双影記 /第2章−5



 緩やかに起伏する大地に。
 幾重にも折重なる緑が深い。


 木立の間を縫って走る騎影がある。艶やかな黒髪が肩に弾む。
 ニルデア王ソルスだった。
 木漏れ日の下を緑に染まり駆け抜ける。清冽な美貌がその時ふと和んだ。行く手に木立がとぎれ、あふれる陽光に輝く草地が広がる。
 緩やかな上り坂を一気に駆け抜け光のなかに躍り出る、その駆け向かう先に佇む、いまひとつの騎影に――ソルスは呼びかける。
「ルデス――」
 声に、ゆっくりと振り返った馬上の人が、微かに笑んだ。
「陛下――」
「やはり。お前にはかなわない」
 馬を並べながら、ソルスは視線を馳せる。
「何を。見ていたのだ――」
 小高い丘の上に佇み、向ける視線の先に、遠く霞む山嶺、その麓までを被う、深い樹海が広がる。
「スオミルドか――」
 その言葉に、ソルスの横顔を追うルデスの双眸が、ふと眩しげに細められた。
「かなわぬは。この身の方です。陛下。スオミルドとは――」
「我らはアルザロを叩きすぎた――そう言ったのはお前だ。ルデス。弱体化したアルザロにスオミルドが食指を動かすかも知れぬと」
「そうでしたな――」
 真摯な光を湛えて見返る黒瞳を柔らかく受けとめる双眸は光を溶かして淡い金に輝く。ルデスはその視線を後方に流した。
「だいぶ引き離してしまったらしい。供の者共――気をもんでおりましょう」
「もませておけば良い。故ない危惧だ。いちいち気にしていたら身がもたぬ」
 いっそ快活に、ソルスが笑った。
 その明澄な笑いに、視線を戻したルデスは、そのまま山嶺の彼方に向かう。
「人心は計りがたく、宿怨は断ちがたい。その野望は挫いたが――ゼオルドを倒したことはより大きな禍根となりましょう――」
 低くかすれた声は微かな自嘲を響かせる。
 丘の峰にそってゆったりと馬を進めるルデスにわずかに遅れて続きながらソルスはその横顔を見詰める。ソルスには心地よい、静かな横顔を。
 いかなる時にも感情を露にしない、静かな顔――おもねることも、侮ることもなく己れをこれまでに導いてきた顔だ。その目路は遠く、深く。鋭い。
「だが、あの状況で、あれ以外の道は取り得なかった。ゼオルドの真意――もしお前が気付かねば、我等はこうしてここにはいなかったはずだ。お前は、よくやってくれた。陽動にのった風を装い、それを逆手にとった――あの策は。見事だった」
「それにしても――ゼオルドにはいま少し命脈を保ち、スオミルドへの楯となってもらいたかった。――虫のいい願いだが――」
「あの、山嶺は。もはや楯とはならぬか」
「ゼオルドは矜持の高い男だった。その野望のためといえ他国と結ぶを潔しとしないほどに。後を継いだランベートは違う。言ってしまえば小人だが――真に恐ろしいのはその、小人の策動かも知れぬ。宿怨に捕われ、あるいは目先の功利に走り、スオミルドを呼び入れることはない――と断言できぬ以上、スオミルドとの間に、既に道は開かれたと、思わねばならぬ」
「それは――まるでこの身を指嗾しているように聞こえる。今のうちにアルザロを叩けと。あるいは、逆にスオミルドと組んで分けどりにせよと――だがそれはお前の望まぬことではなかったか」
「確かに。――過去数十年、自国を守ることに終始してきたニルデアだが。一度なりと他国に食指を動かせば次は己が国ではないかと、隣接する国は危惧を抱かざるを得ない。――だが又、ヨレイルの北辺にこれまで保たれてきた均衡が既にほころびている以上、ただニルデアの存続のみを願ってすむ時は終わったと、思わねばならぬのかも知れぬ。戦乱の世が来るのかも知れぬ。その時、最後まで残るは果して、いずれの国か――いかなる均衡が、生まれるものか――」
 吹きわたる風の中に、何の気負いもなく語られるのは何と大きな思惟であろう――
 ソルスは感嘆の思いをこめてルデスを見詰めた。
「わたしも。自ら他国を侵したくない。だが他国の野望の下に、ただ屈するつもりもない。ルデス。これからも。力になってくれ」
 強い、声音だった。
 ルデスが振り返る。白金の髪が風に流れて顔に散りかかる。微かな笑いを含んだ端正な顔に、淡い双眸がふと眩しげに細められた。
「この身に――及ぶかぎり――」
 静かな声が応える。
 又だ‥‥
 ソルスは思う。‥‥いつからだろう‥‥ルデスがこのように眩しげに自分を見るようになったのは‥‥
 その思いが呼び起こす、不思議な心のざわめきに、戸惑う己れを振り捨てるようにソルスは快活な声を投げる。
「ここは日差しが強い。眩しそうだ――先へ行こう」
「わたしには。御身が眩しい」
 その言葉に、驚き、進めかけた馬を止め、ソルスが振り返った。
「ルデス?――」
「御身は。強い。強靭な心を、お持ちだ。御身さえ望めば、あるいは御身こそが、この地の覇者たりえるかも知れぬ――この、ヨレイルの――」
 唖然として。ソルスは言葉を失った。
 ルデスは静かに馬を進めソルスに従う。
 わずかに遅れて並ぶルデスに、ソルスは詰めていた息をついた。
「驚ろかさないでくれ。ルデス。そのように真面目な顔で人をからかうものではない。思わず本気にしてしまう。この、ニルデアの王としてさえ、お前に支えられて、ここまで来れたのだ――何度、思ったか知れぬ。お前こそが王にふさわしい――」
「それこそが。買い被りというものです。陛下」
 言下に。静かな、だが、確信に充ちた声が、否定する。
「わたしは。御身のように、強くはない。それに、横着者だ。自ら求めての戦いなど、煩わしくてできぬ。わたしには、このハソルシャの領主が似合いだ。――それも。御身の元なればこそ、のこと――」
 ゆらり、と、ルデスの馬が前にでる。
「ルデス‥‥」
 又も、唖然とするソルスの声がその背を追った。鮮やかな微笑が、見返り一閃する。
「わたしが、御身に勝るのは乗馬くらいなものだ。まいられよ――」
 ルデスが馬を駆った。
 流れるように丘を下り、麓の樹間に駆け向かう。背に、白金の髪が輝き、踊る。
 ソルスは追った。
 大きく回りこむように館に向かっているのがわかった。緩やかな起伏を繰り返しながら斜面はしだいに低くなっていく。木々はしだいに疎らになっていき、小さな茂みがそこここに生いかさなる草地が開けだす。
 ルデスは、らくらくと馬を駆っているように見えたが、距離は一向に詰まらなかった。
 斜め前方に、小さな木立がある。立ち木の間に少し大きめの茂みがある。ルデスの馬が引かれるように、その樹間に馬首を向けた。
 速度を落とさぬまま間合いをとる、その馬体が大きく撓み――宙に舞った。
「おお――」
 ソルスの口から賛嘆の吐息が漏れる。
 見事な飛越を見せたルデスの馬が、茂みの向こうで脚を緩め向きをかえた。馬上で、鮮やかな微笑が、ソルスを誘う。ソルスは続いた。
 風を切る、ソルスの顔が笑みを刷く。
 茂みが迫る。野が流れ去る。
 ソルスは飛んだ。
 天が迫る。大きく、ルデスがうなずいた。
 不意に。視界の外れで何かが跳ね上がった。驚愕が。ソルスを鷲掴みにする。
 刹那――天が旋回し、激しい衝撃に息が詰まる。視界が眩み――戻る。
 何が‥‥
 体の下に、草地の感触がある。
 わたしが‥‥落馬を?‥‥
 首をめぐらしルデスの姿を求める。
 その姿をとらえ、ソルスは体を起こそうとした。苦笑さえ浮かべ。
 一瞬、その身体が凍りつく。
 ルデス?‥‥
 先の場所に、馬を止めたまま、冷然と見下ろすその姿に――
 その時。背後で、気配が動いた。
 振り返ろうとした後頭に、重い衝撃が加えられ――ソルスは、崩れ落ちた。





 アルデの、足元に。ソルスは崩れ落ちた。
 アルデは凝然と見下ろす。
 表情の死んだ顔のなかで眦だけが切れ上がっている。血の気を失った頬がそそけだつ。
「何をしている。縄を持って早く消えよ」
 冷ややかな声に、顔を振り向ける。声にふさわしい冷然と静もった顔が、馬を下り近付いてくる。
「石を置け」
 アルデは右手に目を遣る。
 手のなかに、いく筋かの髪と、血のこびりついた石を認め、弾かれたように、ソルスの頭の横に置く。
 意識を失い、血を流し、ぐったりと横たわるソルスの頭の横に――
 その顔が不意に歪んだ。苦しげに――
「アルデ」
 ルデスの声が鞭打つ。
 全身が、瘧のように震えだす。己れを叱咤するようにアルデは茂みに近付き、木の間に掛け渡した縄を解き、巻き取った。
 ルデスの頷きを合図に引き絞り、ソルスの馬の脚を取り、落馬させた縄――それを肩にかけ茂みのなかに姿を隠す。
 ルデスは腰の小袋から小瓶を取り出し、自らの片袖を裂きとった。そしてソルスの傍らに膝をつき、その上体を抱え起こす。血を流す傷口に袖布をあてがい。小瓶の中身を口に含み、口移しにソルスに与えた。
 アルデは葉陰から、それを凝視する。
 あれは‥‥万一にも目を覚まさせぬための薬だ‥‥
 自らに言い聞かせながら、その歯が軋る。
 なぜ‥‥あれほどに、ルデスの唇は、ソルスのそれを貪っているように見える‥‥
 やがて。
 遠く、馬蹄の響きが近付いてくる。
 アルデは、さらに深く、茂みの奥に身を潜めた。




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