双影記 /第2章−3
ラデール家の領州であるハソルシャを、また、森のハソルシャという。
その森は深く、美しい。
苔を生やした幹は太く、頭上を被う枝は豊かに重なり合う。茂る葉群は厚く、滴るような緑に濡れる。
吹きわたる涼やかな風に、下草が揺れる。濃密にたちこめる森の匂いが流れる、
夏――
森のはずれを抜けて一本の道がのびる。
白い道は細くくねり、木々の間に消える。その道を、長く列をなして行く、隊商の一隊があった。
内に連なる荷駄を守るように、あきらかに傭兵とわかる二十騎ほどの騎馬戦士、そして、五騎の異装の男たちだった。背に流れる白い頭布に髪を包み、同じ、白い緩やかな長衣に脚先までを被う。僅かにのぞく顔と手は濃い褐色。テシャの交易商の一団だった。
やがて、隊列の先頭を行くその白衣の一人が、馬を止めた。森が途切れ小さな空地にでていた。倣うように隊が止まる。すぐ後ろに馬を進めていた白衣の一人が声をかけた。
『カイワン様。どうなされた。まだ陽は高い。急げば、今日中にはキシュマに着けましょう』
振り返る、カイワンはそのまま視線を流す。
なめらかに引き締まった精悍な相貌はまだ四十にはなっていないだろう。ただその双眸ははるかに老成した思索的な光を湛えている。
『たしか。この辺りだったな。使われていない小屋があった。覚えているか。ルフート』
ルフート――と逆に問われて、声をかけた若者が覚束なげにうなずいた。
『そういえば。この、右手の方だったと思います。以前、鹿を追って見付けた古い狩り小屋‥‥』
『それだ――』
『でも。それが?‥‥』
『必要になるかもしれない。二人ほど連れて確かめてきてほしい。我ら一行が隠れ潜めるか――』
『それは。ご命令とあれば。では今夜は――』
『お前たちにはすまないが、我々はこのまま行く。明日。キシュマで落ち合おう』
キシュマはラデール家の城館から半日、ハソルシャの中心をなす町だった。三人を残し、一行はまた、動きはじめる。
カイワンの一行がキシュマに入ったとき、陽は落ちかけていた。町外れの宿に入ったカイワンに、出迎えた亭主が親しげに問いかける。
「今年も、ようご無事で。毎年、おいでられるを楽しみにしておりますよ。ですが、今年は、ルフート様はおいでではないので?」
毎年夏になると訪れるカイワンはもう十年来の常客であった。馴染みの客に、顔も覚え、親しみも抱くようになって久しい。その上、一行のなかでニルデアの言葉を話すものは多くない。亭主はその一人、一行のなかではいちばん年若いその青年の名を覚えていた。
「明日。ここで落ち合う」
応えるカイワンは言葉少ない。常のことだった。声は、穏やかな笑いを含んでいる。
「今年は、ラデールの殿様にはお会いできようか」
「あなた様はいつも折りよいときに見えられる。一昨日よりお館に、お帰りになっておいでですよ。――それより、アルザロはどんな様子でしたか。この春の戦で王まで討たれて、うち沈んでおりましたでしょう。あれはラデールの殿様のお手柄ですよ。それも、お聞き及びで?」
亭主の顔が誇りやかに輝く。街道はアルザロの王都グーツを経てニルデアに入る。その都の様を思い浮べてカイワンは頷いた。
「確かに。商いも思わしくはなかったな」
「旦那様にはあいにくなことでしたが、あれは自業自得というものでございますよ。無体に攻めてきたのは向こうですからな。なんにせようちの殿様がおいでられるかぎり、どこの国だって指一本ささせやしませんので」
「よい、殿様だな」
翌朝。
カイワンは二人の連れと宿をでた。
着いた館に、ルデスは不在だった。
「殿は。森にまいられた。昼前には戻られようが」
対応にでた老僕、ワルベクに通された広間で、カイワンは、窓辺に佇む。
なだらかな丘陵が、しだいに厚くなる木々の茂りに移り変り、やがて、はるかな山嶺の裾に溶け去っている。
艶やかに、しみいるように、広がる緑――
『どうされた。溜息などついて』
不意の声に、カイワンは驚き振り返る。
『溜息だと?――』
『お気づきでなかったか。これは、重症だ。お酔いなされたな。何としても、ここの緑は我らには多すぎる――』
『アフォラ――』
カイワンの口元が苦笑に歪む。
『多すぎるなどと。不粋な。豊かといえ』
『では――豊かすぎて――我らにはいささかうっとおしい。わたしなどには、やはりテシャの方がよい。さばさばとする――』
『すまなかったな。アフォラ。お前まで、旅に引き出して。ルデス様が一度。テシャの医師に会いたいと言っておられたのでな。これが最後だ――』
その語調に何を聞き取ったか。
アフォラ――はまじまじとカイワンの顔を見上げた。六十に手が届こうというアフォラの痩せた皺深い顔に微かな不安が揺曳する。
やがて溜息混じりに苦笑し首を振った。
『――それにしても。これは、人の少ない館ですな。女気がまるでない』
『ここは別邸としてたまに使われているだけだからな。オーコールの公邸はこうではない――が。そうだな。飾り気の無いお方であることは確かだ。根っからの武人なのだ』
『異国の医師に、興味をもつお方がか?』
『確かに――変わったお方だな。我々商人にも隔てなく接する。勝れていると知れば異国の文物にも鋭い興味を示される。区々たる矜持を振りかざすこともない。普通、このような辺境の領主には有りがちだがな――』
『恐ろしい――お方だな』
『――そう、よな――』
再び、窓に向かうカイワンの背に、アフォラは言った。
『――そう。ここまで。あなたの心を盗ってしまわれた――』
『アフォラ――』
愕然として振り返った、カイワンが絶句した。
『気付いて、おられなかったか。――だが。あなたはテシャの者だ。お忘れにならぬことだ――』
『心得て――いる――』
カイワンの口で、その声が軋んだ。
ワルベクの言葉どおり、ルデスは昼前に帰館した。
背後に三人の者を従え、広間に入ってきたルデスを見て、アフォラの顎が落ちた。
決して小兵ではないカイワンよりさらに高い長身。背に流れる銀のような髪。しなりのきいた優美な身ごなし。
ルデスは僅かに上気した白晢の面に、微笑を含み、中央に据えられた大卓に着く。
『よく来たな。カイワン。楽しみにしていた。卓に着いてくれ。他の二人もな。腹が空いている。よければともに食べてくれ』
淀みなく語られるテシャの言葉。そして何より――
『お前は。初めての顔だ。かなり高齢のようだが、旅はきつくはなかったか』
己れに据えられた淡い金の双眸に、アフォラは一瞬、言葉を失った。その間にワルベクが他の二人を指図して、食卓をしつらえていく。杯が置かれ、なみなみとワインが注がれた。
「ご苦労だった。ワルベク。後は勝手にやる」
ワルベクが一揖し、二人を従え立ち去る。カイワンは既にルデスの前に着いており、アフォラを横に招いた。
『この者はアフォラ・ファダット。商人ではありません。長年、我が家に仕えてくれた医師です』
『医師――』
簡素だが、豊かな食卓に、のばされた手がつと止まり、射るような双眸が向けられる。
『かつて、カイワンにもらしたことがある。テシャの医師を一人、師として招きたいと。テシャの医術にはニルデアの及ぶべくもない、優れたものがある――』
低くかすれた声が不思議な韻律を刻む。
ただ呆然とその双眸を見入るアフォラに、ルデスは言葉を切り、苦笑を浮かべた。
『どうやらお前はその為にきたものではないらしい。――わたしの目の色はそれ程めずらしいか』
不意に和んだ双眸に、呪縛を解かれたように我に返ったアフォラは、逃れるように顔を伏せた。
『ご無礼を――』
『どうやら、カイワンは話していないらしい。ここではお前たちは客だ。そのような気遣いは無用だ』
唖然として、アフォラは顔を上げた。ルデスの視線は既に、カイワンに向けられている。
『今年は何を持ってきてくれたのか。ここにはいつまで居れる。四日後には王が来られる。思う様話せるのはそれまでだが。――王は喜ばれるだろう』
『タミル――』
カイワンに呼ばれて、遠慮もなく食べはじめていたタミルは口のものをあわてて呑み下し、卓に置いた包みから一冊の本を取出す。
『残念ながら――陛下にはお会いできません。四日後には発たねばなりません。それまでは、アフォラともども、お館に――』
『そうか。――だが、お前も欲のない商人だな。ここへも書物だの薬種だのばかりでなくもっと、利の厚いものを持ってきていいのだぞ。テシャの細工は優れたものだ。宝飾などは奥が喜ぶ』
『いや。それらのもので充分に。利は稼がせて頂きました。だが、お求め頂けるのであれば次には奥方様へも何かご用意させて頂きます』
『そうしてくれ――』
言いながら、タミルから本を受け取ったルデスは表紙をあらため、卓に置き、頁を繰りはじめる。が、ふと我に返り、苦笑した。
『これは後でゆっくり読むとしよう。よいものを持ってきてくれた。礼を言う。カイワン。オキルも喜ぼう』
『マーハルマの医書はテシャでも随一のものです。ご期待は裏切らぬかと――』
『惜しむらくは、師がいないことだ。書だけでは及ばぬものがある。訳が完全とも言い切れぬしな――』
『しかし、メドク殿の語力であれば――』
『あれはもういないのだ。わたしに教えた後、テシャに戻ってしまった。もっと学びたいと申してな。いずれは帰ろうが――』
『では、今は――』
『わたしが訳してオキルに渡す。だからな。せめて一年、師として、来てくれる医師があれば――礼は惜しまぬつもりだが‥‥』
アフォラはルデスに見詰められ、思わず頷きそうになる己れに、あわてて首を振った。
『お許し頂きたい。この身は既に老齢であれば――』
ルデスは笑った。
『案ずるな。強いはしない。だが後で、オキルを呼ぶ。色々ききたいことがあると申していた。応えてやってくれ。例えば、タルマンの薬種書――用法どおり処方しても利きが遅いし、弱い――何故だろうか』
唖然と。アフォラはルデスを見た。
『それは――寒冷な地にすむものは身体の耐性が温暖の地のものとは異なる故かと――』
『やはりそういうことか。では、量を増やせばよいのか――』
『いや――薬というものは毒にも通ずるもの。遅く弱いということは、それだけ長く、利き続けるということなれば――』
『やはり――難しいな‥‥』
苦笑するルデスに、アフォラはもの問いたげな視線を向ける。
『何か――』
やわらかに聞かれて、思わず問が口を突く。
『いや――あなた様ほどのご身分の方が、何故、このようなことに興味をお持ちかと――』
一瞬、困惑を刷いたルデスだったが、
『たぶん――退屈、なのであろうな‥‥』
『退屈?‥‥』
『王も‥‥大人になられた。もう二、三年もすれば、わたしなど必要とはなされまい‥‥』
『では。テシャに参られればよい。テシャの王は人を求めておられる。あなた様なら、望みのままに遇されましょう』
突然の、カイワンの言葉だった。アフォラとタミルが唖然としてカイワンを見返る。
ルデスは。一瞬、表情を消した顔に、苦笑を刷く。
『さすがに――カイワンは大陸を股にかける商人よ。大きなことを言う――』
『あなたさえ、そのお気持ちがあれば、わたしはいかようにでも王に――』
『わたしは――この国が好きだ』
冗談事のように、笑いを刷いた、ルデスとカイワンのやりとりだった。
だが。アフォラは。二人の間に、触れれば切れるほどにはりつめた何かを感じた。
『この――ハソルシャが。ハソルシャの森が――好きだ。離れることなど――考えられぬな――』
嫣然と。ルデスが、はりつめたものを、はらって落とした――
刹那――カイワンの双眸を落胆――いや、それ以上の、絶望――が掠めるのを、アフォラは見てとった。
だが――何故の‥‥
思い患うひまはなかった。カイワンが乾いた笑声を上げた。
『そうでしたな。つまらぬことを申しあげた。わたしでさえ、この森には魅せられる。ここに暮らせれば、いかほど、心豊かになれようか――』
『――言い過ぎだ。カイワン。お前は夏のハソルシャしか知らぬ。ハソルシャは様々な顔を持つ。四季の顔を――。それぞれに美しい――だが。美しいだけではない――』
うっとりと。ルデスは微笑んだ。
『――だが‥‥お前がここに暮らすは――よいかも知れぬ。館を構えるとよい。そして。わたしを救けてくれ。わたしはいつか。この地に大学を創ろうと思っている。かつて、お前が教えてくれた、テシャの国にあるような――。テシャの文物を学べるような――。多くの師となるものを召ばねばならぬ。メドクも呼び戻そう。彼は、言葉を、異国の姿を教えてくれよう。オキルは医術を――あれはよい師となる。既に、二、三の若者を集め、教え始めている‥‥』
その双眸は、いつか、窓を、そこに広がる天空を映していた。
そしてルデスは双眸を閉ざした。
その、蒼穹を、己が内に止め置こうとするように――
三日後に――
カイワンは館を辞した。
昼もとうにすぎ、陽も西に傾こうという頃、ルデスはオキルとワルベクを従えて自ら玄関まで送りにでた。
『遅くまで引き止めて、すまなかったな。旅の無事を祈ろう』
『今宵はキシュマの宿です。テシャへは明日発つ。お気になされるな。あなたこそ。ご自愛なされよ。あなたが生き続けてこそ大学もなろうというもの――』
馬上の人となったカイワンが応えた。
一瞬。ルデスの顔の上を陰が流れ落ちた。すぐに、心に沁みるような微笑を刷き。踵を返した。深く礼をしたオキルと、ワルベクがそれにつづいた。
カイワン等はゆったりと馬を進める。その道のうえに、既に陰が深い。アフォラは馬を並べながら、沈鬱に押し黙るカイワンに視線を投げた。
やがて、その口から、重く吐息がもれる。
『あなたが。心を盗られたは――得心した。それで――どう、なさる‥‥』
アフォラの問いかけに、カイワンの顎が強張った。苦しげにひそめられた眉の下で、暗い双眸に陰が凝る。
『わたしは――テシャの者だ。――王の。命には逆らえぬ――』
唇に、声が軋る。
再び。アフォラは、深々と吐息した。