双影記 /第1章−2
その日、
近隣を領する荘園領主である館の主人は、めずらしく己が領地を見回り、畑に働くアルデに目をとめた。
大陸の北方にはまれな漆黒の頭髪がまず目を引いた。刈り入れられた麦束はその背には重すぎる。運ぶ相間にまだ華奢な肢体をのばし息を入れたときだった。男には白すぎる肌。聡明そうな額のしたの涼やかな目鼻立ち――
「あれは。誰の娘だ――」
主人の言葉に一瞬とまどった農奴監はその視線を追い、うなずく。
「お忘れで。御領内のアルディタの祠堂に捨て子されたものを、祭礼の夜の落し子というのでご先代さまが引き取られ、しばらくの間、お館で奥方様がお育てになられた赤子があれで、あれでも男で――」
「あれが、か――」
忘れるも何も、なかった。素性も知れぬ赤子をいまさら養子とは、父もくだらぬ気紛れをと、妬心まじりの腹立ちのうちに見ていたその赤子だったが、幸か不幸か、その翌年、隣国との抗争に従軍し戦死した父の家督を継いだことを好機に農奴小屋に送らせた、そのことを、記憶に留めることさえなかったのだ。
今、
「では、親に話を通す要もないな――」
ぬめりを帯びた視線を傍らの農奴監に送り期待に口元を歪めた。
日没を迎え、ようやくに農作業から解放され、疲れ切った体をひきずるように小屋に戻ったアルデを待っていたのは粗末な食事でも硬い寝床でもなかった。そのまま館に連れていかれたアルデは水場で服をはぎ取られ頭から水を浴びせられた。召使の手で手荒く全身を洗われ、着るものも与えられず通されたのは奥まった一室だった。
大きな寝台が据えられている、大きな部屋は無人だった。寒さと空腹。そして、心細さで震えながら部屋の隅に蹲った。
疲労に、いつのまに寝入ったのか。荒々しく髪をつかまれ引き起こされた。
「御領主さま‥‥」
声は擦れて、言葉にならなかった。
遠くから馬上にある姿を、ときおり眺めるだけだった人がいま目の前で自分を見下ろしている。舐めるように全身を這いずり回る脂ぎった視線、油膜が張ったように鈍い光を弾く双眸に見据えられて、アルデの全身が総毛立った。
いやだ――思わず後退る、その腕が鷲掴みにされる。圧倒的な力で振り回され、アルデは仰のけざまに寝台の上に投げ上げられていた。
息が切れ、あえぐ、アルデが身動ぐひまもなく目の前を大きな体が塞ぐ。だらしなく夜着の前をはだけ、生白い胸を、腹を晒すその姿に、喉がヒリつくほどの恐怖に襲われ寝台から転げ出ようとした、アルデの上にずしりと、巨体がのしかかった。
「思ったとおり‥‥女のような肌だ‥‥」
じっとりと湿った手が撫でまわす。嫌悪感に肌を粟立てるアルデの耳に陶然とした呟きを落とし、手の主はアルデの体を嬲り、股間を――まさぐった。
「ヒッ‥‥」
じわりと。股間のものを握られてアルデの体がふたつに折れた。目も暗む激痛に冷たい汗が肌を濡らす。
「やめ‥‥て‥‥はなし‥‥て‥‥」
股間に差し込まれた腕にしがみつき、ギリギリと締め上げる拳を細い指でかきむしった。
手は、容赦なく揉みしだく。まだ稚いそれをいたぶりつつ、もう一方の手で前髪をつかみのけぞらせる。
細い喉がひくひくとふるえた。かたく閉じられた瞼の下からとめどない涙が流れ落ちる。アルデの苦悶の表情を見つめる男の口が締まりなく歪んだ。愉悦に息をはずませ、青ざめた肌に濡れた舌を這わせる。その手が弛み、苦痛から解放されたアルデはぐったりと力の抜けた体を舐めずる舌にまかせたまま、骨の浮いた肩を大きく喘がせた。
つと、男の顔が離れ、弾かれたようにアルデの上体がよじれる。
「あ、あ‥‥」
またも己れを揉みしだかれる、その激痛に、アルデは身を強ばらせ男の腕にしがみついた。
「おねが‥‥い‥‥やめ‥‥」
手は、緩められる。
だが、それが哀願の故ではないことを、アルデはすぐに悟らされる。
苦痛から解き放つのは、さらなる苦痛を加えるためにすぎない、哀願は無意味なのだと。
「な‥‥んで‥‥」
だが。なんで――こんなめにあわされねばならないか‥‥
繰り返し苛まれ、悶える力さえ削がれていくなかで、絶望に染まった暗い双眸が宙をさ迷う。そんなアルデにようやく倦んだか、男が離れる。一時、解放されたアルデは両手で股間を包み、横様に折り曲げた身体を苦痛の余韻に震わせた。
その両足首がつかまれ、荒々しく割り開かれる。勢いに、ほっそりとした上体が寝台の上で跳ね、俯せに叩きつけられた。
もはや逃れようとする気力を失ったアルデの背中に視線を這わせたまま、男は傍らの台から小さな壷を取り、二本の指に中のものをすくい上げた。どろりと、黄濁した液体が指の間から滴る。香油――だった。
つぎは何をされるのか、アルデはこみあげてくる戦きに、なしようもなく寝台にしがみつく。
もう‥‥終わらせて‥‥
小屋に、かえして‥‥
ささやかな願いは、だが、無残に踏み躙られる。ぬるりと身体のなかに押し入ってくるものに、くぐもった呻きをもらすアルデの背が強張った。
肉を裂き、さらにねじり込まれるものに、鋭い痛みが背骨を貫き走る。一瞬、息さえが喉に凝った。
「やめ‥‥やめて‥‥くださ‥‥い‥‥ゆるし‥‥て‥‥」
思わず逃れ上がる腰を、男は深々と呑ませた指で力まかせに抉り、突き上げた。刹那、よじれ仰け反った背中が硬直し、塞き止められていた嗚咽が悲鳴となってほとばしった。
赤く眦を裂き、暗く宙に据えられた黒瞳、青ざめた額に乱れかかり貼りついた髪が濡れ濡れと黒い――その、思わぬ艶めかしさに、ゾクリと、男の腰を噛んで、重い痺れが這い上がる。
期待に息を弾ませ、男はずるりと指を引き抜く。鮮血混じりの粘液を崩れ伏せたアルデの腰になすりつけ、壷を傾けた。
ねっとりと尾を引いて注ぎかけられる香油が、青みを帯びて白い肌を黄色く汚した。
股間を伝い落ちた香油を指ですくい、まわりになすりつけ、さらに深く、なすり込む。
執拗に抜き差しされる太い指に、
早く終って――吐き気を誘う苦痛に耐えながら、アルデはただ念じ続けた。帰りたい。小屋に帰って、ただ、眠りたい――と。まだ始まってもいないとは、思いもせずに。
そして。腰が、抱えあげられ、
ミシリと熱く、硬いものが押し入ってきた。緩慢に、だが容赦なく肉を裂いてめり込んでくる、灼熱の楔に、一瞬にしてアルデの喉がヒリあがった。激痛に、全身が燃え上がる。
裂ける――引き裂かれる――恐怖に、アルデは、渾身の力を振り絞って抗った。
敷布をかきむしる腕がよじれた。脚はむなしく寝台を蹴る。腰をおさえつけ引き寄せる力は、小揺るぎもしなかった。臓腑を突き破るほどに、激しく突き上げられる。
深く、さらに深く、抉り込まれる。
それがいくたび繰り返されたか、ひしゃげた絶叫はやがて切れ切れに絶え、四肢は硬直する。吐き尽くされた息を求めてわななく喉は嗄れ、もう悲鳴すら上げえなかった。
ただ目が眩む激痛に、冷たい汗が全身を伝う。それでも、アルデは意識を失うことができなかった。
いつまで、責め苦は続のか――アルデにとって永劫とも思える時がすぎて、男は、ようやくに果てた。荒く息を弾ませながら身体を離す。蹂躙し尽くされ、立つ力も失って崩れ伏せたアルデの身体を、男は寝台から蹴りだした。
投げ出された木偶のように床に転がったアルデは、動くことができなかった。
その時になって、凍りついていた涙があふれだした。
アルデは気付かなかった。
やがて。寝台の上からは満ち足りた寝息がきこえてくる。いつか灯も落ちた闇の中で、アルデは身動いだ。立とうとしてついた腕は、膝は力なく砕ける。その動きに、燻っていた激痛が弾け、脳底を貫いた。
啜り泣きが口を漏れる。それでも、アルデは這い進んだ。ただ、その男から離れたい、それだけの思いでにじるように扉に向かう。
だがアルデは扉に行き着くことはできなかった。昏冥がアルデを抱きとり、束の間の静穏のなかに包み込んでいった。
翌朝になって召使の手で担ぎ出されたアルデはそのまま館に留め置かれ、小屋に帰されることはなかった。それから、一月余りをアルデは夜毎に苛まれ続けた。
だが。さんざんに慰んだあげく、男は飽いた。いや。飽いた――というより、うちのめされ、悲鳴すら嗄れはて、暗い目を見開いたまま、木偶のように抱かれる少年に疎ましさを覚えた、と言ったほうがよい。
それこそ、打捨てるようにアルデは小屋に戻された。
このことは、だが、周囲の目を変えた。
女たちの小屋で余計ものとして邪険に扱われてきた多少毛色の変わった捨て子は、新たな好奇の目に晒されることになった。
粘り着くような卑猥な視線に追い回されるように、ひと月がすぎたとき、まさか――と、日々打消していた恐怖が現実のものとなった。
農奴は集まって領内の村に暮らしている。だが。許されて家族を持つものばかりではない。
それらのものが暮らす小屋に引き込まれ、女に飢えた男たちに押さえこまれ犯されたとき――それまで密かにいぶり続けていた灼けつくような屈辱感と激しい憎悪が、アルデの内で弾け散った。
だがそれを、その憎悪を、自分を踏みにじる男たちにぶつけるには、その時のアルデはあまりに非力であった。
その夜のうちにアルデは小屋を、村を、逃げ出していた。
逃走はだが、二日で終った。
農奴は土地に縛られる。鎖はなかったが、自由ではありえなかった。逃げ出すものは追われ、捕らえられる。
そして。鞭打たれ、見せかけの自由をさえ奪われる。二度と、逃走できないように、手足に鎖を枷られて。
背中に、鞭の傷が癒えても、心の傷は血を流し続ける。たわめられた憎悪は弾けるときを待って、内からアルデを炙り続けた。
逃れることも、拒むことも許されないアルデにとって、従順は己れを守る唯一の鎧であった。逆らえば殴打をもって報いられるとあれば、十三の少年にとって、他にどのような道がとりえたか。
昼は農奴として追い使われ、夜は村の男たちの後腐れない慰み者として、噛み締める涙も枯れる頃、だが、アルデは変容を始めた。
内に凝った憎悪に促されるように、非力な少年から、しなやかな、それでいて力感に富む肢体をもった一個の青年へ、と――
その頃になると、
男たちは、自らが組み伏せるものに、ある畏怖を覚えるようになった。
ただ黙々と、鎖を鳴らして己れ等の頤使に従うアルデだったが。ふと、目が合うとき、その双眸に宿る苛烈な光に気づかずには、おれなかったから。
あるものは頬を殴り、目を伏せろと怒鳴る。だが。誰もが思う。もし今、こいつに鎖がなければ――と。既に、力だけでは組み伏せられないことを悟り。
そして。
男たちはアルデの上から遠ざかっていった。
だがそれは、アルデの上により苛酷な労働をもたらすことになった。
このまま、時が移りゆけば、酷使に耐えかねた体は、早晩、若い命を落としていただろう、そんな時だった。オダンが再び、このレカルの地を訪れたのは。そして、二十年前の己れの選択の結果を知った。
二十年前。王の命に背くという後ろめたさばかりではなく、カラフの股肱たる己れの不在がその疑念を招くという不安に急かされて、好機と思われるものに飛びついた己れの決断を悔いた。
いや。悔やみ切れぬ思いに身の内を焼きながら、村の古老に聞かされた話を伝に、その荘園を訪れたオダンは、見た。
手足を鎖で枷られ、牛馬のように軛につながれ地を這うように犂を曳く、姿を――
見ている間にも、膝が砕け、くずおれる。
農奴監は容赦なかった。背を打つ鞭にのろのろと立ち上がり、また曳き始める。
何度、それを繰り返したか、ついに力尽き立てなくなったアルデを、鞭の力もきかないと知ると、前にまわり蹴り起こす。
「立て。この畑を済ますまで飯はないぞ!」
その嚇しも功を奏さないと知った農奴監はようやくに諦めたか、踵を返し、そこで、近づいて来る裕福そうな旅姿の男に気付いた。
初老もとうにすぎた半白の髪の男の、往年を忍ばせる逞しい体躯に、気圧されるものを感じ、声を張る。
「なんだ。お前――」
「逃亡癖でもあるのか。それにしても情け深いものだ。飯も食わさずにこれだけの畑を耕せだと? この土地ではみなそうか。農奴は使い捨てか――」
傍らに立ち鎖を蹴りながら言うオダンに、「こいつは特別だ。もともと村のものでもないしな。気にかける奴もいない――あんた、こいつが欲しいのか」
「こやつを?――」
「そうでもなくて、旅の者がなんで脚を止めてこんな話をしてるんだ」
オダンは笑った。
「そうさな。このあたりの領主に仕えるものに話を通せば荷物持ちの奴僕、一人手に入るかとは思ったが、これではな――逃亡癖があるのではなおのこと。話にならん」
「それならうってつけよ。逃亡したといってもガキのとき一度きりだ。無口で従順だ。買い得だぞ」
「それで、今だに鎖か。お笑いぐさだな。生きているうちに少しでも稼がそうという腹だろうが、こちらは旅先だ。死にかけてるものを押しつけられても困る。もっとましなものを一人、手に入れられないか」
「死にはしないさ。飯を食わせて一晩休ませればまた働く。いつものことだ」
「いずれにせよ、今日はデナの村で泊まる。一人、連れてきてもらおうか。使えそうなら買う」
「いくらまでなら払える」
「ものによろうが」
「こいつなら金貨五枚――」
「笑わせるな」
「――四枚、いや三枚で、いい――」
探るような視線に向かって、オダンは軽く頷いた。
「よかろう。だが買うのは見た上でのことだ。証文は忘れるなよ」
宵のうちに、オダンの泊まる宿に連れてこられたアルデは体を洗われ、鎖は外されていたが、農奴の証ともなる手首、足首の鉄鐶はつけられたままだった。
その姿にオダンは思わず息を呑む。
泥にまみれ、倒れ伏していたときには、これほどとは思わなかった。それほどにやつれ果てていた、それもある。が、それ以上に、水際立ったその面立ちのなんと似ていることか――
だが。それをどう解釈したか。農奴監がぬめりのある目つきでオダンに笑いかけた。
「見てのとおりだ。こいつは買い得だ」
その口吻に含まれた、卑猥な響きにオダンの片眉が上がる。
「どういうことだ」
オダンの声音にいささかあてが外れたような顔をした農奴監は、だが口を閉ざしたまま首を振って促した。多少迷う素振りを見せながらもオダンは金貨を渡し証文を受け取る。
取引が済んだとみるや、農奴監の口が弛んだ。
「荷運びだけではない、あのほうの用にも立つということだ。ガキの時一度逃げたといったが――その時以来、村の男どもの相手をしてきてやり慣れてる」
「男どものな。だが――それを何故、今になって手放す。恨まれようが」
「こいつの目――だ」
言いながら、部屋に入ってからずっとうつむき視線を伏せていたアルデの髪をつかみ、その顔を仰のかせた。
口を引き結んだ無表情な顔の中で、暗い双眸だけが生きて、見るものを不安にさせずにはおかないほどに強い光を滾らせている。
オダンは息を呑んだ。
それに満足したように農奴監が口元を歪める。
「今では誰も恐ろしがって近づかない。いずれ何かやらかすのではないかとな。だからといって目を潰してしまえば、ただの穀潰しだ――実を言えば、あんたに、買ってもらっていいやっかいばらいだった――これは、その礼だ――が、教えたからには後は知らん、ということでもある」
「それで。顔を伏せさせていたのか」
「そうだ。目を見られてあんたが買う気をなくしたら、叩きのめしてやるとな」
哄笑を残して農奴監が去ると、オダンは重い息を吐き出した。
「名を。聞き忘れたな。何という」
「‥‥アルデ‥‥」
低く押しつぶれた声は弱々しかった。
「――何か食うか。それとも休みたいか」
「‥‥休み‥‥たい‥‥」
オダンが部屋の隅を指差し頷くと、よろめくようにそこに行き崩れ込んだ。
壁を背に膝を抱え込むように体をまるめて横たわる。近づくと既に寝息を立てている。何かを防ぐように上げた腕の間にのぞく顔は、視線の強さにはそぐわない。痛々しいほどに幼げだった。
再び。オダンは重く、苦しげな息を漏らした。
翌朝、
物音に、アルデが目覚めると、オダンは既に旅装を整え、外から戻ったところだった。窓から差し込む陽も高い。
信じがたい思いもあらわにまじまじとオダンを見上げるアルデの前に、オダンは脇に抱えていたものを投げ出す。
「お前は今日からわたしの下僕だ。思い出したらそれに着替えろ」
オダンから床の上の小山に目を移したアルデはのろのろと立ち上がり、背を向けた。
半裸というに等しいほどに裂けほつれた服を脱ぎ落とし、衣類の山に手をのばす。
「まて。まだ着るな」
その声に。見る間に、全裸の背中が強張った。
自分の言葉がどう誤解されたかを知って、オダンは小さな吐息を噛み殺した。が。腰の小袋から取り出した壷を手に静かに歩み寄る。
いまだ生々しく血をにじませて幾重にも折り重なる鞭の跡に、指にとった軟膏をなすりつける。
刹那。その背を貫いた戦慄は痛みの為ではなかったろう。
やがて。自分が何をされているかを悟ったアルデの体から力が抜けていった。それは、痛ましいほどにあからさまに内なる思いを告げていた。
オダンは塗りおわると壷を小袋にしまい扉に向かう。
「着おわったら来い」
扉が閉まると同時に、アルデは床に座り込んでしまった。ただ、呆然と、宙に据えられた双眸に、苛烈な光は失われていた。
部屋を出たアルデを待っていたのは食事と馬だった。
オダンは衣類ばかりでなく小馬をも買い求めてあった。
必死に小馬の背にしがみつくアルデをともないオダンはデナの村を発った。途上の村の鍛冶屋で手足の鉄鐶を切り外す。
三日後に。二人はトルコルという名の港から船に乗り、レカルの地を離れた。
ヨレイルの地の北岸をめぐる交易船に、他に乗客はなかった。乗員と共にする日に二度の食事を運ぶ以外、アルデにはする仕事もなかった。与えられた船室の壁を背に、一日蹲り続けるアルデに、あるとき、オダンがきいた。
「海を、見ないのか。初めてだろう」
アルデはただ、鈍い視線を上げただけだった。
アルデとは反対に、オダンは一日、甲板に出て海を眺め続けた。そして、思う。アルデのことを。その、過去を。将来を。
初めて見る海に、若者なら当然示すだろう興味さえ持ちえぬほどに、枯れはてた、その心を。
憎悪の対象を失った今、光さえ消した暗い双眸に、オダンはいまさらながらに悟らされる。ただそれだけに――憎悪だけに支えられ、生きてきたのだと。
何という、ことだ――
ほかに取り得る道があったとは思えなかった、とはいえ、己れの選択の結果がこれだった。激しく吹き殴る海風が、赤く切れ上がったオダンの眦を干す。オダンには泣くことが許されぬことなのだと、思い知らせるように。
やがて、
幾度めかに、また陸地が近づいた。
アルデにわずかばかりの荷をまとめさせたオダンはその前に小さな壷を置く。
「顔に塗れ」
なかには褐色の練りものが入っていた。
「塗れ」
オダンに促されるままに、アルデは塗った。無表情に。従順に。余すところなく。
大きな頭巾のついた外套に姿を晦ますように身をおおった二人が下船したのはクワの港だった。
トルコルから三十八日――
こうしてアルデは己の生まれた地に帰りついた。自らは、そうと知りえぬままに。
クワの街外れに二人は宿をとった。
翌朝、往路預けてあった二頭の馬を引き取り、オダンは宿を後にした。
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