双影記 /第4章 -2



 王としての日々がいかなるものか――ルデスによって事細かに教えられてはいたが、この朝、アルデはそれに従う気にはなれなかった。
 昨夜のことが心にしこっていた。
 ルデスは‥‥どうするだろう‥‥
 自分は取り返しのつかぬことを言ってしまった‥‥
 かつて、王のために傷をおったルデスを試したいがために、殺す――と、脅して浴びせられた、冷然たる嘲罵を――アルデは今、耳底に甦らせる。
 馬鹿め――と、
 心を凍てさせるほどの侮蔑を込めてなげつけられたその声の響きを――
 殺す覚悟もなく。殺すなどと口走るな――とも、ルデスは言った。
 殺す覚悟――
 破滅させる覚悟‥‥
 アルデとしては最後となった伽を命じたハソルシャの館の執務室での夜――ソルスを忘れて欲しい一心だった。
 命運を握っている――その一事に、思わず脅しまがいの言葉を口走り、無残にうち捨てられた、苦渋に充ちた夜――再度、悟らされたはずではなかったか――脅しなどでは、ルデスを動かすことはできない。殺す覚悟を定めれば――殺すことに、なるだけだ――と。
 昨夜――
 自ら機会を作らねば、皆の前で伽を命じるといった――ルデスに応じる気がないなら、ただ、嘲嗤を浴びせて去るだろう。
 それに対して、自分は何ができるのか――
 ラデール侯ほどのものに満座の中で伽を命じるなど――今となってみれば、狂気の沙汰だ‥‥
 滑稽ではないか‥‥
 農奴として育った身の悲しさだ‥‥
 ロッカで暮らし始めた頃――ルデスに伽を命じることを強いられて、それを当然のことと思わされてきた。
 そのようなことが、たとえ王であろうと強いれぬこと――とも、知らなかった。
 強いれば狂気の王として信望を失う‥‥
 ルデスを捕えよと命じても、討伐しようと兵を起こしても、心ある者は王にはつかぬ。
 ‥‥もし‥‥今、ルデスが王位を望むなら‥‥それはなんと容易なことだろう‥‥
 取り返せぬ失態を演じさせ、王の信望を失わしめ――王に代わる‥‥
 自分はルデスの思うままに踊る――
 踊ってしまう‥‥
 そしてルデスはハソルシャへ行く‥‥
 ソルスのいるハソルシャへ、行ってしまう――
――必ず‥‥
「ああ‥‥」
 思わず呻き、アルデはかかげた腕で己が顔を被った。
 ハソルシャの館の地下牢で、ソルスの身をアルデの苛むにまかせたルデスだったが。それでもアルデにはルデスのソルスに対する執着を己が内に否定し去ることができなかった。
 既に、昼に近い陽射しが窓辺に揺曳する。朝から、食事も退け寝台を離れようとしない王に、傷を改めた侍医もなす術なく下がって久しい。
 周囲を当惑が取り巻いていた。
 王は――いったいどうされてしまわれたのか‥‥
 朝になって戻ったエイゼルが一人、間を置いて様子を伺いに訪れるのへ、もはや、一顧もしないで沈黙のなかにこもるアルデだった。
 その時も――
「陛下――」
 朝から何度目か。
 訪れたエイゼルの呼びかけに、返事さえ返さず、アルデは横たわっていた。
 だが、この時、エイゼルは、下がる気配を示そうとはしなかった。
 寝室を仕切る緞帳の前に片膝つき、王の言葉を待っている。いつまでも下がろうとしないエイゼルに、やがてアルデが折れた。
「何だ――」
 投げ遣りな王の声だったが、応えるエイゼルの声には安堵が滲む。
「ラデール侯が。拝謁を願って控の間に――」
 エイゼルは、最後まで言うことができなかった。弾かれたように上体を起こした王の勢いに思わず声を呑む。
「呼べ――」
 かすれ、ひずんだ王の声だった。
 唖然と顔を上げるエイゼルに追い立てるように声を継ぐ。
「急げ。何をしている――」
 あわてて立ち、控の間に急ぐエイゼルは、驚きのうちにも、ある安堵を覚えずにはおれなかった。
 ハソルシャで王が負傷した裏にラデール侯ルデスとの確執を取り沙汰する声が密かにささやかれ始めていた。昨夜も。一人ルデスを残し、何を語り合ったのか――
 ラデール侯去った後の王の様子は尋常ではなかった。
 だが。今朝から、ドワルを初め、誰一人として拝謁の願いをかなえられなかった中で、初めてそれが許されたのがラデール侯であったのは、あの取り沙汰が根もないことの証ではないのか――と。
 アルデは。
 期待と、いや勝る不安をその双眸に凝らせて、ルデスを迎えた。
 エイゼルに伴われて入室したルデスはだが一人ではなかった。
 背後に盆を抱えた従者を従えていた。
 寝台の横に片膝つき一揖したルデスは柔らかな笑みを浮かべ、アルデを見上げた。
「朝からものも取らずにお休みと伺い、案じていたが、見るかぎり大事ない御様子だ。何か召し上がらねばお体にも障る。召し上がってはいただけまいか。給仕させていただく。その間、お聞きいただきたいこともある」
 逆らえなかった。
 アルデは硬い表情でただ、頷いた。
 盆を残し、従者とエイゼルが退室するのを待ってアルデは寝台から起き出た。
 自らの言葉どうり、卓上に盆のものを並べ椅子を引いて待つルデスの前に歩み寄ったアルデは無言でその顔を見上げる。
 何を言ってよいのか、わからなかった。
 何を、ルデスは言うつもりなのか――おそらくは王ソルスとしてふるまわないアルデに嘲侮に満ちた言葉をなげるのであろう。
 しかたがない‥‥
 アルデは思った。自分はルデスを怒らせるようなことをしている。
 それでも、こうして目の前にルデスがいる‥‥
 置き捨てられた子供のような、不安と怯えに今にも泣きそうな顔で椅子に着こうともせずに前に立つアルデに、ルデスは微かに吐息した。そして、静かに腕をのばし懐に抱き寄せた。
 不意に。温かなものに包まれてアルデはかえって身を強ばらせた。信じられない思いのほうが強かった。
 これは‥‥まさか‥‥
 その、アルデの耳に静かな声が落ちる。
「御身には。つらくあたり過ぎた。許されよ‥‥」
 力強い手が背中をさすっていた。優しく。
 ただ。優しくさすり続ける。
 温かい‥‥
 わたしは‥‥いま‥‥ルデスに抱かれているのだ‥‥
 王ソルスとして、ではなく‥‥
 アルデとして‥‥
 どれほど‥‥願っていたか‥‥
 不意に与えられたその温もりに、今更ながらに思い知らされる、アルデは、身じろぎすらできずに、ただ立ち続けた。僅かでも動けばそれが失われてしまうのではないか――その怖れに身を強ばらせて。
 ふと気づくと、ルデスの顔が寄せられていた。唇が頬に眦に、流れ落ちる涙をやさしくすくいとっていく。己れがいつか目を閉ざし、泣いていたことを、アルデは知った。
 再び見上げてくる暗い双眸に、ルデスは微かに笑みを刷いた。何故か、哀しげに見える笑みを。
 背をさする腕の動きもいつか止まっていた。そして、ルデスはアルデをきつく抱きしめた。
「御身は‥‥案じることはない‥‥」
 低く、かすれた声が耳を掠める。
「わたしは、ここにいる‥‥」
 心地よい、陶酔を誘って――
 その時になって初めて、アルデはルデスの背に腕を回した。怖ず怖ずと回された腕に、そこにあるものを確かめるようにしだいに力が込められていく。
「いてくれ‥‥ずっと‥‥いて‥‥」
 いつか、しっかりと抱き返すアルデの、祈りにも似た声が吐息と共に流れ落ちた。
「ルデス‥‥」
 と‥‥。





 その日の午後、ラデール侯ルデスを伴い、王は広間に現れ諸臣の拝謁を受けた。
 以後、王の日常が立ち返った。
 かつてないことに、このころラデール侯ルデスが日々登城し王の傍らにつき従った。人々が安堵したことに、ハソルシャから戻ったときにはまったく失われていた生彩が王の上に立ち返りつつあった。ために、一時、ささやかれ始めていた王とラデール侯の確執の噂も立ち消えた。そして、王の傷も癒えた頃、一日、ルデスの登城がなかった。
 その日。気もそぞろに朝の政務をすませたアルデは午後を書庫のある塔で過ごした。一人になりたいとき、ソルスがよくそうしたと聞かされたままに、目の前に広げられた本はだが、ただそこにあるだけだった。窓の外に向けられた視線は遠く、空をさまよう。
 夏が、去きかけていた。
 陽が西に傾いたころ、エイゼルが午後の茶菓を運んできた。
「ルデスは‥‥来ないか‥‥」
 嘆息にも似た、王の言葉だった。
 思わず視線を上げたエイゼルの茶を注ぐ手元を凝視する王の双眸に暗い光がかすめる。
「何が――おありだったのです――」
 王の視線が上がる。
「何が‥‥」
 虚ろに反問する、暗い顔だった。
 その、顔ゆえだったか――この半月ほど意識の底に沈んでいた疑念が再び浮かび上がる。
 エイゼルは突然押さえがたい衝動に駆られて、王の前に片膝ついた。
 己れを見上げてくる思い詰めた顔に、アルデは初めて表情を動かす。不審に、眉を寄せた。
「陛下。ラデール侯との間に何が――おありだったのです。以前は、そのような顔はなされなかった。まるで――」
 まるで――情人の不実に悩むもののような――とは、だが、さすがに言い継げなかった、エイゼルは絶句する。あからさまに言い切るにはそれはあまりに畏れ多い疑念だった。
 だが。
 その刹那。王の顔で眦が切れ上がった。
「まるで――別人のようか――」
 暗い双眸に、光が滾る。その光の苛烈さに、エイゼルの背を戦慄が貫き走った。
 ソルスは寛容で公正な王だった。いかに耳痛い進言にも感情で左右されることがなかった。まして、それをあからさまにすることは――
 むしろ、歯に衣着せぬ物言いを好み、それを楽しむ風があった。そんなソルスであったから、深く敬慕しながら、ときにエイゼルは心安い言葉をかわすこともできた。
 だが、今、王の双眸に凝るこの苛烈な光は何なのか、怒りなのか――わからぬながらエイゼルを脅かして止まない。
 本当に‥‥陛下は、変られた‥‥
 その衝撃に頬を強ばらせるエイゼルに、王は不意に我に返ったように視線を逸らした。
「驚かせたな‥‥だが‥‥それを聞くは僭越とは、思わぬか‥‥」
「許せませぬか――」
 自身、思ってもいなかった言葉が、エイゼルの口を衝く。一度口をでてしまえば後を押さえるにはエイゼルは若すぎた。
「わたしは。ラデール侯をお恨みする。陛下をこのように変えられた――」
 低く押し殺されたその言葉にアルデは凍りついたような顔を向ける。
「お前は‥‥何を言っているのだ‥‥」
「あの噂はあたっていたのだ。ハソルシャで陛下は、ラデール侯に――。何故です。お命を救われたからですか――」
「エイゼル――」
「僅かに一日、ラデール侯が見えられぬだけで陛下は――。今、陛下のお心にはラデール侯しか――ない! 以前は、違われた。以前の陛下は――」
 胸の内から絞りだすように語を継ぐ、エイゼルの双眸に憑かれたような光が凝る。
 御身より若いながら、ずっとしっかりしたもの――と、かつてルデスが評したエイゼルの青灰色の双眸を、愕然とアルデは見返す。
 だが――と。その時、ルデスは語を継いだ。平素は物静かだが、若いだけに思いつめれば何をするか――恐いところのあるものよ――と。
「――以前の陛下は。誰に捉われることもなかった。今。陛下はラデール侯に捕われておいでだ!」
 低く、だが叩きつけるようにエイゼルが言い切ったとき、アルデには返すべき言葉が出なかった。
 否定せねばならない――思いだけが全身に滾り立つ。ただ凝然と、エイゼルを見詰める。
 どれほどの時を、そうして対峙していたのか――耐えきれなくなったのはアルデだった。青灰色の真摯な眼差しから、逃れるように視線を逸らした。
「だとしたら――お前は、どう――する‥‥」
 かすれ苦しげな声が問う。言外の肯定に、エイゼルは顔を歪めた。
「とるに足らぬ臣下の身で。何ができるとお考えか――。ただ、願うだけです。一日も早く、以前の陛下をお返しいただきたいと――」
 その言葉に、ゆっくりとアルデは視線を返した。
 再び向けられた王の顔に、エイゼルは胸を突かれた。その顔の上に刻まれた、深い、悲哀の影に――
「すまない‥‥」
 聞き取れぬほどに低い声で、アルデは呟いた。
「‥‥すまない‥‥」
 と。再度、王が呟いたとき、エイゼルの内で何かが切れた。次の瞬間、エイゼルはアルデの足下に突っ伏し慟哭していた。
「陛下‥‥。‥‥陛‥下‥‥」
 アルデは呆然と、泣き震える背中を見つめる。やがて、静かにその背に腕を回した。
「お前は、ソルスを‥‥この‥ソルスを‥‥」
 ささやくようなその言葉に、宥めるように己が背に回された腕に、静かに満ち上がる驚きに浸され、エイゼルは鎮められていく己れを感じた。
 陛下が‥‥この身を‥‥
 確かに。憧れはあった。己が及びつかぬ高処に据えられた明澄な王の双眸に、その靭さに、憧れはした。だがそれは臣下としてあるべき、その規をこえぬ――崇敬というに近い、敬愛の情――ではなかったか。
 だが今、己が内を満たしているこの思いは何か――
 哀切とさえ言える、王に対し、かつて一度として抱いたことのない、思い――
 何故。突然このような‥‥胸に問う、エイゼルはだが既に悟っていた。
 あの――視線の故だ‥‥
 深い悲哀を湛えた、あの視線の‥‥
 優しいのだ‥‥
 今の陛下は、譬えようもなく優しい‥‥
 本当に‥‥
 本当に‥‥変られた‥‥
「許せよ‥‥」
 心に、染み入るような声に、エイゼルは静かに顔を上げた。背けられた顔が窓に向けられている。
「この身こそ‥‥お許しください‥‥」
 身を退り、深く頭を下げる。
「忘れてくれ‥‥エイゼル。この場のことは‥‥忘れてくれ‥‥」
「はい‥‥」
 静かに立ち、再び、深々と一揖したエイゼルは踵を返した。
 やがて。塔を下りてきた王はかつてない静けさを身に湛えていた。それは、翌日ラデール侯が登城したときも変らなかった。
 朝の謁見をすませ、早めの午餐をとると、王はルデスを塔に誘った。
 三層の控の間に入ったとき、それまでつき従っていたエイゼルに視線を向けた。
「お前はここで待て。内密の話がある。誰も。上に上げてはならぬ――」
 その言葉に、一揖するエイゼルの身体が微かに震えた。
 書庫の塔――
 そう呼び慣わされている、塔は内部を五層に仕切られ王の執務室のある主棟の北西に張り出していた。執務室と、それに並ぶ書記官室に続く基層と二層が書庫として使われ歴代の記録類、書籍が収められている。
 その最上の五層を、ソルスは居間にしつらえ、わずかばかりの調度類を運び込ませた。北翼の居室に戻らずとも一時の休息を得たいときに、ソルスはここに篭もった。
 四方の壁に切られた窓には高価な異国のガラスがはめられ、広い床には中央に机と、椅子が二脚。そして燭台。壁ぎわに長椅子、弼などが置かれていた。
 その五層の広間に、アルデがルデスを伴ったとき、床の上にガラスを通してまだ高い日差しが明るい影を落していた。
 アルデは机の前に立ちルデスを見返る。
 扉の前に立つルデスは、この日、まだ一度も笑みを浮かべていなかった。
 何を思っているのか、何を感じているのか、窺うべくもない静かな顔をアルデは見つめる。それは、だが、アルデも同じだった。そして、アルデは着ているものを脱ぎ落とした。
 ルデスの前に裸身を曝し、命じる。
「お前も。脱げ――」
 ルデスは無言で従う。
 最後のものを脱ぎ落すのを待ちきれぬようにアルデはルデスの胸にしがみついた。
 貪るように、肌を。合わせる。
「してくれ‥‥早く‥‥して‥‥」
 自ら脚を絡め、腰をすりつける。
 先程までの静けさは着衣と共に脱ぎ捨てたか、アルデは狂い立っていた。自らルデスの手を取り己が股間に導く。
 求められるままにルデスは仕える。
 しなやかな指に己れを絡めとられ、激しく揉みしだかれて、アルデは大きく仰け反った。重熱いうねりが疼き上がる――その、快感に――
 ああ‥‥
 その胸の上に、しっとりと冷たい髪が散りかかる。小さな隆起を、唇が。舌が――ねぶり、食む‥‥
 まだ‥‥一月とは、たっていない‥‥
 それなのに‥‥これほどに‥‥わたしは渇えている‥‥
 ハソルシャの館での満たされなかった一夜――その、無残な記憶を振り払うようにアルデは首を振った。
 乳首を吸われ、腰に回された手がするりと狭間を撫で上げ身体の中にぬめり込んできたとき、アルデはたまらず、呻いた。
 ルデスのしなやかな背を、首筋を、しがみつくように回した手でかきむしる。
 獣だ‥‥
 身体の中でねつく蠢くルデスの指をさらに深く貪り込もうとするように腰を悶えさせながら、アルデは思う。
「‥‥おれは‥‥獣だ‥‥ただ、淫らな‥‥」
 思いは、呻きと共に迸り出る。
「これの‥‥ために‥‥おれは、ソルスを‥‥あ‥‥ああ‥‥」
 痺れるような熱痛が腰を咬み背骨を貫き走る。下腹が妖しくうねる。さらなる昂ぶりを求めて――
 もっと‥‥
 もっと――と。首を振る、アルデの閉ざされた眦から、とめどなく涙が伝い落ちた。




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