ひとりの男が坂道を急ぎ足で登っていく。
五茫星マークの入った帽子を被り、カーキ色の制服に身を固め、同色のマントを羽織っている。
足には黒の牛革製乗馬ブーツを履いていた。陸軍の軍人のようである。
男は、彼の視界に入ってきた白いものに気づき、おもむろに空を見上げた。

「……雪か」

軍帽のひさしをもたげ、ちらと覗かせた顔はまだ若々しい。
天を見て白い息をひとつ吐き出すと、彼はまた足早に目的地へと向かった。

赤坂の料亭。
仲居に案内されたその小部屋は、既に彼の同志たちが集まっていた。
襖を開けて中に入ると、男たちのぎらぎらした視線が一斉に集まる。

「どうした。遅いぞ紀平(きびら)中尉」
「申し訳ありません、少佐どの」

紀平中尉は、上座に座るリーダー格の男に軽く頭を下げて謝罪すると、コートを預かろうと
する仲居を追い出して襖を閉めた。

「営舎を出る時、週番司令に随分と突っかかれまして」

そう言いながら腰を下ろすと、隣にいた若い士官が紀平に食ってかかった。

「なんだと? まさか貴様……」
「心配するな、バレちゃいない」

紀平中尉は軽くいなすと、上座の士官に尋ねた。

「それで少佐どの、話は……」
「うむ。この間、貴様と話し合ったことを説明していたところだ」
「というと、襲撃場所の?」
「ああ、そうだ。諸君、紀平中尉も来たことだし、ここでさっきの話をもう一度思い返して
欲しい。誅すべき奸臣や抑えておくべき施設の洩れはないか?」

首謀者らしい陸軍少佐の言葉に、彼を囲んだ青年士官たちは思考を巡らせた。
天井を見つめて考え込む者。
隣同士でぼそぼそと言葉を交わす者。
みな真剣そのものの表情で内容を吟味していた。

「天笠少佐どの」
「関本少尉か。意見か?」
「は」

今回の計画に於いて、最強硬派である関本完治少尉が少々言いにくそうに発言を求めた。

「例の、華撃団ですが……」

眉がピクンと動き、紀平中尉が関本の発言を遮った。

「待て少尉、我々の大義のためにも民間人に手を出してはならんぞ」
「しかし中尉どの、華撃団も武力を持った軍事組織には違いありません。もし、我らの決起を
認めず、手向かうようであれば面倒なことになりますぞ!」
「……」
「まあ待て、関本。確かに貴様の言うこともわかる。が、逆に言えば、彼らを同志に引き込め
れば、我らの戦力は一層充実したものになるぞ」

関本、紀平に割って入ったのは井村一中尉だ。
特別検閲官として大帝国劇場へ監査に入ったこともある。

「しかし……」
「聞け、関本」

なおも言い募ろうとする若い少尉に言い聞かせるように井村は言った。

「さっきも言ったが、華撃団の戦力はバカにならん。あの第二次降魔戦争の際、わずか七機の
霊子甲冑で数十機の魔操機兵を屠り、黒之巣会を壊滅させた実績は無視出来んぞ」
「……」
「加えて司令の米田中将だ。閣下の実績は聞いておろう」

帝撃司令の米田一基陸軍中将は、日清・日露の両戦争に従軍し、戦術および戦略面で知謀を
発揮し、帝国勝利に多大な貢献をしている。
さらに、十八歳の時に参加した第一次降魔戦争では、自ら降魔相手に刀を振るい、大活躍して
いる。

陸軍の重鎮となるべき器であるのに、陸軍省や参謀本部勤めを潔しとせず、隊附将校として
その存在を際立たせていた。
下士官や兵を大切にする指揮ぶりに加え、自らも戦場で陣頭指揮を執るなど、若い士官や兵
たちの人望も厚い。

井村中尉の言に力を得て、紀平も言った。

「井村の言う通りだ関本。米田中将も、最近の軍や政府の腐敗ぶりに心を痛めていると聞いて
いる。閣下ならわかってくださる、きっと一緒に起ってくださる」

関本少尉と紀平中尉の視線を受け、それまで黙って若い士官たちのやりとりを聞いていた天笠
少佐が言った。

「貴官らの気持ちはよくわかった。小官としてもこのまま帝撃を放っておくわけにはいかんと
思う。だが、関本の心配はまず無用だ」
「と言いますと……」
「主戦力である花組の隊員たちは、休暇で帰郷している」

行動日は師走二十六日。
情報によると、隊員たちには二十四日から年末年始休暇が与えられており、大帝国劇場自体も
二十六日が仕事納めらしい。

「では放置したままでよろしいのですか?」

井村中尉が訊くと、天笠は腕を組み、目を閉じたまま口を開いた。

「実戦力がないにせよ、米田中将の件もある。中将の知謀や人望は我々にとっても大いに有用だ」

天笠はちらと紀平に視線を走らせ、そして関本に言った。

「関本少尉、ご苦労だが、当日、大帝国劇場へも行ってもらいたい」
「少佐どの!」
「慌てるな、紀平」

天笠は紀平を窘めると、言葉を続ける。

「まだ誅すると決めたわけではない。いいか関本、貴官は当日の襲撃先に帝国劇場を加えるのだ」
「はっ」
「だが焦るな。米田中将を呼び出し、我らの維新に参加する意志があるかどうか確認せよ。
同志になればよし、もし断れば……」
「殺します」
「いや、いかん。無用な殺生は可能な限り避けよとのご命令だ。武力抵抗するようなら
ともかく、そうでなければ帝劇内に監禁しておけばよい」
「手ぬるいのでは……」
「命令だぞ。米田中将の件は……後ほどまた考える」

これ以上の決定権は天笠士郎にはない。
彼の行動をバックアップし、後始末をしてくれる上官に確認する必要があるだろう。
天笠自身は、米田を生かして利用する方がいいと思っているが、彼の上官が殺害を指示すれば
ためらいはしない。

天笠は、ややうつむき加減で唇を噛んでいる紀平を見て言った。

「紀平中尉、それでいいな」
「……はい」

* - * - * - * - * - * - *

国立大帝国劇場の二階部分は主として劇場スタッフたちのスペースである。
劇場二階席の出口やテラスもあるが、基本的にはお客はオフリミットだ。

その二階の北側隅に図書室がある。
娯楽用の書籍もあるにはあるが、ほとんどは霊子甲冑や霊子力学関係の専門書、あるいは華撃
団の戦闘詳細などに占められている。

窓際の席に腰を落ち着け、革のカバーで装幀された分厚い本を読んでいるのはマリア=タチ
バナである。
この年、二十一歳になる若い女性だが、花組結成時に隊長を務め、大神隊長就任後は組内の
まとめ役だった。
そして大神一郎が任を離れると、再度隊長を任されている。

鋭い目と綺麗なブロンド、そして抜群のプロポーションが印象的な美女だ。
日本人外交官の父と、白系ロシア人の母を持つハーフである。
沈着冷静をモットーとし、携帯武器は英国製のエンフィールド・リボルバーを愛用している。
表の舞台では、いわゆる「男装の麗人」を得意としており、熱烈な女性ファンを多数抱えている。

かれこれもう二時間近く彼女が読んでいるのは『霊子甲冑開発全史』というタイトルの本だ。
その名の通りマリアたちが搭乗している光武などの霊子甲冑の開発について記したものである。
彼女がこれを読んでいるのは霊子甲冑に対する理解を深めるためだ。
再任された隊長職を全うするためではあるが、マリア自身は大神がいた頃、あるいはその前からこの手の本を読んでいた。
隊員に対し、死地に赴くよう命令し、また自らの命をこの機械に預ける以上、当然の責務だとマリアは思っている。
すでに序説「霊子甲冑〜この異能な兵器」と第一章「新たな動力源〜霊子力学と蒸気機関の融合」を読み終え、第二章「戦術革命〜欧州大戦」にかかっていた。
マリアは時間を忘れてページを繰っている。

『太正二(一九一四)年に勃発した欧州大戦は、停滞と忍従の戦争だった。それまでの
 騎兵による突撃、歩兵による白兵戦の歴史に終止符を打ったのだ。遮蔽物のない場所に
 集結している兵には容赦なく砲撃が見まわれ、進撃してくる部隊には機関銃が弾丸の嵐
 を浴びせた。我が邦が勝利せしめた日露戦争に於いても、露国軍の使用した機関銃によ
 り我が軍の歩兵並びに騎兵が多大な損害を受けている』

「……」

このくだりで彼女の表情がやや複雑になるのはやむを得ない。
父母の母国が争った話を書いているのだ。

『僅か数十米前進するために数百名、場合によっては数千名もの兵力を失うこととなった。
 機関銃と砲兵の威力に恐れを為した連合軍、枢軸軍は、互いに長い壕を堀り、無意味か
 つ膨大な犠牲を抑えようとした。しかしながら、両軍ともに塹壕内に籠もっているだけ
 では状況の打破にはならず、互いに厭戦気分の蔓延や補給の問題が出てきてしまう。
 そこで両軍ともに、並行して掘ってある相手の塹壕を追い抜き、回り込もうと、さらに
 塹壕を掘り進めた。だが土地には限界もある。両軍ともに、掘れるまで掘ってしまうと
 もう打つ手がなく、塹壕に籠もっての睨み合いに戻ってしまうのだった』

マリアは塹壕の中で耐え続ける兵士の気持ちを想像する。
狭い中、トイレひとつ行くのにも事欠く。
雨が降れば水浸しで、不潔極まりない。
いつ攻めてくるかわからない敵軍、そしていつ下るかわからない突撃命令。
若い兵など気がおかしくなるのではないだろうか。

『頼みの綱だった大砲は大して役に立たなかった。著名なソンムの戦いに於いて、英軍は
 塹壕に籠もる独軍に対し、熾烈な突撃支援砲撃を行なった。英軍指揮官たちは、その凄
 まじい砲撃で独軍歩兵たちはすりつぶされたものと信じた。三時間に及ぶ猛砲撃の後、
 英軍は七個師団を持って突撃を敢行した。情勢が逆転したのはその後すぐだった。粉砕
 され尽くしたと思われていた独軍歩兵は塹壕の中で健在で、英軍の砲撃に耐えながら牙
 を研いでいたのだ。壕内各所に設置されていた重機関銃が火を噴き、攻め寄せる英軍歩
 兵を片っ端から薙ぎ倒したのである。英軍はこの大戦で最大の被害をこの戦闘で被るこ
 とになった』

この話がどう霊子甲冑につながっていくのか。マリアは夢中でページをめくる。

『無論、各国ともこの状況を何とかしたかった。新兵器も投入した。欧州大戦は、各種
 新兵器の登場により戦いそのものが激変した戦争でもあった。それまで戦争とは陸上と
 海上のみで行なうものであった。ところが、新たな発明品である航空機と潜水艦は、
 それまでの二次元的な戦闘に、空中に海中という要素を加え、三次元的なものとした。
 立体的な戦闘となったのである。ならば飛行機で塹壕の兵士を攻撃することは出来なか
 ったのか。結論から言えば難しかった。開戦時に各国が保有していた飛行機は、露西亜が
 三〇〇機、独逸が二四〇機、仏蘭西が一五〇機、英国で六〇機をほどだった。しかも当時
 は、飛行機の任務と言えば偵察や砲兵のための弾着確認で、そのため低速で飛ぶのが当
 たり前であった。飛行兵たちが自主的に拳銃や手榴弾、あるいは投石などで塹壕に攻撃
 を加えることもあったが、その効果たるや微々たるものだった。機載機関銃が独逸で開
 発されたのが開戦後二年目のことであり、それも対航空機用である。急降下による地上
 掃射は極めて難しく、低速で強行すれば高射砲の餌食となった』

霊子甲冑開発は、霊子力学理論の構築とともに、欧州大戦後の話ではなかったろうか。
だが、そういえば米田支配人から星組計画のことを聞いたことがある。
その辺はどうなっているのだろう?

『膠着状態の戦線を突破するための新兵器を戦場に送り込んだのは英国であった。秘匿
 名称「Tank」と呼ばれたそれは、武骨な鋼鉄の塊だった。多数の車輪には、履帯と
 呼ばれる無限軌道を巻き、車体のあちこちから機関銃や小口径砲を突き出し、発動機に
 よる重低音の唸り声を上げて、塹壕の独逸軍に襲いかかった。一九一七年十一月から
 始まったカンブリーの戦いでは四七六輛もの戦車が投入され、四時間で一〇粁も進撃し、
 恐慌状態に陥った独兵四〇〇〇名もの捕虜を得たのである。だが、無敵に思われた新
 兵器の戦車にも大きな欠点があった。その機械的信頼性の低さである(頻発する発動機
 故障、最悪の居住環境、燃費の悪さ)。超壕がその役割だったが、それを見越した独逸
 軍が、戦車に超えられぬ幅と深さの塹壕を作り、その動きを封じたのだ』

マリアが読み進めていると、背後に人が入ってくる気配があったが、それと気づかぬほどに
彼女は書物に熱中した。

『履帯は悪路や路外を進むに適していたが、それでも戦場には予想外の地形がいくらでも
 ある。塹壕はもちろん、砲弾痕や爆弾痕、泥濘地に河川など、車輛が進むには不向きな
 土地は事欠かない。そこで俄然注目されたのが人型機動兵器である。その駆動懸架装置
 は、戦車の履帯よりもはるかに不整地踏破能力が高かった。手や脚を使えば、戦車では
 とても超えられない塹壕や窪地でも比較的容易に進撃が可能なのだ。さらに沼沢地や山
 岳地帯でも充分使用に耐えられるであろう。計画当初、その正面投影面積の巨大さから、
 敵砲兵の良い的となるとして敬遠されていたが、戦車の限界を鑑みて開発に拍車がかか
 ることとなる。欧州において中心となったのは、戦車開発で英国に後れをとった独逸で
 あった』

「あの……、マリアさん」
「あ、さくら?」

気づかなかった。
見ると、さくらが両手をお腹のあたりで組んで、マリアを見て微笑んでいる。

「ごめんなさい、お邪魔でした?」
「いえ、いいのよ」

マリアは音を立てて厚手の本を閉じ、目の前のさくらを見る。

真宮寺さくら。
陸軍対降魔部隊のメンバーだった陸軍大佐・真宮寺一馬の娘である。
黒い艶やかな髪をポニー・テールにまとめている。
後ろでひっつめた髪をまとめている赤いリボンがチャーム・ポイントだ。
白衣と緋袴に紺の帯という巫女の装束だが、これは彼女が荒鷹神社に関係しているということ
もあるだろう。
色白でしっとりした清楚なイメージのある典型的な日本美人だが、これでなかなか気が強く、
意地っ張りなところもある。

「もう、そろそろ時間になりますんで……」
「あ、もうそんな時間?」

食事の時間というわけである。
立ち上がろうとしたマリアはふと気づいてさくらに尋ねた。

「そういえば、さくら、午前中の列車で田舎に帰るんじゃなかったの?」
「はい、そうなんですけど」

さくらは、やや苦笑の表情を浮かべて答えた。

「さっき、かすみさんが上野駅に電話で確認してくれたんですが、なんか東北は大雪みたいで
東北線が止まっちゃってるんです」

何でも、茨城以北が大雪で水戸から先は列車が動かないらしい。
東北では珍しくもありませんと、さくらは笑って言った。

「東京でも降り出しましたしね」
「え、こっちも降ってるの?」

マリアが慌てたように窓を見てみると、まだ積もるところまではいっていないのもの、ちら
ちらと冷たそうな雪があたりを舞っている。

「これもかすみさんに聞いたんですが、今年の日本は三十年ぶりの大雪だってラジオで言って
たそうですよ」

東北だけでなく、新潟や富山、石川といった日本海側も雪で交通が遮断され、陸の孤島になっ
ているらしい。
帝都周辺でも、北関東は昨夜から大雪だというし、この分では東京も降り積もるだろう。

「でも、マリアさんも今日の夕方便で帰国されると思ってました」
「それが私の方もね」

マリアもこの年末はロシアへ戻り、墓参をする予定になっている。
その船便が今晩出航の予定だったのだが、横浜港でトラブルがあった。
海軍の砲艦と大阪から来た貨客船が接触事故を起こし、民間船の方が座礁しているらしい。
乗員、乗客の救助活動と事故調査で、海軍が横浜港を封鎖しているのである。
海軍軍令部の発表では、港が正常の状態になるのは明日の昼以降だという。

「そうだったんですか」
「私とさくらだけ居残りね」

花組の他の隊員たちは、米田司令の計らいで年末年始は休暇、帰郷ということになっている。
昨年の降魔戦争の際、大車輪の活躍だった花組への褒美ということだ。
今年の正月公演は休演なのだ。

紅蘭は自ら組み立てた飛行機で中国まで飛んだらしい。
本当に着いたのか不安だが、彼女のことだから適当に修理を重ねて北京まで行ってしまうだろう。

カンナは例によって沖縄へ戻った。
ただ、マリアと違い東京港からの出航で、今回の横浜の事故は影響がなく、そのまま帰れたようだ。

アイリスは、だいぶダダをこねたがフランスに帰らせた。
父親が急病で入院したらしいのである。

すみれも神奈川の実家に戻っている。
こちらは隣の県だから、よほどの大雪にでもならぬ限り問題なく帰れる。

マリアとさくらは並んで図書室を出て食堂へ向かった。
今宵は居残りのマリアにさくら、そして米田支配人とかえでで夕食会といったところである。
花組全員が揃っている時は、米田もかえでも遠慮して花組だけで食事させていたが、人数の
少ない時は時々こうして一緒に食事をすることがあった。

食事を始めて一時間ほど経過していた。
すでにコックたちは帰り、風組も帰宅している。
帝国劇場に今残っているのは、泊まり込みの一部整備員とさくらたちだけだ。

米田は上機嫌で盃を傾けている。
酌をしているのは副司令である藤枝かえで中尉だ。
帝撃という組織の構成上、実のところ副司令などほとんど必要がない。
だから、姉のあやめにしろ、かえでにしろ、実際は副司令というよりは米田の副官の役割を
こなしている。

食事会と言っても、米田が絡めばこうして飲み会になるのが定例である。
マリアにしろさくらにしろ、そう強い方ではないが、嗜む程度は飲めるのでつき合っている。
米田はそれが嬉しいのだろう。
こういう場合、大抵は米田が一方的に喋り、さくらたちはそれを受けるという形になる。
米田は酔ってもヘンな乱れ方はしないから、花組の面々もつき合うことはそう苦手ではない。

「ところでよ、マリアにさくら。おめえたちは軍人じゃねぇが、こうして軍人の俺に従って
戦ってる。そこで聞きたいんだがな」

米田はそう言ってぐい飲みを煽った。
ふうっと大きく息を吐き、言葉を続けた。

「どうして軍人は戦うんだと思う? あ?」

予想外の質問で、マリアとさくらだけでなく、かえでもキョトンとしている。

「敵を殲滅するためでしょう」

マリアが伏し目がちに答えると、さくらはこう言った。

「帝都の……、人々の平和を守るため、ですか?」

それを聞いた米田は「うんうん」とうなずく。

「そうだな。そういやあ、大神のやつも同じこと言ってたぜ」
「大神さんが?」
「ああ。最初に奴がここに赴任して俺んとこに挨拶しに来た時だ。俺が「なぜ軍人を志望
した」と聞いた時、今さくらが言ったように「帝都の平和を守るためだ」ってな」
「……」

さくらは大神と同じ心を持てたことを嬉しく思う。
少し頬が染まったのは酒のせいばかりではあるまい。

「人々の生命、財産、引いては平和を守るために敵を殲滅する。マリアやさくらの言ったこと
に違いはねぇし、俺もそう思う。だがな、最近こうも思うんだ」
「というと?」

絶妙の相槌を入れるのはかえでだ。
こういう呼吸は姉のあやめ譲りなのかも知れない。

「軍人はな、確かに戦争するのが仕事だ。だがな、戦争させないのも軍人の仕事なんじゃねえ
かとな」
「……」
「軍人のすべてが戦いを好むわけじゃあねえ。俺や大神のように、戦わずにすめばそれに越し
たことはないと考えてるのもいるんだ」

確かに、前隊長の大神一郎海軍少尉は、勇敢ではあったが無益な戦闘を嫌っていた。
軍人らしからぬ面も多かった。

「人間にとってな、もっとも罪悪なことは人殺しじゃないのかと俺は思う。軍人てのは仕事と
してそれをやる救い難い存在だ。よく考えれば降魔どもと大差はねえ」
「でも」

マリアがたまらず口を挟んだ。

「敵が攻めてくるからこそ戦うんでしょう? それは……、確かに侵略戦争はよくないと思い
ますが、敵がこの日本を、帝都を攻めてきたら、それを撃退するのが軍の役目ではありませんか」
「だから、その敵を殺すのは仕方がない、というわけか」
「……」

黙り込んでしまったマリアをじっと見ていた米田だが、急に表情を崩して笑い声を上げた。

「いやいや、マリアいいんだ。別におめえをいじめてるわけじゃねえんだ。そうだな、確かに
そうだ。無慈悲な敵兵が民衆に危害を加えていたら、それを見過ごすことは出来ない」
「はあ……」
「だがなあ」

米田はふと視線を外し、つぶやくように言った。

「もし。もしな、国家が軍隊に対して、民衆を攻撃するよう指示したら、その場合、軍はどう
対処したらいいんだ?」
「……」

これには、マリアたちのみならず、帝国陸軍軍人である藤枝かえで中尉も口ごもってしまう。

「軍隊じゃあ、上官の命令は絶対だ。『上官の命は朕の命と心得よ』だからな。だが、その
上官が、明らかに誤った判断を下していたらどうだろうなあ?」
「それは……」
「軍人の本分として、あくまで命令に従うべきなのか。それとも……」
「……」
「その辺が軍人の限界ってやつなんだなあ」

妙に深刻な雰囲気になってしまい、さすがに米田もまずいと思ったのか、破顔して軽く手を
振って言った。

「もしも、だ。もしもの話なんだから、そう重苦しく考えなくてもいいさ。話を戻すか、軍人
の仕事だったな」

空になった徳利を倒し、もう冷めかけている次の徳利を手に取る。

「もしかしたら、敵が攻めて来られないように出来るんじゃねえか、と俺は思うわけだ」
「どうやってですか?」

かえでが、米田に気づかれないようにそっと徳利を隠す。
もう飲み過ぎだと思っているのだろう。

「つまりな、もし政府がどっかと戦争をおっぱじめようとした時、軍事の専門家としてその
暴走に歯止めをかけるのも軍人の仕事なんじゃなかろうかってな」

米田は、かえでが机の下に隠した徳利をすいと持ち上げる。
さすがに将官、若い中尉よりは役者が上のようだ。

「陸軍大臣だの海軍大臣だのってのは、それが仕事だろうと思うんだよ。そりゃあ、軍の要望
や要求を通すために、他の閣僚連中と議論を戦わせるのも仕事だが、逆に内閣の一員として、
独走する軍部を掣肘するのも仕事なんだ」

米田の言葉に力が入ってくる。

「無論、敵に対する備えも必要だ。だから装備も揃えなきゃならんし、大演習をやってのける
ことも必要だ。そうすることで敵に「日本に攻め込んだらタダじゃ済まない」とわからせる
わけだ。だから演習ってのは真剣にやんなきゃ意味ねえんだ」

米田の「演説」はそれから三十分ほどで終わり、宴は果てた。
半分酔いつぶれたような米田を引きずるように個室へ連れて行き、残った女三人組はサロンで
一休みする。

「退屈だった? 司令の演説を拝聴して」

かえでがカップを口につけてふたりに聞いた。
クスクス笑っているから、よほどふたりがまいったと思ったのだろう。
しかし、マリアたちはそれほどでもなかった。

「そんなことありません。ただ……」
「ただ?」
「支配人がああいうお話を私たちにするのは珍しいと思いましたけど」
「……そうね」

マリアが言うと、かえでは小さくうなずいた。

「マリアやさくらもわかったでしょうけど、司令のああいう話のお相手をしていたのは大神
くんなのよ」
「大神さん……」

小声でつぶやくさくらを見てかえでが言う。

「大神くんがいなくなってさくらもさみしいでしょうけど、司令も随分と寂しい思いをしてる
と思うわ。一緒にお酒を飲んで語り合える男性は彼しかいないもの」
「隊長は今どのあたりなんでしょうか」

マリアが尋ねる。
大神が花組隊長の任を解かれ、マリアがその後を引き継いだ今でも、彼女は大神を隊長と呼ん
でいる。
最初、大神の指揮ぶりに不満を表明し、なかなか隊長として認めなかったマリアだが、今では
大神以上の適任はいないと思っていた。

「そうね、そろそろパラオに着くんじゃないかしら……」

大神一郎海軍少尉は、降魔戦争終結後、海軍からの出向扱いだった帝撃隊長の任を解かれた。
その後、練習巡洋艦に乗艦し、国連からの委任統治領となっていたパラオ島へ研修航海に出ている。

対降魔戦の実績を考えれば昇進してもおかしくなかったのだが、海軍士官学校卒業後、海軍の
軍務に就いていないということで軍令部からストップがかかったのだ。
無論、米田も大神の昇進を要求したが、いかに中将とはいえ陸軍軍人が海軍の人事に口は挟めない。
海相は帝撃の理解者だから、米田らの意向を受けて大神の中尉昇進を認めたかったのだが、
軍令部がどうしても認めなかった。
結局、帝撃は海軍組織ではないということで好意的に見られていないのだろう。
海相もそう強くは出られず、ならばということで士官学校卒業生が参加する本来業務の研修
航海へ送り出したのである。
これを無事終えて帰国すれば、大神は誰に後ろ指を指されることもなく海軍中尉に定期進級
できるだろう。

「それにしても、支配人てああいうことをお考えなんですね」

さくらは少し意外そうに言った。
マリアもその後を継いで言う。

「軍人らしからぬ考えね」
「でも、私好きです、そういうのって」
「私も悪いとは思ってないわよ」

ふたりのやりとりを見ていたかえでが人差し指を立てて言う。

「でもね、やっぱり軍部の中では異端になるでしょうね」
「じゃあ……かえでさんは……」
「いいえ、私も司令のお考えは好きだわよ」

かえではにっこりして答えた。
それから少し顔を曇らせて言う。

「どうしたって軍人てのは戦闘的だしね、そういう人から見たら司令は手ぬるく見えるでしょうね」
「……」
「日清事変で勝って。日露戦争でも勝って。こないだの欧州大戦でも、イギリスの要請を受け
て、終わり間際だけど参戦してドイツ相手に勝ったでしょう? 今はおかしな意味で陸軍は
元気だからね」

かえでは、すらりと伸びた脚を組んで、椅子の背もたれに寄りかかった。

「ホントのことを言えば、日露戦争なんてギリギリやっと停戦協定に持ち込めたようなもの
なのにね。アメリカが調停に入ってくれなかったらロシアは継戦してたでしょうし、そう
なれば日本は後が続かなかったんじゃないかしら」
「……なのに軍は勘違いしている、ということですか」

マリアの鋭い指摘に、かえでは暗く首肯する。

「そんなところね。だから、あちこちで必要以上に強気に出てるの。予算要求でも装備につい
てもね。あれじゃ海軍とだってうまくやれないでしょうし、今の原首相は軍縮主義だから、
陸軍とたびたび衝突してるし」

かえではため息をつきながらカップをトレイに戻す。

「そもそも陸軍大臣の京極大将が強硬だから、若い将校たちがのぼせちゃってるって感じね。
なぜ総理は陸軍の足を引っ張るのかって。逆賊、逆臣は斬れ、なんて息巻いてる青年将校も
多いらしいわ」

さくらはハッとして言った。

「じゃあ、米田支配人のお立場も悪いんですか? 同じ陸軍なのに、ああいう考え方だし……」
「米田中将は過去の戦争で実績もあるし、下士官兵には人気があるのよ。だから表だっては
批判めいた発言は少ないわ。でも、陰では司令を逆賊と見なしている士官もいるでしょうね」
「……」

いつしか深刻な話になってしまい、目の前のマリアとさくらが難しい顔をしてきたので、
かえでは笑って気をほぐそうとする。

「でもね、あなたがたが心配することじゃないわ。司令もおっしゃってたけど、あなたたちは
軍人じゃないのだから。帝撃は陸軍部内ではあまり評判は良くないけど、民間人の立場である
あなたたちが何かをされることはないでしょう」
「でも司令は……」

米田の心配をして言い募るマリアを軽く手で封じてかえでが言った。

「大丈夫。さっきも言ったけど、司令の名声を無視することは出来ないわ。だから司令が粛清
されたりすることはないと思うの。……ほら、そんな顔しないで」

かえでは両手でさくらとマリアを煽るようにして立ち上がった。
お開きにしようと言うのだ。

「まだ参謀本部でもあんまりそういう話は聞かないわ。すぐにどうこうってわけじゃないの、
心配しないで。マリアもさくらも、明日にでも田舎へ帰るのでしょう?」
「そうですけど……」
「だったらそうなさい。お正月明けにまた元気な顔見せてね。その時には、司令もまたケロッ
としてるわよ」

そう言ってさくらたちを部屋へ追い立てながらも、一抹の不安を抑えきれないかえでだった。

* - * - * - * - * - *

神奈川県横浜市、神崎邸。

神崎すみれは、家族用の食堂で父親の重樹と対峙し、思い切り不機嫌な表情を浮かべている。
帝撃での仕事納めを待たず、前日の基督誕生祭に実家に戻っていたのだが、これは祖父・忠義
が病に倒れたという話を聞いたからである。
ところが帰宅してみると、実は風邪程度であり、本当のところは別の目的で帰らされたことが
わかった。
見合いである。

「んもう、いい加減にしてくださいませんこと、お父様」

すみれは年明けの八日には十八歳の誕生日を迎える。
従って、この時代としては、見合いあるいは結婚の適齢期にはなっている。
なってはいるが、こう立て続けではさすがにウンザリもする。

「何度も言いますけど、わたくしはまだ結婚などする気はございません。なのに、こないだ
から何度お見合いさせればお気が済むんですの!?」
「ま、まだ三度目だろう」
「四度目ですわ!」
「……」

重樹は眉を八の字に曲げ、困ったような顔で娘を見た。

茶がかった短めの髪をヘアバンドでまとめている、この時代流行の髪型である。
切れ長の目元に泣きボクロがあり、我が娘ながらぞくりとする色気を感じることがあった。
洋装が嫌いなわけではないが、着慣れた和服が好みのようである。
とはいえ和洋折衷で、下着は洋装だし、ソックスも着用していた。

派手な原色の着物は、うなじというより肩口全体を露出するような大胆なデザインで、花魁
ものかと見まごうばかりだ。
胸元も大きく開いているセクシーなものだが、母親が銀幕のスターだったこともあり、この辺
は家族も大らかである。

「し、しかしだな、ほら綾乃麿公爵家のお嬢さん……、女子学習院ですみれとも同級だった……」
「雪子さんですか?」
「そうそう、雪子さんもこのほど結納になるそうだし、おまえだって……」
「雪子さんは雪子さんで、わたくしはわたくしですわ。それに綾乃麿家は綾乃麿家で、神崎家
は神崎家でしょう!?」

すみれは、重樹と雛子にとっても自慢の娘だが、誰に似たのか高貴さとプライドがかなり高い。
華族としては決して悪いことではないが、すみれのそれはこのように父親でさえ手に余ること
がある。

とはいえ、すみれの気品や美貌は社交界でも評判だった。
花茶舞も修めており、その手の教養も身につけていたので、交際の申し込みや見合い話が後を
絶たないのが現状だ。

しかし、すみれの両親は自分たちが恋愛結婚そうだったこともあり、その点は彼女の自主性に
任せていた。
ところがここしばらく、どうしたことか盛んにその手の話を持ってくるようになったのである。

主人の苦境を見かねてか、紅茶を運んできた家令の宮田恭青が口を挟んだ。

「すみれお嬢さま、旦那さまのお立場もご理解くださいませ」

家令とは、その家の召使いや女中たちの頭領、つまり執事長のことだ。
宮田は、すみれの祖父・忠義の代からかれこれ半世紀、この神崎家に仕えている執事なのだ。
すみれにとっては、それこそ赤ん坊の頃から面倒を見てもらっており、忠義と同じくほとんど
祖父と言ってもいい相手である。

「それはわかりますけど……。でも、お父様のお立場はそんなに悪いんですの?」
「……神崎は新興だからな。成り上がりということで、大財閥からはよく思われてないだろう。帝撃の霊子甲冑も、うちが独占しているようなものだしな」
「そんなこと関係ありませんでしょう? だったら他でも作ればよろしいだけでなくて? 
出来ないからと言って、うちに文句をつけられても困りますわ」
「まったくその通りでございますが、それで済む相手ではございません」

要するにやっかみ半分なのだ。
そんなことを相手にする必要はないとすみれは思っている。

「ですから、なるべく財界や軍部には波風を立てるわけにはまいりません」

そのせいで、普通なら断るような見合い話でも渋々受けているらしい。
重樹や母の雛子の性格から言えば、娘が嫌がればそういう話は受けないだろう。
事実、今までそうだったのだ。
だから、ここのところの連続見合い攻撃は、重樹にとってもやむを得ないもの、苦渋の選択
だったのだろう。

徳川時代から続く旧財閥系は軍部と結びつきが強い。
彼らは軍高官や官僚たちとともに、カネと権力、そしてミリタリー・パワーを思うままとして
いる。
そこに入ってきたのが神崎重工の霊子甲冑なのだ。

現政権の軍縮への動きも相まって、陸軍は霊子甲冑を始めとする人型蒸気兵器に着目した。
要はカネの問題である。

例えば、戦車一輛には乗員が最低でも三〜四人は必要になる。
欧州大戦の英軍主力戦車であるマーク四型は乗員八名、独逸軍のA7Vに至っては、なんと
十八名も必要とした。

これら戦車兵は特別な教育を施さねばならない。
戦車どころか自動車の運転が特殊技能だった時代である。
戦車には高度な教育を必要とする兵を大量に必要としたのだ。

これに対し、人型兵器は乗員一名で済む。
霊子甲冑の乗員は特殊な霊能力が必要とされるが、現在実用化が検討されている人型機動兵器
は普通の人間でも操縦できる計画だ。
無論、戦車兵以上の教育・研修が必要となるが、それでも戦車に比べ、必要人員が大幅に減る
ことは間違いない。

確かに武装、兵器にもカネはかかるが、兵の教育費もバカにならないのである。
そこで軍が目を付けたのが、帝撃の霊子甲冑であり、それを製造していた神崎重工だった。
霊能力なしで、蒸気力学だけで稼働可能な甲冑兵器の研究開発を依頼したのである。
陸軍だけでなく海軍もその有用性に着目し、陸戦隊に装備したり、上陸戦用の人型兵器を考え
ているという噂もあった。

こうなると面白くないのが、光菱をはじめとする旧来の軍需メーカーだ。
光菱は海軍に軍用機を、陸軍には戦車や装甲車を納めていた。
それらが神崎重工製の甲冑兵器に乗り換えられる可能性が高くなってきたのだ。
戦車よりは人型兵器の方が高価だからとタカをくくっていた光菱だったが、状況は予断を許さ
なくなってきている。
その連中が、陸軍の一部勢力をけしかけているという噂があるのだ。

神崎グループの掴んでいる情報でも、陸軍の一部勢力に不穏の動きがあり、若手士官たちが
行動を起こす可能性を示唆していた。
関係者には、軍部内上層部や将官クラスも混じっているという噂もあり、そのバックで援助
しているのが光菱だというのである。

彼らは、自分たちの主張を通すため、反対勢力の政治家や官僚、軍人、そして企業人も国賊と
して誅するのではないかと言われている。
そしてその粛清リストの中に、忠義や重樹の名前もあるらしいのだ。

「もちろん、すみれが家の犠牲になる必要はないのだ。だから見合いしてその話を受諾しろと
言っているのではない」
「……」
「もちろん、気に入った相手がいればその先へ進んでも構わないが」
「冗談じゃありませんわ」

すみれは見合い結婚など時代遅れだと思っている。
堂々とした男女交際を経て成就するものが結婚だろう、という感覚だ。
これについては、自分たちがそうなので重樹も何も言えない。

「だが、そう悪い相手ではなかったろう?」

それは確かにそうだった。
財界、軍部の圧力を受け流すためとはいえ、重樹はそれなりに相手を吟味しているのだ。
大事な娘を預けることになるかも知れない相手なのだから、それくらいは親の努めだと思って
いた。

「こないだの陸軍の軍人、あれだって悪くはないだろう」
「それはそうですけど……」

確か、紀平順一郎中尉と言ったか。
家が華族で、親は男爵だか子爵らしい。
だからかどうかはわからないが、陸軍の軍人にしては身のこなしがスマートで、女性に対する
気遣いも出来ていた。

軍の将校たちは、若い者でも料亭へ繰り出し、芸者を上げてどんちゃん騒ぎをするのが常だっ
たが、紀平はそういう仲間には加わらず、ダンスホール通いをしていると言った。
といって気障なところはなく、ごく普通にそうしているようだった。
穏やかそうで、思慮深そうな印象もある。
外見も良く、整った目鼻立ち、涼しげな目元をした二枚目の陸軍士官なのだ。

クレバの将校マントの裏地をわざわざ緋色に染め、敬礼などで腕を動かすと、その赤い色が
鮮やかだった。
地元の駐屯地でも若い娘たちの人気を一手に引き受けていたらしい。

すみれは、その男と見合いした後、二度ほど逢っている。
もっとも、すみれが積極的になっているのではなく、紀平の方がご執心なのである。
紀平を嫌いではなかったが、すみれとしては断りたかった。
それでも、父の立場を考えると、最終的には断るにしても、あまり露骨に嫌うような素振りは
まずいと思って、すみれなりに気を使っているのだ。

すみれたちが飲み終えたティ・セットを片づけ、一礼して部屋を出ていく宮田を見送りながら
神崎家の令嬢が言った。

「わたくし、軍人は嫌いですわ。粗野で乱暴で……」

ただひとり例外はいた。
かつてすみれの上官だったその男は海軍だったが、いろんな意味で軍人らしくなく、すみれも
好感を持っていた。
しかし、今では他の女のものであり、日本にいない。

すみれはため息をついて父に尋ねた。

「それで、次はどなたに逢えばよろしいんですの?」
「巻菱洋一郎くんだ。すみれも顔くらいは知ってるだろう」

娘の問いかけに、父は身を乗り出して答えた。

巻菱財閥を興した巻菱子爵の息子である。
すみれもパーティや舞踏会で何度か顔を合わせ、言葉を交わしたこともあった。
子爵は神崎に対して好意的で、故に重樹としては有力な巻菱財閥との仲を強化したいという
思惑がある。
すみれは諦めたように言った。

「お逢いするのは構いませんけど、受けるつもりはございませんわ」
「それでもいい。逢うだけ逢ってくれれば私の顔も立つ」

それきり父娘の会話が途絶え、時計の針が午後十時を差そうとしたあたりで、ノックするのも
もどかしそうに宮田が部屋に飛び込んできた。

「失礼致します。旦那さま……」
「うん?」

重樹の耳元で囁こうとする宮田に、すみれが言った。

「何です宮田、どうしたのです?」

宮田は、重樹とすみれを交互に見て、結局、ふたりに告げることにした。

「ただならぬ事です。ただいま、表玄関に兵隊が……」
「なに!?」
「何ですって!」

さっきまで話していた懸念がいきなり現実化したのだろうか。

「彼らは旦那さまを呼べと申しております。今は召使いどもが抑えておりますが……」
「む……」

重樹は立ち上がった。
自分が行かねば収まらないだろうし、すみれや雛子にまで手は出すまいが、忠義は殺される
可能性もある。
とにかく自分が行って時間を稼ぎ、その間に……、と思ったところで、娘に止められた。

「お父様、行ってはなりません」
「すみれ……」
「旦那さま、お嬢さまのおっしゃる通りです。連中は武装しておりました。叛乱に相違ありま
せん。狙いは旦那さまのお命でしょう」

それはわかるが、このままでは自分だけでなく父の忠義まで殺される。
逃げても多少命脈が伸びるだけで、野蛮な兵隊どもに家捜しされ、ヘタをすれば火をかけられ
るだろう。
そうなれば、罪もない使用人たちまで巻き込むことになりかねない。
重樹の執るべき手段はこれしかない。

「わしが行く」
「ダメです!!」

出ていこうとする父を、すみれは慌てて止めた。

「落ち着いて話を聞くような連中じゃありませんわ。行っても殺されるだけです」
「しかし……」
「宮田」
「ははっ」

なおも言い募ろうとする重樹を抑え、すみれは家令に言う。

「どこか安全な場所にお父様とお爺さまをお連れして。わたくしが玄関へ行きます」
「バカな! おまえ、何を……」
「お嬢さま!」

すみれは慌てふためくふたりを見据えてきっぱりと言った。

「わたくしが彼らを応対して時間を作ります。その間に……、いいですね、宮田」
「し、しかし……」

すみれは、不安そうな男ふたりを安心させるように少し表情を緩めた。

「大丈夫ですわ。狙いがお父様のお命なら、女のわたくしに手を下すことはありませんでしょ
う。何とか一〇分くらいは稼ぎます、お早く」
「わかりました」

神崎家に忠節を誓う家令は、令嬢の指示に従うことにした。
茫然としている主人を引きずるようにして宮田が立ち去ると、すみれは軽く息をついた。
そして玄関へ向かう前に居間へ立ち寄った。

神崎邸の広い玄関先では、怯える使用人たちが決死の思いで殺気立つ兵隊たちを抑えていた。
玄関から各部屋へ連なる廊下の前に集まり、傍若無人な軍人どもの前進を押しとどめている。

「貴様ら、そこをどかんかあっ!」
「で、出来ません! 旦那様にいかなる用向きでございますか。お約束のない方とは……」
「黙れ! 義のためだと言っておるだろうがっ」
「どう申されようとも……」
「軍に刃向かうかっ!」

兵たちの先頭に立っている下士官が、もはや限界と言わんばかりに着剣した小銃を、立ちふさ
がっている召使いに向けた。
関係者以外に手を出すなと言われているが、抵抗すればやむを得ない。
武器こそ持っていないが、こうして妨害していれば抵抗と同じだ。
下士官はそう判断し、対峙していた召使いも死を覚悟した時、周囲がざわつき始めた。

「?」

恐る恐る状況を見守って廊下を埋めていた使用人たちの人垣が割れていく。
その先から現れたのは……。

「お嬢さま!」

すみれだった。
妖艶とも言えそうな着物姿で、その右手には長大な薙刀が携えられている。

詰めかけていた陸軍兵士たちの殺気がすうっと消えていく。
すみれの、若い娘とも思えぬ迫力に圧倒されているのだ。

ただの娘ではなかった。
神崎風塵流薙刀術免許皆伝の武芸者でもあるのだ。
兵たちは、自分たちも武器を持っていることを忘れている。

すみれは凛とした声で言い放った。

「あなた方、どこの部隊ですの? 神崎の屋敷に土足で踏み込むなど無礼ですわ」
「……」
「用件がおありならきちんと筋をお通しなさい! でなければ……」

すみれはそう言いながら、兵たちを威嚇するように抱えていた薙刀を構えた。

「容赦しませんわ!」
「!!」

若干十七歳の小娘の発する鬼気を前に、兵たちは為す術もなく後退する。
華撃団で黒之巣会と渡り合い、命のやりとりをしてきた経験は伊達ではないのだ。

「く……」

気力を振り絞って、さっきの下士官が銃を執り直す。
すみれの得物も刃が持ち上がってきた。
命のやりとりをせねば収まりそうもないその時、兵たちの後方から鋭い声が掛かった。

「待て、永田軍曹!」

永田軍曹を中心に集まっていた兵隊の列が割れた。
後ろから現れた国防色のコート姿をした士官に、すみれは見覚えがあった。

「あなた……、紀平…中尉……?」

* - * - * - * - * - *

神崎邸へ決起軍が押し寄せる二時間ほど前。
帝撃の面々は、酒が入ったこともあり、早々に部屋へ戻っていた。
支配人室のソファに寝転がっていた米田を叩き起こしたのは一本の電話だった。

「……なんだ、うるせぇな。こっちは非番だってのによ」

ブツブツ言いながら起き上がり、デスクで鳴り響く電話を見た。

机の上には二台の電話機がある。
片方は大代表番号にかかってきた外線を事務局(つまり風組)が受け、館内内線で回してくる。
鳴っているのはもうひとつの方、つまり直通の電話だった。
ここにかかってくる連絡はよほどの急用か緊急事態に限られる。

まだ頭に酒が残っている支配人は、眼鏡をかけ直して受話器を取った。

「はい、米田……」
「おお、無事だったかね!」
「その声は花小路さん?」

米田が時計に目をやると、時刻は二十二時一〇分といったところだった。
こんな時刻に花小路から連絡が来るのは珍しい。

「どうしたんです、一体」
「り、陸軍が……」
「はあ?」
「陸軍が叛乱を起こしよった!」
「何ですと!?」

惚けた頭が一発で冴えた。
狼狽しているらしい花小路頼恒伯爵が言うには、決起した陸軍部隊が各所を襲撃しているらしい。
恐れていたことが発生したのだ。

彼らの動きに注意を払っていた花小路は、襲われそうな施設や要人に対し、警察を動かして
さりげなく警備させていた。
仮に動きがあれば、即座に連絡が入るようにしていたのである。

「原さんも……、原総理も殺されたそうだ」
「首相まで……」

帝撃構想に理解を示しているだけでなく、行き過ぎた軍備拡張に危機感を感じて軍縮を主張
していた硬骨漢だ。
暗殺リストには当然名前があったのだろう。
それにしても一国の首相まで暗殺するとは、かなり大がかりな決起行動らしい。

「君も気を付けてくれ、やつら帝撃も良く思っておらん。君も娘たちも…っ…−−−−」
「……どうしました?」

突然、話が途切れ、発信音しか聞こえなくなった受話器に米田が怒鳴る。

「花小路さん! 伯爵、どうしましたっ!?」

切れた電話に呆然とし、受話器を叩きつけた米田は、思い直して副司令の藤枝かえで中尉を
部屋に呼び寄せた。
もう部屋着に着替えていたかえでが、そのままの格好で慌てて米田の部屋へ行くと、司令は
ただならぬ気配で電話にかじりついていた。

「司令、どうしたんですか!」
「おお、かえでくん! 連中、やりやがったぞ」
「!」

それだけでかえでには何のことだかわかった。
ついさっき、マリアたちと話していたことである。

「そ、それで……」
「ああ、いま花小路さんから連絡があってな、総理の原さんもやられたらしい」
「そんな……」

久谷侍従長、崎山内大臣、倉田蔵相、佐島教育総監といった政府閣僚たちも音信不通になっている。
元老や重臣、内閣関係者だけでなく、同じ陸軍部内でも軍縮派の将官たちが数名暗殺されたようだ。

「さっきからあちこち電話してるんだが、枢密院の田沼さんや貴族院の鹿沼男爵とも連絡が
取れねぇんだ」

人差し指を噛んで米田の話を聞いていたかえでがハッとしたように言う。

「司令、それじゃここも……」
「ああ、花小路さんもそれを心配して電話くれたんだよ」

現状の帝撃で、多数の武装兵に押し掛けられたらどうにもならないだろう。
警備が必要だが、帝撃には固有の警備兵などいなかった。

「司令、近衛師団か第一師団に連絡して兵を回してもらいましょう」
「いや、それはだめだ」

帝都防衛の任を受けているのは第一師団で、近衛師団は天皇直近の兵団だ。
そこから兵力を要請するのは当然だったが、米田は言下に否定した。

「まだ、どこの部隊が叛乱起こしたのかわからねぇんだ。ヘタに陸軍部隊を呼び寄せても、
そいつらが襲撃隊に急変するかも知れん」
「そ、それなら憲兵隊司令部は……」
「さっき電話したが音信不通だ」
「……」

憲兵は軍部内での犯罪を摘発する部隊だ。
故に、今回のこの事態について察知し、警戒していたが未然に防げなかったようだ。
念のため連絡してはみたが、各地を襲撃されて相当混乱しているらしく、混線がひどい上、
突然回線を切られてしまう始末だ。

米田は目を光らせて言った。

「かえでくん、横須賀へ連絡してくれ」
「横須賀……ですか?」
「海軍の横須賀鎮守府だ。事情を説明して陸戦隊を派遣してもらうんだ。俺は海相の山口さん
に連絡してみる」

その手があったか。
今回の動乱でも、さすがに決起部隊も海軍には手を出していないようだ。
そんなことをしたら、陸軍と海軍が全面対決するような事態に発展しかねないからだろう。
海軍の主要部に警戒の兵を出すくらいのことはしているかも知れないが、せいぜいが睨み合い
程度で戦闘にはならないはずだ。
決起軍もそこまでバカではないだろう。
叛乱軍の規模が小さければ、神奈川まで手が回っていないかも知れない。

一方、海軍大臣の山口豊和大将は帝撃構想の理解者で、花組発足以来何くれとなく協力して
くれている。
米田が山口海相の官邸の番号を調べていると、受話器を耳に当ててダイヤルしていたかえでが
小さく叫んだ。

「あっ……」
「どうした? 出ないのか?」
「発信音がしません……。電話線、切られてます……」




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