双影記 /第2章−6



 ドワル・ヴォルドは必死になって馬を駆っていた。


 巧みな乗り手である、王ソルスと、ラデール侯ルデスは近侍のものたちを遥か後方に引き離し、瞬く間に森の中に消えた。
 その姿を見失ってどれ程の時が過ぎたか。他の近侍のものを置き去り、単騎、馬蹄の跡を追って森の外にでたドワルは、ようやくに、その二頭を、小さな木立の外れに乗り手を失って所在無げに佇む姿を、認めた。
 何故、あのような処に‥‥陛下は何をしておられるのだ‥‥
 その疑念が灼熱の針となって脳底を刺す。豊かに波打つ褐色の髪にふちどられた浅黒く、精悍な顔が歪んだ。それは、ルデスに向けられた、激しく、深い――憎悪に等しい妬心の迸りだった。
 傲慢なまでの矜持をその緑灰色の双眸に宿す、ドワルは、身長でこそルデスに劣りはしたが、魁偉とさえ言える厚く引き締まった体躯を持つ。その剛腕にふるわれる剣は、長い間、獅子王と異名をとった今は亡き隣国アルザロの王ゼオルドに比肩されてきた。
 ニルデア屈指の闘将と名を上げられる、そのドワルが、ことあるごとにルデスに対して示してきた敵愾心を知るものは少なくない。
 やがて白の公子と異名されるようになったルデスがドワルの前にその姿を現したのは、まだ十代も後半のころであった。若年ながらすでにニルデア軍の中にその頭角を現しはじめていたドワルは、年が近いこともあって、ことごとくの戦場でその功を比べられてきた。
 ただ、競うことを宿命づけられたようなドワルにとって不幸だったのは、そのよって立つところがすでに、及ぶべくもなかったことだ。
 中流貴族の子であるドワルに比べ、血統をたどれば、三代を遡る時の王ローデンの弟を祖にもつルデスは、又、臣籍にあるとは言えローデンの孫を生母とした。
 さらに、その生母同士が姉妹である、王ソルスとルデスは従兄弟であり、幾重にもまつわる王統の末流であり、未だ未婚である現王ソルスの王位継承者の一人でさえあった。
 噂がある。
 ルデスも生まれたときは黒髪、黒瞳の王統の印をその身に備えていたのだと。その、父母、弟妹が全てそうであるように。この北方の地には奇しいその色を、では、いつ失ったのか――幼少のとき患った熱病が、その色を奪ったのだと。
 いずれにせよ。
 比較されたそのはじめから、ルデスを光に、ドワルをその陰とする世の評価はおよそ定められていた。
 それが時の権勢たるラデール家に対する迎合の故だけではないと知るドワルであったが、だからこそといおう、欝屈した思いはより深くその心を蝕んだ。もし己れがラデール家に比肩する家の子であれば、一軍を率い負けぬ働きができたであろう。
――もし、かのものと単騎打ち合うことが許されるならば、かならずや、地に叩き伏せてやれたものを――と。
 だが。もしルデスが僅かでもその武勲を誇り、ときに、勝れた功を立てるドワルに対抗する意識を向けていればこれほどに深甚な憎悪を抱くことはなかったのではないか。
 ドワルにとって堪え難いことに、ルデスは己が武勲に固執することがなかった。いや、むしろ誰が功を立てようが気にも止めてはいないことを、いつかドワルは知るようになった。
 ドワルがひそかに競い合おうとした、区々たる戦場の功など、その視程にさえない――その、身を捻切られるような屈辱――
 やがて、先王が没し、ソルスが即位して、その寵を恣にするようになったルデスの前に、
 ドワルを支えていた唯一といってよい自負――それが、王ソルスに対する忠誠だった。
 王を護る、その為であるなら、己が命をもなげうとう――
 遥かな高処に、怜悧に静もるこの男には、ソルスの死は己が王位への道程である。それだけは、できぬことであろう――その時が至れば、誰の忠誠が真しきものであったか。人は知ろう――と。
 その自負が――
 クローセンの野の追撃戦で、打ち砕かれた。



 突如。逆撃に転じたアルザロの王ゼオルドとその一隊の攻勢の前に、一瞬、先鋒が崩れ立った。乱戦になった、そのただ中に、ソルスがいた。
 ゼオルドの意図は顕らかだった。
 ソルスの首――それだけが、今、ゼオルドの求めるものだった。雪崩込むアルザロの騎兵にソルスとの間を押し隔てられ、必死で傍に戻ろうと剣を揮うドワルの思いも虚しく、その距離は詰まらなかった。一人、又一人と従騎を失い孤立していくソルスが、懸命に剣を揮っている。
 だめだ――間に合わぬ――
 焦燥がドワルの胸を焼く。
 その時、ドワルの右手に新たな響動がわき起った。わずかに浮き足立つ敵騎の頭越しに投げた視線の先に――ルデスがいた。
 先頭を切って疾駆する、白金の髪に、アルザロの騎兵が群がる。長剣が一閃するたびに血煙が吹き上がり、馬蹄の下に沈んでいく僚友に群がったアルザロ兵が割れた。
「あ奴を! 止めよ!」
 ゼオルドの怒号が自兵を打った。ソルスに群がっていたアルザロ兵がルデスに向かってなだれる。不意に生まれた、空隙に、ソルスとゼオルドが対峙していた。
 ゼオルドの足元にソルスの最後の従騎が血煙りを上げて倒れこむ。燃えるような赤髪が風をまき、その大剣がうなりを生じてソルスの頭部へ殺到する。辛うじて振り上げたソルスの剣が、ゼオルドの剣尖を払い除け――折れ飛んだ。
 大人と子供――それ程の体格の差が彼我にはあったが、膂力の差もそれに準じているようであった。ソルスの剣を折り飛ばしたゼオルドの大剣が再び振りかぶられる。
 ドワルの血が凍りついた。
 ソルスは逃げようとはしなかった。それが、無駄な行為であると悟りきったような醒めた顔の中で、眦だけが切れ上がる。右手はなおも折れた剣を構えていた。
 圧倒的な優位に、ゼオルドの顔が嗤い歪む。
 転瞬、猛然たる雄叫びに四囲を圧し、大剣を撃ち下ろそうとした――刹那、
「ゼオルド!」
 鋭い怒号がその動きを制止した。
 ドワルでさえがその怒号の主を見た。
 その視線の先に――押し寄せるアルザロ兵を斬り伏せながらなおも前に進もうとしているルデスがいた。
 常の低くかすれた声からは思いもつかぬ、肺腑を抉る鋭い怒声を投げた直後、右手の敵兵の頚部を斬り刎ねた長剣を、そのまま流れるような動きでなげうった。
 一瞬の躊躇いもなく――
 ドワルは見た。
 空を裂いて飛翔する剣を――
 怒号に。思わず振り返ったゼオルドの驚愕に歪む顔を――
 その首に剣が突き刺さり飛来した勢いのまま旋回するように刎ね斬った。血が。しぶき上がった。
 鞍上に、ゼオルドの巨体がゆらぐ。
 地響きとともに、その巨体が大地に伏したとき、戦場に音が戻った。
 一瞬にしてアルザロ軍が崩れ立った。
 響動立つ音とともに、再び壊走を始めるアルザロ兵を、だが、追うものはなかった。
 追えと、命じるものもなかった。
 その時になって、ドワルは気付いた。
 ルデスの怒号に気を呑まれたのが己れ一人ではなかったのだと。
 敵も、味方も、等し並みに――声さえ失っていたのだ――と。
 もはや、ソルスとルデスの間に立つものはなかった。
 ソルスが馬を駆った。ルデスは動かなかった。血塗れた短剣を右手に下げ、左手は脇腹にあてられている。
 ドワルは思い出した。右手の敵を屠ったとき左から撃ちかかろうとしていた敵兵があった――あ奴は倒されたか。だが――
 ルデスの左手――あれは‥‥血ではないのか‥‥赤く染まった左手は‥‥
「ルデスッ――」
 ソルスが叫んだ。ルデスは微かに笑った。その上体がゆらぎ、馬上に傾ぐ。短剣を落とし、たてがみをつかむ、その指の間からたてがみがすり抜けた。ルデスの姿が――視界から消えた。
 ソルスが、周りのものが駆け集まっていく。
 ドワルは、
 呆然と、それを見ていた。
 敗北感に押し拉がれて――






 かなり、前になるが――
 ドワルはソルスに問うたことがある。
「陛下はグレン・セディア公をご存じか」
 と。知らぬはずがなかった。
 知勇に優れ多くの信望を集めたがためにその信望に驕り、庶出故に望めぬ王位を望み、父王ローデンを弑し、正嫡の弟王子ベイレスの手で刑殺されたグレン・セディア・レフ・カイアード――ニルデアを震撼させたその名の主が世を去って未だに、四十年を経たに過ぎない。
 当時、若年であったものは今なお世にあり、その姿を語る。密やかに――
――ラデール侯ルデスはその生まれ替わりではないか――と。
 ソルスは笑った。そのことを告げるのは何も、ドワルが初めてではなかったから。
「王家の黒髪と黒瞳さえあれば生き写しというに等しいらしいな――」と。
「知勇を備え、信望厚いことまで同じらしい」
 そして、逆に問うた。
「お前は知っているか。当時、ローデンは正嫡のベイレスを廃し、グレン・セディアに王位を譲ろうとしていた、という噂があるを。それを怖れた王妃の一党が王を弑し、その罪をグレン・セディアにきせたという――」
 ドワルは色を為した。
「だれが――そのような――」
「ルデスではない」
 と、言い切る、ソルスの双眸はあくまで明澄な光を宿している。
「当時の記録に、その一文を書き加えたものがある。時の権力に背いてまで書き加えずにはおれぬ程に、グレン・セディアに心酔するものがあったのであろうな――」
 ソルスの言葉に、ドワルは継ぐ言葉を失った。グレン・セディアに仮託してルデスの存在の危うさを告げようとした、その意図は挫かれた。だが、
 だからといって、ドワルの心からルデスに対する不審の念が拭われたわけではない。
 いや。だからこそと言おう。
 ソルスのあまりに揺るぎない信頼の念に、行き場を失ったドワルの不審はその心の底に沈み凝った。
 王に次ぐ所領を有し、王に並ぶ信望を集め、その知勇は王に優るとさえ言われるルデスが、このままおとなしく一領主として収まっているはずがない。
――必ず、王位を望む。そして、それさえが可能な血筋を、ルデスは有しているのだ。いまはただ、時節を待ってその毒手を潜めているにすぎぬ――
 それは、既に確信といってよかった。
 妬心という土壌に落ちた、願望という種実、それが生育った姿であるその確信が――だが、クローセンの野で、根こそぎにされた。
 いかにドワルでも、あの時、己が剣をなげうつことが、命をなげうつに等しいと、知らずにはおれなかったから。果して王に代わろうという野心を持つものがそのような行為をなすであろうか――
 そして現れたのは、己が妬心という醜い土壌であった。冷たい憎悪が胸底に凝る。
 ラデール侯ルデス‥‥
 ルデスがなければ、臣下の随一たるものとして、王の信頼を一身に受けえたかも知れぬ――その、積年の恨みをおおって、
 自らにさえ覆い隠して、憎悪を糧に、さらなる疑念が枝葉を広げる。
 その、目するところは、ただなる王位ではないのだ‥‥







 ドワルは乗馬の脚を緩めた。
 一つの懸念に捉われて。
 オーコールではルデスの性癖を知らぬものはいない。
 だが‥‥まさか、ソルス様までが‥‥
 別の不安に駆られて、再び馬を駆ったドワルは木立の外で声を張った。
「陛下――」
 応えたのはルデスの声だった。
「ドワル――馬を引いて。来てくれ――」
 声に従って、木立を回ったドワルは地面に蹲るルデスを、その腕のなかのソルスを見て竦み立った。
「陛下が落馬された。石で頭を打たれた。意識がない」
 馬から下り、駆け寄るドワルに向けられたルデスの顔は、声と同様、何の感情も現わさず静もっていた。
「他のものは、まだ追いつかぬか――」
「何故――落馬など――」
「その茂みを越えられたとき馬が脚を取られた」
 ソルスを腕に抱えたままルデスが立ち上がった。
「館にお連れする。手伝ってくれ」
 自らの乗馬の傍らに立ちドワルを見返った。
「お止めするのだった。もっと強く‥‥お止めするのだった。七日前、突然ハソルシャに行くと申されたとき‥‥何としても‥‥」
「ドワル――」
 促す、ルデスの声に微かに苛立ちがこもる。ドワルは暗い光を双眸に凝らせてルデスを睨み据えた。
「陛下は。わたしがお連れする。御身には任せられぬ!」
「僭越であろう。お前は馬を牽け」
 ルデスの声調が変わった。低くかすれた声の底に切るような鋭さが加わる。
 ドワルの背を戦慄が貫いた。
 思わず、体が従う。
 ルデスはドワルの腕の間にソルスを横たえ、流れるように騎乗した。
 ドワルの腕から再びソルスの体を抱き取ると、もう、一顧だにせず馬を駆る。ドワルはソルスの馬を引き後を追った。
 両腕にソルスを支えたまま脚だけで馬を駆るルデスは、それでもはるかにドワルを引き離し緩やかにうねる起伏の彼方に去った。







 ソルスは夜になっても目覚めなかった。
 傍らに侍するドワルの顔に焦燥が深まる。
 もし‥‥このまま目覚められねば‥‥
 つと、背後を見やる。五人の侍臣が控えている。別室にはさらに十五人。
 それだけだった。
 ソルスはハソルシャを訪うのに僅か二十人の騎士を従えただけだった。それが六日前。
 明日にはオーコールに帰るという、この日に‥‥
 表の方で扉の開く気配がして、少し前に座を外したルデスが戻ってきた。五人の侍臣が立ち上がる。
 ドワルも、険悪な表情のまま椅子を立った。
「お前たちは下がって休め。後はわたしがお付きする。明日にはお気付きになろう。案ずるには及ぶまい」
「陛下は未だお気付きではない。それを、案ずるなといわれるか――」
 表情と同様、険を含んだドワルの言葉だった。ヒヤリとした五人の視線が二人の上に集まる。
 ルデスは、薄く自嘲を刷いた。
「すまぬ。心ないことを言った。ただ、我らが案じてもどうなるものではない。――わたしは。陛下がこれしきのことでどうにかなる――そのように弱い運のお方とは思っていない。明日にはお気付きになる。そう信じている。お前たちもオキルの言葉は聞いたであろう。傷自体はそう重いものではない。――だが。わたしには責がないわけではない。お側に侍しながら、このような怪我を負われるを防げなかった――」
 語調はやわらかだったが、ルデスに譲る気がないのは顕らかだった。
 そのことにむしろ、安堵するものをにじませて五人は誰からともなく頭を下げた。
「では――我らはこれで下がらせて頂きます。ドワル殿――」
 誘う言葉に、ドワルは応えようとはしなかった。
「お前たちは下がるがよかろう。わたしはお付きする」
 五人に頷いたルデスがドワルに視線を戻す。その目元から笑みが消えていた。
 突然、鋭さを加えた双眸がドワルを射る。その威圧感に、思わず一歩を下がるドワルをルデスの静かな声がさらに押しやる。
「わたしに。これ以上のことを言わせるな。ドワル。お前も下がれ」
 憤然と。ドワルは踵を返した。
 扉の音を最後に、他の気配が絶えた。
 沈鬱な表情でソルスを見下ろしていたルデスが、顔を上げる。奥に向かって声を投げた。
「よいぞ。連れてこい」
 寝台の向こうに、壁の緞帳が揺らいだ。人影を抱きかかえたオダンが姿を現わす。
 ルデスの寝室にあったと同じ隠し部屋が、この部屋にもあったのだ。ずっとそこに控えていたのだろう、オダンは灯りのなかに出て目を細めながら、腕の中の青ざめた顔を気遣わしげに見やった。アルデだった。
「ここまでする必要が、おありだったか‥‥」
 気を失い、ぐったりとオダンの腕に抱かれるアルデは、ソルスと同じ寝衣をまとい、同様に頭に布を巻いている。
「城に帰れば王の侍医が傷を改める。忘れたか」
「そうで‥‥ありましたな‥‥」
「だが。お前が案ずるほどの傷ではない。ソルスに比べればな。同様にしてもよかったのだが――手加減してある。大きく抉れているが深くはない。疑念を抱かせぬ為にはこの程度の傷は必要だ」
 言いながらルデスは、ソルスにかけられた夜具をまくる。
 露になったソルスの横に、オダンはアルデを横たえた。
 生まれて初めて。並び、眠る、兄と弟だった。互いにそれと知らぬままに、二度と、並び眠ることのない、眠りを――
 オダンの胸に、痛みがはしる。
 その感傷を断ち切るように、ルデスがソルスを抱き上げた。寝台をまわり、オダンの腕にソルスを委ねる。
「後は任せる。感傷は捨てろ。申し付けたとおりにするのだ」
 オダンは頷いた。
「わたしには‥‥御身が、わからぬ‥‥」
 深く、重い吐息を残し、オダンは再び、緞帳の後に消えた。
 アルデの姿を整え、夜具を着せかけ、ルデスは先程までドワルのかけていた椅子に腰を下ろした。だが。横たわるアルデに顔を向けようとはしなかった。
 淡い双眸は宙に据えられる。無表情な顔の上に、火影が揺曳する。
 やがて――
 その顔が、苦しげな自嘲に歪む。
「わからぬか‥‥。己れにさえ、わからぬものが‥‥お前に、わかろうはずがない‥‥。わたしは‥‥何ということを、して‥‥いるのか‥‥」
 ルデスは。両手の間に己が顔を埋めた。




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