双影記 /第1章−6
昼の間は、オダンがいた。
習うことはいくらでもあり、時は、瞬く間に過ぎる。慣れぬことに疲れ切った身体は夜を貪り、泥のような眠りのなかに時を忘れた。
身体が、慣れ始めた頃から、アルデの上に、夜が、戻ってきた。
長い――夜が。
風の音が砦を満たし、アルデを包み込む。
暖炉で爆ぜる薪の炎は、アルデを温めてはくれなかった。蹲る、アルデの肌を焦がすほどに起こり立った炎の前で、アルデは身を震わせ、己れを抱きしめる。なぜ‥‥
‥‥これほどに、寒い‥‥
かつては。一人であることが、救いですらあった。このように、一人であることに、その空虚さに、苛まれることはなかった。
自らに問いかけながら、アルデはその虚しさに、空ろな笑いを噛む。
ルデス‥‥なぜ、傍にいてくれない‥‥
わかっていた。わかってはいても、なお、アルデは問わずには、いられない。
そして、まさぐる。
自らの肌を――
――肩を、腕を――腰を――
ルデス‥‥
自らの肌に刻まれた、その手の跡を、たどるように――アルデの手は、いつか、己自身を、握りしめていた。
ルデスの手がなしたように、揉み――しだく。きつく――ゆるく――自らの手で果てたとき、だが、アルデは知らされた。
足りない‥‥
かつて、苦痛だけで充たされてきたそこに穿たれた、大きな空虚を――
ルデス‥‥
涙を噛む。アルデは身体を二つに折り、己れ自身を握りしめた。
早く‥‥きて‥‥
祈るように――
その朝。
窓からその姿を認めたアルデは、転げるように塔の基層に駆け降りていた。
朝日に輝く髪を風にうたせ砦に乗騎を寄せたルデスは、流れるような動作で降り立ち、自ら扉を開け迎え出たアルデに優雅に一揖した。
「ルデス――」
頬を上気させ駆け寄ろうとしたアルデは、つと、向けられた淡い双眸に射竦められたように立ち止まる。
随従するオダンとワルベクが三頭の馬を引き塔のなかに消えた。
「どうなされた」
ルデスの乾いた声が問う。
「毎日‥‥日を、数えていた。一月――たった」
アルデの、その声音に含まれたものに、一瞬、ルデスの眉が寄せられる。
「一月か――では、さぞかし上達されたであろう。ワルベクが支度を整える間に、まずは剣を、お見せいただこう」
無表情に腰の剣を抜き放つ。
「オダン――」
鋭く呼ばれてオダンが現われる。
「アルデ様に剣を――」
オダンは。ルデスからアルデへと視線を往復させたが、従おうとはしなかった。
「いや。まだ、お早い。御身の手にあうものではない」
その言葉に、ルデスの口がくっきりと嘲嗤を刻む。
「一月もありながら、早いだと。その間、何をしておられた。寝てでもおいでだったか――」
「ルデス様――」
めずらしく怒気をにじませたオダンの声に、だが、ルデスはなおも押しかぶせる。
「育ちが農奴とあっては期待するほうが無理か――」
それまで。矢継ぎ早に浴びせられる刺のある言葉を、半ば呆然と聞いていたアルデの顔から血の気が退いた。
「オダン。わたしの剣を――」
小刻みに身体を震わせ、アルデは言葉を押し出す。ルデスはみなまで言わせなかった。
「お前の剣を、お貸しするがいい。オダン」
砦の前の草地に。
剣を手に対峙したアルデは、だが、そのまま凝固した。
剣を構えるでもなく、半身を向けて立つだけのルデスに、一瞬にして口の中が、干上がる。その、ルデスの全身から、白い炎が揺らめき立つか、額に、背に、冷たい汗を滴らせながらアルデは一歩を踏み出すことができなかった。
「どうなされた。この身を傷つけるとお気遣いか。であるなら、無用のことと申し上げる。遠慮なくまいられよ」
あからさまな揶揄に、カッとアルデの頬に血が上る。だが。それでも、アルデには踏み込めなかった。
息が、熱かった。
激しく、身体が震える。目が、眩む‥‥
鋭く。ルデスの口で舌が鳴った。
「もうよい」
剣を収め、一顧だにせずに、砦のうちに歩み去る。
アルデの膝が崩れた。全身を冷たい汗で濡らして、草の上に坐り込む。
歩み寄ったオダンが、その手から剣を外した。
「気落ちなされるな。ルデス様はニルデア随一の剣士。剣を取ってようやく一月の御身が、手がでずとも、やむなきこと」
「違う‥‥」
アルデは呻いた。
「それでも‥‥わたしは、打ち込むべきだったのだ‥‥なのに‥‥できなかった‥‥彼は、蔑んでいる‥‥」
「アルデ様‥‥」
「行ってくれ‥‥今、戻りたくない‥‥」
俯けた顔を、アルデは両手で掩った。
絶望に震える肩を見下ろす、オダンはかける言葉もなく踵を返した。
その姿を求めて、オダンが塔の四層に上がったとき、ルデスは、煙るような双眸を天に向け、窓際に、放恣なさまで腰を下ろしていた。
「ルデス様‥‥」
声に、僅かに視線を向ける。
「何故。あれ程に責められる。この一月、どれほど御身を心待ちにされてきたか‥‥お分りにならぬ御身ではあるまい」
沈痛な声に、
「くだらぬことを言うな。かつて、お前は言ったな。憎悪だけが。あれを支え生かしてきたと。だが。人に媚びることはなかった。それが、今はどうだ。わたしにすがりつくことだけを考えている。あれが。王の弟とは――」
「――左様に、仕向けられたは御身だ」
ルデスはかすかに苦笑を這わせた。
「そうだ。愚かな感傷だった。したがって、これより改める。あ奴には憎悪の念を取り戻させねばならぬ」
「酷いことを‥‥だが、まことに、愚かな感傷だったのか――御身は以前申されたな。突放し、すがらせよと‥‥このような結果を招くと、読めぬ御身とは思えぬ。幼子のような心をお持ちだと、申されたは御身だ――」
「全て。この身の思惑の内だと?」
「違うと――言われるか!」
思わず。怒気を走らせるオダンに、
「それを――あ奴に言ってやれ。わたしの手間がはぶける」
あくまで静かに。ルデスは言い放つ。
オダンの肩から力が抜けた。
「わたしには――できぬ。そのような‥‥」
不意に。ルデスの目元が和んだ。
こよなく。優しくなれる――己れが、その言葉を吐いたのはいつだったか、オダンはかすかに身を震わす。
「わかっている。お前に、それを、求めてはいない。最後まで――ついていてやるのだな。おそらくは。お前だけだ――」
「ルデス様‥‥」
苦しげな声は、泣いているようにさえ聞こえた。
「御身は‥‥何故、このようなことを‥‥」
「わたしは。愚劣なまねをしている――わかっている。見限って――よいのだ。オダン。恨みはせぬ。見限られて、当然だ。咎めは、しない――」
風の音だけが。房内に充ちた。
その日、一日、さまざまに試されて、アルデは打ちのめされた。
矢継ぎ早なルデスの問いに絶句し、騎乗する馬から落ち、弓射において的を外し、そのつど、侮蔑に充ちた視線を浴びせられ――
日が西に傾く頃、書斎にしつらえられた二層の一房に大卓を間にアルデはルデスと対座していた。
アルデによって書きとられた数葉の紙片に目を落としたルデスは、そのまま窓の外に視線を流し沈黙する。
無言で静もった端正な顔からは、いかなる感情も読み取れなかったが、アルデは戦慄した。
「‥‥下手なのは‥‥わかっている。綴りも‥‥まちがえている‥‥」
「よくおわかりだ。王であれば、自ら領する土地や人の名を、綴り過つなど――ありえぬことだが。御身は王ではないし、習い始めてまだ一月でしかないとなれば――下手なのも当然のこと――」
「ルデス‥‥」
明らかに反語と取れるルデスの口調にアルデは顔を歪めた。肩を落とし俯く。
そのアルデに視線を返す。ルデスの声は冷たい。
「そろそろ、日も落ちる。我らはこれで館に引き上げたいが。よろしいか」
その言葉に弾かれたように、アルデの顔が上がった。
「泊まっていくのではないのか――なぜだ、わたしが‥‥だめだからか‥‥」
「館の主たるもの。館に休むは当然のこと」
「でも――この前は――」
「この前は――御身が望まれた。おお。では、今宵もお望みか。この身に伽をせよと。お命じになるか」
「‥‥伽?‥‥ルデス?‥‥」
「わたしは種馬ではない。尻を振る牝馬に、そうそう乗ってはおれぬ。が。命じられれば、否やは言えぬ」
椅子を蹴立ててアルデは立ち上がった。
暗い双眸に光が滾り立つ。全身が、瘧のように震えた。
言葉はでなかった。喉が灼けつくように痛い。
「では。引き上げてよろしいな」
ルデスが立ち上がった。
アルデは喘いだ。
「だ‥‥めだ。許さ‥‥ない。許さな‥‥い。命じる‥‥命‥‥じる。伽を‥‥」
オダンとワルベクを帰し、夕の食事をすませると、二人は四層に上がった。
夕の間、ずっと無言だったルデスはこの時も、無言のまま、自らの着衣を脱ぎ落とした。
「ルデス?‥‥」
全裸になったルデスにかすかな怯えをにじませて、アルデが小さく呼びかける。
ルデスは応えなかった。ただ無言で前にでる。
押されるように、下がったアルデは、すぐに寝台に阻まれ、その上に腰を落とした。
ルデスはその前に膝立ち、襟元に手を伸ばす。アルデの手がその手首を押さえた。
「やめろ‥‥何を‥‥」
「御身は伽を命じられた。それもわたしのように男を嗜むものに――他に何があると、言われる――」
ようやくに。口を利いたルデスの声は乾いて冷ややかだった。
「違う‥‥ちが――うッ‥‥」
アルデは呻き、ルデスの手を振り払った。光を滾らせた双眸を苦しげにすがめる。
「横に‥‥なれ。わたしは服は脱がない」
その前から擦り抜けるように横に立ち、寝台を示す。ルデスは立ち、優雅な所作で夜具をはね横たわった。アルデはそれでも上着を脱ぎ、ルデスの横に滑り込んだ。
やがて、焦れた声を上げる。
「わたしを。抱け――」
ルデスは。ゆっくりと腕を回し、アルデを胸の前に抱きかかえた。自らも腕を回し、アルデはルデスの胸に頬をあてた。
静かな、鼓動が伝わってくる。
「――背中を、さすれ――」
ルデスはさすり始める。手の動きは優しかった。しだいに。シャツを隔てたルデスのぬくもりが伝わってくる。肌の――温もりが。
肌の温もり――だけが――
アルデは。細く息を吐いた。腕を支え、上体を反らす。そして、ルデスの双眸を見下ろした。
何も伝えてこない。何も、語ることをしない、淡い金の双眸を。
アルデは起き上がった。シャツを脱ぎ、下穿をとり去り、自らも全裸となって、命じた。
「最後にした時のように‥‥わたしを‥‥抱け‥‥」
その言葉に。
ルデスは見上げた。傍らに坐り暖炉の炎に半身を照らされ、深い陰を宿したその姿を。農奴であったときの酷使の跡をいまなお色濃く留めて痩せ細り、無数の鞭の跡を這わせる体を。見返してくる双眸は滾るような光を消し、鈍い悲しみを湛えていた。
ルデスは。脇腹に走る、ひときわ深い鞭の跡に指を辿らせた。脇から――腹に――
吸いつくように肌を嬲る指の先から、ゾクリと抉るような疼きが腰に走り、アルデは小さく喘いだ。
そのまま、指はねつく下腹を這い下り、焦らすように、ゆっくりと、折り敷いた脚の間に落ちていく。そして、
差し込まれた手の内にやんわりと握り込まれた時、アルデはたまらず、胸を喘がせた。腰から内股に痺れるような喪失感が走り――上体が崩れた。
かろうじて支えた腕の間に首を垂れる。
その股間になおも。手は蠢く。擦り合わせるように揉みたてられ、アルデは首を仰け反らせた。
乱れ始めた息に、喉が引きつる。
眉間を歪め、唇をわななかせ、アルデは堅く目を閉ざした。
痺れるような昂ぶりが股間に膨れ上がるにつれ、下腹に淫靡なうねりが生じる。
支えた腕が捩れ、やがて――
腰を擦り付けるように浮かせて、アルデは果てた。
「ああ‥‥」
啜り泣きにも似た呻きが唇からもれ、
荒く胸を喘がせる、アルデの双眸が空ろに見開かれた。
「ちがう‥‥これは‥‥ちがう‥‥」
昂ぶりの余韻とは別の震えがアルデの身体を走り抜けた。
「あの時‥‥お前は‥‥わたしの中に‥‥いれた‥‥」
「そう。だが、あれはお嫌なのではなかったか。以前、そのようにうかがったと思うが」
しれっと応えるルデスに、はじめて、アルデは突き刺すような視線を向けた。
「‥‥くれ‥‥」
声は擦れ、低く軋んだ。
「何と。言われた」
無表情に、ルデスは問い返す。アルデは唇を噛む。束の間のことだった。すぐに、力なく目を伏せる。
「入れて‥‥くれ‥‥わたしの中に‥‥お前のものを‥‥」
屈辱もあらわにアルデは身を震わせる。それは、自らは悟ってはいなかった、苦渋に満ちた短い生涯のうちでアルデがはじめて身に感取した、屈辱だった。
「では。そこに。四つ這いになられよ。犬のように――」
なおも己れを嬲る言葉に、アルデは絶望的な視線を上げる。
「‥‥前は‥‥そのようには‥‥しなかった‥‥」
淡い双眸はアルデの思いを弾き返して、冷ややかに静もる。
やがて。薄い肩が落ちた。暗い、双眸が伏せられる。緩慢に背を向け、アルデは四つに這った。
なぜだ‥‥
ルデスの前に股間を晒す、アルデは腕の間に顔を埋めた。歯を食いしばり、喉の奥に嗚咽を押し殺す。かつて。どれほどの男たちにこのように扱われてきたか。だが――
ルデスまでもがそれを求めるのか――胸が押し潰されるような痛みに、アルデは呻いた。
それでも。アルデはなお一片の信頼にすがりつく。
ルデスは‥‥ちがう‥‥
これまでの男たちとは違うと。そうでなくて、どうしてあれほどに優しかった――必死に、己れの胸に呟き続ける、アルデの思いを、だが、ルデスは無残に打ち砕く。前戯さえなく。アルデは、重熱い鋭痛に引き裂かれていった。
多くの男たちに慣らされたはずのそこが、抉り込まれるそれを拒み、裂け、新たな血を噴いた。激痛に、アルデは息を詰めてのけぞる。逃れようと投げられた四肢が無残に捻れ引きつった。
ルデスが己れを収めおわったとき、既に、アルデは半ば力つき、荒い息に胸を喘がせていた。そのアルデを、ルデスは容赦なく責め苛む。
熱い楔に繋ぎ止められた身体は、繰り返される重い衝撃に、悶える力さえ削ぎ落とされ、せぐりあげる熱痛に焼けただれた喉に悲鳴さえが絶える。打ち砕かれた思いのなかに、ただ、涙だけがとめどなくあふれ落ちた。
永劫とも思える時の後に、ルデスが果て、アルデはただ責め苦でしかなかったものが終ったことを知った。安堵はなかった。痛みはなおもアルデを苛む。
より――深い、痛みが。
身体が離れたときのままに、虚脱したように横たわるアルデを、その股間に流れ落ちるものを、ルデスは暗澹たる面持ちで眺めやった。
アルデの暗い双眸は闇をうつろう。
「‥‥なぜ‥‥して‥‥くれない‥‥」
空ろな声が微かに闇を震わす。
返る声はなかった。
「どうすれば‥‥して‥‥くれる‥‥」
細い声は微かな嗚咽を這わせる。
長い、時をおいて。声は返る。少しかすれた、不思議な韻律にアルデの心を震わす、低い声が――
「早く――王になられよ――」
アルデは。眉間に深いしわを刻み、きつく、目を閉ざした。
やがて。ルデスが寝台から降り立ち、離れていく。アルデは背中に、ルデスが衣服をまとう衣擦れの音を聞く。器物の触れ合う微かな音。ものが注がれる音――
戻ってきたルデスの手が濡れた布でアルデの股間をぬぐう。丹念に――なんの温かみもなく。そして、アルデの肩を抱え起こしその口に杯をあてがう。芳醇な匂いが鼻をつく。
アルデは強いられるままにワインを口に含み呑み下した。
それをすますと再びアルデを横たえ夜具をきせかけ離れていく。
たまらず、アルデは目を開いた。その視線の先に、一顧だにしない後姿を呑み、扉が閉ざされた。空ろな音を残し、新たな空虚を、アルデのうちに穿って――
翌朝、
オダンは、一人、二層の大卓の前に座すルデスに迎えられ、頬を強ばらせた。
小房の入口でもの問いたげに佇むオダンの姿に、その白晢の面が薄く苦笑を含む。
「何も聞くな。わたしは今から館に帰り休む。お前は。あれの望むままに――してやるがいい。それが、たとえ――」
言いよどむ、ルデスは言葉を継ぐこともなく、つと、視線を逸らして立ち上がった。そのまま、静かな足取りで、階下に歩み去る。
とり残されたオダンは立ち尽くしたまま、明るい窓の外に視線をさまよわせた。
どれほどの時を、そうして佇んでいたのか、オダンはふと、覚めたように頭をめぐらせる。いつか、遠ざかる馬蹄の響きも絶え、朝の森のざわめきがあたりを満たしていた。
己れを叱咤するように重い脚を運び、オダンが四層を訪ったとき、淀む匂いに夜をとどめ、そこはまだ闇に閉ざされていた。
何がなされたか、いまさらながらに悟らされたオダンは苦々と吐息をかみ殺し、窓を開け放つ。そして、かける言葉も見出せぬまま、寝台の横に立った。
長い沈黙ののち、
無言で立ち続けるオダンに、生気のない嗄れた声が問う。
「ルデスは‥‥」
「館に――帰られた――」
それきり、声は絶えた。
オダンは見出す。夜具のなかに俯せ、一夜にして面変わりした顔だけを向ける、アルデの双眸に凍て凝ごった光を。
静かな、そして重い、憎悪を――
沈痛なオダンの視線の前に、アルデは目を閉ざした。
かくして、オダンは知らされた。
ルデスが、その思惑を達したのを――
どれほどの時が、過ぎたのか――扉の音で、アルデは我に帰った。
人の気配。馬のいななき。
そして、階段を上がってくる苦行者に似た痩躯を暗澹と眺めやった。
ルデスの侍医オキルは、階段に腰を下ろし暗い視線を向けるアルデに気づき、謹直そうな相貌に、ふと、もの問いたげな色を浮かべる。何かを、問うことはなかった。そのまま、アルデの横を二層にあがっていく。水桶を下げたオダンがそのオキルを追った。
誰もが無言だった。
アルデにとって、長く――そして、短い時が過ぎ。二人は階下に戻っていく。
アルデは動かなかった。
いや。動けなかった。
やがて。オキルの声が流れてくる。
「だれもが勝敗は既についたと‥‥殿の伏兵が功を奏し、アルザロは崩れたった‥‥まさかゼオルドが‥‥だが、わずかな手兵で逆撃し、王に襲いかかったのです‥‥錐のように揉み込まれ、迎え撃つ間もなく王に肉迫した‥‥近衛はみな倒され王は単騎ゼオルドと戦うことに‥‥そして、王の剣が折れたのです‥‥乱戦のなかで、誰もが、なしようもなく、誰もが‥‥一瞬諦めたそうです。だが‥‥王はたすかった。剣が飛んできて、ゼオルドの首を跳ね切った‥‥殿の――剣でした‥‥」
淡々と語るオキルの言葉が途切れた。沈黙が澱り、風の音が込める。
「敵と‥‥渡り合っていた、その剣を投げられたのです‥‥ご自分を、敵の剣の前にさらしながら‥‥それが、四日前のこと‥‥まだ動けるような状態では‥‥ 明日、王が見舞いにまいられると報せがあって、じきに、館から消えられた‥‥ここに‥‥きておいでだったのだ‥‥わたしには、わからぬ‥‥殿はいったいどうされてしまったのか‥‥何を‥‥なされようと、いうのか‥‥カラフ様が亡くなられて‥‥あのお方が現われて‥‥」
途切れてはまた続く、オキルの声は感情を喪失したようにどこか虚ろだった。
「このまま‥‥このようなこと続けられたら、殿は‥‥この、ニルデアは‥‥」
問いかけるように、風に溶ける。
「あらぬ妄想だ。伝えなどに迷うな。あの御方を護るはカラフ様の御遺志でもある。我らが差し出るわけにはかぬ。お前は疲れている。従軍した上に、この、殿の負傷だ――早くとも明日、朝までは動かせまい。少し、休むがよい」
重い、オダンの声が諭す。
「だが――噂が。殿は――グレン・セディアの生まれ替わりと――‥‥」
「馬鹿な!――」
言下にすぎる、オダンの否定だった。
「あなたは、カラフ様とともに刑場にあられたのでありましょう――ご覧に、なられたわけだ‥‥」
「昔のことよ――忘れたわ」
「それほどに‥‥似ておられるか‥‥」
「オキル」
「噂にも、王家の黒髪があれば、生き写しと――」
「やめよ!――よいか。オキル。二度と申してはならぬぞ。殿の為を思うなら――」
「わかっております。わたしはどうかしている‥‥だが‥‥不安でならぬのです。殿は何故――このような企てを‥‥自らもいっておられたではないか――ソルス様は優れた御方だ――立派な王になられたと――」
「殿のお心を知るは――殿、お一人よ。我らはただ従うか――それとも‥‥」
「‥‥殿に‥‥背くことなど。できぬ‥‥」
風のなかに。声は絶えた。
やがて。
アルデは、緩慢に上体を起こし、立ち上がった。膝が崩れそうになる己れを壁に支え、再び二層に戻る。
大卓と椅子は隅に寄せられ、ルデスは倒れた場所にそのまま横たわっていた。寝房から運び下ろされた夜具に包まれ、ひっそりと静もる、そのことがさらに、傷の重さをアルデに悟らせる。崩れるように枕辺に座りこみ、蒼ざめた顔を見下ろした。そして、アルデは不意に、気付く。己れが意識もなく眠るルデスの顔を見るのが初めてであるのを。
オキルの与えた薬による、眠りのなかに静もる、端正な顔――その、面立ちの思わぬ優しさを。
なだらかな弧を描く豊かな眉、ほっそりとした輪郭、今にも笑みこぼれそうな唇――この顔が、どうしてあれ程に冷たく、猛くなれるのか。ただ、その双眸のゆえなのか。
目覚めていれば、胸を抉る嘲嗤を刷き、心を凍てさせるほどに冷然たる拒絶に静もる淡い金の双眸――その和むさまを、まだ一度としてアルデは見せられてはいないのだった。
だれか‥‥
この、面差しの優しさのままに、微笑みかけられるものが、あるのだろうか‥‥
我れ知らず抱いたその思いに、不意に灼けつくような痛みが胸底をえぐる。
かつて、オダンはいった。オーコールには奥方も、‥‥も、いるのだと。では、それらのものたちはルデスの、そのような笑みを与えられるのか‥‥己れを抱き締める、アルデの腕がよじれた。胎児のように身をまるめ蹲った、その肩を震わせ、すすり泣くように喘ぐ、アルデは悟る。胸を灼く熱痛に身悶える、それほどの妬ましさに、今更ながらに悟らされる。
己れこそが、それを、渇望しているのだと。
始めて会ってより、僅かに、十一ヵ月。日数にすれば一月にも充たぬのではないか。それなのに――
それほどに‥‥俺は、今、この男に身も、心も、縛られている‥‥
憎い‥‥憎い。憎い。憎い‥‥
その言葉に、自らを呪縛するように、
アルデは念じつづけた。