双影記 /第2章−1



 その日。
 ハソルシャのラデール家の城館は朝からただならぬざわめきに包まれていた。
 この日の夕刻、王が館を訪うという。
 前日、その報せのあってじきに、突然姿を晦ました当主ルデスが、オダンと侍医オキルをともないその朝遅く帰館した。
 隣国アルザロとの戦闘で負傷し、時ならぬ帰館をしたのが同じその前日。
 王の見舞いを受けるほどの重傷と、家士の間に囁き交わされる不安を打ち消すように騎乗する姿を見せたルデスだったが、自室にたどりついたとたん、オダンの腕のなかに崩れ落ちた。
「言わぬことではない。あれほど騎馬は無理と申し上げたではないか――」
 嘆息まじりのオダンの声に、
「このわたしに‥‥荷馬のひく台車に乗れと‥‥あのようなこと‥‥一度で充分だ。それに‥‥馬車を呼べば、人の目をロッカに集めてしまおうが‥‥」
「それこそが‥‥本音であろう。御身という御方は――それ程に‥‥」
 オキルとオダンのなすままに服を脱ぎ寝台に横たわったルデスは乾いた笑声をあげた。力のない声だった。
「終ってしまったことは申しませぬが――これ以上の無理は、なさらないで頂きたい――」
 いつになく怒りのにじむオキルの声に、ルデスは弱々しく苦笑する。
「すまなかった。案じさせてしまった‥‥もうせぬよ‥‥約束する‥‥」
 傷をあらため終ったオキルが退室する。
 それを追い踵を返したオダンの背をルデスの声が追った。
「今夕‥‥王が来着する前に‥‥必ず‥‥」
 オダンの脚が止まる。
「わかって。おります――」
 苦渋を噛み含む、声が応えた。






 ロッカ砦――
 ここにアルデが暮らし始めて既に十ヵ月が過ぎようとしていた。
 その間。ことある毎に、翻意を促してきたオダンの思いをよそに、アルデはとどまり続けた。
 初めは衰え果てていた身体も癒え、今ではしなやかに引き締まり若々しい力に充ちる。暗い双眸には知性の光を湛え、凍てたように感情を喪失した面に、人らしい表情を見せるようにさえなった。
 干天の大地が渇望した雨を貪るように、アルデはオダンによって与えられる全てを己がものとしていった。
 それでも。オダンには見える。アルデのうちに穿たれた、底深い空虚が――
 剣も、乗馬も、知識さえも、ただその空隙を埋めるための虚しいいとなみにすぎなかったのではないか。
 かつて。ルデスによって、その双眸に点された憎悪の光は、オダンの前にこそ薄れはした。だが。決して消えたわけではなかった。月に一度、ルデスが砦を訪れるごとに、その双眸に凍て凝る。
 そしていつの頃からか――オダンは悟った。
 アルデの双眸に凝る、強い光の意味するものを――
 憎悪せねばいられないほどに、それは、強く、激しい、渇望の念の迸りなのだと――




 二層に上がったオダンは、床に伏すアルデを見いだす。
 ルデスが一夜を明かした床だった。夜具もそのままに寝乱れたなかに、アルデは横たわっていた。残された温もりを己が身体に写し取ろうとでもするように――
 オダンの足音に視線を向けたアルデはわずかに片手をあげた。
「血だ‥‥俺が流させた‥‥あ奴の‥‥。あ奴‥‥まだ、生きているか‥‥」
 その顔が、歪む。オダンの口元を嘆息が這った。
「館には無事、お帰りになられた。我らもいかねばならぬ――お立ちください」
「今から? まだ昼をすぎたばかりだ。間があろう――」
 そのまま、ものうげに顔を背ける。
「御身には隠し道をお行きいただく。時がかかります」
「隠し道?――」
「館の東の森に入り口がある。大回りに、回りこまねばなりませぬ」
 ようやくに、身体を起こしたアルデが、猛々しいまでの蔑笑に唇を歪めた。
「つまりは。館が落ちたときの逃げ道というわけだ。ラデールの一族とは、ど奴も周到なものばかりよ――」
「初代のラデール侯がこの地に封じられたとき、ここはまだ辺境でしたからな。このロッカも多くの兵が詰めていた――」
 房の隅の櫃から衣を取出しながらオダンは受け流す。
「だからどうだ。兵達を捨て石に己れらだけは助かろうための方途――見え見えではないか――」
 吐き捨てるアルデに、
「さよう。それにより逃れるものがあれば、つぎなる戦に備え得るやも知れぬ――これを着て頂く」
 差し出された衣のうえに小さな壷を認めてアルデは顔をしかめた。
「また――塗るのか――」
「手にも、お忘れなくな――」
 それは。初めて、アルデがこのニルデアの地を踏んだとき、塗らされた練りものだった。王と酷似した容貌を隠すために。
「このようなもの――塗れば、かえって人目に立とう――」
「近ごろでは、この辺りにもテシャの商人が脚しげく立ち入るようになりましたからな。館にも、年毎に、立ち寄るものがいる」
「テシャ――あの、南方の大国の――彼の国のものは。このような肌の色をしているのか――」
「それを塗れば。御身を見たものはその肌の色に目を奪われ、顔立ちまでは気が付きますまいな」
「我らがレカルからニルデアにいたるのに船で四十日近くを費やした。あの地図――あれを見るとテシャまではさらに倍も離れている――そのような遠方から、商人が、来るのか――」
「それだけ、商いに貪欲なものどもなのでありましょう。あの地図自体、テシャの商人から求めたもの――ルデス様は、恐ろしいものどもと言っておられたが――」
「恐ろしい?――」
「あれ程に精緻な地図を作る技術を持つも、さることながら、地図を握るはその国の命脈を握るに等しいと――テシャの擁する兵を持って攻められれば、このニルデアなどはひとたまりもあるまいと――」
「まさか――あのように遠方から――なぜ、このニルデアを攻めねばならぬ――」
「商人が脚しげく訪れる――商人は多く諜者であるそうだ。地図を作り、国情を探り、民心を知る――つまりは、テシャの、野望の版図はそれ程に広い――ということなのだとな。このヨレイルの大地を――掩い尽くすほどに――」
「そのような――ルデスの勝手な――」
「諜者は――ルデス様も使っておられる」
「ルデスが――」
「テシャはニルデアから見れば大国だが――南方には拮抗する国が数多あるそうだ。それらの国を押さええぬかぎり、野望は、野望のままに止まるだろうが――ニルデアなどは北辺の小国にすぎぬと――笑っておられた」
 顔を塗り、手を、塗り終えたアルデが、凝然とオダンを見据える。
「そうなのか‥‥ルデスには‥‥このニルデアは笑い捨てることのできる――それだけのものにすぎぬのか‥‥」
 震えを帯びた声に、内に滾り立つ思いを見取る、オダンは重い息を吐いた。
「そうかも知れぬ――ルデス様には、国などというもの、意味なきものなのかも――知れぬ‥‥」



 やがて。
 テシャの商人がまとう白い頭布と足首までをおおう長い寛衣を身につけたアルデをともなって、オダンは塔をでた。
 森の中を騎行する間、二人は無言だった。一気に燃え立った艶やかな緑に染まり、爽やかな微風に肌をなぶらせ、ゆったりと馬をうたせながらアルデは思い沈む。
 かつて、オダンは言った。ルデスの心は既に何かにとらわれていると。そして、ルデスにとってこのニルデアとは、たかが、北辺の小国にすぎぬのだ。それでも。そのようなものを手にするために――北辺の小国にすぎぬと自ら嘲る王座をほしいままにするために、傀儡の王まで立てようというのか――
 アルデはこれまで、その為にこそニルデアに連れ戻されたと思っていた。
 ‥‥思い込まされて、いたのだ‥‥
 低く、地を這うような呻き声に、オダンは振り返った。馬を止め、目を閉ざし、身を強ばらせてアルデは佇む。
「どうなされた――」
 オダンの声に呼び覚まされるように、アルデは目を見開いた。
「あ奴は‥‥ルデスは‥‥嘘つきだ‥‥」
 喘ぐようなアルデの言葉だった。オダンはだが。薄く苦笑を刷いただけだった。
「人の上に立つもの――常に正直に、己れを曝け出せるものではない――」
「そのような‥‥ことではない‥‥」
「では。どのようなことといわれる。あの御方はな。己れにさえ嘘を、つき続けてきた御方よ。もしやしたら。今初めて――己れを曝け出しているのかも知れぬ――なりふり構わずに――な‥‥」
 ただ呆然と。アルデはオダンを見返した。







 東の森の奥深く抱かれるように、その小塔は佇んでいた。
 いつ築かれたかも定かでないほどに古び、半ば崩れ落ちた塔の裏に、オダンはアルデを導く。塔に隠れて廃然と立つ小棟の前に馬を下りたオダンは、朽ちかけた扉を開け、馬を引き入れた。それに続いたアルデは、オダンの馬の傍らに自らの馬を繋ぐ。
 朽ち毀たれた屋根や壁の隙間から差し込む薄い光の中を、オダンは塔との境をなす壁に向う。そして一本の鍵をとりだし壁板の割れ目に差し込んだ。重く軋み何かが落ちる音が空ろに響き、オダンの手の下で壁が沈む。そこに隠された扉が開き、闇へと誘っていた。
「来られよ――」
 オダンに続きアルデは闇のなかに進む。背後で隠し扉が閉ざされ、冷気の淀む闇に灯がともされる。
「これは。なんの塔だ――」
「かつて。この地に祀られた神の社と伝えられている。それ故か――土地のものは畏れて近寄らぬ――」
 オダンは備えてあった松明を手に先に立つ。闇の回廊は下り坂に地に沈み、やがて地中を這ってどこまでも果てしなくつづくかに見えた。
 どれほど。歩いたか。アルデはしだいに高まる息苦しさに胸を喘がせた。それは。重く淀んだ空気のゆえだったか。
 王と会う――
 双生の兄たる、ソルスと会う‥‥
 兄がいる――と初めてルデスに知らされたときより、それは相克せねばならぬものとして、アルデの前にいた。
 ただ弟というだけで、この地の上より抹殺されねばならなかった己れを思うとき、その憤りは熱いうねりとなってアルデを内から炙りたてる。
 だがまたそれは。同じ母より生まれ出で、同じ姿を持つ我が身の半身だった。唯一、血肉を分けたその存在を思うとき、憤りとは別の甘酸い痛みが胸を噛む。
 ただ、わけもなくい抱き合い、確かめ合いたい‥‥
 あいたい‥‥
 だが‥‥それはできぬことだった。アルデに許されるのはただ人知れずその姿をのぞき見ることだけだった。
 面と向かって相対する――それはアルデがソルスに為り変わるとき――兄の名を奪い、王としての生涯を奪い、その身を幽囚の獄につなぐときなのだ。
 ソルス‥‥
 不意に。アルデの胸を鈍い痛みが突き上げた。
 何も知らないソルス‥‥
 己れの前に、どのような罠が待ち受けているかを知らず‥‥己れの存在がアルデの上にどのような運命を科したかを知らず‥‥ルデスの密やかな裏切りを夢想だにしないだろう、
 ソルス‥‥
 全て‥‥お前の所為では‥‥ない‥‥
 その‥‥お前を。俺は‥‥


 幽囚の獄につなぐことを望んだのは、アルデ自身だった。




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