サンセット・ダンシング / 崇人・後
				
				「そうだ――いい子だ――」
				男の嗤いが、全身を強ばらせる夏生の耳朶に流れ落ちていった。
				ああ‥‥
				指は、抵抗を封じられた夏生の体肛を犯して奥へ、奥へと、もぐりこみ、淫らにくねり、やわらかな内壁を擦り上げる。
				これが‥‥
				初めて、味あわされる、その感触だった。何故‥‥なのか、壱岐は上からそこを刺激するだけで、巧みに夏生を煽りたて、焦らし、踊らせてはきたが自分では入れようとはしなかった。
				それでも、そこに壱岐によって点された疼きは、いまだに鈍くくすぶり続けていた。
				今――それを暴き立てるかのように、執拗にうごめく指に、いつか、異物感は痺れるような疼痛にすり変っていった。
				不意に、脚を小刻みに震わせた、夏生の下半身から力が抜けた。
				「嫌‥‥だ‥‥」
				夏生の背でにんまりと口を歪めた男は、その一点を、さらにきつくなぶった。
				「ああっ‥‥」
				全身を戦かせて喘ぐ、夏生の下肢が萎え、ずしりと腕にかかる重みに、男は壁に押しつけていた力をゆるめた。貼りついたようにタイルにもたれかかっていた上体がずり落ちかけ、股間を割った太い大腿に支えられる。壁についた両腕から、力が抜けていた。
				自分を銜え込んだ、これが――密かに求め続けてきた現実なのだと、痺れた頭の隅で醒めた声がささやく。夏生の中で、逃れようという意志の最後の一片が溶け崩れていた。
				夏生の腰を抱え込むように前後から責めたてる男の手に、意志とは関係なく、体はすでに反応しているのだ‥‥
				その一点をねつく嬲る指に、握り込んだ手の内に摺り合わせるように揉まれる双球に、萎えていたものは再び堅く反り返り、漲りあふれたもので先端をぬめらせていた。
				早く‥‥いきたい‥‥
				熱い痺れに、眩むように貫かれる、夏生は、そのものには触れてこようとはしない男の手を誘うように腰を揺すりたてていた。
				そこを押し広げるようにねじり込まれた二本目の指に、腰を振って男の玩弄に応えていた夏生の背が、一瞬、強張る。かすかな嗚咽を放って腰を捩った。抗うというには弱々しい動きだった。
				抉るように引き戻し荒々しく突き上げる、指の動きに合わせるようにいつか、夏生の口に乱れた吐息が弾んでいた。
				「いか‥‥せて‥‥いかせ‥‥て‥‥」
				それを待っていたかのように、男が後ろに下がった。
				そこから生えたように深々と差し込まれた指でつながったまま、男の腕が夏生の腰を引く。
				壁から引き剥がされ、ずるずるとタイルの上を滑った夏生の手が床に落ちた。男は手を放す。夏生の膝が崩れた。
				「尻を上げろ――」
				不意にシャワーの水流が止まる。
				シンと、音の絶えた浴室に響く声に、夏生は背を震わせた。
				どうして‥‥
				犬のように床に這い、名も知らぬ男の命じるままに屈辱的な体位を取る、その惨めさも、羞恥も、今更のはずではなかったか。
				のろのろと腰を上げていく夏生の、痺れた頭の中を、かつて壱岐とかわした言葉の切片がかすめていた。
				牝として‥‥扱われても、いい‥‥
				男の前に高々と尻をかかげ、局所を曝す、不様さが胸を刺す、そして、ようやくに、そのことに対する怯えが肌を刺した。
				それでも、だった。夏生のものはそのことにそそられ、さらに熱く、疼いていた。
				早く‥‥して‥‥と、焦れたように、のばした膝が震えた。背後に立ち、男は何をしているのか‥‥
				応えるように、かかげた尻に何かが注ぎかけられた。どろりと谷間に流れこみ内股を伝い落ちていく、その感触に、夏生は喘ぐ。
				「ただのオイルに――そうよがるなよ――」流れ落ちる液体を掻きとり、すりこむように塗りたくった。
				男はさらに、淫らに震えを這わせる窪みを押し広げてぬめり込ませた指を伝わせ、オイルを注ぎ込んだ。
				「ああっ‥‥」
				ぴりぴりと痛みを走らせるその一点から、体の奥深く沁み入ってくる異様な感覚に、膝が萎える。夏生は再び床に這いつくばっていた。
				その夏生の背に、男が被いかぶさった。
				刹那、ぬるりと押し入ってくるものに、刺すような激痛が背筋を貫く。
				夏生は擦れた悲鳴を放って仰け反った。
				充分に含まされたオイルに抵抗を削がれ、苦もなく呑まされた肉の杭の太さは、だが、夏生の限界を越えていた。
				‥‥裂ける‥‥
				恐怖に全身を硬直させる、夏生の目に涙が湧き落ちていく。窒息しそうな圧迫感に、啜り泣くこともできなかった。だが、
				男は、容赦がなかった。
				逃れようとする腰を押さえ込み、激しく責め立てる。激痛に喉につまらせた夏生の手が弱々しく床を掻いた。
				男の腕が前に回り、夏生のものをとらえる。荒々しく握り込まれ、抵抗も封じられる。男はそのまま、前を嬲りながら抽送を繰り返した。
				突き上げられるたびに口に弾む呻きは、いつか、淫靡な喘ぎに変っていった。
				
				欲望を満たすと、男はさっさと浴室を出ていった。胎児のように体をまるめタイルの床に横たわった夏生は、男が出し放しにしていったシャワーの水流に打たれながら、痛みを噛み締める。
				冷えきった体に震えが走ってようやくに、夏生は起き上がった。途端に、男の欲望の残滓がずるりと、内股を伝って熱く流れ落ちた。
				両手で顔を被って、夏生は泣いた。
				
				
				
				リビングに戻った夏生は、ドアの横に膝を抱いて蹲った。
				男は息を抜くように、背もたれに腕を広げソファにもたれていた。
				「こっちへ、こいよ――」
				鈍い視線を返す、夏生は無言のまま身動ぎしようともしなかった。
				苦笑に、口端を歪めた男はやりかけで投げ出してあった書類の山に戻った。目を通しながら、何かを書き込んでいく、その作業が終わったのは、空が西日の気配を漂わせる頃だった。
				テーブルの上や床に所狭しと置かれていた書類を一山にまとめた男は大きくのびをしてソファを立った。キッチンに行き、缶ビールを手に戻ってくると夏生の前に屈み込み、Yシャツのポケットから取り出した名刺を夏生のシャツの胸ポケットに滑り込ませる。
				「気が向いたら、TELしてくれ――」
				返事は、なかった。
				足先の床に視線を落としたまま押し黙る夏生に、唇を歪めて立ちあがると、横のドアから出ていった。
				しばらくして戻ってきた男は背広と書類の山を手にまた出ていった。
				それきり、男も、壱岐も、現われなかった。薄暗いリビングの隅に蹲ったまま、夏生はしだいにおりてくる闇を眺めていた。
				喉が‥‥かわいた‥‥
				ぼんやりと思う。腹が‥‥空いた‥‥
				尿意が、こらえきれなくなろうとしていた。闇の中で体を動かした夏生は、それでも立つのがものうかった。
				どうしよう‥‥とも思わない、じきに、立たずにはいられなくなる、それはわかっていた。それでも、夏生は尿意を抱え込むように坐り続けていた。
				ドアの向うから微かな足音が近づいてくる。
				ドアが開き、照明がつけられた。まぶしさに目を閉じる、頭のうえに声が響く。
				「まだいたのか――」
				薄く開いた視界に、壱岐の背がキッチンに向かう。ぎくしゃくと立ち上った夏生は開け放したままのドアから廊下に出た。
				リビングに戻ったとき、壱岐はまだキッチンに立って煙草をくゆらしていた。
				「コーヒー飲むか――」
				夏生はうなずいた。
				「食べるか――」
				レンジに向かって顎をしゃくる壱岐に、うなずく。
				チン――と、軽い音が響き、壱岐がよりかかっていたカウンターから体を起こす。冷凍庫から新しく取り出したパッケージと入れ替えた。戸棚から二個目のマグを取り出す。
				湯が沸きだす。インスタント・コーヒーの粉をいれたマグに注ぐ。
				「食べたら帰れよ――」
				カウンターの横に突っ立ったまま、湯気の立つピラフを口に運んでいた夏生の手がとまる。上目遣いにコーヒーをすする壱岐を見上げる。
				「嫌だ‥‥」
				スプーンとトレイを手にうつむく夏生に視線を走らせる、壱岐の片眉が上がった。
				「もう‥‥帰りたく‥‥ない‥‥」
				チン――
				レンジが鳴る。マグを置き、取り出したトレイの蓋をはぎ取ってスプーンをつっこんだ壱岐が向き直る。
				「ここに‥‥いさせて、ください‥‥」
				壱岐は応えなかった。マグとトレイを手にリビングに向かう。その表情の冷淡さに、身を竦ませた夏生はすぐに、すがるようにその背を追った。
				「壱岐さん‥‥」
				ソファに腰を下ろした壱岐の前に、テーブルを間に、夏生は床に座り込んだ。くわえた煙草に火をつけた壱岐は背もたれに頭をのせ、深々と一服した。
				「迷惑だな――」
				立ちのぼっていく煙をぼんやりと目で追っているのか、夏生を見ようともしない。
				「でも‥‥もう、帰れない‥‥みんな、壱岐さんのせいだ‥‥」
				「甘ったれるなよ――」
				欝陶しげな壱岐の声に、唇を噛む、背を固くして夏生は押し黙った。
				沈黙は、壱岐が食べ終わるまでつづいた。食べおわった壱岐がトレイとマグをキッチンに下げに立つ。そのまま寝室に向かう壱岐に、夏生が追いすがった。
				「壱岐さん――」
				「帰れ――」
				音を立ててドアが閉まる。喪然と、夏生はドアを見つめた。
				どれほどの間、そうしていたのか。
				やがて、のろのろと立ち上がった。
				キッチンのカウンターに放り出してきたピラフはすっかり冷めていた。
				無理やり口に押し込むように平らげ、
				リビングに戻った夏生は、ソファに横になった。だが、
				狭いソファのうえは体を折ることもできない。寝苦しかった。
				男に嬲られ尽くした股間はずっと、ジンジンと痺れるような疼痛を訴え続けていたが、一人横になると、それは堪えがたいものに変った。
				壱岐さん‥‥
				すがりつきたかった。
				抱いて、もらいたかった。
一度として、優しく扱ってくれたことのない壱岐に、そんなことを願っても無駄だ――
				自ら否定しながら、いつか、夏生は寝室のドアを開けていた。
				リビングから差し込む光の薄い照り返しになだらかな輪郭を見せて、眠っている壱岐は覚める気配がなかった。
				足音をひそめて寝台の傍らによった夏生は、着ているものを脱ぎ落とし、夏掛けの下に、壱岐の横に身を滑らせた。
				壱岐は目覚めない‥‥
				夏生の存在など気にも止めずに眠れる壱岐に、熱い針が頭の芯を刺す。夏生は壱岐の胸に乗り上げるように体を重ねていった。
				薄いTシャツを通して伝わってくる、人の体の暖かさを貪る。
				「おい‥‥」
				壱岐が、覚めきらない声を上げ、夏生の肩に手をかけた。
				引き剥がそうとする腕にあらがって、さらにきつくしがみつく、夏生は壱岐の胸に顔を押しつけてすすり泣いていた。
				「いい加減にしろ‥‥」
				「嫌だ‥‥」
				壱岐の脚に、自分の脚を絡める。
				「レスリングする気分じゃない‥‥離れろよ‥‥」
				だが、壱岐の声はどこか投げ遣りだった。肩をつかむ壱岐の腕から力が抜けていた。
				それ以上、壱岐は何も、しようとはしなかった。すがりつくにまかせ‥‥
				夏生にとって、息詰まるような時間が、流れていった。
				
				
				
				目覚めはいつからか‥‥
				うつうつとしたまどろみの中で、重怠い体をのばし、夏生は首をめぐらせた。
				いつのまに、眠ったのか‥‥
				記憶はなかった。
				見慣れない寝室、寝乱れた寝台の上に、壱岐の姿はなかった。
				壱岐さん‥‥
				力の抜けた体を起こし寝台をおりた夏生の頭にはもう服を着ようと思うゆとりもなかった。薄暗い寝室からリビングに出た夏生は、ベランダから差し込む昼近い日差しに目を細めた。
				そこにも、壱岐はいない。
				半ば駆けるように北側の洋室に向かう。
				いなかった。
				どこにも――壱岐はいない。
				部屋に、浴室に、廊下に――ただ、気怠い静けさが、空調のきいた四角い空間を浸していた。
				夏生は、もつれるような足取りでリビングに戻る。
				眩しい‥‥
				ぼんやりとベランダに向かう。
				サッシの外に追いやられた熱気を孕んで空が白い。
				糸の切れたマリオネットのように、夏生はソファに腰を落とした。
				そのまま虚ろな目を宙に見開き、どれほどの時間を、そうしていたのか――
				動くことを忘れたように、ソファに坐っていた夏生が、ようやく我に返ったように立ち上ったのは、昼を過ぎてからだった。
				ともかくも、服を着なければ‥‥
				寝室へ戻りながら、ふと、思う。
				どうして‥‥
				壱岐のマンションでは、裸でフロアを歩き回るなどということができるのか――
				自分の家では、自分の部屋でさえ、そんなことは考えられない――口うるさい母の顔が浮ぶ。声が、耳の奥に響いたような気がして、夏生は脚を止めた。目の前に、脱ぎ落としてあった衣類が、小さな山を作っている。
				母さん‥‥
				グレーのスラックスと糊のきいた白の開襟シャツ。いかにも優等生らしい、母好みの服――こみあげてきた嫌悪を叩きつけるように、夏生はつかみ上げたシャツを引き裂こうとした。だが、それは母の意志を体現しているかのように容易に裂けようとはしなかった。
				たがが、シャツに――頭の芯が熱く凍る。北側の洋室――壱岐の書斎にハサミがあった――どこかで声がする。水の底を歩くように視界がゆれていた。
				不意に我に返った、目の前に切り裂かれた布の山ができあがっていた。
				
				
				
				その夜、壱岐は戻らなかった。
				勝手に、クローゼットから取り出した壱岐の服を着て冷蔵庫をあさった夏生だったが、壱岐のいない空間は、広かった。
				何故‥‥家に帰らない‥‥
				思うだけで息がつまるほどに疎ましかった。それとも、ただ壱岐の傍にいたいだけなのか。わからなかった。いや、わかりたくない、だけだったか。
				ただ――今ここを出れば、壱岐は二度と自分をここに入れてくれないだろう――それだけは確かなことのように思われた。夏生にはほかに行くあてなんかなかない。
				所在なく部屋から部屋へ歩き回って何度目か、キッチンのダスト・ボックスの前に脚を止める。
				昼間、切りこまざいた夏生の服が捨てられていた、なかに、一枚の小さな紙片が混ざっていた。
				壱岐さん‥‥
				いつ戻るのか――明日には戻ってくるのか――不安に耐えられなくなったように、夏生はダスト・ボックスの蓋を開け、その紙片を取り出す。千切れかけた、あの男の名刺――だった。
				岩間崇人――
				それが、男の名前だった。他には携帯電話の番号があるだけのその名刺を持って、夏生は書斎にいく。
コール音につづいて男の声が耳に響いた。
				『はい――』
				応えようとしてにわかに干上がった喉に声が貼りつく。
				『何だ――おい、――』
				わずかに苛立つ男の声に、夏生はかろうじて声を絞った。
				「あの――」
				続かない言葉に、男の声が尖る。
				『誰だ、克美じゃないのか――』
				「ええ――ただ、名前は教えてない――壱岐さんのところで、昨日――」
				『克美の?――ああ――』
				男が、含むように笑った。
				『君――か。これは――うれしいな。さっそく電話をくれるとは――そんなに、よかったか――』
				「そうじゃない!そうじゃなくて――壱岐さんが、どこにいるか――知っていたら、教えてもらえればと――」
				『克美がか?――』
				「親しいんでしょ――」
				『そう――言えなくもないが――探しているのか――』
				「どう――なんですか――」
				『電話では――教えたくないな。会わないか――』
				人を食った男の声に、夏生はようやくに悟る。
				「あなたは――知らないんだ‥‥」
				男――岩間崇人が笑った。手のなかの受話器が悪怯れない笑声を響かせる。
				『居所は知らないが――克美のことなら知っている――』
				受話器を置こうとした夏生の手が止まった。
				「何を――教えてくれるんです――」
				『何が――知りたい――』
駆け引きを楽しんでいるような声だった。
				男に遊ばれている――怒りを覚えながら、だが夏生は通話を切ることができなかった。
				「あなたは――壱岐さんの、何なんです――」
咽せかえるような哄笑が受話器から響く。
				『これはまた――意味深な設問だな。ただの仕事仲間とは、思っていないわけだ』
				「ただの、仕事仲間なら――」
				言いかけて、夏生は唇を噛む。昨日、壱岐と男の間で交わされたのは、馴々しい言葉以上のものだった。
「名前で呼び捨てに――するんですか――」
				刺を含んだ夏生の言葉に、男は含み嗤うように応える。
				『充分に――親しければな――』
				「切ります――」
				『こいよ――色々と、知りたいんだろう――』
				耳に、吹き込むように男が言った。
				『出て――こいよ――』
				夏生は、受話器を置かなかった。その逡巡を見透かしたように、男は待っている。
				「出れない‥‥」
				迷いの響く声だった。
				『何故――克美の所にいるんだろう、出たって奴が文句を言うとは思えないがね――』
				「出たら――戻れなくなる‥‥行くところが――なくなる――」
				『君は――家出少年か――克美のところに転がり込んだか――』
				「どうして‥‥」
				息を呑む夏生に、男が陽気に笑った。
				『そう言うことなら――俺のところに来いよ。君一人ぐらい、どうにでもなる――』
				下心を問うまでもない、空け透けさだった。
				『中野にマンションを借りている。プライベート・オフィスだ。好きなだけ、いるといい――』
				「あなたの――好きに、されるために?――」
				『手厳しいな――君が嫌なら、もちろん、しないさ――』
				「あの時――嫌だと、言いませんでしたか――」
				空疎な笑いが応える。
				「知りたいことは――壱岐さんに聞きます」
				『強がるなよ――克美が戻ったら、追い出されるんじゃないのか――』
				今度こそ――夏生は叩きつけるように、受話器を置いていた。