双影記 /第1章−4
「教えてください‥‥俺は‥‥どうされるのか‥‥」
その日。アルデは卓上に並んだ皿に手をだすこともなく、身体を強ばらせてオダンに問いかけた。塔にルデスの訪いを受けて、数日がたっていた。
その間。オダンは朝夕二度の食事を運ばせ、アルデが食べる間、それに立ち会い、戻っていくだけだった。何かを命ずるでもなく、語りかけるでもない。
働かされることもなく鍵の下りた部屋に一日閉じこめられて、アルデのうちに不安だけが育っていった。
「‥‥何のために‥‥俺は‥‥買われたんです‥‥俺は、働きたい。働きます。小屋に、やってください‥‥」
アルデは必死だった。農奴が己れから主人に問いかける――差し出たことだった。鞭打たれる覚悟がなくてはできない。
だが。オダンは。陰の深い眼差しを向け、しばし、そんなアルデを見やっていたが、
「ラデールの所領に、農奴はいない。したがって、農奴小屋もない。ここで働くものは鞭で打たれることもない。みな、自ら望んで働き、それなりの報酬を受ける。金で買われてきたものは――お前だけだ」
「俺‥‥だけ‥‥」
呆然と。アルデはオダンを見た。
「だから‥‥顔を、塗られたのか‥‥」
呟くアルデの前に、オダンは一枚の紙片を取り出した。
「覚えているか」
「それは‥‥俺が買われたときの‥‥」
「証文だ」
そして無造作に破り捨てる。
「これで。お前は農奴ではない。お前を鞭打つものはもう、いない。望まぬことを、強いるものも、ない」
不意に。アルデの顔が歪んだ。
「そんな‥‥うそだッ――」
アルデは呻いた。卓の端をつかんだ両手に骨が白くうきでる。オダンはどこか哀しげに見える視線をすえたまま、沈黙する。アルデは張り裂けそうに目を見開き、ただ、震え続けた。
無言の対峙は、老僕ワルベクが皿を下げにきたときもまだ続いていた。手の付けられていない皿に、もの問いたげにオダンを見る。
「これはいい」
オダンの言葉に、そのまま立ち去る。
アルデの身体から力が抜けた。
「俺は‥‥ここを‥‥追い出される‥‥の、ですか‥‥」
途方にくれたように呟く、アルデの声が震える。
「ここに。いたいか」
オダンの問いに、白い影が脳裡をかすめる。
「‥‥いたい。‥‥ここで、働きたい‥‥」 アルデの視線がすがりつく。
「ここに、農奴の仕事をするものは不要だ。読み書きのできぬものに、仕事はない」
絶望に。アルデは呻いた。歪められた顔がうつむけられる。
オダンは口中に苦いものを噛み締める。
「学びたいか」
弾かれたように顔を上げるアルデに、つと、視線をそらし、オダンは立ち上がった。
「明日から。教えよう。そのつもりでいよ」
足早に。アルデに背を向け扉へ、歩く。
扉の外の薄闇のなかに立ったとき、オダンは低く、吐き捨てた。
「突放し。すがらせよ‥‥か‥‥」
眉間に深く陰を刻む。
「人はみな、御身の思惑のままに踊らされる。ルデス様‥‥恐ろしい御方になられたな‥‥」
塔の間での暮らしが一月にもなると、アルデのうちに外の世界への思いが、耐えがたいまでにふくれあがっていった。
疲れ衰えた身体が癒えるにしたがい、若さは活動を希求する。
狭いとはいえぬ塔の間でも決して十分ではないのは当然といえた。何よりその閉塞感がアルデを苦しめた。
でたいッ――
ここをでて、土の上を歩きたい――
風に吹かれたい。雨に、うたれたい‥‥
そして。アルデは歩き回る。壁をつたって。獣のように。
檻のなかの獣――それが、今のアルデだった。昼の間はオダンがいる。文字は覚えた。今は、書物を読み、そして、言葉を綴る。
そして――窓を、細い狭間の向こうに光る無窮の広がりを、ぼんやりと眺めやる。
オダンは気付く。日増しに、長く、度重なるようになってきたアルデの放心状態が何を意味するかを。
ふと。石板に向かう手が止まり――アルデの心は空を漂う。
オダンには何も、かけてやる言葉がなかった。ただ、アルデが自らそれを言い出さないことを、願った。
だが――
「なんで‥‥俺は、閉じこめられて、いるのですか‥‥」
その日。窓の外を鳥が飛んだ。
空を翔けた小さな影はアルデの視界を、その心までを切り裂いたか――
キリッ、と、胸を刺す痛みに。我に返ったアルデの口を思わず衝いてでた、言葉に、オダンは、一瞬、目を閉ざす。
「それに。答えることができるのは、ルデス様だけだ。いずれまいられる。自ら聞くがよかろう――」
夜。
更夜。
ヒタヒタ‥‥と。素足が石床を食む。
夜毎に、アルデは壁を経巡った。
広い円形の塔の間を、壁にそって歩き続けた。倦み、疲れ、睡魔に抗しきれなくなるまで。
その夜は。睡魔だけが近づこうとはしなかった。身体は既に、眠りを求めている。
ただ。気ばかりが昂ぶりつづける。
昼に、オダンがルデスの名を口にした――その結果がこれだった。
甦った思いが、アルデを炙り立てる。
その時。ふと、アルデの足がとまった。
そこに。膝をつき――やがて、ゆっくりと腹這う。
冷たい、石床に手を、頬を、押しあてる。 ここで‥‥あの方は、俺を‥‥
再び。夢の、訪れることを願って。
夢は――
七日後に。訪れた。
その時も。アルデは石床に横たわっていた。かすかに。石床を伝う響きが近づいてくる。
足音‥‥
アルデは頭を上げた。こんな、夜中に誰が‥‥
震え見守るアルデの前で、扉の鍵が外される。その。かそけき音――
静かに扉が開く。その向こうの闇に立つ仄白い影――
「来い。アルデ」
影が。命じた。
かすかに笑いを含んだ、低くかすれる、靜かな声が――
アルデは弾かれたように立ち。扉に駆け向かった。
影はすでにそこにいなかった。誘うように仄白く、闇のなかを下りていく。アルデは追った。
暗く寝静まった回廊の闇を、流れるような足取りで進むルデスを追って、突然、アルデは風のなかにいた。
「ああ‥‥」
アルデは立ちすくむ。足裏を湿った土の感触がしみいる。清冽な夜気が押し包み、流れ去る。アルデは頭をめぐらせた。
深い木立が闇に沈む。梢の上に仄明るく満天の銀砂が頭上をおおう。
だが。ルデスの姿がなかった。
喪失感に足元をすくわれ、アルデは小さくよろめいた。背後に。今出てきた扉がある。そびえる壁面が長く、左右に延びる。
右を見、左を見、そこに近づく騎影に、その仄白い頭髪に、膝が崩れかける。
すがりつくように歩み寄るアルデに、騎乗の影が手をさしのべる。おずおずと差し上げるアルデの手が、力強く引き上げられた。
一瞬。天地が眩む。
そして。アルデは鞍の前輪にいた。背に、その人の胸がある。アルデの背が、四肢が強張る。
ルデスはその腰に腕をまわし、引き寄せた。
力強い腕に抱きかかえられ、アルデは小さく喘ぐ。
「力を抜け。馬の揺れに身をまかすのだ」
しだいに速く、馬を歩ませながらルデスがささやく。温かい息が耳をなぶる。
言われるままに力を抜く、アルデの背が厚く揺るぎない胸にもたれかかった。
冷たい夜気が顔を、胸をうつ。
夜気にうたれ冷たく冷えていく身体のなかで、ルデスにもたれた背中が、腕の下の腰が、そこだけが、カッと熱い。
その。熱さが、心地よい。
アルデは。陶然と。馬の揺れに身を任せていた。いつか。見開かれた双眸も夜に融ける。
ふと気付くと、馬は立ち止まっていた。
なだらかな丘の稜線。はるかに黒く、森がわだかまり、館の屋根が鋭く夜空を切取る。
ルデスが手綱をとる腕を上げた。
「向こうに。オーコールの城がある。そこに。お前の、兄がいる」
その言葉の意味が。アルデの胸に落ちるまでにしばらくの時がかかった。
アルデの喉が鋭く鳴り。四肢が強張る。
「この国には伝えがある。双生の王子は国を滅ぼす‥‥生まれれば弟は秘かに、殺される。お前だ――」
アルデの上体が傾いだ。
身を捩って逃れようとし、腰を抱えるルデスの腕に爪を立てる。腕は鉄の枷のように弛みもしなかった。
やがて。荒い息を弾ませ、アルデは馬の頚の上に突っ伏した。
「俺は‥‥殺されるのか‥‥」
ルデスは答えなかった。
手綱を放した腕を回し、アルデの胸を抱え起こした。
そのまま、脚だけで巧みに馬体をあやつり、速駆して丘を下る。
鋼のような腕で、その胸に抱え込まれたまま、アルデは声もなく泣いていた。時おり、瘧のように身を震わせながら。
騎影は丘を駆け下り、麓をかこむ深い森に呑まれた。
見開かれた、アルデの暗い双眸は何も映さない。
いつか。周囲を閉ざす闇を抜け、空地に出ていた。梢の闇に囲まれた仄明るい夜空の下、一塔の砦がそびえ立つ。
「何故、塔に閉じこめるか――お前はオダンに聞いた。それ故に、わたしは来た。それに答えるためにな。お前が人目に触れれば、わたしはお前を抹殺せねばならぬ。王と同じ顔を持つものがいると知れれば、それだけで、国は揺らぐ――」
「あなたは‥‥みな‥‥知っていたのだ‥‥俺が‥‥」
「そうだ。わたしがオダンに命じ、お前を連れ戻させた」
「なぜ‥‥」
それにも。ルデスは答えなかった。ただ、
「わたしから。逃れたいか――」
「‥‥わからない‥‥」
根こそぎ、気力を奪い去られたようなアルデの応えだった。ルデスは低く笑う。
「お前は。正直だ。どのように育ったか、それを考えれば驚くほどに――人に媚びもせぬ――」
そして。アルデを扼していた腕が緩められる。
流れるような動作でルデスは馬から降り立った。
支えを失ったアルデの身体が馬上に傾ぎ、落ちかかる。ルデスが腕の間に抱き止めた。
「お前は。何を望む。わたしに、何がしてほしい。望むままにしてやろう」
「前は‥‥あなたに‥‥抱いて‥‥欲しかった‥‥初めての時のように‥‥」
声は弱く、聞き取りがたいほどにか細かった。力なく崩れようとする身体を腕の間に支えながら、ルデスはなおも聞く。
「今は――」
「わからない‥‥」
風が吹く。夜気が流れる。
流れ落ちるルデスの髪をなぶるように、梢を騒がせて、芳醇な森の匂いに包み込む。
「抱いてやろう――」
靜かな、ルデスの声だった。
砦の塔は、重く湿った空気が淀んでいた。
長い間、誰にも踏み荒らされぬまま、うっすらと敷き積もった埃を踏み、ルデスは階上にアルデを引連れる。
最上の四層に至って、ようやくにその脚は止まる。
砦の司令官の居室として使われていた四層の寝房に、ルデスはアルデを連込んだ。
房の一遇をしめる大きな寝台に、アルデの身体が竦んだ。
「怖れるようなことはない。お前の望むように、抱くだけだ」
外套を脱ぎ落としただけでルデスは寝台に上がった。頭板に背をもたせ、無言のままにアルデを待つ。
長い。逡巡の後で、アルデは寝台に歩み寄った。
ルデスの腕が伸び、アルデを引き寄せる。
片膝を立て、投げ出された脚の間に、アルデはぎこちなく、抱え込まれた。
「力を抜け――」
苦笑を含んで穏やかなルデスの声音だった。
ゆっくりとアルデの身体がほぐれていく。
ああ‥‥
アルデの口から小さく溜息がもれる。
あの時と‥‥同じだ‥‥
‥‥いつまでも‥‥こうしていたい‥‥
あの時は――
目覚めると既に、ルデスの姿はなかった。一人、寝台に横たわり、かつてない、激しい寂寥にとらえられたのではなかったか。
やがて。
「眠れないのか――」
ルデスの声に、
「眠ったら‥‥あなたは‥‥いって、しまう‥‥」
「いや。今夜は、わたしもここで眠る。お前さえ怖れねば、服を脱ぎたいところだ」
おずおずと、アルデは身を退らせた。
「服を‥‥脱いで、ください‥‥」
ルデスは、苦笑にも似た溜息に、空気をふるわせた。
寝台をおり、服を脱ぐ。シャツと下穿だけになり大きく伸びをすると、寝台に戻り夜具の間に身を横たえた。
「こい――」
肘枕で横臥したルデスの懐に抱かれ、その胸に顔を寄せる。背をさする温かい手に、アルデは、いつか眠りに落ちていった。
物音に。
アルデは目覚めた。薄闇の中に。
傍らに、眠る、ルデスの姿に温かいものが身内を充たす。
「ルデス様‥‥」
自らに確かめるようなその声に、
「目覚めたか。――窓を、開けてくれ」
板戸のすき間から漏れる白い光に、アルデはルデスの傍らからすべり出た。
戸を跳ね上げると、眩しいほどの光が流れこみ、アルデは目をしばたく。
寝房の外に声が訪った。
「ルデス様――」
「入れ――」
ルデスの声に、扉が開く。一歩を歩み入ったオダンがルデスを見、アルデを見て目をすがめた。
「腹が空いた。持ってきてくれたか」
「ここに――」
オダンは片手に下げた鞍袋を上げた。
「二人分か――」
「アルデ様が消え、ここに朝食をもてと置き手紙があったのです。当然のことに――」
「もう。説明はいらぬか――」
「話されたのだな――夜駆けしてまいられたか。ここにはいつまで――」
応えながら片隅の卓を引き出し袋の中のものを並べる。
「明後日。王は何もいわぬが、まわりのものがうるさい。そうそうオーコールをあけられぬ。それにしても。それほどにわたしは野心家に見えようかな――」
「御身に野心があろうがなかろうが、御身にはそれだけの力も、血筋もある。いずれをも持たぬ野心家どもには腹立たしいことでしょうな」
ルデスは鼻先で嗤った。オダンは。窓際に立つアルデが王という言葉に身を震わすのを見た。
「王には信望がある。それを無視できるほどに、わたしは無謀ではないが――」
ルデスはアルデに視線を送った。
「卓につけ。食べよう」
ぎくしゃくと、アルデはオダンの引いた椅子に腰を下ろす。
「伝えさえなければ――わたしは王弟たるお前と同じ卓につくことは許されぬものだ。お前の許しを受けねばな――」
パンを裂き肉を切り分けながらルデスが低く笑った。オダンはむっつりと杯にワインを満たす。目の前に置かれた杯を強ばった顔で見つめていたアルデが低く、呻いた。
「では‥‥あれは‥‥」
「そうだ。夢などではない。したがって。お前は見極めねばならぬ。己れが何を、望むかを――」
「何を‥‥」
双眸に困惑を刷き、アルデはルデスを見つめる。
「急ぐには及ばぬ。この辺りには人も訪れぬ」