双影記 /第3章 -2
なぜだ‥‥
松明を持つ手を脇に落とす、アルデはふらりと後退った。足元に弱々しく息を喘がせるソルスに虚ろな視線をなげかける。
声にはなされなかった、そのといかけを聞き取ったかのように、ソルスの顔が向けられた。焼けただれた頬、乱れまつわる黒髪、そしてその双眸――アルデの理解をこえて、なおも輝かしく、真摯な光をたたえ己れを見上げてくるその黒瞳に、アルデの顔が苦しげに歪められた。
ソルスは目を閉ざし、ふたたび顔を伏せた。その頬を、つと涙が伝い落ちる。
「何故‥‥お前と‥‥このように、会わねば‥‥ならなかったか‥‥」
一瞬、激しく身を震わせたアルデは荒々しく松明を床に投げ捨てた。そして踵を反す。
「わたしには‥‥これ以上、できない! 満足か! ルデス!」
それは、血を吐くような叫びだった。
ルデスは。もたれていた扉から背を離し、ゆらりと道を開く。叩きつけるように扉を開け放ち、アルデは牢を飛び出した。
顔をうつむけ駈け去る足音を聞いていたルデスは、やがて、静かに向き直った。
ルデス――
その叫びに、ソルスは目を見開いた。
眼前の床に、落ちた松明が燃える。その炎の向こう、弱い光に照らされた、丈高い人影に―― 一瞬、凍りついた血流が逆流する。鼓動が耳を聾し、全身が激しく音を上げて脈打った。
「くう――ッ」
咽ぶように唸る、声が低く床を這う。逆流した血が胸を圧し、ソルスは起こした身をふたたび折り屈めた。胸が――裂ける――
――その、痛みに。
「何故だッ――」
叫びは、拉がれ、ひび割れる。
「御身には、既に、お分りのことと思うが」
静かな声が、降って落ちた。振り仰ぐ、その眦が切れ上がる。
「わからぬ‥‥わからぬッ――。どうして、このような真似ができる‥‥どうして‥‥ここまでこの身を‥‥」
「御身を。異国に追う――あの御方が望まれたのでな。その前に、顔を焼き、舌を抜き、目を抉らねばならぬ。おわかりのことと思うが、御身は油断のならぬお方だ。その為には、手を縛り、鎖でもつけておかねば、とてものことに――なにしろ、御身はお強い――」
衝撃に。ソルスの体が凍りついた。
大きな喘ぎが喉を突く。
「‥‥やめろ‥‥やめてくれ‥‥。いっそ‥‥一思いに‥‥殺してくれ‥‥」
微かな笑いが空を震わせた。
「早まられるな。もう、それは無い。何しろご自身が断念された。故に、御身はその姿のまま、幽閉される。――優しい、お方だ」
背をたわめ項垂れる、ソルスはぐったりと力の抜けた体を震わせた。
始めの激情は、失われていた。
「何故‥‥そのように‥‥この身をいたぶらねばならぬ‥‥」
「御身は。お知りになりたくはないか。あの御方が、どのように育たれたか――」
問うことに応えようとはしないルデスに、ソルスは力ない視線を上げた。
「‥‥教えて‥‥くれ‥‥」
「――あの御方は、レカルの地に捨てられた。拾った領主は己れの農奴小屋に入れた。あの御方は、農奴として育たれたのだ。そして、十三の年にその領主に犯された」
愕然として、ソルスは息をつめる。
「一度。逃亡を計られたが捕えられた。それ以来、手足に鎖を打たれ、昼は牛馬のごとく追い使われ、夜は農奴共の慰み者として犯され続けてきた。昨年の春、オダンが連れ戻しに行ったときには、軛につながれ犂を曳いておられたそうだ。あの御方の体には今なお、無数の鞭の痕が残っている。手首の傷こそ癒えたが、足首には、まだに鉄輪の痕が消えぬ。――迎えがあと一月も遅れていれば、死なれていたであろう程に、衰弱しておられた」
「なんと‥‥いうことだ‥‥」
ソルスは呻いた。耐えがたい思いに顔を伏せ、身を震わせる。
「だからなのか‥‥だから‥‥お前は、彼のために‥‥このような‥‥」
「御身としては――そう思いたいところであろうな――同情故に、と――」
いつのまに歩み寄ったのか、間近から降り落ちる声に、ソルスの体が強張った。
かつて、そのようなことはなかった。今、ルデスには、身の内が竦み上がるほどに、ソルスを脅かす何かがある――
「ルデス‥‥」
片膝をついたルデスの右手が顎の下に差し込まれる。
「御身に――このような仕打ちを加えたもののために――御身は泣かれるか――」
仰向かせた顔の上に流れる涙を認めて、ルデスが呟いた。低くかすれる耳に心地よい声はあくまで穏やかに、ソルスを困惑させた。
「何故だ‥‥ルデス‥‥」
といかけるソルスの声は微かな怯えを這わす。ルデスは応えなかった。無言のままに、左手を頬に添え、そして、
ゆっくりと、顔を寄せた。
一瞬、ソルスの顔が凍りつく。押し塞がれた唇を割って押し入ってくる熱い塊に、ソルスは激しく身を捩った。
無駄だった。
のしかかるように覆い被さり、執拗に貪りつく唇を引き剥がすことはできなかった。鋼のような指は無慈悲に抵抗を封じこめる。首の後ろにまわされた右手に鉄輪の上から押さえ込まれ、頬をなぞるように下顎をつかみ締めた左手に、歯を合わすこともできぬまま、舌が絡めとられ、激しく吸いあげられた。
反りたわめられた背が慄き、呻くことも封じられた喉が痙攣する。こみ上げる喘ぎすら貪り呑むルデスに、唇を奪われたまま、ソルスは目を閉ざした。抗うことを諦めたか、その身体から力が抜ける。それに誘われるようにルデスの手が弛む、刹那――激しく身を捩り伏せる、ソルスは渾身の力を振り絞って、ルデスから、己れを引き剥がした。つかの間――だった。
荒い息に喘ぐ肩をつかまれ、ソルスは仰向けに床のうえに押し倒されていた。鋼のような指が両肩を押さえつける。後ろ手に縛られた手首の痛みに全身を強ばらせる、ソルスは己れをまたいで膝をつき真っ向から見下ろすルデスの顔を見上げた。ゆれる火影に思いの知れぬ陰を宿して静もる、秀麗な顔を――
「何故だ――」
悲痛に震え落ちる声もその心にはとどかぬか、ルデスの右手が肩からすべり、焼けただれ、なおも血を噴いてやまぬ胸の傷をかきむしった。激痛にソルスの四肢が、首が、捩れる。
「‥‥やめてくれ‥‥ルデス‥‥」
だが、ルデスは力を緩めようとはしなかった。容赦なく襲う激痛は、ソルスの内から抗う力を削ぎ落としていく。
やがて。ぐったりと力の抜けた体を得て、ようやく、ルデスの手が傷の上から離れた。
何故‥‥
痛みはなおも鈍く執拗にまといついていた。その痛み以上に堪えがたい痛みに、かみ殺しきれぬ嗚咽がソルスの口を突く。己れを苛む現実を、今なお信じられぬ己れがいた。
そんなソルスの甘さを嘲笑うかのように、ルデスの手が無防備に投げ出された下肢を割って腰布の裾から差し込まれる。
内股をまさぐり這い上がる手に、ソルスは寝返るように腰をひねり膝を胸に引き寄せた。
「――ル――デスッ――ッ」
激しく喘ぎながら制止する、声は弱々しくもつれる。横に向き重ね合わせた膝に己れを守ろうとするソルスを見下ろす、ルデスの唇が半月の形に嗤った。
「御身は。アルデが、どのように慰まれてきたか――知りたくないか――」
「アル‥‥デ‥‥」
思いもよらぬルデスの言葉だった。
ソルスは呪縛された。その身体の中に、背後から何かがぬめり込む。
「あうっ――!」
息を呑み、身を強張らせる。刹那、折り曲げた下肢の付根に腕がまわされ、荒々しく引き据えられていた。
跪いた大腿の間に腰を抱え込み、後ろを犯す手はそのままに、前に回した手を折り伏せた腹から胸へ這わせる――ルデスの上体がのしかかるようにたわめた背に重ねられる。
外観からは予想のつかない量感を持つ重みをずしりと、その背に受けとめたとき、ソルスの内で抵抗の意志が砕けた。
「アルデも‥‥このような思いを、してきたのか‥‥」
ソルスは呻いた。
「それはどうか。御身は、王たるべく育たれた。矜持も自負心も充分以上にお持ちだ。が、農奴として育った十三の子供にそのようなものが、いかばかりかあると思いか――憤怒も屈辱も御身なればのもの。恐怖と絶望、苦痛を与えるものへの憎悪――それが全てであったであろうな――」
低く応える、ルデスの声が耳元に不思議な韻律を刻む。
「あの御方は――その憎悪を、身の支えにしてこられたのだ。御身も。これからは、そうなさればよい――」
深々と呑まされた指が抉る、その衝撃に喘ぐ、ソルスの喉を咽ぶように哀訴の声がほとばしった。
「‥‥いやだ‥‥やめてくれ‥‥わたしに、お前を、憎ませ‥‥ないで‥‥」
言葉は乱れ、切れ切れに床を這う。その悲痛な声もルデスの心を動かすことはなかった。手は容赦なく股間を嬲り続ける。
「ルデ‥‥ス――」
不意に。ルデスの動きが止まった。扉の外に足音があった。間近に差す火影とともに開け放たれたままの扉の前に立つ。
「ルデス様――」
松明をかかげたオダンだった。
「申し付けどおり、オキルを――」
一歩を踏み込み、言いさした言葉を呑む。牢内の有様に、後ろにオキルを従えたその足が止まった。
石の床に這わされその腰を抱え込まれたソルスの姿に。股間に差し入れた手もそのままにゆっくりと上体を起こすルデスに。
無残な――
オダンの顔が怒気を含んで強張る。
「アルデが。命じたか――」
視線を向けたルデスの双眸が凍てる。
「そのお方に――傷を負わせてしまわれたと――悔やんでおられた」
ルデスの下で。ソルスの身体が煮えた。
余人に見られる――
――このような。ざまを――
その屈辱に。ソルスは喉を突く呻きを噛み殺した。背中で縛り合わされた両手が固く握り込まれる。
「後は。お任せいただこう」
オダンの声は硬い。冷然と見据えるルデスにも、引き下がる気配を見せなかった。そして。ルデスが折れた。
手を放し立ち上がる。その気配が離れ、彼方に遠ざかっていく静かな足音に、ソルスの上体がくずおれた。
「オキル――」
オダンに促されて医師が歩み寄った。
折り敷いた脚のうえに俯せるソルスの上体を起こした、医師の口から微かな呻きが漏れる。
口をきくものはなかった。手当てを受ける間、ソルスは目を閉ざし続けた。
やがて。手当てをすませたオキルが離れ。光が動き、足音が扉に向かう。
「‥‥あれは‥‥何日前だったのか‥‥」
低く吐息する声に、足音が止む。
「三日――前のことです――」
重い声が応える。扉が軋み、牢内に闇が降りた。
ソルスは、目を開く。
「‥‥三日‥‥。‥‥まだ‥‥三日でしかない‥‥のか‥‥」
呟く声は弱々しく闇に吸われる。ソルスは目を閉ざし身を横たえた。
やがて。
その口から、低く、笑声が流れ出る。
笑声は闇を震わせて長く、
長く――尾を引いて――
――絶えた。
今――
ソルスは薄明るい部屋のなかにいた。
傷は手当てされ、体は清められ、白い寛衣に包まれた体に、痛みはすでに遠い。
体は癒えかけていた。
剥出しの石組みの壁と床。鉄格子のはまった窓。寝台だけが置かれた広い円形の部屋。右足首の鉄輪と鎖で部屋の中央にすえられた寝台の脚に繋がれている。
それは、ルデスの館の塔の間だった。
この部屋に移されて一月近い時が過ぎた。日に一度、身の回りを世話する老僕と医師が訪れる。あれ以来、ルデスの訪いはなかった。
終日。寝台に腰をおろし、明るい窓の外を見つめる以外なすこともない、ソルスは思い沈む。
アルデに対して、憎しみは湧かなかった。ルデスによって語られたその生い立ちが、負い目さえ伴ってソルスを縛る。
だが。ルデスは――
昨年の春といった。アルデを連れ戻し、手元に置いたのは。
先代ラデール侯カラフの死が冬の末――その時に、知らされたのであろうか――農奴として育ったというアルデ。そのアルデをソルスにしたて入れ替える―― 一月や二月で為せることではない。それほどに周到に、時をかけた、その企てを秘め、いつに変わらず物静かに仕えてきた。命を賭してソルスを救いさえした。
あの、ハソルシャの森で――光あふれる丘の上で語り合った、あれはいったい何だったのか――
ソルスをヨレイルの覇者たりうるとさえ言ったルデス――
その。ルデスが――
何故だ‥‥
何故。この身を。このような境涯に落しめる‥‥
アルデ故ではない。
アルデ故なら他にいかようにでも取り得る道はあった。それのわからぬルデスではない。
それ程に、この身をその劣情の具に供したかったのか‥‥
憎むべきルデス。
怒るべき――ルデス。
だが、怒りも憎しみもどこか遠い。
心は半ば麻痺し、激しかるべき思いは膜に包まれたように鈍くとらえどころない。
ルデス故だ‥‥
ソルスは苦しげに目を閉ざした。
これを為したのが余人であったら‥‥
こうまで‥‥怒りさえ見失うまでに、虚脱はしなかったであろう‥‥
その時には、ルデスが‥‥いる‥‥
命を賭してさえこの身を救おうとする、ルデスが‥‥いる‥‥
‥‥これが‥‥
絶望と、いうものだろうか‥‥
そして。ソルスの思いは常に、そのことの上に回帰する。
それは――
思い出すたびに血が逆流し脳底を灼く――
腰から脚へと痺れるような脱力感に貫かれる――己れの上に刻まれた、忌まわしい、肉の記憶――だった。
ソルスは唇をかみしめる。男の情念を刻印されたそれを。
あれが‥‥ルデスか‥‥
かつて。見せたことのないルデスの半面だった。それは、ソルスに、底知れぬ深淵を覗き見せる。
ただ。惑乱が深まっていった。
その日、ルデスが帰館した。
後ろ手に閉ざした扉を背に立つルデスは、窓に向かって立つソルスを冷然と眺める。
鎖は短く窓までの半ばしかない。
「外が。ご覧になりたいか」
揶揄をからませたルデスの言葉が。じわりと、ソルスをいたぶる。
「死ぬまで。こうして繋がれているのか――」
やがて。ソルスは応える。
「――すでにソルスとして生きることはできぬ。だが、アルデとして生きることも許されぬらしい。わたしは‥‥もう、人ですら、ないのか‥‥」
ルデスは無言で歩みよりソルスを抱き竦めた。
腕の動きを封じるように背後に回した手で首を押さえ込み強引に唇を重ねる。
ソルスの全身が硬直する。
頭ひとつ高いルデスの長身がのしかかるようにソルスの上に被いかぶさり、さらに深くその口を貪ろうとして、不意に、その足元に崩れ落ちた。
「これは‥‥油断のならぬお方よ‥‥」
僅かに口元を歪め、その腕から逃れるように後退ったソルスを見上げる。
自由な側の膝で強かにその下腹を突き上げられたためだった。
「御身が武人であられたこと‥‥失念していた‥‥」
ソルスは無言だった。
全てをはぎとられ、その身ひとつ意志のままにならぬ境涯におとしめられた今、それが虚しい抵抗であるとは、いわれるを待たない。ルデスがその気になればどこまで抗い得るか。
だが――
この時、ルデスの意のままにその情欲の下に屈すれば、それはもう人ではない。人の姿をしたただの玩弄物、物になりさがる。
それでも。ルデスに向けられるソルスの双眸には憤怒も屈辱もなかった。
ただ、深く静もる暗い双眸に、ルデスの内を、刺すような喜悦がつきぬける。
一瞬のことだった。
微かな冷笑で心をおおい立ち上がる。今のソルスの境涯にはいっそ無礼なほどの丁重さで一揖し、ルデスは去った。
ソルスは。両手で顔を被い、立ち尽くした。