双影記 /第4章 -3
なにゆえの。涙か――
乱れたつ吐息に喉を焼かれ、呻きも絶える。
淫らに蠢きながら、差し込む光のなかに絡み合って立つ二人の裸身。ただ、喉を擦る喘ぎが、ねっとりと室内を満たしていた。
不意に。アルデの身体が強ばった。そして、ぐったりと弛緩する。それでもなお、力の抜けた四肢でルデスの身体にすがりついたまま大きく胸を喘がせる、仰け反ったその顔が切なげに歪む。
やがて。ルデスが微かに身動ぐ。
「まだ‥だ‥‥」
アルデの声が制した。ルデスはその身体の中から退こうとした手の動きを止める。
アルデは頭をもたげ、光を含んで明るく輝き立つ淡い双眸を見つめた。何の思いも伝えては来ない、双の宝玉を――
「‥‥優しく‥‥せずともよい‥‥。苛むのだ‥‥この身を、苛め‥‥かつてしたように‥‥犬のように‥‥這わせよ‥‥」
「御身が。望むなら――」
ルデスの両手に無残な力が加えられる。
「――――ッ」
さらに。抉り込まれる指に、アルデの身体が弓なりに硬直した。
張り――裂ける――
吹き出した冷たい汗がぬらぬらと肌を伝う。視界が眩む。激痛に、身体が思いを裏切って逃れ上がった。刹那――きつく扱き上げられ焼けつくような痺れが股間を突き貫く。
アルデは迸る悲鳴を喉に押し殺した。鋭い息が喉を擦る。
ルデスは、容赦がなかった。アルデの言葉のままに、責め、苛む。うねり上がる血が胸に滾り、熱い息が喉を焼く。幾度上りつめ、ルデスの手の中に果てたか ――既に苦痛に等しい快感に打ち据えられ、腰が砕けた。脚も萎え、ルデスにすがってさえ立てなくなったアルデは床に崩れ落ちた。ルデスの手が床に這うアルデの腰を抱え上げる。
自ら求めたことであった。それでも、全身を這う細かな震えを、アルデはどうすることもできなかった。半ば痺れ、己が上体を支えることもできなくなった腕の間に頭を突く。
「‥‥お前は‥‥何も‥聞かぬのだな‥‥何が‥‥あったか‥‥」
「エイゼルは聡い若者だ。御身を見れば、我等の間は、悟ろうな――」
涙さえ、涸れていた。虚ろに見開かれた暗い双眸が闇を映す。
「エイゼルは‥‥言った‥‥。以前の‥‥王を返――――ッ」
押し入ってくる熱い昂ぶりに、息がつまる。
「――返して‥‥くれ‥と‥‥‥」
再び。アルデは泣いていた。涸れたはずの涙がとめどなく溢れ顳に伝い落ちた。
「返し‥‥たい‥‥」
己が腰に打ち込まれる激痛に、喉が、ひきつる。
「‥‥わたし‥‥は返‥‥し‥たい‥‥」
繰り返される重い衝撃のままに、木偶のように身体を揺らしながら、それでもアルデは繰り返す。
「返‥‥した‥‥い‥‥ッ‥‥」
既に、声ではなかった。嗄れた嗚咽に喉を震わせる。
「‥‥し‥‥たい‥‥」
ことがすみ、ルデスは身体を離した。そのまま腰を落とし、床に這ったアルデの背中に茫洋とした視線を這わせていたが、
「なさればよい」
低くかすれた、靜かな、声だった。
「王たる御身には、容易におできになろう」
全身の骨を打ち砕かれたような痛みの中に身を横たえたまま、アルデはそれを聞いた。
どのような顔をして、それを言う‥‥
ルデス‥‥
自ら、する気はないのだ。したいなら、王の力をもってせよというのだ。
「‥‥起こせ‥‥わたしを、起こせ‥‥」
ルデスは腰を上げアルデの傍らに片膝をついた。つよくしなやかな腕に、その胸の前に支え起こされたアルデは肩越しに腕を投げ胸の上に落ちた白金の髪に指を絡める。痛みに耐え上体を捻った。そのまま逞しい胸にもたれかかり滑らかな肌に頬を押しつける。
「抱いてくれ‥‥」
抱いてくれルデス――と、幾度、口にしただろう‥‥そのたびに、ルデスは従った。従いはした。抱いてはくれた。決して、満たされることのない抱擁を――与えては、くれた。
そうなのだ‥‥
アルデは、今、思う。
初めてその腕に抱かれたとき、アルデはそれを望んだわけではなかった。思ってさえいなかったのだ。そのように己れを抱いてくれるものがいようとは。そのように抱かれることがどれほど心満たすものであるのか、知りもしなかった――
知らなかった‥‥のだ‥‥
だが‥‥今は、知ってしまった‥‥
二度目の時も、そうだった。
王弟であると知らされ、打ち拉がれたアルデを、その願いのままに抱いてくれた――あの時でさえ、それはアルデにとって夢以外のなにものでもなかった。望んでかなえられようとは思ってもいなかった。
そして。
ルデスの望みを知り、その望みに従うと決め、ルデスに身を任せた夜――
この城で初めての朝を迎えた日、前夜の諍いに心疲れ不安にうち沈んでいたとき――
すべてそうだった。
わずか、四度でしかない――その全てが、ルデスがその心のおもむくままにアルデを抱いた――
命じてもだめだ‥‥
求めても、だめだ‥‥
ルデスがその気にならなければ‥‥どれほど願っても、与えられることはない‥‥
アルデは泣いていた。ルデスの胸に頬を押しあて、その鼓動を聞きながら、子供のようにその腕に抱かれたまま、涙を流し続けた。
どうしたら‥‥いい‥‥
‥‥どうすれば、ルデスの心を‥‥得られるのだ‥‥
きまぐれに、与えられるのを、ただ待つしかないのか‥‥
待ち続けるしか‥‥、ないのか‥‥
‥‥だとしたら‥‥
「返して‥‥やってくれ‥‥。ルデス‥‥返‥‥して‥‥」
ルデスは応えなかった。無言の拒絶に、アルデは奥歯を噛み締める。
「王の力を‥‥もってすれば‥‥お前は‥‥抗う‥‥のだろうな‥‥」
「当然のことに」
「だが‥‥そうすれば、お前は逆徒だ。わたしのことも‥‥知れる‥‥よいのか‥‥」
「やむをえぬ。――だが、御身のことは決して、知られることはない」
微かに、笑いさえ含んだ応えだった。
アルデは身を震わす。
「彼‥‥を。どうするのだ‥‥」
「既に、御身の手を離れたもの。気になさることはない」
「ルデス‥‥ッ」
アルデはさらに身を捻り、ルデスの顔を見上げた。淡い陰を刷いた靜かな顔を。髪に絡めた手に力がこめられる。ルデスの手がその手首を押さえた。
「あれは‥‥エイゼルは‥‥ソルスを、思っているのだ‥‥。わたしが、お前を思うように‥‥」
「それは違う。エイゼルの思いは優れた王に対する憧憬にすぎぬ。もし御身の言うような思いを抱いたとすれば、それは王ソルスにではない。それは、――王ならぬ御身に、御身自身に――向けられたものだ」
「馬鹿な‥‥」
「そうかな――」
「ルデス‥‥」
「もう。お立ちになれるか。時が過ぎる――」
冷淡な声に、アルデの身体から力が抜けた。ルデスの手が髪に絡めたアルデの手を引き剥がす。そのままアルデを押し離すように立ち、脱ぎ落した服のところに行く。
アルデは置き捨てられた。肩から落ちた髪がうなだれた顔を隠す。その肩が震える。床に支えた手の間に、音を立てて涙が落ちていた。暗い染みが広がっていく。
「滑稽だな‥‥かつて‥‥レカルの地で‥‥わたしは、泣いたことがなかった‥‥十三の歳から‥‥なにがあっても‥‥どのようなことを‥‥されても‥‥‥‥泣けなかった‥‥‥‥それが‥‥‥‥」
服をまとったルデスが戻ってくる。その手にアルデの服がある。
「お立ちになれるか――」
再び、ルデスが聞く。降り落ちる声に、アルデの拳が握り込まれる。
「わたしは‥‥お前を、憎む‥‥‥‥」
低く嗄れた、それは喉を裂く呻きだった。
だが、
「当然だ――」
片膝つき、応えるルデスの声は、あまりに平静だった。
アルデは、凍りついた。
当然‥‥なのか‥‥。ルデス‥‥
ルデスは手にした服を置き、アルデの二の腕をつかむ。
「立たれよ――」
アルデは抗えぬ力で引き起こされた。そのまま抱えられ、半ば引きずられるように長椅子に横たえられた。
「今、酒をお持ちする。そのまま休まれよ」
その身体を服で被ったルデスは、静かに言い置き、扉の後ろに消えた。
陽は、既に傾いていた。
塔の中を小暗い陰が領しはじめていた。
三層の控の間で待つエイゼルは、壁の椅子に腰を下し、ただ、凝然と窓の外に時が移ろうのを眺めていた。
だが。その青灰色の双眸に凝る光は硬い。視線は窓に向けられながら、心は、抗いようもなく王の上に向う。
内密の話――と、陛下は言われた‥‥
それが、どのようなものか――エイゼルには明白なことのように思えた。
五層の間で、何がなされているか――それを思う頭の芯が凍てたように痺れる。それなのに、身体は熱い。
いや、冷たいのか‥‥ただ、肌を伝う汗が不快だった。
陛下と‥‥ラデール侯‥‥
エイゼルは男同士のそれを知っていた。
ただなる知識ではない、かつて自身が慰まれたという、苦い記憶として――
当時のエイゼルには抗い得なかった不本意な交わりに苦渋を呑まされた、その記憶が、王の上に重なる。
だが、たとえラデール侯であれ、そのようなことを王に強いれようか。
陛下は、わたしとは違う――
たとえ強いたとしてそれを許す王ではない。そのように、弱い王ではない。故に、二人がそうなったというなら、それは王も求めてのことなのだ。
これは‥‥違うのだ‥‥
と、自らに否定する声はだが、それ故にこそ力なかった。王のあの変容はなにゆえか、エイゼルにとっては明白なそのことの、何という堪え難さか。
熱いうねりが全身に鼓動を刻む。痛みさえがともなう。思っているのは王一人なのだ。ラデール侯にとっては己が慰みの相手の一人に過ぎぬのだ。
ラデール侯には既に情人がいる、それは半ば公然のことだった。
それなのに‥‥陛下までを‥‥
そして。そのことを充分に承知のはずの陛下が――陛下ほどのお方が――それでも、
惑わされてしまわれた‥‥
エイゼルは、ルデスの姿を、その、白く秀麗な面差しを思い描く。それだけで身内にざわめくものを覚え、微かに眉を寄せる。
ラデール侯は‥‥魔だ‥‥
己が胸のざわめきを打ち消すように、自らにさえ被い隠すように、エイゼルは胸中に唱えた。
城中に密かに囁かれる噂――あの、グレン・セディアの生まれ替わりという、噂は真だったのだ。ラデール侯ルデスとは、グレン・セディアの再来だったのだ‥‥
そして噂のままに今、陛下を惑わし、王家に仇をなす、ラデール侯は‥‥
‥‥魔だ‥‥
午後の翳りのなかに身を沈める、エイゼルは己が思念を、その双眸に凝った光を、瞼のうちに、さらなる闇に封じこめた。
除かねばならぬ‥‥
魔は‥‥除かねば‥‥
いつか、目を閉ざし自らを呪縛するように胸のうちに繰り返していたエイゼルが、ふと覚めたように顔を上げる。その視線が奥に向けられる。
そこに、下りてくる靜かな足音があった。
ラデール侯‥‥一人だ‥‥
思うより先にエイゼルは立ち、階上に続く踊り場の壁に身をひそめた。じきに、小暗い階段口から見上げるほどの長身が現れる、刹那、大きく一歩を踏み出したエイゼルの腕がその背中を突き上げるように繰り出された。
細く、白光が走ったその寸前、だがルデスは振り返った。気配に、半身を向けたその脇腹に、白光が吸われる。右手に返る、鈍い手応えに、双眸に憑かれたような光を凝らせたまま、エイゼルは喘いだ。
し損ねたと思った。一瞬、見返った淡い双眸に貫かれたかと――
「魔物め‥‥」
眦を決したエイゼルの声が軋る。
早く‥‥今一度、刺さねばならぬ‥‥
だが、短剣を握るエイゼルの手首を押さえるルデスの手は微動もしなかった。
エイゼルはさらに抉り込むことも、引き戻すこともできずに、奥歯を軋ませる。
「魔物――か‥‥」
微かな吐息が、空を震わす。
「この身を。王に仇なすグレン・セディアの再来とでも思ったか。だが――エイゼル。己が王を信じるのだ。いつまで今のままではおらぬ。いずれ、立直られる――」
平素と変らぬ、低くかすれた静かな声だった。何事もなかったかのようなその声音に思わず顔を上げたエイゼルは、見下ろす淡い双眸に視線を絡め取られ、ふと、惑乱する。
これは‥‥夢か‥‥
この方が‥‥グレン・セディアの再来である、はずがない‥‥
わたしが‥‥
この方を襲うはずが‥‥ない‥‥
なぜなら‥‥
――なぜ、なら――
その時、エイゼルの内に何かが揺らいだ。
耐えがたい‥‥それは、耐えがたい何かだった。
エイゼルは呻いた。
「あなたは‥‥魔だ‥‥。陛下を、惑わせた‥‥。除かねばならぬ‥‥」
固く目を閉ざし、再び、渾身の力で腕を引く。
無駄だった。
息を喘がせるエイゼルの額に、そのとき何かが触れた。ルデスの手、だった。
冷ややかで、なめらかな手は、乱れ落ちた髪を掻き上げ頬を撫で下ろす。
「目を覚ませ。エイゼル――」
ぞくりと、背に戦慄が伝い落ちた。膝が、震える。息を詰め、首を振る、エイゼルの顔が苦しげに歪んだ。
「‥‥あなたは陛下を苦しめる‥‥許せない。あなたを殺して‥‥わたしも死ぬ‥‥」
「それほどに‥‥この身が許せぬか‥‥」
だが。ルデスは静かに、短剣を握るエイゼルの手首を押し戻した。脇腹に埋められていた短剣が引き抜かれる そのまま、突放すようにその手首を離す。
突然、解き放たれ、よろめき下がったエイゼルは喪然と顔を上げた。
そして、見た。
端然と立つ丈高い姿、その、どこか悲しげに見える清冽な面差しを。脇腹を押さえた指に伝うものを。
己が胸の前に構えたままの右手を、その手に握られた短剣を、見た。血塗れて赤い刃を。
「あ‥‥」
既に殺意は失われていた。膝が崩れる。手から離れた短剣が硬い音を響かせる。虚ろな視線がそれを追った。
「許さずともよい。だが今の王にはこの身が必要だ。殺されてやるわけにはいかぬ。これで。気を収めよ」
エイゼルは半ば自失した顔を上げる。ルデスはただ、無言で見返す。その時、エイゼルの内に凝ったものの最後の一片が砕け散った。
この方は‥‥
自らを襲い、傷つけたこの身を、怒りもせぬのか‥‥
「‥‥何故‥‥」
ルデスは、微かに、哀しげな微笑を含む。
「お前は、まだ若い。己れを粗末にするな」
「何故‥‥」
たとえ束の間でも、この方を、魔‥‥などと思ったのか‥‥
「惑いは――誰にでも、ある――」
低く、呟くようなその言葉は、誰に向けられたものか――ルデスは、つと視線を逸らす。一瞬の、ことだった。
だが、その一瞬に、エイゼルは見た。
似ている‥‥
そのことに、胸を突かれる。
この方は‥‥陛下に、似ている‥‥
かつて、思っても見なかったことだった。だが、一瞬、その顔の上をかすめ去った、深い、悲哀の影は――
「立てるか――」
その時、静かな声が思い沈むエイゼルを呼び戻した。夢想から醒めたように、視線を返す。
「立て‥‥ます‥‥」
「ではそれを収めよ。そして、このことは忘れよ」
「しかし‥‥わたしは、あなたを‥‥」
「浅手だ。騒ぎ立てるほどのものではない。――酒と。水を。陛下がお待ちだ。頼む」
「ラデール‥‥様‥‥」
「四層にいる。戻ったら呼べ」
階上に歩み去るルデスを、エイゼルは凝然と見送る。
「ルデス様‥‥」
さらに陰の深まった室内で、エイゼルは突然こみあげてきた涙に頬を濡らし、なおしばらくを声もなく泣き続けた。