双影記 /第4章 -4
四方の窓を明るく浮き上がらせて薄闇の下りた五層の間に、ルデスが盆を手に戻ったとき、長椅子に身を横たえたままアルデはなお視線を宙に凍てつかせていた。
その肩の下に腕を差し入れ、上体を抱え起こし杯を口にあてがう。
立昇る芳醇な匂いにアルデはわずかに身動いだ。ふっと視線がゆるみ仄白く浮かび上がる顔の上に流れる。
ルデスは視線を合わせようとはしなかった。
深い陰を湛えた双眸は半ば伏せられ杯を持つ己が手元に向けられている。
アルデは、杯のワインを飲もうともせず、ただルデスの顔に視線をあて続ける。
やがて、
「お飲みにならぬか‥‥」
静かな声が降り落ちる。ルデスは応えを待つでもなく肩を支えていた腕を戻し、杯を机上に置いた。
「わたしは‥‥憎んで当然のことを‥‥されてきたのか‥‥」
低くかすれた声だった。むしろ、自らに質すようなその声音だった。
自らのものに汚れきったアルデの身体を清めていたルデスは手を止めることもなく、顔を向けることもない。聞こえた風も見せないルデスの双眸が向けられたのはそれが終わったときだった。
無言で促すルデスに、緩慢に体を起こしたアルデはようやくに服をまとう。
「杯を‥‥」
飲み干すのを見定めたルデスがアルデの前に片膝をついた。その顔を感情を喪失したようなアルデの視線が追う。
「今日は。お許しを頂きにきた。しばらくオーコールを離れねばならなくなった」
アルデの手から杯が落ちた。暗い穴のような双眸が据えられる。
「ハソルシャ‥‥か‥‥」
薄い笑いを含んでルデスは微かに首を振った。杯を拾い上げる。
「昨日、デルーデンの使者の訪いを受けた。彼の国の王が内密に、陛下の内意を打診することを求めてのものだ。陛下にはデルーデンと姻戚たる心積もりはおありかと。デルーデンの王には三人の姫がある。上二方は既に嫁がれているが末の姫、今年十三になられるという、この御方を陛下の妃に、との申し入れだ」
ルデスの言葉は虚しくその意識の表層をかすめ去ったか、アルデはただ虚ろに見返す。
「つりあわぬ縁ではない。陛下に了承いただければ話を進めたいと思うが――」
その言葉に、ようやくにアルデの上に表情が動く。驚き、そしてそれ以上の戸惑いが。
「‥‥馬鹿な‥‥妃などと‥‥戯言を‥‥」
戸惑いは怒りに変った。
「それも‥‥十三の‥‥まだ、子供だ‥‥」
「確かに。だが王族の婚姻とはおおむねそうしたもの。国の利害によって結ばれる。国同士の取引の証と言える」
「どのような。利害があるという‥‥デルーデンとはずっと友好が保たれてきた‥‥」
「その友好を、この先、保ち続けるために、これは必要な、婚姻といえる――」
「だが‥‥何故、今‥‥なのだ‥‥」
「スオミルドの。誘いがあったのではないかと――思われる」
「スオミルドの‥‥」
「ニルデアがアルザロを攻め滅ぼし我がものとする前に、ニルデアを叩かねば将来の禍根とな――次にニルデアが食指を動かすはデルーデン、スオミルドであるは必至――」
愕然と、アルデの顎が落ちた。
「そう‥‥なのか‥‥」
「クローセンで勝利して、そのような気運が起こらなかったといえば嘘になる。この際、一気にアルザロを征服せよ、さすればニルデアは近隣に並びない大国となる。とな」
「だから‥‥デルーデンとの婚姻か‥‥許さぬぞ‥‥わたしが王であるかぎり、アルザロは攻めさせぬ。この婚姻も不要だ!」
「御身には。お分りになっておらぬようだな」
冷ややかなルデスの声にアルデは揶揄を聞く。暗い双眸に光が凝った。
「嗤えばよい‥‥わたしにはわからない。だが、そのように‥‥容易に、他国を征服できようはずがない‥‥。多くの血が流れ、人が死ぬ‥‥。国を広げる‥‥それが、失われるものに、値するほどのことか‥‥」
その言葉に、一瞬、ルデスは微かな笑いを含んだ。アルデには揶揄としか思えない笑いを。
「お優しいことを言われる。確かに、失われていくものにとっては値するものなど在りはすまい。だが。早まらないでいただきたい。そのような気運があったとはいえ、それは一時の狂躁にすぎぬ。陛下が取り合われる迄もなく立ち消えている。お心に留めて頂きたいは、ニルデアのものとして語られたであろう野望―― それは、そのままスオミルドのものであるのだと。そしてその陰にはアルザロの策動がある。今、国を脅かされているはこのニルデア自身であるのだ」
「‥‥そのような‥‥お前の‥‥言葉以外に、証となるものは‥‥あるのか‥‥」
「デルーデンの申し入れこそが証――といっても御身には納得なされまいか。デルーデンよりの婚姻の申し入れ――これが初めてではない。六年前――陛下の即位の年に既に一度なされている。だが。――かつて。ニルデアの王室が他国より妃を迎えたことはない。王統の中で重ねられた婚姻。それ故こその王家の黒髪であり黒瞳であるのだ。明文とされているわけではないがそれは国是といっていい。デルーデンもその重みを知ったはずだ。そのデルーデンがあえて再度の申し入れをしたにはそれなりの動因がなくてはならない」
「動因‥‥それがスオミルドの誘いであると‥‥どうして、言い切れる‥‥いずれ、アルザロが策動し、スオミルドが動くであろうと思うものが、このニルデアにあるなら‥‥デルーデンに、同じ思いを抱くものがあって不思議ではない。‥‥であれば、これはただ、それを見越してのものに、過ぎぬかも知れぬではないか‥‥。デルーデンとの友好が壊れれば‥‥ニルデアは腹背に敵を受けることにもなりかねぬと思えば‥‥この婚姻は‥‥拒めぬ、と‥‥」
「御身は。それをこの身の杞憂と言われたいようだな。では。それを。御自身に断言できるか――」
低くかすれた声は変らず静かだった。ただ。淡い双眸が鋭さを加えアルデを刺す。
アルデは竦んだ。干上がる喉に声を絞る。
「‥‥断言など‥‥できない‥‥」
「では。了承いただけたと思ってよろしいか」
「‥‥だが‥‥嫌だ。わたしは‥‥婚姻など、嫌だ!」
しばし――アルデに据えていた視線を、ルデスはふと逸らした。
薄闇の篭めた塔の中で、それだけが明かりであったかのように、不意に光が失われたような錯覚に捕われたアルデは微かな狼狽に狩られ、腕をのばす。光を、見失った双眸を取り返そうとするように。
とりすがるように両腕をつかむアルデに、だが、ルデスは視線を返そうとはしなかった。
消え残る外光に仄白く浮かび上がる端正な横顔はアルデを拒んで冷ややかに静もる。
「思い過しだ‥‥内意をというのだ。拒んだところで立ち消えになるに過ぎぬはずだ。お前の、言うように‥‥スオミルドの誘いを受けた‥‥とするなら何故‥‥今更に、婚姻なのだ?‥‥それは‥‥拒めば、スオミルドと通ずることを意味する。‥‥だが‥‥もし、スオミルドと結び、ニルデアを滅ぼせば‥‥もはやスオミルドを遮るものは何もない。自ら、スオミルドの脅威に対さねばならぬ‥‥スオミルドにハルツァの嶺を越えさせてはならない‥‥わからぬはずがない‥‥スオミルドの誘いなどと‥‥思い過しに、すぎぬはずだ‥‥まこと、誘いがあったのであれば‥‥これまでの交誼もある。報せてくれるはずだ‥‥」
必死に掻き口説くアルデに、
「困ったお方だ。御身はこのニルデアを滅ぼそうおつもりか」
何の感懐も含まぬルデスの言葉だった。息を呑みアルデは押し黙る。
「婚姻により――スオミルドを牽制し得れば他国を介在させずにこのニルデアを窺う時を稼げる。それも又、ひとつの方途だからだ。御身も。デルーデンの知識はお持ちであろう。それを思い返されればお分りのことと思うが。より与し易い道をむざとは捨てるに及ぶまいからな」
ルデスにすがるアルデの手が離れた。
よろめき立ち、脚を取られて再び長椅子に腰を落す、アルデは低く呻いた。
デルーデン。
西に国境を接するその国の王をドーク・シュタッファルという。老獪なまでの外交手腕と内治の才を有しこれまで大過なく国を治めてきた王はまた、既に成人し補弼の一翼を担う二人の王子と、三人の姫の親であった。
「‥‥即位して三十年余、求めて‥‥他国と争うことをしない‥‥温厚な、王だ。ニルデアを窺うなどと‥‥まさか‥‥」
「デルーデンのこれまでの施策を温厚と見るはご自由だが、温厚ゆえと思ってはならぬ。直ちに兵をもって攻めぬからと他国に野心を抱いておらぬ証とはならぬ。山間の小国ながらカヴェスでは先年、王が夭折した。幼い新王に代わり王妃であったデルーデン第二王女が母后摂政として国政に容喙しているが――己が母国デルーデンの意を呈しているは明らかだ。彼我の力を見極め、時を待つを厭わず、機を逃さぬ――強かな王といえような」
アルデは応えなかった。再び向けられた仄かに光る双眸を、青褪めた顔で怯えたように見返す。
小さく吐息し、ルデスは立ち上がった。
手にした杯をみたし戻ると、アルデの傍らに腰を下ろしその肩を抱く。
「飲まれよ」
低く穏やかな声だった。
促されるままに飲み下した酒精が体内に温もりを沁みわたらせていくのを、噛み締める思いでアルデは瞼を閉ざした。
「‥‥その‥‥強かな王が‥‥スオミルドをハルツァの西に呼び込む‥‥その危険をあえて犯す‥‥どのような成算が、ある‥‥」
「ニルデアが侵されれば、デルーデンには名目ができる。スオミルドの脅威をうたいヨレイル諸国を糾合し、その盟主として各国の軍を率いることが可能となる。その力をもってすれば、スオミルドをハルツァの東に押し返し、ニルデアはおろかアルザロまでをも――支配し得るだろう――と。彼の王は思量したかも知れぬな」
目を見開き、アルデは喘いだ。ルデスの腕のなかで細かく身体を震わせる。
「‥‥それほどの野望を持ち‥‥そのような成算があるなら‥‥あえて、確実とは言えぬ婚姻など‥‥求める要は‥‥あるまいに‥‥」
「いや。このようなものを。成算とは言わぬ。身勝手な目算にすぎぬ。自らそれを知るからこその、この婚姻の申し入れであろうよ。心とは‥‥揺れるものだ。後継たる二王子に不安があればなおのこと――既に老境にさしかかろうという今、ヨレイルの盟主たらんとする力業を振るうに怖れを抱いたとして不思議はない。ニルデアの諾否――神託を得るに等しい思いで待ち受けていような――」
静かな、独白とも思える声が、絶えた。
そのまま、どれほどの時を移ろわせたか。
いつか、闇の下りた塔の中で、アルデは仄明るく浮かび上がる窓に向けていた視線を落した。闇に沈む塔の中で瞳は何も写さない。だがそこに、アルデの両手に包まれて杯を持つルデスの手がある。肩に回された腕に、寄り添う身体に、包み込む温もりに身体の震えが治まっていく中でアルデは両手に力を篭め目を閉ざした。
「全て‥‥お前の、胸の内よりでたことかも知れぬのに‥‥反証できぬ以上、従わねばならぬのだな‥‥。ニルデアを、戦乱から守るためには‥‥」
だが、
「いや‥‥もうよい。御身に、婚姻は強いぬ‥‥」
返る応えは予期せぬものだった。
「何故‥‥だ‥‥」
問う声は、擦れ、震える。
「‥‥是非とも、必要と‥‥お前は言った。‥‥何故。もう、よい‥‥」
「強いられて、できることではなかった。別の方途が無いわけではない。案ぜられるな。何とかなろう――」
「‥‥それほどに、わたしは頼りないか! この婚姻、受けねばニルデアを滅ぼすとまで言った――よかろう。例え強いられてであろうと、わたしはする。そう思い定めた。――それとも! もはやしてはならぬ、他のわけでも在るのか! ―――」
息を喘がせるアルデに、微かな吐息が伝わってくる。
「――あるいは。今の御身にならできるかも知れぬな。だが。婚姻を受けるのであれば、それを諸人に納得させるは御身自身でなければならぬ。スオミルドの脅威を説き、不文の法とも言える婚姻の定めを覆す――それができねば、――ましてこの身に強いられてのことと、人に知れれば――」
「知れれば――どうなのだ」
「わたしは、殺される」
「――馬鹿な‥‥」
「確かに。馬鹿げているかもしれぬな。だが、それほどのことであるのだ。ニルデアの王統諸家にとっては――他国より妃を迎える――王家の血を汚すことに、他ならぬのだ。御身に――できようかな――」
アルデは絶句したまま、ただ、身を強ばらせる。
己れの為しようひとつで、ルデスを死なせるかも知れぬ――その思いに、身を震わせる。アルデは、己が爪がルデスの手の肌を破って食い込んでいるのにも気付いていなかった。
そのアルデを、肩に回した腕でルデスは胸元に引き寄せる。
「無理をなさらずともよい。そして、許されよ。先程は言い過ぎた。もしニルデアが滅びるとしたら――それは御身故ではない。全てこの身からでたことだ。御身は何の咎をも感じる要は無い。決して、な――」
「ルデス‥‥」
その胸に凭れ、その鼓動に耳を澄ます、アルデの戦きはしだいに静まっていった。
だが、杯を持つルデスの手をしがみつくようにつかみしめる手を、アルデは緩めることができなかった。
不安はなおも、アルデを脅かして止まなかった。
この頃、
三層の控の間ではエイゼルが灯をともした燭台を前に思い悩んでいた。
陛下の元にお運びするべきか‥‥
誰も――上に上げてはならぬと言った王の声が耳底に反響する。だが、エイゼルに命じた水と酒を手に、ルデスが五層に戻って、もうどれほどの時が過ぎたか、日はとうに暮れていた。闇の下りた塔の中で、二人は何をしているのか‥‥幻影であるはずのその情景が脳裡にいすわり、エイゼルを苛む。
このような‥‥妄想だ‥‥愚かな、わたしの妄想にすぎぬ‥‥エイゼルは顔を歪めた。払って消えぬ想念に。それが妄想だと、思い捨てることができぬ己れに。
だが、その行為を己が身体で知る故に、なしようもなく、その妄想の中にとらわれていく、エイゼルの左手は、我知らず、己が頬にあてられていた。ルデスの手が触れた、その左頬に――
触れられた刹那、背を伝い落ちた戦慄は、エイゼルの内に熱い疼きを呼び覚ましていた。
かつて、その身体に刻み込まれた忌まわしい記憶――意識の底に葬り去ったはずの、その感覚が――今、生々しく甦えり肌を這う。
首筋を舐り‥‥耳朶を噛む‥‥
胸をまさぐり‥‥背を‥‥狭間を伝い‥‥それを、嬲られる‥‥
思うさま押し広げられ‥‥抉られる‥‥
股間が疼く‥‥その、重熱い痺れに、己れを委ねながらエイゼルはいつか己れの上に甦ったその記憶のなかに埋没していった。
そこにはもう王の姿はなかった。静かに胸を喘がせながら、目を閉ざす‥‥闇のなかにいるのはまだ少年の己れだった。
抗いようもなく押し拉がれ、凌辱されるのは――
「‥‥ああ‥‥」
のしかかる身体に――
嬲り苛む手に――
「‥‥ルデス様‥‥」
我知らず、エイゼルは口走っていた。
だが、思わず唇を漏れ出た己が声に耳を打たれ息を呑む、エイゼルは冷水を浴びたように、現実に立ち返った。
馬鹿な――。わたしは何を‥‥
何故――ルデス様などと‥‥
エイゼルには己が心を、そこに潜む己が思いを見極めることは耐えられなかった。逃れるように立ち、燭台をつかみ階段に走る。
あらぬ妄想だ‥‥
‥‥確かめるのだ‥‥
だが、階段を上るにつれその脚は鈍る。
わたしは‥‥どうかしている‥‥
四層の踊り場で立ち止まったエイゼルは苦悩に歪む顔を仰向ける。闇に消える階段はそんなエイゼルを誘うか、突放すのか――何の気配も伝えては来なかった。
どれほどの時を逡巡のうちに佇んでいたのか――微かな音に我に返る。
扉の音だった。静かな足音がそれに続き、やがて声が降る。低くかすれた静かな声が。
「エイゼルか。よいところに来た。陛下が戻られる。灯りを」
促され階段を上る、エイゼルの手の灯りのなかに仄白く浮かび上がるルデスが壁ぎわに身を退いた。その長身の陰から顔を強ばらせた王が前にでて無言のまま下に向う。