双影記 /第1章−3
王家に次ぐ、広大な所領を有するラデール家はまた、それにみあった広壮な城館の一つを領州ハソルシャの地にかまえる。
かつては、国境守備の城塞として使われていた館にはいくつもの塔がある。
その、もっとも奥まった塔に、アルデは入れられた。
クワを発って五日目の深夜――だった。
「今夜から、しばらくはここで暮らすのだ」
置き捨てるように去ろうとしたオダンに、アルデは思わず、すがるような視線を投げた。
デナの宿以来ずっと、ともに起き伏ししていたオダンが、今、自分を置き去りにする、その不安だけではなかった。何かは知らぬ、はじめて知る痛みに胸を騒めかせてアルデはオダンを見つめる。
「何がいいたい」
オダンが聞いた。
「ほかに‥‥いなかった‥‥」
思わず、口を衝いて出た言葉だった。オダンを、ただ引き止めたいがために。
「いない?――」
その、アルデの視線に、ズキリと胸を刺す思いを押し隠し、オダンは乾いた声で問い返す。
「顔を塗ったもの‥‥ほかに一人も‥‥」
微かな吐息が、オダンの口を漏れる。
「それは――その身分のものが他に、いないからだ」
そのまま、逃れるように塔の間を出る。
アルデは、
呆然と立ち尽くす。そして聞いた。
閉ざされた扉に、錠の下りる乾いた音を。
豪華な燭台に、蝋燭の炎がゆれる。
それにつれて、白い顔の上で、とらえどころなく影が揺らぐ。
淡い双眸が一抹の感情すら示さず、据えられている居心地の悪さに、オダンが微かに身動いだ。
「同情か。自責か――」
やがて。苦笑を含んだルデスの声が沈黙を破る。
オダンがハソルシャに戻って九日目の夜。
その夕刻。知らせを受け、王の城のあるオーコールの地から戻ったルデスに、語り終えたオダンへの、これが、第一声であった。
「それで。許されるものであれば」
めずらしく。怒気をにじませて、オダンが応じた。
ルデスは低く笑った。
「たかだか二十年、生きたところで、何がわかる。お前は彼に命を与えた。その結果をどう受けとめたか。こたえを知ることができるのは、彼が、死を迎える時だけだ。だが、わたしにいわせるなら、彼に与えられたものは全て、お前ゆえのものでなどあるものか。全て――この、ニルデアの王族たる身の、宿業のなせるわざよ」
「ルデス様――」
オダンの身体から力が抜けた。
「あなたは‥‥あの御方をどうなされるおつもりだ‥‥」
「それは、まだ、わかろうはずがあるまい。どのようなものになりうるか――知り得るとしたら、それは、神だ――」
「ここにきて、ようやくに、あの御方に人らしい表情が戻りかけている‥‥旅の間‥‥一度たりと、そのようなことは、なかった‥‥お願いです。このまま遠い異国に送り、不自由なく暮らせるよう、計らってやっては、いただけまいか‥‥」
その時。ルデスの双眸の内をよぎった、その感情は何だったのか――オダンがそれを見極めるまもなく、ルデスは視線を逸らし、立ち上がった。
「お前が発つ前に、わたしは約した。この手で、彼の命はとらぬ。今は――それだけで満足しておけ。後は――わたしが死んでからだ。その時には――お前の好きにするがいい」
「ルデス様――」
「では、いこうか」
「今から?――」
「そうだ」
オダンに先導させ、ルデスが塔の間に入ったとき、アルデはすでに寝台に横になっていた。
扉の開く音、射し込む光、人の気配に、アルデは身体を起こした。
オダンの姿を認め、光にすがめた目を、わずかに見開く。寝台から滑りでて床に立つ、いぶかるようなその顔に、かすかな親しみの残影がゆれた。
それを、打ち砕く冷酷さでルデスが命じる。
「裸になれ」
驚きに、アルデの双眸が見開かれる。オダンからルデスへ。そしてまた、オダンへと視線を往復させたアルデに、
「ルデス・ドム・ラデール様だ。わたしの。主だ。それは――お前の主人ということでもある。これからは。この御方の命に――従うのだ」
重く沈む、オダンの言葉だった。
「裸に――なれ」
と。オダンの口で繰り返されたとき――
アルデの顔から表情が消えた。
双眸に、光がともる。
前に増す――苛烈さで。
だが、手だけは従順に、着ているものを脱ぎ落とした。
「お前は、行け」
弱い光の中に浮かび上がるアルデの裸身に目をすえたままルデスが促す。傍らの燭台に灯を移したオダンは、刺すように見詰めるアルデの視線を振り切って、無言のまま塔の間から立ち去った。
アルデの視線はその背を追って、閉ざされた扉に断ち切られる。
「後ろを向け」
再び。ルデスが命じた。
感情のない冷ややかな声に、アルデはゆっくりと、向き直る。
だが。後ろを向こうとはしなかった。
「お前は。オダンの言葉を聞いてはいなかったか。後ろを。向け」
静かな。だが、それでいて有無をも言わせぬ強さの響く声に、アルデの肌がそそけだった。アルデは。思わず拳を握り締める。
だが。
それでも、ルデスの言葉に従おうとはしなかった。そして。しなりのきいた動きでルデスが一歩を踏み出した刹那、弾けるように前に飛び出していた。
ルデスの横をすりぬけ、扉に駆け向かう。数歩で、扉に手が届く――その時、アルデの身体が宙に舞った。
そのまま、駆け向かう勢いで扉に激突し、床に崩れ落ちた。激しい衝撃に息をつまらせる、アルデの意識が一瞬、遠退く。
「立て」
頭上に降る、相変わらず静かな声に、アルデは呆然と顔を向ける。
足払いをかけアルデを転倒させたルデスは、何事もなかったように、冷然と見下ろしていた。アルデは立てなかった。床に腰を落としたまま、後ろににじった。その裸の背にひやりと壁があたる。薄刃の剣で撫で上げるようなルデスの視線の前に、小刻みに身体を震わせる。
「立て」
再度、ルデスが命じた。
壁に貼りつくように上体を押しあてたアルデは、だが、それでも、立とうとはしなかった。
ルデスが前に踏み出すとビクリと身体を震わせ、さらに壁に背を押しつける。
乱れた髪が頬に散りかかる。口の端から血を流した、アルデの顔は、痛々しかった。
「何故。立とうとしない」
ルデスの言葉に、睨み上げていたアルデの視線が揺らぐ。口にたまった血を呑み込んだのか、喉が、コクリと上下する。
そして。アルデは目を閉ざした。
「やめて‥‥ください。働きます。何でも、する‥‥鞭で‥‥打たれてもいい。でも‥‥あれだけは、いやだ! もう‥‥いやだ‥‥」
震えを帯びた、アルデの声だった。眦から涙が、頬を伝い落ちる。
見下ろす、ルデスの無表情な顔が不意に、歪んだ。眉間に深いしわを刻む。
苦悩――だが、何故の――
一瞬のことだった。
片膝をつきアルデの前に腰を落としたルデスの顔からはもはや、何の感情も汲みとれなかった。
「お前は。子供の頃から、男どもの慰みものにされてきたそうだな。どのようなことを、されてきた」
弾かれたように。アルデは目を見開いた。
ルデスの手が股間に滑る。
アルデの手がそれを追う。己れを握り込んだルデスの手首をつかんだ。
「させない‥‥」
呻くようにアルデは言った。きつい視線でルデスを見返す、アルデの強ばった顔に向かってルデスは薄く笑いを含んだ。
「今のお前に、その、力はない。手を放せ。放さねば、これを握り潰す」
靜かな、それ故に、より、揺るぎない意志を感じさせるルデスの声音だった。
アルデの身体を戦慄が貫く。
それでも。放そうとしないアルデに、ルデスの手が容赦もなく握り込まれ――
弾かれたように、アルデの身体が折れよじれた。胎児のように脚を引き寄せ、突っ伏した背中が強張る。
「これが、最後だ。放せ」
強ばりついたままのアルデの、指だけがゆるみ、おずおずと脇に離された手は、すがるように己れの大腿をつかむ。
「身体を伸ばせ」
小刻みに震える上体を倒す、アルデはもはや抗おうとはしなかった。緩慢に手足をのばし、床に横たわる。口を引き結び暗い双眸を閉ざした、その身体から震えはなおも去らなかった。
ルデスは。何かを推し量るように目の前のやつれた身体を見下ろす。
均整のとれた肢体は無数の鞭の痕を、いまなお生々しく留めている。両の手首と足首は長年枷られていた鉄輪に黒ずみ、薄く肉が削げ落ちていた。アルデは、
おなじだ‥‥
かつて、いくたび繰り返されたか知れぬ、あれと同じなのだと、自らに念じながら、だがしだいに高まる鼓動をどうすることもできなかった。あのころは、これほどに堪え難くはなかった。それを、なぜ、今さら怖れるのか、長いこと忘れていた、だからなのか。なぜ、さっさとすませてしまわない、
はやく‥‥終わらせて‥‥
膨れ上がった鼓動に喉をふさがれる、息苦しさに思わず喉元を押さえた、そのとき、
己れを握り込んでいた拳が離れた。そして、その手首に、そっと触れ、離れたものに、アルデは微かに呻いた。それは、羽毛のように、胸に、腹に、刻まれた傷の上を移ろう。
何かが。違う――
かつて。このように、アルデに接した男はいなかった。
待つ間もなく、力ずくで折り曲げられ、貫かれ、身体の奥深く放たれる。不快と苦痛、苦渋と憎悪だけを呑まされてきた、これまでの、男たちとは――
違う‥‥
それは、だが、アルデを安らがせはしなかった。
前にまして激しい震えが身体を襲う。
アルデは、思わず、両手で顔をおおっていた。
そのアルデを。ルデスは不意に抱き上げた。
アルデは激しく胸を喘がせる。
だが。ルデスは。頭ひとつ高いだけの、ほっそりとした肢体からは思いもつかぬ力感に満ちた足取りで寝台に向かう。
そのまま寝台の上に抱き上げ、引き寄せた夜具に裸の体をくるみこむ。
そして、訳もわからず身体を強ばらせるアルデを、腕の間にしっかりと抱きしめた。
「なにもしない。怖れるな。眠れ――」
抱きしめられた耳元に、低くかすれる声がささやきかける。
なめらかな手は、静かに背中をさする。
ただ。さすり続ける。
やがて。布を通してルデスの温もりが伝わってくるにつれ、アルデの身体から強張りが融け去っていった。
そして。自らも意識せぬままにアルデはルデスの背に腕を回し、その胸に抱きすがっていた。
それは――
子が、母に、抱きつく姿だった。
アルデは知らない。
母なくして育ったアルデには、かつて、一度として、このように人に抱かれた記憶はなかった。
今、アルデは無性に泣きたかった。
思うより先に涙はあふれ、とめどなく頬をぬらす。
すがりついた胸に頬をおしあてアルデは声もなく泣き続けた。
ルデスは、その背をさすり続ける。
涙が果て、かすかな寝息がもれだすまで。
そして、静かに横たえ夜具をきせかけ、室を後にした。
翌朝。
少なからぬ不安を胸に、オダンが塔の間に入ったとき、アルデは片頬を腫らし、ぼんやりと寝台に腰を下ろしていた。
立ち上がり、迎える双眸にも、昨夜、別れ際に見せた、刺すような光はなかった。
オダンは、伴った老僕、ワルベクが食卓を整え去るのを待って、アルデを促し、自らも腰をおろす。
「痛むか」
オダンの声に、どこかとまどったような視線を向ける。視線はすぐに扉の上に流れる。
「ルデス様がいつ見えられるか、気になるか」
ビクン――と。それこそ跳ねるように、視線を戻したアルデは、さらに困惑を深めたそれを卓上に落としてしまった。
オダンは吐息する。そして。
「まだしばらくは見えられぬ。その間に。食べてしまえよ」
だが。ルデスはオダンの思惑より早く塔にやってきた。
どこかうわの空で、まだ食べ終えていなかったアルデがその姿に椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。
自らも立ち上がったオダンが驚き見返る前で、頬に薄く血を上せたアルデの双眸が強い光を点す。
大股に卓に歩み寄ったルデスは空いた椅子に腰を下ろした。
「お前たちも坐れ」
「どうなされた」
めずらしく強い調子で不審を質すオダンに、薄く笑いを刷いて応える。
「責めるな。戻れぬところを戻ったのだ。もう、発たねばならぬ。その前に申し渡しておこうとな――」
そして、いまだ立ったままでいるアルデに視線を流した。
光を含んだ淡い双眸は、無機的なまでに自らの心の内を韜晦しさって、対するものを突放す。
この間ずっと、食い入るようにルデスの姿を追っていたアルデは、つと、視線を合わせられて、苦しげに、顔を歪めた。
「坐れ。アルデ。わたしに、同じことを二度いわせるな」
ルデスが声を荒げたわけではなかった。少しかすれた靜かな声は変わらない。
だが、アルデは打たれたように身を揺るがした。ぎくしゃくと倒れた椅子を引き起こし――そのまま崩れるように、その椅子にすがり蹲ってしまった。
かすかに眉をしかめるルデスに険しい一瞥を与え、オダンが歩み寄った。
「どうした――」
抱え起こそうとして、今度はオダンの眉根が寄せられる。
「熱が、あります。休ませたほうがよい」
「そうか――」
憮然として。ルデスがうなずいた。
塔をでた二人は、無言で、長い回廊をたどる。
自らは語ろうとしないルデスに、やがて、堪えかねたようにオダンが沈黙を破った。
「御身は。あの御方に。いったい何をなされた――」
声にあからさまな非難の響きに、ルデスは口元に苦笑を刻む。
「誤解を。するな。たしかに昨夜、あれを抱きはしたが――お前の思っているようにではない」
「では。どう、抱かれたと言われる――」
その、苦々しい口調に、不審の程を察して、ルデスは吐息し、向き直った。
「あれは、子供だ。心が――育っていない。まるでな。――確かに、わたしは抱こうと思ったが――どの程度、男に慣らされた身体か知りたくてな。――だが、その必要もなかった。拒み、泣きだした。子供をあやしたようなものだ。膝に抱えて背中をさすってやったら寝てしまった。ざまは、ないな――」
唖然として。オダンは対峙するルデスの、自嘲に歪む顔を見上げた。
「ともかく――いつまで農奴でいさせるわけにもいかない。いろいろと。仕込まねばならぬと思っていたが――それだけでは、すまなくなった。頼む。オダン。お前はわたしにとってよき師であり、父にも代わるものだった。あれをも――育ててやってくれ」
「‥‥いや‥‥それは、どのようなものか」
顔を伏せ、首を振る。
「学びごとなら、いくらでも、お教えするが‥‥それで得心いたした。先程の様子を見られたであろう。あの御方は既に御身に特別な思いを寄せておられる―― 憎しみと怖れに凍て凝ごった心に‥‥御身はもう‥‥手を触れてしまわれた。もはや余人では、あの御方が受けつけまい。ご自身、続けられるよりありますまいな‥‥」
オダンの言葉に、
「‥‥酷いことに‥‥なってしまったな‥‥」
ルデスは口中に低く呟いた。
聞き取れず、訝しげな視線を上げるオダンに、ルデスは背を向ける。
その背に、いかなる容喙をも拒む、峻烈な意志を見取り、オダンは吐息した。
塔の間では。
アルデが惑乱のうちに横たわっていた。
あれは。夢だ‥‥
自らに打消す。あのようなこと。ありえるはずがない――と。
主人であるオダンの、そのまた主人たる人が‥‥農奴にすぎない俺を‥‥あのように抱いてくれるはずがない‥‥
だが。アルデは、見開いた目で、宙にその人の姿を追い続ける。
雪でできたような人だった‥‥白くて‥‥冷たい‥‥
だが。昨日は‥‥温かかった‥‥
アルデは夜具の中で身体をまるめ、自らを抱きしめる。
夢だからだ‥‥
かつて。アルデは、幾度、そうして己を抱きしめてきたか。
育てられた村で母親の胸に抱かれる子を見たとき――羨望と、諦めのうちに――アルデは、自らを抱きしめた。
アルデに抱いてくれる人はいなかった。小屋の藁のなかで育った捨て子を抱いてくれるものは、己の腕以外――なかったから。
だが。今。アルデの記憶に生々しい。人の腕の温もり――
抱かれたい‥‥
もう一度‥‥抱かれたい‥‥
あの‥‥温もりに‥‥
‥‥あの、腕に‥‥胸に‥‥
夢でいい‥‥アルデは涙を噛み締め、目を、閉ざした。