双影記 /第5章 -1



 闇の降りた階段を上るオダンの足は重い。
 かつてはアルデが、そして今、その兄のソルスが幽閉される塔の間に。トエスから戻ったその脚で上ってきたオダンだった。
 背後に扉を閉ざしたまま、立ち尽くす。
 燭台の灯りに照らされて椅子に腰を落したルデスの顔が白い。
 どれほどの時を、そうして無言で対峙していたか。
「今日で‥‥十九日‥‥意識がない。このまま意識が戻らねば‥‥半年は‥‥保たぬ‥‥」
 やがて。ルデスが言った。
 低くかすれた声は、乾いて、静かだった。
「いずれ‥‥衰弱して‥‥死ぬ‥‥」
「このことは‥‥アルデ様は‥‥」
「知らせる訳にはいかぬ。今でも。己れを責め抜いている‥‥」
「この先‥‥いかがなされる‥‥」
「‥‥死ぬことは‥‥許されなくなった‥‥」
 オダンの、沈痛な表情を浮かべた顔が、歪んだ。
「ルデス様‥‥」
「明日朝‥‥森の古趾に‥‥馬を運んでくれ‥‥」
「ロッカに‥‥お移しなされるか‥‥」
「オーコールに行けば‥‥いつ戻れるか‥‥わからぬ。‥‥頼む‥‥」
 オダンは、言葉もなく、うなずいた。
 翌朝――
 オダンは食事を供するワルベクから、ルデスが夜の明けぬうちにソルスを負い、森の古趾に向ったと聞かされた。
「馬の支度はできております。いつでも、お発ちになれます」
 森の古趾――今では人に忘れられた古い神の社と伝えられている、そこに、館から東の森に抜ける地下道が通じていた。
 荷を乗せた馬を引いて、オダンが古趾の塔の背後に隠されるように建つ翼棟に着いたとき、陽射しはまだ低く、森の梢を掃いて長い陰を落していた。
 小屋の前に馬を下りる、オダンを迎えるように扉が開きルデスが姿を見せた。その背に力なく意識を失ったソルスが負われている。
 オダンが微かに息を呑んだ。
 昨夜はこれほどとは思わなかった。明るい陽光のなかで見る二人の肌の白さだった。ソルスばかりではない、ルデスの青褪めやつれ果てた姿に。オダンは半ば呆然と立ち尽くす。
 ルデスは無言で歩み寄り、オダンの下りた馬の背にソルスを乗せ自らも騎乗する。胸の前にソルスを支え馬首を巡らした。
 オダンは我に帰る。引いてきた荷馬の背に乗り後を追った。

 ハソルシャを去って、五十数日――
 もう、二度と訪れることはあるまい――と思ったロッカの砦だった。四層の寝房、その寝台に横たえられた姿を、オダンは暗澹と眺めやる。
 かつて、同じ姿のものがここに起き暮らしていた。わずかに一年余の間に過ぎなかったが。此度は、どれほどの時を過ごすことになるのか――
 このまま目覚めぬソルスを見取ることになるのか――枕辺に膝をつきその顔を見入っているルデスに、オダンは暗い視線を移す。
 その視線に呼ばれたように顔を上げ、ルデスは立った。
「もう。戻られるか――」
「早ければ今夕あたり――王の使者が来よう――」
 窓の外に昼近い陽が高い。それでも、また森の古趾を回り隧道をたどって館に帰れば夕近くなる。時はあまりないのだった。
 塔の基層に降りるルデスに従ったオダンは扉を開け、騎乗したルデスを送り出す。
「この先‥‥この、ニルデアは‥‥どうなるのであろうか‥‥」
 吐息が漏れ出るような呟きだった。
 ルデスは騎馬を止める。
「一月前――デルーデンより使者があった。婚姻の打診だ。動きがあった以上――応じねばならぬ」
 一瞬、息を詰めたオダンが呻く。
「いかように‥‥応じられる‥‥」
「王であれば受けたであろうが――アルデでは受けれぬ。受ければ国を割る。時を稼ぐだけだ――」
「スオミルドが‥‥それを許すと‥‥」
「ゼオルドを失ったアルザロは毒に等しい。その毒を、存分に味わってもらう」
「御身は‥‥また‥‥あの者の処へ‥‥行かれたのか‥‥」
「あれは――使える男なのだ。オダン。お前がどれほど忌もうと――」
「しかし‥‥あの男は御身を‥‥」
「気にしては――おらぬ」
「ルデス様――」
 それは。滾り立つような思いのこもった声だった。馬上で、ルデスは微かに眉を寄せる。だが前方に据えられた視線は揺るぎもしなかった。
「あの男を使えねば――これほどの平穏を、享受はできなかった。――もう。よいか。オダン――」
 返す声は、静かだった。その言葉に、オダンは苦悩の滲む顔を伏せた。
「‥‥お引き止め‥‥した‥‥」
 馬が静かに歩みだす。
 再び上げた視線の先で、背に白光を弾く騎影が樹間に消えた。
 翌朝。
 オキルが、その日の薬湯を持参した。
「殿が‥‥捕えられました‥‥」
 四層の寝房に上る階段の途上、オキルは告げた。先に上るオダンの足が止まる。
「捕えられた?――」
「昨日‥‥ここより戻られてじきに‥‥王の使者が兵を伴って館に‥‥」
 無言で半身を向けるオダンにオキルは心労の滲む視線を上げた。
「佩剣も許さず‥‥そのまま、拘束するようにオーコールへ‥‥」
「何か‥‥言い置いていかれたか‥‥」
「案ずるには‥‥及ばぬ。騒ぐな、と‥‥」
「では‥‥そうしよう‥‥」
 踵を返すオダンの背を、歯軋るようなオキルの声が追う。
「アルデ様は‥‥何故‥‥殿に、このような‥‥」
 応えは。返らなかった。
「あれほどの‥‥奥方が、ありながら‥‥何故‥‥殿は‥‥」
 自らの思いに駆られ、縋るように、問い重ねる。
「やはり‥‥あの、ことが‥‥」
 すでに四層の寝房の扉の前だった。半ば押し開いた扉を前にオダンは振り返る。
「あのこと?――」
「‥‥あの‥‥クリーグ・デュワズが‥‥」
「殿の守役であったデュワズか――」
「‥‥あの者が‥‥あのような真似さえせねば、殿は‥‥」
 オキルは、不意に言葉を呑む。鋭さを加えたオダンの視線が刺す。
「‥‥あなたは‥‥まさか‥‥」
「デュワズ――刺客から殿を庇い殺されたとオーコールで知らされ、ワルベクからも同様に聞かされたが――真実は別にあるようだな――」
「オダン様‥‥」
「話せ――」
 声に、威圧感が加わる。
 日頃の物静かなオダンからは忘らされていた、往年を偲ばせる、人を従わせることに慣れた、重い、武人の声だった。
 見上げるオキルの体が激しく震えた。オダンの視線から逃れるように壁に縋り、蹲る。
「オキル――」
 オダンは声を和らげる。
「話してくれ――」
「あれは‥‥あの者は‥‥殿が‥‥御自身で‥‥裁かれたのです‥‥」
「裁く?――当時まだ、十才の御子が――何を裁く――」
「‥‥あの頃‥‥何故、三月も‥‥館を空けておられた‥‥あなたさえ‥‥おいでであれば‥‥あなようなことは‥‥あるいは‥‥」
 苦しげな顔を上げるオキルを、オダンは沈痛に見返した。
 やがて――
「わかった――もうよい――」
 オキルの手から薬湯の入った篭をとり、背を向ける。扉の内に消えるオダンを、オキルは凝固したように見送った。そのオキルが寝房に上がってきたとき、オダンはまだソルスに薬湯を与え終えてはいなかった。
「全て‥‥殿が、自らなされて‥‥おいでだった‥‥。ものをお摂らせし、体を拭い‥‥我らには手を‥‥触れさせも、なさらなかった‥‥」
 後ろ手に閉ざした扉を背に淡々と語るオキルに、空になった器を置き、顔を上げる。
「お聞き‥‥頂けるか‥‥」
「おおよそのことはわかった。無理に話さずともよい――」
「お聞き‥‥頂きたい‥‥」
「では――話せ――」
 だが、オキルはすぐには、話し出そうとはしなかった。沈んだ視線をソルスに据え、己が思いを追うか‥‥
 やがて――
「‥‥早熟な‥‥お子だった。‥‥背も高く、十二、三にはお見えだった‥‥。‥‥月の光が化生した‥‥妖精かと、思わせるような‥‥お方だった‥‥」
 その思いを断ち切るようにオダンに視線を返す。
「その‥‥お方が、亡くなられたら‥‥殿は‥‥どう、なられると‥‥思いか‥‥」
 オダンの顔に内心の思いをうかがい知ることはできなかった。
「どのようにも‥‥なられは、すまいな。王に、殿の支えが必要である限りは‥‥」
 その言葉に、オキルは身を震わす。
「必要とされなくなったとき‥‥では‥‥殿は‥‥」
 オダンは視線を逸らした。そして、オキルの前に初めて、薄く、笑いを食む。
 自嘲――だった。
 オキルの膝が落ちた。その場に坐り込むオキルの顔が切なげに歪められた。
「‥‥同じ‥‥館に暮らしながら‥‥あの年まで、お会いしたことが‥‥なかった‥‥。 一介の、医師の倅だ‥‥奥に、出入りするなど‥‥論外ではあったが‥‥。
 あの日‥‥あなたが、不在となられて八日目だった。薬草園で‥‥気が付くと、そこにおられた‥‥星花草の茂みのなかに‥‥」





 陽は既に落ちていた。薄暮のなかに仄白く浮かぶ人影に、オキルは声もなく立ち尽くした。声をかければ薄明に溶け去るのではないか――そう思わせるほどに、その姿は白く儚げに見えた。
 日暮に蕾を開く星花草の薄青い花が地上に星をまいたように咲き乱れる。涼感のある甘い匂いが咽せかえるほどに立ちこめる中で、その花を摘むのも忘れて、オキルは見つめていた。
 生後一月で館に来られた御当主の若君――その噂はオキルも聞いていた。病弱ゆえに王都の空気が合わぬとハソルシャで育てられることになられたと――
 去年あたりまではよく熱を出されたと奥に呼ばれる父に、話をねだったものだ。
 どのようなお方か――
 生まれてすぐに患われた熱病で髪も瞳も色を失われたと聞けば、
 どのように――と、好奇心が疼く。
 口の重い父親から何かを聞き出すことはできなかった。いつか念頭から失われていた、その相手が、数歩の処に立っているのが夢のようであった。
 その時、夕風が立った――その風に吹き寄せられるように近寄った白い影が見上げてくる。
「花を摘んでいるのか。――何に、使うのか――」
 澄んだ、風笛のような声が問いかけていた。
 思わず草のなかに膝をつくオキルの、脇に抱えられた篭の中から細かな花がこぼれ落ちた。白い影が屈み、細い指でこぼれた花を拾い集める。
「すまなかった――驚かせて、しまったらしい――」
 再びの、声に――
「そのような‥‥わたしがいたします‥‥」
 慌て手を伸ばすオキルに、白い手が引かれた。振り仰ぐ視線の先に白い背が離れていく。オキルは声を絞った。
「これは――集めて香油を絞ります。星花草の香油は――熱や痛みを鎮めます――」
 ほっそりとした姿が立ち止まり、振り返った。
「この花――星花草というのか――。お前は医師なのか――。ゴシュ・ローダラムを知っているか――」
「まだ、見習いです。ゴシュは――父です」
「そうなのか――よいな――」
 その声に、オキルは胸を衝かれた。
「師でもありますから――厳しい父です。いつも、叱られている――」
「では、オダンと同じだ――」
 親しみのこもった、優しい声だった。
 しだいに薄れていく明かりのなかで言葉が絶えた。風にさやぐ葉の音が高まる。
 行かれてしまう‥‥
 不意に、わき起こった焦燥にオキルは微かな驚きを覚える。何故だろう――もっと、話をしていたい――声を――聞いていたい――
 何かを――言わなければ――
 その思いを断ち切るように、その時、小さな顔をめぐらせて西の空を見上げた。時を確かめるように――
 あ――
 オキルの胸に狼狽が走る。だが――
 何かを言いたげに、再び、オキルに顔を向ける白い影に、オキルは我にも非ず口走っていた。
「また――おいで頂けますか――。星花草が咲く間は、毎夕、摘みにまいります――」
 微かに息を呑む音がし、
「よいのか――邪魔ではないのか――」
 その言葉に愕然とし、だが、オキルは激しく頭を振っていた。
「邪魔だなんて――何故そんな――」
「オダンに、言われている。この館の者は、誰も。わたしが望めば拒めないのだ。だから――むやみに、望んではいけないのだ」
 半ば呆然とそれを聞いたオキルは篭を置き立ち上がった。そして一枝を折りとり歩み寄る。
「お持ちください。星花草の香りは気を鎮めます。寝室に置かれるとよい。よい眠りをもたらします。明日――お待ちしてます」
「よい――香りだ――」
 嬉しげな声が応え、仄白い影が薄闇に溶け去る。
 オキルは、微かな溜息をついた。
 翌日、少し早めに薬草園に来たオキルは、既に花の茂みのなかに立つ、白い姿を認めた。そのまま、立ち尽くす。まだ明るい光の中に立つその姿に――
 ああ――と、思う。陰立つほどに艶やかな銀の髪なのだ――
 向けられる双眸は、青褪めた月の色に似て、淡い金――
「昨日は――名を聞くのを忘れた。教えてくれるか――」
 涼しげな声に、我に返る。
「オキル・ローダラムです。オキルと――」
「では、わたしはルデスと呼んでくれ」
「お名でお呼びして――よろしいのですか」
「その方が、うれしい――」
 柔らかな笑みを浮かべるルデスに、オキルは胸を衝かれ微かな狼狽を覚えた。
 オキルにはこの世のものとも思えぬ、目を引き付けて止まぬ、清冽な美貌の主であった。
 それが――
 なんと優しく艶やかな笑みを含むのか――匂い立つ美少女の顔をあわせ持つのだ。このお方は――
 かろじて笑み返す。オキルに心を許したように歩み寄り、
「今日は、花の摘み方を教えてほしい。わたしも摘んでみたい」
 しばらくの間、
 つぎつぎにほころんでいく蕾に指を走らせていたルデスが、ほうと息をつき手を止めた。
「オキルはもう大きいのに、まだ見習いなのか――」
 手のなかにたまった花をオキルの篭に移しながら、問う。
「わたしはまだ十八です。あと何年かは教えを受けねば――とても、一人立ちはできません――」
「ゴシュに――」
「はい――」
「――その――毎日、父といる――というのは――どのような、気分なのか――」
 僅かに口篭もる声に、オキルは手を止め顔を上げた。じっと見返してくる、どこか思い詰めたものを感じさせる淡い双眸に、
 ああ――
 オキルは不意に悟る。
 ラデール家の当主カラフがハソルシャにくるのは年に二、三度でしかない。
 では、そうなのか――それをお聞きになりたくて――





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