三日目の夜。
帝都を揺るがす大動乱発生以来、降り続いていた雪が小康状態になっていた。
降雪は減り、降ったり止んだりを繰り返していた。
東京・銀座、大帝国劇場。
「井村中尉どの!」
「どうした関本」
井村が一階食堂で遅い夕食を摂っていると、関本が慌てふためいて飛び込んできた。
軍帽やコートの肩に雪が残っている。
外出していたらしい。
「そ、それが……」
「どうした、落ち着かんか少尉」
関本は切れた息を整え、ゴクリと唾を飲んで言った。
「こ、この近辺に別の部隊が来ております!」
「別部隊だと? 海軍か?」
考えられないことではなかった。
血迷った政府が海軍に頼り、横須賀あたりから陸戦隊を回してくる可能性はある。
しかし、それなら心配には及ばない。
既に陸軍大臣告示で戒厳令が出されたのだ。
帝都の治安は戒厳司令部が負うことになる。
海軍の出る幕ではないはずだった。
こちらからは手を出さない。
それは天笠少佐からも厳命されていた。
陸戦隊の方も手出しはしてこないはずだ。
そんなことをしたら、陸軍と海軍の全面衝突につながり、帝都東京で一大市街戦が展開され、
内戦にまで発展しかねない。
「いえ、暗くてよくわかりませんでしたが、恐らく陸軍部隊だと思われます」
「陸軍だと……? 戒厳部隊か?」
「それが……」
関本も戸惑っているようだった。
予想もしていなかったらしい。
「こちらの呼びかけに応じようとしません。どうも様子がおかしいです、中尉。これはいったい
どういうことですか?」
「……」
井村中尉は無言で軍用電話を手元に引き寄せると、受話器を耳に当てハンドルをグルグルと回した。
* - * - * - * - * - *
都内三宅坂・陸軍省。
ここを占拠していた天笠士郎少佐は、大帝国劇場からの一報を受け、至急、周辺一帯に斥候を出した。
すぐに戻ってきた兵によると、見覚えのある顔の兵隊たちが完全武装で警戒しているらしい。
土嚢を積み、バリケードを築き、鉄条網を張っていた。
歩兵砲や重機陣地まで構築し、あまつさえ戦車や装甲車まで走っているという報告もあった。
何があったかわからないが、とにかく情勢が一変したらしいことは確かだ。
天笠は横浜へ連絡を取った。
−何ですって!? それはどういうことです、少佐どの!
「落ち着け、紀平。俺にもよくわからんのだ。とにかく、俺のいる陸軍省の周辺にも、井村たち
が抑えている銀座の帝撃近辺にも、陸軍の別部隊が展開している」
−それは……、それは戒厳部隊ではないのですか!?
「それがよくわからん。わかっているのは、連中はこちらに対して友好的でなく、しかも周囲に
バリケードを作ってるってことだ」
−信じられません……。我々も戒厳部隊に編入されたのではなかったのですか! それが何で……。
「わからん。帝都も三宅坂一帯に多数の部隊が出ているらしい。さっき井村から連絡があったが、
戦車も出ているそうだ」
−……。
「紀平、早まるなよ。まだ状況がよくつかめんのだ。まずは神崎邸周辺の警備を厳重にせよ。
そして、仮に他部隊と接触しても攻撃してはならん、いいな!」
−はっ。神崎邸周辺の警備を万全とし、他部隊との交戦は避けます。
「よし。何かわかったらすぐに連絡してくれ。こちらも何かつかんだら連絡する」
−了解。
天笠が電話を切ると、すぐに別に電話が鳴った。
側にいた通信兵が出ると、天笠に受話器を渡しながら言った。
「少佐どの、戒厳司令官閣下からであります」
「戒厳司令官?」
天笠は、いやな予感を抱きながら電話に出る。
「天笠少佐であります」
−戒厳司令部の片倉大将だ。少佐、もう気が済んだろう、兵を引け。
「それはどういう意味でありますか、閣下。小官は……」
−聞くんだ、少佐。たった今、奉勅命令が下された。
「勅令が……」
−わかるな、少佐? 貴官らはともかく、兵たちは無関係のはずだ。彼らのことを考えるんだ。
「……」
−勅令に刃向かうということは、恐れ多くも陛下に弓引くことである。臣下、臣民の為すべき
所業ではない。
天笠はぶるぶると手を震わせながら言った。
「では……、では自分にどうせよと言うのですか!」
−軍人なら軍人らしく腹を斬れ。他に累を及ぼすことなく、貴官らで責任をとるのだ。そして
下士官兵は帰せ。
「……できません」
−何と言った、少佐。
「自分には出来ません! 自分たちも命がけで太正維新を断行したのであります。ここで引いては、
我々だけでなく、誅した方々にも申し訳が立ちません。例え銃火を交えることになろうとも……」
−やめるんだ!
片倉大将は慌て気味に言った。
−この期に及んで、皇軍相撃を望むか!? そんなことをすれば陛下の御名に疵がつくぞ!
「片倉閣下」
−な、なんだ。
「京極閣下は……、京極陸軍大臣は何と?」
−京極大臣も憂慮しておる。説得する方向で動いていたが、参謀本部や軍務局に反対されて断念した。
最悪の場合、武力鎮圧もやむを得ぬ、と。
「……」
−少佐。おい、天笠少佐!
天笠は黙って受話器を置いた。
成り行きを心配そうに見守っていた通信兵を後目に、つかつかと部屋を出た。
* - * - * - * - * - *
横浜・神崎邸。
さくらの監禁部屋で「夜の部」が始まっていた。
真宮寺さくらは、三番目の兵に犯されていた。
充分にほぐされた媚肉は、怒張をずぶずぶと飲み込んでいく。
途端に膣の襞が煽動しながら絡みついた。
何度入れられてもきつかった。
「はっ、はああっ……お、おおきいっ……あ、ああんっ……」
たっぷり淫蜜を湛えているのにこのきつさ。
責める側が陶然となる感触だった。
突き込めば突き込むほどに、奥からじゅくじゅくと愛液が分泌されてくる。
まるで無尽蔵に思えた。
「あっ、あっ、あっ、も、もう来る! 来ちゃいますっ……ああっ…」
「なんだ、もうか? やけに早いじゃねえか」
「ああ、だって……、ふ、深くて、ああ……」
兵はさくらの腰を抱え、さらに自分に引き寄せた。
思い切り突くと、コツンと奥で当たった。
「ここか? ここがおまえの子宮だな?」
「ああ、そうですっ……くうあっ、いいっ……そ、そこ、いい! …あはあっ……」
男は少々手荒くさくらの媚肉を突きまくった。
恥骨が当たり、襞は真っ赤になるほどに擦られ、子宮口も爛れるほどにつつかれ、抉られている。
どう考えても苦痛にしかならないはずだが、さくらには肉の悦楽しか感じ取れなかった。
さくらは断続的に叩き込まれる快感の洪水で顔を苦悶にゆがめ、悲鳴と喘ぎ声を上げ続けていた。
「だめ、来る! ああ、もう……ああっ……い、いきそうっ……」
さくらの肢体がひくひくと細かく震えてきた。
我慢の限界というよりも、さくらはもう快楽を堪えることを諦めてきていたのだ。
どんなに耐えても、最終的には恥ずかしいくらいによがり狂わされ、気をやらされるのである。
無理に我慢するよりは、素直に受け止めた方が肉体的な疲労が少ないことを、幾多の凌辱で体得
していた。
「い、いく、いきそうっ……あ、あ、あ、もう……もうっ…」
全身の痙攣が大きくなり、媚肉も震えてきている。
男根を締める襞も精を絞るような締めつけになってきた。
「よし、出してやるぞ」
「あ、だめ、中は……、ああ、いいっ……い、いっちゃいます……いくう……あ、い、いきますっっ……」
さくらの身体が魚のように跳ね上がるのと同時に、兵は射精した。
どろりとした濃い液体が、ものすごい水圧でさくらの子宮口に叩きつけられた。
閉じていた子宮口をこじ開けそうな勢いで放たれた精液の威力で、さくらはまた軽くいった。
「うむ……いく!」
男はさくらの腿を抱えたまま離れない。
最後の一滴まで注ぎ込むのがこの男の好みだった。
射精の発作が起こるたびに、さくらはぶるるっと痙攣した。
「…っはあ…っはあ…っはあ……、ああ、すごい……い、いっぱい、出されて……ああ……」
もう精巣には何もない、というくらい射精すると、兵は満足そうにさくらから離れた。
次のやつが待っている。
そうゆっくりもできないのだ。
『ああ、いいっ……い、いっちゃいますっ……』
稲田一等兵は、ドアの外でさくらの断末魔の叫びを耳にした。
聞くたびに気が狂いそうになる。
さくらが仙台出身で、しかも妹と同い年の十九歳と知り、他人とは思えなくなっていた。
この前、さくらと少し話し込んだことで余計にその思いが募る。
どうしても妹と重ね合わせてしまうのだ。
そのさくらは、自分の仲間たちの手で何度も何度も凌辱されている。
売春婦だってこんなひどいことはされまい。
文字通り、朝から晩までセックス漬けなのだ。
さくらの痴態が、喘ぎ声が、遊郭に売られた妹を連想させる。
妹もあんな恥ずかしい目に遭っているのだろうか。
なぜ自分は何もせず見過ごしているのか。
凌辱していないとはいえ、黙って見てれば同じことではないのか。
「くそっ!」
稲田は思い切り壁を拳で殴りつけた。
そこに、中から兵が出てきた。
「なんだ、今の音? ん、まだ来てないのか、次のやつは」
幸運だと言わんばかりに、兵はニンマリした。
「なら、もう一発くらい……」
「待て」
稲田はその兵の肩を掴み、止めた。
兵は訝しんで彼を見た。
「何だよ。いいじゃないか、まだ来てないんだし。あ、それとも……」
その兵は笑って稲田を見て言った。
「もしかして稲田、おまえも……」
「……」
「そうならそうと言えよ。おまえ、全然やらないから仲間はずれにされるんだぞ」
勘違いも甚だしいが、稲田は黙っていた。
「よしよし遠慮すんな、存分にやってこい。次のやつにはもう三十分したら来るように言っと
いてやるからな」
勝手に思い違いをして自己完結してしまった兵は、笑ってその場を去っていった。
稲田は悲壮な表情で部屋へ入る。
いつもの光景がそこにあった。
中の少女は無惨に凌辱され、全身に脂汗をかき、ぬらぬらと光っている。
荒い呼吸は不規則で苦しげだ。
稲田一等兵は決心した。
もうこれ以上は我慢できなかった。
稲田は、さくらの裸身を拭き清めるのもそこそこに彼女を覚醒させた。
「さくらさん、起きて」
「……あ……、稲田…さん……」
仰向けに横たわっていたさくらの背中に手を回し、上半身を起こしてやる。
犯され続けることに諦めきっているのか、さくらの目には力がなかった。
「まだ……ですよね……。あと、四人……こなさなきゃ……」
「いいんだ……。もう、こんなことしなくていいんだよ」
「……え?」
投げやり気味のさくらを励ますように、若い兵隊は言った。
「逃げてくれ」
「……」
「逃げていいんだ。君に言われた通り、こんなの間違ってる……」
「稲田さん……」
さくらの瞳に、見る見る光が戻ってくる。
希望があるというのだろうか。
しかし、すぐに弱々しく首を振り、言った。
「いいんです、稲田さん……、私はもう……。それに、そんなことしたら稲田さんが……」
「俺のことなんかどうでもいい! 俺はもう、これ以上君がひどい目に遭うのが耐えられない」
「稲田さん……」
稲田はさくらを座らせると、部屋の隅の戸棚まで行った。
そして何やら引き出しから持ってきた。
見ると、さくらの着物だった。
不器用そうに畳んである。
きっと稲田がやったのだろう。
「あの時のままで洗濯してないけど……。さ、これを着て」
「でも……」
「早く、あまり時間がないんだ」
稲田が本気だと知り、さくらも決心した。
逃げられるのなら、生きられるのなら、出来るだけのことをすべきだ。
下着は破られてしまい、もうなかったが、襦袢は残っており助かった。
テキパキと着替え、稲田の前に立った。
「お待たせしました」
にっこり笑ってさくらが言う。
やはりこの娘は、この笑顔がいちばんだ。
稲田はそっとドアから顔を出し、周囲を警戒する。
廊下には誰もいない。
チャンスだ。
ここで稲田は少し考えた。
このままこの屋敷から脱出できるだろうか。
当然、玄関や裏口などには兵が配置されているだろう。
出入り口から遠いここからでは、辿り着くまでに人目につく可能性も高い。
稲田は、前々から思っていたことを実行すべきではないかと思った。
だが、それをすれば永田軍曹を裏切ることになるのではないか、という気持ちもあった。
永田は下士官として上官として悪い男ではない。
稲田自身も新兵時代、殴られもしたがだいぶ世話になっている。
今回の件にしたところで、永田は自分の地位や立場を利用して、さくらを自分ひとりで犯すこと
だって出来たのだ。
それを部下たちにも抱かせたというのは、言ってみれば気前が良く、話のわかる分隊長ということ
なのである。
もちろん、それは永田の、ひいては兵隊たちの考え方であり、さくらにとっては無関係かつ迷惑
極まりないことである。
永田や仲間を裏切るということと、さくらを助けたいということの二律背反に悩まされていた稲田
だが、やはりさくらが犠牲になるというのはどう考えても理不尽だ。
くるりと振り向いて、後ろを歩くさくらに言った。
「さくらさん、このまま玄関に行っても、多分歩哨がいるはずだ」
「はい」
「無理に窓から逃げても門にも誰か居るし、見つかれば問答無用で撃たれる」
逃げようがないということか。
「だから中隊長どののところへ行く」
「それって……」
「中隊長どのは規律に厳しいけど、人の気持ちのわかる人だ。俺は尊敬している。君がどんな目
に遭わされたのかを知ったら、きっとわかってくれるはずだ」
「……」
稲田にとっても大きな賭である。
確かに部下思いの上官ではあるが、紀平はさくらを殺せと命令したのである。
若い娘を部下たちが集団強姦していたと知れば、部下を罰し、被害者に謝罪するだろうが、この
場合はどうなるかわからない。
むしろ、殺害命令を破ったことに関して激怒するのではないだろうか。
そうなれば、稲田はもちろん処分されるだろうし、さくらも殺されるだろう。
しかし、もはやそれしか策はない。
さくらは稲田に微笑んで言った。
「わかりました。稲田さんがそうおっしゃるなら、私、お任せします。稲田さんがいなかったら、
私、きっと……」
稲田は力強くうなずいた。
さくらに信頼されたからには、命がけで紀平と交渉せねばならない。
最悪でも、さくらだけは助けたい。
稲田とさくらは方向を変え、すみれの部屋へ向かって行った。
* - * - * - * - * - *
すみれの部屋では、紀平が青ざめていた。
手にしているのはビラである。
正門前に立っていた兵が、やってきた海軍士官から受け取ったらしい。
それは奉勅命令であった。
臨変参命第三号
戒厳司令官ハ三宅坂及ビ銀座付近ヲ占拠シアル将校以下ヲ、以テ速ヤカニ現姿勢ヲ
撤シ、各所属部隊長ノ隷下ニ復帰セシムベシ。
奉勅
最後に天皇の花押があった。
勅令とはどういうことだ。
信じられぬ。
自分たちは陛下のために行動を起こした。
だからこそ、戒厳部隊に組み込まれたのではないか。
紀平は震える手で天笠に電話をした。
天笠少佐はすぐに出た。
−紀平か。……勅令のことか?
「はい……。これは……」
−間違いない、本物だ。京極閣下からも、今回はこれまでだとご指示があった。
「我々は……、我々はどうするのですか……」
−……。兵を引け、中尉。
「……」
−……下士官兵は原隊へ戻すのだ。兵たちには何の罪もない、俺たちが勝手に連れ出したのだからな。
「自分らはどうするのですか。逮捕されて裁判を受けるのですか、それとも自決するのですか」
−そうしたければするがよい。俺は別の道を行くが……。
「自分は納得できません!」
−……。
「それでは何のために決起したのかわからないではありませんか! 何のための装備ですか!
自分は、自分の部隊は最後の一兵まで戦います!」
−やめるのだ、中尉。これ以上の騒乱は国家に深刻な疵を残す。もう、終わったのだ。
「同じ命を捨てるなら戦って死にます! 我らの崇高な大義を世に示すのです!
−よせ中尉! 兵たちには関係ない、すぐに
そこで紀平は軍用電話の受話器を置いた。
肩がわなわな震えていた。
背中にすみれの視線を感じた。
どんな風に見られているのだろう。
負け犬だと思われたのではないだろうか。
「中尉」
「……」
「クーデターは……失敗ですのね」
紀平はすみれを顧みた。
「まだそう決まったわけではありません。武力があります」
我ながら負け惜しみが強いな、と紀平は思った。
すみれは痛ましそうに言った。
「ここの兵力だけでは高が知れてますわ。無駄な抵抗は……」
「ムダではありません。例え全滅してでもやるべきことがあります」
すみれの瞳に何とも言えぬ光が宿る。
蔑まれたのかと思ったが、同情に近いのかも知れない。
いずれにせよ、軍人にとっては屈辱だった。
紀平がすみれに何か言おうとしたとき、ドアがノックされた。
「誰か!」
紀平が鋭い声で問うた。
返ってきたのは意外な返事だった。
「……稲田一等兵であります」
「稲田……?」
紀平は少し首を傾げたが、中に呼び寄せた。
「入れ!」
「入ります」
のっそりと入室した稲田の後ろに真宮寺さくらの顔を見つけ、部屋のふたりは仰天した。
「さ、さくらさん、あなた……!」
「稲田、これはどういうことだ! 殺せと命令したではないか、永田はどうした!」
「中隊長どの!」
紀平がさくらに近づいてきたので、稲田は反射的に後ろへかばった。
そして、さくらが今までどんな扱いを受けていたのか告発した。
「中隊長どの、実は……」
話を聞いていた紀平の表情が変わった。
さくらは顔をうつむけて耐えている。
自分のことを言われているのだ。
すみれは口を押さえて震えていた。
「さくらさん……。そんな、ひどい……」
「永田めが……、俺の命令を破ってそんなことを……」
「中隊長どの、さくらさんに罪はありません。殺してはなりません」
「……」
紀平は部下の若い兵の顔を見つめた。
この男が、ここまで懸命になるのは初めてではないだろうか。
稲田は続ける。
「中隊長どのは、逆賊以外に犠牲を出してはならんと命令されました。自分もその通りだと思い
ます。しかし……、しかしさくらさんは逆賊ではないと思います!」
「……」
「確かに帝撃隊員ではありますが、こうして丸腰の、ただの娘であります。彼女を殺すというのは間違いではありますまいか!」
稲田は死を覚悟していた。
稲田の証言は、直接の上官である永田軍曹を裏切っている行為とも受け取れるのだ。
しかも紀平に対しても意見しているのである。
江戸時代なら無礼討ちであろう。
太正の軍隊でも制裁は確実だし、気短な上官であれば半殺しにされる。
悪くすれば、上司への反逆ということで営倉(留置所のようなもの)入りだってあり得る。
上官の機嫌が悪ければ、この場で成敗されかねないのだ。
紀平は、稲田義雄という愚直なまでに真面目で素朴な青年の顔をじっと見ていた。
息も詰まりそうな時間が過ぎ、それがふっと緩んだ。
稲田を見つめる紀平の表情が柔らかくなったのである。
「……稲田」
「はっ!」
「これで貴様に叱られたのは二度目になるな」
「……は?」
紀平は稲田一等兵から目線を逸らし、壁の方を向いた。
「以前にも貴様は、この中隊長を叱ってくれたことがあったな。『中隊長どの、いつ決起するの
ですか。このままでは東北の農民は救われません』とな。中隊長はそのことを忘れていないよ」
「中隊長どの……」
稲田は紀平から目を逸らさずに言った。
「中隊長どの……、我々は……正義ではなかったのでしょうか……」
「いや、正義だ」
「……」
紀平は稲田の方に向き直って言った。
「正義は強いな、稲田……。貴様のようなやつがいるから正義は強いのだ」
「……」
「だが、正義は負けることもある」
「中隊長どの……」
紀平はくるりと後ろを向くと、文机へ歩いていった。
そして便箋を破り、そこに万年筆で何事か書き付けた。
その便箋を軍用封筒に入れながら、また部屋の真ん中へ戻って言った。
「稲田一等兵に命令を伝える!」
「はっ!」
「命令。稲田一等兵は、神崎すみれさん及び真宮寺さくらさんを護衛し、東京・銀座の大帝国劇場まで
お連れせよ!」
「え……」
「中尉……」
紀平と稲田のやりとりを見ているしかなかったすみれが呆気にとられた。
すみれの声に、紀平は微笑して言った。
「すみれさん、あなたにはあなたにしか出来ないこと、やるべきことがあるはずだ。それをおやり
なさい」
「紀平中尉……」
「これを」
紀平中尉は、先ほどの書き付けを入れた粗末な茶封筒をすみれに手渡した。
「自分の、これまでの行為を許して欲しい、とは言えません」
「……」
「これはせめてもの罪滅ぼしです。お守り代わりにはなるはずです」
「中尉……」
今度は稲田の方が呆然としていた。
紀平の心の動きが読めないのだから無理もない。
中尉は、気づかれない程度の苦笑を浮かべ、部下を見て叫ぶ。
「稲田! 復唱はどうしたか!」
「は」
上官に一喝されて、稲田は我に返った。
「復唱! 稲田一等兵は、神崎すみれさんと真宮寺さくらさんを護衛して、東京の大帝国劇場までお連れ致します!」
「よし!」
すみれはまだ紀平を見ていた。
紀平はそんなすみれの肩を叩く。
「さ、お行きなさい」
「あ、はい……」
すみれは紀平に肩を押され、よろめくようにドアへ向かって歩いた。
途中、何度も紀平を振り返る。
稲田も小走りにドアへ駆け、ふたりを先導した。
さくらは、紀平に向けて深々と頭を下げた。
すみれがそこまで来ると、さくらが声を掛けた。
「すみれさん、参りましょう」
「そ、そうね……」
稲田は紀平に敬礼し、部屋を出た。
さくらはもう一度紀平にお辞儀すると、稲田の後を追った。
すみれは部屋を出る時、また紀平を振り返る。
自然と言葉が出た。
「紀平中尉……。……いえ、順一郎…さん……」
「……」
「ありがとうございます」
紀平は黙ってうなずいた。
彼は笑っていた。
あたりがパッと明るくなるような、若く健康的な笑顔だった。
* - * - * - * - * - *
すみれたち三人は、無事、銀座まで戻ってきた。
途中、心配された決起軍による検問はほとんどなかった。
横浜駅にも上野駅にも兵力は配置されていなかった。
だいぶ混乱しているようである。
帝都に入ってからも、三宅坂付近を避けたこともあって、彼らと鉢合わせになることはなかった。
むしろ、鎮圧する側の戒厳部隊があちこちにいて、その目を逃れる方が大変だった。
海軍省か海相官邸にでも行って事情を話せば、すぐさま山口大将と連絡が取れ、もっと楽に行けたかも
知れないが、そこまでの機転を利かせることは稲田には無理だったろう。
まだ雪雲がどんよりと漂っていたが雪は上がっていた。
積もった雪を踏みしめて、稲田が先導し、さくら、すみれの順で歩いていく。
さくらが歩く速度を落とし、すみれに並んだ。
「あの……、すみれさん」
「……なにかしら?」
「色々、ありがとうございました」
すみれの家で、さくらは永田軍曹らに集団暴行された。
しかしすみれは、そのことを回避しようと、紀平に身体を許すことになった。
その後もさくらの身を案じていたことは、さきほどのやりとりでも充分わかった。
さくらは、そのことに感謝しているのだ。
すみれは前を向いたまま答えた。
「別にお礼を言われることじゃありませんわ」
「でも……」
「……もし、あなたに何かあったら、あの方が悲しみますから……」
「え……」
さくらは思わず立ち止まり、すみれを見る。
「すみれさん……、あなた、大神さんのことを……」
「!」
すみれもぴたりと歩を止めた。
それでも、それは一瞬のことで、すぐにまた歩き始めた。
「妙な邪推はやめてくださる?」
「……」
「さ、行きますわよ、さくらさん。みんなが待ってますわ」
そう言ってスタスタ歩いていくすみれを見て、さくらはクスリと笑った。
すみれらしさが戻ってきているようだ。
* - * - * - * -* - *
銀座四丁目に帰ってきた。
あれからまだ三日しか経っていないが、何週間ぶりかのような気がしていた。
周辺は戒厳軍が警戒しており、帝撃正面玄関前にはクーデター部隊も出てきていて、対峙している。
一触即発という雰囲気があった。
バリケードまで設置され、土嚢が積まれた重機関銃陣地や歩兵砲まで引っ張り出すものものしさに、
さくらもすみれも息を飲んだ。
陸軍の戦車や、海軍の軽装甲車が走り回っているのを見て、稲田もだいぶ驚いたくらいだ。
どこから忍び込もうか迷っていると、すみれは堂々と大帝国劇場の正面ゲートに向かって歩き出して
しまった。
「す、すみれさん!」
「考えていてもしようがありませんわ。それに時間もありません。正面突破あるのみですわ」
さくらと稲田が慌てて飛び出して止めようとしたが、すみれはそう言って振り切った。
すみれがあまりに堂々と歩いていたため、警戒していた両軍の部隊は呆気にとられていた。
何が起こったのかわからなかったのである。
無闇に発砲したら、全面戦闘に陥る危険もあった。
また、その三人組が珍妙だったせいでもある。
ひとりは陸軍の歩兵らしかったが、戒厳側かクーデター側かわからない。
あとのふたりは和装の女性である。
ひとりはえらく派手な色彩の着物で花魁のようにも見える。
もうひとりの方はピンク色の神衣と緋袴を身につけた巫女風だ。
何が何だかわからない。
そんな両軍の思惑には関係なく、すみれたちは正面玄関まで到着してしまった。
さすがに、守っていた兵隊たちが駆け寄ってくる。
「ま、待て! 貴様ら何者だ!」
「維新軍だ」
すみれを押しのけて稲田が前に出て言った。
「味方だと言うのか? なら、合い言葉を言ってみろ。『奸臣』!」
「『撃滅』。自分は、横浜の神崎邸襲撃部隊の稲田一等兵だ」
「横浜の……。な、なら、その女どもは何だ!」
将校ならともかく、一般兵たちはさくらやすみれたちの顔を知らない。
そこですみれが歩み出る。
「わたくし、紀平中尉からご指示を受けてまいりましたの」
「紀平中尉どのからだと?」
すみれは懐から茶封筒を取り出し、その兵に渡した。
紀平から預かった書き付けである。
戸惑いながらも、歩哨の兵は目を通した。
それを横から覗いていた兵が、手紙とすみれを見比べて「あっ」と声を上げた。
「どうした?」
気づいた兵が、手紙を見ている兵に耳打ちする。
「こ、この女……」
「なに? 紀平中尉どのの?」
そう言えば見覚えがあった。
兵たちは慌てたように敬礼し、すみれに謝罪した。
「もっ、申し訳ありませんでした! 中尉どのの許嫁とはいざ知らず……」
「いっ、いっ、許嫁ですってぇ!?」
今度はすみれが仰天する番だ。
「だ、誰がそんなこと……」
「ま、まあまあ、すみれさん」
さくらが駆け寄ってすみれを宥める。
稲田もさくらの側を離れまいとして寄って来た。
守備兵が入り口の中にいた仲間に大声で告げた。
「おい、こちら紀平中尉どのの婚約者だ。丁重にお迎えしろ」
「こ、婚約者って言うなー!」
すみれは怒ったが、これは紀平の機転である。
すみれの立場をそうしておき、しかも自分の署名の入った手紙を持っていれば、無闇に疑われることは
ないだろうという配慮だ。
さくらと稲田が何とかかんとかすみれを宥め賺して、大帝国劇場内へ入ることに成功した。
紀平の手紙の効果は絶大で、場内でも何度か詰問されたが、いずれも署名入りの書き付けを見せると
納得して通してくれた。
敬礼で迎えられることもあり、もしかしたら中で戦闘になるのではないかと覚悟していた稲田も拍子
抜けしたようだ。
「これからどうするんです?」
小銃に着剣し、周辺を警戒しながら稲田が聞いた。
「マリアさんはどこにいるかわかりますの?」
「それが……」
さくらにもわからなかった。
最後に立て籠もったのは地下二階の光武整備場だが、いつまでもそこにいるとは思えない。
突き止められて、間一髪で脱出したのである。
扉が破られるのは時間の問題だったし、捕まった公算も高い。
仮に逃れたとしても、もうそこにはいないだろう。
さくらの話を黙って聞いていた稲田が断を下した。
「それなら米田閣下を救出しましょう。彼らは閣下には手出ししないはずです。恐らく私室に
でも拘禁されているのではないでしょうか」
すみれも頷いた。
「そうですわね、マリアさんがどこにいるのかわからないのでしたら、あてもなく闇雲に劇場を
探し回っても仕方ありませんわ。稲田さんのおっしゃる通り、多分、米田支配人はお部屋にいる
可能性が高いですわ」
「わかりました」
さくらも納得し、三人は正面玄関を西に進んだ。
食堂、事務局を経由して、北へ行くと支配人室がある。
すみれたちは周辺を警戒しながら進んだ。
紀平のお墨付きがあれば大抵は大丈夫だと思うが、兵隊に会わずにすめばそれに越したことはないのだ。
稲田も小銃をかざし、辺りを窺う。
三人が食堂に入り込んだ時である。
どんがらがっしゃん!という、ひどく場違い且つ凄まじい音が響いてきた。
「!!」
「な、なんですの!?」
さくらとすみれは思わず姿勢を低くし、稲田はふたりの前に立って銃を構えた。
「きさま、抵抗するか! ……へっっふうううっ!!」
「どわあああっ!」
「ぐはあっ!!」
兵隊らしい男の怒号と鋭い叫びとともに、キッチンの方から何か大きなものが吹っ飛んできた。
兵隊だった。
ひとりは水平に頭からすっ飛ばされて、食堂のテーブルをみっつほど弾き飛ばしてようやく停止した。
もうひとりはキッチンのものらしい寸胴を抱えさせられて後ろ向きに飛んでいた。
こちらも椅子やテーブルをいくつも巻き込んで動かなくなった。
共通しているのは、ふたりとも決起軍の兵隊らしいということだ。
「よお、すみれ! さくらもか! おまえたち無事だったんだな」
何が起こったのかさっぱりわからず、呆然としていたさくらたちに大きな声が掛かる。
少々野太いが、まぎれもなく女性の声だった。
「あなた、カンナさん!?」
「へへ、ご名答」
キッチンから出てきた大柄な若い女は、紛れもなく帝撃花組の桐島カンナだった。
その後ろには、やや呆れたような顔でカンナを見ているマリアもいた。
「あ、マリアさん! ご無事だったんですね!」
さくらが駆け寄っていった。
「さくら、あなたも……。よかった、すみれのところまで無事に行けたのね」
「……」
あまり無事とは言えなかったが、生きてここまで来られたのだ。
よしとすべきだろう。
「なんだなんだ、すみれ。金魚みたいに口パクパクさせて」
カンナが笑ってすみれの肩を叩いた。
あまりのことに呆気にとられていたすみれがようやく立ち直り、言い返した。
「あ、あなたこそどうしてここにいるんですの!? 沖縄へ行ったんじゃ……」
「あ? ま、まあな。乗船してからこの事件を聞きつけてな、大急ぎで戻ってきたってわけだ」
「戻ってきたって、あなたまさか、また泳いで来たんじゃないでしょうね!?」
花組結成時、沖縄修行の旅から帰京する船が事故で沈没し、そこから延々と泳いで東京へやってきた
という話は、半ば伝説化している。
「まさか。いくらあたいでも真冬の海はカンベンだぜ」
「じゃ、どうやって……」
話を要約するとこうである。
カンナの乗船した船に、東京に異常事態発生という一報が届いたのは出港してすぐのことだったらしい。
船内食堂で仲良くなった航海士からこのことを聞かされたカンナは、すぐにブリッジへ行った。
折良く、そこには海軍の士官が乗り合わせており、横須賀と連絡を取り合っているところだった。
カンナは素生を明かして帝撃の様子も聞いてもらい、大帝国劇場が音信不通と知ったのである。
こうなると居ても起ってもいられなくなるのがカンナだ。
海軍士官と交渉し、寄港するよう頼んだが、なにぶんこれは民間船であり、海軍の管轄ではない。
それではと船長に話をつけようとしたものの、叛乱が起こっている帝都には戻れないと後込みする。
結局、埒があかず、カンナは実力行使に出たのだ。
「じ、実力行使って、あの……」
さくらが恐る恐る尋ねた。
カンナは照れくさそうに頭を掻いて説明する。
なんと機関室に潜り込んで、エンジンのシリンダーをいくつかぶっ壊したらしい。
全部やったら航行不能になるから、その辺は気を使ったと言って笑った。
結局、そのままでは予定通り運航出来ないということで、東京港に寄港することになったのだそうだ。
「な……」
「あ、あなたって人は……バカじゃないの!?」
「なんだとっ!」
すみれの怒声にカンナも切り返す。
「そんなことしたら、後が大変じゃありませんの!」
「そんなこと言ったって、こっちが心配でさあ……」
「あなたがひとりで勝手に泳いでくるならともかく、船のエンジンを壊してムリヤリ帰ってくる
なんて滅茶苦茶ですわ! あとで米田支配人が苦労するハメになるんですわよ」
「すみれ、その辺で勘弁してあげて。お陰で私も助けられたのだから」
マリアがふたりの間に割って入った。
大柄だが俊敏なカンナは、あちこちにウロウロしていた戒厳部隊や決起軍の隙を見て帝都まで舞い戻り、
大帝国劇場に侵入したのである。
さくらが脱出した地下二階の整備場から入り込み、地下一階で監禁されていたマリアを助け出し、
米田らを救おうと一階まで昇ってきた。
そこで兵に発見され、大立ち回りということだったらしい。
「……それで、なんでキッチンなんかにいたんですの?」
「それは……」
マリアがちらとカンナを見る。
「いや、『腹が減っては戦は出来ん』てやつさ。なんせ東京港からこっち、何も食ってなかったもんでよ」
「……呆れた」
すみれがつぶやくと、さくらも「ぷっ」と吹き出した。
いかにもカンナらしい。
「あなたたちが無事でホントによかったわ。カンナも「すみれは無事なのか?」って大変だったんだから」
「……」
カンナはプイとそっぽを向いた。
すみれは、ツンと鼻の奥が痛くなったが、そんなことはおくびにも出さない。
「……まったく、あなたに心配されるようじゃ、わたくしもヤキが回りましたわね」
「てめえ、その言いぐさ……」
「もうおやめなさい、ふたりとも。まだ解決したわけじゃないわ、米田司令と副司令をお助けしないと」
その通りだった。
丸腰のままではまずいと、武器を拾った。
マリアは、隠しておいた愛銃を取り戻していた。
すみれは、さっきカンナに投げ飛ばされた兵隊から小銃を奪った。
撃つのではない。
小銃の先に付いた銃剣を使おうというのだ。
さくらは軍刀である。
カンナにぶちのめされたふたりのうちひとりが将校だったらしく、軍刀を帯びていたのだ。
さくらの愛刀に比べれば造りが雑だったが、この際贅沢は言っておれまい。
カンナは丸腰である。
彼女に武器は必要ない。
稲田を先頭に全員走った。
ここまで大騒ぎを起こしてしまえば、もうこっそり行っても無意味だろう。
食堂を出て事務局を走り抜けると、案の定、支配人室方向から走ってくる人影がいた。
「誰だ、きさまら!」
「来ましたわよ」
「OK」
さっと駆け出すすみれたちにマリアが叫ぶ。
「殺しちゃダメよ!」
兵隊たちは恐らく命令で動いているだけだ。
言ってみれば彼らも犠牲者と見ることも出来る。
しかし、マリアの制止の声よりも早く、さくらとすみれが襲いかかっていった。
銃剣で突っ込んで来た兵に、すみれも銃剣で応戦する。
キン! ガツン! と、銃剣同士が弾き合う金属音、銃身がぶつかり合う響きがこだまする。
しかしすみれの小銃が、あっというまに兵の小銃を弾き飛ばしてしまった。
銃を飛ばされて痺れた腕を押さえている兵の腹部に、すみれは銃床を叩き込んだ。
声も出せずに兵は崩れ落ちた。
すみれは神崎風塵流の後継者である。
とっさに、銃剣付きの小銃を薙刀に見立て、振るったのだ。
薙刀に比べれば重たいし、重心バランスも異なっているが、銃剣術を少々嗜んだ程度の兵隊ごとき
では相手にならないのは当然だ。
一方、さくらは軍刀を鞘から抜くと、裂帛の気合とともに刀身を振り下ろした。
慌てた兵が銃剣を振るって一刀を避けたが、そこに出来た隙を見逃すさくらではない。
北辰一刀流免許皆伝の腕は伊達ではなかった。
刀を払って小銃を横に振った脇腹に、さくらは胴を叩き込んだ。
「ぐあっ……」
兵は左横から強烈な衝撃を受けて、そのまま壁に衝突し、気絶した。
刀身は返されていた。
峰打ちである。
さくらもすみれも最初から殺す気はなかった。
「どうしたか! …あっ……」
すぐに別の兵が駆けつけてきた。
峰の高い軍帽をかぶっている。
関本完治少尉だった。
「むっ、きさま、マリア=タチバナ! どうやって……。き、きさまら、神崎すみれに真宮寺
さくらだな!」
「あたいもいるぜ」
「き、桐島カンナか……」
関本ら士官は、障害になりそうな花組メンバーの顔は写真で覚え込まされている。
関本はわなわなと震えて腰の拳銃を抜いた。
「!」
「きさまら、反逆するか!」
「どっちが反逆よ!」
「……」
すみれが叫んだ。
「もう勅命が下されたのよ。あなた方は賊軍とされたのよ、もう抵抗はおやめなさい。紀平中尉
も覚悟されてましたわ」
「紀平中尉だと?」
関本は鼻で嗤った。
「あのような軟弱者の命令には従わん。ここは俺が死守する!」
「軟弱者ですって!?」
「中隊長どのは軟弱ではない!!」
すみれの声にかぶって稲田が叫ぶ。
「きさま……、裏切ったのか」
「そうじゃない、気が付いたんだ」
「……」
「こんなやり方じゃダメだってことがわかったんだ。中隊長どのも同じ考えだ」
稲田も小銃を構え、関本に相対する。
左腕ですみれやさくらを後ろにかばった。
「う、裏切り者めが。反逆罪につき、この場で処断する!」
「少尉!」
「稲田さんっ!」
「わああああっ!」
小銃を腰だめにして突っ込んだ稲田に、関本がトリガーを引いた。
二度、三度とブローニングが鳴り、稲田はびっくりしたような顔のまま、うつぶせに倒れ込んだ。
「いやあああっ、稲田さあん!!」
絶叫したさくらが、倒れた若い兵隊に駆け寄る。
「てめえ……」
「許しませんわ!」
すみれがギリッと噛みしめた歯を鳴らし、銃剣で突っ込んでいく。
カンナも怒りで顔を染め、大股で殺人者に走っていった。
関本は向かってくるすみれとカンナに銃口を向けた。
その時。
ガァン! ガン! ガン!
弾けるような銃声が三度鳴り響いた。
さくらは稲田をかばって彼に覆い被さり、すみれとカンナは銃弾を避けようと廊下に伏せた。
が、後ろに吹っ飛んで行ったのは関本の方だった。
すみれが思わず振り返ると、マリアが銃を構えていた。
エンフィールドMk.Uの銃口から硝煙が立っている。
「……」
マリアは、花組の仲間たちに人殺しをして欲しくなかった。
降魔を倒すのとは意味が違うのだ。
人を殺すということは、当人の人生を強制終了させるだけでなく、その人に連なる人々にも影響を
与えることだ。
その後味の悪さ、深い後悔は他の何事とも比較にならない。
それをマリアはロシア革命の内戦でイヤというほど学習した。
そのような思いをするのは自分だけでたくさんだと思った。
今の場合、放っておけば、怒りに燃えたすみれたちは冷静になれず、関本を殺害しただろう。
「稲田さん! 稲田さん、しっかりしてくださいっ!」
「……」
「稲田さんっ」
さくらの膝に頭を乗せられ、稲田一等兵はうっすらと目を開けた。
関本少尉は三発撃ったが、当たったのは二発だったようだ。
右脇腹と左肩口付近から血がどくどくと流れていた。
「さくら……さん…か」
「大丈夫ですか!?」
「もう…いいんだ……、見て見ぬ振りをしてた…報いだよ……」
「稲田さん……」
「さくらさんたちは……無事だったか……?」
さくらは瞳から涙を溢れさせ、何度も頷いて答えた。
「はい……、はい! 稲田さんのお陰です」
「なら……よかった…。これで……妹に…顔向け……出来るかな……」
「そうですよ! 妹さんに会うのでしょ? しっかりしてくださいっ」
微笑を浮かべ、稲田はがくりと首を垂れた。
さくらは半狂乱になって若い兵の身体を揺さぶる。
「い、稲田さんっ、しっかりしてっ……、死んじゃ、死んじゃだめですっ…、稲田さんっ」
すみれたちは、稲田の身体にすがって泣きじゃくるさくらを痛ましげに見ていたが、マリアが
我に返った。
すぐに関本の死体を探って、軍服のポケットから鍵を取り出すと、支配人室のドアを開けた。
「米田司令! かえでさん! ご無事ですか!」
* - * - * - * - * - *
事件は終結に向かっていた。
陸軍大臣官邸の動きも慌ただしくなっている。
主席秘書官の大佐が入室して報告した。
「閣下、決起部隊の連中が投降し始めたようです。下士官兵は原隊に復帰しつつあります」
「将校たちは? 自決したか?」
「未確認情報ですが、投降者がいるようです」
「なっ、誰と誰だ? 至急調べろ、その上で始末するのだ」
この期に及んでおめおめと生き残ろうというやつがいるのか。
軍人なら軍人らしく自分の始末くらいつけられんのか、と京極は腹を立てた。
第一、投降されて喋られたらこちらが困る。
「惜しい者もおりますな」
「……。兵隊は消耗品だ。士官も含めてな。いくら減ろうが後から湧いてくるものだ。それが
国力というものだろう」
そう話している時、突然ドアが開いた。
京極大将は目を剥いた。
「天笠……」
「閣下」
「き、きさま、なぜここいる!? ここには来るなと言っておいたではないか! 今さら何の用だ!」
天笠少佐は少し青ざめた顔でデスクに近づいた。
鬼気に押された秘書官が後じさる。
「申し訳ありません、閣下……。決起は失敗しました」
「そ、そんなことはわかっとる! その責任は取らんのか、きさま」
「兵たちは無関係ですから帰隊させました。将校たちは自決した者もおりますが、投降した者も
おります」
「きさま、それがわかっててなぜ止めんか!」
京極の糾弾に答えず、天笠が言った。
「自分は自分で始末を着けます。しかし、関わりの薄い者たちまで死なせるのは忍びありません……。
それに、将来また決起する時のために、同志将校を助けるべきではありませんか」
「天笠……、きさま裏切ったな!」
「閣下……」
「軍事法廷に出廷して喋る気なのか!?」
「そんな、閣下……」
「も、問答無用!」
京極はデスクの引き出しから拳銃を取り出すと、自分を信望している部下に向かって引き金を引いた。
乾いた銃声が二度鳴り響き、天笠士郎少佐は床に崩れ落ちた。
またドアが開き、今度は高級副官が入ってくる。
「失礼します! うっ……」
副官は天笠の死体を見て後じさった。
京極はイライラして怒鳴る。
「今度はなんだ!」
「は、はっ! よ、米田閣下が……」
「なに? 米田?」
「失礼しますよ、京極大臣」
副官を押しのけて米田一基中将が入ってきた。
倒れている天笠を痛ましげな顔で一瞥すると、無表情で京極に言った。
「大臣閣下、あなたの目論見は完全に失敗したようですな」
「な、なにを……言ってる…」
米田の目がきらりと光る。
「この期に及んで言い逃れとは往生際が悪いぜ、大将」
「……」
「関本少尉は死んだが、井村中尉がみんな吐いたよ」
自決しようとしていた井村を止めたのは米田だ。
部下の兵たちに寛大な処分が下るよう米田が手を尽くすという条件で、法廷に出ることを承諾
したのだった。
「観念しな、京極さん」
「そういうことです、閣下」
米田の後ろから顔を出したのは、憲兵司令部の松原大佐だった。
「井村中尉は憲兵隊が確保しました。閣下にもご同行願います。じっくりお話を伺うことにしま
しょうか」
憲兵の腕章をつけた高級将校はそう言って室内を見回した。
「ここにある死体のことも含めてね」
* - * - * - * - * - *
後に「太正維新事件」と呼ばれるこの騒動は、三日で完全に終結した。
各地の決起部隊は解散し、一般兵たちは全員原隊へ戻った。
指揮した青年将校のうち三名が投降し、残りは全員自決した。
同日十八時、戒厳司令部は事態の完全終結を宣言し、司令部の解散を発表した。
公表されなかったが、出頭した三名の士官は軍事法廷にかけられることになった。
その翌日。
さくらたちは陸軍病院に稲田を見舞った。
稲田一等兵は助かった。
関本少尉に撃たれた二発は、重傷ではあったが致命傷にはならず、全治二ヶ月と診断されていた。
今回の事件で、吉原にいた稲田の妹から連絡があり、明日にでも見舞いに来ることになった。
悲惨な事件の中、ほとんど唯一の朗報だった。
そんなこんなで、さくらは少しはマシな気分だったが、隣を歩くすみれはやや俯いていた。
紀平順一郎中尉自決の一報を聞いたのは、ついさっきのことだ。
いろいろあったらしいから、すみれが複雑な心境になるのはやむを得ないだろう。
カンナが、見越したようにすみれの肩をやや強めに叩いた。
「どうしたすみれ。シケた顔してんなよ」
こんな時、ヘタに慰めを言ったりすると、すみれはかえって腹を立てる。
こういう時は普段通りに扱えばいいのだ。
「何なさるの、痛いですわね! …まったく馬鹿力なんですから」
「いいじゃねえか」
「少しはしんみりなさったら? みんな、あなたみたいに神経がワイヤーロープで出来てるわけ
じゃありませんのよ」
カンナは少し安心する。
こういう憎まれ口がきけるなら、すみれも立ち直りつつあるのだろう。
「落ち込んでたって始まらねえさ。空を見てみなよ」
「え?」
「いい天気だぜ。雪も上がったじゃねえか」
完
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