双影記 /第3章 -1
闇――
ただ闇が――視界をおおう。
わたしは‥‥眠っているのか‥‥
ソルスは、目を閉ざし。――開く。
後頭を激痛が噛む。間断なく打ち付ける鉄槌の下に置かれたように。意識は脈打つ。
これは夢か‥‥
とりとめなく、考えは空転する。
頬の下に、身体の下に、湿った石の感触があった。そこから這い上る寒さが、身を噛む。
寒い‥‥
それは。ルデスの城館、その底深く隠された地下牢の一房だった。
だが。意識を取り戻したソルスの前にはただ、闇があるばかりだった。
何も映さぬ視界に、己れが目を開いているかさえわからなくなったソルスは、まばたく。寒さを防ぐために己が身を抱こうとして、手が動かぬのを知った。
どうして‥‥
当惑が、ソルスをとらえる。長くは続かなかった。
頭が‥‥痛い‥‥
再び。意識が遠退く。
闇の中で意識を取り戻したソルスは、己れが、半裸で石の床に横たわっているのを知らなかった。しなやかな裸体を被うものはただ一枚の腰布。後ろ手に縛られ、首には鉄輪がはめられている。鉄輪には鎖がつけられ床につながれている。何も知らぬままに、再び、闇のなかに滑り落ちていった。
どれほどの時が流れたのか。熱気が全身を押し包んでいる。熱い息が切迫し渇きが堪え難いまでになって久しい。
「水を‥‥だれか‥‥」
うわごとのような訴えは、虚しく闇に呑まれた。
やがて。
重い軋みとともに扉が開き、灯火の光が射し込む。かすむ視界の中に黒々と灯りを負った人影が歩みより、横臥したソルスの体を抱き起こした。
「誰‥‥ここは‥‥何処だ‥‥わたしはどうした‥‥」
だが。人影はその問いかけを無視して水の入った鉢をソルスの口にあてがう。強い苦みにもかかわらず甘い露が口を喉を潤していった。爽涼感が全身に拡がっていく。
「おしえてくれ‥‥どうか‥‥」
影は応えずソルスを己が胸にだき寄せた。厚く揺るぎない胸に頬を預け、ソルスは不思議な静穏の中に沈み込む。
ソルスの背後で別の手が傷の手当てを始める。頭に巻かれていた布を解きひんやりと冷たい何かをあてがい再び布を巻く。重熱い疼きが拭われるように収まっていく中で、ソルスは穏やかな眠りのなかに滑り落ちていった。
再びの闇。渇きに目覚めたソルスは体を起こそうとして、思わず、上擦った悲鳴を上げた。
冷え強張った全身の筋肉が痙攣を起こしていた。ねじ切られるような苦痛に全身が締めつけられる。悲鳴は喘ぎに変わる。
いつまで‥‥つづく‥‥
いつまでも。それは果てしないように思われた。だが。いつか苦痛は緩み、痙攣は収まっていった。
いま。ソルスは闇のなかに上体を起こし、立てた膝に顔を埋める。後頭の疼きは今だ去らずに頭を締めつける。首から垂れた鎖が重く身を引き据える。
これは‥‥夢ではない‥‥
‥‥ここは、牢だ‥‥
ソルスは自らに言い聞かせる。落馬したことを覚えている。あの時、背後に潜んでいた何者かに襲われた。では‥‥
あれで捕えられ、
この牢に連込まれたのだ‥‥
‥‥だが。だれが‥‥
何の、為に‥‥
王位を望むものに殺されるならわかる。
ソルスの脳裡に、幾人かの王族の顔が浮かぶ。未婚の王であるソルスに世子は無い。だが。
生かしたまま囚えて、どうしようというのか‥‥
不意に。ソルスの内に、自分を抱き起こした無言の胸の感触が蘇える。
ルデス‥‥
何の脈絡もなく、その名が浮かぶ。
その時。ソルスは思い出す。最後に見た、ルデスの姿を。
一瞬、己れを凍りつかせて馬上から冷然と見下ろしていた、ルデスの姿を――
信じられない‥‥
ソルスは思いを振り払った。
「そのような‥‥ありえない‥‥」
それから何度か、粥が入った鉢が運ばれた。扉の外に松明が残された。
小窓の格子を漏れてくる弱々しい灯りのなかで、ソルスは鉢に顔をつけ犬のように食らった。
飢えをしのぐために。
救いの手が及ぶまで生き延びるために。
その時。
ソルスは床に身を横たえていた。
扉の向こうで松明は燃えつきていた。
闇の中で。ソルスは考える。
それだけが。ソルスに許されたことだったから――
だが。考えは空転する。
何故‥‥ルデスが、このようなことをせねばならぬ‥‥信じられぬ‥‥
もし。ソルスがハソルシャで失踪すれば疑いはルデスにかかる。いかに信望厚いルデスであっても、苦しい立場に追い込まれる。王位継承者であっても一位のそれではない。ルデスより上位にあるものが王位を継ぎ、ルデスの罪を問うであろう。
ルデスが。問われる罪に伏する‥‥ありえぬことだ。内乱になる。王位を得るためなら決して、ルデスがとるはずのない、愚劣な策だ。考えられぬ‥‥
グレン・セディア――その名が脳裡に木霊する。狙われたのがソルスだけではないのだとしたら‥‥これが、ルデスをも陥れる罠であり、ソルス自身がルデスに対する餌であるのだとしたら‥‥
かつて、ソルスを救うために己が命さえなげうとうとしたルデス――
やめてくれ‥‥
ソルスは呻く。
わたしのために‥‥お前までが‥‥
だめだ‥‥いやだ‥‥死んではならぬ‥‥
‥‥ルデス‥‥
そして又――思惟は立ち返る。
眼底に焼き付いた、ルデスの姿――
ソルスの血を凍らせて冷然と見下ろしていた、最後に目にした、その姿に――
あの時、ルデスは何をしていたのか――
この企てがルデスのものではないのなら、なぜ、ソルスが敵の手に落ちるままに放置した――
ふと気づくと、扉の外に仄かに、明かりが生じていた。
明かりは次第に強くなり、闇になれたソルスの目を射る。ソルスは目を閉ざした。
扉が軋んだ。強い光が流れこむ。
不審が、ソルスの瞼を押し上げた。
粥の鉢を運ぶものは常に、松明を牢の外に残した。ソルスには背後の灯りを暗くさえぎる人型だけを見せてきた。
今、光とともに入ってきて扉との間に佇む気配に、横臥していた体を起こす、ソルスは眩む視線を向けた。
では‥‥ついに現れたのだ。いったい、何者が‥‥
光に。目が慣れたとき、ソルスはだが、呆然と呟いた。そこに立つ、それは――
「‥‥わたし‥‥だ‥‥」
自ら手にする松明に照らされて、己れの顔が、己れを見下ろしていた。その凍てたように表情を失った顔に、ただ、暗い双眸が光を滾らせる。やがて。引きつるように唇が動き、重く軋む、かすれた声が降り落ちる。
「驚くがいい。ソルス。――いや。今よりはアルデ――それがお前の名だ」
「アルデ‥‥」
「王たる、ソルス・キリア・レハ・カイアードはこの、わたしだからな」
「お前は‥‥」
何かが。形をとり始めていた。そのことに対する恐れに、ソルスの声が慄く。
「わずかの差で、遅れて生まれたが為に凶兆の子とされ、異国に捨てられた、お前の――双生の弟だ!」
息が、凍った。
そのことに対する疑念は湧かなかった。
それを告げる相手の、その姿こそが、それを証し立てていた。
呆然と見上げるソルスに、歩み寄ったアルデはその首から垂れた鎖に足を掛け、力任せにを踏み押さえた。
鎖は短い。膝立ちになることもできぬ長さの半ば辺りを踏み押さえられてソルスはのめるように床に倒れ込む。かろうじて身をひねった、右肩が鈍い音を響かせ床を打つ。
「いいざまだ――」
軋る声は、苦しげでさえあった。ソルスは、かすれる声を絞る。
「アルデ‥‥それは‥‥お前の名‥だったのだな‥‥」
「そうだ」
「アルデ‥‥」
ソルスは呼びかける。声に、弾かれたようにアルデの足が跳ね、ソルスの腹に蹴り込まれた。くぐもった音が響き、激痛にソルスは横臥した体を二つに折った。
「やめろ。アルデはお前だ。お前が――アルデだ!」
激しく、吐き捨てる。
「何故‥‥それほど‥‥わたしを、憎む‥‥」
「なぜだと?」
アルデの全身が激しく戦いた。
「わたしが、お前であったかもしれないのだ。お前が暖かなむつきのうちに豊かな乳を与えられているとき、わたしは飢えと寒さで泣いていた。‥‥捨て子として育てられたものがどのように扱われるか‥‥お前は知るまい。お前が王子として満ち足りた平安の中にぬくぬくと浸っていたとき、わたしは鞭で追い使われていた‥‥だから、お前のものであったかも知れぬこの半生をお前に返そうというのだ。わたしのものであったかも知れぬその、半生を取り戻すためにな――」
自らを駆り立てるように言い放ったアルデは、愕然としてその言葉を聞いていたソルスの首の下に足を差し込む。そして、手にした松明を己れに向けられた半顔に押しつけた。
激しく鎖が鳴る。
アルデの足は首根近くで鎖を踏み押さえ、顔を背け逃れることを許さなかった。その脚に妨げられ、伏せ躱すこともできぬまま左頬を焼く激痛に、ソルスは身を捩った。押し殺した呻きが喉を突く。
「もう、お前にこの顔はいらぬ。この顔は唯一、王たるわたしのものであればいい‥‥」
だがアルデは、己が言葉のままに、それをなしとげることは、できなかった。荒い息に胸を喘がせよろめくように後ろに下がる。そして、肩越しに扉の方を見た。
そこに。ルデスがいた。
閉ざした扉に背を預け、冷然となりゆきを眺めているルデスに、
なぜだ――ルデス‥‥なぜ止めない――
アルデは胸のうちに叫ぶ。
これは、お前のソルスではないか――
三日前――
ルデスに指示されるままに、野の茂みに待ち伏せ、その罠にソルスを捕えたアルデは、意識を失ったソルスに口移しに薬を含ませるルデスを見て一つの決意を凝らせた。
その以前。あの執務室での無残な一夜以来、ルデスとは会う機会もなく、煩悶を続けていたアルデだった。
心ならずもルデスを脅す言葉を口にして、冷然たる嘲嗤をもってあしらわれたアルデは、だが、己が疑念を打ち捨てることはできなかった。
だからといって、ソルスの前に名乗り出るなどは思いの外だった。それをすれば、ルデスは永久にアルデから失われてしまう。
かつては、王になればルデスは再び己れを受け入れてくれると信じることができた。
ソルスの為に深手を負い、又、ハソルシャを訪れたソルスに向けるルデスの微笑を見た今、アルデには、それができなくなった。
信じたい‥‥
だが。信じることはできなかった。
ルデスがソルスを運び去った後、アルデは隠し道を抜け、館に入った。
寝室の奥、隠し部屋に潜むアルデの元に、ルデスが現われたのは夜に入ってからだった。オキルを従えていた。
「石は、用意されたであろうな」
相変わらず、冷ややかな言葉だった。
一瞬、すがるような視線を投げたアルデだったが、黙って野から持ってきた石を差しだした。
「後ろを向いていただこう」
ルデスが言う。
「その前に。言っておくことがある。オキルは座を外せ」
アルデの言葉に、オキルの視線がルデスに向けられる。ルデスは無言で頷いた。
オキルが立ち去ってもルデスは自ら問おうとはしなかった。ただ冷然と沈黙するルデスにアルデは苦しげに息を吐く。自ら言いだしたことだった。言ってしまわなければならない。
「前に。ソルスは幽閉するといった。だが。気が変わった。ソルスは異国に追う。その前に、顔を焼き、舌を切り、目を抉るといったな。よかろう。だが、その時にはわたしも立ち合う。よいな」
「御身が望むなら。だが、追う前にそれをするのは御身だ。立ち合うなどとは言われるな」
ルデスが応える。思いもかけぬその言葉の衝撃に、アルデがよろめいた。
「馬鹿な――」
「――とは、心外な言われようだ。ここにはそのような真似ができるもの、他にいると思われるか。仮にも、敬愛して仕えてきたお方だ。御身なれば、できよう。自ら望まれたことでもある」
アルデは押し黙った。
できるはずが‥‥ない‥‥
だが、他に、どのようなすべがある‥‥
ソルスに対するルデスの思いを推し量るに、他に、どのような――
「よろしいか――」
促すルデスに、アルデは昏い双眸を向ける。
やがて――
「お前が――立ち合うのであれば‥‥」
「御身が。望まれるのであれば」
言下に応えるルデスの声に、乱れはなかった。ついに、冷然たる声調は崩れなかった。
逆に。アルデの声は苦悩にかすれる。
「わたしは‥‥望む‥‥」
そして。ルデスに背を向けた。降り下ろされる石を受けるために。
身を、震わせながら――
今。ソルスの顔を焼くアルデを、ルデスは冷然と見据える。
ルデスは止めない‥‥では‥‥続けなければならない‥‥
だが――どこまで‥‥
よろめき下がったアルデに、踏み押さえられていた鎖が放たれ、ソルスは折り敷いた膝のうえに突伏していた。石の床に額を押しあて背を弓のようにたわめる。乱れ落ちた黒髪が顔を覆い、冷たい汗に濡れ慄き震える背中に後手に縛り上げられた腕が痛々しくよじれる――その苦悶のさまを前に立ち竦む、アルデの腹腔を冷気が伝い落ちた。焼きつぶさねばならぬのは、己れと同じ顔だった。
その恐怖を見透かしているであろうルデスの視線が背を刺す。それを、はねのけるように、アルデは声を絞った。
「どうした。何かいったらどうだ。お前の全てを奪おうというわたしだ。恨み言のひとつでもいうがよい」
だが。
「‥‥お前は‥‥それ程に‥‥酷い目に、逢って‥‥きたのか‥‥
‥‥だとしたら‥‥お前には、すまないと‥‥」
刹那、眦を裂くほどに、アルデの双眸が見開かれる。
「すまないだと‥‥すまないだと!‥‥黙れ‥‥黙れ‥黙れ!――そのような言葉ひとつで‥‥これまで呑んできた苦渋が、忘れられると思うか!」
叫び、俯せたソルスの胸の下に松明を突き入れた。横臥したままに伏せられていた半身が弾かれたように仰のく。嗄れた悲鳴をあげ、ソルスは身を捩った。ねじれた首のさきに背け伏せた顔が歪む。アルデは執拗に手にした松明をソルスの胸元に押しつけた。顔を‥‥上げさせねば、ならない‥‥なぜ、わたしを見ない ――憎しみの目で――怨みの目で――なぜ、わたしを見ない――
肉が焼け異臭が辺りに立ちこめる。かみ殺しきれぬ苦鳴が空を震わせ、喉元にせぐり上げる喘ぎに途切れた。
それでも。ソルスは憎悪の視線を向けようとはしなかった。制止する、ルデスの声は、なかった。