双影記 /第4章 -6



 ねっとりと――
 喉にまとわりつく息が――熱い。
 それなのに、萎え痺れた手足の先が冷たい。
 汗に濡れた肌が――冷たい。
 冷たい‥‥
 虚ろな、暗い双眸が鈍い光を弾く。
 その着衣をなおし、自らも身仕舞を終えたルデスが、長椅子に横たわるアルデの前に片膝ついたとき、ようやくに、アルデは目を閉ざし顔を背けた。
 ルデスを、見たくなかった。
 その、声を――聞きたくなかった。
 なにも‥‥言わないで‥くれ‥‥
 だが。
「陛下――」
 低く、かすれた、声が、耳に刺さる。
 アルデはのろのろと腕を上げ、己が耳を塞ごうとした。
「御身はかつて言われた。無断で帰るなら、逆徒とみなす――。故に。今申し上げる。わたしは明日、ハソルシャに帰る」
 上げかけた、アルデの腕が凍りつく。
 緩慢に。顔を向ける。アルデは、暗い穴のような目でルデスを見つめた。
 やがて。
 ゆっくりと起き直り、震える脚を踏みしめて長椅子から立ち上がる。
 そして、握りしめた拳を振り上げ――
 振り下ろした。
 鈍い音が響く。
 顳 を殴られルデスの顔が傾ぐ。頬に艶やかな白金の髪が散りかかる。
 ルデスはそのまま動こうとはしなかった。アルデも又。凝固したように立ち尽くす。
 時が――凝ったか。靜かな、息遣いだけが這うように流れていった。
 不意に。張り詰めた糸が切れるように、アルデは腰を落した。
 膝に突伏し両手に顔を埋める。
「‥‥下がれ‥‥」
 かすれ。ひび割れた声が絞りだされる。
 命じられるままに、
 ルデスは立去った。
 この日――
 アルデが城に来た日から一月が過ぎていた。

 その日を最後に、ルデスの登城が絶えた。
 それでも、一見穏やかに日を送りながら、王の上に、表情だけが失われていた。
 あの日、塔で何があったのか‥‥
 エイゼルは自問する。決して得られぬ答を求めて。
 王が来られるまでここに居よ――と三層で待つエイゼルに言い残してルデスが去ってなお、塔に残っていた王がその姿を見せたのは夜に入ってからだった。
 闇の中から幽鬼のように立ち現れた王は、それまでの焦慮を忘れて息を呑むエイゼルの前を無言で通り過ぎた。
 何かを問うことを許さない、鬼気――を、まとった王の姿だった。
 翌日には消えていたそれが、決して、王の内から失われたわけではないことをエイゼルはすぐに知らされた。
 その日、昼近くなっても登城しないルデスに、エイゼルがふと漏らした。
「今日は、登城なされぬのでしょうか――」
 刹那、王の全身からゆらめき立つ鬼気に、エイゼルは戦慄した。
 しばし後。王は低く吐き捨てた。
「当分は現われぬ。ハソルシャに行った。二度と‥‥口にするな‥‥」
 そして、十数日――
 その間、日課となった午後の野駆の帰途、随従する者等の驚きをよそに、突然、王はラデール家公邸を訪った。





 当主不在の、王のこの突然の来訪はラデール家の者を少なからず狼狽させた。
 ラデール家がリクセルにその本拠を移して以来ほとんど顧みられることのなくなったハソルシャに、その地に育ち今なお抱き続けている深い愛着ゆえとはいえ、足繁く通うことは家臣にとって、畏敬する当主の唯一に近い瑕瑾といえた。
 その家臣の思いを配慮した故か、オーコールに居を移してからは脚も遠退き月毎に訪っても五日とは滞留しないルデスが十日を経てなおそこに留まり、帰る気配を見せぬことに、ラデール家の者は当惑とともに不安を覚えていた矢先であった。
 対応にでたのはルデスの妻エディックだった。
 王には従姉にあたるエディックはその妖艶な美貌を超然と静もらせ王の前に跪いた。
「畏れ多いことでございます。陛下にお越し頂きながら、当主は不在に――」
「それは知っている。ハソルシャに。行っているそうだな。それ故に来た。直ちに呼び戻すよう――申し付けにな」
「それを――陛下が直々に――」
「人を介せば公になる。わたしもラデール家に傷は付けたくない」
「それは――」
「召喚――と思ってよい。七日――待つ。それで登城無いときは――そのようになると、ルデスに伝えよ。――送るには及ばぬ」
 冷然たる面を向けるエディックを背に、王は立去った。
 これより数日前、帰還の予定を過ぎても帰らぬルデスから書状が届けられていた。
 ただ、帰還が遅れる旨だけを伝えた素気ない書状、だが、それを持参した使者はまた、ハソルシャの館に仕える者の間に交わされるようになった不安をも漏らしていった。
 殿は、いかがされたのか――と。
 来賓の間から出たエディックはそこにリファンの姿を認め微かに唇を歪めた。
「わたしがまいります」
 エディックに何かを言わせぬ先にリファンは申し出ていた。
「聞いていたのか」
「突然の王の来訪。気になりましたので」
「忠義なことだ。殿も喜ぼう。あのような噂もある。お前も気になろうしな。よかろう。他に人を選ぶも手間――いくがよい」
 毒々しいまでの嘲嗤を投げ付けエディックは背を向けた。その背に、
「奥方様に。お伺いしたい。――そのような噂。何故、広められた――」
 刺を含んだ、リファンの言葉だった。
 肩越しに見返るエディックの黒瞳が憎悪を孕む。
「おかしなことを言う。いや。いっそ無礼というべきか。ハソルシャの者から自ずと広まったと――何故思わぬ」
「わたしが。直接、使者から耳にしたものとはあまりに違う――それ無くしても。殿にかかわることを、ハソルシャには、貴方様の前ならずして漏らす者がいようとは思えませぬ」
「ずいぶんと肩を持つ。だが、であるならお前に対してはどうなのだ。――おお。そうか。お前も一年ほど前までは殿に伴われてよく行っていたものな。旧知の者では気も弛もうか――」
 あからさまな悪意に黒瞳を煌めかせて言い捨てるや、それ以上は取り合おうとはせず後も見ずに奥に向う。リファンは唇を噛み締めてその麗雅な後ろ姿を見送った。
 ハソルシャの館には魔が棲みついたらしい――と、初めに口にしたのはエディックだった。
 その魔に魅入られ狂われたか、塔に入り浸っておられるそうだ――と、生家からの見舞いを受けたおりに戯言めいて語られたことから、いつしか、王宮のうちにまでささやき交わされるようになっていた、その噂を――
 アルデは近従の一人から聞かされた。
 ――魔に魅入られ狂われた――
 その魔――が、ソルスであろうことは、アルデには問うまでもない明白なことだった。
 午餐の最中だった。
 パンを割く手を止め、押さえた好奇と期待に煌めく双眸を見返す王の顔は無表情だった。むしろ傍らに立ち、給仕していたエイゼルの顔が強ばった。
「シャルト! 下らぬことを! 陛下のお耳に入れるな!」
 己れより年若い朋輩を叱責するエイゼルを、だがアルデは、
「かまわぬ――」
 冷ややかに制しただけだった。
 何事も聞かなかったように午餐を終え、午後の野駆に出たアルデがラデール家公邸を訪ったのは、だがその日のうちのことだった。外見には平静を保つ王の動揺がエイゼルには痛いほどに感じられた。
 アルデ自身には――全てが遠かった。
 それを聞いた瞬間、全ての音が遠ざかった。アルデは鈍く痺れた心で思う。思い続ける。その思いが耳の底に虫の羽音に似て低く唸り続ける。
 ‥‥待てない‥‥
 もう‥‥待てない‥‥
 ルデスを‥‥呼び、戻すのだ‥‥
 羽毛に包まれ羽毛の中を歩くように足元が覚束ない。手足の先が冷たく痺れていた。頭の芯が――冷たく痺れていた。
 誰かがどこかで話している――ふと気付くとそれは己れだった。
 己れは何をしているのか――
 王としてふるまう、別の己れがいた。
 夕刻――
 アルデは帰城したその脚で書庫の塔に上った。
 陽は既に西に傾いている。
 薄闇の下り始めた階段を一人、五層に上っていくアルデの背を、エイゼルは不安も露に見送った。
 もう‥‥誰も見ていない‥‥
 上るにつれその足取りが重くなる。アルデの上から平静の装いが落ちかけていた。
 ルデス‥‥
 後手に扉を閉ざしたアルデは薄闇に沈む室内に踏み出す。
 その、アルデの膝が砕けた。
 折れ崩れるように床に蹲ったアルデは目前の床に目を据える。
 お前は‥‥ソルスになら、狂うのか‥‥
 歯を食いしばり背を撓めたアルデの体が瘧のように震えた。
 ‥‥この身なら、いかようにも、冷然と弄べるお前が‥‥ソルスには‥‥狂う‥‥
 狂うほどに‥‥己れを失うのか‥‥
 ルデス‥‥
 何という‥‥違いだ‥‥
 食いしばった歯の間から弱々しい笑声が漏れ出た。
 己れを嘲って床を這う笑声はいつか嗚咽に変る。アルデは床に身を捩って噎び上げていた。
 何という‥‥滑稽さだ‥‥
 どれほど、望もうと‥‥ルデスには、わたしなど‥‥ソルスを手に入れるための道具でしか‥‥ないのだ‥‥
 思いは――熱く灼けた爪を持ち、胸を抉った。痛みに――アルデは体を折る。
「くゥ――――ッ――」
 口を突いて迸る嗚咽が。細く、
 長く――
 悲痛に、空を裂いて――絶えた。
 呻きさえが、胸の奥で死んでいた。
 しだいに深まる闇の中で、
 アルデの視界に光は――なかった。
 涙も涸れた双眸を虚ろに見開き、アルデは横たわる。いつか闇に包まれて、思いは回帰する。
 幾度も。
 幾度も――
 何が‥‥
 ソルスの何が‥‥
 そこまでお前を、狂わす‥‥
 かつて見た、ソルス――
 明澄な光を宿したその黒瞳――
 靭さを秘めて穏やかな――双眸――
 アルデに苛まれながらついに憎悪の片鱗すらも浮かべなかった――
 ソルス‥‥
 お前が‥‥憎い‥‥
 そのソルスを得るためにはアルデを、その心を踏み躙ってかえりみぬ――
 ルデス‥‥お前が、憎い‥‥
 ‥‥苦しめて‥‥やりたい‥‥
 苦しめて‥‥苦しめて‥‥
 苦しめぬいて‥‥やりたい‥‥
 アルデの思いは闇に凝る。
 お前の前で‥‥ソルスを苛み、
 殺してやりたい‥‥
 お前を‥‥苛み‥‥
 ‥‥殺して‥‥やりたい‥‥





 夜。
 長い――夜が、リファンの上に凝る。
 城内の一室。
 着衣も解かず寝台に身を投げ出し、弱々しい灯火の外にわだかまる闇に視線を据える。リファンは眠れなかった。
 牢ではなかった。
 だが、取り上げられた剣、錠の下りた扉が囚われの身であることを、思い知らせる。
 かつてないことであった。王がラデール家のものにこのような仕打ちを加える――
 案ずるな――と、ハソルシャでルデスは言った、その言葉が今、リファンには気休めに思える。
 陛下と‥‥殿の間に、何があったのか‥‥
 陛下は殿を、どう‥‥される、おつもりなのか‥‥
 リファンの背を凍らせて、表情を閉ざした王の黒瞳に滾っていた光――あれは、ただ怒りだけであったのか――と。
 そして――それにも増して、
 ハソルシャの塔で目にした光景、耳にしたルデスの声が、リファンを苛み、その眠りを妨げる。
 ルデスの胸に抱き起こされたその姿――
 逆光の中で力なく揺れていた腕、夜着からのぞく白い――手。
 目覚めよ‥‥と、祈るようにその胸元に顔を埋め、肩先を震わせていたルデス――
 誰なのか‥‥
 リファンは呻きを噛み殺し、目を閉ざす。
 何者‥‥なのか‥‥
 あれほどまでに殿の心をとらえ‥‥
 殿を‥‥変えた‥‥
 それでありながら――ハソルシャの館において、オキルとワルベクを除けば誰一人としてその存在を、そのようなものがあるとさえ気取っている気配はなかった。
 ラデール家の当主たるルデスをしてさまで秘匿させる――何者であるのか‥‥
 リファンの時はそうではなかった。
 リファンの前にルデスとそのような仲にあった者の時も、ルデスはあえて隠そうとはしなかった。
 それが――
 あの者に限り何故、殿は、秘匿する‥‥
 秘匿‥‥せねばならぬ‥‥
 己が胸に形をとろうとしている何か――があった。何故かは知らぬ、リファンを脅かして止まぬその何かから、リファンは強いて思いを遠ざける。
 いつから‥‥
 ハソルシャに立ち入ることを、禁じられた、あの時からか‥‥
 その思いに胸を刺され、リファンは身を捩り寝台に突っ伏した。
「‥‥いやだ‥‥違う‥‥」
「何が違う――」
 不意の声に、リファンは跳ね起きる。扉を背に立つ暗い影に驚きの声を放つ。
「陛下‥‥いつから‥‥」
 あわてて寝台を下り片膝つくリファンに、灯火のなかに踏み出したアルデは表情のない顔を向ける。その顔が死者に似て白い。
「扉の音にも気付かぬ――目を開けて眠っているかとも思ったが。ルデスの肌を偲んで我を失っていたか――」
 静かな、だが、あまりにむきつけな王の物言いだった。リファンは声も出ない驚きに、痴呆のように暗い双眸を見上げた。
 かつて‥‥このような物言いをされる方ではなかった‥‥どうされて‥‥しまわれたのか‥‥
「お前は――見たのであろう――」
 その双眸に、夕刻、居間で見せた滾るような光はなかった。
「見‥‥た‥‥?」
 リファンは虚ろに反問する。
「塔に棲む――魔――」
「あれは‥‥あれは、奥方の戯言に尾鰭がつき広まったもの‥‥他愛もない噂にすぎませぬ‥‥」
「――などとは、思っていない。何者にせよ、ルデスを狂わす程の者が、囲われているのであろう――」
「‥‥陛下‥‥貴方は‥‥」
「――とすれば。お前が確かめずに戻るはずがない。その時の有様――詳しく、述べよ」
「誤解です‥‥そのような、ことはない‥‥そのようなものは‥‥いない‥‥」
 王の双眸から逃れるようにリファンは顔を伏せた。王は、それ以上、問い詰めようとはしなかった。ただ無言で佇む。灯火の爆ぜる微かな音がリファンを閉ざした。
 何を‥‥待っておられるのか‥‥
 王は立ち去る気配を示さなかった。己れに据えられたその視線が、重く、リファンに絡みつく。沈黙の息苦しさに耐えられなくなったのはリファンだった。
「陛下‥‥」
 振り仰ぐ顔に、
「憎かろう――」
 さらに静かな、王の声が降る。
「ルデスほどの者を狂わす――そのもの――そのものさえ、除けば――あるいは正気に、立ち返るかも知れぬ――」
 リファンの上体が揺いだ。
 ハソルシャからの帰途、リファンの心を領し続けたその思いを、こともなげに曝け出された衝撃に――
「そのような‥‥できない‥‥わたしには、殿の思いに背くことなど‥‥できない‥‥」
「――語るに、落ちたな――」
 冷え冷えとした王の言葉にリファンは息を呑む。
「それにしても――。それほどに思うお前というものがありながら、ルデスもつれない男だ。悔しくはないか――。情け無くは――ないのか――」
「‥‥しかたが‥‥ない‥‥」
 呻くように呟き、立てた膝に背を撓めた。
「初めに言われたこと‥‥わたしのものには‥‥なれぬ‥‥それでよい‥‥それでも‥‥わたしは、殿のものに‥‥なりたかった‥‥」
 かろうじて聞き取れるほどのその声を、王はとらえ得たのか――己が思いのなかに沈み込むリファンの意識にはなかった。
 思いは‥‥果たしたのだ‥‥
 それ以上の‥‥何を、望む‥‥
 ‥‥望んで‥‥どうなる‥‥
 ひとつの思惟に向って雪崩落ちようとする己が心を、必死で食止めようとするかのように、胸に繰返す。
 ‥‥あのものを亡きものにすれば、殿の心をとらえるものはなくなる‥‥
 だがそれで‥‥殿が、わたしのものとなってくれるとは‥‥限らぬのだ‥‥
 まして‥‥わたしが手を下したと、知れれば‥‥殿は、決して、許してはくれぬ‥‥
 ――その、リファンの思いを断ち切って、王の声が響く。
「けなげな――言葉だ。だがそれで、満足は、して、いない――」
 微かに、ひび割れた王の声が。リファンを今に、呼び戻す。
 のろのろと上げて王を見る、青褪めた顔に初めて怒りを滲ませる。
「陛下は‥‥この身を、愚弄されるか‥‥」
「お前は――塔のものを除きたい。だが――ルデスに知られたくは、ない。決して――」
「‥‥陛下‥‥」
 リファンの体が瘧のように震えた。
「――ルデスが。まこと、そのものに狂っているとあれば、スオミルドと通じる余裕は、ないと思ってよいかも知れぬ――」
「スオミルドなどと‥‥殿に限って‥‥あり得ぬことだ‥‥」
「わたしもそう――思いたい。疑義を述べるものがある以上、捨ててはおけぬ。例えルデスであってもな」
「誰が‥‥そのような‥‥」
「お前が。知る必要はない。――だが。ルデスがそのようなものに狂っているとあれば、それはそれで困る。このような、時に――」
「この‥‥ような、時‥‥?」
「アルザロ。スオミルド。――そして、デルーデン。――ルデスには。正気でいてもらわねばならぬ――」
「‥‥陛‥‥下‥‥」
「明日――ドワルをハソルシャに向わせる。お前が望むなら――密かに――行くを許そう。その間、お前はここに留め置かれたものとして――」
「だが‥‥何故、わたし‥‥なのだ‥‥」
「お前は、ハソルシャを知っている。――何より――」
「‥‥何‥‥より‥‥?」
 リファンは操られるように、言葉を切り視線を逸らした王の顔を追う。表情を消した顔、その闇に据えられた黒瞳――闇を湛えた暗い双眸を。
「――いや。お前であれば――ルデスを害なう真似は、すまい?――」
 王の声は乾いて、静か、だった。
 強いるでもない、促すでもない、無言で佇む王の姿に呑まれたような顔を向けていたリファンはやがて、微かに身を震わせて視線を落した。
 ‥‥何故だ‥‥
 王の何が、これほど、リファンを脅かして止まぬのか。戦慄は抑えようもなく体の奥から湧きあがってくる。
 かつて――
 王家の黒髪、そして黒瞳。闇を象徴する色でありながら、王はその双眸に闇を感じさせたことがなかった。陽光を思わせて輝かしい双眸の、その明澄な光――故に。
 今、灯火の光を受けて佇みながら、王が宿す陰は深い――暗く沈む双眸に片鱗の光をさえ感じとることはできなかった。
 だから、なのか――
 その双眸、湛えた闇の底に何を秘めて、王はリファンをハソルシャに送ろうというのか――自らに何故と問いながら、リファンは己が胸に凝る思念に身を戦かす。
 ハソルシャより戻られて、王は、変られた――その噂は、リファンも聞いていた。頭の傷故か――と。だが、今、その王を目のあたりにして――
 ‥‥違う‥‥
 それは既に確信といえた。しかし――
 馬鹿な‥‥わたしは何を‥‥
 リファンは必死でねじ伏せる。それでも。その思いを、消し去ることはできなかった。
 噂とともに、囁かれる憶測があった。
 ハソルシャで、王とラデール侯の間に何があったか――
 あり得ようはずがない‥‥そのような‥‥
 ただ、国を案じてのことに過ぎぬ‥‥
 殿を‥‥その心をとらえるものを除き、かつての殿に立ち返って頂くためなのだ‥‥
 己れを欺く思惟の底で。ささやく声は執拗に、胸を噛む。ルデスを正気に立ち返らせる――王が口にしたそれは、ただ、外を繕う言訳に過ぎぬと。ハソルシャに。何が待つかさえ――王は知って、いるのではないか――
「陛下――」
 振り仰ぐリファンの口に声が滑る。
 王が視線を返す。そのまま無言で待つ王の双眸の闇を見上げる、リファンは絶句する。
 己れは‥‥何を問おうとしたのか‥‥
 問うて返るべくもないその応えに、既に確信を抱いている己れではないか――
 それでも‥‥
 ――と。リファンは胸の内に呟く。
 わたしは‥‥行きたいのだ‥‥
 たとえ‥‥殿の思いに、背こうと‥‥
 どれほどに望み薄い、試みであろうと‥‥
 殿を‥‥その心を、己がものに‥‥
 ‥‥したい‥‥のだ‥‥

 翌早暁――
 一人、密かにリファンは王都オーコールを発った。
 オダンを伴ったワルベクがハソルシャの館に帰りついたのは、その同じ日の夕刻であった。




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