入れておいた札入れが見事になくなっていた。
もしや他の衣類かと思い、コート下のジャケットのポケットやズボンのポケットも探ってみたが、やはり財布などなかった。

「やられた……」
「隊長……」

大神を介抱しつつも、逃げていった男から目を離さずにいたマリアだったが、犯人は素早く人並みに紛れ、消え失せていた。
細い路地があちこちにあるこの街では、すぐに追いかけなければ捕捉は難しかっただろう。
マリアは念のために確認する。

「全部……ですか?」
「ああ……」
「……」

悔しそうに顔を歪めた大神に、申し訳なさそうに詫びた。

「すみません、隊長……。私がちゃんと気をつけるように言っていれば……」

大神にとっては異国だが、マリアにとっては父の母国である。
そこでの災難だったから、何か自分が悪いことをしたような気すらしていた。

マリアたちの参加したロシア革命で帝政は倒れ、新生ゾヴィエトが成立したものの、国内はまだまだ不穏な空気が漂っている。
革命は為ったものの、その後の内戦に加え、ロシアの混乱を見た外国のシベリア出兵も絡み、情勢は落ち着いているとはとても言えなかった。
そんなところに、お上りさんよろしく人の良い日本人がぶらぶらしていれば、良からぬことを企む連中に狙われて当然だろう。
まるで自分のことのように謝るマリアに、大神は手を軽く振って笑った。

「マリアが謝ることじゃないよ。それに、ぼけっと歩いていた僕も悪かった。治安が悪いのはわかっていたんだから、もう少し注意するべきだったんだ」

これは大神の本心である。
スリにやられたのも迂闊だったが、それ以上にコートのポケットへ財布をしまうこと自体、油断だ。
コートの下のジャケットの内ポケットなら、そうそうスリは出来ないだろうし、そこまで手を突っ込まれればいやでも気づくだろう。
今さらながら、大神も男の逃げた方向を見やった。

「逃げてしまったね……」
「……隊長、すられたのはお金だけですか?」

大神はゆっくりを首を振った。

「いいや……。全部だね」
「全部……」

これこそが手落ちだっただろう。
大神は、現金だけでなく札入れにパスポートや査証、身分証明書まで入れていたのだ。
それをそっくりやられたのである。
呆然とする大神を連れ、マリアは取り敢えず宿泊予定のホテルへ戻った。
小さなラウンジでロシアンティを啜りながら、今後の対応策を考える。

「こうなっては仕方ないよ。とにかく大使館へ行って再発行してもらうしかない」

何しろ、長いとはいえ休暇は一週間しかない。
明後日にはもう日本へ帰国しなければならないのだ。

「ちょっと時間は遅いけど、今から……」
「でも、もう夜です。あまり治安の良くない街ですから、この時間にうろつくのは……」
「だけど時間がないよ。大使館だけじゃなく駐在武官事務所へも行って身分証明書も作ってもらわないと」

パスポートや身分証明書は日本の大使館や駐在武官が出してくれるから問題はないが、現状の混乱しているロシアでは、大使館が申請しても査証が下りるのに時間がかかるだろう。
まごまごしていては帰国が間に合わなくなってしまう。

少し心配ではあったが、結局マリアも同意するしかなかった。
当然マリアも同行するし、今度は大神も注意するだろう。
いざという時のために、マリアは護身用の拳銃を持参している。
これにも所持許可証が必要だから、もし大神もピストルを持ってきていたらまずいことになった可能性もある。
不法所持ということで官憲に引っ張られかねない。
今は国中が殺気立っているような状態だから、武器を持った外国人がいれば容赦なく逮捕されてしまうだろう。

この街の日本大使館の出張所の場所は確認してある。
念のため、フロントから電話を入れてみたが、もう定刻を過ぎているからか、誰も出なかった。
仕方なくモスクワの駐在武官事務所へ連絡を取ると、こっちは常勤なのか担当者がいてくれた。
事情を話すと、武官も海軍軍人だったらしく大神に同情してくれて、すぐに再発行することを約束してくれた。
出張所の責任者のところへ連絡しておくので、すぐに出かけるように言ってきた。
もし閉まっていたら、開けるよう再度連絡するのでまた電話して欲しい、とのことだった。

大神は、親身に相談に乗ってくれた担当官に感謝し、言われた通りすぐに出発した。
ホテルから徒歩20分ほどの場所だが、街の中心地にある。
この時間ならまだ開いている店もあるし、街灯も万全だろう。
何より警官だっているはずだ。

ただ、警官がいたとしても痛し痒しで、もし大神が目を着けられて職務質問でもされれば面倒なことになる。
だが、そうなればなったでマリアが何とかするしかない。
マリアの方は査証もパスポートも正規のものがあるのだ。
何とかなるだろう。

いつの間にか雪は上がっていた。
人もまだ多く、どうやら無事に着きそうである。

「あ、隊長、灯りが……」

マリアが指差した先には、大使館出張所があった。
見れば、窓から灯りが漏れ、その中に人が行き来しているのがわかる。

「よし、行こう」
「っ……!」

早足になった大神の裾をマリアが強く掴んだ。
何事かと思ったが、すぐにわかった。
検問である。
通りを歩く人たちを片っ端から呼び止めている。
市民が渋々何か差し出しているのを見ると、やはり身分証を確認しているらしかった。

その時である。
若い女性がパスして歩き去った後、やや腹の出た中年男が警官を振り切って逃走したのだ。
大声を上げて警官ふたりが追いかけたが、路上の人たちは騒いでもいない。
日常的なことらしいのだ。
治安の悪いこの地へ、脛に傷持つものや外国の諜報員たちが入り込むのは珍しいことではなかった。

大神は身がすくんだものの、目の前に大使館出張所はあるし、いざとなればロシア国籍もあり、パスポートを持っているマリアが事情を話せばいい。
大神はそう言ったのだが、マリアはやや緊張した面持ちで首を振った。

「……普通の警官だけならいいんですが、ほら……」

制服警官が逃げた男を追った後は、私服の男たちが続けて検問を続けていた。
見るからに目つきが怪しい気がする。
大神は小声で聞いた。

「あれは……、刑事か何かかい?」
「いいえ……。恐らく秘密警察だと思います」
「秘密警察?」
「ええ……。不法侵入者や反乱分子を取り締まってる連中です。やつらは……」

マリアがそう言いかけると、男たちはふたりに気づいたように近寄ってきた。
さきほどの騒ぎを見て立ちすくんでいた大神たちに目を着けたらしい。

マリアが身構える。
手でコートの上からエンフィールドを抑えていた。
まさか発砲は出来ないが、向こうが強攻策で来た場合はやむを得まい。
咄嗟に逃げようかとも思ったが、さすがにマリアでもこの辺の地理には疎い。
匿ってくれる知人もいない。
仮に逃げ切れたとしても、人里離れた場所なら遭難しかねかった。

「おい」

案の定、マリアたちに声を掛けてきた。
カーキ色のロシア帽を被った男と、ソフト帽でサングラスの男が近寄ってくる。
マリアと大神をじろりと睨みながらロシア帽の方が言った。

「今、逃げようとしたな」
「……そんなことないわ」
「ウソをつけ。さっき、警官どもがあの男を追いかけていったのを見て足を止めただろう」
「だから、そんなものを見たから驚いただけよ。逃げたりはしないわ」
「ふん、どうだかな。おい、おまえ」

男は大神を呼んだ。
サングラスの男の方は、さっきからずっと大神を見つめている。
見るからにロシア人でなかったから、胡散臭く思ったのだろう。

「おまえ、モンゴル人か?」
「……いや、俺は……」
「なに? それは何語だ? おまえ何人だ?」

当然、大神にロシア語はわからないから、変わってマリアが答えた。

「この人は日本人よ」
「日本人だと? そう言うおまえはどうなんだ? 身分証を見せろ」
「……」

マリアは黙って身分証明書とパスポートを差し出した。
男はひったくるようにそれを奪うと、中身を検める。

「……ほう、おまえ我が国と日本と両方の国籍があるんだな。親のどっちかが日本人なのか? それとも日本に永住しているのか」
「パスポートと身分証明書に書いてある以上の情報を言う必要はないわ。それよりさっさと確認して」
「ふん」

男はマリアをちらちらと見ながら、鼻を鳴らして証明書を眺めている。
不備はなかったらしく、些か不満そうにマリアへそれを突き返した。
サングラスの男は相変わらず大神をじっと見ている。
その様子に警戒するように、マリアは大神へアイサインを送った。

「今度はおまえだ」
「……」

大神は動けなかった。
言葉はわからないが、恐らくパスポートの提出を求めているのだろう。
わかってはいるが、持ってない以上どうしようもない。
すかさずマリアが割って入った。

「さっきも言ったけど、この人は日本人よ」
「それは聞いた。おまえからもこの日本人にパスポートを出せと言え」

マリアはやや口ごもってから言った。

「……ないわ」
「なに?」
「さっきスリにやられたのよ。この人の財布とパスポート、それに身分証明書まで……」
「都合の良い話だな。外国人がパスポートもなしで街をうろつけばどうなるかわかっているだろう」
「わかってるわ。だから私たちはあそこへ……」

マリアはそう言って日本大使館出張所を指差した。
あと5分の距離なのだ。
だが、男たちは無情にも立ちはだかった。

「そうは行かんな。どうも怪しい男だと思ったが……、やはりこいつはスパイか?」
「違うわ! この人は日本の軍人よ!」

言ってからマリアは「しまった」と思った。
日本軍もシベリア出兵していて、ロシア人の対日感情は決して良くはない。
加えて軍人だとわかれば難癖つけられるに決まっている。
それどころか、陥れられて本当に逮捕されてしまう可能性だってあった。
案の定、男たちの顔色が変わった。

「……軍人だと?」
「きさま、日本軍か」

言葉のわからぬ大神はもちろん、マリアも無言だった。
サングラスの男が大神の腕を、背中でねじり上げた。

「うっ……!」
「隊長!」

マリアは思わず助けようとしたが、ロシア帽の男に遮られた。

「何するの!」
「それはこっちのセリフだな。なぜロシア人のおまえが日本の男を庇うのだ」

マリアは黙っていた。
事情を説明してもわかってもらえないだろうし、マリアが日本の準軍事組織である帝撃に所属しているとわかれば、ますます怪しまれるだろう。

「おまえにも来てもらおう。連行しろ!」
「や、やめなさい! 隊長に乱暴しないで!」
「うるさい。だったらおとなしくするように言え」
「待って! 大使館へ……日本大使館へ行かせて! そこへ行けば事情を説明してくれるわ!」
「その必要はない。ここはソヴィエトロシアだ。ジャップどもの言うことなど聞かん」

マリアは大声で抗議したが、相手は強引に連行していった。
マリアの声は大使館までは届かず、中にいた人物が窓の奥から外を覗いただけだった。

────────────────

ふたりが連行されたのは、煉瓦造りの簡素な建物だった。
ただ、平屋ではあったがスペースはかなりのもので、マリアたちは建物の中を20分以上歩かされて、ようやく部屋に辿り着いた。
しかし、同じ所をぐるぐる回っているような気もしたから、もしかすると建物内の部屋の位置を知られないために、わざとそうしていた可能性もある。
あるいは、どの部屋や廊下も似たような造りにして、そう見せているのかも知れなかった。
いずれにしても、万が一の脱走に備えて内部や外への通路をわかりにくくしているのだろう。

マリアと大神は引き離され、それぞれ別の部屋に押し込められた。
隣同士の部屋ではあるが、壁は厚い煉瓦であり、打ち破るどころか声も届きそうになかった。

「あっ……!」

ドアを開けると、マリアは後ろから突き飛ばされるように部屋へ入った。
危うく転びそうになったものの、そこは持ち前の反射神経と運動能力がものを言い、何とか転倒は免れた。

「何するの!」

その乱暴な扱いに怒りを露わにしたマリアの顔の前でドアが閉じられた。
抗議は届くことなく、厚い鉄扉に跳ね返される。
と、その背中から突然に話しかけられた。

「大丈夫かね?」

驚いて振り返ると、そこには別の男たちが立って待っていた。
ふたりは白人で、それぞれ金髪と白髪に近い銀髪だ。
もうひとりはモンゴロイド系らしく、肌の色はアジア人に近かったし、髪も黒かった。
いずれも大柄で、がっしりとした体つきだった。
街でマリアたちを拘束し、ここまで連行してきたやつらは大神と同じくらいの背丈で、長身のマリアを見上げるように睨んでいた。
しかし、こいつらはマリアを睥睨出来るくらいの長身だった。
マリアは186センチという長身で、それが男役としても打って付けだったのだが、この男たちは同じくらいかそれ以上、多分190センチくらいの身長に見えた。
銀髪の中年男が気軽に話しかけてくる。

「すまなかったな、乱暴な振る舞いをして」
「……」
「あいつらは、どうも粗暴に過ぎる。情けというものを知らん」

本能的に警戒し、マリアは身構えて男たちと対峙する。

「……誰?」

銀髪はにやりと笑って名乗った。

「私はセルゲイ・チェルノフという者だ。後ろにいるのはボリス・オレコフ、ミハイル・トカチェンコだ」

紹介すると、右側にいた若そうな金髪の男──ミハイルは軽く頷いたが、アジア系の男──ボリスはむっつりと黙ったままマリアを見つめていた。
マリアは男たちから目を離さずに言った。

「名前はわかったわ。で、何者なの、あなたたち? ここは警察署には見えないんだけど」

マリアの知識にある警察のイメージとはまるで違った。
建物は煉瓦とコンクリートの無機質そのものな外観だったし、そもそも警察という看板すら出ていなかったと思う。
内部も職員や制服警官らしい者はいなかったし、廊下ですれ違った人さえいなかった。
長い廊下にはいくつも鉄のドアがあるのが異様だった。
ぴったりと閉じていて中の様子は窺えなかったものの、内部に人の気配がある部屋もいくつかあったように思う。
すべてを見たわけではないが、これで鉄格子の入った牢屋でもあれば収容所か何かだと思うだろう。

「その前に、きみ自身の自己紹介をお願いしたいんだがね」
「……私のパスポートはそっちが持ってるでしょう」
「そうだったな」

リーダーらしいセルゲイがせせら笑った。
後ろにいたミハイルが、手にしたマリアのパスポートに目を走らせて読み上げる。

「……マリア・タチバナ。1903年6月19日生まれ。今年で20歳ということですね。出身は……、ほう、キエフのようです。ウクライナ人か」
「……」
「国籍は我が国と日本の両方ですね」
「なるほど」

ミハイルの言葉を聞いてセルゲイが何度も頷いた。

「ハーフだと聞いていたが、片親が日本人ということか。うーん、それにしては……」

そう言ってセルゲイはじろじろとマリアを眺め回した。
美しいブロンドは短くボブにまとめている。
切れ長の鋭い目を片方隠すかのように、髪を顔に下ろしていた。
肌は透けるように白く、これはロシアの若い女独特のものに見えた。
身長もすらりと高く、チビで短足の日本人とは思えなかった。
マリアは、その目つきに何とも言えぬいやらしさを感じ、両手でコートの襟元を引き寄せた。

「ま、座りたまえ」

セルゲイはマリアに椅子を勧めると、自分たちも腰を下ろした。
広いが粗末な木の机の向こう側に三人が座ると、マリアも遅れて対面に腰掛けた。
椅子も木製の安上がりなもので、もちろん肘掛けなどない。
机には大きなライトがあり、煌々と白く強い光を放っている。

マリアは周囲を見回した。
室内灯は天井に埋め込まれたタイプで、時折チカチカと瞬いて心許ない。
あまり光量は強くないようで、部屋全体が薄暗かった。
室内は質素そのもので、腰から下くらいは煉瓦積み、その上はコンクリート打ちっ放しである。
マリアから見て右手の方に大きな窓がひとつあるが、カーテンが引かれていて外の様子は見えない。
窓はそのひとつしかないようだ。

天井隅に換気扇が三台並んで設置されており、その下は洗顔台なのか水道があった。
他に、そのすぐ隣に水道の蛇口らしいのが3つくっついている。
ここには流水を受ける水洗台はないのだが、蛇口には細いホースのようなものが伸びていて、それが床で蟠っていた。
何に使うのかはわからない。
見ればバケツも数個、無造作に転がっているから、それに水を出して使うのだろうか。

角の方に、これも木造りの棚が4つほど備え付けられている。
うち2つは本や資料が乱雑押し込められていた。
あとのふたつが食器棚みたいで、引き出しや引き戸がついている。
何が入っているのかまではわからなかった。
壁には受話器が設置されていて、外部と連絡が取れるらしい。

取調室かと思ったのだが、それにしては広すぎる気がするし、いくつもある換気扇やら水道の蛇口の意味がわからなかった。
銀髪の髭を蓄えたセルゲイは、ウォッカを小さなグラスに注ぐとマリアに勧めた。

「一杯どうかね? 凍えた身体にはこいつがいちばんだ」
「……」

室内は程よい気温に保たれており、マリアは厚手のコートを脱いだ。
アルコールで身体を温める必要はない。
セルゲイはマリアに勧めてから、自分のグラスにも注いで軽く飲み干した。
ノックもなくドアが開くと、先ほどマリアたちを連行した小柄な男が入室してきた。
マリアをじろりを睨みつけたまま、セルゲイに書類を手渡す。
セルゲイは手にした資料とマリアを交互に見ながら話し始めた。

「……ほう。これはこれは……」

銀髪の男はにやりとした。

「なかなか興味深い経歴だとは思わんかね、同志ミハエル」
「……そうですな」
「なるほど、やはり日本人とのハーフか。父親はブリューソフ=ワリー・ドミートリエビッチ……帝政時代の外交官か」

それだけでも充分に現政権の迫害対象になるだろう。

「母親は日本人留学生だったそうだな。名は橘須磨か。ん? 正式な結婚ではないのか? おまえ、嫡外子か」
「……」

あからさまな差別発言にマリアは表情を硬くした。
婚姻届は出していないが、両親は愛し合い慈しみ合っていた。
その結晶としてマリアは生を受けたのだ。
互いの宗教の違いで届けが出せなかっただけの話なのだ。

愛し合うことは難しくない。
しかし、それと結婚して共に暮らすことは別なのである。
父母ともに母国に両親がいる。
父も母も、彼らを裏切るは出来なかっただけだ。

父はロシア正教徒だったが、母は敬虔なカトリックだったのである。
母は夫の母国へ渡ることは厭わなかったが、改宗だけは強く拒んだのだった。
妻を深く愛していた夫も、彼女に改宗を強要はしなかった。
だから正式な婚姻が出来なかったのだ。

マリア自身、そのことはまったく気にしていなかった。
手続き不備など些細なことだ。
自分の信念を曲げねばならないくらいなら、そんなことはどうでもよかった。
セルゲイはなおもねちねちとマリアの経歴を責め立てていく。

「ちなみに両親ともに既に死亡か。なに? スパイ容疑?」

今度はセルゲイの表情が変わった。
それを見て、隣にいたミハエルが捕捉を加えた。

「……妻のスマ・タチバナが日本人だったこともあっての容疑だったそうです。ドミートエビッチは外交官だったため、彼から機密情報を収集し、妻のスマへ流していたのではないか、と……」
「……ふたりを侮辱しないで。父も母もそんな人じゃないわ」
「犯罪者はいつだって「自分は無実」だと口にするものだ」

ミハエルのすかしたような言葉にマリアの美貌が強張った。
椅子がガタリと鳴り、長身の美女が立ち上がろうとする。
察したセルゲイがふたりに割って入った。

「まあ、落ち着きたまえ。今はおまえのことを聞いているのだ、両親のことではない」
「……」

マリアは黙って引き下がったが、この時セルゲイの口調が少し変わったことに気づいた。
さっきまでマリアを「きみ」と呼んでいたのに、今は「おまえ」としている。

「……ふむ、両親ともにシベリア送りか。自白したのかな」

自供したとしても、脅迫や拷問で強引に供述を取ったに違いない。
だいいち自白しなくとも、彼らは嫌疑を掛けただけで流刑にしていたのだ。

「で、シベリアでふたりとも死亡となっているな。気の毒だ」
「……」
「その後は……、おまえは我が革命に参加、か。しかし何歳だったんだ? 今、20歳だというなら……10歳にもなっていないのか。その歳で革命に参加したのか?」

セルゲイだけでなく、隣に控えるふたりの部下たちも少し驚いたような顔になった。
マリアとて、ロシアの現状に憂いて革命参加したわけではない。
そんな分別が出来る年齢ではなかったのだ。
当時の(今もそうかも知れないが)ロシアで、何の伝手もない幼い少女が生きていける道などなかった。
生きるため。
ただそれだけのために、マリアはその小さな手に銃を執ったのである。

「こいつは驚いた。しかも革命軍として政府軍との戦闘に出たのか」
「……」

セルゲイは感心したように何度も頷いた。
デモ行進にでも参加したのかと思っていたが、とんでもない経歴の持ち主だったらしい。
その後ろからふたりの部下も、マリアの経歴書を覗き込んでいる。

「火喰い鳥?」

セルゲイはその言葉を見て、思い出したように言った。

「そう言えば聞いたことがある。革命軍にクワッサリー……「火喰い鳥」の異名を取る凄腕の兵士がいる、とな。まだ幼い少女で、確か名はマリア……。そうか、それがおまえなのか」

それを聞いてミハエルも、そして表情のあまり動かないボリスでさえ「おう」と声を上げた。
マリアの名はロシア革命軍の中でも伝説的になっていたのだ。

「それだけなら、我々は敬意を持っておまえに接しなければならん。だが……」

セルゲイの目が冷酷に光った。

「その後の経歴には感心できんな。おまえは自分の部隊が全滅すると革命途上で母国ロシアから逃げ出し、アメリカへ渡った」
「……」
「その後、なぜか日本に行き……帝国華撃団に所属……。なんだこの華撃団というのは?」
「……」
「ダンマリか。報告書によると、日本陸軍に関係があるらしいな。武装集団とも聞いている。きさま、祖国を捨てて日本の犬に成り下がったか」
「……同志セルゲイ、この女、二度も我がロシアを裏切ったことになります」

ミハエルは憎々しげにそう言った。

「そうなるな。その理由も含め、今の任務にも答えてもらおうか」
「……今の任務?」

マリアは強張った表情でつぶやいた。
ロシア人たちは大きく頷く。

「そうとも。いったいどんな密命を帯びてこの国へやってきたんだ?」
「そんなものは何もないわ」
「そんなことはあるまい。きさまの過去の経歴、そして今の身分を見れば、何の意味もなくこのロシアに訪れる理由はあるまい」
「墓参りよ。……昔の仲間のね」

仕方なくマリアはそう言った。
信じてもらえるとは思えないが、事実なのだから他に言いようがなかった。
セルゲイは嘲笑した。

「墓参りだと? わざわざ日本からこのロシアへ墓参に来たというのかね?」
「……そうよ」
「しかも日本人の男……それも日本海軍の将校と一緒にか? それを信じろというのかね?」
「……」
「きさまは陸軍に関係した組織の一員だ。それが海軍の士官と一緒にこの国へやってきた。その理由が墓参りか、笑わせるな。おまけに……」

セルゲイが目で合図すると、ボリスがゴトリと重たそうな銃をテーブルに置いた。
マリアの持っていたエンフィールドである。
セルゲイはその銃を弄ぶようにして言った。

「こんなもので武装しないと危なくてこの国では出歩けない、とでも言う気かね」
「……」
「無許可で武器を所持しているだけで立派な犯罪だ。我々はおまえたちを逮捕拘束する権限がある。我々は……」
「……チェーカーね?」

チェーカーとは、ロシア革命後にレーニンによって設立された秘密警察である。
人民委員会直属で、言ってみれば党の私設警察と言っていいだろう。
反革命分子の徹底的な摘発と拷問、処刑で知られている組織だ。
その強引で苛烈な捜査は「人民の敵」摘発には効果的ではあったが、大した根拠もなく憶測や思い込み、ミスリードでも容赦なく逮捕したから国民は萎縮した。
帝政時代の権力者や富豪、知識階級、軍人、聖職者に至るまで軒並み検挙され、ある者は処刑され、またある者は収容所送りとなった。
別に帝政とは関係のない一般人であっても、僅かでも外国人と関わりのあっただけでスパイとして粛清されるなど、その横暴さはエスカレートしていった。
しまいにはチェーカー内部でも虚偽の密告や裏切りで処分される者まで出始め、組織として収拾がつかなくなってきていた。
権限が拡大し組織が巨大化するにつれ、内部が腐敗していくのは洋の東西を問わないらしい。

セルゲイはマリアの言葉を受けて言った。

「日本に住んでいた割りには事情通のようだな。だが今はGPUと名が変わっている。覚えておきたまえ」
「で? そのGPUが私に何を聞きたいわけ?」
「さっき言った通りだ。何をしにここへ来た?」
「……しつこいわね。墓参だと言ったでしょう」
「そうか。あくまでそういう態度を取る、というわけか。仕方ない」

セルゲイがスッと手を上げると、ボリスは無言で窓のカーテンを開いた。
大きな窓の向こうに、椅子に縛り付けられた大神の姿があった。

「……隊長!」

どうやらマジックミラーのようで、マリアの側から大神の部屋の様子は窺えるが、逆は鏡になっているらしい。
マリアは初めて動揺を見せ、強く叫んだ。

「隊長は無関係よ! 解放して!」
「無関係ってことはなかろう。現におまえと同行していたのだからな」
「だ、だからそれは……」
「よしんば目的が墓参だとしても、なぜ日本人の男までついてくるのだ?」
「それは……」

恋人だから、である。
以前の恋人だった故人に、マリアが別れを告げ、ケジメを付けるたけにやってきたのだ。
セルゲイは言った。

「どう考えてもおまえと同じ任務で来たとしか思えん。しかも、どちらも軍関係者と来てる。我々としては、おまえたちは我が国を混乱させようとして侵入した工作員か……」
「違うわ!」
「あるいはスパイだと判断している」

どう言っても無駄だろう。
やつらは証拠がなければ作ってでも反乱分子やスパイをでっちあげ、粛清してきたのだ。
マリアは最後の手段に出た。

「大使館に連絡をとって! 日本大使館か、日本の駐在武官に……」
「外交問題にでもする気かね。だが、そうはいかん。おまえたちが素直にスパイだと認めれば、大使館を通じて交渉の余地はある」
「スパイなんかじゃないわ!」
「やれやれ、頑固なことだ。今まで捕らえたスパイどもも、異口同音におまえと同じように無実を叫んでいたものだが……」

そこで銀髪の男はにやりと笑った。

「こちらの訊問の結果、ほとんどは自白している。おい」
「はい」

ミハエルは返事をすると、壁の受話器を取って何事か伝えている。
すると、ミラーの向こうで動きがあった。
太った髭面の男が大神の髪を掴むと、ぐいっと背もたれに頭を押しつけた。

「隊長!」

今度は大神の顔の上にタオルのような布きれを被せている。
何をするのかと思っていると、もうひとりの男が大神の顔にヤカンで水を浴びせ始めた。
大神はびくりとして顔を振ろうとするものの、髭男が髪を掴んで離さない。
そのまま連続的に水をかけ続けている。

「隊長!」

窓の向こうの出来事は現実感がなく、まるで映画でも見ているかのようだったが、その中で大神が苦悶していた。
水に濡れた布地が鼻や口を覆い、呼吸を妨げている。
息をしようとすると、鼻腔や口の中に水が大量に流れ込んでくるのだ。
男たちは何度も何度も大神の顔に水を浴びせ続けている。
マリアは表情を青ざめさせて叫んだ。

「や、やめて! すぐにやめさせて!」
「……」
「死んじゃう、隊長が死んじゃうわ!」

セルゲイはウォッカをちびちびを飲みながら、日本人の男が苦しむ様を眺めている。

「どうもあの男もきみと同じように頑固のようでな。自白を拒むものだから仕方がない」
「だから違うのよ! 隊長は……、あの人はスパイなんかじゃないっ!」
「そうかね。じゃ、きみがスパイで彼はカバーのために連れてきたのかな?」
「違う、違うっ! 私も隊長もスパイじゃ……」
「では仕方がない。続けるしかないな」
「やめて!!」

窓の中では水責めが続いていた。
始めは椅子が浮くほどにガタガタと大きく動き、激しく抵抗していた大神だったが、徐々に力がなくなってきていた。
動きが緩慢となり、ぐったりしてきている。

大神の様子を見ながら、髭面が顔からタオルを取り去った。
大神の顔はびしょびしょで、髪が額にへばりついている。
顔は青ざめ、唇が痙攣していた。
顔を起こしてやると、大神はげぇげぇと水を吐いた。
音は聞こえないが、大神の喉が酸素を求めてひゅうひゅう鳴っているのが聞こえるような気がした。

しかし休息は短く、また顔を倒すとタオルをかけ直し、水責めが再開された。
ヤカンから水を掛けられると、ぐったりしていた大神がまた身悶えし、苦しみ始めた。
もう暴れる体力もないらしく、髪を掴まれた顔を弱々しく振るだけだ。
マリアの絶叫をよそに二度目の水責めが終わると、また大神が水を激しく吐いた。
それを見ながらセルゲイが言う。

「見ていたまえ。そのうち、やつの吐く水が血で染まるようになる。胃酸を吐き、胃壁の粘膜をも吐き出して、出血してくるのだ」
「やめて……」
「そのうち肺も水で満たされるようになる。そうなったら……」
「お願い、やめて!」

立ち上がろうとするマリアの肩をボリスとミハエルが押さえつける。
三度目の責めが終わった大神の顔はもう真っ青だった。
水を吐き出す体力もないらしく、半開きになった口の端から涎と共に垂れ落ちていた。
腕や腿がビクビクと痙攣し、半死半生の状態だ。
ダメを押すようにセルゲイが言う。

「どうかね、まだ意地を張るかね?」
「ああ、もうやめさせて……本当に隊長が死んでしまう……」
「素直に吐けばすぐにやめるし治療もしよう。だが彼はまだ喋る気はないらしいね」
「何度言えばわかるの! 隊長は本当に何も知らないし、スパイでも何でもないのよ! もちろん私も!」
「困ったね、本当に強情だ」

そう言いながら、セルゲイは部下たちと顔を見合わせている。
その表情には冷酷な笑みが刻まれていた。

「喋りたくなってもらう必要があるな」
「……何をする気なの」
「なに、もっとリラックスしてもらおうと思ってな。それを飲みたまえ」
「お酒なんか飲む気分じゃないわ」
「おまえの意志は関係ない。飲みたまえ、これは命令だ」
「……」

今までセルゲイが飲んでいたのだから毒の類ではない。
おかしな薬が入っているということもなさそうだ。
マリアが動かずにいると、セルゲイがまた手を上げた。
リーダーの指示を受け、ふたりの部下はおもむろにマリアに近づく。
警戒して身を固くしたマリアだったが、その腕をミハエルとボリスが押さえ込む。

「何するの!」

いかにマリアが大柄だとはいえ、190センチ以上もある大男たちふたりがかりではどうにもならない。
腕が肘掛けに押しつけられたかと思うと、そのままぐるぐるとロープで縛られてしまった。
脚はそのままだが、これでは立っても椅子ごと立ち上がることになる。

「ぐっ……!」

ボリスはマリアの細い顎を掴むと、さきほどの大神のように背もたれへマリアの後頭部を押さえつけた。
ミハエルは、手にしたウォッカの瓶の口をマリアの口元へ突き出した。

「な、なにを……ぷあっ」

いきなりウォッカが顔に注がれた。
タオルを被っているわけではないから窒息はしないものの、酒が口と鼻腔から流れ込む。
マリアは咳き込み、慌てて口を閉じた。
無理矢理に強い酒を飲ませて酩酊させるつもりらしい。

「飲め」
「い、いやよ……んむっ」

マリアは必死に口を閉じて酒を受け流している。
しかしボリスが顔を押さえ、ミハエルが鼻を摘むと呼吸困難となり、やむを得ず口を開けた。
すかさずミハエルが、僅かに開いた上下の歯の隙間に頬の上から指を挟んでマリアの口を強引に開けさせる。
そこに瓶を傾け、ゴボゴボとウォッカを注ぎ入れた。

「んぐっ! ぐううっ……」

強い酒が咥内に溢れていく。
嚥下するのを防ごうと、舌の奥で喉を塞ごうとするが、そんなことをすれば呼吸も出来なくなる。
数秒我慢しただけで、呆気なく酒が流れ込んだ。

「んっ、んくっ……ぐふっ……んっ、んっ……ごくっ」

ウォッカが小さな滝となってマリアの食道を灼いていく。
白い喉が何度も上下していた。半分ほど飲まされるとミハエルがいったん瓶を戻したが、マリアが人心地ついてから、また酒を飲まされた。
そうして、あっという間に一本飲まされてしまったが、それで許してはもらえなかった。
すぐに新しい瓶のキャップが外され、またマリアの口に注がれる。
口の端から酒が溢れ出し、マリアのブラウスやスカートにも零れていく。
ブラウスの薄い生地が濡れ、ぴったりとマリアの肌にへばりついた。
濡れた生地から透けて見えるマリアの白肌がほんのりと赤く染まっていく。

男たちはボトル2本分のウォッカをマリアに飲ませていた。
口からかなり零れ出たから丸々二本はないだろうが、それにしても相当量のアルコールが体内に浸透したはずである。
マリアは声もなくぐったりとして、がっくりと頭を垂れていた。
顎や袖の先から、ぽたぽたとウォッカの滴が垂れ落ちている。

ボリスはナイフを取り出し、マリアの腕と肘掛けに巻き付いているロープを切り離した。
ロープもたっぷりとウォッカを吸い込んでいるし、マリアの肌に傷を付けるなとの命令なので大層切りにくい。
右のロープを切り離すと、マリアの右腕は力を失ったようにだらりと垂れ下がった。
意識を失っているようだ。
しかし左腕のロープを切るや否や、失神していたと思っていた女はいきなり反撃に出たのだ。

バッと立ち上がると、まず左側でぼけっと突っ立っていたミハエルの脚を払って床に転倒させると、今度は怯むボリスの横っ腹に膝を叩き込んだ。
ボリスが苦鳴を上げて身を屈めると、今度はその背中に肘を打ち込む。
アジア系の巨漢は、苦しみつつも怒りの唸り声を上げ、白人の女にタックルしていく。

「くっ……!」

マリアは186センチの65キロだから、そこらの男が体当たりしてきても弾き飛ばすくらいの力はある。
しかし、さすがに酒で足下がふらついていたし、何しろ向かってきたのは190センチ以上で100キロくらいはありそうな大男だ。
正面から突進してきたボリスを受け止めはしたものの、その強烈な圧力に抗いきれず、そのまま壁まで吹っ飛ばされてしまった。

「ぐっ!」

背中と後頭部が壁に激突した瞬間、頭の中で火花が散ったが、何とか失神せずに男と立ち向かう。
しかし、拳で胸板や肩を殴ろうとも、腿を膝で蹴り上げようとも、男の鋼鉄のような筋肉はビクともしなかった。
小山のようなボリスの膂力は、とても女でどうにかなる代物ではない。
普段のマリアなら、まだ何とかなったかも知れない。だが、あれだけ酒を飲まされて、足下が覚束なかったのは否めない。
体術の威力も減殺されていた。

「あっ」

絶望感に囚われつつ攻撃していたマリアに、ボリスが反撃する。
ボリスは丸太のような腕で、マリアの細い腰を締め上げたのだ。
マリアの細い胴回りを両腕で抱き込み、絞り込むように締め付けていく。
そしてそのままマリアを持ち上げ、さらにきつく締めつけた。

「ぐっ……ぐあっ……」

万力のようにギリギリと締めつけられ、腹筋や胸筋が悲鳴を上げる。
背骨と肋骨が今にも砕けてしまいそうだ。
たまらずマリアは宙に浮いた脚で蹴りつけ、腕を振り回して頭を殴りつけ、手刀を振り下ろすのだが、一向に効果がない。

「ぐ、ぐうう……や、めろ……」

窒息する苦しさと圧迫される苦痛に意識が朦朧としてくる。
マリアの抵抗は止み、腕がだらりと力なく垂れた。
爪先がピクピクと痙攣していた。

「ようし、そこまでだ」
「……」

セルゲイの声がして、ボリスの腕が緩んだ。
マリアの身体がドッと床に落ち、そのまま俯せに倒れ込む。
最初にマリアの蹴りを受けて無惨にひっくり返っていたミハエルは、顔を顰めて立ち上がり、腰を擦っている。
セルゲイはそのミハエルに命じてマリアを引き摺り起こし、また椅子に座らせた。
秘密警察の男は、組んだ両手の上に顎を乗せたまま言った。

「さて、気が済んだかね?」
「……」
「今見せてもらった技を見ても、おまえが只者ではないことはよくわかった。にしても、今の状態でボリスに刃向かうなどというのは無謀だったな」

マリアはもう反論する気にもなれず、ぐったりと椅子に身を預けている。

「ウォッカを飲んでリラックスしただろう、正直に答えたまえ。おまえの所属する組織──帝国華撃団というのはいったい何なんだ?」

恐らく、賢人機関にはロシア人メンバーもいるはずだ。
彼らならわかってくれるだろうが、セルゲイたちに対降魔部隊だと説明してもわからないだろう。
そもそも降魔自体、絵空事だとせせら笑われるに違いない。
それどころか「バカにしているのか」と怒り出す可能性だってある。

「ロシアへ来た任務は何だ? 工作活動か? おまえたちの他にスパイは何人くらい潜り込んでいるんだ?」

マリアは酔いのせいで説明する気にもなれず、無言でいた。
もともと酒は強く、ちょっとやそっとで酔っぱらってしまうようなことはないし、潰れることもない。
だが、さすがにウォッカをボトルで二本も短時間に飲まされたら足腰が立たなくなるし、呂律が怪しくなるのも致し方かなかった。
むしろ、急性アルコール中毒にならなかっただけ幸運だったかも知れない。
セルゲイはそんなマリアを見ながら刺々しく言った。

「……そうか、まだそんな態度を取るのか。では仕方ない、またあの男を……」
「待って……」

マリアはようやくそれだけ答えた。

「ほ、本当に……本当に私たちは無実よ……。隊長も私も……スパイなんかじゃない」
「……」
「確かに……、日本帝国陸軍の一組織である華撃団に所属してはいるけど、諜報活動なんかしてない……。ここへ来たのは私のプライベートなことよ……。それ以上の意味はないわ」
「……それを信じろというのかね」
「事実なんだからしようがないわ……」

セルゲイは「ふん」と面白くもなさそうに鼻を鳴らし、ミハエルはわざとらしく肩をすくめて見せた。
ボリスは相変わらず無表情のまま、冷たい目でマリアをじっと見ている。

「……おまえは喋ってくれん。といって、あの男を責めるのはやめろ、という」
「……」

男はにやっと笑った。

「では、チャンスをやろう」
「……チャンス?」
「そうだ。おまえは、おまえとあの男のどちらもスパイではないと主張している」
「……その通りよ」
「だが、我々は別の解釈をしている。おまえたちはウソをついている、と」
「だから……」
「このまま平行線では埒が開かん。どうだ、賭けをしないかね」
「賭け……?」

マリアは一瞬怪訝な表情を浮かべたが、すぐに顔を強張らせた。
賭けだの何だの言っているが、どうせ向こうの責め苦に耐えられれば許す、とでも言うのだろう。
要するに拷問してくるに決まってるのだ。

だが、拷問の矛先が大神に向かうよりは自分で受けた方が気が楽だとマリアは思った。
向こうが本気でマリアたちをスパイとして疑っているのか不明だが、もし本当にそうなら殺しはしないはずである。
情報を得ないうちに殺してしまっては意味がないからだ。
但し「疑わしきは罰する」方針であれば、1人のスパイを捕らえるために無関係な人間を10人拷問しても可となるだろう。

さらに問題なのは、マリアたちがスパイではなく、その関係者でもないとわかっていながら拷問するケースだ。
これはもう職務というより趣味嗜好でやっているのだから救いがない。
スパイであろうと無実であろうと関係ないのだ。
どこの国でも、秘密警察などというものはそんなものだ。
権力者の絶対的な庇護のもと、秘密警察だというだけで好き放題をやる捜査員もまた多いのだ。

セルゲイが言ってきた条件を聞くにあたって、マリアは後者であるような気がしてならなかった。
つまり、最初からマリアを(男である大神を、ということはななかろう)辱めるのが目的ではないのか。
そう思って見てみれば、マリアを見る男どのも目つきに好色なものが宿っている気がしてきた。
しかし、他に手段はない。
この男たちは大神を殺すことに何の躊躇もないだろう。
マリア自身が身を挺してそれを防ぐしかなかった。
そのことによって時間を稼ぐことも出来る。

マリアの頼みは日本大使館と駐在武官事務所の動きだった。
結局行けなかったものの、パスポートを盗まれた大神が大使館出張所を訪ねていくということは、海軍の駐在武官によって大使館に連絡が行っているのだ。
なのに大神がいつまでも来ないとなれば不審を抱くだろうし、異変に気づいてくれるはずだ。
身の証の立たぬまま異国──それも今のゾヴィエトロシアで行方不明らしいとわかれば、もしかするとGPUに誤認逮捕されたのではないかと察してくれるかも知れない。
あの通りでの検問でアジア人が検挙されたことについては、目撃者は多数いるはずなのだ。

今のマリアには、それを期待し、出来るだけ粘り、引き延ばすしか手段がなかった。
セルゲイは、マリアの肢体をじろじろと無遠慮に眺め回しながら言った。

「大したことじゃない、我慢比べのようなものさ」
「……」
「もし、おまえが勝てばあの男には取り敢えず何もせん」
「……解放してはくれないの?」
「それは無理だ。だが、もしおまえがスパイだと認めて、あの男が無関係であるとわかれば大使館に引き渡して強制送還ということになるかも知れん」

大神が解放されさえすれば道は拓ける。
彼がマリアをこのままにしておくはずもなく、即座に大使館へ駆け込むだろう。
そして日本の賢人機関に連絡を取れればマリアの素性も明らかとなり、ソヴィエト政権も手出しは出来なくなるかも知れない。
我ながら見通しが甘いが、今はそれに縋るしかなかった。
少なくとも大神は拷問から逃れられるのだ。
罠とわかっていても乗るしかない。

「やるかね?」
「……わかったわ」

マリアに選択肢はなかった。



      戻る   作品トップへ  第二話へ