双影記 /第1章−5



 古び、廃されて久しい、砦の名をロッカといった。
 ルデスはなお二夜を砦に泊り、オーコールに発った。
 その最後の夜――
 昼の間。館の塔の間にも出入りしていた老僕、ワルベクをともない訪れていたオダンも館に帰り、アルデはルデスと二人、四層の寝房にいた。
 ワルベクの手で清め、整えられた房内に埃の匂いはもうない。暖炉には火が入れられ、赤く、あたりを照らしている。
 その前に放恣に横たわり、ルデスは揺れる炎を見入っていた。
 声をかけることもはばかられて、アルデはただ黙然とその背中に見入る。
 昼の間、ルデスに乗馬を習っていた、その時の落馬で、身体のあちこちが痛む。疲れてもいた。早く休みたい――
 だが、ルデスは寝ようという気配も見せなかった。
 やがて。
「――少しは、見えてきたか――」
 ルデスの声に、アルデの身体に細やかな戦慄が走る。
 何が――
 それは問うまでもない。
「‥‥あなたは‥‥前に‥‥答えてくれなかった‥‥」
 苦しげなアルデの声はか細くかすれる。
 ルデスの背が寝返りをうち仰向けられた顔のなかで淡い双眸が赤く、炎をうつす。
「なぜ‥‥俺を‥‥連れ戻したか‥‥」
 ルデスは無言だった。表情のない顔の上で炎の影が踊る。
「あなたは‥‥俺に‥‥何を望ませたい‥‥」
 その言葉に。炎を映したルデスの双眸が鋭く光を弾く。一瞬、のことだった。
「とりあえず――お前の望み得るものは、ふたつある」
「‥‥ふたつ‥‥」
「ひとつは。ニルデアを離れ、その名も知らぬ異境で生涯をおくる――」
 アルデは。光の凝ごった双眸を向け、押し黙る。つづく言葉を待って。
 ルデスは言葉を切った。その後を続けようとはしなかった。アルデは待った。
 暖炉で薪がはぜる。
 沈黙のうちに。時が降り積む。
 ルデスの双眸は何も――語らない。
 不意に。アルデの顔が歪んだ。
「‥‥そうしたら‥‥二度と‥‥あなたに、あえない‥‥」
「そうだ――」
「‥‥もう‥‥ひとつは‥‥」
 アルデの声が震える。
 ルデスは。
 一瞬その双眸に陰を刷いた、それを隠すように顔を背ける。
「お前が――王となることだ」
 時が。止まった。
 息をすることさえ忘れて。アルデはルデスを、その背けられた横顔を食い入るように見つめる。
 やがて。大きく喘ぐ。
「そんな‥‥できるわけが‥‥」
「お前は――王の双生の弟だ。同じ血を分け持つものだ。捨てられたのがお前でなくば、お前は王として、このニルデアに君臨していた――」
「そんな‥‥俺は‥‥ただあなたと、ここで‥‥このまま‥‥」
「無理だな」
 にべもない、ルデスの言葉だった。
「このようなことはいずれ知れる。王と同じ顔のものを匿っていると知れれば――わたしは破滅だ。何より、今のままではわたしの身がもたない――」
「‥‥あなたの‥‥」
 いつか。凝としてルデスの双眸が据えられている。
「わからないか。わたしは。男を嗜むのだ。お前の身体は。わたしを――そそる――」
 戦慄が。アルデの身体を貫いた。顔から血の気が失せる。唇がもの言いたげに震えた。
 言葉には。ならなかった。
 ルデスは顔を、背けた。
「ニルデアを出ろ。やはり――それ以外にはなかろう。オダンを付けてやる。生涯、困らぬだけのものも、持たせてやる。ここでのことは、全て。忘れてしまえ――」
 床には、ワルベクによって運び込まれた雪豹の毛皮が敷かれていた。
 白い毛皮の上に散り敷いた、ルデスの髪は艶やかに、金属的に輝く。
 まるで。銀の糸のようだ‥‥
 アルデは。不意に、そんなことを、考える。
 眉の上で切りそろえられた前髪は横に落ち広く高い額が露になっている。
 気品に満ちた鋭い顔貌は――あくまで冷たく、静もっていた。だが――
 離れたくない‥‥そばに、いたい‥‥
 突然沸き上がった狂おしいほどの思いに、アルデは立ち上がった――
「お前はもう休め。わたしはここで眠る」
 アルデの思いを断ち切るようにルデスの乾いた声が響き、アルデは凍りつく。
 やがて。緩慢に寝台に向かう――その、脚が止まった。
 振り返る。その先に、目を閉ざし横たわるルデスの優美な肢体がある。
 アルデは、戻った。
 傍らに――膝をつき、広い胸に己が手をそわせる。
「‥‥あなたは‥‥俺を‥‥王にするために‥‥連れ戻させたのだ‥‥」
 ルデスの目が、開かれた。
 淡い。煙るような双眸がアルデを見上げる。
「お前は――後悔する――」
 どこか、苦しげなルデスの声音だった。
「お前は。地獄を見ることになる‥‥」
 その言葉は、だが、低くかすれ、アルデの耳には届かなかった。アルデは――
「かまわない‥‥」
 ルデスの胸に顔を寄せ、横たわった。
「俺は‥‥かまわない‥‥」
 刹那。ルデスの顔が、険しく歪む。
 アルデは待った。ルデスの手が己れを抱き寄せるのを。
 ルデスは、動かなかった。脇に投げ出された腕は、アルデの背に回されようとはしなかった。
 アルデは身動ぎ、上体を起こす。ルデスは。無表情に、視線を宙に据え続ける。
「お前は――何も。わかってはいない」
 やがて、かすれた声が、低く呟く。その、不思議な韻律のある声に、アルデは胸奥を震わせる。そして、立ち上がり、着ているものを――脱ぎ落とした。
「あなたの‥‥抱きたいように‥‥抱いて、ください‥‥」
 淡い双眸が向けられた。冷ややかに。無感動に。
 やがて。何かに強いられるように上体を起こしたルデスの手が、アルデの股間にのびる。
 アルデの身体が、震えた。股間のものをつかまれて。次にくる、苦痛を思って。
 だが。苦痛は訪れなかった。代わりに――
 不思議な痺れが、股間に生じる。
「ああ‥‥」
 それは。甘美ですらある痺れ――だった。
 耐えがたいまでに己れをとろかすその痺れに両の脚が震える。足裏から吸われるように力が萎え、膝が崩れて――ルデスの腕に抱き支えられていた。
 いつのまに立ち上がったのか、片腕にアルデを支えた、ルデスの手はなおも股間にうごめく。
「このようにされるのは、初めてか――」
 いつか。アルデの腕はルデスに回され、その身体にしがみついていた。
 甘美な痺れは、腰を咬み、熱いうねりとなって喉元にせり上がる。
 アルデは喘いだ。
 かみ殺す息が弾み、乱れる。
「あ‥‥あう‥‥」
 一瞬、仰け反った頭が、ルデスの胸に押しあてられる。しなやかなその首筋に唇が落ち、ゆっくりと這い上った。崩れようとした身体を支えていた腕は背筋を滑り――
 不意に、アルデの身体が強張る。
 忌まわしい記憶に――
 そこのまわりをゆっくりとなぞるルデスの指に。じわりと、身体の中に押し入ってくるその感触に。
「力を、抜け――」
 低く、耳元に声がささやく。
 アルデは呻いた。耐えがたいまでに熱い高まりとなった痺れに下腹がうねる。
 苦痛にもにた快感に苛まれ、アルデは悶えた。
「たすけて‥‥ゆ、るして‥‥」
 わけもわからず、アルデは口走っていた。ルデスにしがみついた手がその背をかきむしる、刹那――股間から眉間に貫くような熱痛が走り――意識が白熱する。
「――――ッ」
 滾り立ったものを股間から迸らせ、アルデは、ルデスの腕のなかに崩れ込んでいた。
 ゆっくりと胸を喘がせる身体を、ルデスは静かに横たえた。
 陶然と、視線を宙にさまよわせるアルデの眦からとめどなく涙が流れ落ちる。
 何故の涙か――
 いや。自らが泣いていることすら、アルデは意識していなかった。
 かつて味わったことのない、けだるい喪失感のなかにうっとりと、浮遊する。
 ふと気付くと、ルデスの顔が寄せられていた。唇が、舌が、やさしく涙をすくい取る。
 アルデが顔を向けると、す、と離れた。
 追うように、アルデは淡い双眸を、顔に散りかかる白金の髪の間に見上げた。そして、うっすらと、唇に微笑を浮かべる。
 その、唇に。ルデスの唇がかさねられる。歯を割って差し込まれる熱い舌が、アルデの舌を、絡めとる。
 激しく吸い上げられ、アルデが喘いだ。
 疼痛にも似た痺れが、再び股間を襲う。
 自らも着衣をとり、全裸となったルデスの手が、膝が、アルデの脚を割り開いていく。
 手はなめらかに内股を撫で上げ、再びそれをまさぐり煽り立てていく。
「あ‥‥」
 甘美な期待にアルデの眉間がかすかに歪んだ。
 熱い疼きが腰をとらえ、前にもましてうちから炙り立てる。
「ああ――」
 胸が‥‥苦しい‥‥
 喉を、激しく喘がせながら、アルデは夢見るように、思った。
 もっと‥‥
 大きく仰け反り、唇をわななかせる。
 ‥‥もっ‥‥と‥‥
 四肢が、小刻みに痙攣する。指が、敷き詰められた毛皮をかきむしる。不意に腰が抱え上げられた。
「ヒッ‥‥」
 熱く、押し入ってくるものに、アルデの喉が鳴った。
 ルデスが腰を進めるたびに、アルデの首が激しく左右に打ち振られた。
 だが。アルデは声を上げなかった。
 息を求めるように大きく開かれた口からは、激しく、喉をこする息遣いが漏れ出るだけであった。
 眉間に深いしわを刻む、ルデスは。目を閉ざし苦痛に耐えるアルデの端正な、王と同じ顔を凝視しつづけた。
 やがて。ルデスの、金属のような双眸が揺らぎ、薄く閉ざされた。引き結んだ唇にかすかに息が漏れ、張り詰めていた背中が、弛む。
 ルデスは果てた。
 アルデの股間でいきり立っていたものも、自ら放ち萎え果てていた。
 ルデスは静かに身体を離した。
 肩に、昂ぶりの残滓が揺曳する。そのまま腰を下ろし、立てた片膝にあずけた腕のむこうにアルデを見つめた。目を閉ざし横たわる、アルデは何を感じているのか――
 ただ。苦痛だけなのか、その表情からはうかがい知れなかった。
 しだいに静まっていく胸の喘ぎを噛み締めるように、ひそめられた眉に、ルデスは心の見えぬ煙るような双眸を向け続ける。
 降り積む沈黙のなかに、いつか、アルデは靜もっていった。
 やがて。
 かすかに身動ぎし、瞼を上げる。暗い双眸が何かを求めるように宙をさまよい、ルデスの上に止まる。
 向けられる淡い双眸に。安堵の色を刷き、アルデは顔を歪めた。
 それに促されるようにルデスは身体を起こした。床からすくい取るように抱き上げ寝台に運ぶ。
 夜具のなかでその懐に抱かれ横たわったとき、アルデはまた、涙を流した。
 静かに、とめどなく、泣き続けるアルデの背を、ルデスはさすり続けた。





 翌朝。
 塔を訪れたオダンは、どこか放心したように己れを迎えるルデスに、眉をひそめた。
 窓に向かうアルデは視線を向けることもしない。
「オダン。以後――我らはこの御方を王弟として遇する。お前は。王弟として備うべき全てを、お教えせよ」
「ルデス様――」
 オダンの声は、悲痛にかすれ絶句する。
 思わず走らせた視線の先に、ルデスを見返った、何かに打ち拉がれたようなアルデの顔があった。
「アルデ様がお待ちだ。卓を整えよ」
 冷ややかに命じるルデスに、オダンは咎めるような視線を返した。それでも手だけは命ぜられるままに卓を整え始める。
 並べられていく皿やパンを見ながら、
「俺は‥‥」
 言いかけたアルデの言葉は、だが、ルデスに鋭くさえぎられる。
「俺、ではない」
 アルデの口元がわなないた。
「わ‥‥たしは、いやだ‥‥こん‥‥このような‥‥」
「では。ニルデアを出るか――」
 アルデは押し黙った。骨の浮き出るほどに握り締めた両の拳を震わせる。ルデスを見つめる双眸に、滾る光は哀切だった。
「卓につかれよ」
 ルデスに促され、強ばった足取りで腰を下ろしたアルデは、なお立ち続けるルデスを、見上げた。
「あな‥‥お‥‥前も‥‥かけ、よ。‥‥共に、たべてく‥‥れ‥‥」
 ぎこちなく途切れる言葉は苦しげだった。ルデスは優雅に一揖し対面の椅子についた。
 重く、押し黙ったままの食事が終ったとき、アルデには自分の食べたものの味がわからなかった。いつ食べ終ったのかも、わからなかった。なかば自失したように、ルデスを見つめる。
「下がらせていただいてよろしいか。もはや、オーコールに発たねばならぬ」
 アルデはかすかに身を震わせた。
「許‥‥す‥‥」
 ルデスを送ったオダンが戻った時、アルデはまだ卓についたまま、宙を見据えていた。
「アルデ様――」
 オダンの声に、凝ごっていた何かが融け解けた。アルデは両手で顔をおおった。
「俺は‥‥そばに‥‥いたいだけだ‥‥」
 オダンは衝き上がってくる暗澹たる思いをかみ殺した。
「悪いことは申さぬ。御身は、この国を出られよ‥‥」
「‥‥いやだ‥‥」
「なお‥‥これ以上、傷つき、苦しまれたいか‥‥」
「そばに‥‥いたい‥‥。あの人は‥‥抱いてくれる‥‥やさしい‥‥」
 オダンは低く吐息した。
「そうだ。ルデス様はこよなくやさしくなれる御方だ。だが又、限りなく、冷酷にもなれる――御方だ。戦場でのルデス様を見れば、御身にもそれは知れようが。このままここにいれば御身もいずれは戦場に立たねばならぬ。剣を手に、冷酷たらねば――ならぬ」
 アルデが顔を上げた。濡れた頬が鈍く光る。
「考えては、おられなかったか。王弟たるとは支配する立場に身を置くこと。そして支配とは、人の血によりて購われる。己れの。また、他者の――」
「冷たい‥‥それは知ってる‥‥でも、俺には‥‥温かい‥‥」
「オーコールにおられるは、奥方ばかりではない。御身と、同じことを言うものを――少なくも一人は、知っている」
 弾かれたように、アルデが立った。椅子が倒れ、虚ろに響いた。
「あの御方を、追われても無駄です。ルデス様の心を、とらえ得るものはいない。あの御方の心は――既に、とらわれている」
「誰に‥‥」
「誰――なのか。何、なのか――」
 オダンの言葉は吐息となって重く軋んだ。
「御身は。まだお若い。この地を離れ――お忘れになることだ」
 アルデの双眸に滾る光が薄れて、消えた。倒れた椅子を起こし、落ち込むように坐る。
「お前は‥‥命ぜられた。わたしを、教えよ、と‥‥教えてくれ‥‥何でも‥‥」




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