双影記 /第5章 -2



「父は――無口で――教えるとき以外、ほとんど口を利きません。わたしは――いつも思っている。一人立ちの許しを得たら――旅に出ようと――」
「旅に?――共にいたくないのか――」
「毎日叱られていると――息がつまる思いがします」
「誉めては――くれないのか。オダンはよく誉めてくれる――」
 そんな時を思い出したのか、ふと表情を和めた。
「口では。――ただ、満足気な顔をするときがある。そんなときは、わたしもうれしい」
「それでも旅に?――」
「医者になれば食うには困りません。わたしは――いろんな土地を見てみたい――」
「――実は。わたしも旅をしたいのだ」
「ルデス様が?――」
「オーコールに。――母上がおいでになる。お体が弱いから――ハソルシャまでの旅がおできにならないのだ。今、オダンに乗馬を習っている。乗れるようになったら――わたしから会いにいける。リクセルにも――」
 薄れていく明かりのなかに仄白く散り敷く星に似た花を一心に摘みながら語る、その声に、オキルは陶然と聞き入る。
「――弟と妹が、いるのだ。母上は異なるが――会ってみたい――」
 唄うような韻律を刻む不思議な声だった。
「オキルには、いるか――」
 不意に名を呼ばれて、オキルは惚けたような目を見開く。
「オキル――」
 訝しげな声に、
「あ――」
 我に返ったとき、近寄り篭のなかに花を落した白い影が薄闇をすかして見上げていた。
「わたしは――やはり、お前の邪魔をしているらしい。――話しかけて、ばかりいるから――」
「ルデス様‥‥」
「すまなかったな――」
 悄然とした背を向ける姿に、オキルの血が滾った。
 それは、どのような衝動だったのか――
 思わずのばした腕でルデスの腕をとり引き戻していた。
「もう来ないなどと――言わないでください――あなたが来られなくなったら、わたしは寂しい――」
「オキル――」
 驚きに満ちた声に、全身から血が退いた。慌てて手を離し跪く。
「お許しください――わたしは――」
「オキル‥‥」
 どこか戸惑ったような声だった。
「では‥‥また来てよいのか‥‥」
「どうか――」
「花が‥‥こぼれてしまった‥‥」
 投げ出された篭が傾き、摘み取られた花があたりに散り敷いていた。
 ルデスはそこに膝をつき篭を起こしこぼれた花を両手にすくいとる。
「今、奥には話せるものがいないのだ‥‥ワルベクは忙しい‥‥オダンはいつ帰れるかわからない‥‥」
 共に花を集めながら、オキルは顔を上げる。
 オダンが毎月オーコールに行くことは知っていた。その為に決まって十日程を、ハソルシャを空ける。そう言えば、今もオーコールに行っているのだった。だがあと二、三日もすれば戻るのではなかったか――
「昨日‥‥代わりの者が、オーコールから来たのだ‥‥オダンが帰れるまで、そのものが‥‥」
「その方と――話は、されぬのですか――」
「‥‥わたしは‥‥」
 そのまま黙り込む。花を集めることさえ忘れたようにうつむき思い悩むさまに、
「ルデス様?‥‥」
 心を騒がせ問いかける、そのオキルの声に促されるように顔を上げた。
「オダンは‥‥人のことを悪く言ってはいけないといった‥‥でも‥‥」
「でも?――」
「わたしは‥‥恐いのだ‥‥彼が‥‥。近くに、いたくない‥‥」
 唖然として、オキルは仄白い姿を窺った。
 それは、震えさえ感じ取れるような声音だった。
 訳が解らぬながらもオキルは、己が身内までが震えるような思いに駆り立てられ、
「おいでください――いつでも。わたしは昼はたいがい薬草小屋にいる。ここから見えます。右手の、城壁の下の小屋です――」
「オキル‥‥」
「そうすればお教えできる――草の名前や、どのように使うか――何に利くか――」
「よい‥‥のか‥‥」
「ただ――ひとつ、お願いがあります」
「願い‥‥」
「もう、わたしに、よいか――などと、聞かないでください」
「わかった‥‥オキル‥‥わかった‥‥」
 次の日――
 オキルは薬草小屋にルデスを迎えた。
 それからの数日は、オキルにとり夢見るような日々であった。
 なぜ、これほどに心が浮き立つのか‥‥
 ふと顧みて、思うのも一度や二度ではなかった。
 日頃は父親のゴシュに言いつけられて楽しいとも思わずこなしてきた仕事だった。草や種実を選り分け、粉に挽き、煎じる――単調で根のいる作業だった。
 ルデスはその一つ一つに、瞳を輝かせて興味を示した。オキルの作業を手伝いながら熱心にその説明に聞き入る――いつかオキルは習い覚えた知識をつぎつぎと語り伝えているのだった。
 それでも、二度と問い返さないルデスに、ある時、問い質してみた。忘れているかと思ったその問に誤りなく返る答にオキルは目を見張る。ルデスは嬉しそうに笑った。
「オダンが言った。わたしは、覚えがよいそうだ。もしかして、こうして教えてもらえればわたしも医師になれるだろうか――」
「医師だなどと――あなたは、いずれラデール家の御当主になられる方だ――」
「それはわからない。わたしはふさわしくないのだ。黒髪ではない。目もこんな色だ。たぶん――家は弟が継ぐだろう」
「そんな――誰がそのような――」
「もっと子供の頃――父上がオダンに語っているのを聞いた。だから、わたしは医師になる。そうしてオキルのように色々な土地を旅しよう――」
 オキルは、むしろ楽しげなルデスの応えに胸を騒めかせる。痛み――に似たその感覚だった。
 その日も――昼過ぎには訪れたルデスと語り合いながらセダの実を挽いていた。
 話していると、オキルは相手がまだ十才の子供であることを忘れている己れに気付き、驚きに捉われる。ふと頭を上げ、ぬけるように白い顔に、確かめるような視線を投げたときだった。
 不意に、小屋の扉が開いた。
 驚き振り向くオキルの目に逆光のなかに立つ黒い人影が映った。驚く間もなく、人影は大股で歩み寄る。次の瞬間。オキルは灼けつく痛みに襲われて悲鳴を上げ転がった。
 挽き鉢が跳ね、セダの実と挽き粉が舞い散った。
 痛みはなおも襲いかかる。肩に、背に――
「やめろ! デュワズ!」
 その時。鋭い怒声が奔った。
 床に這ったまま荒い息をつくオキルはもう痛みが襲っては来ないことに気付く。恐る恐る、必死で閉ざしていた瞼を押し上げ視線をめぐらせた。
 戸口との間に立ちふさがる男を見る。見たこともない男は、貴族らしい華美な縫い取りをした服をまとい腰に高価そうな剣を佩いている。その手に長い鞭が握られていた。
 では‥‥あれで、打たれたのだ‥‥
 ‥‥でも‥‥なぜ‥‥
 男の顔は何かに気を呑まれたようにオキルの横に向けられている。オキルは身動ぎ、首を巡らせた。そこにルデスがいた。
 怒りに青褪め、眦を決した、かつて見たことのないルデスが――
「御身に。下らぬ真似をさせるものに罰を与えたまでだ。怒りを受ける覚えはないな」
 やがて。うそぶく声が背を打つ。
「わたしが。勝手にきたのだ。オキルの罪ではない!」
 叫ぶようにルデスが叩きつける。
 では‥‥さっきの声は‥‥
「だからと申して、御身を打つ訳にはいくまい。罰は当然のことに下賎の者が受ける。そのようなこともオダン殿は教えられなかったか――」
「馬鹿な‥‥」
 ルデスが喘いだ。
「いかぬな。カラフ様もオダン殿は御身に甘すぎると申されておいでだったが――その通りだ。が。この身が守役をまかされた以上、これまでのような気ままが許されるとは、思われぬことだ。再び、わたしの目を盗みこのような処に来られれば、また罰を与える。その――ものにな。――さあ。戻られよ」
「‥‥わかった‥‥すぐに戻る。先に行って‥‥」
「いや。先に行くのは御身だ」
 唇を噛み締める、ルデスの頬を涙が伝い落ちた。
「もう‥‥オキルを打たないと‥‥約束してくれ‥‥」
「御身に。聞き分けて頂ければ、打つ要はない」
 ルデスは無言でうなずいた。そのまま戸口に向かう。
「すまなかった‥‥」
 その姿を視線で追うオキルの耳に苦しげな声が降り落ちた。
「ルデス様――」
 思わずオキルは声を絞る。
「小僧は黙っておれ!」
 同時に腹を蹴り上げられる。呻き、オキルは体をふたつに折った。
「何をする!」
 ルデスが叫びデュワズにつかみかかる。
 デュワズはその両手首をつかみ、高々と、細い体を宙に吊り上げた。オキルは痛みに霞む目でそれを見た。
「何をする! 離せ!」
 ルデスが蹴りかかる。
「離して欲しくば大人しくなされよ」
 細い手首をつかんだまま、高々と上げていた腕を下ろし、デュワズは大股で戸口に向かう。その勢いで、腰から下を床に引きずられ微かな悲鳴を上げる、ルデスの姿が小屋から引きずり出されていくのを、散乱したセダの実にまみれて床に転がったまま、オキルは喪然と見送った。
 戸口が明るい。
 戸口だけが、空ろに、明るい。
 この小屋は、これほどに薄暗かったか‥‥突風に見舞われたように、散り乱れた視界が、歪んだ。こみあげ、あふれ落ちる涙に顔を濡らし、オキルは床に身を捩った。
 悔しい‥‥
 なす術もなくルデスを連れ去られた、己れの非力さが、オキルの身を噛む。鞭打たれ、蹴られた痛み以上にそれはオキルを苛んだ。
 それにもまして、
 ルデス様は‥‥俺よりずっと小さいのに、俺を庇おうとした‥‥
 最後まで、庇おうとして‥‥立ち向かっていった‥‥
 恐い――と、言っていた相手だった。
 あの方は‥‥勇敢だ‥‥
 オキルは涙を噛み締める。
 それに賢い‥‥
 優しい‥‥
 床に散ったセダの実を、挽き粉を、震える手で掻き集める。オキルの邪魔にならぬように一心に手伝っていた姿が思い出される。
 あの方が‥‥
 どうして、ふさわしくないんだ‥‥
 髪と目が黒くない‥‥それだけのことで、どうして、当主にふさわしくないなんて、言える‥‥
 こらえきれなくなった嗚咽が、オキルの口を衝いた。オキルは声を上げて泣いていた。
 あいつはそれを‥‥
 当主のカラフ様がそう思っていることを知っているんだ‥‥
 だから‥‥あのような‥‥
 抗うルデスを力任せに引摺っていったデュワズの酷薄そうな顔を脳裡に思い描く。オキルは不意に身を震わせた。涙さえが退いていた。
 この先、デュワズがルデスをどう扱うか、その不安がにわかに膨れ上がる。
 オダン様は‥‥いつ、帰ってくるのだ‥‥力の抜けた体を引き起こし、緩慢に戸口に向かう。いつの間にか日は暮れていた。
 薄闇のこめた小屋から仄明るい空の下に出たオキルはよろめき歩きだす、その背に、
「オキル――」
 怒ったような呼声がかかる。オキルは傍らの壁にもたれ込むように振り返った。
「‥‥父さん‥‥」
「何処へ行く――」
 ゴシュは足早に歩み寄りオキルの前に立ちはだかった。
「放っておいてくれ‥‥」
 父親を押し退けて前にでようとするオキルの肩を、ゴシュは壁に押さえ付ける。
「昼間、ワルベクが来た。お前のことは聞いた。あの、お方にはかかわるな――」
 いまだ上背では及ばない子は父を睨み上げた。やり場のない怒りと不安がオキルを突き上げる。
「なぜ‥‥いけないんだ‥‥。なぜ、髪と目が黒くないからって、当主にふさわしくないんだ! あの方は‥‥。‥‥あの、方は‥‥」
 己れの両腕の間で、手放しで泣きだしたオキルに、ゴシュは吐息する。
「お前も。お会いしたからには‥‥あの、髪と目の色が生れ付きであろうことはわかったはずだ‥‥」
「熱病にかかられて‥‥ああなったんだ‥‥」
「それが、医者になろうというものの言い種か――」
「父さん‥‥」
「――あれは。御当主が故意に流された噂だ。そう言えば、わかろう――」
 その。沈痛な口調に、オキルは泣き止む。何かが理解の底にうごめく。
 だが――
「わからない! だからって、何が――」
「オキル――。いや。お前にはもうわかっているはずだ」
 ゴシュは声を荒げたわけではなかった。オキルの肩を離し一歩を下がる。オキルは震え、喘ぐ。
「絶対に‥‥あり得ないと?‥‥」
「王家と共に代々、黒髪、黒瞳の家系だ。それは奥方のベルファ様も同じ‥‥」
 オキルの膝が崩れた。
「酷い‥‥」
 ゴシュは足元に蹲った我が子を抱え起こす。
「さあ。戻ろう。我らごときにどうなることではない‥‥」
「あの方の罪ではないのに‥‥お気の毒だ‥‥」
 啜り泣くオキルに、ゴシュはもう応えようとはしなかった。
 次の朝、ゴシュは突然、オキルに村を回っての診療を言い付けた。それは、オキルが長い間心待ちにしていたことだった。己が手で治療を行なえる、一人立ちへの第一歩だった。だが今のオキルには、喜べなかった。オキルを館から外に出す――父の意図は歴然としているように思えた。そのオキルに、ゴシュは言った。
「どのような理由があろうと。その腕のないものに、人の治療を任せはせん。もう、お前も、それができるほどになったと、思えばこそだ――」
 だが。どこか惚けたように、オキルはそれを聞いた。そして、ただ黙々と、従った。
 五つの村を回って、待ち望んでいた病人に治療を施し、持ってでた薬草を使い果したオキルが館に戻ったとき、十日が経っていた。
 再び、薬草園に立ったオキルは、星花草の花がもう終わったことを知った。薬草小屋で薬を調し蓄える仕事に明け暮れる日常が戻った。ルデスが小屋に来ることはなかった。
 また、十日が経った。
 その間にも、使いはあり、ゴシュはオキルを伴って治療に出向いた。
 その日も、少し離れた村に出向いて治療を行なったオキルは疲れていた、にもかかわらず、夜が更けても、眠れなかった。
 何故なんだ‥‥
 寝床のなかで転々としながら、だが、オキルにはわかっていた。
 ルデス様‥‥
 その名を思うとき訳もない不安に胸が締付けられる。
 深夜だった。
 扉を叩く音に呼び覚まされ、起きだしたオキルは廊下に立つワルベクに立竦む。
 一瞬にして血が下がっていた。目眩を堪え凝然と、青褪めたワルベクの表情のない顔を見つめた。
「怪我人だ。ゴシュを呼んでくれ」
 その言葉に、滄浪と踵を返す。
 気配に起きだしてきたゴシュがそこにいた。その姿に、ワルベクが同じ言葉を繰返した。
「オキル――」
 ゴシュに促され奥から薬箱を取ってきたとき、もうワルベクの姿はなかった。ゴシュがオキルの手から薬箱を取り上げる。
「お前は来ずともよい。待たずに休め」
 鋭く制して、扉を閉めた。




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