双影記 /第2章−2
塔に暮らすようになって二度目にルデスの訪いを受けた、夜――
昼の間、初めてのときと同じに、さまざまに試され、その淡い双眸の無言の嘲罵を浴びせられつづけ、再び打ちのめされたアルデは、だが夕刻が近づいたとき、己れに許された唯一のものをルデスに向かって叩きつけた。
凍てるような憎悪をこめて。
「館に帰ることは許さない。今宵は。わたしと食事をともにし、わたしの、伽を――するのだ」
王弟として遇すると宣して以来、ルデスはいっそ律儀なほどにアルデの王弟としての要求には従った。
時がたつにつれ、アルデにはそれが、ルデスが自身に科したこの遊戯の規約にすぎないのだと、悟らされることになったのではあるが、この時も、斬るような嘲嗤に唇を薄く歪め、ルデスは優雅に一揖した。
自ら求めたことであった。そして、それにルデスがどう応えるか、
わかっていた、はずだ‥‥その思いがアルデの口に苦くしこった。
重い沈黙の中で味もわからぬ食事を終え、四層の寝房に上がったとき、アルデは自ら衣服を脱ぎ捨て寝台に横たわった。仰のけに。そして。宣した。
「わたしは。二度と。お前の前に四つには這わない。お前の顔を、見ていたい。このまま抱け」
その言葉に。無表情なルデスの双眸が一瞬の光芒に閃いた。
揺れる灯火の照り返しか――
アルデにはうかがい知ることすらできなかった、それは賛嘆の念の迸りであった。
だが、それもたちまちにして薄い嘲嗤に覆われる。自らも全裸となったルデスは、ゆっくりとアルデの上に覆いかぶさった。
這う‥‥
ねつく‥‥吸いつくようなルデスの手が、アルデの肌をねぶる‥‥
胸を‥‥
腹を‥‥
下へ、下へ‥‥
お前の顔を見ていたい――そう言い切ったアルデの双眸が、揺らぐ。
ヒク‥‥と喉がのけぞった。
その喉を。胸を、はらうように何かがハラリと落ちかかった。ひんやりと冷たく、しっとりとした質感に充ちた、銀の細糸のようなルデスの髪、だった。
そして唇が、ねっとりと熱く胸に落ち――這う。銜え、ねぶり、噛み――ころがす。舌の先で。
「こ‥‥んな‥‥」
しなりをきかせてたわめられたルデスの背に、脇に投げ出されていたアルデの腕が絡み付く。待っていたように、ルデスの口がアルデの乳首を吸い上げた――
「くうっ‥‥」
そこから――痺れるような疼痛が頭の芯に貫き走る。
「‥‥しなかった‥‥」
手は‥‥執拗にもみ立てる‥‥
こね回す‥‥
熱い疼きが膨れ上がりアルデを包み込み、うねるような陶酔へと駆り立てる‥‥
だが、ルデスはアルデを追い上げたその高みに、弾けさせてはくれなかった。
ルデスの手に掻き立てられた炎は、じりじりとアルデの腰を炙り焼く。アルデの思いを嘲るように、焦らし‥‥苛む‥‥
「は‥‥やく‥‥して‥‥」
アルデは右脚を抱えあげられむりやり開かされた腰を擦り付けるようにくねらせた。
「御身は。わたしの顔を。見ていたかったのではなかったか――」
降りかかる冷ややかな声に、一瞬、背筋が凍りつく。戦慄が、肌を伝い落ちた。そして。かすむ、双眸を見開いた。
ミシリと。ぬめりこんでくる、あの、感触――深々と呑まされたルデスの長い指が、容赦なく、抉る‥‥
喘ぐ喉をつきあげる苦鳴を、アルデは奥歯にかみ殺した。手が扱きあげる。舌がころがす‥‥思わず滾り上がる熱い喘ぎに喉が弛む。ずるりと半ばぬかれた指がさらに深く抉り込まれ、吐息が擦れ上がる‥‥
引き裂き貫かれるだけの激痛なら――歯を食いしばって、ただ、耐えればいい。
だが、ルデスは、それを許さなかった。
苦痛に綯い合わされた快感の疼きに、アルデはただいたぶられ、翻弄される。弓なりに仰け反らせた背がたわみ、息をつくまもなく身をよじる。肌を濡らす汗は冷たいのか――
熱い――のか‥‥
「ル‥‥デス、やめ‥‥ろッ‥‥」
たまらず、口を突いたその言葉に、ルデスが退いた。アルデの内に、熱く痺れる疼きを残したまま、指が抜かれ――手が、唇が、離れる。逃れていく髪を、その背に回していたアルデの指が絡めとった。
「ルデス?‥‥」
ぐったりと投げ出された身体がくすぶりつづける疼きに、焦れ、うち震える。
「‥‥どうして‥‥」
アルデの声が、喘いだ。
「御身が。命じた――」
なぜ――こうも。冷たく言えるのか‥‥
シンと静もる、淡い双眸を、アルデは睨みあげた。絡めとった長い髪を引き寄せる。
「もどれ‥‥つづけるのだ‥‥」
「手を。離して頂こう」
「いや‥‥だ‥‥」
それ以上、ルデスは何も言わなかった。ゆるゆると手が戻ってくる。そして、扱きあげる。何の、熱もなく。
ゆるく‥‥きつく‥‥ゆるく‥‥
アルデの腰にくすぶっていたものが、一気に登りつめ迸った。一瞬、しなりをうったアルデの身体から力が抜けていく。いく筋かの髪を指に絡ませたまま腕が力なく落ちる。
ゆっくりと胸を喘がせながら、アルデは目を閉ざした。その眉根が険しく寄せられる。
寒い‥‥
我知らず、アルデはうつぶせ、引き寄せた腕に己が胸を抱く。
「まだ。続けよと言われるか――」
その、無防備にさらされた背中をルデスの声が冷たく撫で上げる。アルデは呻いた。
「お前は‥‥王にも、このように‥‥するのか‥‥」
刹那。ルデスの背を戦慄が貫く。だが。
「王は――御身とは違う。男の身体など求められぬ――」
低く、かすれた声は鋭い揶揄にアルデの胸を抉る。アルデは震えた――
「お前は‥‥王を‥‥どうする、つもりなのだ‥‥」
ずっと、胸にいぶり続けていたその疑問だった。
「殺し――闇に葬る――以外に、どうせよと――」
薄く笑いさえ含むその応えに、ゆっくりと首をめぐらせ、アルデは、足元に端然と腰を下ろしたルデスを見た。
白く、灯火を弾く、しなやかな裸像を。優美でありながら、微塵の弱々しさも感じさせない、清冽な姿を。淡い双眸は揺らぎさえしない。アルデは喘いだ。半ば予期した応えだった故に――
「そんな‥‥わたしの‥‥兄だ‥‥」
「そう。そしてそれ故に御身を奴僕の境涯におとしめた――」
「いやだ‥‥殺さなくたっていい‥‥異国に‥‥逐えばいいのだ‥‥わたしが、そうされたように‥‥」
「御身が――それを望むなら――顔を焼き、目を抉り、舌を切り落とした上で――」
アルデは呻いた。その脚がルデスから逃れるようにずり上がる。
「なぜっ――何も、そこまで‥‥」
「甘い御方よ。王は御身とは違う。これは御身のためでもある。寝首を掻かれぬためのな」
ルデスの言葉は、容赦なく、アルデを嬲る。
身を竦め、引き寄せた膝の間に頭を抱え込んだアルデは声を絞った。
「許さない‥‥そんなことは‥‥許さない。閉じこめればいい‥‥誰にも‥‥知られない‥‥ように‥‥」
「御身が、それを望むなら――」
「そうだ‥‥」
‥‥そう、だ‥‥
それでもっ‥‥
‥‥俺は。ルデスが欲しい‥‥
ルデスの‥‥あの、温かさが‥‥欲しい。
ルデスは言った‥‥王に、なれ‥‥
だから‥‥俺は、王になる‥‥
ルデスの、望むままに‥‥
お前を、獄に突き落として――
ソルス‥‥
俺を‥‥呪って、くれ‥‥
「まだ‥‥つづくのか‥‥」
震えを這わすアルデの声に、
「もう。半ばはこえられたが。今なら。まだお戻りになれる――」
一瞬、アルデの脚が止まる。だが。
「では。早く。行け――」
どこか苦しげな、アルデの言葉に、もう応えは返らなかった。ただ前をいく厳つい背が、わずかに強ばっただけだった。
気が付くと隧道はいつのまにか緩やかな上り坂になっていた。坂は、唐突に、一枚の扉にさえぎられて終った。再び、オダンの鍵によって開かれた扉の内はひとつの小部屋。そこがもう館の中であることはあきらかだった。正面に、細い階段が上に向かっている。
さらに細く曲がりくねった回廊を抜け、いくつもの階段を上り、アルデは細長い小部屋に導かれた。オダンは部屋の隅におかれた深い壷のなかに松明を落とし灯を消した。
突然の闇にアルデは微かに息を呑む。
「右手を見られよ――」
低く押し殺したオダンの声に、向き直る。そして、気付く。しだいに闇に慣れていく目の高さを、横に走る明るい線に。
アルデは手を伸ばし、顔を寄せる。そして。そのまま凝固した。視線の先に大きな部屋が広がる。手前に豪華な寝台があり、横たわる姿がある。
「ルデス‥‥」
すぐ目の前に眠る蒼ざめた横顔を食い入るように見詰めた。
突然、視界のなかにオダンの姿が現われ、驚き我に返る。オダンは寝台の横に片膝つき低い声で語りかけアルデのほうを手で示した。目覚めたルデスの顔がゆっくりと向けられる。刹那、淡い双眸が、アルデの胸を衝く。アルデは闇のなかに身を震わせた。
ルデスは微かに頷き、また目を閉ざした。戻ってくるオダンの姿を追い、部屋の隅の緞帳の下に小部屋の入り口が隠されていることを知る。緞帳をめくり入ってきたオダンの姿が闇に沈む。堅い音を響かせその気配が傍らに立った。
「椅子がある。かけて待たれるとよい」
「お前には――わたしが見えるのか――」
手探りで椅子を確かめるアルデに、
「慣れです。わたしは。一度、東の森に戻るが、ここからお出にならぬように。よろしいな――」
「わかった――」
アルデの応えに、微かな逡巡を残してオダンの気配が離れていく。扉の音に、アルデは一人になったことを知った。闇のなかに力なく腰を下ろす。
傍に‥‥いきたい‥‥
だが。いったところで、ルデスは冷たい、侮蔑に充ちた視線を向けるだけだろう‥‥
微かな吐息が闇を震わせた。
どれほどの時を。そうして、闇に視線をさまよわせていたのか――突然、ルデスの寝室で扉が開き、凛乎とした声が闇に走った。
「お前たちはここで待て。多くのものはルデスを疲れさせるだけだ」
その声に、アルデは弾かれたように我に返る。一瞬にして、全身が燃え立つような熱気に包まれる。
それは、アルデのものであって、アルデのものではない――酷似していながらまるで違う、自信に充ちて誇りかな――声だった。
床を踏む足音さえ颯爽とルデスに近づいてくる。アルデは震える脚を踏みしめ、壁にすがるように立ち上がった。
見たい‥‥だが‥‥見たくない‥‥
昂ぶる息を押し殺し、いつか堅く閉ざしていた瞼を押し開ける、そこに――アルデは、見た。ルデスの寝台を中に、アルデの正面に立つ、己が双生の兄――ニルデア王、ソルス・キリア・レハ・カイアードを。
声からは、想像できなかった、青褪めて沈痛な色を刷く、その、顔――を。
「そのような‥‥顔を‥‥なさるな‥‥」
その時。低く――かすれた声が、その、声音が――アルデの耳に突き立った。
かつて、一度としてアルデに向けられたことのない、やわらかな、温もりに充ちた、その声――
「ルデス‥‥」
豊かに、深い声が返る。
そして。アルデは見た。ルデスの顔の上に浮かべられた、その微笑を。
刹那――アルデの視界がゆらぐ。
ジンと熱く凍てた刃に頭の芯を焼かれて、眩む、意識の中に、ルデスの、そして、ソルスの、声が、切れ切れに響く――
「御身が‥‥苦しまれることはない‥‥御身にはすまぬが‥‥容易に敵の剣を奪えると、己れを過信した‥‥この身の失態だ‥‥」
「違う。あの時、まわりに数多いたものの中で。お前だけが。自らの剣をなげうち、わたしを‥‥救ってくれた。どのように‥‥報いたら。よいのか‥‥」
「御身が‥‥そうして、そこにおられる‥‥それだけで、充分‥‥報われて‥‥余りある‥‥」
「‥‥ルデス‥‥」
ソルスの声は、その、思いの深さを伝えて静かに響く。
響く‥‥
アルデは。闇のなかで、己が胸元をわしづかみに、かきむしった。
聞きたく‥‥ない‥‥
だが、声は容赦なく耳に押し入ってきた。身体が。冷たい汗に濡れる。
見たくな‥‥い‥‥
だが。アルデは凝視しつづけた。ルデスの、横顔を。ソルスに向けられる、その、微笑を。
かつて、一度として見たことのない、慈しみ、包み込むような、微笑――アルデが渇望し、渇望し。渇望しつづけてきたものが、そこにあった。己が双生の兄――ソルスに、向けられて。
その刹那。地下道でアルデの胸を苛んだ、ソルスに対する思いは砕け散った。あれは芝居だ――とささやく声はかすれ、逆流する熱いうねりのなかに呑み込まれていった。
なぜだっ‥‥
なぜっ、ルデスはあんなふうに、笑う。笑い、かけるっ‥‥
同じ顔、同じ声を持ちながら、
なぜ‥‥俺ばかりが‥‥闇のなかに、いなければならない‥‥
俺が、ソルスであったかもしれないのだ。
ルデスの‥‥あの笑みを向けられていたのは‥‥俺であったかもしれないのだ‥‥
アルデは、慟哭した。
闇の中で、声もなく、慟哭していた。
だが。
その慟哭すら闇に押し殺さねばならない己れに、滾り上がった熱流が凍りつく。
胸が‥‥痛い‥‥
喉が灼け、息が爛れる――苦痛に、壁にすがり立つ。それでも、見続けずにはおれぬアルデの胸に凝った――それは、双生の兄ソルスに向けられた深く、激しい、嫉妬だった。
「わたしは‥‥生涯忘れない。決して‥‥。早く、よくなってくれ‥‥」
「そのように‥‥御身に案じていただいては‥‥身の置所に‥‥困る‥‥たいした傷では、ない‥‥旬日もすれば‥‥オーコールに、戻れましょう‥‥」
「そうではなかろう。お前は‥‥死んでいたかも‥‥知れぬのだ。急ぐことはない。ゆっくり養生してくれ。わたしはまた、来る‥‥」
「‥‥夏が‥‥よい‥‥」
「夏?――」
「夏のハソルシャは‥‥美しい‥‥御身と狩りをし‥‥野駆を‥‥楽しかろう‥‥」
「約束しよう‥‥ルデス。夏のハソルシャで‥‥わたしは、お前と、狩りをしよう。野駆を‥‥しよう‥‥」
「‥‥幸せだ‥‥」
夢見るような微笑を口辺にただよわせ、
ルデスの声が低く、呟いた。