双影記 /第5章 -3



 閉ざされた扉を前にオキルは喪然と立ち尽くす。
 ルデス様だ――
 それは、もう、確信だった。激しい動悸が全身を打ち据える。次の瞬間、扉を開け放ち、オキルは闇のなかに飛び出していた。
 前方を、足早に奥に向かうゴシュの背が、回廊の窓から差し込む月明かりに見え隠れする。他に、人の気配はなかった。
 そこはもう、主の居室のある北翼の三層だった。不意に、ゴシュの姿が消える。
 灼けつくような焦燥に駆り立てられたオキルがたどり着いたとき、僅かに開いた扉の隙間から光と共に人声が漏れ出ていた。
「これは‥‥」
 呻きに近い、ゴシュの声だった。
「もう死んでいる。ルデス様が、自ら始末をつけられたのだ。このような目にあいながら――気丈なお子だ」
 応える、ワルベクの声は静かだった。
「だが‥‥よく気付いたな‥‥」
「こ奴の。目が気に入らなかった。嫌な目で見られて、おいでだった。悟られぬよう見張っていたつもりだったが――出し抜かれた。だが。御自身でも、何か感じておられたのだ。でなければ短剣など夜具の下に隠しておかれまい――」
「それにしても‥‥僅か十才のお子がな‥‥これほどに‥‥痛めつけられていながら‥‥」
「そのことだが――。ゴシュ。これはなかったことにしたい。こ奴を殺したのは刺客だ。ルデス様は何の傷も負われなかった。ただ、ことの衝撃で、また熱を出された。――よいか――」
「止むを得まいな。胸糞悪いが、そ奴はルデス様を守って死んだことになるわけだな」
「知れれば、御自身の瑕になる。――そうだ。――刺客なら。前にもあった。誰も、疑うまい」
「だが‥‥オーコールから遣わされたものが、刺客とは。‥‥やはり、御当主は‥‥」
「ゴシュ。滅多なことは言わんでくれ。そのようなこと、我らごときにわかろうか。誰ぞに、買収されたのかもしれん。ラデールの家は大きい。二人の側室にそれぞれ男のお子だ。己が利を図る縁者も多かろう?」
 その声に沈痛なものを響かせてワルベクが言った。ゴシュの吐息が応える。
 オキルは回廊の闇の中で、震える脚に耐え切れず床に蹲った。
 やがて――
「御当主は‥‥何故、廃嫡なされなかったのであろう‥‥その方が、この御方にも‥‥」
「奥方の不義を公にしてか? 奥方は今も認めてはおらぬという。妹思いのキリア公は黙ってはおらなかっただろうな。国を割っての戦にもなりかねなかった。――何だ」
「‥‥いや。お前が‥‥一介の、家僕だとはな‥‥」
「やめてくれ。オダン様の受け売りにすぎん。それより――よいか」
 不意に動く気配に、オキルは壁に貼りついた。扉が開き、燭台をかかげたワルベクが姿を見せる。
「こちらだ。とりあえず御当主の部屋にお移しする」
 オキルに背を見せるワルベクに、ゴシュが続く。その腕に力なく抱えられた体にオキルの視線が釘付けになった。息を殺すオキルには気付かず、二人は回廊の奥に歩き去る。
 オキルは。震えの収まらない脚を踏みしめて立ち上がった。部屋に。残された灯りがオキルを誘う。半開きのままの扉にすがり、オキルは中を覗き込んだ。
 広い、部屋だった。
 城館の一画にオキルの一家が与えられた部屋の全てを合わせたより広い。
 その広さを、ルデスの上に重ね合わせたとき、オキルはその痛々しさに思わず呻いた。
 この広い部屋で‥‥たった一人か‥‥
 その、広い部屋の奥に大きな寝台が置かれていた。寝台は乱れ立っていた。半ばずり落ちた上掛、投げ散らした衣類、そして、上掛と共にずり落ちたように床に横たわる男――
 胸に細い短剣の柄を生やした男は、締まりなく四肢を投げ出し、空ろな双眸を天井に向けていた。
 デュワズ‥‥
 薬草小屋でオキルを鞭打った男だった。
 傲岸な嗤いに歪めていた口を、今は惚けたように開き、己れを見舞った災厄を未だ信じられぬ者の顔でこときれている。
 オキルは恐る恐る近付いていく。
 そして――立ち止まった。足元に落ちていた衣類を拾い上げる。引き裂かれた上着、あちらには、同じように引き裂かれた下穿――ルデスのものだった。
 男の着衣の胸には、血の染みが丸く、大きく広がっていた。だが――
 だが‥‥
 ゆっくりと首を回し寝台の上を見る。
 寝乱れた敷き布の上に飛び散った血。敷き布の中ほどを汚して飛散する血には白濁した何かがまじっていた。
 あれは‥‥
 男の上に視線を戻したオキルは、不意にえずき上げるものに、手にした布を口に押し当て、蹲った。
 吐くものはなかった、にもかかわらず嘔吐は収まらなかった。冷たくなった全身を脂汗が伝い落ちていく。
 下穿を引き下ろした男の姿は滑稽だった。不様に剥き出された腰と大腿。だらしなく開いた裸の股間を血が汚している。
 己が傷の血ではない――そのことに、オキルの喉が押し殺した嗚咽に引きつった。
 どれほどの時を、そうして蹲っていたのか。
「オキル――」
 声に、呼び覚まされる。ゴシュだった。
 緩慢に立ち上がり、振り返る。
「来てしまったか。――では。我らの話、聞いていたな――」
 ゴシュの横に立ったワルベクが、吐息するように言った。
「こ奴は‥‥あの方を‥‥辱めたんだ‥‥」
 オキルの声が掠れ、震える。
「――それを。この先、二度と口にするな」
 ワルベクが応えた。そのままオキルから視線を移し、デュワズの傍に歩み寄る。
 その上に屈み込み着衣をなおすワルベクを、オキルは一瞬、凍りついたように見つめた。すぐに、いたたまれぬ思いに視線を背ける。
 ワルベクの手で、忌わしい行為の痕跡が消されていく――
 だが。縋るような視線を受け止める、ゴシュの顔の上にも今、心痛の陰が深かった。
「お前は。口が堅い。信じて――いいな」
 オキルはぎくしゃくと頷いた。
「もう――戻って、眠れ」
「わたしも‥‥何かしたい‥‥」
「では。これを持って、ついてきてくれ」
 ワルベクだった。
 両手に大きな布の塊を抱えている。
 いつのまに剥ぎ取ったか。裂かれた衣類を中に、巻き込まれている、汚された敷き布だった。
「どこへ‥‥」
「わたしは。表に知らせにいかねばならん。それを、わたしの用部屋に置いてきてくれ。人には見せられん」
 その時、視界の隅に足早に立ち去る父親の姿をとらえる。
「父さん‥‥」
「ゴシュは薬箱を取りに戻ったのだ。当分、ルデス様についていてもらわねばならん」
 ワルベクの手から巻いた敷き布を受け取り、オキルはその背に従った。
 二人は家人用の細い裏階段を下りた。
 長い、階段だった。
 ワルベクの手の燭台の灯りを追って、気が付くと既に一層だった。大広間に出る通廊の外れだと教えるワルベクとは、そこで別れる。オキルは、闇の中を一人、教えられた部屋に向かった。
 今――
 無人の、暗い部屋の中に立ち、オキルは遠く響く大勢の足音を聞いていた。
 表の南翼からワルベクに連れられてきた衛士達だった。足音に混じって剣の触れ合う硬い音がする。だがそれも、そう長くは続かなかった。やがて。音は絶える。
 オキルは動かなかった。
 このままは、立ち去れない‥‥その思いに、闇の中に立ち尽くした。衛士達が立ち去るのを待って。
 時は、流れているのか――衛士達が立ち去る気配は起らない――焦燥が、胸を焼く。
 どれほどの時が流れたか――神経を研ぎ澄ますオキルの耳が近付いてくる足音を聞く。
 足音は部屋の前に止まる。扉が開き、光がオキルの目を射た。
「やはり――。まだいたか――」
 吐息するようなワルベクの声に、オキルは身を強ばらせる。
「衛士が去ったら三層に行くつもりだな」
 光に目を細めながら、オキルは無言で見返す。
「無駄だ」
「無‥‥駄‥‥?」
「衛士は去らない。当分は護衛が厳しくなろうな。いつ、刺客が戻ってくるとも知れんのだ。明日になれば館中が調べられる。その後は、全ての出入口に門衛が置かれる」
 薄い微苦笑に目元を歪める。
「帰って、ゴシュの指示を待て――」
 それだけ言って背を向けるワルベクの腕を、オキルは力任せにつかんでいた。
「待って‥‥せめて様子を‥‥」
 ワルベクは縋りつく顔を諦めたように見下ろした。
「よく――眠っておいでだ」
 その応えに、だがオキルは手を離そうとはしなかった。食いつきそうな顔で、じっとワルベクを見上げる。やがて。その喉が、固唾を呑んで大きく上下した。
「奴は‥‥どのように、あの方を‥‥」
 低く、押し殺された声だった。己れで聞くのをさえ怖れるようにそれを言ったオキルに、一瞬、怒気を含んだワルベクが、だが、思いなおしたように表情を緩めた。
「それを――知られることを、望まれると思うか――」
 その言葉に、オキルの手から力が抜ける。
「――この夜のこと。知られていると悟られれば、いたたまれぬ思いをなさろうな――」
 オキルは拳を握り絞めてうつむいた。
「俺は‥‥馬鹿だ‥‥」
「そうだな――」
 意外な優しさをこめて、ワルベクが言った。
「だがまだ十八だ。悲観するな――」
 唖然として、顔を上げたオキルの前に扉が閉ざされる。再び闇の中で、オキルは立ち尽くした。
 翌日。城館の裏の墓所でデュワズの埋葬がなされた。
 七日後に、報せを受けたオーコールからデュワズの親族が訪れ遺品を持ち帰った。
 デュワズに代わるものは遣わされなかった。
 やがて、疲れた顔でゴシュが帰宅した。
 十日振りの父の顔だった。
 夜。オキルは家族が寝静まるのを待って、ゴシュの寝室を訪った。枕辺に無言で立つ息子に、ゴシュは眠りから覚まされ体を起こす。
 燭台の灯りを間に、しばらく見詰め合っていたが、諦めたのは父の方だった。
 吐息し、顎で椅子を示す。
「三日間、眠り続けておいでだった‥‥。目覚めてからも一日、床の中でぼんやりしておられたが、昨日の朝から部屋の中を歩くようになられた‥‥」
「‥‥何か‥‥話はされたんですか‥‥」
「いや。何も、お言いにならない。‥‥ああ。一度だけ、一昨日だ。ワルベクにオーコールに行きたいと、言っておいでだったが‥‥」
「お連れ‥‥するんですか‥‥」
「我等がか‥‥」
 ゴシュは微かに眉を寄せた。
「それができるのは、オダン様だけだ‥‥」
「守備隊長のピテース様は‥‥」
「あの方は、分を知っている。‥‥だが、もしお連れしても何方もお会いなさるまい。そのまま帰されるだけだ。‥‥かえってつらいめに、お会わせすることになる‥‥」
 オキルは、ゴシュの顔を見つめた。めったに思いを表わさない謹厳な顔は、灯火の光に照らされて、僅かに悲しげであった。
 何かを言いたげでありながら、無言で見返す父に、不意に、いたたまれない思いに駆られてオキルは椅子を立った。
「すみません‥‥父さん‥‥」
 燭台を引っつかみ、蹴るように戸口に向かう。その背を、微かな吐息が追った。

 この頃になると、当初の緊張も解けたように薄れていた。
 昼間は巡回する衛士の姿も見かけなくなった裏庭を、オキルは薬草小屋に向かう。
 季節が移ろうとしていた。夏が終われば小屋での仕事もほとんどなくなる。
 小屋の前に立ち、あらかた取り入れられた薬草園を眺める。小さく吐息した。ゴシュについて診療の手伝いをする毎日に戻れば、次の取り入れの季節まで、小屋へは滅多に来ることもない。
 もう、お会いすることも‥‥
 後ろ手に戸を閉めたオキルは、小屋の中の薄闇に慣らすために閉じた目を開け、また吐息した。そして思いを振り払うように首を振り、窓に向かいかけて、立ち竦んだ。
 物陰に蹲る、仄白い姿に――
「ルデス‥‥様‥‥」
 息を詰めて見つめるオキルの前に、ルデスはゆらりと立ち上がった。光を含む淡い双眸が、縋るようにオキルに向けられている。オキルの膝が落ちた。
「よろしいのですか‥‥こんな処に‥‥」
 声が、擦れる。
 白い顔が小さくうなずいた。
 歩み寄り、床に坐り込んだオキルの前に膝をつく。
「お願いだ‥‥」
 微かに震える声が訴えた。
「オキル‥‥お願いだ‥‥わたしを、オーコールに‥‥連れていって‥‥」
 細い手が、オキルの膝に置かれる。刹那、オキルの全身を戦慄が貫いた。
 抱きしめたい!
 この方を、思いっきり、抱きしめたい――突然湧き起った狂おしいほどの、その思いに、身を震わせたオキルの背が棒を呑んだように強張った。脚の上に置いた手が服をつかんで、拳に白く骨が浮きでるほどに握り込まれる。
 その様子に、ルデスの手が、引かれる。
 次の瞬間、弾かれたように立ち、戸口に駆け向かった。
「待って――」
 上擦ったオキルの声が追った。
「オーコールにお行きに――なりたくは――ないんですか――」
 なぜ――
 俺の思いに、気付かれたのか――血の気が失せた頬がそそける。狼狽に頭の芯が灼けつく。
 だめだ。待っては――頂けない――
 だが。
 ルデスの脚は止まった。そして――
 一瞬、体を震わせたルデスが低く声を絞った。
「行き‥‥たい‥‥」
 その言葉に。オキルの体から力が抜ける。
「だったら――なぜ――」
 思わず、口走る。オキル自身の恐れが言わせたその問に、ルデスは、応えなかった。
 だが、立ち去ることもせず、身を強ばらせて立ち竦む。
 ‥‥やはり‥‥
 わたしを‥‥恐れて、おいでなのか‥‥
 隙間を漏れる薄明りのなかに、細く尖る後姿だった。その、胸のうちにせめぎ会うものを思って、オキルは息を吐く。
「その姿で――門は通れない。一目であなたとわかってしまう――」
 一瞬、体を駆け巡った熱流はどこへ流れ去ったのか――
「待っててください。とりあえず、弟の服を取ってきます。あと何が必要かは、歩きながら考えて、みます――」
 ゆっくり立ち上がるオキルに、ルデスが肩越しに見返った。その身体がまた、微かに震えている。
「すまない‥‥。わたしは‥‥今、おかしいのだ‥‥。あんなことがあって‥‥」
「わかります。‥‥あなたを守ってデュワズ様が‥‥。‥‥でも。ご無事で‥‥よかった‥‥」
 デュワズ――の名に、淡い双眸が大きく見開かれる。不意に息がつまったように喉を引きつらせてよろめいた。
 オキルは素早く前に出た。細い体を腕のなかに抱き支える。刹那。その腕を拒むようにルデスの全身が硬直した。
 息さえ殺して、身を強ばらせるルデスに、己れに舌打つ思いで、胸裏に呟く。
 なぜ‥‥
 俺は、なぜ、奴の名なんか口にした‥‥
 この方が動揺することは、目に見えていたではないか‥‥
 だがそれを、嘘だ――と、嗤う己れがいた。こうなることを、望んでのこと、ではないか――と。今、ルデス様は己れの腕の中にいる――
 否定をできぬ己れが疎ましかった。それでも――
 このまま、思いのままに抱きしめれば、この方は、二度とわたしを頼りには、してくれない‥‥その思いに、オキルは脅かされる。
 そんなことは‥‥耐えられない‥‥
 そして。必死でささやきかけていた。




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