雑草の繁みに囲まれた道路をひとりの男がゆっくりと歩いている。
道は一応アスファルトで舗装してあるが、あちこちひび割れて、そこから生命力たくましい野草が生い茂っていた。
以前はもっと道幅があったようだが、今ではどうにか一車線取れるかどうかと言ったところであり、バイクならやっと二台がすれ違えそうな、そんな道である。
山や林の上には、そろそろ盛りを終えそうな入道雲がもくもくと湧き立っている。
あの辺はもう豪雨なのかも知れない。

男は一息つき、腕で額の汗を拭った。
暑さはようやく峠を越えたようだ。
頑張り続けていた太陽もようやく沈む決意をしたらしく、そろそろ街灯(があれば)が灯るくらいの空だ。
季節的にも晩夏であろう。

男はまださほど生きているわけではないが、年々夏が少しずつ長くなっている気がする。
年齢は30歳前後だろうか。
日除けのつもりなのか。頭には帽子代わりに何か布(手拭いかも知れない)を被り、それを紐で縛って落ちないようにしている。
首にはタオルを巻き、大きめのショルダー・バッグを肩から掛けていた。
ここには彼の生活用品と、「パートナー」であるカマスが陣取っている。
正確には「ミナミトビカマス」と呼ばれ、比較的新しく発見されたカマス科の魚類だ。

従来のカマスはかなり気性の激しい魚で、大きな相手──例えば人間でも──にも攻撃性を見せてくる。
対してこのトビカマスはそれがなく、却って人に慣れる性質を持っていた。
トビウオのように胸ビレと腹ビレが奇形的に発達していて、跳ねて海上に飛び出すと、ヒレを翼の如く拡げてグライダーのように滑空するのだ。
大きさはトビウオよりも一回り大きくて50〜60センチほどで、大きなものは1メートル近いらしい。

変わっているのは、魚類のくせに大気から酸素を吸収できる点にある。
もちろん海中でのエラ呼吸も可能だが、陸上での呼吸も問題はない。
ある程度の知能も持ち合わせているようで、熟練を要するが人による飼育、調教が可能だ。
これを飼い慣らし、宙に飛ばして海上を巡らせ、跳ねる魚を捕まえさせるのだ。
鵜飼いの鵜と同じである。
これを商売にする人も少ないながら存在していて、この男はそのひとりだった。

坂というほどでもない勾配のある道を登り詰めると、ようやく目指す建物が見えてきた。
周囲はハチジョウススキに覆われており、その隙間にぽつんと建っている印象である。
白いその家は、遠くから見えていた頃は気づかなかったが、ペンキはあちこち剥がれてきているようで、木肌が少し顔を出している箇所がある。
いかにも急造らしい増築部があり、そこに「Cafe Alpha」と書かれたロングタイプの暖簾が掛かっている。
手作りらしい。
その脇の柱には「OPEN」のプレートが下がっていた。

「……」

その男が入り口前で止まって暖簾を眺めていると、中からひょいとアルファが出てきておもむろにプレートを「CLOSE」にひっくり返そうとした。
そこでアルファが男に気づいて振り向いた。

「よお」
「あっ」

男が声を掛けるとアルファは不意を突かれた感じで声を上げた。

「なに、終わりか?」
「あ、いえ!」

アルファはすぐにプレートを戻した。

「どうぞ! いらっしゃいませ」

閉店には早い時間だと思うが、まあこの辺は人も少ないし、こんなものなのだろうと男は思った。
そもそもアルファの店は開店時間も閉店時間も正式には決まってないし(店をやっている時間帯の表示もない)、定休日もない。
その日の気分でいつ店を開けるか閉めるかを決めているし、買い出しに出るとなれば三日くらいは普通に休んでしまう。
来客が少ないから、それで特に問題はないわけだ。

「お!?」

アルファはまじまじと遅くやってきた客の顔を眺めた。
薄れつつある記憶を懸命に引き摺り出す。

「お客さん……、あ〜〜〜〜と、う〜〜〜……」
「……」
「さっ、魚の人!」
「おっ」

憶えていたことにホッとしたのか、男が言った。

「よく憶えてたなー。来てみたよ」
「へへ、お久しぶり!」

アルファはロボットであるが、電子脳ではない。
生体に近い人工脳だから記憶力には限度がある。
とは言え人間のそれよりはずっと記憶力は良いはずなのだが、どういうわけか「ど忘れ」というか「物忘れ」というのがある。
これはアルファ個体の特性というわけでもなく、ココネやマルコにもあるらしい。
これは製作側が意図して紛れ込ませたものなのか、あるいは気づかなかった「欠陥」だったのかは定かではない。
ただ、こうした点がいかにも「人間臭い」ところでもあり、結果として人間が親近感を覚えて彼女たちが社会に馴染めた要因でもある。

「『アヤセ』だって言ったっけ?」
「そうそう! パッと出て来なかった。ごめんなさい」

アルファが嬉しそうに誘った店内は、やはり店舗は急ごしらえというイメージだった。
床だけはしっかりした材料で、踏んでもギシギシするようなことはなかった。

アヤセはテーブル席に導かれ、早速コーヒーを注文する。
頭巾を取ってタオルで顔を拭く。短く切った硬めの髪も少し伸びて立っている。
鼻の下やもみあげ、顎の辺りは髭で覆われていた。
そのせいかワイルドな印象を受けるが、髭や髪をさっぱり切ると、割と知性的な顔立ちなのがわかる。
どうも、髪も髭も、ある程度伸びて邪魔になってくると切る、剃る、という姿勢のようだ。

ほどなくコーヒーと、おつまみだというヒマワリの種が運ばれてくる。
そしてアルファも、ニコニコしながら自分のコーヒーを持ってきて、当然のようにアヤセの前の席に座った。
アヤセはきょとんとして

「……なに、いつもこう客んとこ来んの?」

と聞いた。

「えっ」

アルファは複雑な表情をしながら自分のカップに砂糖を入れている。
かなりの甘党のようで、スプーン6杯も入れていた。

「……変ですかねえ、時々言われるんですけど」
「あ、いや、いいんじゃねえか?」

アヤセがそう答えると、アルファも少し安心したようだった。

とは言え、「ヘン」と言えば「ヘン」なのだろう。
少なくとも、アヤセが今まで行ったことのある喫茶店では、そういう店はなかった。
カウンター越しにマスターが自分に煎れたコーヒーを啜りながら話をしたことはあったが、テーブル席にまでやって来て相席してきたことはない。

変わった習慣ではあるが、違和感はない。
アルファにとっては、それが「当たり前」だからなのだろう。
見たところ来店客は少なそうだし、アルファとしては「話し相手が来た」くらいの感覚だったに違いない。
でも、悪いことではない。
それを不快に思う客はカフェ・アルファには来ないだろう。

アヤセは、運ばれてきたコーヒーを顔に近づけ、しばらくぶりにその芳香を楽しんでからゆっくりと味わった。
口の中いっぱいに広がる爽やかな苦み、ほんのちょっと混じっている酸味。
そして砂糖の甘み。
それらの絶妙なバランスが、アヤセを忘我の状態に誘った。

その様子を嬉しそうに眺めながら、アルファはふと気づいたようにテーブルを立ち、ステンレスの冷水ピッチャーからグラスに冷水を注いでいる。
閉めようと思っていたところにアヤセが来たので、少し慌てたらしく、まだ水を出していなかったのだ。
まだ暑いし、冷たい水が飲みたいだろうと思ったわけだ。
アルファが振り返ってアヤセに尋ねた。

「こないだは、あれ何年前でしたっけ?」
「なー」
「『北の大崩れ』で……」
「そー、そー」

「北の大崩れ」とは地名の通称であり、かつては「長者ヶ崎」と呼ばれていた場所だ。
当時も「大崩」という地名があって、その頃から岬の南岸が切り立った崖になっていた。
もっとも、現在では岬の大部分が海没しており、それまでだいぶ内陸だった箇所が今の「北の大崩」となっている。
そこでアヤセとアルファは知り合った。

出会ったのはまったくの偶然で、スクーターで遠出していたアルファがアヤセの飛ばしているカマスを見て感動したのがきっかけだ。
その時、高々度を飛来してきたターポン──遺伝子保管用ポッドの航空機。つまり「ノアの方舟」──を一緒に眺めながら話をしたものだった。

その時に、アヤセはタカヒロを知っており、タカヒロがアルファに会うよう勧めていたことも知った。
アルファは、ぜひ店に来るようにと誘ったのだが、距離がかなり離れている上(20キロ以上あるらしい)、もう時間的に遅くなっていたからアヤセは断ったのだ。
宿泊の心配もあって「今度また」ということでふたりは別れたのだった。
アルファもアヤセも正確には思い出せないようだが、あの時からもう6年以上経過している。
当時はまだ20代半ばくらいだったアヤセも、今ではもう三十路くらいになっていた。

「……」

アヤセは「オレももうそんな歳なんだな」と思いつつ、冷水のコップを載せたトレイを運んでくるアルファを眺めた。

彼女はロボットだという話だから、当然、見た目は変化ない。
22歳くらいの外見だ。
あの時は晩秋だったが、今は夏の終わりでアルファも涼しそうな軽装だ。

襟の大きな──セーラー・カラーといったか──薄い水色のセーラーブラウスを着ている。
Vネックの下には何かTシャツを着ているらしい。
下は同色の丈が短いキュロットだ。
裾が大きく開いているからミニスカートのようにも見えたが、パンツらしい。
長い素足が美しかったが、妖艶というよりは爽やかな色気を発散している。

アルファはそそくさと水を運ぶと、またニコニコと前に座ってきた。
それからはずーっと話が途切れることはなかった。
よくまあこれだけしゃべると言わんばかりに話をする。
会ったのは二度目でじっくり話をしたのは今回が初めてなのだが、とてもそうは思えない。
良い意味での「馴れ馴れしさ」があって、それが全然嫌みじゃなく不快ではない。
これはもうアルファの人柄が為すものなのだろう。

話題は6年前のこととか、共通の知人であるタカヒロのこと、アヤセのカマスのことといくらでもあった。
カフェ・アルファが4年前の大型台風で崩壊したこと、その後、一年ほど長旅に出ていたことも聞かされた。
なるほど、それで応急修理して、何とか店として使えるまでにしたから急造感があったのだろう。

もともとアヤセはこの辺りに住んでいたということもあって、その頃の話もした。
アヤセが言う。

「ガキん時ゃー、まだここいら、あと三軒ぐれえあったっけな。空き家ばっかかと思ってたけどよ」

それらの家はもう土台を残しているだけで無くなっている。
アヤセが住んでいた頃はまだアルファはここには来ていなかったようで

「んー、うちのオーナーはいたんじゃないかなあ……」

と呟く。

アヤセは「ほう」という顔になって

「オーナー? ……そうか、人、いたのか」

と言って、それから軽く腕組みして椅子の背にもたれかかった。

「……当時はちょっとしたウワサの不気味スポットだったもんなあ」
「うっ……。やなこと言うなあ」

アヤセは気軽にそう言ったが、アルファはあからさまに顔を顰めた。
それを見てアヤセは「そういうつもりで言ったわけではない」と言い訳しようとしたのだが、嫌みなことを言われたから機嫌を損ねたわけではなく、単にアルファは「怖いもの」が嫌いなだけだ。

これも面白い現象で、少なくともココネやマルコたちにはこうした症状はない。
アルファは緩そうなイメージでぼーっとしているところもあるが、怖い話──怪談だけは苦手である。
そういう話を聞くとどうしても気になってしまい、夜などは怖くてたまらなくなる。
ひとりでトイレに立つのも怖いほどだ。
怖い話を聞いてしまった後などは、夜ひとりでいるのが怖い。
昼との温度変化で梁や柱が軋んでピシッと小さく音を立てただけで「びくっ」となってしまう。
誰かいるような、お化けでも出るような気がして、怖くてたまらない。

これじゃ眠れないと思ってしまうのだが、それでもいつの間にか寝てしまうのがアルファらしいところではある。
だからタカヒロなどには「怖い話はしないでね」とよく言っているのだが、彼の方は体験談などは聞いて欲しいから、アルファに話してしまうわけだ。
アルファは人が好いから結局聞いてしまい、後で怖い思いをすることになる。

「いや、それだからよ、さっき来てびっくりしたわけよ」

アヤセも、アルファが怖い話が苦手らしいことに気づいて、取り繕うようにそう言った。

「なんかすげえ小ざっぱりしてるんで……、空気が、こう……ぱかっ、とさ」
「そお? ……ならいいけど……」

それでもまだアルファは気にしているようである。
窓の外を見てみると、周囲はもうすっかり暗くなり、夜の帷が降り始めている。
壁時計も「夕方」とは言えない時刻を示していた。
そろそろ頃合いだと思ったアヤセがすっと立ち上がる。

「さあて。じゃあそろそろ行くかー」
「あのっ!」

アヤセがそう言うのを待ちかねていたかのように──あるいはそれを恐れていたかのようにアルファが顔を上げた。

「こ、今夜はここに泊まってくっていうのは……どうかなっ」

アルファは真っ赤な顔でそう言った。

「あー、さっきの話……」

なんだ、まだ怖がってんのかと少し呆れつつ、アヤセが返事をする。
実話ではあるが大して怖い話ではないと思う。
何か出たとかいうことではないし、ただ空き家しかない「寂しい」ところだった、というだけのことだ。
そこまで怖がることもあるまいと思うのだが、アルファは心底不安そうな表情になっている。
アヤセは慰める意味で、苦笑しながらこう言った。

「だーいじょうぶだって。昔と全然違うって言ったべ?」
「うう」

そんなこと言われても、怖いものは怖いのだから仕方がない。
まだアルファが名残惜しそうな顔をしているので、アヤセはきっぱりと言った。

「今夜はよ、でんちゃん(友人らしい)の店の二階に泊めてもらうんだ。おばちゃんがもうメシの支度してるわ」
「そうすか」

アルファは残念そうな、寂しそうな顔でそう答えた。
ようやく立ち上がって会計をする。
最後にアヤセがまた言った。

「今度こっちに来たら、また寄るよ」
「はい。ありがとございました」

アヤセが店を出ようとするとアルファもついてくる。
これは彼女のいつもの行動であり、数少ないお客さんが帰る時には必ず出口までついてきて見送るのである。
店の外へ出ると、アルファはアヤセの前で屈んでショルダーバッグを覗いている。

「……魚、出て来ないね」
「あー、もう寝てんだ」

ひさしぶりだから一度見てみたかったが、仕方がない。

「また、どうぞー」

アルファが手を振るとアヤセも振り返していた。
ふっと小さく息をついてからアヤセは暗い中で帰路を急ぐ。
ここから歩いて一時間以上は優に掛かるのだ。
もう夕食の時間はとっくに過ぎているだろうし、これ以上遅れて迷惑はかけられない。

「……」

ふと気になってまた振り向いてみると、案の定、アルファはまだ見送っている。
アヤセが振り向いたのを見て、何だか恥ずかしそうにまた手を振ってきた。
仕方なくアヤセも立ち止まって手を振ってやった。
そしてまた歩き出したのだが、しばらくして再び立ち止まって肩越しに店の方を見てみると、まだアルファはこっちを見ていた。
「寂しい」というよりは「心細い」のだろう。
よくよく考えてみれば、こんな人家のない場所にたったひとりで暮らしているのである。
「こわい話」嫌いでなくとも、心細かったり、人恋しくなることはあるだろう。

(悪いこと言ったな……)

少し反省したが、その時はアルファがここまで恐がりだとは知らなかったのだ。
けど、まだこっちを見ているというのはただ事ではない。
そこまで怖いのか、誰でもいいから側にいて欲しいのかも知れない。
なら、タカヒロなり、話に出てきた「おじさん」なりを呼べばいいとも思うのだが、彼らにも彼らの生活があるだろう。
アルファが押しかけていくのも同じ意味で迷惑かも知れない。

「……」

坂を下り、完全に店が見えなくなる。
さすがにもう見送ってはいないだろう。
そう思ったアヤセはこっそりと少しだけ引き返した。
何だか悪趣味な気もしたが、彼女を怖がらせたのは自分だし、そこそこ罪悪感があった。
見ると、店はもう灯りを落としているようだ。

母屋に戻ったのか。
そうも思ったが、よく見てみると母屋の方も真っ暗である。

「?」

もう少し店の方へ行ってみると、窓からぼんやりと薄く灯りが洩れている。
どうやら、照明を少し落としてさっきの席にいるらしい。
信じられないが、怖くて動けないのかも知れない。
そうなら問題である。
アヤセは少し悩んだが、諦めたように顔を小さく振り、カフェ・アルファへと向かって行った。

弱い風に吹かれて小さく動いていた長のれんが唐突にめくれ上がり、アルファは腰が抜けるほど驚いた。
扉はまだ付いていないので施錠のしようがないから不用心と言えば不用心だが、そもそも人があまり住んでいないから盗難について心配したことはなかった。
だから誰かが訪ねてきたことを知って驚いたのだ。
それに、もうこんな時間だし、CLOSEの看板も出ているはずだ。

まさか、何か「怖いもの」が……。

そう思ってビクッとしたわけだが、顔を出したのはアヤセだった。

「……!! アヤセさん……」
「よ」
「ど、どうしたんですか?」

びっくりして怖かった分、安堵感が大きかった。
勢いよく立ち上がったアルファは小走りでアヤセに駆け寄り、その腕をぎゅっと握った。
よほど怖かったらしい。
アヤセはまた苦笑し、反省した。

「……いや。なんか怖い思いさせて悪かったかな、と、さ」
「え……」
「アルファさえ良ければ……、あーー、……今晩だけお世話になるかなって……」
「是非!!」

アヤセが全部言い終わる前に、アルファは全力でそう答えた。

─────────────────

アルファは喜色満面で店の照明を全部落として、母屋にアヤセを案内した。
さっきまで飲んでいたコーヒーカップはそのままだし、まだ閉店の後片付けもしていない。
だけど、そんなことは明日、明るくなってからすればいい。
アルファはウキウキした様子でアヤセを自室に招き、シャワーを浴びるよう勧めた。

アヤセは有り難くその申し出を受けた。
一年中旅をしていて、野宿することも多い。
夏場の暑い時なら、近くに川でもあれば水浴びして身体を洗うこともあるが、そうでなければ一週間くらい入浴しないこともあった。

小さいながら浴槽もあり、アルファは湯を張ってゆっくり湯船に浸かるよう勧めてくれたが、感謝しつつもそれは固辞した。
まだ2回会っただけだし、若い女性の部屋である。
いくら何でもずうずうしいと思ったからだ。
それでも三日ぶりの入浴は心地良かった。シャワーなどひさしぶりである。
汗と垢を洗い落とし、少し痒くなっていた頭もすっきりした。

さっぱりした気持ちで部屋へ戻ると、アルファが軽食の用意をしてくれていた。
と言っても、枝豆にきゅうりの塩もみ、あとは冷やしトマトである。
食事というよりは酒のつまみといった感じだが、聞いて見るとアルファはこれくらいで充分らしかった。
何でも動物性タンパク質を受け付けない体質らしく、牛乳を飲んだだけで二日酔いのような頭痛と、身体がじんじんと痺れてくる症状が出るのだそうだ。
今日は友人の店で食事らしい食事が摂れると思っていたアヤセだったが、これはもう仕方がない。
自分でも干し魚や煎餅、かりんとうのような保存食はいくらか持っている。

アルファは「誘っておきながら、こんなものしかないんですけど」と恐縮していたが、保存食だけで食事を済ませることも珍しくないから、粗食は一向に気にならなかった。
アルファは、アヤセを椅子に座らせ、自分はベッドに腰掛けながらはにかんで言った。

「……すいません、無理言っちゃって……」
「いや……、いいんだけどよ」
「でも……、お友達の方は……だいじょぶですか?」

そう心配そうに言ったアルファに、アヤセは笑って答えた。

「平気だよ。まあ、頼んでおいたのにすっぽかすことになんのは悪ぃけど、正直、道中で色々あって、そうなることも珍しかねえんだ」
「そうすか」
「ああ。だから、でんちゃんもおばさんも、もう慣れっこなんだ。「ああ、またアヤセのバカ、どっかに引っかかってやがる」って思ってんだろな」
「はあ……」
「明日行って謝っとくから気にすんな」
「はい」

そこでようやくアルファは笑顔を見せた。
そして「あ」と何か思いついたような顔になり、キッチンの方に引っ込んで、またすぐに戻ってきた。
手にはグラスと洋酒のビンを持っている。
アヤセはきょとんとして尋ねた。

「……なんだ、それ」
「あ、ブランデーです」
「……なんでそんなもんがあるんだ?」

というアヤセの言葉を聞き、アルファはクスッと笑った。
以前、ココネがここに来た時も、同じことを言われたからだ。

「これ、ホントはオーナーのなんです」
「ほお……」
「オーナーがいた頃、たまにちびちび飲んでることがあったの。私はアルコールだめだから飲まなかったですけど、オーナーが出て行ってから、たまに……ほんとにたまにちょっとだけ飲んだくらいです。寒いときにお茶とかに入れて」

アヤセはボトルを受け取り、灯りで中身を透かし見ている。
まだほとんど飲んでいないようで、首から少し下辺りまで液体が残っている。
それからアルファは、冷蔵庫に残っていた氷の塊を砕き、グラスに入れてやった。
アヤセはその酒を注ごうとして、ちょっと動きを止めた。

「……じゃ、おめえは飲まないのか?」
「あーー……、そうすね」
「なんかそれもなあ」

アヤセはボトルを戻して首を振った。

「オレだけ飲むってのもな……」
「あ、じゃ、わかりました!」
「?」

アルファはそう言うとまたキッチンに立ち、今度は自分用らしい小振りのグラスを持ってきた。
ステンレス製と思われるホルダーと取っ手がついているから、どうやら耐熱ガラスを使ったホットドリンク・グラスらしい。

アヤセの視線に気づき、少し照れくさそうに言う。

「これ、普段はメイポロを飲むのに使ってるグラスなの」
「メイポロ?」
「あ、そういう木の汁をお湯で割った飲み物。いつも、これで飲むんです」
「なにを?」

アヤセが尋ねると、アルファは彫刻刀やら小刀やら木片やらが散乱している作業机から、褐色のボトルを取り上げて見せた。

「なにそれ?」
「あ、ココネ……、あの「妹」から貰ったお酒なんです。コーヒーから作ってあるとかで、とっても良い香りなの」

説明しながらアルファはそのリキュールをグラスに注ぐ。

「これを牛乳で割って飲むの。私、お酒の香りは好きなんだけどあんまり飲めないんです。でも、これだけは少し飲めるから……。あ、何ならアヤセさんもこれを……」
「あ、いい」

アヤセは手を振って断った。

「それ、オレもどっかで聞いたことあるわ。確か……、すんごい甘いんだべ?」
「うん」
「いい、いい。ならオレはこっちの方をいただくわ」

そういうとアヤセは手酌でブランデーを注いだ。
氷がピーンと鳴ってひび割れ、辺りに豊潤な洋酒の香りが漂う。
アルファの方は氷は使わず、カルーアをグラスの2/3ほど入れる。
店の冷蔵庫から持ってきた牛乳ビンは大ぶりで、ガラス製の1リットルタイプらしい。
半分ほど残っているそれを慎重に注いでいった。
グラスの縁いっぱいくらいまで入れると、マドラーで零れぬようにそっと攪拌する。
それを見計らってアヤセがグラスを掲げる。

「……んじゃ」
「あ? ……ああ、はい! 乾杯」

ガラス製の縁が軽くぶつかり、キーンと澄んだ快い音が響いた。
ゆっくりとその液体を口に含むと、やや松ヤニの匂いが残る香りが口腔から鼻に抜けていく。
ひさびさに味わうアルコールが口の中の粘膜をピリピリと刺激した。

「……ふう。強いな、この酒。ま、飲むのがひさしぶりってのもあるが」
「そうすか。アヤセさん、もともとお酒強いの?」
「ん、まーな。若い頃ぁ、安酒の焼酎なんかをがぶがぶと、そら無茶な飲み方もしたっけな」
「ふーん」

アルファはそう返事しながら、クイッと小さくグラスを煽る。
かなり甘く、それなりにパンチのある液体が食道を降っていくと、お腹の辺りがカッと熱くなるのがわかる。
早くも頬がほんのりと薄赤くなってきた。

「……けどよ、前にも言ったと思うけんど……」
「はい?」

アヤセはアルファをちらりと横目で見ながらグラスを傾けた。

「今ちっとさあ……、警戒した方がいいんじゃねえの?」
「へ?」
「だからよ……、んーーー、何て言うか……」
「……」

アルファもそこでまた少しカルーア・ミルクを口にすると、にこりと笑った。

「……女ひとりの部屋に男の人を気軽に連れ込んだら危ない、って、そういうことよね?」
「ん……、まあな。なんだ、わかってんのか」
「でも私の部屋なんか、タカヒロだって何回か泊まってますよ。その時だってふたりっきりだったし、隣で寝たし……」
「あほ。タカヒロはまだガキんちょだろがよ……、あーー、今はもうけっこう育ってるか」
「……うん。もう……、だいぶおとなになっちゃったかな」

アルファはちょっとだけ寂しそうに、それでいて何か少しはにかんだようにそう言った。

「あ、でもアヤセさんの言いたいこともわかるんすよ」

アルファはじぃっとアヤセを見つめながらそう言う。

「ん……、その……、男と女だから、その……」
「……ま、な。それこそこういう場じゃ言いづらいけどよ。それに、そんだけじゃねえよ。おめえを狙うってだけじゃなくっても、強盗とか、そういう心配だってあるだろが」
「ええ……。でも、私の店のこと知ってる人なら、ここに金目のものなんか、あるはずないってわかりますよ」
「まあ、そうかもな。んでもよ、オレみてえな風来坊だったら、んなこと知らねえわ。そういうのが店を見れば「押し込み」やるってこともあるわな。ましてその店には若い女しかいねえってわかりゃよ」
「そうね……。でも、平気ですよ。いくら私がだらーっとしてるからって、そこまで無警戒じゃないすよ」
「そうか?」
「うん。だって、誰彼構わず部屋に入れるようなことしてたら「そういうこと」を考えてない人だって「もしかして誘ってるのかな」って勘違いするかも知れないもの」
「だな」
「ね? だから店や部屋に誘う場合は、私だって見定めてはいるの。だから、いかにも「あ、危ない人かな」って感じだったら、間違ってもそんなこと言わないよ」
「そうか……」
「もっとも、そんな人、私は見たことないですけどね。この辺の人はみんな良い人だし、来てくれるお客さんも……。それにね、いざとなったら……」

アルファはそう言うと手を伸ばし、カメラの脇に置いてあった拳銃を取り出して見せた。

「お……」
「ね? 変な人が何かしてきたら、これで……。あ、撃たないですけどね、脅かすだけ……」
「鉄砲持ちだったんか。どうした、それ?」
「あ……、「護身用に」って、オーナーから渡されたプレゼントなんです。このカメラもそうだけど……」

アヤセは2杯目のオン・ザ・ロックを作りながら、興味深そうにその銃を見ている。

かなり珍しいタイプだと思う。
グリップの前の部分が少し膨らんでいて、それがセーフティになっているらしい。
使用者がグリップを握ることで安全装置が解除される仕組みだ。
つまり人が持たなければセーフティは掛かりっぱなしなわけで、机から落とそうが放り投げようが誤射というのはない。
安全と言えば安全だが、操作性がかなり特殊なため、滅多にこのタイプを採用している銃はない。
珍銃と言えるだろう。
ただ、グリップを握り込むのに力は要るが、その分、トリガーを引く分には力はほとんど必要としない。
そういう意味では女性でも発砲は楽なのかも知れない。

「……撃ったことあんの?」
「はい、たまに……。あ、でも、人とか撃ったことはないよ。それに、普段はタマ入れてないの」

と言って、アルファは可笑しそうにケラケラ笑った。つられてアヤセも苦笑する。

「それ言っちゃったら意味ねえべよ」
「平気ですよ。だってアヤセさん、そんなことするつもり……ないでしょ?」
「……」

そう言ったアルファの目が、何だか少しだけ妖しく見えた。
まさか「誘ってる」つもりはないだろうが、少し酔ってきたのかも知れない。
アヤセ自身もひさしぶりに飲む酒で、少し酔いが回ってきている。
おかしな気分にならないよう、ふと話題を変えてみる。

「そういやよ、おめえ、名字の方は何てえの? よく知らねけど、普通はオーナーの名前つけるんだべ? どんな人よ、オーナーってのは? 独り暮らししてるってことは、今はいねえの?」
「あ、名字は「初瀬野」です。……オーナーの名前です」

アルファの言い方が何だかとても恥ずかしそうだったのは、オーナーに対して何か「特別な」印象を持っているからなのだろう。
彼女にとってオーナーとは、単に「所有者」という意味合いではなく、家族や恋人に近い印象もあるのかも知れない。

「ん?」

ふと引っかかった。

「初瀬野? オーナー、初瀬野って名前か? まさか初瀬野先生……」
「……!! 知ってるんですかっ、オーナーのことっ」

思わずアルファは立ち上がってアヤセの両腕を掴んでいた。
そして顔がくっつくほどに迫ってきて聞いた。

「しっ、知り合い!? オーナーのお友達だったんですかっ、アヤセさんっ!?」
「や……、ま、待てって。知り合いにそういう名前の人がいたってことだって。それがアルファのオーナーと決まったわけじゃねえって」
「……」

興奮が醒めたのか、アヤセの腕を離すとアルファはそのままどすんとベッドに腰を落とした。
アヤセはホッと息をついてから、首を捻り、腕組みしながら言った。

「……でもなあ、珍しい名前だし、同一人物かも知んねえなあ」
「あの、アヤセさん……」
「ん?」
「……オーナーも「先生」って呼ばれてること、ありました……」
「……そうか。じゃあ、ほんとにオレの知ってる初瀬野先生なのかもな」
「……」
「で? 今いないんだろ? どこ行くって言ってた?」
「あ……、知らないんです。行く時に「一緒に行くか?」って聞かれたけど、私、「ここにいます」って……。まさか、こんなに長い間出かけるとは思わなかったし……。あの、どこに行ったか、心当たりとか……」
「わりいけど、知らねえんだよ、よく。ただ「千葉の国」とか、そっちの方には行くって……」
「ちば……」
「そこが目的地じゃねえだろうから、今はもういねえだろうよ。実はオレも千葉の国には行ったんだよ。そこで聞いてみても先生はもういないって話だったから……」
「そうですか……。あの、オーナーは何をしに……」
「んーー……、色々、調べたり確認したいことがあるって。……おめ、知ってるか? ここらにはねえが、ちょっと行くと山ん中の景色のいいとことかよ、海が見えるような場所に、ほれ……、なんか真っ白い変なもんがあんだろ?」

アルファにも思い当たるものがあった。
あれは水を探しに行った時だったか、水辺の近くに、何だかわからない白いきのこ……のようなものが生えていたことがあった。
50センチはありそうな大きなもので、何て言うか、それが側にあると何だか「見つめられている」ような気がして、妙に落ち着かなかったのを憶えている。

「知ってる、それ……。あれ、何なんですかね?」
「さあなあ。「さいたまの国」行った時にな、「水神さま」ってのを見て来たことがあってな」

そこまで言うと、アヤセはグイッとグラスを干した。
そして、少し考えていたが、3杯目の酒を作って、またちびりと飲んだ。
アルファも喉の渇きを覚え、自分のお酒を一口だけ飲む。

「地元でそれを見守ってる人たちんとこ行って「見せてくれ」って頼んだんだけどな、最初は断られたんだよ。よそさまには見せらんねえって」
「へえ……」
「でもな、オレ、初瀬野先生の紹介状持ってたからよ。それ見せたら、すぐに案内してくれたんよ」

つまり、オーナーもそこを訪れており、浅からぬ因縁があったということになる。
アルファは息を飲んでアヤセの話に耳を傾ける。

「そこで拝ませてもらおうと思って正面行ったら、おめえ……」
「?」
「……人なんだよ」
「は?」
「いや、人……じゃねえのかな。よくわかんねえが、あの白いきのこがあるべ? あれが成長して人に近づいてきた……としか思えねんだ。曲玉が立ったような格好だったきのこによ、頭の部分に顔が浮き出てきてたんだ。目もあってよ、こうパッチリと開いてて……、じーっと前の海を見つめてるって感じだった」
「……」
「まるで生きてるみてえだなって思ったら、案内してくれた地元の人がよ「生きてる」って……」
「……生きてる……んですか?」
「そう言ってたな。何でも、脳波があるんだそうだ。て、ことは……」

意識の有無は不明だが、生命活動はしているということだろう。
でも、管理している人たちも、よそ者が近づいたりしないように見守っているだけで、水や食糧をやったりといった世話はしていないようだ。
水神さまの前には、地元の人が供えたと思しきペットボトルや缶の飲み物や菓子類が山積みになってはいたが、もちろんそれを食した形跡などないらしい。
アヤセは一層に難しい顔になって言った。

「……だからオレは「人の子」なのかも知れねえと思ったが、確証があるわけじゃねえんだ。だからそのことも先生に聞いてみたかったんだけんど……」
「……いなかった」
「ん」

アヤセが軽くグラスを振ると、溶けかかった氷がチリチリと涼しそうな音をさせている。
それを見つめながら、彼はまた口を開いた。

「で、「ちば」にも、もういなかった。もしかすっと「みちのく」の方まで足を伸ばしてんのかも知んねえな」
「……遠くまで行ったんだなあ」

アルファの声が少し寂しそうに聞こえたのが少し気になって、アヤセが尋ねる。

「……先生、どこ行くかは言ってなかったわけか? 連絡もねえ?」
「はい……。さっきも言ったけど、こんなに長い間だとは思わなかったから……。連絡って言うか、一度だけ帰ってきたみたいなの。これ……」

アルファはそう言ってアクリルのフォト・フレームに挟み込んだメモをアヤセに見せた。
そこには「アルファへ 元気そうで安心しました」というメッセージが書かれている。
確かにアヤセの知っている初瀬野先生の筆跡に似ていた。

「……これだけ?」
「うん……。たまたま、その時は私、横浜まで買い出しに出ていたんで……」
「行き違い、か……」
「そう……。でも、その後すぐに、ほらこれ」
「ん? 何だこれ、カメラか?」
「そう。これが宅配便で送られてきて、その時にメッセージもあったの」
「ふうん。何だって?」
「……」

アルファは中空を見つめながら口を開いた。

──しばらくは帰らないと思う。
  だから気にせずに外へ出て周りを見て歩くことを勧める。
  きみとっては10年も1日もさして違うこともないかも知れないが、いつか懐か  しく思う事も出来るだろう。
  その時の記憶の助けになると思うのでこれを贈る。身体に気をつけるように──

ココネから「直に」伝えられたメッセージの記憶は少しも薄れることなく、アルファの脳裏にしっかりと刻み込まれ、一言一句忘れていなかった。
聞き終えると、アヤセはほうっと太い息を吐いて椅子にもたれかかった。
ギシッと椅子が鳴る。

「……なんか、先生らしいっちゃ先生らしいな。オレの知ってる初瀬野先生も、そんなこと言いそうな人だったわ」
「……」

それまで話の尽きることのなかったふたりだが、ふいに口を閉じた。
時計を見ると、もう深夜と言える時刻だ。
当然ながら外は真っ暗で、室内の照明のせいで窓からは何も見えない。


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