双影記 /第3章 -4
翌朝。ワルベクを引き連れ再び塔を訪ったオキルは、微動もしなかったように寝台の端に腰をおろし、ソルスを見つめ続けるルデスを見いだした。
「殿‥‥」
オキルの声に顔をあげたルデスは。微かに笑いを含んだ視線を向ける。
「――まだ‥‥覚めぬ‥‥」
それは、オキルに向けられながら、鈍い、なにものをも見てはいない視線だった。
ぞくりと。オキルの背を何かが這いずる。
「薬湯を――お持ちしました。それと。滋養のあるスープを‥‥」
「――そうか。頼む」
緩慢に立ち上がり、場所を譲るように足元に立つ。オキルはワルベクを促し、ソルスの傍らに進んだ。その頭を片腕に支え、ワルベクから受け取った薬湯の杯を口にあてがう。
だが。薬湯は虚しく胸のうえにこぼれ落ちた。
「これは‥‥」
オキルが困惑の声をもらす。
「――わたしが。やろう」
ゆらりと。ルデスが前にでた。
オキルは、感情をどこかに置き忘れたようなルデスの顔を見上げた。そして。無言で脇に下がり杯をさしだす。
ルデスは寝台に腰をおろし、ソルスを抱き起こした。受け取った杯の薬湯を自ら口に含み、ソルスの口に移し与える。
木偶のようなソルスの喉が微かに動き、薬湯を飲み下した。それを見定めたルデスの顔に微かに安堵の色がさす。再び、自らの口に薬湯を含んだ。
幾度。それを繰り返したか。
いつか。ルデスの頬をとめどない涙が伝い落ちていた。
無言で。涙を流しながら、口移しに与え続ける‥‥オキルは言葉もなくそれをみつめ続けた。
やがて。与えるものも尽きる。
手は杯を置くことも忘れ力なく脇に落とされた。ただ、片腕にかき抱くように支えた、ソルスの顔を見つめ続ける。
オキルはルデスの手から杯を取り外した。ワルベクに渡し無言でうなづく。ワルベクが立ち去る。ルデスは動かなかった。もはや。その視界の中にはソルス以外のなにものも映ってはいないようであった。
どれほどの時が過ぎたか。オキルの口から重い吐息が漏れる。
「殿――」
呼びかける、声はだがルデスの意識には届かなかった。
「――ルデス様!」
オキルは自らを強いて声を張った。
「――おいで下さい。あなたも食事をとり休まれねば。お体に障りましょう」
その声に。ようやくに。ルデスの顔のうえに表情が動く。目を閉ざし。自嘲の影を刻む。
やがて。何かをふりきるように首を振り、視線を上げる。そして。静かにソルスを横たえ夜具をきせかけ、寝台を離れた。しなやかな足取りで扉に向かう、背に、一瞬ソルスに思い迷う視線を投げたオキルが続く。
その、オキルの前にルデスの膝が砕けた。のめるように両手をつき蹲る。驚き駆け寄ろうとしたオキルはだが、打たれたように脚を止めた。
蹲ったルデスの肩が、背が、震える。
低い、引きつるような笑声を床に這わせ、ルデスは笑っていた。
床に突いた両腕の間に顔を埋め。ルデスは。笑い続けた。
オキルには慟哭に聞こえる、
笑いだった。
この朝を境に、ルデスの顔からは一切の表情が失われた。
自ら塔の間に椅子を運びこみ、端然とそれに座し、日を送る。
朝と夕にオキルによって運ばれる食物と薬湯を口移しにソルスに与えた後、自ら食するために塔をおりる以外、横になることもなく、ソルスの傍らに座し続けた。
殿は――いかがされたのか――
滞在しながら野駆にも出ずに奥にこもりきり、ただならぬ様子で塔に通う――
いつか、館に仕える者の間に、そのような不安がささやかれ始めていた。
そして十日余。
オーコールの公邸からリファン・レン・ドーレが訪れた。
「殿は。何処におられる――」
迎え出たワルベクらの制止を振り切って押し通ったルデスの居室で。リファンは苛立ちも露わに向き直る。
室の中に立つリファンを、開け放たれた扉を背にワルベクは黙然と見返した。
かつてルデスの寵をほしいままにしていた若者の美貌を。灯された燭の光を吸って艶やかな黄金の巻毛、男にしては色白の小振りな細面にくっきりと描かれた目鼻立ち、その鉄灰色の双眸が意地の強さを表すか、
「ワルベク!」
リファンの声が尖る。
きつい視線を据える若者に、沈鬱な視線を向ける、ワルベクは微かに吐息した。
すでに夕刻。しばらく前に、塔に夕のものを運ぶオキルを見送ったワルベクだった。ルデスが食事に下りてくる時も近い。
「殿は。じきにまいられましょう。ここで、お待ちなされますか」
「――やはり。塔に、おられるのだな。お前は知るまいが、公邸ではもっぱらの噂だ。この館の塔の間には魔が棲みついたとな。殿はその、魔に魅入られ狂われたと――」
「リファン様」
表情を殺した顔のなかでわずかに見開かれた双眸に光が射す。
「魔――などと。あなたは信じておられるのか」
「魔かどうかは知らぬが――そのもののために殿が塔に入り浸っているのは確かなのであろう――」
押し黙るワルベクにリファンはその口を歪めた。
「奥の様子、表の者は気付かぬとでも思ったか。使者が、殿の書状を持参した折に奥方に申し上げたのであろう。――それを、奥方が尾鰭を付けて広めてしまわれた――。だが、それもあながち外れてはおらぬのかも知れぬ。もう何日も、ここで休まれた様子もないそうではないか――」
抑えた怒りに――声に震えを這わすリファンを、ワルベクは硬い面持ちで眺めやる。
リファンは険を刷いた双眸で沈黙するワルベクを見据えていたが、
「陛下が。公邸にまいられた」
低く押し殺した声で告げた。
ワルベクの顔を一瞬、沈痛な色がかすめる。それを認めた、リファンがさらに押しかぶせる。
「そうだ。――でなくてどうして、このわたしが来れようか。殿に――もうここに来てはならぬと申し渡されている――。だが、――陛下は。殿の登城を求めておられる。しかも七日と――日限を切られてな。それには、明日――ここを発たねば間に合わぬ――」
リファンは足早に室を突切った。開け放たれた扉を通廊に出ようとして、ワルベクに前を塞がれる。押し退けようと上げた手首をとられ、歯軋るような怒声を上げた。
「無礼であろう! 放せ!」
「いや――奥までお通りになられたからには止むを得ぬ。あなたにはここでお待ちいただく」
頑として譲る気配を見せぬワルベクの老人とは思えぬ力の前に、睨み据えるリファンの目の内を逡巡がかすめる。振り切ることはできる。だが――身分もない家僕とはいえ、ハソルシャの城館の奥の宰領を一身に任されるほどにワルベクに対するルデスの信頼は厚い、それを知るリファンだった。そのリファンの前に、またひとつ影が立った。
「オキル――」
リファンの声に影――が一揖する。
塔から戻ったオキルはリファンの来訪を知らされ、不安に狩りたてられるように、その姿を求めてルデスの居間にきた。
何故、今、リファン様が‥‥
室内から流れ出る声がそれに答えていた。そこに語られる事柄にオキルは通廊に脚を竦ませる。だが、堅い思いをその顔に凝らせたリファンが姿を見せ、それを阻もうとするワルベクともみ合うのを見て、思わず前に出ていた。
「お前も、邪魔をするか――」
リファンが鋭く問いかける。
「オーコールよりお見えと聞き――。殿を、お探しですか――」
苦しげに語を接ぐオキルを、
「お前は、知っていると?――」
リファンは常夜灯の光に浮かぶ、肉の薄い顔を睨みつけた。
「執務室には、おいでになられたか、それとも書庫には――」
「いずれにも。おられなかった。――オキル。お前にも応えられぬか? 殿は――いったい、どうなされたか――」
謹直なオキルの顔が困惑に歪む。
「わたしにも、言えぬことか。――それとも。わたしだからこそ――いえぬのか――」
「何のことを、言っておいでだ――」
「殿は――何故、終日、塔に詰めておられる――」
押し黙るオキルをそれ以上問い詰めようとはせず、リファンはワルベクの手を振り払った。それには逆らわず手を放したワルベクだったが、その前をどこうとはしなかった。
「塔に――行かれてはなりませぬ。殿はお許しにならぬ――」
「覚悟のうえだ――」
リファンは一歩を踏み出す。だが、そこでリファンの足が止まった。
オキルの頭越しに近付く丈高い影に――
「ルデス様‥‥」
リファンの声にオキルは振り返った。ワルベクは無言で身を退く。
「もうよい。オキル――」
低く、やわらかなその声に、安堵を滲ませオキルは壁ぎわに下がった。
慕わしい声に駆け寄りたい思いを押し殺し竦みたつ、リファンは灯りの中に立った姿にと胸を突かれ、息を呑んだ。
それほどの変容だった。
わずか、二十日余の間に、頬が削げ立つほどに憔悴した顔は、無残でさえあった。
鋭い双眸をおおい隠すように常に目元に湛えられていた笑みも――ない。
「どうした。それほどに、変わったか」
リファンを誘ってルデスの口元がほころぶ。
「――殿‥‥」
リファンは切なげに顔を歪めた。
ためらいがちに前にでるリファンに大股に歩み寄り、荒々しく抱きすくめたルデスは、人も無げにその唇を合わせた。
絡めあった舌を激しく吸われて、リファンの下肢が砕けた。崩れようとする体をルデスの腕が抱き支える。そのままさらうように居室に歩み入った、背に、
「――今。食事を運ばせます」
無言で控えていたワルベクが扉を閉ざした。
運ばれた食事を前にリファンが語り終えてなおルデスは宙に据えた視線を動かそうとはしなかった。やがて、
「それで。お前が来たか――」
微かに苦笑を含んで呟く。
「お許しください。わたしは――」
絶句するリファンに、その時初めて視線を戻し、ルデスは吐息した。
「許されねばならぬは、わたしであろうよ。お前には――すまぬことをしたと思っている。ここに来るを禁じはしたが――それによりかえってお前の心を追い詰めてしまった――」
「ルデス様‥‥」
媚を刷いて、
リファンはその目元を薄く染めた。
既に、五年になる。
「わたしは‥‥殿のものになりたい‥‥」
当時十八だったリファンが明日は正騎士に任じられるというその日、それが最後となる一日の務めを果たしてもなおルデスの寝室を去らず、自らそう告げた夜より――
その日まで、従者として身近く仕えながら思いをつのらせてきたリファンだった。明日からは別の若者が仕えることになる。これが最後の機会だ――との思いは焦燥に近い。
殿が、わたしの思いに気付いておらぬはずがない――リファンは確信していた。好意を得ている自信もあった。しかも、今はあの者もいない――
それなのに、何故‥‥
前年、結婚を目前に騎士の一人を情人として周囲を驚倒させたルデスだった。だがこのことは、男には関心を持たれぬ御方と、半ば断念してきたリファンに希望を抱かせた。
そして、ことごとに己が意を示してきたリファンだったが、ルデスは一向に態度を変えようとはしなかった。このまま、ただの主従として終わらねばならぬとしたら、
耐えられぬ‥‥その思いに、身を震わせて立つリファンに、ルデスはただ思いの知れぬ視線を向ける。
やがて――
「お前を、わたしのものとすることはできるが――わたしは、お前のものとはなれぬ。よいのか――」
吐息するように、問うた。
「かまいませぬ。それでも‥‥かまいませぬ‥‥」
のべられた腕のなかに身を委ねながらリファンは泣いた。己が至福に――
その夜から、月毎のハソルシャ滞在はリファンにとり特別なものとなった。
ハソルシャ――
かつてラデール家の本領の地であり隣国アルザロに接する辺境の地として、今はその半ばがうち捨てられた多数の砦を有するハソルシャはその城館もまた国境守備の城塞として多くの家臣、兵団を擁していた。
だが。
五十年前、イルバシェルがニルデアに帰した年、その折の戦功を賞して与えられたリクセルにラデール家は本拠を移した。
以来、ハソルシャはラデール家にとっては副次的な所領としてその領館もほとんど顧みられることなく、数少ない家臣によって管理される外は当主の訪いも滅多にないまま、打ち棄てられたように代を経た。
そのハソルシャに、ルデスは足繁く通う。
ルデスが一月とおかずハソルシャを訪うのは、彼が生後間もなくより十代の半ばまでをその領館で育ち暮らしたという経緯があるからであろう。ルデスがこの地に抱いている並ならぬ愛着は誰の目にも明らかだった。
かつてはただの従者としてつき従ってきたハソルシャに従士として随従する――その寵を受ける、リファンにとっての至福の時はだが先代カラフの死とともに終わった。
それまでも病身のカラフに代わりラデール家の全てを裁量してきたルデスだったがその死により名実ともに当主となった――それを機としたか――
「わたしのことは、思い捨てよ――」
それが最後となったハソルシャでの夜――その腕のなかで余韻に浸るリファンの血を凍らせてルデスは告げた。
「‥‥いやです‥‥わたしには、できない‥‥」
リファンはその胸にしがみついた。
カラフの死から一月が経っていた。
「努めるのだ‥‥リファン‥‥ドーレの家名を継がねばならぬお前だ。いつまでわたしとのこと取り沙汰されてよい訳がない」
身を悶えさせて泣くリファンをなだめるように、その髪を梳るルデスの手は優しい。
だが――
「お前をハソルシャに伴うは――これを最後とする――」
それまでオーコールでは決してリファンを抱こうとはしなかったルデスだった。
「いやです‥‥どのように取り沙汰されてもよい‥‥お連れくださらなくとも‥‥わたしは、来る‥‥」
「禁ずる――」
その声の響きに、リファンは震えた。
ああ‥‥
では‥‥本当に、終り‥‥なのか‥‥
そして、今更ながらに悟る。己れがそれを心密かに怖れ続けていたことを。
かつてルデスは言った。
お前のものとはなれぬ――
その言葉の意味を、その重さを、言われたときには理解しなかったリファンだったが、身体を重ねるにつれ思い知ることになった。
どれほど思っても‥‥ルデス様の心を得ることはできぬのか‥‥
そのことの堪え難いまでのもどかしさ――身体は満たされても心は満たされない――
その焦りからリファンはさらに貪るようにルデスを求めた。肌を合わせている限りルデスは、その優しさも、温もりもリファン一人のものであったから。
だが‥‥それも‥‥
それさえも、失われてしまう‥‥
リファンの苦悩をよそにオーコールに戻ったルデスは、リファンの従士としての任を解き親衛隊の一隊の長とした。
リファンは多忙を極めることになった。それ故に、一時は己が心を紛らすことができた。
だが――
ルデスはリファンの後任を定めることもなく周囲の危惧をよそに、単騎ハソルシャに往還するようになった。
二ヵ月――リファンは耐えた。その夜、ハソルシャから戻ったルデスを待ちかまえていたようにリファンはその寝室に忍んだ。
闇のなかに佇む気配に、ルデスは目覚め無言で寝台に体を起こす。リファンは着衣を脱ぎ落し歩み寄った。
「ルデス様‥‥」
絶え入るようなその声に、ルデスは手にした短剣を枕の下に戻した。だが、そのまま凝として応えようとはしなかった。
声でも、身振りでも、いつまで待ってもこの方は招いてはくれぬ――リファンには待ち続けることも諦め去ることもできなかった。半身を向けるその腕のなかに崩れ落ちるように己れを押しつけた。
熱い肌でルデスを求めて悶え狂うリファンを、だがルデスは受け止めようとはしなかった。諦め去るのを待つようにただ縋るに任せるルデスに、たまらず、リファンの口から哀訴の声がもれた。
「‥‥ああ‥‥お願いです‥‥ルデス様‥‥」
胸元に額を擦りつける。肩に縋った手が、その爪が夜着を通してルデスの肌を噛む。
「ルデス‥‥様‥‥」
どれほどの時を。そうしてルデスの手を、声を待ったか――
リファンは呻いた。悲痛に、空を震わせる声が闇に消えたとき、その腕が延ばされ枕の下に差し込まれた。
従者として身近く仕えていたリファンはそこに護身のための短剣が隠されていることを知っていた。素早く引き寄せた短剣をルデスの胸に突き付ける。
「‥‥もう‥‥耐えられない‥‥。貴方を殺して‥‥わたしも、死ぬ‥‥」
それでも、ルデスは身動ぎさえしようとはしなかった。胸に擬せられた短剣を払おうともしないルデスにリファンは軋るような声を上げる。
「おわかりか‥‥わたしは、貴方を‥‥殺すと‥‥申し上げた‥‥」
僅かに突き込む剣の先に微かな手応えを感じリファンの息が荒いだ。
「ルデス様――」
悲鳴混じりの声に、
「それも‥‥よいかも知れぬ‥‥」
初めて、ルデスが応えた。
喉に絡む穏やかな声は静かな韻律を刻み、リファンを震わせる。
「何故‥‥」
「生まれるべきでは‥‥無かったわたしだ。お前の手にかかる、というなら‥‥それも、よい‥‥」
「馬鹿な‥‥何故、貴方が‥‥」
瘧のように全身を震わせる、リファンの腕が翻った。刹那――ルデスの手が走り、己が喉を突こうとしたリファンの手首をつかみ上げた。かすれた悲鳴が迸る。
「やめて‥‥死なせてください‥‥貴方を殺そうとした‥‥生きてはいけない‥‥」
咽び上げるリファンの手から短剣をもぎ取ったルデスはその背に腕を回し胸元に抱き寄せた。リファンが息を呑む。
「ルデス様‥‥」
「許せよ‥‥」
微かな声が耳を掠めた。驚き開いた口をルデスの唇が塞いだ。