透明な水が、なめらかな頬を滑り落ちていく。
 顎に到達し行き場を無くしたそれはしばらく迷った末、表面張力の限界に達し、空中に身を躍らせた。きらきらと煌めきながら落ちていく、その軌跡を目で辿る。
 ぽとりとコンクリに落ち、黒ずんだ染みを作って消えた、その滴をきれいだと思った。
 彼は黒目がちな瞳を伏せて、俯いている。まつげの先に次のひとしずくが光っている。
 俺は息を詰めて、それを見つめた。
 涙なんかを美しいと思ったのは初めてだ。

 俺はそもそも『泣く』という行為が好きではない。
 まあ、泣いてしまうときにはツライ事柄が付き物だが、俺はそれだけでなく、自分が泣いてしまったという事にも酷く傷つく。堪えきれず溢れる涙は自分の弱さ、そのものだと俺は思う。哀れっぽくて情けない。何もかもを一時放棄して、自己憐憫に浸る己を、俺は嫌悪する。
 だが、俺は人前では絶対泣かないから、まだ良いのだ。一番やってらんねぇと思うのは、人前で平気で泣くガキや女だ。
 まず、泣き顔が醜い。マンガやドラマでは涙だけつるりと零したりするが、俺はそんな綺麗な泣き方をするヤツに会ったことがない。
 猿みたいに顔を真っ赤にして、鼻水を垂らす。顔中がひんまがり、隠していた醜い感情が露わになる。
 俺は『勝手に泣いてろバーカ』としか思えない。あいつらの涙は自己主張の塊で、心底うんざりする。
ーーほら見てよ、アタシ泣いているのよ、可哀想でしょ?
ーー慰めなさいよ、構いなさいよ、謝りなさいよ。
ーーアタシはか弱くて傷つきやすい存在なのよ。
 馬鹿でも分かる。
 押しつけがましい弱者のサイン。
 そして悪いのは泣かした俺という訳だ。
 だが二人きりの時なら、まだ良い。周囲に他人がいたら、もっと始末に負えない。心にもない慰めを言わねばならない。
 反吐がでそうだ。それまで少しくらいあったかもしれない好意も、ジ・エンド。霞のようにかき消える。
 たかが塩の混じった液体で、他人の同情をかすめとろうなんて根性が、えげつない。

 なのに。

 はらはらと涙を落とす横顔を、俺は魅入られたように眺めていた。
 ちりちりと心が痛んだ。
 泣くなよと、言ってやりたかった。
 触れたいと思った。
 指先で、そっと。
 濡れた頬を拭ってやりたかった。
 なんだか取り返しのつかないことになりそうで、それは何とか我慢したけど、でも。



 事の始まりは夏休みも間近な昼。中庭で昼食をとった時のことだった。
 四時間目が体育だった。背中とお腹がくっつきそうになっていた俺たちは、汗くさいジャージ姿のまま弁当だけを持って芝生に陣取った。どうせ放課後に部活もあるので着替える気はない。ウチの学校はそこそこ実績のある進学校なのに私服もOKで、体操服で授業を受けても文句を言われない。実にリベラルでスバラシイ学校である。
 とにかく俺たちは腹ぺこのへとへとで、ものの五分もしない内に昼食を平らげた。そしてこの所仲間内ではやっていた花札を始めた。ローカルルールにより全員は参加できないので、じゃんけんに負けてあぶれたやつは昼寝をしたり、別の遊びを探してどっかへ行っちまったりする。
 阿井は昼寝組だった。日差しが眩しいのでジャージの上を頭に被り、俺のすぐ横で大の字になっていた。勿論勝ち組の俺は、札を選びながら、なんとなく阿井を見ていた。
 はっきり言おう。その時の俺は阿井が気になって仕方がなかった。
 折角ゲーム参加権を獲得できたのにも関わらず、阿井のことばかり窺っている俺に、皆気づいていたと思う。
 でも、仕方がないだろう? 阿井の腹が出てたんだ。

 阿井は変な奴だった。顔からして普通では無かった。
 まず、目がでかい。ここまででかい目をしている奴は女子にもいない。子鹿のバンビとか、仔栗鼠とかそういうイメージだ。黒目がちでいつも泣いてんのか?と聞きたくなるほど潤んでいる。
 所謂少女漫画にあるような可愛らしい顔立ちかというと、ちょっと違う。主張しすぎる目の所為で全体に何となくアンバランス。
 でもそこが魅力といえば魅力かもしれない。とにかく印象的だから、覚えやすい。俺は入学式の日にはもう、奴が同じクラスだということを認識していた。
 だから翌日の朝、電車の中で会った時もすぐ分かったのだ。
 だが、一メートルも離れていない場所に立っているというのに、阿井は俺に気づかなかった。
 俺は最初ラッシュアワーの所為かと思っていた。中学の時はチャリ通だったから、朝の混雑は本当にツラかった。
 新聞を読んでいる親父の角張った肘が脇腹に食い込んでいるのに、身動き一つできない。汗と香水の匂いが混じって吐き気がするほど臭い。おまけに駅に着く度ブルドーザーのように突進してくる奴に突き飛ばされる。
 くそ。
 既に気分が萎えていた。いつもだったら新しいクラスメートに如才なく挨拶し、交友を深めるところだが、阿井に気づいた時には既に、それだけのパワーが残っていなかった。
 阿井が気づかないのを良いことに、俺は黙っていた。のみならず、少しずつ奴との距離を広げようとしていた。
 阿井の顔色が悪い。
 泣き出しそうに潤んだ瞳を伏せて、じっと俯いている。
 人混みに酔っているのだろうと思った。
 ゲロなど吐かれたら面倒なことになる。気づかれないうちに他人の振りして逃げようと、俺は退路まで探していた。
 しかし。
 唐突に気づいてしまった。
 阿井を苦しめているのはラッシュではなかった。
 親父の手だ。
 脂ぎったおっさんの手が、ケツの辺りをなで回している。
 うわ。
 これって、痴漢ってヤツ、だよな?
 コイツ、男のくせに痴漢にあっているのか?
 しかも、文句も言わずに黙っているとはどういうことだ?
 俺の、阿井に対する好感度レベルは、一気に最低ラインを割った。
 バカだ、こいつ。
 でなければ、マゾだ。いや、ホモか?
 黙っているつもりだったのだが、無意識に げ、という小さな声が漏れてしまっていた。そしてどういうわけだかこの人混みの中で、阿井はそれを聞きつけ、顔を俺の方に向けた。
 …目が、合ってしまった…。
 縋るような眼差しで見つめられて、無視出来るほど俺は神経が図太くなかった。なにせクラスメートである。下手をしたら三年間学校生活を共にするヤツに、悪い印象を与えるのは得策ではない。
 仕方がないので仔栗鼠のように脅えている阿井のケツをなで回しているおっさんの腕を捻り上げ、面倒なことに巻き込んでくれた憂さ晴らしにホームに引きずりおろし、ソッコーでボコにしてやった。それから逃げた。警察に突き出すという手もあったのだが、面倒だった上、親父の金歯を折ってしまったからだ。
 その間、阿井はケツを触られている時以上に青くなっていたが、最後まで俺につきあった。それどころか駅員が駆けつけてくるのを見つけ、知らせてくれた。
 俺たちは逃げるようにまた混雑した電車に乗り込み、同時に詰めていた息を吐いた。
 自然に笑みが漏れた。阿井の笑いはまるでひきつけを起こしているようだった。
 発作のような笑いが収まってから、阿井は小声で礼を言ってきた。
 掠れた弱々しい声だった。
 俺はカッコ良く、大したことじゃないよ、またあんなことがあったら俺に言いな、なんて言ってやった。
 我ながら出来すぎだ。女だったら惚れてるな。

 それから阿井は親友という名の下僕になった。
 犬と言っても良い。
 阿井は本当に小犬のように俺にまとわりついてきた。休み時間になると寄ってくる。帰りも当たり前の顔をして駅まで付いてきた。いささか閉口したが、避ければ阿井は傷つくだろう。
 阿井のような奴を拒否することは難しい。弱々しくて頼りない男。成長の遅い体はまるっきり子供だ。華奢であどけなくて、多分、壊れ物。あの子犬のような大きな瞳が涙に濡れるのは見るに忍びない。
 そんな馬鹿げたことを考えているうちに、阿井が俺の横にいるのは当たり前になってしまった。
 阿井は従順で実に『都合の良い』男だった。何かを頼んで厭と言ったことがない。そのことに初めて気付いたとき、俺はぎょっとした。
 僕のものは君のもの。ノートもお弁当もプレミアもののジッポーも、阿井の物は望めば全て俺のモノになった。テスト前には自分の勉強そっちのけで俺の勉強をみてくれる。俺が一言欲しいと言えば、どんなに倍率の高いコンサのチケットも手に入れてきた。徹夜をせねば手に入らないだろうソレを、俺は何食わぬ顔で受け取る。得意そうに手渡す阿井の顔は、フリスビーを拾って駆け戻った犬そのものだ。俺はその笑顔に罪悪感を感じつつ、阿井の便利さに抗えない。
 いけないと思いつつ、俺は阿井を利用した。
 流石に仲の良い友達の何人かに気付かれたが、俺たちの歪な関係はあっさりと容認された。まあ、当たり前かもしれない。俺は遠慮がちな態度を崩さなかったし、阿井は自分の意志で俺に仕えていた。
 それに俺は慕われるにふさわしい男だった。
 クラスに一人か二人、いるだろ? 抜群にモテる奴ってのが。
 よく分からなかったら周囲の奴にアンケートを取ってみると良い。誰が好きかって。やってみれば分かるが、まず票はばらけない。一人か二人に集中する。比較の問題である。
 うちのクラスの女子だったら、山中さん。美人なのは勿論だが、人当たりが良くて細かな気配りを忘れないキャラクターが、グっと男心を掴んで離さない。他の女子と比べれば断然一番。その辺の評価は男子の間で一致して揺るがない。
 その男版が俺。
 クラスで一番背が高く、嫌みでない程度にフェミニスト。中学からやっているサッカーは、三年を押しのけてレギュラーになれるだけの実力を持っている。でもそれを鼻にかけたりしない。
 阿井のようなちびが憧れても不思議ではない男。それが、俺。
 だったら他人が口を出す筋合いではない。皆なんだかなぁという顔はするが、特にコメントはなく、看過された。
 だから俺たちは、その不健全な関係のまま安定していた。
 臆面もなく尻尾を振ってみせる阿井がうざったく感じられることもあったが、良心の呵責もなく顎で使えるヤツなど滅多に無い。
 実に厭らしい絆だったが、その便利さが、俺にとって唯一の阿井の魅力だった。
 だから俺は、内心でこのバカが、などと思いながらも阿井と一緒にいた。なんとなく卒業するまでこのままなのではないのかと思っていた。
 しかし、もちろんそのままでいられる筈は無かった。

 酷く暑い日、皆で集まって夏休みに旅行をしないかと話していたところだった。高居がジュースを飲みたいといいだした。
 俺はなんでそんなことを言うんだろうと思った。飲みたきゃ抜けて買ってくればよいのだ。まるで宣言するような口調になんらかの意図を感じ、俺は高居を見た。高居も俺を見ていた。奴は視線が合うとにっと笑った。
 高居は体もでかいが態度もでかくて、いつも他人より上にいないと気が済まないタイプの人間だった。そして俺のことを一方的に嫌っている。ヤツは気づかれていないと思っているようだったが、俺は知っていた。俺も勿論ヤツのことなんか嫌いだが、それを態度に出すほど子供ではない。
「なあ、阿井、ジュース買ってきてくんねぇ?」
 馴れ馴れしい口調で頼まれ、阿井が弾かれたように顔を上げた。
 そういうことか。
 俺と阿井の関係を知っている奴らは、興味深げに成り行きを観察していた。他のメンツはその場の空気に流されたのか、便乗しようと阿井にほしいジュースの銘柄を言い始めた。
 そうしてもいいか、と思わせる雰囲気を阿井は持っていた。
 阿井は体が小さい。クラスで一番チビだし、腕なんか棒のように細い。いつもぼおっとしていて、自己主張している姿など見たことがない。俺にばかりくっついて歩いている。だからパシリに使っても文句なんか言わないだろうと、単純に思ったのだろう。
 俺は少しばかり面白くなかった。高居の悪意の先が見えていた。
 言うことを聞けば、阿井はそういうヤツだと認識される。高居は当然のように、阿井をパシリに使うつもりだろう。そして他のメンツも、すぐにその状況に慣れる。阿井はパシリをやるのが当たり前という雰囲気がクラスに定着する。
 そして俺の使える時間が減る。
 面白くなかったが、俺は放置した。
 俺は阿井の保護者ではない。そもそも嫌なことを嫌といえない阿井が悪い。
 そう。俺は阿井のことがあまり好きではなかった。
 どんなに親切にされても、阿井のことを良い奴だとは思えなかった。
 媚びるような笑顔を見るたび、俺は阿井を蹴飛ばしたい衝動を覚えた。
 卑屈で女々しい、腰巾着のような奴。それが阿井だと思っていた。
 だから当然、俺は阿井がノーと言えないものだとばかり思っていた。だって、現実に俺がどんな我が儘を言っても、阿井が断った事なんて無い。だから、そういうヤツなのだと思っていた。一番近くにいたのに、俺は阿井のことをなんにも分かっちゃいなかったのだ。痴漢にあうような情けない男だという、最初の固定観念に囚われて。
 しかし、阿井は言った。
『おまえら、何様のつもり?』
 正直、驚いた。
 皆も同じだったろう。
 阿井がこんなにキッパリ断っているのを見るのは、初めてだった。しかも、まっすぐに高居を見ている。目が、据わっている。
 高居が口をへの字にひん曲げた。
 俺の言うことはきくのに、どうして自分の命令は聞かないのかとでも言いたかったのだろう。
 しかし、口を開く前に、奈賀が椅子を鳴らしながら立ち上がった。コインをぱちりと高居の前に置く。
「飲みたいのは高居だろう? 言い出しっぺのおまえが買って来んのが筋じゃねーの? 俺、ダイエットコークな」
 う、と高居が詰まった。
 奈賀は薄い笑みを口元に浮かべて、中指で眼鏡のフレームを押し上げた。ぴりっとした緊張感が走る。奈賀も実は高居と仲が悪い。
 横から俺もコインを置く。
「午後ティー。釣りはお駄賃にあげよう」
 高居の目から殺人光線が発射されるのを、涼しい顔で受け止めて、俺は笑ってみせた。
 残念なことに、高居もこんなことくらいでヒスを起こすほど、ガキじゃなかったらしい。

 この出来事は、一つの疑問を俺に提示した。
 どうして阿井は俺の言うことをきくのか。
 痴漢撃退のお礼にしては度が過ぎている。もう、四ヶ月だ。四ヶ月間ずっと、阿井は俺にかしずいている。俺の意志が最優先。阿井は、俺の頼みを聞くためなら何を犠牲にすることも厭わない。もちろんよっぽどのことが無い限り俺もそんな無茶を阿井に要求したりはしないのだがーー。
 たまには、自分のしたいことを優先させたいとか、思わないのだろうか。
 本人にきいてみたらどんな返事が返ってくるのだろうかと、時々考える。
 考えるだけで聞かないが。
 そういうのは、なんとなく聞けない。

 その、阿井のTシャツが捲れて腹が出ていた。痩せて引き締まった腹だった。
 阿井の腹はなめらかだった。高校生ともなると、人によっては見苦しい腹毛が生えていたりするのだが、そんなものはまるで無かった。まるで子供のようにみずみずしい肌に、産毛が生えている。多分他の部分の体毛も薄いのだろう。
 ぽこんと臍がへこんでいる。その脇に小さな黒子があった。
 いい腹だなぁと思った。
 以前つきあっていた彼女はそう太っているように見えなかったのだが、脱ぐとぼってりした肉がついていた。パンツが食い込んで腹なんて二段だ。そのぞっとするような光景に俺は、おまえ本当に高校生か、本当はばばあなんじゃないかと暴言を吐きそうになった。俺は美乳派ーーというより、とにかく贅肉がキライなのだ。
 まあ、そもそも「ゲームしている途中に電話なんかしてくるんじゃねーよ、バーカ」と思ってしまう程度にしか好きじゃない女とつきあったのが間違いだったのだ。色々学んで俺は現在あえてフリーである。
 そんなことはどうでもいい。とにかく阿井の腹は、良かった。
 ゲームをしている間はなんとか我慢していたが、一区切りついて札を配りなおしている隙に俺はこっそり阿井に躙り寄った。
 阿井はぐっすり眠っているようだった。
 その腹に、そっと触った。
 熱い日差しのせいか、少し体温が高いように思われる。阿井は目を覚まさない。
 絶好のカンバスを得て、俺はマジックでも調達しようと後ろを振り返った。こんなに無防備に眠っているのだ、悪戯をするのが道理というものであろう。
 振り返ってぎょっとした。皆が俺を見ていた。
 ぽかんと口を開けているヤツがいる。やけに真剣な顔で緊張しているヤツも。
 奈賀は整った顔を下品に歪め、にやにや笑っていた。そして
「やらしー」
 と、言った。
 俺は脱力した。
「何言ってんだ。男の腹を触ってやらしーもなにもあるか」
「だって、やらしーよ。なあ?」
「はい、次はシャツをまくり上げてー。ジャージで良かったなぁ、下を脱がすのも簡単だぞー」
「おまえら、いい加減にしろよ」
 皆がげらげら笑い出した。
 触れていた阿井の腹が、揺れた。皮膚の下で筋肉が収縮しているのが分かる。
 かぶっていたジャージを剥ぐと、阿井は眠そうな顔で腹に触っている手を見た。それから視線は腕を伝い、触っている俺に到達した。
 目が合ったので俺は、
「おはよう」
と、間抜けな挨拶をした。
 阿井は、いきなり真っ赤になった。

 芝生の上を半回転して俺の腕から逃れると、阿井は慌ててシャツで腹を隠した。その様子が可笑しくて、また皆が笑う。
「そーだそーだ、隠せ隠せ。襲われるぞー」
「おい、やめろよな。そういう下らない冗談」
「阿井ー、こいつ、おまえの腹見てコーフンしていたぞー」
「公衆の面前で犯されるところだったぞー」
 自分の身を抱くようにして体を丸めている阿井に、次々に揶揄の言葉が投げかけられる。
 たとえば相手が奈賀だったりしたら、こんな風にからかわれたりしなかったろう。
 阿井だから。小さくてか弱い小動物のような阿井だから、皆下卑た冗談を平気で言う。本気でキレて怒ったりしないから。あるいは怒っても実害がないから。
 舐められているのだ、阿井は。
 俺は、なんだか本気でムカついてきた。
「いい加減にしろよ、俺はホモじゃねぇ」
 低い声で言い捨てると、俺は空になった弁当袋をひっつかみ、校舎に向かって歩き出した。後ろで皆がなんやかんや喚いているのが聞こえたが、無視した。
 ああいう冗談は、キライだ。
 笑い飛ばすことも出来たが、今の俺にはそれだけの心の余裕が無かった。苛々して、黙れと怒鳴りつけたかった。しかし怒鳴ったところで、皆が黙ることはないだろう。さらにエキサイトして囃したてられるだけだ。
 俺はぐっと我慢した。
 よりによって、俺が、ホモ。
 笑ってしまう。

 しかし阿井は皆のからかいを間に受けたようだった。
 その日から俺を避け始めた。朝は始業ギリギリに来る。休み時間になっても寄りつかない。昼休みには何処かへ消えてしまう。
 まるで子供のようなやり方だが、効果的だった。それだけで俺との接点は無いも同然になった。同じ教室にいても一言も言葉を交わさずに一日が過ぎる。
 俺は全く関係修復に向けて努力しなかった。
 俺は阿井に避けられても、別に寂しいと思わなかった。始めその豹変ぶりについていけず戸惑ったが、すぐに阿井のいない生活に慣れた。きちんと授業のノートを取り、学食の席取りも自分でする。何でもかんでも阿井に頼っていた今までがおかしかったのだ。
 阿井のいた場所には別の友達が収まった。俺には阿井以外にも友達が大勢いる。今までは運動神経の抜けている阿井に遠慮してあまり行けなかったテニスやプールにも、しょっちゅう連れ立って行くようになった。阿井と行動を共にしていた頃よりも生活は充実していると言えよう。
 本当のことを言うと、少しほっとしていた。
 阿井と俺との関係は普通ではなかった。
 阿井は、下僕だった。
 いいなりになる阿井に優越感を感じながら、俺はこんなことをしていいのかという不安も感じていた。内心苛々しながら阿井の好意を利用している自分は、卑怯だと分かっていた。
 だから、これで普通に戻れたのだと思った。
 ただ、阿井のことが少しだけ気がかりだった。阿井には俺以外に親しい友達はいなかった。今阿井は、俺と過ごしていた時間を誰と過ごしているのだろう。

「よう。今日、弁当持ってきたか」
 奈賀がコンビニの袋を下げて、俺の机に尻を乗せた。まだ教壇に残っていた教師が不快そうに顔をしかめ、だが黙って去っていく。フレームレスの眼鏡をかけた奈賀は理知的な雰囲気でいかにも優等生に見えるが、実は激情家でキレると教師にだって暴力を振るうことを知っているのだ。
 俺が弁当の包みを出してみせると、奈賀は顎でしゃくって外にでるように促した。
「山中や柚木は?」
「今日は二人っきりでお食事したいの。大丈夫、ちゃんと言ってある」
 屋上に行くのかと思ったが、奈賀は靴を履き替え体育館に向かった。この高校の敷地は広い。体育館の向こうは小高い林になっている。たまに蛇がでたりするのであまり人は寄りつかないが、頂上は小さな広場になっており、朽ちかけたベンチが一つ放置されていた。
 そこへ行くのかと思ったが、奈賀は途中で折れると体育館の屋上に向かった。屋上へ通じる扉は閉鎖されていたが、奈賀はその横手にある窓を開けて外へ出た。
 昼食を取るのにどうしてここまで苦労しなければならないのかと思いながら、俺もさび付いた窓枠を乗り越え後に続く。
 屋上のアスファルトは、腐ってべこべこになっていた。
 その端まで行くと、奈賀は座り込み、食い物を広げだした。俺もその横に弁当を置くと、金網越しに下界を見下ろした。テニスコートや中庭で食事をしている姿が黒い豆粒のように見える。林の広場にも、ぽつんと弁当を広げている人の姿があった。
 俺はわずかに目を細めた。
 阿井だった。
「なー、漬け物食う?」
 奈賀がのんびりした声をあげる。こいつは好き嫌いが多い。俺は金網に背中を預けて座り込むと、弁当を広げメニューのトレードを始めた。
「あー、俺魚キライ」
「俺だって嫌いだよ」
「くっそ、じゃひじき食う?」
「チキンもよこせ」
「で、阿井なんだけど」
 なんの脈絡もなく切り出した奈賀は、真面目な顔をして俺を見た。
「ちょっとお前、冷たいんじゃねーの?」
「なんでだよ。俺は何もしてねぇぜ」
 至極当たり前の反論をして、俺は後ろに視線をやった。阿井は、壊れかけたベンチには座らず、草地に直接座り込んでいる。誰かが来る気配はない。ずっとあそこで一人でメシを食っていたのだろうか。
「しないのが、問題なんだよ。大体阿井があんなになった原因はおまえにあるんだ。少しは気にしろ。あいつ他に友達いねぇんだし」
「そんなの、あいつ自身の問題だろ」
「本当に、そう思ってンのか?」
 俺はたくわんを口に放り込んだ。人工甘味料の味がする。
「おまえ、阿井をパシリにしていたよな。いいように利用して。それなのに、関係ない? まあ、もとから無神経なところのあるヤツだとは思っていたけど、そりゃあんまりじゃねぇの?」
 むっとした。
 俺が、無神経?
 …自覚が無いこともないが、他人に指摘されるとずきっとくる。奈賀はずっと俺のことをそんな風に思っていたのか。
「じゃあ、どうしろって言うんだよ」
 拗ねた俺の問いに、奈賀は、素っ気なく言った。
「自分で考えろ」
「ナニソレ」
「当たり前だろ。おまえは俺に言われなきゃ、何も出来ないのか? っていうか、あんな阿井の姿を見て、なんっとも思わねぇの? だったら俺は何も言うつもりはねぇぜ。お前と阿井のことだからな」
「じゃなんで俺をこんなとこに連れてきたんだよ」
「おまえがなンにも分かってねーからだよ。なンも知らねぇであいつを見捨てようとしているからだ。阿井も気が小さ過ぎる。おまえに何も言うことができねぇんだからな。でも俺はこのままじゃ拙いとおもう訳よ。見ていて頭に来るし。トニカク、一回ちゃんと話してくんねぇ?」
 食えるものだけ平らげた奈賀は、胸ポケットから煙草を取り出した。一本奪おうとした俺の手をぴしゃりとはねのけ、紙マッチで火をつける。
 火薬独特の匂いが鼻についた。
「阿井はーー、転校したいって言ってたぞ」
 ぽつりと、奈賀が言った。
 …ショックだった。
 原因は、俺か? でも何でだ? 本気で俺をホモだと思っているのか?
 転校なんてそう簡単にできることじゃあない。例えちょっと口にしてみただけのことにしても
 そんなにーー俺のことが嫌いなのか?
 あれだけ阿井をバカにしていたくせに俺は酷く傷ついた。
 急速に食欲が無くなり、弁当を床に置く。
 そんな俺の姿を、奈賀は気の毒そうに見た。
「とにかく、な? 一回阿井を捕まえて話しろ。下手したら話すこともできなくなるかもしれねぇんだからな」
 奈賀がだめ押しをする。俺は力無く頷いた。
 いつのまにか阿井の姿は林から消えていた。

 教室に戻ると俺はまっしぐらに阿井の席に向かった。
 阿井はすでに席に着いていた。机の上には英語のテキストが広げられている。午前の授業で出された宿題をやっつけているのだ。マメで勤勉な男である。
 その前の席が空いていたので、俺は勝手にそこに座り込んだ。後ろ向きに椅子に跨り、阿井が顔を上げるのを待つ。
 乱暴な動作で俺だと言うことに気づいたのだろう。阿井は意固地にテキストを睨み付けている。一分、二分、三分。黙って待っていると、何も言わない俺に不安になったのか、阿井はおずおずと顔を上げた。
 久しぶりに目が合った。
 ぷっくりとした小さな唇が、開く。
「なに?」
 蚊の泣くような声だった。
 …なんでこんな脅えた顔してんだ? 俺は知らず顔を顰めた。なんだか俺が阿井を虐めているみたいじゃないか。
 いつものように気安く話しかけられない。言葉を選んでしまう。
 居心地が、悪い。
 何もかも投げ出したい衝動に駆られたが、今を逃したら二度と阿井と話す勇気は出ないような気がして、俺はじっと我慢した。
 阿井の目は相変わらず大きくて、泣きそうに潤んでいる。
「何で俺を避けている訳?」
 単刀直入に言うと、阿井は顔を歪ませた。
 唇が震えている。
 頼むから泣くなよと、俺は心の中で念じる。
「怒ってんじゃねぇよ? ただ、なんでかなーって、思ってさ。俺、阿井に嫌われるようなことやった?」
 阿井はふるふると頭を振って否定した。
 おまえはよーちえんせーか。
 段々保父さんのような気分になってくる。
「じゃ、なんでヨ。俺のこと、ホモだと思っているわけ?」
 阿井は、俯いた。俯いて、ノートに両手を乗せた。その手がソワソワとページをめくる。
 キーワードは、ホモか。
 やっぱり、と得心して、俺は言い募った。
「あのさ、この際はっきりさせておくけど、俺はホモじゃねぇから。男になんか興味ねぇよ。もちろん、おまえにもな」  阿井の手が、止まった。
 硝子玉のように無機質な瞳を瞠って、静止している。
 俺は訳もなく、心臓が締め付けられるのを感じた。
「だからさ、もう、こんなのやめよーぜ。変だろ? 俺たち、友達なのに、まるでーー…」

 まるで。
 
 まるで、
 何だっけ。
 俺は
 何を言おうとしたんだっけ。

 憎しみあう敵のように。
 反発しあう磁石のように。
 俺たちを遠ざけているのは何だ。
 この不自然な関係の源は、何だ。

 俺は。

 そうだ。
 俺たちは友達なんだから。
 喧嘩もしていないのに避けまくるのはおかしい。
 何か気に入らないことがあるなら言葉にしろよ。
 善処するから。
 だから、
 ちゃんと元のようにーーとは言わないが、友達に戻ろうと、
 俺は言うつもりだった。
 普通の、友達に。

 俺は、
 何を言ったんだ?


 はたりとノートの上に滴が零れた。
 俺は言葉半ばにして、凍り付いた。
 またじわりと涙が盛り上がる。
 ふ、と嗚咽を噛み殺している間に、水滴は滑り落ち、紙の上に弾けて飛沫をとばした。
 いつも濡れているように見える阿井の瞳が、本当に涙を零すのを見るのは、初めてだった。
 苦しそうに眉をひそめ、鼻を真っ赤にして、阿井が泣いている。
 頭がおかしくなりそうだった。
 どうして泣いているのか分からない。 
 泣かすような事を言った覚えは無かった。
 なのにどうして。
 阿井の、ぎゅっと握った拳が震えている。必死に激情を押さえ込もうとしているのが分かる。
 まつげの先に大粒の涙が光った。
 どうしよう。
 どうしたらいいんだ。

 ごめん。と、阿井の唇が動いた。
 それから阿井はそっと俺を見上げた。
 きれいな瞳が俺を射抜いた。

 天啓が訪れた。

 つまり何だ?
 そういうことなのか?
 阿井はただ泣いている。顔をくしゃくしゃに丸め、どうにも涙を堪えられず、悔しそうに泣いている。
 俺のために流される、涙。
 俺はいきなり座っていた椅子の背にかかっていたシャツを掴むと、阿井の頭から被せた。
 誰にも阿井の涙を見せたくなかった。
 昼休みも終わりに近づき、教室内はざわついている。まだ誰も俺と阿井のやりとりに気付いていない。
 なに、と裏返った声で抗議する阿井を引っ張り立たせ、力づくで連行する。
 授業開始直前でざわついていたクラスメートの何人かが俺たちを見咎めた。
「おい、もう先生来るぞ」
「サボる。適当に言っといて」
 ええっと驚いた声を上げる奴らを無視して、俺は阿井を教室から引きずり出そうとした。阿井は足を踏ん張って抵抗した。だが頭からシャツを被せられているから足下がおぼつかない。それにこいつはクラス一チビだ。クラス一のっぽの俺との体格の差は歴然たるものがある。
 俺は面倒だとばかりに、阿井を担ぎあげた。
 きゃーっと、悲鳴めいた声があがる。
 俺はそのまま教室を飛び出して屋上に向かった。
 誰も追っては来なかった。

「これじゃまるで人さらいだ」
 コンクリの上にそっと下ろすと、阿井は文句を言った。
「ぶーたれてんじゃねぇよ。あんなところで泣き出しやがって。もーっ、信じらんねーっ」
 俺は屋上のすみっこに座り込み、頭を抱えた。顔が赤くなっているに違いなかった。
 正直、どうしていいのか分からない。
 つっこんだ話し合いが必要だと思ったから攫ってきたがーー、何をどう話したらいいのか、皆目見当もつかなかった。
 俺はホモじゃないのだ。
 『友達になろう』も、気づいてしまった今となっては残酷な台詞で、とても口に出せない。
 悶々としてのたうつ俺に、阿井は泣き顔のまま、少し笑った。
 俺の隣に座り込む。
 ごめんなさいと、小さな声で言った。

 それから俺たちは午後の授業をさぼった。二人で並んで座って、ぼんやり空を見ていた。
 阿井はずっと泣いていた。俺はその横で煙草を五本吸った。
 阿井は、何も言わなかった。
 俺にも阿井の気持ちを受け止めてやれるだけの余裕は無かったから、助かった。
 夏の空に紛れて消えていく紫煙を追いながら、俺は今まで阿井がしてくれた様々なことをぼんやりと思った。
 俺も誰かを好きになったら、あんなに優しくなれるのだろうか。何の見返りも求めず、ただひたすら尽くして。
 阿井は俺に気持ちをほのめかすことさえしなかった。最後まで何も言わずに、友達でいるつもりだったのだろうか。
 俺は、俺を目当てに親切にしてくれた女子たちを思い浮かべた。ノートを貸したり、手作りのお菓子をくれることで優しい自分をアピールし、ゆくゆくは俺の彼女の座をゲットせんと励んでいる逞しい女たち。
 それはそれで良い。
 でもやっぱり、何の見返りも求めずひたすら俺を優先してくれていた阿井が、いじましくて可愛いと思った。
 煙草の灰を携帯灰皿に落としてちらりと横を見ると、阿井はまだ静かに泣いていた。
 泣きながら、『ごめん、気にしないで、もうすぐ止まると思うから』なんて、馬鹿みたいなことを言った。
 そう、馬鹿だ。
 どーしようもない馬鹿だ、こいつは。
 でも。
 自分の気持ちを押し殺そうとして流す、ストイックな涙が、美しいと思った。
 抱いて、慰めてやりたいと、思った。
 考えてみれば、他人が泣いているのを見て、勝手に泣いてろバーカと思わなかったのは初めてだった。

 俺は少し、こいつのことが好きなのかもしれない。

   蛇足

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