サンセット・ダンシング / 暗夜
				
				エントランスのインターホンは虚しくチャイムを響かせる。応える声はなかった。
				壱岐はいない‥‥
				ようやくに、それを納得させられた夏生の指が押し続けていたチャイムから離れる。
				そのまま、項垂れてそこに立ち続ける。四日だった。
				もう四日。訪れる夏生に肩透かしを食わせるように、壱岐は留守だった。
				自慰では決して得られない灼熱感――それを、求めてやまない自分が――いる。
				その間、胸底が痺れるほどに思い知らされた夏生だった。
				
				泥沼だ‥‥
				理性の声は告げる。
				このまま‥‥壱岐のもとに通えば、二度と、以前の自分には戻れない‥‥
				二度と‥‥きては、いけない‥‥
				いまなら‥‥まだ‥‥と。
				わかっていた。わかってはいたが、体の芯をじりじりと灼きとろかすような疼きに抗いつづけることはできなかった。
				三日前、一人になった家のソファで激しく己れを扱きあげながら、夏生はそれを思い知った。
				己れに焼きつけられた、快感の記憶――
				浮かされたようにたどってきたのは、もうなれはじめた道――だったか。
				しかし、そんな夏生を嗤うように、壱岐はいなかった。はぐらかされた欲望が体の奥深いところを爛れさせる。その疼痛を噛みしめるように帰りを待つ夏生の前に壱岐は帰らず、時間だけが過ぎていく。
				
				続く二日、
				土曜、日曜と終日家にいる父親の気配に怯えながらも、受験勉強を口実に部屋に閉じこもった夏生は己れを慰める手をやすめることができなかった。
				図書館の開館時間に合わせて飛び立つように壱岐のマンションを訪れては、砂の詰まったような脚を引きずって帰ることが繰り返された。
				
				そして今日――月曜は休館日だった。図書館は口実に使えない。
				もう、どうでもよかった。行く先も告げず、家を出た夏生は、今、空しく鳴り続けるチャイムを喪然と聞く。
				音が絶えても、そこを動くことができなかった。
				馬鹿げて‥‥いる‥‥
				痺れたような頭の隅でぼんやりと考える。それでも、あの快感を、もう一度でいい‥‥欲しいのだった。
				やがて。ホールを出てマンションの裏に回る。そこに専用の駐車場があった。壱岐のダークグレイのRVはなかった。
				この三日そこで待ち続けた、日陰になった壁の張出に腰を下ろす。
				どうして‥‥いないんだ‥‥
				頭を抱えるように、夏生は膝のうえに上体を屈めていた。
				どれほどの間、そうしていたのか。
				車の音、視界を薙ぐ光りに顔を上げる。
				昼の熱気もいくぶん収まり、あたりは薄闇に閉ざされようとしていた。その薄闇を切り裂くヘッドライトの光芒が消えた。
				ドアの音が響き、残照に赤らんだ空を背に黒々とした人影が浮き上がる。
				壱岐さん‥‥
				声にはなっていなかった。ずり落ちるように張出からおりた気配に、人影が振り返る。
				「壱岐‥‥さん‥‥」
				「君か――」
				嗤いを含んだ声が、応えた。
				
				
				
				       *
				
				
				
				「どうするつもりだ――」
				ソファに上着を投げながら壱岐が聞いた。
				「言訳は考えてあるのか?――」
				「そんなもの‥‥ありません‥‥」
				干上がった喉に、声がかすれる。白々とした照明のなかに立つ長身を、すがるように見上げる夏生に、壱岐は歪んだ笑いを含んだ。
				「ま、好きにするさ――」
				そのまま、キッチンに向かう。すげなく離れていく背中に、一瞬、泣きそうに顔を歪めた夏生はそれでもただじっと待っていることができずに壱岐を追った。
				ケトルに水をいれガスにかけた壱岐は冷凍庫を開き山積みされたパッケージの一つを取り出した。
				「ピザだ。いいよな――」
				返事も聞かず取り出したピザをレンジにいれスイッチをセットする。
				「壱岐さん‥‥」
				手慣れた動きを眺めながら、夏生が呟いた。
				ピザなんて‥‥どうでもいい‥‥
				思いながら、口を出るのは吐息に近い。そんな夏生に、戸棚からカップとインスタントコーヒーを取出した壱岐が視線を投げる。
				「何――」
				コーヒーの壜とカップをカウンターにおき、冷蔵庫から取り出した缶ビールを開ける。
				「あとは好きにしてくれ――」
				「料理‥‥するんですか‥‥」
				独身男のものにしてはよく調えられたキッチンだった。かいま見えた冷蔵庫の中も彩り豊かに詰め込まれていた。
				「まさか――好きな奴がいるのさ。勝手に買い込んできては、作っていく――食いたければ、食ったらいい――」
				ソファに向かう背が応える。その言葉に、頭の芯を痺れるような衝撃が突き抜けた。
				彼‥‥だ‥‥
				マンションのエレベーターホールですれ違った若い男――ビデオの中で惜しげもなく己れを曝し、夏生には思いもつかない官能の高処に鳴いていた――
				なぜ‥‥
				そう思うのか。こんな場合、女性の恋人を想像するのが自然だろうに。頭に浮かぶのは艶かしいまでに白い体、男でありながら女のように腰をくねらせ、淫らに開いた股間を、男の秘所を浅黒い手に嬲らせていた、彼――だった。
				壱岐に会えたことで期待は膨れあがっていた。股間に、すでに痛いほどに昂ぶったものがズキリと熱く脈打つ。あの手は――
				顔が見えたわけではなかった。だがそれはもう確信だった。
				壱岐‥‥さん‥‥
				ソファに腰を沈め、缶ビールを手に煙草を燻らせていた壱岐は、つと前に立った夏生に視線を上げる。
				うつむき、唇を引き結んだ夏生は、何も言わなかった。ただすがるような視線を壱岐に据えて立ち尽くす。そのズボンの股間を押し上げて盛り上がったものが夏生の思いを曝していた。
				思いの知れぬ双眸を向ける壱岐はだが、言葉をかけようとはしなかった。
				キッチンでケトルが湯のたぎる音を上げはじめる。しだいに高まる音のなかで、夏生が微かな喘ぎを洩らしたとき、ゆらりと壱岐が立ち上った。
				誘われるように顔を上げた夏生の口が期待の吐息を這わせる。が、壱岐はそのまま夏生を押し退けるようにキッチンにいく。
				「壱岐‥‥さん‥‥」
				かすれ上ずった声を絞る。夏生はよろめくように向き直った。
				「ん――」
				ガスを消し、レンジに向かった壱岐が生返事を返す。
				静寂のなかに夏生の息遣いだけが響く。
				壱岐が、自分から言う気がないことは明らかだった。
				どうして‥‥夏生の思いなど分かり切っているだろうに、白々しいまでに突放してくる壱岐に、それでもいざとなると、それを口にできない自分に、夏生は顔を歪めた。一度は口にした言葉を、どうして‥‥
				その途端――また、夏生の股間が疼いた。そうなって、ようやくに。なしようもなく昂ぶっていく己れに、ついに、すすり泣くように声が洩れる。
				「して‥‥ください‥‥」
				「何を?――」
				壱岐は執拗だった。
				「前に‥‥してくれた‥‥」
				「具体的に、言ってくれるか?――」
				その言葉に、ようやく夏生は思い至る。壱岐は、言葉で自分を嬲っているのだ‥‥
				だが、抗うことはもう、今の夏生にはできなかった。
				「ぼくの‥‥あれを‥‥」
				「あれ――とは?――」
				「ペ‥‥ニス‥‥」
				「ペニスを?――どうする?――」
				「扱いて‥‥」
				「ペニスを扱く――それだけでいいんだな?」
				夏生の上体が小さくゆれた。
				「タマ‥‥も‥‥」
				「タマ――」
				反問する壱岐の声が、ひずむ。
				苦笑を滲ませたようなその声に、羞恥心を刺され、カッと夏生の全身が火照りあがった。
				それでも、
				「摺り‥‥会わせて‥‥揉んだ‥‥」
				口にすることで甦っていく感触に、喘ぐ。あの時、壱岐は‥‥
				「もっと‥‥色々‥‥」
				「色々?――」
				「胸‥‥乳‥首を‥‥摘んで‥‥」
				ソファに戻りかけてキッチンとの仕切りの壁に足首を重ねてもたれかかっていた壱岐はもう口を挟もうとはしなかった。
				「耳に‥‥舌を入れた‥‥」
				待つでもなく、促すでもなく、冷めた顔を向けて煙草をふかしている壱岐に、夏生は焦れる。
				「して‥‥ください‥‥あれと‥‥おなじように‥‥」
				肩で壁を押しはなし、ゆらりと身を起こした壱岐が前にでる。
				「同じ、ね――」
				間近に立った長身に気圧され、思わずにじり下がった夏生の首筋を、追うように伸びた壱岐の腕がとらえ、引き寄せた。
				外見から想像した以上の力だった。
				「あ‥‥」
				上ずった声が喉を突く。頭一つ高い男の胸元に抱え込まれた狼狽が脳裏を突き刺す。その夏生の上に被いかぶさって壱岐の口が耳に寄せられた。熱い息が吹き込まれ、ぞろりと、濡れた舌が耳孔を舐り回す。
				「ああ‥‥」
				とろかすような痺れが背骨をつたい落ち膝が崩れた、刹那――壱岐のもう一方の手が股間に差し込まれた。
				弱々しくあがくように、足が床を蹴る。萎えた脚は体を支えることができなかった。昂ぶりをとらえた手に体重を乗せてしまった夏生の口から上ずった悲鳴が迸しった。
				痛い――
				首筋をつかんでいた手が背中を流れ落ちる。双丘の狭間を割り裂くように押入り、床にへたりそうになる体を引き寄せ、支えた。
				その間も、前をとらえた手はズボンの上から強くもみしだく。そろりとなぞり上げ――すり潰そうとでもするように擦りたてる――その手の動きに、痛みはすぐに別のものにすり変っていった。
				布地ごしの鈍い刺激に、執拗に玩弄を加えられながらも満ちることを阻まれた快感の波は、高まりかけてはぬらりとたゆたい、じわじわと退いていくかに見えてうねり上がってくる――もどかしさに――夏生はいつか腰を悶えさせていた。
				漲り立ったものは着衣に封じ込められたまま弾けることもできず、ただじりじりと重熱い疼きが股間を蝕みつづける。
				「あっ‥‥ああ‥‥」
				乱れた吐息を切れ切れに口に弾ませる、夏生はしがみつくように壱岐の体に腕を回し、シャツの背を握り締めていた。
				「脱がせて‥‥じかに‥‥して‥‥」
				すすり泣くように哀願する夏生の手が壱岐の指をつかむ。もう一方の手はベルトをまさぐり、ゆるめようとしていた。
				不意に壱岐の手から力が抜けた。
				あ‥‥
				思ったときには突放すように身を退いた壱岐に、支えを失った夏生はその場にへたり込んでいた。
				「壱岐‥‥さん‥‥」
				上着をつかみ奥のドアに消える壱岐の背を呆然と見つめる。
				やがてのろのろとボタンをはずしはじめた夏生はシャツを脱ぎズボンをひき下ろす。そうして一糸まとわぬ姿になっても、壱岐は戻ってこなかった。代わりに水音が響いてくる。
				シャワー?‥‥
				股間に、堅く反り返ったものが痛みを訴えていた。片手で支えるように握り締め、よろめき立ち上った夏生は壱岐を求めて水音のほうに歩きだした。
				玄関フロアへと続く短い廊下、その左右に並ぶドアの一つを開ける。高まった水音が夏生を包み込む。正面、浴室との仕切ドアの半透明ガラスに、浅黒い壱岐の長身がぼんやりと映っていた。後ろ手にドアを閉めた夏生は、そのまま居竦んだように脚を止める。
				壱岐の手がほしい‥‥
				だが、ドアに凭れ込んだ体は前に出なかった。
				全裸の壱岐と向かい合う――それだけのことに怯えている?‥‥
				自分を嗤おうとして頬を強ばらせた。なぜ、いまさら‥‥
				壱岐によってもたらされる快感に酔ったようにここまできた夏生だったが、その――ことを、考えなかったわけではない。いや。
				違う‥‥
				あのビデオを見せられ、逃げ帰った、あれ以来、そのことが頭を離れたことがあったか。
				己れを慰みながらいつか自分を重ねていたのは、浅黒い手ではなく、それに玩弄され身悶える白い体だった。
				どうして‥‥する方ではなく、される方なのか。
				ただの、好奇心だと、思いたかった。
				ホモ・セックスについて関心が、なかったわけではないのだ。したい、されたい、と望むほど知ってはいない、だからこそか。どんな感じのするものか‥‥所詮自分には縁のない世界のことだと思えばなおのこと、知りたい、という欲求はつねに心の隅で疼いていた。
				ゲイがエイズとの関わりでマスコミを賑わせるようになって以来、メディアのなかにその手の情報はあふれている。級友の間でそれに絡めたくすぐりやあてこすりが平然と交わされるのを、日常、見聞きするほどには、身近なものになっていた。
				いずれにせよ。頭の芯に巣食った想念は執拗に燻りつづけていたのだ。
				女のように‥‥犯される‥‥
				今も、それを思いえがく夏生の、そこに、先程まで押しあてられていた壱岐の指の感触を甦らせて鈍い疼きが這う。
				期待‥‥している‥‥
				のだった。体は。
				されたい‥‥あんなふうに、感じてみたい‥‥否定しようもなく、欲望は疼きあがる。それでも、
				それを知ってしまった自分は、どうなってしまうのか――帰らなくてはいけない‥‥今すぐ‥‥帰らなくては‥‥
				ぐらぐらする頭で反芻する、夏生の脚は床に貼りついて動こうとはしなかった。
				「来いよ――」
				不意に、その夏生の逡巡を見透かしているような、壱岐の声が響いた。
				「してほしいんだろ?――」
				声は、命令しているわけではなかった。だが、夏生は抗えない力に操られるように、ぎくしゃくと歩きだしていた。
				湯気のこもった浴室の熱気が夏生をとりこめる。水を含んだ髪を指で掻き上げた壱岐が肩ごしに視線を投げる。陸上でもやっていたような引き締まった壱岐の長身だった。夏生は目を釘づけられたまま怖ず怖ずとその背に寄る。半身を向けた壱岐の腕が伸び、夏生を引き寄せた。
				ふりそそぐ水流が顔に、胸に弾ける。
				夏生は目を閉ざした。
				強くしなやかな指が髪をすき、地肌をこする。的確で素早い指の動きは壱岐そのものだった。それはまた気紛れでとらえがたい。するりと肌をなぶって喉元から鳩尾へ流れる。期待に息をつめる夏生を嗤うように髪に戻り、また首筋をつたい、脇腹をすべり落ち、一瞬それに絡みついて灼けつくような疼きを残し、離れる‥‥
				その腕の動きに合わせて背に裸の胸が触れる。腰のあたりに壱岐のものがあたる。息苦しいまでに膨れあがった動悸に、夏生の全身が音をたてて脈打っていた。
				なぜ‥‥こうも、感じてしまう‥‥
				壱岐の両手が、左右から胸を包み込んでいた。触れるか触れないかに、小さな隆起を手のひらで転がしている。
				ああ‥‥
				吐息とも、呻きともつかない声が弛んだ唇から漏れる。さざ波のようにわきおこる快感のうねりにいつしか小刻みに腰をゆすっていた夏生の手が、すがるものを求めて壱岐の腕に掛けられる。刹那、スッとそれて流れた指先が堅くしこった乳首の先端を鋭く弾いた。痛みに息を呑む。押し潰すように手のひらがすりつけられる。反射的に背をたわめる、夏生は壱岐の手首にしがみついていた。
				残酷な指は吸いついたように乳首に絡みつき、ぎりっと捻りあげていく。
				疼痛に身を捩る、夏生の股間を淫靡な舌がぞろりと舐めあげた。ズキンと、漲り立ったものが熱く脈打ち、下半身から力が抜けた。ずるずると、夏生は壱岐の足元に腰を落としていた。
				「しょうがないな――」
				嗤い含みの呟きを耳に吹き込み、壱岐が膝をついた。大腿を開き夏生の背に重なるように蹲った壱岐の指は、揉みたてられ堅くしこった乳首を、なおも執拗にこねまわす。
				指先から紡ぎだされた甘い痺れは腰に絡みつき、一点に凝集していく。
				「壱岐‥‥さん‥‥」
				膝を立て、だらしなく開いた股間を水流が洗っていく。それさえが、たまらない刺激だった。下腹を打つほどにいきり立ったものの痛みに、夏生はすすり泣いた。
				「早く‥‥いかせて‥‥」
				胸から離れようとしない壱岐の手に、焦れ、求める場所に導こうとしてしがみついた腕に力を込める。
				壱岐の指が乳首に爪をたてた。耳孔を、穿つように舌が侵入してくる。
				ドクリと、先走るものがぬめった糸を引いた。
				もう、限界だった。
				ドクリ、ドクリと、とめどなく、夏生は自ら放っていた。
				鼻をつく異臭が、洗い流されていくなかで、放心したように夏生は萎えた股間を見つめる。
				まだ‥‥放ち切れていないような痺れがわだかまっていた。満たされない思いに、しがみついた腕に爪をたてる。
				「放せよ――ちゃんと、してやるから――」耳元にささやく声に、ようやく、夏生は腕の力をゆるめた。
				そのあと、何回いかされたのか、夏生は覚えていない。三回目までは視界が曝れるほどの快感だった。やがて搾り尽くされて、一滴も出なくなっても壱岐は手をやすめようとはしなかった。
				「やめて‥‥もう‥‥やめて‥‥」
				カンカンに立っているのに放てないものをなお執拗に扱きあげる壱岐に、泣きながら哀願したのをぼんやりと記憶している。
				今、夏生はタイルの上に強ばった四肢を投げ出し、ふりそそぐ水流に洗われながら横たわっていた。
				壱岐は、いなかった。
				恐れながらも、密かに期待していたことは、起こらなかった。
				壱岐の指は夏生のものを弄びながら、スルリとかすめていくだけで、そこに侵入しようとはしなかった。
				だが‥‥
				起き上がることも億劫なほど重く痺れた腰に、その感触だけが逆に生々しく甦っていた。そこに――
				夏生はそろそろと自分の指を這わせる。
				壱岐‥‥さん‥‥
				「なぜ‥‥なんだよ‥‥」
				半ばうつぶせ、嗚咽を噛み殺しながら壱岐の指の感触をなぞり続けた。
				
				
				
				白々と照らし出されたリビングに壱岐の姿はなかった。引かれたままのカーテンに、ベランダごしの闇が一枚ガラスのサッシを黒々とした鏡面に変えている。夏生はわずかに歪む生白い裸体に向き合ったまま立ち尽くす。ガラスにうつったリビング。そこに、窺うような視線を向けて、もう一人の自分がいた。他人の前に股間を広げ、おもうさま己れを嬲らせた‥‥その疲労に下肢を震わせ、その男のリビングで裸身を曝している。
				狂って‥‥る‥‥
				低く呻いた、夏生はその場にうずくまり膝に突っ伏した頭を抱え込んだ。
				相手が友人でも、親であってさえ、親しく肌を接する、というようなことがなくなって、どれほどになるのか。それを、
				どうして‥‥あんなことができたのか。壱岐と出会ってからの時間を消してしまいたかった。記憶を、削ぎ落としてしまいたかった。
				はじめは誘われたといえ、二度目からは自分から求めた、そのことの記憶――
				やがて。のろのろと顔をあげた、目の前の床に脱ぎ捨てた衣類があった。ソファの背にタオル地の毛布がかけてあった。
				夏生の視線はそれらの上を素通りし、ベランダごしの闇に向けられる。
				ありふれた夜景、街灯に照らされた道もこのリビングからは見えない。
				星もない。月もない、その闇が、何の標もない自分の未来そのものに思え、夏生は身を震わせた。
				宵の口には微かに響いていた車の音も絶えていた。壁の時計は零時を回っている。
				立ち上がり、もつれる脚でリビングを出ていた。
				
				北側の洋室に、壱岐はいた。
				オフィスのような一室だった。書棚、キャビネット、机が並び、パソコンやファックス、小型のコピー機などが置かれている。
				窓の暗い矩形のなかで半身を向けたまま、二十インチのモニター画面に視線を据えた壱岐はマウスを動かす手も止めず、ドアの前に立つ夏生を見ようともしなかった。
				「壱岐‥‥さん‥‥」
				かぼそい声だった。
				怜悧な横顔はゆらぎもしない。
				奥歯を噛み締めた、夏生は怖ず怖ずと部屋のなかに踏み込む。
				「まだ、したりないのか――」
				不意に、マウスを離した壱岐がくわえたままだった煙草に火をつけながら冷淡な声を投げた。その声に、夏生の脚が止まる。
				「仕事‥‥ですか‥‥」
				「そう――霞を食っているわけじゃないからな――」
				「こんな‥‥時間に‥‥」
				「こんな時間に、な――」
				夏生はようやく顔をあげた壱岐の突放すような視線に脚を竦めた。あと数歩、その数歩を歩み寄ることができなかった。
				無言で立ち尽くす夏生を前に、ゆっくりと一本の煙草を吸いおわった壱岐がまたモニターに向かう。一瞬、その横顔を流れ落ちた陰が冷笑に見えた、夏生の全身を熱気が押し包む。冷笑されなければならない自分の惨めさに、脳が煮えた。
				「なぜ‥‥」
				「ん――」
				モニターに見入る壱岐の生返事に、
				「したくは‥‥ならないんですか‥‥壱岐さんは‥‥」
				声を絞っていた。
				「だったらなぜ‥‥声なんかかけたんだ‥‥泊めたりするんだ‥‥」
				握り締めた拳を震わせ、思わず踏み出した夏生に、顔をあげた壱岐が苦笑を含む。
				「したい、とは――君とか?――」
				「あんなビデオを見せて‥‥あれ、壱岐さんでしょ‥‥ほんとは、したいんじゃないですか‥‥」
				「して、欲しいのか――」
				ぬらりと、論旨をかわす壱岐の反問に声を呑む。とっさに否定できない屈辱感に、夏生は身を凍らせた。
				「どうなんだ――」
				「されると‥‥思った‥‥」
				かろうじて聞き取れる、押しつぶされた声だった。
				「発情した猿でも、相手を選ぶというのにか?まして君は牝でもない――それとも、牝として扱われたい――か?――」
				揶揄るような壱岐の言葉は容赦なく夏生を追いつめる。視線が重く絡みつく。
				夏生は喘いだ。
				逃れるように、顔を背けた。
				だがそれも、いつまで続くわけもなく、じきに泣きそうに歪められた顔を向ける。
				「壱岐さん‥‥」
				言葉にならぬまま哀願は宙に消え、壱岐は視線を外した。
				取りつく島もない横顔を向ける壱岐に、夏生は再び声を絞っていた。
				「それでも‥‥いい‥‥」
				「それでも?――」
				「牝‥‥として、扱われても‥‥」
				その言葉に、マウスを操っていた壱岐の手が止まった。首を傾げすくいあげるような視線を向ける。
				「それは。困ったな――」
				「困っ‥‥た?‥‥」
				「そそられない――」
				「え?‥‥」
				「君には感じない――立たないということさ――」
				「どうして‥‥」
				へらっと答える壱岐に、詰寄った夏生は干上がった口に耳障りな声を軋らせていた。
				「だったら‥‥どうして‥‥」
				答えるように、股間に手が差し込まれる。手は、ゆっくりと内股をすりあげた。
				刹那、脚が、震えた。
				「これと。それは――別物ということ」
				憎らしいまでに平静な声が耳をかすめ、意識のうえを滑り落ちる。
				やんわりと握り込まれる、その感触に。夏生は細い喘ぎを漏らしていた。
				やわやわと揉みたてられ、たまらず、両手で壱岐の肩をつかむ。もっと‥‥もっと、と。さらに深い陶酔を呼び込もうとするように目を瞑っていた。
				息を荒げ、いつしか腰を悶えさせていた夏生は、ふと壱岐の手が止まっていることに気づく。見開いた眼下に、ぬめりと光る暗い双眸があった。
				「続きは、終わるまで待つんだな――」
				「終わ‥‥る?‥‥」
				離れていく手に抗うように、つかんだ肩に爪を立てた。
				「飯のタネだ。朝までに送らなければならないからな。君の相手はそれからだ――」
				夏生の手から、力が抜けた。
				ぼんやりと見下ろす、壱岐はもうモニターに向かいマウスを動かしている。
				「まだ寝ないなら――コーヒー入れてくれるか――ホットがいい――」
				人を食った壱岐の横顔に背を向け、夏生はのろのろと部屋を出た。
				白々しいまでに明るく照らしだされたリビングで、不意に、全身を震わせる。ききすぎたクーラーのためばかりではなかった。床に脱ぎ捨てられたシャツやズボンを見つめる。いまそれを、身につける気にはなれなかった。それでも、
				裸で‥‥して‥くれるまで‥‥待つ、気かよ‥‥
				ベランダの向うの闇に浮かぶ表情のない虚ろな顔に、ふと、目が行く。暗い目が、見返してくる。夏生は自嘲を返そうとしたが、わずかに歪んだ顔は泣いているように見えた。
				「最低だ‥‥」
				もぎ離すように視線をそむける。
				ソファにいき、背もたれにかけてあったタオル地の毛布を広げ横になった頭から引っ被った。
				コーヒーなんか‥‥入れてやるか‥‥
				息苦しさに顔を出した、目に、蛍光灯が眩しい。両腕で顔を被った。眠ろうとしたが、眠れなかった。
				しだいに汗ばんできた背に、尻に、貼りつくようなレザーの感触に、甦るものに身動ぐ。
				ここで‥‥秘所を曝し、壱岐の手になぶられた、そのときの灼熱感――右向きになり、左向きになり、うつぶせる、夏生は悶えるように肌を、股間を、ソファに擦りつけていた。
				なぶられたい‥‥もっと‥‥もっと、壱岐の手に嬲り尽くされたい、思いを貪る、夏生はやがて、ぐったりとソファに体を起こした。
				
				カップを手に戻った夏生に、顔も向けず壱岐はおざなりに礼を言う。
				「サンキュ――」
				目はモニターに向けたまま、半ばうわの空で受け取ったコーヒーをすする。
				冷淡な横顔を見せる壱岐に視線を据えたまま、夏生はドアの前に膝を抱えて蹲った。
				
				
				
				喉元にこみあげる熱いうねりに、不意に目覚める、夏生の眼前に暗い人影がのしかかるように蹲っていた。照明は消され、室内を薄明りに浮き上がらせて、人影の肩ごしに窓が白い。
				朝?‥‥
				焦点の定まらない視線を向ける夏生の耳に嗤いを含んだ声が響く。
				「こんなところで寝るなよ――」
				「壱岐‥‥さん‥‥」
				いつのまに眠り込んだのか、覚えていなかった。目覚めたわけは、わかった。立てた膝の間に差し込まれた腕がだらしなく弛んだ股間を弄んでいた。
				「立てよ――」
				すっかり鎌首をもたげているものを邪険にひっぱられ、夏生は喘ぎ、ぎくしゃくと立ち上った。
				「終わったんですね‥‥」
				「ああ――」
				期待を込めて確認する夏生に、壱岐はあくび混じりの声を返し、廊下に出た。
				夏生は足早にリビングに向かう壱岐の背を追う。
				キッチンに入り冷蔵庫から缶ビールを取り出した壱岐は物色するように庫内を眺め回したが、すぐにうんざりしたように扉をしめた。
				「いいかげん、服を着たらどうだ――」
				缶を呷りながらソファに歩く壱岐の言葉に、夏生の顔が凍りつく。
				「もう‥‥帰れって‥‥ことですか‥‥」
				「徹夜明けは、こたえる――歳だな――」
				ソファに沈み込むように腰を下ろし、くわえた煙草に火をつけて深々と一服する、壱岐の白々とした視線に、夏生は、一瞬、声を呑む。
				「終わったら‥‥続きをして‥‥くれるって‥‥」
				怒りにかすれる声は、だが弱々しく、どこか媚を含んだものだった。夏生は唇を噛んだ。
				「わるい――また次にしてくれ――」
				吸いおわった煙草をもみ消し、立ち上った壱岐はビールの残りを一気に呷って背を向ける。
				「いやだ――」
				「ママが、心配してるぞ――」
				リビングの奥のドアに向かう壱岐の背にすがり寄ろうとして、夏生は殴られたように脚を止めた。
				ドアが閉まる。
				夏生の耳にからかうような声をこびりつかせて壱岐は寝室に消えていた。
				どれほどの時間、そのまま突っ立っていたのか、やがて、のろのろと脱ぎ捨てた服に歩み寄る。腰を屈め、つかみ上げた下着をはこうとして、だが夏生はその動きを止めた。
				「くそッ――」
				手の中の下着を床に叩きつける。
				蹴るように踵を返し、壱岐の消えたドアを引き開けていた。