双影記 /第4章 -1



 前後を衛士にかためられ、城門から王の住む北翼へ、リファンは重い足を運ぶ。
 点々と灯された壁灯に浮かび上がる長い回廊はすでに重い闇に閉ざされていた。
 このような刻限にもかかわらず、奥に通される――何故、それほどに急がれるか、そのことの尋常でなさに脅かされる、リファンは鋭く誰何する声に我に返る。目の前に王の居間の扉があった。
 促されるままに王の前に進み、片膝つくリファンに、重い視線が絡みつく。
 左右に数人の侍臣を従え正面に座す、王は無表情に押し黙る。その強い光を滾らせる暗い双眸に、射竦められるように、リファンは顔を伏せた。
「聞こう。わが求めを顧みず登城せぬは、何故か――」
 やがて。王の口に、言葉が軋る。
「他意はございませぬ。主は病を得ております。旅をするにはいま少しの時をお許しいただきたいと――」
「何の――病だ。当然、確かめたのであろう」
「それは‥‥しかし――確かに。殿は伏せっておられました」
 身を竦め言いよどむリファンに、
「いえぬのか。病名も確かめず――確かにと――お前は言うか――」
「それは――あの、お姿を見れば――」
 応えに、王――アルデは鼻先で嗤った。見るものを寒々しい思いのなかに突き落として。
 変わられた――
 だれもがその思いに胸を騒がさずにはおかぬ、王の笑いだった。かつて、このような笑い方をされるお方ではなかった――と。
「確かに――ラデール侯には出仕の義務などない。所領に帰るも自由だ。常の時であればな――不穏な噂のある今、わたしは申し開きを求めている。――召喚すると、申したはずだ。自ら来ぬとあれば止むを得ぬ。ドワルを呼べ――」
 表情も動かさず、最後は傍らのものに向けられた冷然たる王の言葉に、居並ぶ者等が息を呑んだ。
「陛下! しかし――あのような噂で――」
 リファンのそれは叫びに近い。
 振り上げた視線を王の黒瞳が絡めとる。
「お前とルデスの仲は耳にしている。かばいだてするも無理からぬこととしよう。だが、スオミルドと通ずることが、あのようなと言い捨てられるようなこととは思えぬが――」
 唖然として顎を落したリファンの顔が、朱を刷いた。
「馬鹿な――誰が。そのような――」
 リファンの声が擦れ上がる。
「その言葉を。ルデス自身から聞きたい」
 アルデは椅子を立った。
「それまで。そのものは城に留め置くように」
 一顧もせずに王が去ると、残されたものたちはただ呆然と視線を交わしあった。
 いったい何が、あったのか――
 誰の思いも同じであった。
 一枚岩のごとく揺るぎないと思われていた王とラデール侯ルデスの信頼関係であった。それが。顕らかに破綻したと見える。ハソルシャの野で落馬されて以来、王が変わられたのは、まこと頭の傷ゆえか――
 よもや――
 と思う心の底から疑惑は押さえがたく湧き上がる。あの落馬さえもが。王が、ラデール侯に何かしかけられた故のことではなかったか――と。
 だが。それであるなら、ハソルシャより戻って以来の、王のラデール侯に対する対しようは、どういうことなのか――
 誰の心をも、困惑が領する。
 その困惑を。アルデは知らぬわけではなかった。日々、己れに向けられる視線のなかにそれを見取りながら、アルデは為すすべもなくルデスにとらわれていく。
 より、深い焦燥が、
 アルデを駆り立てていた。





 ハソルシャで王として目覚めた時、アルデは求め続けたものを、得た――と思った。
 かつて、ソルスに向けられるのを見た、ルデスのあの微笑が、今、己れに向けられている――
「気が――つかれたか――」
 低くかすれた、穏やかな声が問う。かつて、ソルスに向かって語られるのを聞いた、声に、
「――陛下」
 と、呼びかけられたとき、だが――
 身の内に満ち上がろうとしていた暖かな潮が――凍った。
 陛下――
 そうだった。今は、己れが王ソルスなのだ。それ故に、向けられた笑みであり、声――なのだ。
 アルデであれば決して向けられることのない、それを――
 そうと知りつつ、受け続けねばならぬ――その衝撃に身を凍らせるアルデに、ルデスはさらに、追い打ちをかけた。
「落馬されて丸一日、意識を失っておられた。一言なりと賜われば、皆も安んじようが――いかがか――」
 静かに下がり、背後に頭を巡らす。室内には、二人だけですらなかった。
「陛下――」
 居並ぶ者等の気遣わしげな声に、向けられる視線に、アルデは抗うべくもなく縛られていく己れを知った。
 王、ソルスとして――
「大事ない‥‥案ずるな‥‥」
 アルデは力ない笑みを浮かべた。
「陛下。ラデール侯は昨日よりお休みになっておられぬ。こうして陛下の御無事も確かめられた今、お下がり頂いてはいかがか――」
 声に視線を向けたアルデは、ルデスに対する敵意に充ちた緑灰色の双眸に視線を絡め取られた。
「ドワル‥‥」
 ドワル・ヴォルドはその身の厚さでルデスに倍する魁偉な体躯をルデスの陰から押し出すように前に躙った。
「陛下――」
 その双眸に執拗な光を凝らすドワルの凝視から逃れるようにアルデはルデスを見た。
「ルデス――」
 だが。ルデスは片膝ついたまま無言で一揖し、立ち上がった。
 ルデスが退室すると、ドワルがルデスの居た位置まで寄った。
「我らの心労の程を――お察し頂きたい。余人なら知らず、陛下が――あの茂みで落馬されるなど――あり得ぬこと。何故、そのようなことに――」
 アルデは笑った。ソルスの笑いを模して。
 明澄なソルスの笑い――僅かに四日に過ぎなかった、館に滞在する間にアルデが見覚えたそれを――自らに強いて。
「許せよ。あれは驕りであった。わたしも。あの茂みで落馬するとは――思いよらぬことであった。ルデスの咎ではない」
 それは。ルデスによって、指示されてあった笑いであり、言葉だった。
 ドワルが問うであろうそのことに、どのように応えるか――
 全てが‥‥ルデスの筋書きのままに、進んでいく‥‥
 アルデは目を閉ざした。
「すまぬ。疲れた。皆も下がってくれ――」
 その後、ルデスはアルデに、二人になる機会を与えようとはしなかった。
 明日はオーコールへ発つという――その前夜まで。
 そしてソルスと対面し、その身体を苛み、アルデは打ち拉がれた。
 アルデゆえに流された、ソルスの涙に。
 それでもつかめぬルデスの心に――





 オーコールに向かう間、沈鬱に黙り続けた。アルデは帰城した。余人は知らず。それは二十一年目にして初めての帰城であった。
 記憶にさえない己が生地だった。華美であることより堅牢を重視した古い城は、重い石組みにアルデを捉え込む。
 懐かしさなどは、微塵もなかった。
 ただ、逃れ得ぬ重圧となってアルデの上にのしかかっていた。
 だが。
 ソルスとしては僅かに十日余――
 迎え出た侍臣のだれもがその変容に、衝撃を受けた。
 怪我に憔悴したその姿――故ではない。
 かつて、いかなる時も失われたことのない、双の黒瞳に宿る明澄な光――それが。王の双眸から消えていた。その驚きに。
 いったい、何があったのか、思う間も与えず、アルデは臣下の前に崩れ落ちていた。
 ハソルシャからオーコールまでは通常三日。王の身体を気遣い途次一泊し、一行は四日をかけて帰城した。まだ陽も高い。
 明るい陽射しの下、蒼白になって意識を失った王の身体は、急ぎ寝室に運び入れられた。
 頭の傷ゆえであろうか――
 周囲の不安をよそに、眠り続けた、王が目覚めたのは夜に入ってからだった。
 アルデが失神したのは緊張と不安のゆえだった。
 ルデスにより、周到に教えられてはいた。数多いる侍臣の名も姿も、性格から家系に至るまで。図面を以てその細部まで城の中は知識の内にあった。だが、それでも――
 ハソルシャに随従した二十人を除けば、一人として知る顔のない臣下の中で、ソルスとしてふるまわなければならない。一日として暮らしたことのない城の中で――
 頭の傷ゆえに忘れた――といえば誰も疑えぬ――ルデスは言ったが、アルデは己が怖れを拭い去ることはできなかった。
 人の視線が、苦痛であった。
 王の寝台で気づいたとき、その視線がなかった。だがルデスの姿もない。
 安堵よりは置き捨てられたような不安に、アルデは寝台の上に起き上がった。
 燭台の灯りに照らしだされた広い室内には人影がなかった。
「誰か――いるか――」
 緞帳の陰で気配が動いた。
「ここに。お気付きになられましたか――。陛下――」
 安堵を滲ませた若い声が応えた。ついで姿を現した若者に視線を据えるアルデは、己が記憶をまさぐる。
 柔らかな枯れ草色の髪。灰青色の双眸。思索的な顔が心配げに向けられている。
「エイゼル‥‥」
 何人かいる近従の名の一つが浮かぶ。
「はい――」
 応えに微かな安堵を覚える、
「皆は――ルデスは――」
「控の間に。お気付きになられるを、お待ちになっておいでです。お呼びいたしますか」
 思わず頷くアルデに、エイゼルは一揖し姿を消した。
 じきに。気配が立ち、数人の人影がエイゼルに導かれるように現れた。
 ルデスの背後に続く、ドワル等ニルデアの重臣の姿にアルデの頬が強張る。
「お目覚めになられたか――」
 一揖し片膝ついたルデスが言った。柔らかな笑みを含む、低くかすれる声が、アルデを震わす。アルデはただルデスだけを凝視する。
「また‥‥案じさせた。すまなかった。だが。我なら大事ない‥‥皆‥‥これ以上詰めるに及ばぬ。下がるがよい‥‥」
 ルデスが立ち。深く頭を下げる。他のものが、それに続く。
 扉に向かう一同の背を、王の声が追った。
「ルデス――お前は残れ――」
 ゆっくりと踵を返すルデスを、ドワルの視線が刺す。ドワルだけではなかった。一様に訝しげな視線を投げ、退室する一人として、だが、ルデスの顔から何かを読み取れたものはなかった。
 ルデスは踵を返したまま、王のもとに寄ろうとはしなかった。その背後で、皆を送り出し戻ってきたエイゼルが一揖する。
「皆様、退室されました。陛下――」
「お前も。もうよい。退室するように」
 王の言葉に、驚きを押さえ切れず目を見開いたエイゼルが、だが言葉もなく去ると、
「来い――」
 アルデは命じた。無言で、ルデスは従う。寝台の傍らに片膝つき、アルデを見上げる。
「ようやく――二人になれたな」
 どこか、歪んだ微笑を口元に浮かべアルデが言った。その意図するところは顕らかだった。が――
「いや。――そう思われるのは勝手だが。今、城中の耳目がこの部屋に集まっている。このような夜更けに、何用あって、王はこの身を残されたか――かつてないことだと。憶測が飛びかいましょうな。しかし。いくら御身の寵深いこの身でも、他の謗りを受けるような求めに応ずる訳にはいかぬ。このオーコールでは、御身が王であるように、ラデール家の当主たるわたしは、ルデスであってルデスではない」
 冷ややかな拒絶にアルデの眉が逆立つ。
「‥‥嘘つきめ。それは‥‥お前には初めからわかっていたことだな‥‥それを、お前は‥‥」
 その声が軋んだ。
「‥‥殺して‥‥やりたい‥‥」
「――今となっては。それは容易だ。御身が命ずれば、ドワルあたりは嬉々としてそれに従いましょうな。だがこの身が謂れもなくそれに甘んじるとは思われぬことだ。わたしがその気になればこのニルデアを二分して争うことも可能なのだ。お分りのことと思うが。ラデールの所領はハソルシャばかりではない。王家には及ばぬが、兵も擁する。願わくばこの身を逆徒にしないで頂きたい」
 ルデスは立ち上り一揖した。
「下がらせて頂く――」
 凍りついたように聞いていたアルデだったが、ルデスが背を向けると鋭く喉を鳴らして喘いだ。
 次の瞬間、夜具をはねのけ、その背を追い――腕の上から、抱きしめていた。
「だめだ‥‥いかないでくれ‥‥」
 背後からまわした腕ですがりつき、頭を押しつける。
「何でも従ってきた。お前に‥‥背けるはずがない‥‥わかっているはずだ。それなのに‥‥お前は‥‥」
 アルデは泣いていた。瘧のように身を震わせて泣くアルデに、だがルデスは応えようとはしなかった。振りほどきこそしなかったが、ただ彫像のように立ち尽くす。
「ルデス‥‥お願いだ‥‥」
 か細く、哀願し、アルデの声は絶えた。
 言葉では動かせない――痛いほどに、わかる。
 なす術もなく、激情さえが収まっていく。
 深い失意にただ声もなく涙を流し続けるアルデに、やがて、ルデスは言った。
「御身は王だ。ただ王としてふるまわれればよい。この身に従い続ける要はない。御身が望むなら、我が意に背こうこともご自由だ。陛下。――お離し頂こう」
「‥‥お前が‥‥憎い‥‥」
 アルデは呻く。
 だが‥‥離したくない‥‥ルデスが欲しい‥‥
 ルデスに回された腕に、さらに力がこめられる。
 どれほどの時を、そうしていたか――
「三日‥‥時をやる。他の謗りを受けたくないなら‥‥お前が機会を作れ。作れぬ時は皆の前で、お前に伽を命ずる。わたしには謗りなど。どうでもよいことだ。‥‥又、もし、わたしに無断でハソルシャに帰るなら‥‥逆徒になる覚悟で‥‥帰ることだ。わたしも‥‥覚悟を、決める‥‥」
 アルデは腕を解いた。
「行け‥‥」
 ルデスは振り返らなかった。何事もなかったような足取りのまま――立ち去った。
 入れ替わるように室内に戻ったエイゼルは、両手に顔を埋め、凝然と佇む王の姿に息を詰めた。
 気配に顔を上げたアルデはエイゼルを認め、強ばった笑みを浮かべる。
「戻ったのか‥‥」
 それは、王がかつて見せたことのない、苦しげな笑みだった。見てはならぬものを目にした思いに、畏れ、エイゼルは思わず顔を伏せた。
「ラデール侯が。帰られましたので――」
 応えるエイゼルの上に、王の言葉が降る。
「わたしは‥‥一人になりたい‥‥。お前は下がれ‥‥」




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