男がひとり、部屋の中でじっとテレビを見ていた。
四谷にあるマンションの7階の一室である。
分譲で110世帯ほどが入れるが、新築ということもあって、まだ90世帯ほどしか入居していなかった。
男は独身だったが、7000万ほどの3LDKの部屋を買っていた。

年齢は40歳以上だろうが、50歳にはなっていないだろう。
部屋の照明はすべて落としており、室内の灯りはテレビから漏れる光だけだ。
そんな中なのに、男はオークリーのサングラスを掛けている。
偏光レンズのようだが色は濃く、真っ黒だ。
紫外線対策とか乱反射防止のためというよりは、顔や表情を隠すためのように思える。

ソファを背もたれにして、無造作に絨毯の上に座り、長い脚を伸ばしていた。
手元にはグラスとアイスペール、そしてバーボンのボトルがある。
男はバーボンのグラスを持ちながら、じっと画面を見つめていた。

壁に掛かった70インチの大型液晶テレビに映っていたのは、若い女性である。
タレントではないが、女優やアイドル並の美貌と均整の取れたスタイルを持っていた。
年齢は20歳前後といったところだろう。
身体にぴったりしたコスチューム──レオタードを身に着けており、女性らしい身体の線をはっきりと表している。

その女性がマットの上で飛んだり跳ねたりしている。
場所はどこかの体育館らしかった。
どうも新体操の選手らしい。女は、バレーボールよりも一回り小さなボールを手にしている。
そのボールをポーンと上へ放り投げ、それが落ちてくると捕球はせずに手のひらに軽く載せた。
すぐに手のひらを裏返してボールがまた浮き上がり、落ちてくると今度は手の甲で受けて見せた。
そのボールを軽く投げたり床についたり、あるいは身体の上で器用に転がしたりしている。
流れるような美しい動きだった。

「……」

男は視線を外さず、じっと画面を見続けている。
画面では、ボールからクラブに持ち物が変わっていた。
マラカス状の二本の棍棒を左右の手に持ち、これも自在に回転させている。
ポーンと両方一度に宙に放り投げ、くるりとサマーサルトをしてから、落下してきたクラブを見事に二本とも受け止めている。
映像は女の全体像だけでなく、時々、女の貌や腕、脚などがクローズアップされていた。

よく見ると、演技している女の後ろを別の選手たちが通り過ぎたり、練習している様子も映っていた。
撮影されている女も、希にカメラを意識するのか、ちらりと見ることがあった。
盗撮などではないらしい。

今度はリボンになった。
リボンを持った腕がしなやかに回転し、リボンが宙で美しいスクリューを描いている。
すっと身体に巻き付き、それがウソのようにはらりと解けて、また宙を舞った。

一見、リボンは軽く手楽そうに思えるが、実はかなりきつい。
リボンが床に着いたら大きな減点になるから、常に浮いて動いていなければならない。
その動きを維持させるために、常に腕や手首も動かしておかねばならないのである。
無論、リボンが釣り糸のように絡みついてもダメだし、結び目が出来てるのもいけない。
華麗で優美な演技が魅力のリボンなのだが、演じる側にとってはかなりハードなのである。

女は、そのリボンがまるで身体の一部のように扱っていた。
一通り終わったのか、女の動きが止まった。
すかさず部員らしい他の少女が近寄ってきて、スポーツタオルを手渡している。
女は優しげな微笑みを浮かべ、少女に礼を言っているようだ。
額や首筋の汗を拭くと、ボリュームのあるミドルのボブヘアが可憐に揺れた。
男は手にしたグラスを煽り、底に残っていたバーボンを飲み干す。
氷とガラスの触れ合う高い音が微かに響いた。

「……浅倉……南、か……」

男──由良は、片時も南から目を離さず、その美貌と肢体を眺めていた。

────────────────────

浅倉南は、大学進学後も新体操を続けていた。
恋人である上杉達也もそれを勧めたからではあるが、そうでなければやめていたかも知れなかった。
もともと新体操をやり始めたきっかけがきっかけだったし、決して自分の意志で始めたものではなかったからだ。
ただ、頼まれればイヤと言えない性格だったし、周囲の期待には応えたいと思う真面目な娘だったから、その流れで──言ってみれば惰性で──
続けていたようなものだった。
他にやりたいことが見つかれば、案外あっさりとやめるだろうし、達也がもし同じ大学へ進学していて野球部にでもいれば、当然そっちでマネージャーを
やっていただろうと思う。
しかし達也はアクシデントもあって同じ大学へは進めず、しかも高校時代の無理が祟って肩を故障し、野球自体を諦めていた。

そんな中、南は流されるように競技を続けていたのだった。
根が真面目だから、やり始めれば打ち込んでいく。
今年で20歳、三回生になるが、もうこの大学チームのエース格として活躍していた。
今は他の部員たちと一緒に練習前のストレッチを行なっている。

その様子を、チーフコーチの由良が見つめていた。
黒いサングラスを掛けていて表情が見えず、総じて無口な方なので、知らない人には不気味に見えるが、コーチとしては有能で熱心だった。
そもそも、女子の新体操で男性コーチの存在自体が珍しい。
普通はもと選手の女性が着くことが多いのだが、これは当然だろう。
同じ新体操でも男子と女子は似て非なるものだからだ。
性差もある。

おまけに由良コーチは、自分が新体操をやっていたことはなかった。
高校時代までは器械体操の選手で、大学に入ってから女子の新体操部のマネージャーをしている。
これは由良が女子新体操に一方ならぬ興味と関心を持ち、勉強したかったかららしい。
卒業後は主に東ヨーロッパに渡って女子新体操の理論を追求し、指導者の道を目指した。
以後、ベルギーのナショナルチームでコーチとして活躍、5年前に帰国した。

国外での実績に目を着けた大学が、由良をチーフコーチとして招き、指導を仰ぎ始めたのが3年前のことだった。
由良が就任して以来、この大学チームはめきめきと力をつけ、今ではインカレの上位常連校となっている。
由良以外にもコーチが3人、メイク担当が3人ほどいるが、いずれも女性だった。

こんな中だが、由良は独裁を布くこともなく、むしろ他のコーチに指導のほとんどを任せている。
由良はコーチに対して指導法を教授したり、気になった選手たちへポイントを話すくらいである。
およそ熱血コーチとか鬼監督という風情ではなかった。
それ故にか、選手たちの評判は良かった。
怒鳴られ、叱り飛ばされることはなかったし、小うるさく小言を言われることもない。
決められたスケジュールやメニューを遵守することには厳しかったが、それ以外は比較的選手個人のペースに合わせてくれるのだ。
やりやすい指導者と言えるだろう。

加えてルックスも悪くなかった。
もう40歳は越えているだろうから、選手たちにとってはややもすると父親世代になるわけだが、「ニヒルで渋い」と人気は上々なのだ。
サングラスで表情を隠し、あまり喜怒哀楽を表さないところも評判だった。
一緒になって喜んだり泣いたりすることはないが、それだけに頼りになるという評価らしい。
だからといって取っつきにくいということもなく、話しかければちゃんと答えてくれるし、由良の方からも気軽に言葉をかけてくることもあった。
何を考えているのかわからない、というようなことはないのだ。

南を見つめる由良の隣には、主将の渡瀬紀子が立っていた。
新体操の選手らしいすらりとしたスリムな肢体で手足が長い。
目鼻立ちは地味だが、メイクを施すと生えてくる顔立ちだった。
南を見ている由良を横目で見ながら、紀子がぽつりと言った。
周囲に聞こえぬよう、声を潜めている。

「……今度は浅倉さんにするんですか?」
「……」

綿で出来た練習用のレオタードを着けた南がウォームアップを続けている。
レオタードの素材は色々あるが、綿製のものは汗の吸収がいいので練習用として人気がある。
競技会で用いるのはベルベットを愛用していた。
柔らかな光沢が美しく、また肌触りも良いので、演技していて気にならないのもいい。
競技用にはノースリーブのものを着ているが、練習では半袖を使っていた。
これも練習だからなのか、タイツもシューズも履かず、素足の裸足である。

南はマットに座って脚を伸ばし、ぐぐっと腰を曲げて前屈をしている。
踵をぴたりと揃え、両膝もくっつけている。
その状態で上半身が腿に密着するまで身体を曲げていた。
Vネックの襟元からは胸元が覗きそうになっているが、もちろん下着は着けているからそういう不安はない。
身体に密着したレオタードは、南の女らしい肢体ラインを素直に表出していた。

女子の新体操は、演技の巧拙や表現力を問われるものではあるが、演技者自身の美しさも評価点の大きなポイントとなる。
平たく言えば、美人の方が高得点を得やすい、ということだ。
女性の魅力というならば、ルックスだけでなくスタイルもそうだろう。
その点新体操は身体の線がはっきりと出るコスチュームを着ている。

だが、そこまでなのだ。
セクシーさを強調しようとするならば、襟元を大きく開けたりパンティラインを調整してハイレグにすればいいのだろうが、そうしたものは禁止されている。
一見、胸元が大きく開いていたり、薄いレース生地で下が透けて見えそうなものであっても、実は肌の色に近い裏地がついているのだ。
セクシーさも女性の魅力のひとつではあるが、そればかりが過度に強調された衣装は原則として認められていないのだ。

南の腕が自分のふくらはぎを掴み、そのままの姿勢でしばらくじっとしている。
他の部員たちの中には、背中を仲間に押してもらってようやく前屈し、悲鳴を上げている者もいる。
身体の堅い者にとってはきついストレッチである。
南は柔軟な肢体を見せ、楽々と前屈をこなしていた。

南の姿勢が変わり、前屈のまま右足を後ろに伸ばした。
その状態で上半身を前屈させていった。
普通、この姿勢になると後ろに伸ばした脚が屈まってしまうものだが、南の右足は綺麗に伸びている。
次第に南の上半身が起き上がり、今度は後ろに倒れていく。
南の背中が弓なりとなり、ウェストが綺麗に反り返って後頭部が右足のふくらはぎにくっついた。
見事な柔軟性である。
紀子が由良を見上げて言った。

「珍しいじゃない。浅倉さんは有望よ、そんな子に手を出すの?」
「……」
「それとも……」

紀子の目がやや冷たく光った。

「そこまであの子に……」
「そう思うか?」

由良は、紀子を見もせずに素っ気なく答えた。
南に対する由良の評価は、渡瀬主将のそれとは違っている。

確かに浅倉南は素材的には見るべきものがあると思っている。
実績も申し分なかった。

聞いたところでは、高校2年の時に新体操部の主将がケガをして競技会に出られないというアクシデントがあって、その穴埋めという形で南が入部したらしい。
いかに南の運動神経が良く、ルックスも良いとしても、キャプテンの代役で素人を使わざるを得ないというのだから、その高校の実力は大したものでは
なかったのだろう。
通常、こんな起用でうまくいくはずはないのだが、南の実力は他を凌駕していたらしい。
まだ新体操を始めて間もない素人なのに、都大会でいきなり3位に入賞してしまったのだ。

空前絶後であった。
当然、マスコミも他校も仰天し、あっという間に有名人となってしまった。
何でも、もともとは野球部のマネージャーだったらしく、本来ならその競技会が終わるまでという約束だったようなのだが、こうなってしまっては
辞めるわけにもいかず、結局そのまま成り行きで新体操を続けたようなのだ。

その結果、三年生のインターハイでは見事に個人優勝を遂げている。
ここに至ってマスコミも過熱し、日本の女子新体操界が振るわなかったこともあって「期待の新星」として、一気にクローズアップされることとなった。
この大学へ来てからも将来のエースとして期待され、順調に成長してきている。

その南は、今度は左右開脚に移っていた。
座ったまま大きく開脚し、ほとんど180度近い角度になっている。
そのまま軽く前屈し、手を股間の前に突いている。
これも身体が堅いとかなり苦しく、ついつい膝が曲がってしまうのだが、南の膝はきちんと上を向いていて動かない。
表情をたまに顰めることがあるから、南もけっこう辛いのかも知れない。
しかし、他の部員の介助もなく上半身を左足の上へ倒していった。

10秒、20秒とそのまま動かず、少し膝が浮き、細かく脚が痙攣してきてから、すっと上半身が戻った。
ホッと息を吐いているのが、口の動きからわかった。
今度は逆側、右足の方へ倒していく。
左足をピンと伸ばして、しなやかな肢体が右足に密着した。

「随分とご執心なんですね、コーチ。鍛え甲斐があるから?」
「まあ、そうだな」
「そう。それは体操選手として? それとも……」
「もうやめろ」
「……」

由良は無表情だったが、紀子は薄笑いを浮かべている。
紀子は面白がって男をからかい、由良の方はそれに対して「おとなの対応」とばかりに冷静を装っていた。
このふたりはそういう関係なのだろう。
茶化す紀子を表面上は無視して、由良は有望な次期キャプテンの練習を見つめている。

浅倉南。

新体操界に突如、彗星の如く登場し「天才」の名を欲しいままにした美少女。
そのバランスの良いスタイルと清楚で愛らしいルックス、そして親しみやすい笑顔によりマスコミも過熱し、今や全国レベルのアイドルと化している。
大学が南を招くためにスポーツ優待生として無条件入学を仄めかしたようだが、本人がそれを断ってまともに受験、きちんと合格した上で入部して
きている点も人気に拍車を掛けたようだ。

その点に関しては好感を持っていたし、高校時代の演技も何度か見ているから、由良も大きな期待があった。
しかし、実際に南本人に会い、その練習ぶりや演技を見るにつけ、少しずつ評価が変わっていく。

この娘に「天才」という称号は行き過ぎではないか。
日本だけでなく、他国でも長年に渡って選手を見続けていた彼の目にはそう映った。
ロープやフープ、ボールにクラブ、そしてリボン。何を使っても一通りこなし、人並み以上の演技を見せる。
器用なことに加え、彼女が本来持っていた運動神経が素晴らしいのだ。
物覚えも早い。

何より印象的だったのは、彼女の表現力の豊かさである。
新体操は、13メートル四方のスペースの中で1分30秒という限られた時間の中、5種の手具を使い、音楽に合わせながら流れるように演技するスポーツだ。
音楽に合わせた流れるような動き、手具を巧みにに扱うリズム感、そしてスペースをいっぱいに使うダイナミックさまで持ち合わせている。
バック・ミュージックにぴったりと合った身体の動きや表情は抜群の表現力の高さを物語っており、まさに天性のものかも知れない。
彼女に対して芸術点が際立っているのもうなずける。
南の練習や演技を見た上級生たちも、その素材の良さに驚嘆の声を上げたものだ。

しかし由良は少し首を傾げたのだ。
何か足りない。
その時は具体的に思いつかず、ただ何となくそう思っただけだったのだが、2年間南の指導を続けるうちに、それがわかってきた。

もう彼女には「のびしろ」が感じられないのだ。
現状が目一杯なのである。
新体操を始めた当初から凄まじいばかりの成長ぶりだったようだが、どうやらそれがここに来て止まってしまったようだ。
真面目で何事にも一所懸命になる娘だからこそ、短期間でここまで伸びたのだろうが、今の南には、その抜群だったであろう集中力が少し欠けているよう
にも思えるのだ。
ただ、もともとの能力値が高いから粗が目立たないだけで、見る人が見ればそれに気づくだろう。

精神的に不安定なのかも知れないし、もしかしたら彼女がこの競技にのめり込めなくなっている可能性もある。
何でも、無理に勧誘され成り行きで始めたらしいから、そういうこともあるだろう。
ならばさっさと辞めれば良さそうなものだが、そこは真面目で責任感も強いらしいから、やり始めたことはやり抜こうと思っているのだろうし、自分からは
言いづらい面もあるのだろう。
南がこのまま競技を続けても、インカレの日本学生新体操選手権大会の常連にはなれるだろうが、そこで上位入賞するかどうかは疑問だ。
無論それだって普通に考えれば大したものなのだが、周囲の期待はそれでは済まされない。
近い将来、日本の五輪代表として世界へ、と世間は思っているのだ。

だが、由良の見るところ、国内大会ならともかく、世界二大大会と呼ばれている世界新体操選手権や、世界新体操クラブ選手権に名を連ねるところまでは行けない。
ユニバーシアードやアジア選手権へ日本代表として入るのも難しいだろう。
最善を尽くし、運も味方したとしても、せいぜい日本代表が関の山で、オリンピックを含めた世界大会本戦で入賞するのはまず無理だ。

由良が思うに、南が未知のスポーツでここまで伸びて来たのは、運動神経の良さと賢さからだろう。
新体操に関する素質があったわけではない。
素質以前の素材は抜群に良かったが、どうもそれ以上ではないようなのだ。
それだけでここまで来た南の努力には感嘆するが、競技者としてはここまでの選手だと思う。

大学やマスコミは、2年後のオリンピック出場を期待する反面、南の年齢を懸念する向きもあった。
今年19歳になったばかりだが、五輪がある2年後には21か22になっている。
オリンピックで上位入賞する各国の選手たちはみな若いのだ。
素質のある娘は、小学校に入るか入らないかの時点で指導者に見出され、英才教育を受ける。
そこで10年間徹底的に鍛えられたとしても、まだ16歳なのである。
各国の主力選手たちが軒並み10代なのもうなずけるというものだ。

実際、モントリオールで「白い妖精」の異名を取り、世界をうっとりさせたかのコマネチにしても、6歳から専門指導を受けている。
そこで才能を遺憾なく発揮して、わずか9歳で国内のジュニア選手権を制したかと思うと、翌年には早くも国際大会で個人優勝を果たしている。
10歳の時である。
そして10点満点を連発し、世界を驚かせたモントリオールの時でも14歳だったのだ。

その点、日本はかなり遅れている。
学校教育と並行して、日に6時間もスパルタ的に練習させるのは事実上無理なのだ。
南に関して言えば、始めたのが16歳の時であり、19歳の今年でまだ3年目なのである。
年齢ではコマネチよりも5歳上なのに、キャリアは3年も少ないことになる。

ただ、由良本人はそうした年齢に関する不安は、周囲ほどには持っていない。
実際、世界には20歳を越えた競技者だってゴロゴロしているし、彼女たちも世界大会で優勝しているのだ。

例えばロシアのエフゲニア・カナエワは22歳だし、ダリア・コンダカワも21歳である。
ルーマニアのアナ・ボルガスも19歳と南と同い年だし、ブルガリアのシルビア・ミテバに至っては26歳にもなるのだ。
もちろん年齢的な衰えはあるが、20歳を越えたからといって引退を意識する必要はないと思う。

ただ日本の指導者たちは、コマネチの印象があまりにも強かったせいなのか、それとも各国の幼年指導を意識しているのか、過剰に年齢を気にする。
南はまだ競技を始めてさほど経っておらず、しかもアイドル化しているせいなのか、あまりそのことには触れず、期待ばかり大きいようだ。
しかし由良は、南はここまでと踏んでいる。
コンスタントな成績は残すから大学のクラブとしては重宝な選手だろうが、日本代表とか、そういうレベルではない。
だからこそ「競技者」としての南を見切ったのである。
南を見る目が「選手」から「女」と変化していった。

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大会上位常連校ではあるが、この由良がコーチに就任してからというもの、この部の練習時間は明らかに減少した。
今までは午後9時、10時まで体育館内は煌々と照らされ、少女たちが汗にまみれて身体を虐めていた。
しかし、そういった長時間練習は非効率的であり、かえって逆効果であるとして由良がやめさせたのである。
練習中の休憩もまめに取るようになったし、そのせいか故障する選手はかなり減った。
それでも、課題を持った選手の個人練習までは止めなかったし、希望があればそれにつき合っていた。
そして「強化指定」となった選手は、例外的に遅くまで練習することも認めていた。
南も、その強化指定選手のひとりだった。

由良は、南に関してはそこまですることはないと思っていた。
才能の限界値に達しているということもあるが、それ以上に、この浅倉南という娘は、こちらが特に強く指導しなくとも自分で課題を見つけ、自主的に
努力するタイプだったからだ。
だが、何しろ巷での注目度が違う。
学校サイドも当然のように南を指定選手とするよう求めてきた。
こうなると由良もどうにも出来ず、南を強化指定としたのだった。

この日も南は他の強化選手たちとともに居残りで練習し、疲労した身体を横たえていた。
新体操部はこの学校の看板だけあって、かなり優遇されている。
広い部室の他に医務室を兼ねたマッサージ室を完備していた。
専門のトレーナーまでいたが、ひとりなので部員全員に対して入念に、というわけにはいかなかった。
しかし好都合なことに由良が資格を持っていた。
アスレティック・トレーナーの他にスポーツ・トレーナーの資格まで取得している。
しかも修士免許だったから、名目上はプロスポーツ選手への施術や指導まで出来る。
専属のトレーナーよりも上だった。
強化指定選手は、この由良から直接マッサージを受けられるのだ。
この日、最後まで残っていた南は、シャワーを浴びて汗を流してから、由良の手にかかっていた。

「ん……」

南は寝台の上でうつぶせに横たわり、組んだ腕の上に軽く顎を乗せている。
マッサージを受けるということでレオタードは着用していない。
セパレートのファンデーションのみである。
言ってみれば下着姿なので、最初はかなり恥ずかしかったのだが、今はもう慣れてしまった。
由良の方も、半裸の女体を扱っているという認識はまるでないかのように、平然と南の身体に指を這わせている。

由良は南の右足を持ち上げ、膝を90度に曲げた。
腿を固定させ、足の裏を天井に向けている。
そこに親指を当て、足の裏の真ん中──土踏まずの部分から踵に向かって押していく。
軽く拳を作り、指関節の部分で足の裏全体を揉みほぐす。
ジーンとした痺れが足の裏からふくらはぎへ届き、腿に走る。
脚に溜まっていた疲労が痺れとなって抜けていくのがわかる。

本当に由良コーチはマッサージが上手だ。
先任のトレーナーよりも、由良コーチのマッサージの方が好評だというのもわかる。
その心地よさに、南はつい声が出る。

「んん……」

由良がひょいと南に顔を向ける。

「……痛むか?」
「あ、いいえ……。気持ち良いです」
「そうか」

由良は拳で軽く足の裏を叩いている。
今度は左足を持ち上げ、同じように足の裏をマッサージしていった。
その足を掴むと、爪先を膝の方向へゆっくりと曲げていく。
アキレス腱がぐーっと伸びていくのがわかる。
今度は逆にふくらはぎの方向に曲げられた。
脛の筋肉が少し痛いくらいまで曲げられると、また元に戻っていく。
魔法の指はアキレス腱を摘むとぎゅっと圧迫してきた。

「これはどうだ? 痛いか?」
「少し……、でも平気です」
「そうか、無理はするなよ」
「はい」

由良はそう言いながら足の腱を軽く揉みほぐしている。
そしてまた様子を見て、足首を曲げてアキレス腱を伸ばしていた。
足の甲を掴んで、くるくると足首を回転させているが、これがまた気持ち良かった。
続けて指がふくらはぎの反対側──脛へ回っていく。
脛の筋を伸ばすように、落ち着けられた親指が膝から足首へ向かって滑っていった。
弁慶の泣き所に沿って親指を合わせ、膝から足首へ向かって強く圧迫していく。
ここは腰と並んで疲れの溜まりやすいところなので念入りに揉んでいる。

「……」

本当に気持ちが良かった。
このまま眠ってしまえたらどんなに幸せだろうと南は思っている。
由良の指は脛から離れ、ふくらはぎの左右の筋肉をゆっくりと指圧していた。

「腰に行くぞ」
「はい、お願いします。んんっ……」

男の大きな手が背骨の横をぐーっと押してくる。
重ねられた両手がお尻と骨盤の付け根あたりと強く押し込んできた。
この、押される時に息を吐いて、力が緩んだ時に息を吸うのだと教えられていたから、南はその通りに呼吸している。
由良の手が置かれる場所、指圧される場所によっては少し痛い箇所があるのだが、我慢できないものではない。
というよりも「痛いが気持ち良い」という感覚なので、南はその感じを楽しんでいた。

南には見抜かれていなかったが、由良の方は南の肉体を「女」として意識している。
もう選手としては見限ったということもあって、指導者としての目ではなく、男の目として南を見ているのだ。
マッサージしていると、南の肌の滑らかさがよくわかる。
汗を流したせいかすべすべで、まさに陶器のような手触りである。
10代の「水を弾くような肌」から、成熟した「しっとりとした肌」に変化する直前のものだ。
産毛らしい産毛がほとんどないのも、手触りの良さに直結していた。

「……」

背中からくびれた腰に指を這わせる。
くすぐったいのか、南の身体がぴくっと動いた。
新体操の選手らしい引き締まったウェストだった。
それだけに腰の大きさが強調されている。
ぷりっと大きく這った臀部は、もう少女のものではなかった。
形良くなだらかに盛り上がり、むんむんとした色気が漂っている。
ファンデーションのショーツは色気とは無縁のものだが、それでも南の色香を隠すことは出来なかった。
女性としては魅力満点だが、この尻を見ていると、やはり選手としては寿命なのかも知れない。

新体操の女子選手は、例外なくスリムである。
スリムというより、かなり痩せているのが普通だ。
そういう体格でないと競技できないのである。
彼女たちは食事制限を始め、数々のダイエット法に挑んでいるはずだ。
痩せて痩せすぎということはないのである。

この競技は、演技の採点で技術点の他に芸術点がある。
つまり美的な要素がかなりのウェイトを占めるのだ。
そのために均整の取れた体型を作り、それを維持する必要があった。

ここで注意したいのは「女らしい」体型ではなく、いかにバランスの良い体型──新体操選手にふさわしい体型にするか、という点だ。
つまり、胸や腰が大きいのはマイナスになりこそすれ、決してプラスにはならないのだ。

これは芸術面だけでなく技術面にも大きく影響する。
余計な肉が乗り(それが筋肉であっても)、グラマラスになればその分体重が増加する。
となればジャンプで不利になるのは必定なのだ。
身長が高いというのも、それだけ体重もあるだろうから同じように不利だし、手足が長すぎても動かしにくくなる。
小柄で肉づきの薄い娘が適しているわけだ。
以前、身長が140センチ、体重32キロという、小学生並みの体格しかない17歳の女子高生選手が話題になったのもそのせいだ。
南は、高校2年の時で身長159センチだったが、今では3センチほど伸びて162センチになっている。

それはともかく、問題なのは体型だった。
今はうつぶせになっていて、その上ファンデーションのブラできつめに押さえ込んでいるから目立たないが、バストもかなり育ってしまっていた。
高2の時のサイズだと、バストは82でヒップが85だった。
これでももう限界いっぱいくらいなのだ。
特にヒップが大きいのは致命的だ。
なのに今ではこれがさらに成長し、バストは85に達しており、ヒップも87になっている。
胸に比べて臀部のサイズの上がり方が小さいが、これは南が努力して「小尻体操」を熱心にやったせいだろう。
それがなければ90近くいっていた可能性もある。

しかし、こうしたことは決して選手の責任ではない。
女性の二次性徴として致し方ないのであるが、これをいかに抑えるかが新体操選手の大きな課題なのである。
南も努力はしていたが、それ以上に彼女の肉体が女性的に恵まれていたこともあり、出るところが出てしまったわけだ。
普通の女性としてはけっこうな話なのだが、新体操選手としては問題なのだった。
それでも、バストやヒップが成長したのに、ウェストは57と高校時代から変わっていないのは、南の努力の賜であろう。

由良は腰を指圧しながら、その魅力的な臀部にすっと触れてみた。
手のひらがほんの少し擦った程度だったが、南の身体がぴくっと動いた。
しかしそれ以上の反応はない。たまたま触れただけだと思ったようだ。
由良は両手の親指で腰のくびれから背骨付近にかけて、ぐっと押し込んでいく。
南は「んっ」と唸りながらマッサージを受けている。
心地良いらしい。
そこでまた尻を軽く撫でてみたが、今度はまるで反応がない。
「では」とばかりに、由良は手を腰と尻の境界線あたりまで下ろしてみる。
そこで指を立てて、腰というよりも臀部の上の方を指圧したり、擦ったりしてみた。
さすがに南は居心地悪そうに腰を少し捩って振り返った。

「あの……」
「ん? どうした?」
「あ、いいえ……」

南は、お尻を触られている気がしたが、やはり気のせいだと判断した。
腰を揉んでいれば、その近くにあるお尻に触れることがあるのは仕方がない。
お尻に手を這わせるような真似でもすばともかく、マッサージしている時にたまたま触れただけに違いない。
ただ、今まで由良コーチにマッサージされていて、そういうことはほとんどなかったのに、今回は南が気になるほどに増えている。
もしかしたら、コーチも疲れているのかも知れない。
そう思うと南は申し訳ない気持ちでいっぱいとなり、多少そういうところにタッチされてもあまり気にしないことにした。

それでも、少しおかしいと思うほどに頻繁に臀部に触れてくる。
手のひらでそっと擦られるだけでなく、指でぐっと握るように掴まれることもあった。
腰を揉むならともかく、お尻を揉まれるようなことはあまりされたことはない。
さすがに恥ずかしくなり、もやもやとした気持ちになってしまい、もじもじと腰を蠢かすようになってくる。
声は出さないようにしていたが、微妙にお尻へタッチされると、ついおかしな声が出てしまいそうになることもあった。
どうしようと思っていると、由良が軽くお尻を叩いて声を掛けた。

「よし、いいぞ。今度は仰向けになれ。腕と腿をやる」
「わかりました」

南はホッとしたように姿勢を変え、言われた通りに仰向けとなる。
お尻は隠れたが、今度は胸の膨らみが露わとなった。
レオタード用の下着で押さえ込んではいるが、その豊かさは隠しきれていない。
南はブラの下にバストカップを装着しているが、そのカップから柔らかそうな肉が少しはみ出ているのだ。

南の身長、体重、そして豊かになってきた肉づき。
やはり新体操選手としてはもう限界だろう。
由良は南の右腕を持ち上げ、肩から上腕部、前腕部の筋肉を揉みほぐしていく。
筋肉は柔らかく、余計なものはついていない。

「っ……!」

由良の手が右腕から左腕に移る際に、南の胸をそっと手の甲で撫でていった。
ぴくりと身体が動いたが、由良は気にせず左腕にマッサージしている。
南はじっと由良を見つめていたが、その表情に淫らなところはない。
しかし、腕が移動するたびに胸にタッチしていくのは変わらなかった。

「……」

こうなると南の方も、少し気になってくる。
何だか顔が火照ってきている。
胸や尻に触れられたという羞恥もあるだろうし、微妙な触られ方でおかしな気分になってくる。
臀部はそうでもなかったが、さすがに胸は敏感で、少しタッチされるだけで上半身がびくっと痙攣してしまう。
カップで押さえ込んでいるから、もっとも敏感な乳首は無事だが、それでもカップが擦れるような感覚はあった。

由良はあばらの浮いた腋のすぐ下や脇腹を軽く指圧し、マッサージしてくる。
その際にも、ほんのわずか、横乳に触れるようなことが何度もあった。
カップからはみ出た部分に触られると、思わず身体が捩れる。
上半身だけでなく、腿までぴりっと痺れるような感覚があった。

「ん……、あ……」
「どうした?」
「な、なんでもありません」

思わず熱い息を吐いてしまい、それを指摘されて頬が真っ赤になった。
意識すまいと思えば思うほどに、軽く触られる胸──特に乳首が気になってしようがない。
気にしてしまうと余計にそこへ神経が集中し、さらに感じやすくなっていく。
もう我慢できなかった。
顔を持ち上げて由良に告げる。

「コ、コーチ、あの……」
「なんだ」
「そ、その……、コーチの手が、その胸に……」
「あ、当たったか? 悪かったな」
「いいえ……」

南はまた頭を落ち着けた。
由良は「触った」ではなく「当たった」と表現していた。
やはり意図的なものではなかったのだ。

そう思っていると「腿に行くぞ」と言われ、由良の手が腿に当てられた。由良は手のひら全体を使って、南の脚を揉んでいる。
太腿を両手で挟むようにして、円を描くように膝から上へ向かって腿の正面と横をさすっていく。
南はまたもじもじし始めている。
由良の手の動きは、筋肉をほぐすというよりも皮膚を擦り、触っているように思えたのだ。
太腿の正面はまだ何とか耐えられたが、腿の横や内腿に手が入り、さすってくると身体に力が入り、声が出そうになる。

「んっ……、ん……」

気持ち良いと言えば良いのだが、マッサージされた心地よさとは違う気がする。
もじもじと落ち着かなくなるような、何だかお腹の奥が熱を持ってくるような、それでいて不快ではない。
何とも不思議な感覚だった。そのうち、それが性的な快感ではないかと思いつき、南は羞恥で首から上が真っ赤になった。
南は、感じてくると踏ん張ってそれに耐え、歯を噛みしめて声を出すのを堪えた。
恥ずかしい声が出てしまいそうになったからだ。

(は、早く終わって……)

由良のマッサージでそんな風に思ったのは初めてだった。
彼の施術は、時間と状況され許されれば、いつまでもしてもらいたいくらいに心地よかった。
今回も気持ちは良いが、いつものそれとは違い、羞恥と隣り合わせの悦楽だったのだ。

「よし、いいぞ」

由良がそう言った時、南は心底安堵してため息をついた。
何だか恥ずかしくて由良の顔をまともに見られず、

「あ、ありがとうございました」

と告げると、逃げるようにロッカールームへ駆けていった。
バタンとドアを閉め、南はそこによりかかっていた。
まだ息が少し弾み、胸がどきどきしている。
鼓動で左胸がびくびくと上下しているほどだ。

「あ……」

そして、着替えたばかりの下着が少し濡れていることに気づいた。
それが汗だけではないことは、南自身がいちばんよく知っていた。



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